遅れていた初雪は、立冬の声を聞いてから降り出したが、11月半ばに入ると再び寒さは緩んで”小春日和”が戻る。
この年、札幌の11月中旬の最高気温は、10℃に届かない日はわずか2日しかなく、一方で15℃をこえた日が3日もあったほど。

▲11月15日正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)
11月中旬の天気図は、この15日の天気図のように日本付近が気圧の谷になっているような日が多く、北海道は気圧の谷の前面というか縁辺のような形で、東の高気圧との間で南寄りの風が吹きやすい日が多くなっていた。これが、北海道になかなか寒さがやってこなかった理由である。
肌に当たる空気の冷たさは、それほどでもなかったかもしれないが、一方で懐は温かかったか、寒かったか・・・
この頃の紙面に、給料に関する記事が並んでいたので紹介しよう。
各種の税金から看た 七師団将校生活
国家の干城に対し 収入調べも如何と思ふが 旭川区の地方税第二期 及び 追加戸数割の賦課調査に現れた處に依れば少尉 中尉は到底准尉の給料に及ばない
棒給、給料、手当(三割)一ヶ年の収入見積額は千八十六圓九十銭で 功七級の金鵄勲章(年金百円)を持って居る准尉が多いが 中尉同相当官の収入は九百十圓二十銭で 殆ど戦場に加はって居らぬので 随って年金もない
大尉同相当官は 千四百七圓七十五銭から千九百二十五圓二十五銭で 年金三百圓(功五級)が普通である
佐官級が二千四百五圓二十五銭で年金は日露戦争の抜群の功で金鵄勲章を授かったもので 多くは尉官時代だったので 功五級の三百圓である
中佐は三千四百六円で 中平、水津、和田中佐は功五級、多門、伊藤両中佐は功四級の五百圓となっている
大佐の年収は歩兵、特科連隊長、参謀長も四千三百五十六円で功五級から功四級である
次に将官は幾何かと見るに 船橋、柚原両旅団長が五千四百圓、藤井師団長は六千九百五十圓で金鵄勲章は功四級乃至功三級の七百圓になってゐる
(1919年:大正8年11月14日付北海タイムスより)
この額をみると、軍人の給与が位によってかなり違う様子がみてとれる。さらに戦争に行っていると勲章のレベルによって年金がつくというから、軍人様の懐はかなり温かい。
それにしても師団長は中尉の7倍以上の年収である。今の世はおそらくこの時代ほどの格差はないだろう・・。
さて、一方で上下格差逆転をささやかれている者たちもいる。
北大八百の学生 教官を凌ぐ豪奢な生活
物価騰貴の影響は 棒給に衣食する大学教官の生活まで脅かして居るが 之に教を受て居る学生は何うかと云ふに 反対に活況を呈し 教官も及ばぬ贅沢を極めて居ると云ふ 皮肉な現象を呈している
北大の学生八百余の内 地元の札幌区に実家を有する者は誠に寥々たるもので 九割弱までは地方出、中にも其の七分迄は道外の府県出身者である
即ち下宿生活を為して居る者が全学生の九割強となる訳だが 下宿料 普通三十圓の今日、之に月謝の大学本科一箇年五十圓(年三期に分納)同予科及び実科各科三十五圓に其の他の諸費を通算すれば 少なくも一箇月五十圓近くの学資金は要る
之では父兄の負担も容易ではなく 延いて学生生活に影響を及ぼして居る事と思ふが 事実は反対で 目下の處 物価騰貴の爲 学資金の欠乏を告げて中途退学したなどと云ふ学生は至って稀で 其の多くは予想外に贅沢な生活を為し 一種の成金風が学生生活に迄 及んだかと思はしめる者がある
随って 学用品 或は必要な参考書類等の購入に苦しむが如き事は勿論ないもみか 大学を取り巻いて散在するミルクホール或はビアホール類の小飲食店が非常なる繁盛を極めて居る
実際彼等が月々父兄から得ている学資金を調査して見るに 最低五十圓(勿論 中に 一 二の例外はある)多きは七十圓 八十圓と云ふもあり 教官の棒給を凌駕せん許りの状態であるから 独身で贅沢が出来るのも無理はない
併し 戦前の五十圓乃至四十圓の学資に比較すれば倍額である故 物価の騰貴率に比較すれば 差てい多すぎる事もない
父兄が七 八十園の学資を易々として月々送るのも之が爲であらう
因に北大の学生には 内地府県の地主、資本家等の子息が多いと云ふ
(1919年:大正8年11月14日 北海タイムスより)
一か月に80円の仕送りというと、年間では1000円近い仕送り額となり、先に紹介した中尉の年収を超えていく。
これが、勉学を本分とする学生の年収というわけだから、下宿料をひいてもかなりの額が自由に使える財産となる。
ミルクホールやビアホールに学生が集うのも、こうした温かい懐事情があったということになる。
さて、軍人でもなければ学生でもない、世間と隔絶された囚人たちの収入についても・・・。
札幌分監の囚人
初冬の寒さ身に沁む昨今、鉄窓裡に蠢く囚人達の状況を札幌分監に訪ふ
「此頃は大分 人数も少くなりました」
と分監長は静かに語る
「今年の春、例の万字炭山の騒擾事件で大分入監していたが、此頃は大方 片付いたので、今は六十名許りの被害が居るが 何っちかといふと少い方です
女の方は十六才が一番の年下で夫から十八才、二十二才とあとはそれ以上の者で八名居りますが 此れ等の者には出獄してからでも生活の安全を得るやうに適当な職業を教へる事に勉めています
此れは非常に効果があるので 曾て 此の監獄を出た者で令状などを寄してゐる者もある位です
相当の年輩に達している者は成るべく一つの職業を充分に教へるやうにし 幼い者には二つ位の職業を教へてゐます
職業は今日 日収七十銭位になるやうなのを選択してゐますから、出獄しても直ちに露頭に迷ふやうな職はありません
女の犯罪は大抵窃盗です、虚栄心に駆られ 万引きしたといふやうなのが主です
食物は献立表を考案して 成るべく毎日違う物を與へるやうにしています
此監獄は被告が多いので 出入りは頗る頻繁です
被告たちも、皆、一日も早く刑が決まって 勤めを終へたいと望んでゐるらしい
刑が決ると少年は函館の監獄に、女は当監獄に その他は苗穂、十勝の監獄に夫々送り 懲役に就かせます
此頃は大きな事件がないので被告の数も少ないのです」云々
(1919年:大正8年11月14日付 北海タイムスより)
この記事では女の囚人に日収が70銭くらいになる職業をあてていると記されているのだが、これが監獄内での収入か、それとも刑期を終えて外に出た時に、同じ仕事でそのくらいの日収になるといっているのかは定かではない。
しかし、ちゃんと刑期を努めれば、月に15円ほどの収入が得られるようになり、そうなると路頭に迷うことはないだろうとみている。
ここに当時の最低限度の生活に必要な月収がはじき出されるものである。
物価が上がりゆくなか一番お金が必要な師走が近づいて来る。