2025年06月12日

北海道歴天日誌 その268(1922年12月6日)ドカ雪の中で札幌工業学校の寄宿舎炎上

北海道庁立札幌工業学校。
今の札幌工業高校であるが、1917年(大正6年)開校で、おそらく道内では最も古い工業高校。

1922年といえば開校から5年を過ぎ、学校のカラーも定まってくる時期。
この年の冬の初め、札工で行われたイベントに多くの市民が集まっていた。

山と積まれて忽如売尽す

札幌工業学校の生徒製作品即売会は 既報の如く 昨二十六日午前十時から開場して 売出たが

前日の招待日に空戻りした奥様やお嬢さんの連中は 今日こそ我一に買はんものと 八時 九時頃から同校差して 潮の如く犇々(ひしひし)と押寄せ 雲霞の如くに会場前に集まって待つ内

十時の時計がチーンと打つと 会場は開かれ 雪崩を打って入場すると 恰も戦場のやうに取り合い 奪ひ合で 十分と経たぬ間に山積みされた品物が すっかり跡形もなく売り盡くされ 買って喜ぶ者の裏には恨めしさうな目付きで 人の手に入った品物を眺めてる奥様連もあって 頗る盛況を極め

十一時半から別室で 新聞記者立会で抽籤をしたが 当選したのを読み上ると 今か今かと待って居た連中の顔に一喜一憂が浮かんで来るのを面白さうに眺めている一団もあった

午後は一時から即売し始めたが 是亦 午前に増して盛んな勢ひで 売盡され 二時から午後の抽籤も終りを告げ 各々 手に雪掻きや炭箱などを提げて 解散し 頗る盛況であった
(1922年:大正11年11月27日付 北海タイムスより)

札工の生徒が作る物品が「生徒製作品即売会」で市民に売られていたようであり、安いのか、モノがいいのか、或はその両方か、多くの札幌市民が集う一大イベントとなっていた様子が描かれている。

午前、午後とも一時間くらいで品物は全部出払い、購入者対象の抽選会で、また何かごほうびがもらえていたようだ。
現在も札工では、学校祭で物品販売を行ったりしているようだが、これは古き伝統の行事と言えるのかも。

さて、この即売会から10日ほど、師走の寒波に見舞われる中、札工に災いが降りかかる・・。

庁立札幌工業校の寄宿舎焼失す

風雪面を指す昨六日午前九時四十分頃 折柄第一教時の授業中であった 山鼻行啓通り 庁立札幌工業学校 寄宿舎二十三号室(機械三年 葛西正彦 同二年 水野東男、土建二年 浦西藤次郎、機械一年 味噌義勝)居室から火を失し 炊事場食堂の一部を残し 二階建の同寄宿舎 並びに 附属建物(建坪三百三十坪)を烏有に帰し 十一時鎮火した

之より先に 隣室 二十二号室に病気の爲 臥床中であった土木建築科二年生 坂野幸三郎が 異様の物音に不審を抱き 恰も 寄宿生全部は登校後であるので 二十三号室に至って見ると 押入内は黒煙濛々として 火は天井裏に燃え移っている有様に驚き 直ちに急を告げたので 全校大騒ぎとなり

松本舎監が数名の生徒と共に現場に駆けつけた時は火勢頗る猛烈を極め 手のつけようもなく 階上寄宿生が 各自居室に入らんとする頃は 一面紅蓮の炎に包まれて 危険の状態に陥っていたので 殆ど一物も運び出すことが出来ないものも多数あった程 火は急速に同建物を嘗め尽くしたのであるが

橋本校長は 急を聞いて直ちに御真影を山鼻小学校に奉遷し 職員生徒は協力して本校と連絡している各廊下を破壊し 殆ど狂気の如く 消火に努め 一方 急報に依って駆け付けた 薦田署長以下 札幌署員全員は 各公設 私設 各水防組合等の消防員を督して必死の努力を盡し 一中生 札師生 又 消防隊を組織して 現場に赴いたが 給水の不便なるに 風雪その度を加へて 一同の活動を鈍らせ 一時は本校舎も危険に瀕するの状態であったが 前記の如く 寄宿舎一部に止まり 鎮火せしむるを得た

今村警察部長は 纐纈保安課長を随へ 現場を視察し 泉対教育課長は又 出火に関し 種々聴取する處があったが 原因は多分 二十三号室の寄宿生が布団に爐火の飛び移っている事を知らずに その儘 押入に始末した結果らしく 損害は建物 其他を合し 約一万五千圓である

尚 寄宿生 百三十余名は 取敢ず 保証人 或は 知己方に落つかせ 追って指定下宿に収容する筈であると
(1922年:大正11年12月7日付 北海タイムスより)

札幌工業の寄宿舎の一室から火が出て、またたくまに、ほぼ全焼してしまったのである。
寄宿舎は校舎と廊下でつながっていたようであり、生徒をはじめ、消防や他校の生徒の応援も得ながら、「破壊消防」を実施した。

その結果、本校舎への延焼は喰い止めたものの、130人余りが暮らしていた寄宿舎は、教科書から暮らしの品、思い出の品に至るまで、ほとんど運び出すことができないまま、焼け落ちたのであった。

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▲焼失した札工の寄宿舎(1922年:大正11年12月7日付 北海タイムスより)

さて、記事には「風雪面をさす」とある。
この日の札幌はかなり風雪が強かったようだ。データをみてみよう。

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▲12月6日正午の天気図(『天気図』大正11年12月,中央気象台,1922-12 国立国会図書館デジタルコレクションより)

5日に北海道の南岸を発達しながら低気圧が北東に進み、6日には北海道付近は強い冬型の気圧配置に変わった。北海道は大荒れの天気となり、暴風警報も発表になった。

札幌は、5日10時から6日10時にかけて、38センチも積雪が増える大雪となった。

火事が発生した頃となる10時の観測では、北東の風2.1m/sで、天気はあられ交じりの雪である。9時前までは激しい降り方であったが、少し雪の降り方が弱まったところに、火の煙が立ったのであった。

なお、この日はなぜか火事が多く、釧路でも大楽毛で林野火災があり、三笠の空知炭坑・幾春別青葉鉱でも採炭場で火災が発生している。

さて、この火事により、札幌では株を下げた学生がいる。

クマの目

工業校寄宿舎火事の際 札幌第一中学校では 炊き出しをして罹災生徒に贈ったといふが 友情の美しい事は推賞に値する

是に反して 第二中の生徒が 毎朝 北一条西十丁目の狭い雪道に 長蛇の如く隊をなして通学するが 夫が右側を通るので 通行人と衝突し 且つ 生徒は断じて一歩も譲らぬので 小学児童や女学生は雪の中を漕いで避けるという始末

弱いものを扶くるといふ徳があったら 寧ろ二中生の方から道を譲るやうにして 通行人に迷惑をかけぬやうにしたらどうぢゃ
(1922年:大正11年12月8日付 北海タイムスより)


札幌一中は、札工の学生に炊き出しを送って友情を見せたのに、一方で札幌二中の生徒たちは、雪の歩道のマナーが悪い・・・・ということ。
ドカっと雪が降ったため、札幌二中の学生と反対方向に歩く市民には、”長蛇の行列”がうっとおしく感じたのだろう。

ただ、この冬の師走の札幌は、この後も度重なる大雪に見舞われ、冬至の頃には積雪が118センチにも達する記録的な状況になっていく。
路を譲ろうにも譲れない、そんな状況がこの先に待っていようとは・・・。
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2025年06月09日

北海道歴天日誌 その267(1922年11月22日)監獄から刑務所に変わっても逃げる奴は逃げる

初雪が根雪となった1922年(大正11年)11月の札幌。
14日に初雪となり、一週間後の21日には積雪が25センチまで増加したが、その後は暖かい日が多く、一旦、積雪は1センチを切るまで少なくなった。

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▲11月22日午後6時の天気図 (『天気図』大正11年11月,中央気象台,1922-11 国立国会図書館デジタルコレクションより)


雪が解けたのは暖かい空気が入ったからであるが、特にこの天気図にある日本海から近づく低気圧は、南から暖かい空気を送り込み、札幌の最高気温は22日は8.2℃、23日も未明に7.9℃を記録。積雪は22日10時の17センチが、23日10時にはわずか2センチまで減ったのであった。

函館も22日の最高気温は10℃まで上がり、降水量は翌日にかけて53.6ミリと、11月下旬としては大雨となった。

この日、函館では嵐に乗じた大事件があった。

暴風雨に乗じ 函館刑務所を脱監

二十二日午後四時三十分 折柄の暴風雨を機会に 看守の隙を狙ひ 千代ヶ岱なる函館刑務所を脱監せる凶漢あり
此奴(こやつ)は 原籍 宮城県志田郡古川町川端四十五番地 掏摸(スリ)前科三犯 門脇八治(三三)と云ふ者にして

去る十月十二日午後九時頃 松風町にて 歌本売の群集に紛れ込み 他人の蟇口(がまぐち)を摺り取り 懲役三年に処せられ 服役中 二十二日午後四時 作業を終りて監房に帰る途中 看守の隙を見て取り 九尺の塀を乗り越えて脱獄し

附近の農家の物置小屋に潜伏し 日の暮るるを俟ち 五稜郭付近の大日本肥料会社構内に忍び込み 人夫小屋よりシャツ二枚 印半纏三枚 ゴム足袋 合羽 前懸 弁当を窃取して 之を囚人服と着換え 上磯線久根別方面に逃走せるが

一方 之を探知せる函館警察署にては 大野 森 上磯方面に非常線を張り来らば 捕へんと構へ居る中 八治は は記の久根別川鉄橋付近張込中の 中野警部補の一隊に押へられ 室蘭署に護送されたが

一時は消防組 在郷軍人分会員 青年団の出動等 却々の大騒ぎなりし
(1922年:大正11年11月25日付 北海タイムスより)

初冬の風雨に気を取られていた看守の隙をついて、函館刑務所の囚人が脱走。屏の外へと逃げ出したのである。

当時の函館・千代ヶ岱は軍の施設が点在するような場所であったため、この囚人はそういった場所をやや避けながら、北へ逃げて五稜郭付近の工場に忍び込み、着換えて西へ西へと逃走した。

最後は久根別川の鉄橋付近で捕まったようだが、昔の久根別川は現在よりも西に流れて大野川と合流していたため、今の北斗ポンプ場のあたりまで逃げて捕まったということになる。

ところで、この記事では「函館刑務所」と記載されているが、大正11年当時、刑務所というのは新しい言葉である。

明治のはじめ、罪を犯した受刑者を収容する施設は、国が設置する「集治監」と、道府県が設置する「監獄」と二種類あったが、のちに監獄は国費で運営されるようになり、明治の終わりにすべて「監獄」という名前に統一されて国の施設となった。

そして、この年、1922年に監獄官制が改正され、監獄は刑務所と少年刑務所と改められたのである。

あの名高い監獄も、刑務所に名前が変わった。

網走監獄 囚人の待遇一変

網走監獄は 網走刑務所と看板が書き代えられたが 夫と同時に内容も改善された
網走地方監の前身は 集治監と名称されて 無期徒刑から有期刑の重罪囚のみを集めて居た

此の重要囚には有名な海賊 房次郎も居れば 五寸釘寅吉 お茶の水の松平紀義 明治の仇討 川上義行などが居た

寅吉だけは未だ居るが 他は一人も居ない

集治監時代の昔話を聞くと 身の毛が戦慄やうな 恐ろしい話もある

明治三十何年かの大騒動と云ふのは 囚徒二十名が共謀の上 逃走を企て 看守を捕縛して丸裸にし 帽から剣 一切を奪ひ 巨魁者二名が看守の化け 他の十八名を引率し 正門看守に挙手の礼をして堂々と逃走した

時は三月の堅雪を利用して 斜里から根室に出る計画であったが 天命の尽きか俄に天候が変わって大雪となり 藻琴山中で逮捕さるるもあれば 銃殺された者もあった

逮捕されたのは 雪中裸体で石の上に坐らせらるるやら 頭から水を掛て 水責めにするやら 逆様に吊るすやら 随分 極罰に処して 他囚の見せしめにしたものであった

地方監になってから 段々 此の極罰がやまって 減食や独房を科して居た

刑務所になってからは此の世の地獄と云はれた監獄がガラリと変って 懲役よりは感化を主とし 自給自足の方法を執り 従来の時間よりは三時間半を延長して 専ら農業に従事せしめ 夜業やって居る

是迄は 昼食後三十分の休憩を五十分として 夕食後十分の休憩を二十分に 又 時間を定めて作業場に関する囚人同志の話が出来る事になり 月に二回の休暇があり 賞票を持った者は 赭色(あかいろ)の着物が浅黄色となり 労働賃金は 昔は給与工銭と称せられ 賞与金となったが 今度は月給制度となって 最低は五十銭から最高二十圓迄を給せらるる事となった

囚人も月給取りになって 夜業する者には 一等飯 即ち 一合六勺の増飯が出る

昔から四分六飯で知られて居たが、今度は五分五分飯になって活動写真の取締り上 完全な方法が出来たなれば見せろと云って居る

全く一変した改善で 看守も看守長も所長も 囚人に対する言葉迄 すっかり変わった

此の改正後の囚人の成績は 施行後まだ日が浅いので 確的とは云へないが 非常に良効果を挙げて居る

此の調子で進んで刑務所が全くの感化院的に囚人も自覚して独立独行の精神を養ひ 労役が勤勉になれば 社会に出ても再び罪を犯さなくなるであらう
(1922年:大正11年11月29日付 北海タイムスより)


単に名前が変わっただけではなく、監獄から刑務所に変わる事で、囚人の待遇や、労務の内容が変わっており、社会復帰を視野に入れたプログラムにも変わってきている様子が記載されている。

函館も、監獄から刑務所に変わったのだから内実は同じはずであるが、それでも囚徒は脱走を試みるのである。
結局実態は、あまり変わらずだったのだろうか。

これから100年が過ぎ、2025年(令和7年)には「懲役」という言葉も消え、刑務所の中はより一層、更生と社会復帰を目指す内容に変わるそうであるが、果たして再犯防止になるかどうか・・・。

暖かい日と厳しい寒さが交互に訪れるこの年の11月下旬、釧路では大火が発生している。

釧路市の大火

二十八日午後三時 釧路市真砂町 角大旅館前より失火し 折柄の北東の風に煽られ 其 火勢 當るべからず 消防の尽力も効果なく 見る見る付近を嘗め尽して 火の手は拡大し 釧路を嘗め尽くし 茂尻矢付近迄 一甞めにせんとする有様にして

既に角大旅館 藤屋旅館は灰燼と化し 釧路市中央の市街は 紅蓮の焔に包まれ 釧路郵便局は風上の危険に瀕しつつありて 火勢益々猛烈にして 鎮火の見込み立たず 既に類焼戸数 数百戸に達せり
(1922年:大正11年11月29日付 北海タイムスより)


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▲大火前の釧路市真砂町の風景(1922年:大正11年11月30日付 北海タイムスより)

この記事は第一報だが、二日後の詳報記事をみるとやや内容は違っているようで、真砂町の時枝病院の二階病室から黒煙があがったのがはじまり。

強い北東風に煽られて、病院から隣家の中川食料品店と、現在も釧路で蕎麦の名店とよばれる東屋の本店へと燃え移った。
そこで釧路消防では、当時最新鋭の消防ポンプ車「メリー号」を出動させたのだが、風が強く、火の勢いのほうが勝る始末で、真砂町の本通りを越えて角大近江旅館に燃え移り、隣の富士屋三層楼旅館も瞬く間に猛火に包まれてしまった。

この頃、ポンプ車の機械の油にも火がまわり、爆発して使い物にならなくなった。
このため、火はさらにあちこちに延焼し、大変な火事となってしまったのだが、最終的には森田式自動車ポンプやガソリンポンプなどを各方面に配置し、死力を尽くして努力の結果、裁判所の坂の下や釧路支庁前で何とか火が止まり、午後4時20分に鎮火に至ったのであった。

焼失戸数は、真砂町107戸、幣舞町37戸、浦見長5戸と149戸。このほか、倉庫3棟、蔵1棟が焼けている。

本日はここまで。
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2025年06月08日

北海道歴天日誌 その266(1922年11月14日)札幌の初雪=根雪の珍事と大正交通事故事情

1922年(大正11年)は、秋の終わりが遅かった。
逆の言い方をすると、雪の季節がなかなか来なかった。

札幌では、明治節が過ぎても、立冬が過ぎても雪は降らず、初雪がないまま11月の半ばを迎えようとしていた。

明治時代はとびきり初雪の遅い年はあり、1890年(明治23年)は11月20日。1886年(明治19年)は11月18日という遅い記録があったが、この年の初雪の遅さは、これに次ぐもの。

札幌測候所の観測記録には、11月10日の記事に「藻岩山初雪アリ」と書かれ、一方で測候所では初雪にならず、何か測候所員の早く初雪を見たいというような?何となくジリジリした気持ちを想像することができる。

そして11月14日(火)午前5時27分。ついに札幌で初雪が降った。

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▲初雪がそのまま積もった札幌・大通公園の様子(11月15日付 北海タイムス)



札幌市は十四日午前五時半頃 気温三十二度二分に低下し 同十時半頃迄に 凡そ一寸の降雪あり
平年より十五日 昨年より四日遅し

▼(十四日野付牛発電)
今朝六時より 初雪降る 積ること一寸弱 降りつつあり
平年より三日 昨年より二十日遅し

▼(名寄十四日発電)
前日来 気温 俄(にわか)に低下し 本朝来 積雪二寸に及び 温度摂氏二度を示し 尚 降雪頻にて銀世界を現出せり
昨年に比し 十六日遅し

▼(北竜十四日発電)
昨夜来 低気圧襲来 本朝初雪三分 尚 盛んに降りつつあり
(1922年:大正11年11月15日付 北海タイムス)

この時代の気温は華氏。32.2℉は0.1℃にあたる。
札幌は10時に積雪5.5cmを記録。初雪が初積雪となり、そしてこの雪は根雪となって春まで残る事となった。
極めて珍しい「初雪=積雪初日=根雪初日」のトリプルパンチである。

ここまで遅い初雪は、その後2011年まで89年にわたり現れなかった。

さて、今の世は、雪の季節に入るといわゆる「冬型事故」といって、凍結や積雪による交通事故が多くなる。

この大正の時代に冬タイヤがあったかどうかは定かではないし、雪が積もると除雪が発達していないのでそもそも車が運転できなかったということもあるようだが、当時の交通事故の状況を分析した貴重な記事を発見したのでみてみよう。

交通事故と本道死傷者

都市の発達につれて 交通は益々頻繁となり 従って交通事故が多くなって来る
殊に 本道の様な各都市が急激に発達した箇所では 之の事故は内地方面より多いのは当然と言はねばならぬ

昨年中に於ける統計を 道庁警務課に調べて見ると 自動車と自動車と衝突したのは十回で 死傷者二名
自動車と其の他のものと衝突した場合 男二名女なし
自転車事故負傷者 男二十一名 女二名、死者なし
電車事故 負傷者男一名女なし 同死者 男五名 女なし
馬車事故 負傷者男三名 女一名 死者男一名 女なし
人力車事故なし
荷馬車事故 負傷者男十四名 女六名 死者男八名 女八名
荷車事故 負傷者男四名 女なし 死者男二名 女なし

等で 自転車が一番軽便な丈に 女はないが一番死傷者が多い
(1922年:大正11年11月17日付 北海タイムスより)


自転車が一番多い、としているが、実は一番多いのは「荷馬車」の事故で、負傷者20名、死者16名で、あわせて36名もの死傷者を出している。
まだまだ自動車は少なく、死傷者はあわせて4名と非常に少ない。

この時代はまだトラックが十分ではなく、運送の主役はまだまだ馬ということだが、交通事故の主役もまた馬である。
今の世は、車の取り締まりが普通だが、この当時の交通取り締まりは「馬」が中心だったことがわかる記事もまた掲載されている。

小樽署の馬車 取締厳し

荷馬車追程 横着な者はない
何回処罰されても直平気で違反行為を繰返している

過般 小樽妙見河畔に於て 小児二名を轢き 重傷を負はしめたる如き 違法の手綱を長くして 後部より馭して居た結果 惨事を見たものだ

其筋に於ては 此等 違法行為に対しては 発見次第 其都度処罰して居るも従来の単に科料処分では 殆ど糠に釘も同然 更に効果ない追々 冬季に入るに従って 此等違反行為を為すもの 益々多きを見 危険を加ふべきを以て

小樽署は従来効果無き 科料処分を廃し 違反の前科あるものに対して 容赦なく拘留処分を断行 交通上の危険を除去する方針で 近々一斉取締を施行すると
(1922年:大正11年11月17日付 北海タイムスより)


海産物や農産物、物資を運ぶ馬車は、馭者も含めて「馬車追い」ということだが、性格も運転マナーも荒々しかったようで、処罰されてもすぐにまた違反行為をする者も多かったようだ。

こうした危険な馬車は、冬になるとますます増加していく傾向だったようであり、小樽署も拘留を視野に厳罰主義で一斉取締りを行おう、ということのようである。

ちなみに、今の世と違って、この頃は、馬の”暴走族”はいなかったようで、これに関する取締りの記事は見当たらない。
まあ馬では「ドライブ」という文化も育たなかったかもしれぬ。
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2025年06月07日

北海道歴天日誌 その265(1922年11月1日)北海道の鉄路、ついに北端に至る

1922年(大正11年)11月1日。
北海道最北端の稚内は、この日は歓喜の中にあった。

札幌から北へ北へと延び続けていた線路が、ついに稚内まで到達したのである。

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▲開通当日の稚内停車場付近の雑踏 (『宗谷線全通記念寫真帖』,鉄道省北海道建設事務所,1924.7. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

工事にあたった北海道建設事務所の中山由三郎技師の回顧によれば、鬼志別から稚内の間の鉄道工事は、大正7年(1918年)に両方面から開始し、切土・盛土の工事が終わってから、稚内より線路をひきはじめた。

ところが、このやり方では、機関車を小樽から稚内まで海で運んで陸揚げしなければならず、稚内の海は遠浅でこれができないうえ、船賃も莫大ということでこれを中止し、大正10年(1921年)の6月に、鬼志別方面から線路を引き延ばし、冬も休まず工事を行って、ようやくこの年の6月に稚内駅まで線路がつながったという。

この線路の開通によって、利尻・礼文はもちろん、樺太との連絡も便利になることが期待された。
実は、この頃は稚内と樺太を直接連絡する船は夏季だけ一ヶ月に二往復であり、冬は稚内から小樽まで20時間かけて出て、小樽から樺太行きの船に乗り、24時間かけて大泊まで行くという具合だったとのこと。

このため、鉄道開通とともに、青函同様に「連絡船」の就航も期待されたのであるが、これも翌年5月には早速実現することとなる。

鉄道開通日の稚内の様子を当時の記事でみてみよう。

宗谷線開通祝賀

一日午後二時より 稚内小学校に於て 鉄道開通大祝賀会開催さる
これより先 午前七時の上りにて 歓迎委員は鬼志別まで出張し 来賓を迎え 十二時五十五分の列車に之等来賓を載せて 駅に着するや 各役員の出迎へ 小学生の旗行列をなし 開町以来の盛況を呈し 自動車 馬車に分乗して 会場に至る

第一号砲に来賓着席し 二号砲鳴るや 南正 岡田副会長の式辞に次いで 来賓の祝辞あり

三号砲にて閉式退場したるが 来賓六百 大盛会なりき

同夜来賓百五十名 井桁一の招き 大夜会を開きたり
(1922年:大正11年11月2日付 北海タイムスより)


鉄道の開通で賑わった様子が短く伝えられているが、空模様までは描かれていない。
開業当日の写真に写る市民は厚着ではあるが手に傘はなく、ゲートの日章旗もなびいていない。
11月の稚内にしては割合穏やかな印象を受けるが、実際はどうだったのか。天気図をみてみよう。

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▲11月1日正午の天気図(『天気図』大正11年11月,中央気象台,1922-11 国立国会図書館デジタルコレクションより)


高気圧が千島の東へ去り、日本海と本州の南の低気圧が並んで東へ進んでいる。
北海道は典型的な「下り坂」の天気で、朝は多少晴れ間のあった所もあるが、日中は全般に曇り空で、夜は道央・道南方面で雨も降り出してきた。

この時代はまだ稚内に測候所が出来る前だが、観測の始まっていた羽幌や、南樺太の大泊・真岡とも正午の雲量は「10」。稚内も基本的にはこの日は曇り空と考えてよさそう。

羽幌は風速が6〜8m/sと南東の風がやや強く吹いたが、大泊は北東の風が3〜6m/s、真岡は日中静穏ということで、写真の様子をみるかぎり、風の状況は樺太に近かったのかもしれない。

羽幌は最高気温が19.9℃まで上がるなど、北海道内はこの時期としては気温は高かった模様。
このため、稚内は、この時期としては暖かく、割合穏やかな曇り空の中、鉄道のある暮らしのスタートを切ったということができそう。

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▲初代声問駅

稚内駅開業の4日後。宗谷線の基点となる旭川から東へ向かう鉄路が開業した。
石北線である。

大正11年に開業したのは、石北線のうち、宗谷線からの分岐点となる新旭川駅から愛別駅までの間。
こちらの祝賀の模様も、当時の記事でみていこう。

歓喜に充てる石北線

新旭川愛別間 鉄道開通は予定の如く 四日より営業を開始せる為 関係方面の沿線観察旅客は 同日の各列車に充満し 非常の雑踏を呈せり

特に午前九時三十分 旭川駅を発したる下り二百七十五列車は 建設事務所長の名を以て案内状を発せる本道各方面八百余名の来賓を満載したる為 二等車五両 三等車十一両 都合十六両を二台の機関車にて牽引せしめ 車中には服部内務部長 島村鉄道局長 筒井建設事務所長 以下官庁各方面を始め 東代議士 丸山 奥野 北村 表の各道会議員 村本旭川市長代理 関崎上川支庁長 旭川市会議員 其他乗込み居り

定刻より遅るる事三十五分にして旭川駅を発し 新旭川駅に到着せば 永山村長以下多数有志 並に 一般旅客 黒山の如くホームに溢れ 爆々たる煙火の音に 蜘蛛手に張れる万国旗に 或は駅前に設けたる手踊舞台に当日の開駅の悦びを示し 熱誠歓呼して誠意を捧ぐ

列車は更に旅客を載せ 長蛇の如き新線を疾走して東旭川駅に至れば 煙火の音に景気を添へ 万国旗の色も鮮かに 小学児童は手に国旗を振て歓迎し 早くも玉井道会議員 萱津村長佐高氏 以下村会議員有志等出迎へ 同車して万歳声裡に発車し 桜岡駅に着けば 同駅も同様 部落有志が煙火を打揚 祝ひの餅を撒きて慶こびを表し 万歳を連呼す

次いで 当麻村に入れば 全村悉く 国旗を以て誠意を示し駅内に入れば 煙花の音も景気好く 小学児童の打振る国旗の波 万歳の声湧き 石灯籠 祝賀門 万国旗等 晴れやかに ホームには林村長以下 村会議員有志 多数出迎へ 同車して 絵葉書村政一般等に配布す

伊香牛駅にても 部落有志 小学校生徒が 青年会員の吹奏する音楽の音に伴ひ 万歳を唱へ歓迎せるが 駅構内には早くも 王子製紙会社 製紙原料たる丸太材一万石の積めるを見たり

斯て 終点たる愛別駅に至れば 駅頭のアーチ 青年会員の音楽隊 小学生徒の旗行列 煙火の音等 型の如く萬歳声裡に下車せる旅客は全部駅前に出て 倉庫を以て宛たる麦茶の接待所に入りて小憩し 上り列車の時刻を待合せたるが 此時 特に設けたる櫓の上より祝餅撒きあり

斯くて 万歳の声に送られて視察旅客は二百六十七列車にして 旭川に帰着せるは午後一時なりき
(1922年:大正11年11月5日付 北海タイムスより)


この日の旭川測候所の記録では、曇りで午前10時過ぎまでは弱い雨が降ったりやんだりの天気であったが、その後は晴れ間が出て、最高気温は14.4℃まで上がっている。まずまずの開業日和となったようである。

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▲開業時の石北線当麻駅(1922年:大正11年11月4日付 北海タイムスより)

この年の旭川の初雪は10月11日。平年より早い雪の便りであったが、11月に入ってまだ雪は積もらず、割合過ごしやすい中で鉄路のある暮らしがはじまっていったのであった。

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2025年05月25日

北海道歴天日誌 その264(1922年9月26日)大正珍話集め・北竜の変わった忠魂碑

1922年(大正11年)9月下旬。
北海道は台風も来ず、ゆるやかに高気圧に覆われて、比較的穏やかに経過した日が多かった。

しかし、季節はもう秋。天気の急変から思わぬことも起きるもの。

9月23日午前11時30分頃、道北の遠別では空がにわかにかき曇り、雷鳴とともに猛烈な西風が吹き出し、雨を交えて大豆ほどの大きさの雹(ひょう)が降ってきた。

嵐は2時間くらいでおさまり、快晴の空が戻ってきたが、秋の日が照らした地面には白い雹が降り積もり、厚さは3〜4センチにも達していた。
多い所では10センチほども積もったようで、野菜類にも多少の被害があったという。

変わった空があれば、変わった人もいる。
北海道にはこんな人がやってきた。

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▲1922年(大正11年)9月27日付 北海タイムスより

ユニホームには、「日本一周無銭旅行上の」と書いている。

日本一周自転車無銭旅行

福岡市吉塚町七九八 上野長吉(二一)君は 左胸疾患の為 不具となり 兵役に服し得ぬ為 先般来 自転車に依って 無銭にて日本一周を企て 北陸を経由 渡道せるが 昨朝九時三十五分 本社を訪れたが 同君は蝦夷富士の登山を企てている

札幌は二泊すると


福岡在住の上野長吉氏。結核か何かにより、徴兵検査で不合格となったのが悔しかったのであろうか、自らの体力は問題なく頑強であることを示したかったのであろうか、日本一周の旅に出て、北海道までやってきたのである。

氏はこの旅行で自分に自信を持ったのかどうか定かではないものの、戦後、福岡市議となっていて、1948年(昭和23年)の「大福岡名士録」にその名前がみえる。
1959年(昭和34年)には福岡県議選に福岡市の選挙区から出て落選しているが、職業は「宣伝業、農業」となっており、なかなか変わった人物とみえる。

変わった天気、変わった人ときて、もうひとつ変わった話が・・・。

北龍の忠魂碑除幕 玉石で一風変った積方

雨竜郡北龍村中央部落忠魂碑は 高松軍人分会長を始め 署員 名誉会員 有志等にて 忠魂碑建設会を設立し 熱心なる奔走と労力とに依り 中央分会本部庭内に建設せられたるが

十八日十一時より除幕式 並に 招魂祭を挙行せり

(中略)

余興に移り 新たに設けられたる三ヶ所の櫓上より 数十俵の餅撒きあり
其より 宴会に移り 高松軍人分会長の挨拶 来賓有志の謝辞あり 盛会を極め 其後 銃剣 銃槍 角力 花火等の余興ありて非常に賑わひたり

尚 碑文は内野師団長の揮毫にして 碑石は仙台より百九十円にて買入 妹背牛市街 藤掛幸太郎氏の彫刻せしものにして 高さ七尺 幅三尺
台石は 会員部落有志等にて 美葉牛山林より搬出せしものにて 分会員相互交代に出で 富山県東砺波郡太田村 宮部九造氏の指図にて積み上げしものなり

下部より高さ二丈三尺 敷幅十八尺 四面義務人夫七百三十六人 荷馬橇 馬車 二百十三台にして

碑石彫刻費 余興費 其他一千二百圓にして 関係部落民の寄附に依るものなり

忠魂碑は 玉石を以って一風変わりし積方なるを以て 全国稀有のものなり
(1922年:大正11年9月27日付 北海タイムスより)


空知の北竜に建てられた「忠魂碑」は、玉石を使って全国的にも珍しい積み方をしているという。
富山から、わざわざ職人を呼んで、指図してもらいながら積んだというこの忠魂碑。

当時の新聞読者もきっと、どんな石碑なのかみてみたかっただろうなと思うと、翌日の紙面に写真が掲載された。
こちらにも転載してみる。

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▲北竜・中央地区に建てられた忠魂碑(1922年:大正11年9月28日付 北海タイムスより)

写真では中央奥に移る大きな石碑が忠魂碑だが、確かに中央から下の玉石が複雑な形に組んであり、変わった形をしているのがわかる。
この忠魂碑、現在は「碧水の忠魂碑」として知られ、北竜町の碧水神社に建立されているもの。

1959年(昭和34年)に改修建立されているそうなので、場所や姿も当時とは少し違うかもしれないが、一見の価値はあるのかも。


▲google地図でも背面を確認可能

最後に、この忠魂碑の記事がのった日の天気予報は、変わったことに、発表できなかったようなので、以下に掲載する。

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▲天気予報は機器故障により出せなかったことを告げる記事(1922年:大正11年9月27日付 北海タイムスより)
posted by 0engosaku0 at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする