2023年09月24日

北海道歴天日誌 その164(1919年11月15日)祝・東倶知安への鉄道開業!

1919年(大正8年)11月15日。

この日のあるニュースを告げる記事に、天気のことが書かれている。

道会座開幕

道会初日の顔合せは 昨日午前十一時に十五分前から始まった
夜来の氷雨は名残なく晴れあがって 初冬には珍しい小春日和の暖かさ

全道から集まった議員も 意外なる此好天に釣られてか、晴やかに元気好く 定刻の午前九時を過ぎる頃ほいから続々議事堂 指てやって来る

フロックの人 羽織の人 議員室は刻々活況を呈して 呉越同舟の饒舌で賑はう

軈て 午前十時半 白髪の笠井長官、瘦躯 鶴の如き尾崎内務部長以下の参与員一同の楽屋入りとあり 休憩暫くして振鈴 廊下に起ると 先づ議員連から議場に入り 各自思ひ思ひの席に寄る

続いて一方の口からは笠井長官を先頭に 参与員の入場あり
長官に設けの席に来て 一寸躊躇った形で遠慮するを背後に続いた尾崎内務部長が「まアまア」と長官席を指で指す

階上は新聞記者席 獨り満員の盛況を呈したのみで 傍聴席は至って淋しい
(1919年:大正9年11月16日付 北海タイムスより)

道会とは「北海道議会」のこと。
この日は定例の道会の開会日ということで、このあと笠井長官が挨拶し、その後は議案調査のため5日間休会することを諮り、11時に閉会。
議事の時間はわずかに15分であった。

まあ、この内容をわざわざ傍聴する一般人もいないということで、「傍聴席は至って淋しい」と描かれている。これは現代も昔も同じである。

ところでこの日の天気については太字にしたように、氷雨があがり晴れ上がって小春日和の暖かさ、とまとめられている。
なんとなく、低気圧とか寒気とかが去って、高気圧に覆われて来た状況が想像できるのだが、11月15日の北海道は気圧の谷の中であった。

19191115天気図.jpg
▲11月15日正午の天気図 (気象庁・デジタル台風「天気図データベース」より)

札幌は前日14日は最高気温8.0℃どまりで、午後10時50分まで雨が降っていた。
一方で15日は最高気温は15.1℃まで上昇。前の日よりも7℃も高い。
天気のほうも、午前9時までは曇り空だったが、10時には雲量が3に減り、11時には快晴となった。14時にはまた曇り空に戻ってしまうのだが、確かに「氷雨のち小春日和」という天気変化であった。

この日、道会でも過去に話題になったかもしれない鉄道路線の開通があった。
京極軽便線、のちの国鉄胆振線の倶知安−京極間の開通である。

19191115京極の風景.jpg
▲当時の京極市街(1919年:大正9年11月15日付北海タイムスより)

東倶知安は分家のようだね 道会議員 阿部猪五郎氏談

東倶知安。矢張 私は倶知安の分家のやうな気がして 此鉄道開通は自分の分家に宝でも授かったやうに喜ばしい事であります

里程 僅四里に過ぎないが 此の寒国では雪中徒歩旅行も出来ず 自然 往復が疎かになる
其結果 分家のやうに親しい村も 遂に疎遠になって 村の事情や有志家の活動振りも知る事が出来かねる為 一切 万事が他人行事となる訳である

既往は夢の如しさ、熊の棲む大森林の中に小屋掛けして入った当時を思へば 地獄から極楽へ移転したやうなものさ
能く聞く話だが 倶知安の開け始めに 山田邦吉氏が豆腐一丁 買に行くに半日を費したと云ふが 夫は事実です

私は実際を目撃せぬが 併し 私もあんな実験は幾何(いくら)もある
夫は新開植民の普通事であって怪しむに足らぬ

東倶知安の人々も 此経験はある筈
其 回顧が感無量である

どうです、私は今でも時々思ひ出すが 往々五百圓の村費を決めるに 惣代人が四 五人も寄って 一週間もかかった事がある
然るに倶知安の現在の予算は七万圓異常ではありせんか、二十年の歳月 世は此の如く進歩と遷って来た

一旦疎かになりかけた東倶知安も鉄道と云ふ仲介者が出来て 再び元の兄弟の如く関係を結ぶ事が出来るのは喜ばしい訳ではないか
(1919年:大正8年11月15日付 北海タイムスより)


阿部猪五郎は後志選出の道議会議員だが、大正5年8月から大正9年8月までの一期のみ努めている。
倶知安村史には農村での成功者として真っ先に名前を挙げられており、地元の学校建設に財産・土地を寄附したり、仲間と一緒にいろいろ陳情に行ったりと活躍をしていた。

京極軽便線は、京極の脇方にあった褐鉄鉱山「倶知安鉱山」からの鉱石輸送を目的に建設された鉄路である。
この日の開通区間は倶知安と京極の間、わずか13.4kmなのだが、地元の住民にとっては新しい公共交通の誕生。阿部氏も非常に喜ばしいことと語っている。

ところで記事に出て来る「東倶知安」は現在の京極町。1910年(明治43年)に倶知安町から分村した際は、この名称であった。
旧丸亀藩主京極家の子爵・京極高徳が開いた農場を中心に開け、線路の駅も京極農場の敷地に設置されたことで、東倶知安駅ではなく「京極駅」となった。そして、のちには村の名前も東倶知安から「京極」へと改められることとなる。

では、京極農場の管理人の談話も掲載されているのでみてみよう。

本日開通祝賀を催す東倶知安の今昔 京極農場管理人 橋本作治氏談

私は明治三十年の三月二十五日 始て京極農場の管理人となって 数戸の小作人と共に 本村に来ました
当時 本村の多くは無人の境で 道路はなし 商店はなし 熊は至る處に横行するのだから 其 不便 危険 実に名状すべからざるものがあった

鉄道速成の運動は明治四十年頃より有志間に唱へられて居ったが 何分 倶知安村の一字で独立した一村でないから 倶知安の有志家が動ない限り ドーする事も出来なかった

明治四十三年 分村してから始めて 江川君等と協議し 倶知安有志の後援を得て運動を始めたが 何分 本村は当時政党関係を有するものがないため 其運動も努力した割合に反影は少なかった様である

然るに時運と云ふものは面白いもので 鉄山と云ふ宝があったばかりに 偶発的に鉄道が出来て 本村を開発すると云のは面白い運命であると思ふ

元来 此 鉄山は 発見当時は所有者以外に之を重要視するものはなかった
夫がどうです 鉄山でなければ値はないやうに 今では此付近に幾十の鉱区が請願されている
之も欧州戦乱のもたらした副産物とでも云へば云ひ得るのである

京極家では停車場前の市街は出来得るだけ便利よく理想的に造たい希望を以て居るから 充分に整地して貸付する考へである
村の為にも亦 地主としても自己の利益を擁護する点から見てもである

兎に角 今から二十年前を顧みれば 隔世の感を禁じ得ない
鉄道開通に就いては喜びに堪へぬ 満腔の祝意を表します
(1919年:大正8年11月15日付北海タイムスより)


この後、路線の延長により、最終的には伊達と倶知安を結ぶ胆振線となり、1944年の昭和新山形成、1977年の有珠山の噴火と、2度の大災害を乗り越えるが、1986年11月1日に全線廃止。バス路線へ転換となる。
徒歩や馬から鉄道へ、そして鉄道から道路整備と共に自家用車へ、沿線の人々の移動手段は変わっていったのであった。
posted by 0engosaku0 at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする