
紙面に「昨朝」とあるので、この風景は11月20日午前7時の札幌を写したもの。
札幌はこの日、”積雪初日”となった。場所は大通西9丁目である。
北8条西9丁目にあった札幌測候所も、きっと似たような景色だったのは間違いないところ。
この頃の気象観測では、積雪は1日1回、午前10時に計測することとなっていた。
この日の観測値として記録された札幌の積雪は「0.1センチ」である。
写真では数センチの雪が積もっているように見える。
日降水量は19日は0.5ミリ、20日は2.4ミリ。これが全部雪となって積もっていたとしたら3〜4センチにはなるだろうか。
札幌では19日は夕方まで雨が降っていたが、夜20時過ぎからは雪が降り出し、朝にかけて降ったりやんだりを繰り返した。
札幌の気温は、7時は−0.6℃。しかし、8時には1.6℃、9時には2.0℃まで上がった。8時から9時にかけての日照時間は1時間。日が差した。
つまり、写真を撮った時は雪が積もっていたが、10時の観測の前に大部分がとけたようだ。
この日の最高気温は3.0℃どまりだが、翌21日は曇りがちの空模様ではあったが、8.0℃まで上がった。
21日の札幌も写真がある。

▲北海タイムス1919年(大正8年)11月22日付紙面より
説明に、淡雪はたちまち消えて小春日和だったと書いてある。
この日、空は穏やかだったようだが、札幌駅前は騒然としていた。
札幌駅頭に押寄せた馬車追五百餘名
一昨日 札幌駅構内に出入りの馬車追五百餘名が物々しく結束して起ち 停車場前なる札幌運送組合事務所に殺到し 事と次第に依っては更に 其 勢ひを以て 札幌商業会議所に押寄せる決心だと鼻息荒く 運送組合長 南部多三郎氏に詰寄た
不意の襲撃に南部氏も少なからず面喰って鎮撫に大汗の態であったが 事の起りは 例の目下商業会議所と運送組合との間に協議を重ねつつある問題の 貨物取扱ひ手数料 及び 配達賃率更正に関する件に就てであった
運送組合に於ては 予て此事あらんと憂慮し 事を未然に防がんと 強硬の態度を以て商業会議所に協議中であるが 却々(なかなか)に折合が着かず 今に難問題となって居る始末であるが 今回の前記更正の件は 荷主側を代表した商業会議所から運送組合に提出されたもので 其れに依ると 従来 札幌運送組合で定めた賃金を恰度(ちょうど)半減される事になる
例せば 現在市内の配達賃金に定められて居る 米雑穀類一個に付 自六銭至九銭とあるを 商業会議所では自三銭至四銭にされたいとあり 又 発送貨物手数料最低一口金二十銭の現在を一口金十銭に改めて貰たいと云ふ
他は総て是に準じて居るので 万一 商業会議所の要求通りに改定せんか 直接是が影響は馬車追達の賃金に及(および) 現在一箇月百五十圓内外の収入が半減される訳である
是では物価騰貴の今日 到底糊口も凌ぐ事は出来ない
唯一の資本なる馬の食糧費にさへ足らぬと云ので 扨(さて)こそ結束して 一揆も起さん許りの決心となったが 其 矢面に立った南部会長は之を宥(なだ)め 運送組合の意の有る處を充分に述べて諒解せしめ 一先づ引取らせ 無事なるを得たが 今後 尚 商業会議所との協議の結果如何に依っては如何なる大事が持上がるやもはかり難い
因みに運送組合には目下組合の直営馬車となって居る十四台に対しては何にもなる
他は悉く独立営業者なる為 如何とも方法なく 商業会議所と馬車追との板挟みとなって大に弱って居る
尚 此問題は表面は商業会議所と運送組合との折衝なるも 実際は荷主対馬車追の問題で 而も軽々に附すべからざる重大問題である
(1919年:大正8年11月23日付 北海タイムスより)
さて、「馬車追」という職業。令和の今では少々説明が必要だ。
簡単に訳すと「運送業」となる。夏は荷ぐるま、冬はソリを馬に曳かせて、荷物を運ぶ業者をさす。
馬車追いといっても、大きく二種類あり、馬車屋といった運送店に勤め、馬を追い、荷物の積み降ろしに従事していた者と、馬と馬車を所有して個人で問屋などと契約、荷物を運搬する者とがあった。
この頃から暖房の燃料がマキから石炭へと変わってきたため、米穀雑貨だけではなく、石炭輸送も加わって「馬車追」の需要は高まるばかり。
一方で”賃金半減”となれば労働者たちが怒るのも当然といえば当然。
当時の馬車追の暮らしぶりについて、数日後の紙面から追ってみよう。
馬車追の実生活 彼等の収入は思った程でない
一日に少くも五圓多きは七 八圓も稼ぐと云ふ馬車追を局外から眺ると 如何にも上々の好景気で 洋服細民など遙(はるか)に尻目にかけられて居るの観あるが 併し 実際に彼等の実生活は左程に裕福でもない 寧ろ 十中八九は悲惨なる生活の圧迫を受て居る
札幌区には目下 九百近くの馬車追営業者が居るが 其内 地方に出稼ぎに出て居る者もあり 区内現住者は七百内外であると云ふ
その大部分は札幌運送組合の手を経て 札幌駅構内に出入し居る
十一月現在では同運送組合から同駅門鑑證を交付したのが六百六十一台あるが 其内には 門鑑証を還付して 他へ去った者もあるので 実際は五百五十 六十台となって居る
即ち 大部分は停車場出入の者で運送組合が中心になり之を監督して居るので 札幌の馬車追を左右する実権は運送組合にあり 馬車追連には何等の組合も組織されて居ない
彼等の業は主として札幌駅集散の貨物を運搬するに在るので 目下毎日五圓平均には稼げる
即ち 一箇月百五十圓は少なくも稼ぐ、少しく勉強する者は百八十圓 乃至 二百圓も稼ぐと云ふ
之が戦前の大正二 三年頃の三十圓内外の稼高に比すれば五倍乃至六 七倍に達して居るが 其割合に彼等は生活に余裕を見ないと云ふのは 一に物価騰貴の為である
戦前 彼等が三十圓内外稼いだ当時よりも 今日の百二十圓を喜ばない
戦前には僅か一箇月三十圓でも馬糧などには殆どかからなかった
然るに今日では馬糧にのみ如何に節約しても五十圓は要り 普通六 七十圓は馬の食糧に取られる
次は飯と共に彼等に欠くべからざる酒の騰貴には最も打撃を受け 其他一般 之に準じた騰貴率であるから 何時も生活の圧迫を受けて居ると云ふ
其結果は無理に稼がんとし 既定の積載量(三百貫 米二十俵を標準)を増して 米の三十俵を積み 頻々として警察に挙げられて居る以上の状態で札幌の馬車追連には現在の稼ぎ高に満足して居る者は一人もなく 労銀の高い地方へ出稼に行く者が非常に多い為 常に札幌区の運送組合では馬車の不足を告げて居る
(1919年:大正8年11月26日付 北海タイムスより)
稼ぎは増えたが、諸経費も同様に増大し、結局「働けど働けど生活楽にならず」という現実だったようだ。
150円の収入が約半分の70〜80円にまで下がると、馬の食べ物で稼ぎが払底し、人の食べ物のお金が無くなる。
”労銀”に関わる実権を持っているのは”組合”だから、みんなで物申しに行こう!となったのであった。
このころは、馬車追に限らず賃金に関する要求はいろいろな業者から上がっている。
27日の紙面には東京で鉄道員が増給の嘆願を行ったことが掲載されているし、札幌の薪炭商も公設市場で安い薪を売っているため、物価騰貴の折に値上げができずに困っているという記事もみえる。
小樽の銭湯は春に値上げをしたのだが、再びの値上げを計画中とされた。
この頃、本当に景気がよかったのは日本郵船小樽支店。
12月2日に発表された年末賞与(ボーナス)は、支店長は55か月分、平社員でも24か月分であった・・・。