2023年08月26日

北海道歴天日誌 その163(1919年11月14日)大正八年収入くらべ

1919年:大正8年11月の札幌。

遅れていた初雪は、立冬の声を聞いてから降り出したが、11月半ばに入ると再び寒さは緩んで”小春日和”が戻る。
この年、札幌の11月中旬の最高気温は、10℃に届かない日はわずか2日しかなく、一方で15℃をこえた日が3日もあったほど。

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▲11月15日正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

11月中旬の天気図は、この15日の天気図のように日本付近が気圧の谷になっているような日が多く、北海道は気圧の谷の前面というか縁辺のような形で、東の高気圧との間で南寄りの風が吹きやすい日が多くなっていた。これが、北海道になかなか寒さがやってこなかった理由である。

肌に当たる空気の冷たさは、それほどでもなかったかもしれないが、一方で懐は温かかったか、寒かったか・・・
この頃の紙面に、給料に関する記事が並んでいたので紹介しよう。

各種の税金から看た 七師団将校生活

国家の干城に対し 収入調べも如何と思ふが 旭川区の地方税第二期 及び 追加戸数割の賦課調査に現れた處に依れば少尉 中尉は到底准尉の給料に及ばない

棒給、給料、手当(三割)一ヶ年の収入見積額は千八十六圓九十銭で 功七級の金鵄勲章(年金百円)を持って居る准尉が多いが 中尉同相当官の収入は九百十圓二十銭で 殆ど戦場に加はって居らぬので 随って年金もない

大尉同相当官は 千四百七圓七十五銭から千九百二十五圓二十五銭で 年金三百圓(功五級)が普通である
佐官級が二千四百五圓二十五銭で年金は日露戦争の抜群の功で金鵄勲章を授かったもので 多くは尉官時代だったので 功五級の三百圓である

中佐は三千四百六円で 中平、水津、和田中佐は功五級、多門、伊藤両中佐は功四級の五百圓となっている

大佐の年収は歩兵、特科連隊長、参謀長も四千三百五十六円で功五級から功四級である

次に将官は幾何かと見るに 船橋、柚原両旅団長が五千四百圓、藤井師団長は六千九百五十圓で金鵄勲章は功四級乃至功三級の七百圓になってゐる
(1919年:大正8年11月14日付北海タイムスより)

この額をみると、軍人の給与が位によってかなり違う様子がみてとれる。さらに戦争に行っていると勲章のレベルによって年金がつくというから、軍人様の懐はかなり温かい。

それにしても師団長は中尉の7倍以上の年収である。今の世はおそらくこの時代ほどの格差はないだろう・・。

さて、一方で上下格差逆転をささやかれている者たちもいる。

北大八百の学生 教官を凌ぐ豪奢な生活

物価騰貴の影響は 棒給に衣食する大学教官の生活まで脅かして居るが 之に教を受て居る学生は何うかと云ふに 反対に活況を呈し 教官も及ばぬ贅沢を極めて居ると云ふ 皮肉な現象を呈している

北大の学生八百余の内 地元の札幌区に実家を有する者は誠に寥々たるもので 九割弱までは地方出、中にも其の七分迄は道外の府県出身者である
即ち下宿生活を為して居る者が全学生の九割強となる訳だが 下宿料 普通三十圓の今日、之に月謝の大学本科一箇年五十圓(年三期に分納)同予科及び実科各科三十五圓に其の他の諸費を通算すれば 少なくも一箇月五十圓近くの学資金は要る

之では父兄の負担も容易ではなく 延いて学生生活に影響を及ぼして居る事と思ふが 事実は反対で 目下の處 物価騰貴の爲 学資金の欠乏を告げて中途退学したなどと云ふ学生は至って稀で 其の多くは予想外に贅沢な生活を為し 一種の成金風が学生生活に迄 及んだかと思はしめる者がある

随って 学用品 或は必要な参考書類等の購入に苦しむが如き事は勿論ないもみか 大学を取り巻いて散在するミルクホール或はビアホール類の小飲食店が非常なる繁盛を極めて居る

実際彼等が月々父兄から得ている学資金を調査して見るに 最低五十圓(勿論 中に 一 二の例外はある)多きは七十圓 八十圓と云ふもあり 教官の棒給を凌駕せん許りの状態であるから 独身で贅沢が出来るのも無理はない

併し 戦前の五十圓乃至四十圓の学資に比較すれば倍額である故 物価の騰貴率に比較すれば 差てい多すぎる事もない
父兄が七 八十園の学資を易々として月々送るのも之が爲であらう

因に北大の学生には 内地府県の地主、資本家等の子息が多いと云ふ
(1919年:大正8年11月14日 北海タイムスより)

一か月に80円の仕送りというと、年間では1000円近い仕送り額となり、先に紹介した中尉の年収を超えていく。
これが、勉学を本分とする学生の年収というわけだから、下宿料をひいてもかなりの額が自由に使える財産となる。

ミルクホールやビアホールに学生が集うのも、こうした温かい懐事情があったということになる。

さて、軍人でもなければ学生でもない、世間と隔絶された囚人たちの収入についても・・・。

札幌分監の囚人

初冬の寒さ身に沁む昨今、鉄窓裡に蠢く囚人達の状況を札幌分監に訪ふ
「此頃は大分 人数も少くなりました」
と分監長は静かに語る

「今年の春、例の万字炭山の騒擾事件で大分入監していたが、此頃は大方 片付いたので、今は六十名許りの被害が居るが 何っちかといふと少い方です
女の方は十六才が一番の年下で夫から十八才、二十二才とあとはそれ以上の者で八名居りますが 此れ等の者には出獄してからでも生活の安全を得るやうに適当な職業を教へる事に勉めています

此れは非常に効果があるので 曾て 此の監獄を出た者で令状などを寄してゐる者もある位です
相当の年輩に達している者は成るべく一つの職業を充分に教へるやうにし 幼い者には二つ位の職業を教へてゐます

職業は今日 日収七十銭位になるやうなのを選択してゐますから、出獄しても直ちに露頭に迷ふやうな職はありません

女の犯罪は大抵窃盗です、虚栄心に駆られ 万引きしたといふやうなのが主です
食物は献立表を考案して 成るべく毎日違う物を與へるやうにしています

此監獄は被告が多いので 出入りは頗る頻繁です

被告たちも、皆、一日も早く刑が決まって 勤めを終へたいと望んでゐるらしい
刑が決ると少年は函館の監獄に、女は当監獄に その他は苗穂、十勝の監獄に夫々送り 懲役に就かせます

此頃は大きな事件がないので被告の数も少ないのです」云々

(1919年:大正8年11月14日付 北海タイムスより)

この記事では女の囚人に日収が70銭くらいになる職業をあてていると記されているのだが、これが監獄内での収入か、それとも刑期を終えて外に出た時に、同じ仕事でそのくらいの日収になるといっているのかは定かではない。

しかし、ちゃんと刑期を努めれば、月に15円ほどの収入が得られるようになり、そうなると路頭に迷うことはないだろうとみている。
ここに当時の最低限度の生活に必要な月収がはじき出されるものである。

物価が上がりゆくなか一番お金が必要な師走が近づいて来る。
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2023年08月25日

北海道歴天日誌 その162(1919年11月9日)怪魚現れ、初雪降る

前回、札幌の初雪が遅れているという事を書いたのだが、大正時代の札幌区民も同様なことを思っていたようで、札幌測候所にそのあたりを尋ねた記事が掲載されている。今回はその話題から。

打続く小春日和
豊蔵札幌測候所長は曰く 小雨が降っても雪になることは無からう


木の葉が落ちても未だに冬が来ない
本年は珍しい暖気である
例年 旧天長節の十一月三日に雪を見ないなどと云ふ事は殆ど無った

元来当地の初雪は平年十月二十九日となって居る 早やい年には二十一 二日から地を白くする事がある
然るに本年は十一月も既に半に入らうと云うのに未だに小春日和が打続くと云ふ暖かさである

能く世人は人口増加に伴れて気候も暖かくなると云ふが 之は決して人口の関係ではない 全部気象の関係である
毎年秋の中頃 即ち十月下旬の頃から大陸(満州)の気圧が非常に昂騰し 北西風の吹く日が多くなり 急に寒気を増して雪を降らし 冬に入るのが常であるが 其 冬に入る前 大陸の高気圧が支那の南から東に移り 日本 本州を通りて太平洋に出る そして本道に触れない時に 当方が小春日和となるのである

丁度十一月の初めから続いた小春日和は夫れである
尚 又 是に附随して(高)気圧が支那の方から本州に出るので南西の風が吹き 気温もずっと上がる次第である

尤も小さい低気圧が時々現れて 幾分 其 影響を受るが ほんの一時で長続きせず 直恢復する
昨今の小雨は即ち其 小低気圧にかかった時である

併し気温が此通りて 例年漸く華氏四十度内外のが 本年は五十度以上に昇って居る殊に去五日の如きは六十七度と云ふ異常の暖気を示した程であるから小雨が降っても雪に化ける事は一寸あるまい

彼の凶作で騒いだ明治三十五年や同じ凶作年の大正二年などが本年と同様な気候であったが 本年は幸いに豊作である
又 最近では大正五年が尤も暖気が続いて 十一月十四日に初めて降雪を見たが 本年は或は大正五年に譲らないかも知れぬ

若し 此 十四日迄に降雪がない様であると本年は実に札幌開けて以来の新記録を作る次第である」

と語った
(1919年:大正8年11月7日付北海タイムスより)

この年の立冬は11月8日。
暦の冬を前に札幌に雪が降らないのは、人が増えたからではなく、気象のせいと豊蔵所長の談。

暖かい日が続いているので、当面は小雨が降っても雪に化ける事は一寸あるまい・・・との解説であったが、この記事を冬将軍が見たのであろうか、立冬とともに寒気がやってくる。

11月9日午前10時55分。札幌では雪が降り出した。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

前日の8日、低気圧を含む深い気圧の谷が北日本を通過し、9日は冬型の気圧配置に変わった。
札幌の最高気温は、8日は16.1℃だったが、9日は5.7℃どまり。前日より10℃以上も低くなった。強い寒気が流れ込んできたのである。

札幌は11時前に降り出した初雪が、14時過ぎにかけて断続的に続いた。函館や根室も16時前に相次いで初雪となった。
旭川は10月22日に既に初雪となっていたが、6時前に降り出した雪が、うっすらと積もっていった。

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▲11月9日朝の旭川の様子。初雪ではなく、初積雪となった。(大正8年11月12日付北海タイムスより)

暦通りの冬の到来となったが、真夏でもちょっとぞっとするような話題が・・・。

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▲浜頓別の怪魚?(1919年:大正8年11月9日付北海タイムスより)

浜頓別に現れた怪魚。ぜひ記事を参考に絵をかいてみてほしい。
5尺というから、1.5メートルを超える大きさの”人面魚”が引き上げられたというのである。

浜頓別の魚商が見世物用に買って行ったとのことだが、どうやら写真はないようで、この記事から想像するしかない。

なお、キナボというのはマンボウのこと。
まあ、マンボウくらいがホントのところなのかもしれない。

もうひとつは、違った意味でちょっと怖い話。

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▲回収せぬポスト(1919年:大正8年11月9日付北海タイムスより)

音更村の新市街に設けられたポストに、郵便局員が全然回収に訪れないため、押し込まないと投函できないほど満杯になってしまったという話。開けてみたら9月7日から一ヶ月以上たまっており、その数も七百数十通にものぼったとのことである。

電話はまだ発達せず、電報も高い。手紙が一番身近な通信手段だったこの時代、これはなかなかの不祥事。

外の寒気以上に、背筋も首筋も涼しくなるような思いをしたであろうか・・。
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2023年08月24日

北海道歴天日誌 その161(1919年11月6日)塩が欠乏、事務員も欠乏・・・

1919年:大正8年11月6日。

この年の初雪は遅れ、札幌では立冬が近づくのにまだ雪の気配はない。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

この日の天気図では、西高東低の気圧配置ではあるが一時的なもので、北海道は沿海州方面から進んで来る高気圧に覆われようとしている。
札幌は北西の風が吹き、最高気温は前日より5℃近く低くなったが、それでも10.5℃と二けたになった。

朝までは雨も降ったが、雲は次第に隙間ができて、夜は快晴へと空模様が変わっていった。

さて、雪が降るまでには仕込みたいのは”漬物”。
しかし雪ではなく、足りないものがあったようで・・・

漬物時に塩欠乏

一年中で最も切要な鹽時に 鹽が欠乏したとある
当区内は勿論 何処を駆け廻った所で 塩気と云うものは絶えてないと云ふ
爲に昨今 区内では 折角買入れた大根や青菜類も漬る事が能きず 空しく腐らせて弱って居る

又 地方の農家では此打撃を受けて 大根青菜類がパッタリ売行き止り 日一日と暴落の傾向に在ると云ふので 是亦大恐慌であるが 鹽の欠乏の爲 大困難を感じて居るのは単に夫等のみに止らない

味噌 醤油等の醸造家の如きは肝心の鹽がない爲に 久しく其業を休んで居る者さへある
国民生活上 実に由々しき問題であるが 実際に無い袖は振られぬ

小樽の専売局出張所では 本局に対し 内地鹽四百五十万斤の配給を申込んだ處 其製塩額が僅々百万斤であるから到底不可能であると来た

夫では外国鹽の阿南鹽あたりで一時間に合せんければならぬが 之とて充分でなく 当区では先日の二十六日以来 全く鹽欠乏の處へ 昨日漸く二軒の元売捌 曲丸古谷に秋山両商店へ各三百俵宛の阿南鹽で配給されて来た

所が 此 鹽を全部当区の需要者にのみ向ける事は出来ない
附近の農村部落には勿論 遠く宗谷線 網走線方面迄向けるのであるから 区内へ向けるのは漸く 多くて其半数位のものである

然るに 当国は鹽の小売店三百四十軒以上あるから 一店に漸く一俵位の割合となる

是では到底一般家庭の需給を充たす事は出来ない
夫が爲に昨日 鹽が入荷ったと聞くや 区内の小売商連 此荷一俵も地方へ出す事ならぬと 命懸けで前記両元売捌店に押掛け 一俵でも多くの配給を受けやうと強硬な談判に及んで 両店頭 殺気を帯て居た
(1919年:大正8年11月6日付北海タイムス)

最も基本的な調味料である「塩」
野菜の塩漬けは、食塩水の高い浸透圧の作用により、有害菌の侵入を防ぐことによる「防腐性」を最大限に活用した食品である。

しかし、野菜は塩に出会うことがなければ腐ってしまう。
漬物用に野菜を仕入れても塩がないので漬けられない。このようなことが起きていたのであった。

阿南塩とは、徳島県阿南産の塩のことであろう。阿南は瀬戸内ではないが、昔から海水を使った製塩が行われていたようである。
しかし、北海道全体で300俵では、道民の漬物をカバーするにはとても足りない。この年の塩恐慌はまだまだ長そうである。

足りないのは塩だけではないようで、女性の社会進出が進んでいた話も。

旭川 女腰弁総まくり

北海十一州の首府 北海道庁のプロパガンダの故でもあるまいか 上川支庁にも先月二十日から妙齢な婦女子が現れた

何でも高等女学校卒業程度の応募者が二十人余りもあったといふ
これ等の応募者に対し 支庁は学術試験を課し 選りに選り抜いたので 事務には親切で頭脳が緻密で 従って計算にはお誂(あつら)え向きだらうとあって とりあへず会計課の第三課に三脚の椅子を据えることにしたので 美人揃いである

名は 佐野キヨシ、杉本カネ、増井直子さんとで 艶な庇髪姿は新米者の視線を惹く
何しろ 支庁始まって最初の女子事務員とて 事務振りは注目されているが 採用後日数も短く 漸く官庁の雰囲気に慣れたといふだけであるから 業績も未知数であるが 相当に素養も積んで居るから指導と鞭撻の如何によっては 十分期待し得られ 判任官たることも易いだらうとのこと

お給金は別増共に二十七 八圓で 旭川現在の女子事務員収入としては上々の部である

一番年若の増井さんは元旭川区裁判所監督書記 増井謙太郎の遺娘、佐野さんは旭川検査所長 佐野氏の令嬢、杉本さんはさる菓子屋の娘さんとうけたまはる

旭川女子事務員採用の魁は鉄道院旭川運輸事務所で 師団経理部矢代主計の令妹 時雨女史を中心の一派であったが 誘惑か迫害の結果か 在勤 僅かにして姿を消して了ひ 時雨女史はその後 新しい女として新聞記者となったが 長く続かず 今は札幌区に放浪しているらしい

それで旭川停車場の改札係を除いては中断の体であったが 去年の秋ごろから運輸事務所にも再び粉黛の香りが漂ひ 同師走の二十三日には方角の変った閻魔庁の裁判所検事局にも紅一点を彩ることとなった

物価騰貴又騰貴で 飛び出すものが相次ぎ 欠員の補充難に困り抜いた検事局は この女子志願者によって急場を凌ぎ 続いて今年一月十五日 更に一名の女史を雇ひ入れた

結婚 其の他事故は共通的女子の欠点であるが 検事局の一人はそうした事故で近く退くらしい
二人の名は田中トメ、高柳ヨシエとて 二十歳未満で受付や浄写を担任し 給料は凡そ二十圓位

(1919年:大正8年11月4日付 北海タイムスより)


北海道庁の本庁が女子職員を初めて採用したのは前年の1918年(大正7年)11月のことで、このことはこちらで記事にした。
上川支庁でも初の女子事務員の採用であるが、試験で優秀な女性を”選りに選りぬいて”決めたとの事。しかも実名入り、どこの娘かまでしっかりと記載している。

給料も地域の女性事務員としてはよく、さらには昇格の芽もあるという。女性の社会進出に向けた一歩であろう。

また、記事にあるように、女性は結婚したら家に入るという時代でもある。一生の仕事ではないという一般認識であったこともわかるもの。
従って、まず受付やら浄写やら会計・・・といった軽作業が与えられた。

その延長でお茶くみとかも、やらされるようになるのだろう。
そしてそれが、100年近く後に男女均等の視点から、大きな問題となるのである・・・。

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▲記事にはしないが自社でも女事務員を募集する広告(大正8年11月4日付北海タイムスより)
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2023年08月23日

北海道歴天日誌 その160(1919年11月1日)浅茅野に鉄道が来た

猿払村浅茅野(あさじの)。

2020年の国勢調査では人口59人。この10年で33人の減少、典型的な過疎集落である。
今から100年余り前、この地は輝かしい未来が期待され、どんどん人が集まっていた。

1919年:大正8年11月1日。浅茅野がひとつの転機を迎えたこの日の空はどうだったか。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

気圧配置はわかりにくいのだが、揚子江下流域の高気圧から気圧の尾根が本州方面へ伸びており、樺太の北には低気圧がある。
北海道は”南高北低”で、等圧線の間隔は狭く、西から南西の風がやや強く吹きやすい形である。

天気図では稚内で風が強く吹いている様子が描かれているが、当時存在したのは宗谷岬測候所。
日平均11.8m/sという強風で、6時には18.7m/s(WSW)を記録、14時でも12.3m/s(WSW)である。

日中の気温は6℃前後で経過し、曇り空。さらに小雨までぱらつくとあって、なかなかの肌寒さ。
約45キロ南の浅茅野も、天気はさほど変わらなかったのではないかと思われる。

しかし、この日の浅茅野は熱気に包まれていた。汽車が来たからである。

宗谷新線開通祝賀 終端駅なる浅茅野にて

本道中部を縦断する宗谷線は十一月一日を期し 既設駅 浜頓別より更に西北し クッチャロ湖畔より鬱蒼たる原始林を潜り 枝幸 宗谷の群界を突破し 猿払川流域の浅茅野迄開通せり

茲に宗谷線営業哩程 百二十七哩九分となる

本島北見の改革は 鉄道の延長につれ 驚心刮目に値すべく 沿道民は熱狂 歓呼 祝賀会を行へり

同日午前五時五十分 長蛇の如き十数両の列車が名寄駅を始発し 汽笛の音 北見の未開地に響けば 会衆万歳を連呼し 煙火亦沖天に轟く
此の日 名寄駅より車中の人となり浅茅野へ向へば 敏音知 松音知 上頓別 中頓別の各駅ホームは祝賀会参列の客にて大混雑を極む

中頓別有志は実業視察団を組織し 二等車一両を貸切り 本年六月全市街を灰燼に帰せし浜頓別よりの旅客 幾層倍し 列車は鈴成万満となり 浜頓別駅を発すれば 車窓には晩秋の情趣深きクッチャロ湖去来し 処女林を縫て 午後零時四十分 新設山軽駅に入るや 群集せる附近住民は一時に万歳を叫び 歓声 天に漲る

同駅前広場の清楚なるアーチには国旗翻々として 礼装の部落有志 接待に狂奔する
折柄 沿線の情況を精載せる本紙を 売捌店の数人が車中に投込めば 乗客は奪ひ合て愛読す

軈て 列車は山軽駅を万歳声裡に送られ 丘復を伝へ 左曲右折して進み 三菱拓北農場を縦断して終端駅 浅茅野駅に着せるは午後一時二十分

川内宗谷村長、長根守拓北農場管理人、小学校生徒 青年団等 小国旗を翳して万歳を連呼し 駅に出迎ひ 楽隊を先頭に来賓を祝賀会場に導く
会場の装飾設備 至れり尽せりといふべく午後二時 愈々祝賀式を挙ぐ

川内村長の式辞 筒井建設事務所長 本社東代議士代理 宗谷支庁長代理 根守拓北管理人 小学校長 青年会長 外 村有志の祝辞 稚内町長 郵便局長の祝電披露ありて 二時半閉式

直ちに祝宴に移り 来会者一同 祝盃を交して随意退散せるが 来賓は筒井建設事務所長 植村 清水 田中 各建設技師 及び同地方の有志等約三百名に達せり

尚 同夜 重立有志の招待宴が催せるが 当日の余興としては餅巻き 剣舞 手踊 煙火等あり

附近の人出 頗る多く 空前の盛況を呈せり
因みに同日一番列車の浅茅野駅下車客は七百四名 同駅発 一番二十二名 二番六十一名 終列車八百名 又 同駅到着の貨物列車は石材雑貨の貸切二両 十四噸なりし
(1919年:大正8年11月3日付 北海タイムスより)

この頃、宗谷管内は木材や石炭が豊富な地域とみられていた。
従って、鉄道の北への延伸は、この地域の開発と開拓が進むことを意味し、将来が大変期待されていたのである。

当時、活況を呈していた夕張になぞらえ、「宗谷は未来の夕張」などとも呼ばれていたらしい。

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▲開通当時の浅茅野駅(大正8年10月31日付北海タイムスより)

浅茅野は、仮小屋二軒という集落ともいえないような場所であったのが、この頃には40戸まで建物が増えていた。
そして周辺の森では木々の伐採が進み、木材があちらこちらに”ピラミッド”を作っていたという。

特に力が入っていたのが三菱で、猿払村に「拓北農場」を開き、100戸の移住者を入れ、神社に学校を作って医者まで呼び、新たな村を作りあげていた。
また三井も山軽駅周辺の山林を所有し、浜頓別の加工場に運んでおり、10年は原材に困らぬと語っていた。

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▲浅茅野駅までの開通を祝う広告(大正8年10月31日付北海タイムスより)

浅茅野は期待に沿って、この地域の木材の集積と積み出しの拠点として発展していく。さらに昭和に入ると炭鉱も開業、「木と石炭」という開拓の両輪が揃った。

しかし戦後まもなく炭鉱が閉山に追い込まれると風向きが変わる。
海外からは安い木材が流入し、林業も一気に衰退していく。
1982年(昭和57年)には浅茅野駅は無人化、1989年(平成元年)には鉄路自体が廃止となった。

浅茅野はさびれていく。しかし猿払村自体は戦後、ホタテを中心とした水産業で栄えていく。
大正時代に描いた未来とは違ったが、北海道で一番と言われる豊かさに、現実に手が届いたのであった。
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2023年08月22日

北海道歴天日誌 その159(1919年10月23日)酋長・辯開凧次郎死す

1919年:大正8年10月23日。
この日の天気図はこちら。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

大陸に高気圧があって、朝鮮半島から日本海方面へと張り出している。
オホーツク海は低気圧があり、北海道はやや気圧の傾きが大きめである。

この日の北海道は全般に西寄りの風がやや強く、根室は10メートル前後、函館も8メートル前後の風を観測している。
空のほうは、札幌はよく晴れて最高気温13.1度。函館は雲の隙間から晴れ間がみえて、最高気温はやはり13.1℃であった。
帯広や釧路は一日快晴で、旭川や寿都は一日曇天。こうしてみると、上空にはやや冷たい空気が入り、冬型気圧配置っぽい天気分布である。

この日、一人の男が事故により亡くなった。

酋長辯開 墜落惨死

本道に有名なるアイヌの酋長 茅部郡落部村 辯開凧次郎は 二十三日 黒松内にて酩酊の餘りか同地の橋より墜落 惨死を遂げたり
同人は 旧名をイカシパ 父をベンケイ 母をヒラテキと呼び 其 長男たり

弘化四年六月三日生れ 今上陛下御慶事の祝典に際し上京
熊の子二頭を献上し 宮中に於て 今上陛下 先帝陛下に拝謁を賜ひ 御所の松 三十二本 御紋章入り煙草五百本 御菓子七折 絹袱紗一枚御下賜の光栄に浴し 又 先帝御大喪の際 青山葬場殿に入場を許され 御奉葬申上げ 今上陛下東宮に在す時 明治四十四年八月本道御巡啓の 大沼公園御座所近く 船にて拝謁を賜り 祈祷の式を御覧に供し 御酒を賜り 次いで落部凧次郎住宅前 特に御召列車を止めさせられ 御展望を賜り 其の際 金十五圓に御酒を下賜さるる等 名誉のアイヌなりし
(1919年:大正8年10月26日 北海タイムスより)


渡島のアイヌの中で、当時、最も高名な酋長であった辯開(べんかい)凧次郎氏の事故死である。
現時点ではウィキペディアでは没年月日が「1924年10月23日」となっているが、この記事のほうが正しそうなので、辯開氏の没年齢は5年短くなってしまう。

黒松内は寿都の南隣。この日の日中から夜については雨が降っていたわけではないと思われるので、足を滑らせて転落というよりは、橋を渡っているときに突風にあおられた可能性のほうが高いか。

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▲大沼で丸木舟から皇太子に挨拶した辯開の記事(1911年:明治44年8月24日付北海タイムスより)

この大沼での拝謁(奉迎)の際、辯開が皇太子に捧げた「チセコロイナヲ」から、皇太子は大沼にあるひとつの半島を「稲穂島」と名付けたとある。
この稲穂島、令和の今も存在するが、名前の由来は忘れられているだろうなあ。

なお、明治天皇から下賜された松については、落部八幡宮の境内に1本が現存している模様である。
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2023年08月21日

北海道歴天日誌 その158(1919年10月8日)神無月にカミサマが集結!函館

1919年:大正8年の10月8日。

この日の天気図は、前回紹介の一週間前のものと大きくは変わらない。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

函館はこの日の朝まで約3日にわたり、東〜南東の風が10メートル前後という状態が続いた。
この日の日中に風は弱まっていったのだが、今後は雨が強まり、10日まで3日間かけて93.3ミリという大雨である。

しかし、風が吹こうが雨が降ろうが、この時期の函館はお構いなしの賑やかさであった。”カミサマ”が帰っていたからである。

勘察加帰りの漁夫で賑ふ函館

函館で「カミサマ」と称する所謂函館の小商人が云ふヤンシウは 続々として勘察加の漁場から引揚げて来るので、殊に東濱町から旧桟橋付近や停車場は大道で漁夫連が土産魚(鹽鱒、鹽鮭)を算盤片手に処分するので、初秋の函館は大景気

一杯屋の夕暮を覗くと、魚臭い半纏や刺子を古着町で求めた衣類に着替た連中が、コップ酒を呷(あお)って
「オラは既(も)う金が無えぞ、帰れば嫁や子供が待ってるぞえ・・・」などとワイワイ安酒の匂にメートルを挙げてゐるのは 函館でなければ見られぬ図である

一方 鮮人の労働者は上陸と共に 先づ買物を第一と楽みに 薄汚ない衣服から悪臭を放ちながらもゾロゾロと群を作って 三々伍々 西川町の古着屋通りから、果実屋、布団屋、牛めし屋へと漁って歩くので、彼等の懐を窺ふ小商人が 其の後を付けて 之も矢張 ゾロゾロと就き纏ふのも秋の函館における一の奇観である

次にカミサマの引揚で賑ふのは例の木賃ホテルや安宿で 狭い六畳か四畳の間に 宛ら折詰の様に七 八人宛がゴロゴロ押込められて、夜になると其所からは土産魚を処分して懐を暖かくした連中の煙草の煙と 酒の香が漂ふて 酔語と笑声で咽び返る様な光景を呈するのも又 一の函館に於ける情調で

次に洗湯も又漁夫で大入満員、お蔭で函館ッ子は朝早く入浴せねば 汚らしくて入れぬと云ふ騒ぎ

お次は露助の上陸であるが 露助の労働者連中は一番性質が悪い
此の先生達は焼酎かウオツカ ウヰスキーと云ふ風の強い酒でなければ お気に入らぬと云ふ代物で、上陸すると先づ「チャブ屋」(外人相手の飲食店)に入るのが例で、其所で酔ひどれると、道路であろうが商家の店頭であろうと 一向お構ひなしに打つ斃れて平気な者

酔が醒る迄は夜半迄も眠ってゐると云う厄介千万な連中で、函館の町は汚される事 夥しい
それがあらぬか 函館警察署の高等刑事連は 外人は旅券が無ければ上陸させる訳には行かないが 漁夫だからマア上陸を許可して置くものの 時間があって。午後四時になると汽船に返す事になっている

それが爲 午後四時がチンと鳴ると 私服の高等刑事サン連中がゾロゾロと市中に飛出して 先づ露助の始終 這入るチャブ屋廻りを開始して
店主に「オイ露助を帰すんだぞ」と一軒々々に廻るべく 上官の命令で、今日此頃の寒空を洋服や和服で「オイ帰るんだぞう」と露助を見ると 声を掛てゐるのも又 函館でなければ見られない図である

(1919年:大正8年10月8日付北海タイムス)

函館の賑わいの様子がよくわかる記事。

10月は一般には神無月であるが、函館は銭を持ったカミサマが集結、経済は活況をかこっていた。
記事からは、カミサマ(やん衆)たちは、大まかに日本人、朝鮮人、ロシア人の3種類で構成されていることがわかる。

ロシア人を「露助」と蔑称するのは、すでにこの時代には確立していたか。
ロシア人はカミサマといえども「厄介千万」な存在だったようである。

函館に集った北洋のカミサマ達は、それぞれの土地へ引き上げていき、秋は深まりをみせていく。

同じ日の紙面では、定山渓温泉の紅葉は3〜4分とある。
こちらには札幌から観楓団の波が押し寄せていた・・・。
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2023年08月20日

北海道歴天日誌 その157(1919年10月2日)復活!百瓜百中の甘味「岩内スイカ」

1919年(大正8年)10月1日。

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▲正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

天気図では千島中部に高気圧があり、北海道には日本の南の低圧部から気圧の谷がのびていて、気圧の傾きが大きくなっている。
札幌は、日中は曇り空で小雨がぱらつき、昼前後には5メートル前後の南から南東の風が吹いた。
函館や寿都など南西部の沿岸は7メートル前後とやや強い風が吹いたので、小樽も同様に風が強かったのかもしれない。

○高島大火 百十一戸を全焼せり

一日午前十時五十分 高島郡高島村六十三番地(説教所付近)漁業 小林島次郎方より発火せるより 高島駐在所阿部巡査は直に小樽警察署へ急報の上現場へ駆つけ 消防組は高島消防全員消防に尽力し 続いて 祝津消防組全部 小樽署より松山警部補は坂上外二巡査を率ひ 小樽水上署は署員数名 ランチ 巴丸にて 又 小樽消防組は各部より消防数名選抜 孰れも応援に趣きしが

何分にも水利の悪きと 漁家の小屋多きにより 消防に困難 終(つい)に 五十棟百十一戸を全焼して 同午後一時 漸く鎮火せるが 出火原因は目下松山警部補調査中なるが 火元 小林方にて 朝 仏壇へ点灯の儘 打忘れたるよりの失火なるべしとの鑑定なるが 詳細は後報すべし

(1919年:大正8年10月2日付 北海タイムスより)

現在は小樽市となっている高島。当時はヤマセ(東南東の風)が吹き荒れていたらしいのだが、この風が、仏壇に点していたろうそくを倒し、これが燃え広がって大火となったものである。

主人は隣家で茶飲み話、妻も畑でイモ掘りをしており、初期消火に失敗。
のちの調査によると、わずか2時間で焼失52棟、107戸を数えたそう。
魚市場を避難所としたが、罹災・収容者は約600人にものぼった。


▲高島の位置

この日の札幌の最高気温は19.6℃。小樽も札幌ももう夏の暑さは遠く、秋風の中ではあるが、火事の記事のとなりに真夏の果物の記事。

豊潤甘味なる岩内西瓜の復活

岩内西瓜とし云へば 其 豊潤さと百瓜百中 無類に甘味を有する点とに於て 例年札樽市場に出でても他地産品を凌駕して 一般の賞美を受け 其産額も又リヤムナイ村を中心に 毎年貨車にて沢山各地へ輸送されてゐた。

然るに 此 優良西瓜は如何なる訳か 新懇の地に一年より獲れない爲 漸く新地の欠乏した現今では今明年中にも此名物がなくなる事になったので 西瓜の外 適作物のないリヤムナイ附近の農家は大恐慌を来して 平素肥料や土壌の研究に没頭している町内 下田組製肥所主任 下田喜久三君を訪ふて 其熟地にも作付する事を得る様研究を請ひ 同村 池町氏は卒先 下田君の指導により 五反歩の試作をなしたる處 本秋は写真の如き 優良にして然も従来より一層甘味ある西瓜が多数生(な)ったので 同村民も是に依り名産の復活が出来得る事と大喜びである

記者が下田君を訪へば
「熟地へ西瓜の試験をしたのは今地が初めてで、まだまだ研究しなければ確な話しは出来ませんが 今年は刺激剤の試験と肥料の配合による試験と土地を消毒する試験の三通やりました
然るに一、刺激剤の試験は全く効力を見ませんでした、
肥料は従来から多量の窒素質の肥料(馬糞、人糞尿、魚肥)に燐酸を併用していたようですが 加里には余り注意しない様でした
今年の試験に加里を大量に併用したものが特に風味のよかったのを見ると 肥料の配合には充分改良の余地があると思ひます。
一、土地の消毒に幼植物の生育に大分見るべき点がありましたらから来年は一層詳細に試験しやうと思って居ります

此の地方の西瓜で一番注意しなければならないのは発芽早々の虫害であります
此の予防が不充分だと肥料其他折角の苦心も水の泡に帰してしまひます」 云々

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(1919年:大正8年10月2日付 北海タイムスより)

今の世では、岩内の隣町、共和のスイカは「らいでんスイカ」のブランドで道民にはなじみが深いが、岩内スイカの名は知らない。
ただ、記事に出て来る「リヤムナイ」というのは、感じでは”梨野舞納”と書き、今でも共和町の一地区である。

つまり、大正時代から共和町を中心とした岩内にかけての一帯はスイカの名産地であり、しかも品質がよいということで札樽では好まれていたということがわかるものである。

スイカは連作障害が発生しやすい作物のひとつで、この記事でもその影響が垣間見える。
肥料の配合や土地の消毒など科学的なアプローチでいつでもスイカが出荷できる地域を目指した取り組みが行われていたのだ。

発足地区で”トンネル栽培”技術の成功から、らいでんブランドが確立していくのは、これから40〜50年後のこととなる。




posted by 0engosaku0 at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする