2021年12月04日

北海道歴天日誌 その70 1916年8月13日 供物を狙う餓鬼出没〜豊平墓地〜

1916年:大正5年8月13日。

この日の札幌の最高気温は25.3度。
前の月から続いていた北海道らしからぬ厳しい暑さがようやく一服。朝晩を中心に雲が広がり、厳しい真夏の太陽の光を和らげた。

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▲13日正午の天気図

日本の南には台風と思われるふたつの大きな低気圧。
一方、北海道は東から高気圧が張り出している。
この年の8月上旬は毎日がこのような天気図で、北海道は広範囲で干ばつに見舞われるほどであった。

水に飢えた農民・道民が多い中で月遅れのお盆を迎えつつあるこの日、札幌の豊平墓地には生ける餓鬼が集っていた・・。

●香煙けぶる豊平墓地

過去七世の父母の為め 供養すなる盂蘭盆会と聞く 七月十三日の太陽も西山に落ち果てた灯ともし頃 豊平墓地へと急いだ

往き来るきの轍と下駄に さらでだに悪路の豊平街道の砂煙濛々たる中を 手向の花と供養の重箱 重げに抱えて行く人、乳呑児を背に四 五人の子供を引連れて 返って来るもの 陸続として 此の一日は夜の明けきらぬ前から真夜中迄も 一筋道の此の街道は人の絶え間がないさうだ

墓地の入り口には燈火赤々と薄、百合、女郎花、桔梗の花や線香蝋燭等 売る店 客待ちの馬車に人力車のズラット立並んで居る様は 縁日にでも行った様だが、西に折れて二 三丁目も行くと・・・

蝋燭の光を透して 香煙縷々として立ち登る前に、首も擡げ得ず合掌の儘 有りし昔を懐ふてか 暫し黙念に耽る人
サア「お前も拝みなさい」と云はれて小さき掌を合はせて黙礼する子供
桶片手に赤い蹴出しに兄らしき人とスタスタ急ぐもの

右往左往に提灯を手に 読経に頼まれて行く札幌中の各寺の僧侶の姿 ただ絵巻物の様に目に入る
寂しい様な賑やかな様な そして墓地特有の落着た気分になって 奥へ奥へと墓標を辿って進んで行った

と 彼方の方で 微かな鐘の音に和して ナンマンダーブと物憂ひ様な読経の声が響くのを便って 静に其の後ろに立ってみると、四、五人に取り巻かれ 蓮の葉の影に親子 赤飯に 揚げた茄子の煮付けたのや 林檎に唐黍等 種々心づくしの供養の品が盛られてある

やがて読経の終り頃になると 十一、二の男の乞食が側に立った
又 何処からか 同じ位のが二 三人集まった
坊さんは読経が済んで半紙に包まれた何銭かのお布施を貰って立ち去った

是から家族の人が拝まうとして居る矢前 先程から待って居る乞食共は早速手を出して供物を掴み去ろうと身構える

まだ済みもしないのにと 叱られて 止むなく眼 ギョロギョロ光らしながら待って居ると ヒョッコリ五十も過ぎたかと思はれる爺さん、肩にも腰にも一杯膨らんだ袋を提げて現れるや 子供の乞食の背を 握り拳でドンと突いて押しのけるが早いか、其の足場を奪って狙った供物に右手が早速届く

身構えをして四園の乞食と凄い目付で睨み合って居る光景は此世ながらの餓鬼道とも思はれた

サアと云ふ声が懸るか懸らないか それこそ電光石火 誰が何を掴んだか分らないが 子供の一人は林檎を掴んで逃げる
爺さんは何でも目星いものを二品程も掴んだらしい

先刻 拳で突かれた子供であらう
「あの爺 この早いのには魂消(たまげ)たナ」と口を利いて逃げた後を追ひかけて「何が早い」と追跡する後を記者も追跡してついて行って見ると 今度は三十近い夫婦連れの墓参者の まだヤット供物を供へたばかりで蝋燭も立て切らないのを 早や我勝ちと 手を出しかける

余りと思ってか扇でピシャット叩かれたが、其の事 位 平気なもの 次から次と漁って歩く
仲間は殖えて 三十位の髭の乞食も加ははれば、細紐一つの婆さんも加はる

こう仲間が多くなっては 勢い 掠奪が始まる 悪口が始まる

「あの婆 ずるい婆だナ、俺が取らうと思って居るのを奪りやがった」
と 忌々しさうに後を睨んで居る獰猛な爺さんに
「お前 そんなに沢山持って行って 一度に食べられるでもないのにどうする」と聞けば
如何にも憐れな様な声を出して
「コリャ皆 仲間に分けてやるんでさ」と云ふ

聞けば 取り外れた飢渇者に売り付けるとの事だ

供物を漁った合間には 蝋燭吹き消して懐中に入れて行く

迷える魂も かくて行くべき所へ行くと云ふ
懐かしい盂蘭盆の魂祭りの半面にもかかる浅ましい現実がある
(1916年:大正5年8月16日 北海タイムスより)


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大正のお盆の墓地には、乞食が現れ、ご先祖様の供物を拝んだ先から奪っていた。
盗んだ供物を、”仲間”に売りつける「獰猛な爺さん」乞食。
ずるい婆さん、そして親を亡くしたのだろうか、子供まで・・・。

今でもホームレスの人が、墓のお供えを盗んでいくということがあるようだが、さすがにお参りした先から群がって奪っていくような話は聞かない。すごい時代があったものである・・。

なお、現在は墓の供物を獲っていくのは、ヒグマということもあるそう。供えてほっておくことはしないほうがいいのかも・・。
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2021年12月03日

北海道歴天日誌 その69 1916年8月3日 夏の大冒険〜学者たちの夕張岳植物採集登山〜

1916年:大正5年8月。
北海道には東から高気圧が張り出す状態が続き、日照りと猛暑が日本海側を見舞う中、真夏の登山に向かった一行があった。

メンバーは30代半ばの若さで東北大学農科大学(のちの北大)の教授となった郡場寛(こおりば・かん)氏と助手の西田氏、植物園の石田氏、さらに学生1名の4名。
彼らが向かったのは空知の夕張岳であった。

●夕張岳の花畑

去る三日札幌を出発し夕張岳に登り 九日朝 帰札した農科大学教授 郡場博士一行の土産話を聞くに 随分面白い植物採集をした様である。

三日朝六時 札幌を出で 午後一時富良野線金山駅に下車し 総ての準備を成し 人夫三人の上 更に先導アイヌを雇ふなど 半日を要して一泊した。

翌早朝出発し 夕張岳の頂上迄 約九里を踏破すべき予定であったが 途中 砂金事務所を経てイバナマシトナシベツ川の本流を登った為めに別の峰に出た。
一行は大いに驚き 更に南西の方向を定めて山を下り イバナマントナシベツ川の支流 森田駅に出て登り直した。

山の中腹で一泊し 翌日午後四時頃八合目に着き 此処に露営の準備をし 附近のお花畑に於て高山植物の採集をした

夕張リンドウの紫紅色の花 青色 赤色の二種のツガザクラ、裏白の葉 男性美の花を見せている円葉の高嶺アザミや虫取り菫(すみれ) キバナのシャクナゲ ガンコウラン、白のカトウハコベ 深山河原撫子など数十種が咲き乱れ 一行を歓ばせた。

又 頂上に登った人は 五尺も延びたハイマツや熊笹の中から 十一州は豆の世界と迄も謡われている雑穀の産地 富良野の平野を一望の内に収め 胸を広くして大自然の勝景を愛でた。

一行は翌日 更に此の頂上に遊び 南西の方向にヌッっと出ているガマ岩の命名をした

琵琶湖畔の三井寺の宝物にある弁慶が引っ張ったと云ふ釣鐘に似た山を釣鐘山と呼び 何れも出掛けて植物の採集をして。
余り興に乗って 此の日も八合目に一泊し 翌日は食糧尽きて昼食を抜き 中腹の本営まで下山した。

山は六十五度の温度で別に寒くもなく 昼は蚊軍に攻められたが 夜半にはいなくなる。
米味噌の食糧の外に 氷砂糖 キャラメル 水飴 ビスケットなども味ひ 採集の植物は水苔や湿った藁で包み 御用聞きの籠につめて帰った。

八合目にも少の雪はあったが帰路氷結して岩となり 雑木の倒れた中を辿った時は骨が折れ 加ふるに 生々しい巨熊の足跡があって一行を唖然とさせた。

其代りイバナマントナシベツ川で一尺二寸もあるアメマスを釣った時は一行 幼子の様に喜び 我れ我もと釣魚に時間を費やしたさうである。
(1916年:大正5年8月12日 北海タイムスより)


イバナマントナシベツ川は、エバナオマントシュベツ川とみられる。
南富良野町金山には、南北に流れる空知川に西の夕張岳方向からトナシベツ川という川が合流してくる。

トナシベツ川は上流でいく筋にも分岐しているのだが、そのうちひとつが”エバナオマン”トシュベツ川というわけで、夕張岳への登山ルートのひとつとなっているようだ。

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▲トシュベツ川から夕張岳をみるとこんな感じ

夕張岳は、北海道の高山植物がいわば大集合するような場所で、600種類もの花が咲き乱れるとのこと。
植物学者には、研究登山としては最適なフィールドだったであろう。

なお、この時の「植物採集」の結果をまとめ、のちに”夕張山脈植物分布論”なる論文にまとめたのは、助手として参加した西田彰三氏である。
札幌博物学会会報 第7巻 第1号に掲載された彼の論文によれば、この登山はこの年2回目のものだったようである。
そして夕張岳の頂上直下のお花畑は壮観を極めるとしている。そして、夕張岳産の種子植物は473種8変種として発表された。

これから100年以上。夕張岳は花の山として全国から登山客が集まるスポットとなっているが、頂上までは片道4時間を超える登山。
美しい花畑に出会うには、それだけの苦労もまた必要としている。
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2021年11月18日

北海道歴天日誌 その68 大正5年8月4日 札幌・東橋下で水泳講習

1916年:大正5年夏の札幌の話題。

この年は、7月上旬から中旬にかけては曇りや雨の日が多く、比較的涼しい日が続いたが、7月18日に27.4℃、翌19日に30.7℃と初の真夏日を記録してからは、札幌ははっきりと真夏の気候に変わった。

7月23日から8月11日まで20日連続の夏日。そのうち30℃以上の真夏日は3日連続を含む5回。

・・・言うまいと思へど今日の暑さかな所でなく、言はうと思っても此頃は息も突けぬ大暑の苦しみだ

炎天十六日に亘って我が札幌などは雨意近の雲片さへ見へず 毎日磨くが如く照り付けて 温度は東京にも負けぬと云ふ番狂わせだ

測候所の予測も頼みにならず、鈴木白堂の占ひも見事に当の槌が外れて いやが上にも釜中の苦しみを受けている・・・
(1916年:大正5年8月8日北海タイムスより)


このような暑い夏は、泳ぎもしたくなるところだが、大正5年当時の札幌には立派なプールなぞ存在しない。
では、泳ぎにはどこへいくのか。片や海、片や川である。

札幌の中心部のやや東側を南から北へと流れる豊平川。
この川のちょうど札幌中心部と白石を結ぶ要所に1890年(明治23年)にかけられたのが東橋であるが、この東橋の下が、大正時代の札幌っ子の水泳場となっていた。

●水煙波紋

社団法人札幌体育会の主催にかかる水泳術講習は一日から豊平川東橋下の遊泳場に開始された
尤も当日は講習員の編成 水泳上の心得 その他を教師から説き聞かされるので 実地教授はなかったが 愈々二日から九月二十五 六日まで毎日午後一時から水煙を揚げ 波紋を描いて 壮観な講習に入ることになった

札幌のこの水泳術講習は実に二十年の久しき歴史を有するもので 天晴れ河童の累を摩するの名手を出したこと数知れぬほとである

本年は三十一日迄に二百八十名の申込あったが 一日増しに申込者あるが例年のことで 十日頃迄には優に五百名の講習申込を見るべくその予定で体育会でも手配した

さて講習員の顔ぶれを見るに 大部分は小学児童で 次に中等程度の生徒乃至店員などで 何れも腕白にして元気連ばかり
これを一部 二部 三部 四部と分けて講習するのであるが 一部は既に何程か水泳の心得があり 三町くらいの深所や早瀬はどうにか切り抜けやうといふ連中とし 二部はそれ以下の連中 三部 四部は全く初心のものか小学児童とする

講師は体育会の免許を有する梶浦長寿氏を主任とし 有賀 丸山 曽山 関口 山田の諸氏を助教に 斎藤 森中 林の諸氏を助手とし 毎日監督並びに指導に充てる

さて斯うして約五十日間の講習が済めば 講習員の技量も非常に熟達するから 愈々 二十五町以上を泳ぎ得るものに免状を渡すべく 試験として銭函海岸へ連れて行き 腕試しを行らせる

例年 驚くべき五里内外のレコードを造るのは即ちそれである

一方 講習場たる東橋下には粗末ながら小屋を設けて 脱衣所兼休憩所とし 前記の教師連が三段に分った講習員を最も進歩した方法で指導し 赤銅色となった河童を作り上げるのである

(1916年:大正5年8月4日北海タイムスより)

橋の周辺が水泳講習に都合がよかったのか、豊平川を天然のプールとして水泳講習会が行われていた。
大正時代、札幌の子供達が水泳を覚えるといえば、この東橋だったのである。

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▲いまの東橋

クロールはまだ日本にはあまり伝わっていないころ。どのような泳法を教えていたのだろう。

札幌の水泳講習のなれそめについては、8月7日付の紙面に少し詳しく書いてあり、それによると1899年(明治32年)に札幌区の体育会が主催して、札幌西創成小学校の訓導・山田羆之進(ひぐまのしん)氏が率先して指導したのが、年々続いているものとある。

先の記事にあるように、水泳教室は子供ばかりではなく大人もいたようで「最幼少八 九才から髭の大人迄 暑さ知らずの水の中で暮らして居る」と描写されている。

ちなみに梶浦長寿氏は、この第一期か第二期の卒業生で特に「教授」の免状を有している水泳の達人とされている。

この水泳教室、暑い日は30分くらい泳いでは30分くらい休憩し、笛を合図に一斉に岸に上がったり水に入ったりしていたとのことで、今のプールとそんなに変わらない。

橋のすぐ下のところは深みになっていたようで、そこを泳ぐのは一番熟達した部の”生徒”と決まっていたようで、大正5年までは溺死事故ゼロの安全運営ときている。講習料は一ヶ月30銭と少額であった。

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▲月寒聯隊の水泳講習の様子(1916年:大正5年8月8日付北海タイムスより)

月寒聯隊の兵士たちも水泳講習を行っているとあるが、これも東橋だろうか。
東橋ではなくとも、豊平川だろう。フンドシ姿が勇ましい。水泳用のパンツもまた、この時代にはないのである・・。

こうして泳ぎを覚えた札幌っ子は、銭函の浜へデビューして行った。
最高気温が31.9℃を記録した8月6日には、銭函は、3000人の人々が詰め掛けたという。

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▲銭函で海水浴を楽しむ市民(1916年:大正5年8月8日 北海タイムスより)
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2021年09月29日

北海道歴天日誌 その67 大正5年7月14日 アート・スミス氏 松葉杖で札幌を去る

1916年(大正5年)の6月。
札幌に曲芸飛行にやってきた”鳥人”アート・スミス氏は、6月16日、2回目の飛行中にエンジントラブルのため墜落、足の骨を折る大けがをして札幌病院に担ぎ込まれた。

しかし、墜落時、とっさに人を避けて空き地に墜落したことや、世界的な飛行家が札幌でケガをしたという同情もあって、全道各地から札幌病院には慰安の金品が舞い込んだ。新聞は連日、治癒にむかうスミス氏の容態を詳報していった。

▼人情美の極致

鳥人スミス君が札幌で犠牲になって 負傷の報 伝わるや 全道の同情 期せずして同君の上にあつまった

中にも札幌女子小学校の小川校長が ある日 同校児童に向かって この勇敢な行為 並にス君の人格を説き聞かせ 病床の氏を慰めることは 日米国交上必要なことだと言ひ聞かせると 児童は何れも感激し 日々持ち寄った金は遂に九十四円三十三銭といふ額となった

生徒総代 廣川マツエ子が本社へ持参したので夫々手続きをして置いた

それに同校児童に付添ふて 日々校門を潜る 白石フサ 加納タマの二女もこれを聞き伝へ 自分等も共にと 各々二十銭づつを本社に届け 同じ様なる処分方を依頼して来た

庁立札幌第二中学校の生徒も 兼て有志から拠金中であったが 職員生徒 合して金額四十五円に達したので 昨日善波校長代表者となり 本社へ送り越した

小国民第二国民が斯うして偽はらざる同情をス君に致すこと 如何にも心強い感じがする

小国民の同情といへば 札幌や小樽のやうな都会に限ったことではない
十勝姉妹職業生徒一同からも来ている
苫前郡西古丹別小学校からも来ている
天塩からも来ている

何れも文字の上に誠意が溢れて 見るもの感動せぬはない

その他 慰問状は沢山に来ている
中には土地の風景をお目に掛けたいといふので絵葉書を送ってくる人もある

本社に届いたものは一々病室のスミス君へ届けているが ス君は非常な満足と感謝を以て受けている
(1916年:大正5年6月28日 北海タイムスより)


6月27日朝、主治医からギプスを軽いものに取り替えると聞き、ご機嫌のスミス氏。
近く、松葉づえで歩けるようになると聞き、庭園を歩いてみたいと語り、「こんなに北海道の人達にお世話になったから、是非とも一度は飛ばなければ」と語るようにもなった。

7月1日は札幌市内の劇場・大黒座で、スミス氏への慰問金を集めるための演芸会が開催され、大盛況となった。

スミス氏は7月に入っても順調に回復し、7月10日ごろには松葉づえを使えば室内は自由に動き回れるくらいとなった。
このため、7月14日に札幌を発し、20日に横浜を出帆する船でアメリカへ帰国することとなった。

●ス君去る

米国飛行家 アートスミス君 十四日午後九時三十分 遂に札幌を去れり
当日 札幌病院に於けるス君は 村田支配人 伊松執事 ウイリアム技師等の介抱にて旅装全く成り 来訪の紳士淑女に面接 時の移るを待てり

やがて出発の時刻も迫れば ス君は茶褐色の背広服を身に纏ひ その胴着 及び襟に 本邦各地に於て 各方面より寄贈にかかるメダルを一杯に着 金光眩ゆきばかりに 更に上衣の左胸部に唯一つ 最近札幌区長より寄贈されたる金メダルを吊り 思ひ出多き札幌を辞せんとす

是より先 停車場にはス君が来札当時に倍して多数の見送人あり
駅頭 人の山を築き 一二等待合室の辺りは殆んど身動きならぬ有様なり

主なる人々の中には美濃部拓銀頭取 山宮警察部長 子野日警視 秦札幌病院副院長 日米協会員 大学 各庁立学校 支庁 区役所 区公職者 並びに佐藤学長 阿部区長 橋本部長 各夫人 その他の夫人令嬢等あり

午後九時といふにス君は付添の人々に応せられて自動車に打乗り 思ひ出深き札幌病院を一ヶ月ぶりにて立出たり

時間早ければとて その儘 自動車を駆り 区内 主なる街路を乗り回し 夜景を眺め 二十分にて停車場に着す

駅の内外に溢れたる見送りの群集約二千名 人波を打って押返す

ス君は警官の開きたる通路を石原駅長に導かれて 松葉杖をつきつつプラットフォームに入り、そこにて美濃部氏以下主なる人々に挨拶し 直ちに一等寝台車に移れり

ス君は車窓よりフォームの人々に一々笑を交して別れの挨拶をなせるが 中にも秦副院長とは熱き握手を交換し 滞札中の好意を厚く謝し 必ず再会して高恩に酬いんと誓へり

やがて列車の動きだすや見送り人一斉に万歳を唱和すれば ス君 松葉杖の上に両肘を突き 両手を広げてこれに応じ「バンザイ」を繰り返し 莞爾たる笑顔を人々の印象に残し 遂に帰米の途に上れり
(1916年:大正5年7月16日北海タイムスより)


7月14日の天気図は、北海道は東からの高気圧に覆われ、東北地方を低気圧が通過。前線は黄海から朝鮮半島を通って日本海から東北の低気圧につながり、梅雨末期の気圧配置。札幌は午前中を中心によく晴れて、最高気温も23.1℃と過ごしやすい陽気。

スミス氏は翌15日早朝に函館に着き、小雨の中、8時発の弘済丸で北海道を離れた。
松葉杖を振り、重ねて道民への感謝の意を伝えていったという。
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2021年09月20日

北海道歴天日誌 その66 大正5年6月16日 札幌で世界的飛行家の墜落事故

1916年:大正5年6月14日。

ひとりのアメリカ人が札幌駅に到着した。その名はアート・スミス。
職業は”飛行家”である。

飛行家といっても、宙返りなど曲芸飛行を得意とするスミス氏は、この年の春、初めて日本へやってきた。
そして風の青山練兵場で、雨の奈良で、大阪で、広島で、仙台で・・・日本各地でその妙技を見せつけてきたのである。

札幌には札幌神社(北海道神宮)の例大祭にあわせて、6月16日と17日の二日間、北20条西4丁目の京都合資会社の敷地で曲芸飛行を披露することとなり、津軽海峡を渡り、スミス氏はやってきた。

そして・・・

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一回目は見事な妙技を披露した。見事な宙返り飛行に、札幌っ子は感嘆したであろう。

そして二回目・・・

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なんと、墜落したのである。

6月16日午後3時23分。
スミス氏は飛行機を南に向け、プロペラを回し、エンジンをかけた。
爆音を発し、地上を離れて急角度に上昇!

30メートル上がったところで、突然エンジンの音が聞こえなくなった。止まったのである。
機体は下降を始め、あわや数百人の観衆の頭上に落下!という刹那、スミス氏は舵をとり、わずかな空き地へ機体の向きを変えた。

そして斜め逆立ちの形で地上へ激突、スミス氏は座席から放り出され、背後からラジエーターが直撃した。

スミス氏を救出せんと、観衆が走り寄る。
今井合名会社の社員・石川一二氏がラジエーターをどけてからスミス氏を抱き起こすと、意識はあり、右足にさわるなと教える。

命は大丈夫だったが、彼の右足は折れていたのである。

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▲折れた右足のレントゲン写真(6月20日付北海タイムスより)

スミス氏は一時間かけて札幌病院に運ばれ、そのまま入院。
世界的飛行家の札幌での墜落事故は、大きなニュースとなって日本中、さらにはアメリカへと報じられていった。

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▲1916年6月16日正午の天気図

新聞記事には、毎秒20メートルもの風が強弱を繰り返して吹いていたとある。
当日の天気図をみると日本海に低気圧を含む深い気圧の谷があり、北海道は気圧の傾きが大きい。

この気圧配置は札幌で南東の風が強く吹きやすいタイプで、天気は曇り、午後3時から4時にかけては8.7〜8.8m/sと記録されている。

風は飛行には影響はあまりなかったようで、記事をみるかぎり、原因はエンジントラブルといったところ。

さて、スミス氏は、札幌病院の南室5号に入院。骨折箇所をギプスで固定して療養に入ったのだが、彼に対して全道各地から”お見舞い”が殺到する事態となった。

19日には病室に盆栽が2つ(愛国婦人会副会長と赤十字婦人会)、菓子が一箱(山形屋)、果物一かご(北海タイムス)、鶏卵100個(堀田松蔵)・・と見舞いの品が次々と届き、東京にいた宇都宮仙太郎氏からは「牛乳やバターが必要なら連絡してくれればすぐ届ける」旨の書状が札幌病院によせられた。

21日。北1条西14丁目の笠原恒彦君(6つ)が、17銭を慰問金に提出したことを聞いたスミス氏は非常に感激したことが伝えられ、”慰問状”も何百通と山のように届いていることも明らかにされた。

このうち、札幌の小6少女が出した一通の手紙を書き起こしておく。

スミス様よ あなたは思ひもよらぬ御さいなんに おあい遊ばされ まことにお気の毒で御座います
深く同情申し上げます

私は第一回は南三条の方へ拝見致しました そして家にかへってから 母にその事をお話致しますと 母は明日は飛行機の飛ぶ所に行って見なさいといはれ 五十銭を下さいました

それでよろこんで居りますと スミス様のあの御さいなんにあはれた事をきき ゆめかとおどろきました
それをきいた時はいかがなりゆくかと幼きむねをいため 母も一方ならず心配致し 国元にをわず父様や母君の御心中いかばかりかと 札幌区民の面目なしと思って居りますと かへって来た方のお話に いがいにかるかりし事をうかがひ いくぶん あんどのむねをなでおろしました

この五十銭はまことに少々で御座いますが 飛行機を見に行けといはれもらったのですから おおさめ下さい
今後もせっかく御養生を遊ばされ 一日も早く 御全快あらん事を 私は神様にいのって居ります

先づは御見舞まで かしこ

六月二十一日 札幌女子小学校六年 池田 初枝
アートスミス様へ

(1916年:大正5年6月23日付北海タイムスより)


今の小6で、ここまでの文が書けるのか・・・

アートスミス氏は普段から興奮しやすいことと、慰問の品も全部礼状を書くと言うくらい丁寧な人物だったようで、ひとつひとつ読むことはせず、誰やどこから何が届いたということだけを伝えていたようである。

慰問協奏曲はこのあとも続いていく。
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