2025年03月23日

北海道歴天日誌 その260(1922年8月14日)アルバイトや野球・・・大正時代の学生の夏

1922年(大正11年)8月上旬。
北海道は雲の広がりやすい天気が続き、毎日のように雨も降っていた。

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▲8月5日午後6時の天気図(『天気図』大正11年8月,中央気象台,1922-8 国立国会図書館デジタルコレクションより)

天気図をみると、太平洋高気圧が東から本州方面に張り出している。
沖縄方面には台風がみえるが、7月末から8月上旬にかけては、日本の南から南西諸島を通って中国へと進む台風が相次いでいた。

この台風などが運ぶ、暖かく湿った空気は、高気圧の縁辺をまわって北海道・樺太方面に流れ込んでいた模様で、北海道付近の天気はぐずつき気味だったのである。

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▲煮え切らぬ空を嘆く記事(1922年:大正11年8月6日付 北海タイムスより)

毎日ちょっとずつ雨の降る中、札幌で行われていたのは「全道中等学校野球大会」である。

1920年(大正9年)に初の全道大会が開催されて、これが3回目。
この年は、舞台を札幌・北海道帝国大学のグラウンドに置き、8校が参加して開催された。

初日は8月1日。一回戦の試合が行われ、最初は北海中と小樽庁商のゲーム。
4回表に小樽庁商が3点を先制したのだが、そのウラ、北海が1点を返し、5回には庁商が4エラーを重ねる間に北海が4点を加えて勝ち越し、6-3のスコアで北海が勝った。

続いて函館商業と小樽中の対戦は、3回に函商が一塁三塁の場面で一塁走者が盗塁を試みたところ、捕手からのボールを二塁手が取り損ね、ボールが外野を転々とする隙に二者生還。一方の樽中は7回、二塁打の走者をバントで送ろうとしたのだが、ランナーがサインを見落としたため、挟まれてアウトになるなど、振るわず、8-2で函商が勝った。

札幌師範と札幌一中のゲームは3回までに札幌一中が5点を奪う展開。5回には、ヒットとエラーで札幌一中が一気に6点を挙げるなど攻勢を続け、結局18-3の7回コールドゲームで札幌一中が勝利。

最後に函館中と札幌二中の試合は、3回に札幌二中にエラーが相次ぎ、レフトのエラーのあと四球、そしてライトがエラーをし、さらに捕手がエラー、そこに三塁打を打たれる・・・といった惨状で、函館中が労せず5点を先制。結局、7回日没コールドゲーム 6-0で函中が勝った。

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▲北海中と函館商業の対戦(1922年:大正11年8月4日付 北海タイムスより)

8月2日は雨のため試合が中止となり、3日に行われた準決勝。
第一試合は函中と札幌一中。

この試合は初回から点の取り合いとなり、函中がスクイズで1点先制すると、一中はエラーとタイムリーヒットで2点を入れて逆転。
4回ウラには2アウトになってから二人の走者を出し、三塁打で2者生還するなど3点を追加。5-1と一中がリードを広げる。
5回表に函中は長打を重ねて2点を返すが、その後は両者点が入らず、5-3で札幌一中が初の決勝進出を決め、前年度優勝校の函館中は姿を消した。

第二試合は北海中と函館商の対戦。
こちらは、二回に1点を先制した北海が三回にも1点を加えてリードするものの、四回に函商が暴投に乗じて2点を返し同点となるも、五回に北海が満塁のチャンスに三塁打が飛び出して3点を勝ち越し、結局6-3で北海が勝利し、2年ぶりの決勝へ駒を進めた。

決勝戦は、その日の午後3時10分から開始。
札幌はこの頃には晴れたため、観衆が集まり、外野の柵まで”すし詰め”の超満員の中、札幌一中と北海中が、ともにこの日2試合目のゲームに挑んだ。

<決勝>
札幌一 001 300 000 4
北 海 300 201 00X 6


初回、札幌一中は1死満塁のチャンスを得たが、三振とホームスチール失敗で無得点に終わり、北海中はエラーや四球で出塁した3人のランナーが、すべてパスボールで生還し、3点を挙げた。

札幌一中は3回、三塁打のあと、ライトフライの落球で三塁走者が生還して1点を返すと、4回には再び満塁と攻め、2点タイムリーヒットと勝ち越しタイムリーヒットが飛び出し、4-3と逆転した。

しかし北海中は4回ウラ、内野のエラー2つにヒットを絡めて2点を奪い、再逆転。
6回には2アウト1塁から右中間への長打が生まれ、1点を追加して点差を広げる。

7回、8回は札幌一中はランナーを出すものの点にはつなげることはできず、9回は三者凡退。
この結果、北海中が2年ぶり2回目の優勝を遂げた。

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この当時は甲子園球場がまだできておらず、全国大会は兵庫県の鳴尾村(現在の西宮市)にある「鳴尾球場」で開催されたのであるが、この全道大会の講評記事では、全国で勝つには一層の努力が必要との激励の言葉が贈られた。

本道野球界の名誉の為 北中選手努力せよ

三日間に亘って北大で激戦した 全道中等学校野球試合は 昨年函館に開かれた第二回の時の参加校十一に対し 本年は庁商、樽中(小樽)、函中、函商(函館)、札師、二中、一中、北中(札幌)の八校 本道三大都チームの巴状戦だった

数に於て減じたが 質に於て精選されたと云へよう

戦前の呼び声は優勝候補として 函中、函商、北中、一勝可能のもの一中、樽中、庁商だったが 一中投手の出来栄えよく 打撃亦振ひ 到頭決勝戦迄漕ぎ付た

対北中優勝戦の時も 北中は多く敵に走者を出したに反し 一中は堂々打って得点した

一中投手高橋は 肩もよく アウトカーブも相当出るが 試合不足の結果か 走者とバントに対して欠陥があった

函中、函商は共に 守備、走塁 他校と比較して勝れて居たが 意気に於て一中、北中に劣った
是が大なる敗因だ

優勝した北中は 概して粒が揃って居る 其代り 傑出した選手も無い

参加各校共 総て ベースランニングは拙劣と云ふより外はない
それに頭脳の働きが殆ど見られぬ

球を受けたり投げたりする技術は 中央も地方も各中学とも差異は無いが ヘッドウォークに至っては大差がある
自分の打った球の行方を見乍ら走ったり スタートに決断が足らぬ為 狭殺されたり 選擇に生かしたり 其他 凡失の多い事は 要するに平素 対校試合さへ頻繁に行へば 雑作なく矯正される事だ

兎に角 優勝した北中も 八月十四日の大会期日迄にウンと猛練習をしなければ 鳴尾へ行っても一勝も或は覚束ないだろう

聞けば北中は 旧法政の名選手 砂澤君のコーチを受けて居るとか
短時日と雖も 全力を尽せば 効果は多い

我 北海道の名誉の為 北中選手の努力を望む
(1922年:大正11年8月5日付 北海タイムスより)


この記事は当然、北海中ナインの目にも留まったであろうが、一生懸命練習したのか、10日あまり後に開幕した第8回全国中等学校野球大会で、その成果をしっかりと出すとなる。

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北海中は、北海道勢として全国大会で初めての勝利を挙げることに成功したのである。

対戦した名古屋商は、東海大会を接戦で勝ち上がってきたチームで、勢いがあった。
現に、1回表に名古屋商は3点を先制している。

しかし、北海中は、11安打に7四死球、相手の11エラーに助けられ、盗塁も10個成功と走りまわった。
1回ウラに4点を取って逆転に成功すると、4回には相手の無死満塁という絶命のピンチをゼロで切り抜け、5回に1点を追加。

さらに6回は1死満塁から野選と長打で4点を挙げ、8回にも2点を入れてダメを押した。

初めて全国の準々決勝・ベスト8に駒を進めた北海中ではあったが、松本商との試合では、わずかにヒット1本に抑えられ、守りは12失策と崩壊。10安打を許し、8-0で大敗したのであった。

さて、野球で青春を謳歌する中学生がいる一方、他の学生はこの年の夏をどのように過ごしていたのか。

夏休みを労働で暮す学生

暑中休暇を利用して 鉄道郵便局 或は各種会社に傭(やと)ひ入れられる感心な学生達を見受ける
之等の学生達は 山に海に 楽く暮すのに 朝は早くから規定の業務に従事している
其 健気な心持は何んなものであらうか

市内には 之等 学生の心持を多として 夏季休暇中 傭ひ入る處に 大学農場 植物園 鉄道局 郵便局 札幌ビール会社等 其々相応に人員を抱擁している

就中、季節柄ビール会社と郵便局とは 之等 学生達の手を年々相待っている様な有様である

記者は之等学生の仕事振を見るべく 札幌郵便局を訪ふと 長嶺郵便課長は快く 其現場に案内してくれた
彼等は只今の處 総数六名 内二名は一中で 他は北中と工業と師範である

彼等の或者は 目に餘る様な各府県別 或は市町村別に連なった箱の前に立って 集配人が取集めて来て消印をした郵便物を行先別に見る目も忙しく区分していた

課長は語る
「只今は彼の様に 大変遅々としていますが 彼れで此夏中には相當になります そして冬休みに復 此処へ来る頃にはすっかり人並な技術者として迎へられます」云々

又 ビール会社を訪ふて見ると 此処には 米澤高工を始め 北大予科生二名 一中 二中 北中 工業彼等の或者は空瓶洗ひに 或は空瓶運びに 半労働的な
仕事に営々として 立働していた

斯うして彼等は 此機会に於て実社会の真相と尊い労力の償とを知るのであるが 毎日八十何度と云ふ暑い盛りを 各々 其熟練した技術者の間に介在して立働いているのは健気と云はねばならない
(1922年:大正11年8月2日付 北海タイムスより)


この頃はまだ「アルバイト」という言葉はないようで、夏休みの労働という言い方をしている。
現代の学生と同じように、郵便局やビール工場などで、夏休み限定のアルバイトを行っていた。

100年前も今もあまり変わらない、若者の夏の過ごし方であった。
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2025年03月20日

北海道歴天日誌 その259(1922年8月1日)北海道に市が誕生!6市の市制施行

1922年(大正11年)8月1日(火曜日)
この日は、北海道の歴史上、ひとつの区切りとなる日である。

この日まで北海道は、本州や四国、九州の「内地」とは異なる半殖民地的な立場であり、同様の市町村制度は導入されておらず、国が独自に制定した「北海道区制」が布かれていた。これは、北海道に内地と同様の制度を導入するには「時期尚早」とされたからである。

1907年(明治40年)には、北海道選出の代議士が一致して、北海道に市制を施行する法律案を提出し、函館が率先して市制を敷くということで請願を行った。ところが貴族院で「時機が早い」と否決されてしまうなど、苦い思いを繰り返してきたのだ。

しかし「開道50年」を経過し、人口も全体で235万人を抱えるに至り、内地同様の市制が成り立つとの判断から、この年(1922年)に法律が改正され、市制の法律から北海道の除外規定が削除された。このため、北海道でも「市」が誕生できるようになったのである。

この日までに道内にあった区は、札幌・小樽・函館・旭川・室蘭・釧路の6つ。
これらの区はすべて、8月1日に市制を施行。北海道には同時に6つの市が誕生した。

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▲看板を取り替えた札幌「市」役所(1922年:大正11年8月2日付 北海タイムスより)

さて、この日の天気であるが、天気図をみると北海道付近には低気圧が複数あって、気圧の谷の中である。
全般に雲の広がりやすい天気ではあったが、天気の大きな崩れはなく、午後は日差しや晴れ間の出たところも多かった。

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▲1922年(大正11年)8月1日正午の天気図 (『天気図』大正11年8月,中央気象台,1922-8 国立国会図書館デジタルコレクションより)

6市の中では、釧路は午後は晴れて、最高気温は25.0度まで上がり、当時の釧路としては珍しい夏日。
旭川も晴れ間が多く、最高気温は29.5度まで上がって、真夏日一歩手前の厳しい暑さとなった。函館も晴れ間はあって、26.5度まで上がっている。

一方で札幌は曇り空が続き、北西の風のため最高気温もそれほど上がらず24.7度どまり。
湿度が90%前後と高く、少しムシムシとした一日であった。

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▲看板を取り替えた旭川「市」役所と市長臨時代理の村本初太郎氏(1922年:大正11年8月2日付 北海タイムスより)

さて、当の「新」市民たちは、どういう気持ちでこの日を迎えたのか。
当日の北海タイムスのコラムが代弁している。

閑是非

本日より 全道六区は市制に改められ 新装を纏ふことである

区が市になっても 女が男になったわけでも 牛が馬に変った訳でもない
やっぱり札幌は札幌 小樽は小樽に何等かわりはない

新しき皮袋に 古き酒を盛るのは余程の馬鹿者でなければならぬ

然し 道路はお話にならず 下水上水の設備はゼロ
蚊に攻られ ボウフラがうようよして 臭気粉々では 祝賀する気にもなれぬ

区長より市長になるものは 頭はプーアで 世の中に通用しない落伍者が 北海道と云ふむかしの囚徒村へ島流しの格ではチッとも有難味はない
(1922年:大正11年8月1日付 北海タイムスより)


名前だけ変わっても、暮らしの上では不満を抱え、祝賀する気にもなれぬ、と厳しいご指摘ぶりである。

とはいえ、いろいろ祝賀行事は行われている。

札幌では、8月3日に中島公園内で1200人が集まり、「市制施行祝賀会」が開催された。
札幌臨時市長代理の前田宇治郎氏が式辞を朗読、札幌では明治の区制以降の自治運用はすこぶる円満に進展してきたと胸を張った。

さらにその夜は提灯行列が行われている。

これは、大通西5丁目広場を出発して南に進み、南1条通りを西1丁目まで進んだあと、北に進んで大通を西に進み、市役所前で万歳三唱、さらに北三条通を進んで道庁の間で万歳三唱、そこから南へ進んで、また大通公園の西5丁目広場で万歳三唱というものである。

釧路でも同じく8月3日に祝賀行事を行い、市内各戸は国旗を掲揚して祝賀した。夜は官民連合で市制祝賀の提灯行列を行っている。

当時の人口は、多い順から函館15万2千、小樽11万、札幌10万7千、旭川6万4千、室蘭6万1千、釧路4万2千。
こうして6都市は「市」として同時にスタートを切り、さらに発展していくこととなるのであった。
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2025年03月10日

北海道歴天日誌 その258(1922年7月21日)馬また馬・・大正11年北海道行啓

1922年(大正11年)7月後半の北海道。
皇太子殿下、のちの昭和天皇のはじめてとなる北海道訪問である「北海道行啓」は終盤にさしかかっていた。

釧路、帯広、苫小牧、新冠、支笏湖、室蘭・・・というのが終盤の行程なのであるが、面白い事にあちこちで「馬」と出会っている。
7月18日は、釧路・大楽毛の馬市を見学、9頭の馬をお買い上げになられた。

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▲大楽毛馬市の売買実況を台覧(1922年:大正11年7月18日)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

翌19日は釧路から帯広へ移動、自動車で音更にある十勝種馬牧場へ行啓している。
ここでは、フランス産の種牡馬5頭を1頭ずつ引き出して台覧。
その後、おもりを積んだ四輪車を馬が曳くという「軽曳競走」を御覧になった。

さらに、帯広公会堂に戻って来てからも、サラブレッドなどを見学している。

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▲十勝種場牧場の輓馬(ばんば)競走の様子(1922年:大正11年7月21日付 北海タイムスより)

そして7月20日。この日は、旭川から苫小牧へ移動し、昼に王子製紙苫小牧工場を見学。
その後は、のちの日高線となる「苫小牧軽便鉄道」で門別の佐瑠太駅まで移動したのち、新冠御料牧場へと向かった。

この日は泊まるだけだったが、翌21日は朝からじっくり、牧場を台覧する。

日高特有のお催しに終日お感興 斜ならず

【二十一日下下方発電】
起伏連立する十勝国境を行手に臨んだ 新冠御料牧場凌雲閣の一夜は 朝曇麗かに明けた

殿下には早朝 御眼醒 在らせられて 午前七時から御座所で馬群の移牧実況を御覧在らせられたが 六群の二 三才牝馬繁殖牡馬 子付八百五十頭余の牡馬が 牧夫の吹き鳴らす喇叭の音に連れて群遊 壮快な様は 痛く殿下の御感に召し 飽かず御賞覧在らせられた

【二十一日日高市父発電】
二十一日 暑気強く 牧場の温度 正午九十度に昇る

(1922年:大正11年7月22日付 北海タイムスより)


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▲凌雲閣前の広場での馬の移牧の様子 (1922年:大正11年7月21日午前7時過ぎ)

この日は全道的に暑さが厳しく、最高気温は札幌で29.7℃、帯広は33.9℃まで上がった。
まだ浦河には測候所はなかったころだが、御料牧場は内陸にあったので、浜辺とは違って気温が高く、「華氏90度」となると摂氏では32.2度となるから、新冠でもかなりの暑さだったとみえる。

しかし皇太子殿下は、上記の放牧の様子を見た後、朝8時にはカナリア号に乗馬、あたりの景色を見ながら散歩をするという元気のよさであった。牧草刈り取りの様子などは、欧州の景色に似通うものがあるとの感想を持ったとのことである。

そして、この日は、アイヌ民族が乗馬する馬による競馬を御見学された。

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▲メノコ競馬の様子

ピリカメノコの巧みな競争を殿下は御感斜ならず 微笑をたたへらる

【二十一日市父分室発電】
殿下 午前の服装は霜降の背広にストロウハットの御軽装
大尊寺場長の御案内で 蝉声雨よりも滋げき場内を御巡覧の殿下には 御予定よりお早く御座所右前方なる馬場に成らせられ アイヌのポンクラ競走 メノコ競走 子供競走 立乗競走等を御覧あらせられたが

馬場附近には アイヌの老若男女 盛装を凝らし 提携して拝観したが 其 異様なる服装には 殿下も時折 御愛しみの御眼を注がれた

競走は先づポンクラ競走に始まり 中央馬見所の御座所前をスタートして 五頭立 何れも五 六十才の老爺がアツシを着 サバンペを頂き 長髭を微風に靡かせて競う様は 往古相攻め合った当時を偲ばしむるものがあり

メノコ競走では十八 九の妙齢から二十八 九迄の五人が之もアツシに襷掛けで出場 其 叙法の巧妙なるには驚嘆の外無く 殿下も御感に召御微笑さへおもらしになって御覧あらせられた

更に子供競走には十二 三才の少年が勇敢なる乗馬振を見せ 立乗競走では疾走する馬の鞍上に立って 風を切って進む様は頗る痛快なもので 殊の外御意に召し 満悦の御様子で 十一時半御帰還 御昼食を召された
(1922年:大正11年7月22日付 北海タイムスより)


この競馬で1位〜3位に入った者に対しては、皇太子殿下から特別に賞品が下賜された。
特にメノコ競馬の1位となった秋田ミヨさん(18)、村田ハナさん(28)は、陛下の御前まで馬を曳き、その光栄を直接祝福されたようである。

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▲メノコ競馬の入賞者の賞典拝受の様子 (1922年:大正11年7月21日午前11時頃:新冠御料牧場)

新冠御料牧場には2泊3日の滞在となった皇太子殿下は、22日6時半に牧場を自動車で出発。
9時20分には平取アイヌの奉送の儀を受けながら、佐瑠太駅発の列車に乗って日高を離れた。

そして支笏湖、室蘭を行啓後、皇太子殿下は7月23日午後3時半、戦艦日向に乗って東京への帰路へとついたのであった。
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2025年03月09日

北海道歴天日誌 その257(1922年7月17日)道北・道東を縦横に・・鉄路の行啓

1922年(大正11年)7月中旬の北海道。
のちに昭和天皇となられる、当時の皇太子・摂政宮の16日間にわたる北海道行啓の真っ最中である。

函館、札幌、旭川と巡って来た皇太子殿下は、7月16日は鉄道の旅。

旭川午前7時発の御召列車で、まず宗谷線を北上。
名寄駅からは名寄本線に入り、初めてのオホーツク海を目にし、遠軽まで進んでからは石北線で留辺蘂をまわって野付牛へ。
そこからは網走本線で、美幌を通過して、網走までやってきた。

網走着は午後6時25分というから、半日ほど列車の中である。

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▲和寒駅で皇太子殿下の通過を待つ町民たち(1922年:大正11年7月16日午前)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

上の和寒駅のように、止まらずに通過する駅がほとんどだったのであるが、それでも地域の住民は駅に集まり、皇太子殿下の姿を一目見ようと目を凝らした。紋別の渚滑駅には滝上村の村民や学校生徒が集まり、遠軽駅には白滝・丸瀬布から奉迎のために村民が出て来たと当時の紙面が記している。

名寄駅では6分停車、中湧別駅では7分停車、野付牛駅(北見駅)で7分停車。それぞれの町の名士に拝謁しては、時間通りのダイヤで走り去っていく。

そんな中、宿泊地となる網走は、一晩だけではあるが皇太子殿下が滞在なさるということで大変な歓迎ぶり。
ホームで町長以下、約200人の名士が奉迎し、宿泊所のとなる桂ヶ丘の網走小学校へ自動車で皇太子殿下を送る。この沿道にも、網走のみならず、斜里・小清水・常呂・佐呂間・女満別と周囲の各村から、或は汽車、或は徒歩!で十数里の道路を集まってきた人が、人垣を作った。その数は三万とも四万ともいわれる。

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▲網走小学校の屋上に設けられた展望所から景色を眺める皇太子殿下(1922年:大正11年7月16日午後7時頃)

翌7月17日。網走の朝は雨模様で明けた。

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▲7月17日正午の天気図 (『天気図』大正11年7月,中央気象台,1922-7 国立国会図書館デジタルコレクションより)

気圧配置は日本の東に高気圧、大陸には低気圧。
ただ、時期的に梅雨末期ということで、梅雨前線は日本海から東北北部あたりには北上していたようで、このあたりは気圧の谷となっている。
このため、天気は北陸から東北、北海道の太平洋側では雨のところが多い。

皇太子殿下の行啓は、ここまで、札幌以外の各都市で行われた地域の生徒・児童による体操等の催しについては、雨続きである。
旭川でもどろんこの中での体操や騎馬戦であった。

網走でも皇太子殿下が起床して網走駅から出発されるまでの3時間足らずのスケジュールの中、午前7時台に学校生徒や少年団など約3500人が網走小のグラウンドに整列し、拝謁・君が代・万歳三唱ということになっていたが、この時間を狙ったような雨天。

皇太子殿下はこの様子を聞き、侍従に「供奉員一同の蝙蝠傘を学校生徒に與えよ」と命じ、実際、傘が配付されたという。

さて、この日も皇太子は列車の中。現在でいう石北本線で北見まで進み、その後は池北線で訓子府、置戸、陸別、足寄・・・と走り、池田からは根室線で浦幌、音別、白糠と進み、釧路まで。

釧路駅の到着は午後5時50分というから、この日も9時間近くの汽車の旅である。

この日は、皇太子殿下が車窓からちょっとした発見ができるよう、”工夫”が凝らされている。

原始時代時代を偲ばるる 丸木舟の操縦御覧

【十七日 池田電話】
十七日の御旅程は 早朝に網走を御発車なり 夕刻 釧路に御着遊ばるる迄 百八十五哩 約十時間に亘る 汽車中に在しますこととて 十勝国川合豊頃両村にては 御慰の物として 愛奴(アイヌ)の丸木舟操縦を御覧に入れたるが

前日に準備遺憾なきを保する爲 河西支庁よりは渡部支庁長 吉野二課長 神山拓殖主任 川合、豊頃両村長出張し 新聞社よりも写真班出張して予習を行ひたり

十七日 池田駅を午後三時十分 万歳の動揺に奉送されて御発車と同時に 丸木舟操縦の現場にて煙火の合図は報せられ 御召列車は池田駅を去る三哩五分の十勝川流域に添ふ線路に差掛るや 遠く 川合、豊頃両村界 緑の木の間影より列車の黒煙認むると同時に 三発の煙火は未明の雨に洗われた青空に打揚げられるを合図に 丸木舟は漕ぎ出されたるが、

其個所はコタンオロ(往時アイヌ部落の意味)と称するも 開拓使前に於てはチップ、カリイシ(往時 桂タモ繁茂し丸木舟を採取せしと称する所)にして

其操縦の次第は 一艘ごとに丸木舟にアイヌとメノコは真の土人風俗の正装にて搭乗し 船頭には柳の木を以って造れるアイヌ特製の御幣(アイヌ語 イナオ)を飾 船端には日章旗 川風に涼しく翻り、三艘並べ 一列五段列となりて、メノコを舟の中央に立てて アイヌは櫂を漕ぐ手も甲斐甲斐しく 満艦飾を施せる平太舟は白帆に風を孕んで 之を指導す

軈て 御召列車は其中央鉄橋に差し掛かるや 一同は漕ぐ手を止めて、直立し 一斉に御召列車に向かって礼拝をなす

之より御召列車に添ふて五百間を、下流に向ひ漕ぎ行きたるが、今生陛下東宮の御巡啓に際しても 此 催しに御鑑賞あられられたる由なるが 東宮殿下にも頗るご興味を曳かせられ 御満足の由に漏れ承はる

而して 操縦のアイヌ、メノコ三十名、十勝国、豊頃、高島、利別、伏古のものなるが 当日は此 面白きアイヌの催しを見て 遥かに御召列車を送迎し奉らんとする附近の住民も ここに集まり 非常の賑わいなりし
(1922年:大正11年7月18日付 北海タイムスより)


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▲皇太子殿下のため十勝川を下るアイヌ民族の丸木舟(1922年:大正11年7月17日午後3時過ぎ)

車中での長旅を続ける皇太子殿下の「慰め」のために、十勝のアイヌ民族による丸木舟での川下りの「実演」が行われたということである。
御召列車は割と自由に徐行できたようなので、この場所では少し速度を落としてゆっくり御見物できるよう配慮されたことであろう。

そして皇太子殿下の御召列車は道東を縦断し、太平洋沿岸に出て、午後6時前に予定通り釧路駅に到着した。

釧路はまだ自動車の数が足りなかったか、駅から宿泊所までの皇太子殿下の移動は人力車となった。

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▲釧路駅を人力車で出発する皇太子殿下(1922年:大正11年7月17日午後6時過ぎ)

この日の夜。釧路は午後8時頃から名物の霧につつまれ、夜遅くには霧の中、弱い雨まで降り出した。
同時刻、官民合同、約五千人が参加する、奉迎の「大提灯行列」が行われ、各団体が趣向をこらした行灯とともに提灯を持つ町民が釧路駅から行啓通を通って宿泊所となった釧路公会堂まで行進した。

皇太子殿下も霧雨降る中、公会堂の露台に立ち、菊花御紋章の入った提灯を振り、これに応えた。
着ている物が露でしっとり濡れるほどだったようであるが、心配する侍従に「何かあらん」と言い、最後まで行列を眺めていたという。
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2025年03月08日

北海道歴天日誌 その256(1922年7月13日)青空の札幌行啓

1922年(大正11年)7月の皇太子殿下(のちの昭和天皇)の、はじめての北海道訪問旅行、「北海道行啓」。

7月8日に戦艦日向で函館に到着し、9日は函館山登山は中止となったものの、雨の降る中、函館中学校や五稜郭は予定通り訪問。
10日には御召列車で函館を発し、大沼公園を訪れた。

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▲大沼で遊覧船から風景を楽しむ(1922年:大正11年7月10日)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ

上の写真に写る駒ヶ岳の姿は、1929年(昭和4年)の大噴火の前の山容。皇太子殿下が乗る船は「鳳号」といって、日露漁業が七重浜工場で建造し、7月3日に完成したばかりという新品である。

このあと、御召列車に乗って、渡島〜後志を北上。黒松内や倶知安など数分停車して拝謁を行いながら、午後6時過ぎには小樽に入った。

11日は小樽周辺を行啓。小樽港の見学や「手宮古代文字」の見学、小樽高商の見学などの日程をこなし、夕方に再び御召列車に乗って札幌へ。
予定通り午後5時45分に札幌駅に到着した。

札幌は12日、13日、14日とほぼ二日半の見学で、14日の午後には旭川に向かって発つという日程。

さて、当時の札幌には、皇太子殿下の幼少時代、教育係だったという女性教師が住んでいた。

東宮殿下御教育係であった札幌 渥美女史

札幌区立高等女学校教諭として修身と作法を教へつつある渥美千代子女史は 嘗て 東宮殿下御幼児の御教育係として 青山御所皇子仮御殿に仕へたことがある

女史は 殿下が御齢五歳にならせられた明治三十八年から立太子礼を行はせらるる迄 満十一年間 親しく殿下のお側に仕へた記者が 昨日女史を訪ねて 殿下の御幼時の御模様を聞くと

「ええ 此の上ないよろこびで御座います 先日来 御紙上で拝見しました東宮殿下の御生立の記事 其儘で御座いました
唯 殿下には学習院 御通学当時には 殆どお車に召されず 御徒歩でお通ひで御座いました」

と謹んで語った。
(1922年:大正11年7月12日付 北海タイムスより)


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▲渥美千代子女史(7月12日付 北海タイムスより)

札幌での行啓日程はかなり過密で、渥美女史が青年に成長した皇太子とお会いできたのかどうかは定かではない。
12日は、北海道庁と札幌神社、完成したばかりの札幌控訴院、そして札幌師範学校、北大と見学。
13日は中島公園で体操などを見学したあと、山鼻公園、商品陳列場、真駒内種畜場、月寒の第二十五聯隊、月寒種羊場と見学。
14日は、札幌麦酒会社と帝国製麻を見学・・・というスケジュールである。

このうち、13日の行啓の様子の記事を・・・。

御巡啓挿話

昨朝六時御起床の東宮殿下には パンとコントビーフ、並びにオートミールに御茶と云ふ 極めて御質素な御食事をとられ 御食後 庭内を御散歩遊ばされ 別項の如く御巡啓相成ったが

昨日は殿下は 殊の外 御機嫌麗しく モーニングにシルクハットの御軽装に 御持になられたステッキは仏国で御購求めになられたもので 蛇の皮の彫刻ある自然木の形をしたもので 仏国の有名な彫刻家の手に成ったものである

御手袋は鼠色であった

中島公園の北海道警官殉難記念碑前では 殿下は脱帽して敬意を表せられたには一同感泣した

一中生徒の水泳を台覧の際 堀野校長代理に「アレは何流か」と御下問があったが 答へが出来なかったので 再度御下問
其れでも堀野氏が御答へが出来得ぬので 今度は長官に御下問になった

然し長官も御答へが出来得ずにしまった

然も 其の御下問は極めて明快な東京の御言葉であった

第二中学生の飛付五人抜きの相撲は 殊の外 御気に召したと見えて 長官は再度迄 時間の迫れるを申上げたが 三度申上げて漸く玉歩を運ばれた

山鼻では 今生陛下 御手植の松 先帝陛下の御声がかりの松に就て 長官御説明申上たが 同所の御手植の木は長さ七尺径一寸の桂であった

宇都宮仙太郎氏 外 数氏の出陳した牛を御台覧になられ 自ら御手を牛の頭上や鼻に触れられて 宇都宮氏の説明を聞召され 宇都宮氏が 此牛がよいとか説明をすると どう云ふ点がヨイか、どう云ふ点が異るかと云う風に 鋭い御下問があったには 宇都宮氏も聊か タヂタヂの體に見受けられた

物産陳列場では 小樽で製缶事業の活動写真を御台覧に供したので 製缶の順序等を示した陳列品に御目を止めさせられ 尚 御帰りの入口間近に陳列し在るラケットを御覧になり 長官の先導も待たずに進み出でられ 御縦覧相成った。
(1922年:大正11年7月14日 北海タイムスより)


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▲山鼻公園で乳牛の説明を聞く皇太子殿下(昭和天皇)

事実を淡々とのべる記事が多い中、こういった裏話の記事はなかなか面白く、目をひく。

札幌一中の生徒の水泳については、7月11日の北海タイムス紙面に「大抜手雁行」と「競泳」の2つを台覧予定とあるので、おそらく前者を問われたのだと思う。指導者はアントワープ五輪に出場した「内田正錬」とある。
校長代理や長官も、北海タイムスを見ておれば、答えられたかもしれないし、それこそ内田正錬氏を東宮に付けておけばよかったのに。


ところで、昭和天皇は、ご幼少の頃から相撲が好きだったということで知られる。
「飛び付き五人抜き」というのは、1番ずつの相撲で、誰かが相手方を5人連続で倒すというもの。
このときは、札幌二中の生徒たちが担当した。

3人、4人となっていくと疲れてくるので、5人抜くのはなかなか大変なのだが、結構白熱したようで、相撲好きの昭和天皇も思わず見入ってしまったのだろう。

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▲時間ギリギリまで楽しんだ「飛び付き五人抜き」の舞台

函館行啓とは裏腹に、札幌行啓では雨は全く降らず、特に13日は午後を中心に快晴で最高気温は25.9℃。
翌14日も最高気温は25℃を超え、札幌麦酒の工場でサッポロの3種のビールを試飲した、皇太子殿下にはさぞかし美味く感じられたことだろう。

過ごしやすい陽気続きの中、札幌各地をめぐり、皇太子殿下は旭川へと旅立って行ったのであった。
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