2023年11月25日

北海道歴天日誌 その168(1919年12月25日)大正クリスマス模様・札幌と函館

1919年:大正8年12月25日。
日付でわかるとおり、この日はクリスマス。

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▲12月25日6時の天気図

佐渡沖と関東沖に低気圧があり、北海道には気圧の谷がのびている。
いわゆる「二つ玉低気圧」の様相を呈しているが、事実、この低気圧は午後にはそれぞれ秋田沖・三陸沖へと北上、26日にはオホーツク海南部でひとつにまとまり、北海道に暴風雪を見舞う事となる。

札幌は6時の天気は雪。10時の積雪は27.6pと記録されている。ホワイトクリスマスである。
午前中は風もなくしんしんと雪が降り続いたが、13時にはみぞれに変わり、13時15分には雨に変わって、北寄りの風がどんどん強まった。
したがって午後は、嵐のクリスマスへと変わっている。

嵐のなか、札幌市内の協会ではクリスマスの催しが行われた。
当時の新聞記事から追体験してみよう。

一昨夜の札幌各教会聖誕祭

末日聖徒協会 呼物の英語劇

一昨夜の末日聖徒耶蘇教会聖誕祭は午後六時半から執行されたが 折柄の吹雪をものともせぬ 元気の子供達が 晴れの舞台姿を見せんものと 家族中を伴ひ 小さな案内者としてドシドシ押しかけるので 定刻前 既に会堂はギッシリ寿司詰めの盛況であった

先づボデリー氏の開会の挨拶 讃美歌 祈祷 オルビン氏の談話があって
いよいよ子供の舞台となり 花の組の「クリスマスストッキング」 星の組の「空の星と下界の子供」 少年組の「小建築士」など 何れも其の明瞭な語句と場慣れした動作に一同を感服させたが 当夜の呼び物たる 愛の組の「朝の喜び」は意匠を凝(こら)した其装ひが 如何にも高尚優美で 三人の星から燦然たる電光を放ったなどは 全く一同をアット言はせた

又 評判の英語劇 頗る上出来 些(いささ)かの躓きもなく 中でも黒奴(くろんぼ)の滑稽な動作が子供達をヤンヤと言はせた
(丁記者)
(1919年:大正8年12月27日付 北海タイムス)


12月25日の午後6時は、北風が強く荒れた天気。正確には雪から雨に変わってはいたが「折からの吹雪」と表現したくなるような冬の嵐の中、札幌のクリスマスは行われた。
にぎにぎしい様子だが、クリスマスのプレゼントに関しては記述はない。

末日聖徒耶蘇教というのは、現在の末日聖徒イエスキリスト教会であるとすると、いわゆる”モルモン教”が大正の札幌にすでに根付いていたことを意味し、これはこれで驚きである。

なお、記事には続きがあり、聖公会(イングランド系)のクリスマスについても触れている。
「是と云ふ装飾も無かった」とあるが、賛美歌を歌い、オペラや劇の出し物もあり、催し自体は似たようなもの。

こちらは写真がある。

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▲12月27日付北海タイムス紙面より

和服の子供とヒゲをつけて洋装のサンタ。この写真は大正のクリスマスの様子をよく現わしていると思われる。

なお、この日は函館の教会でもクリスマスが行われている。

プレゼントに喜び狂ふ少年少女の群れ

平和第一年の函館区における聖誕祭は二十五日午後六時より各教会に於いて挙行された
天に栄光地は愛の溢るる聖夜の各教会は 神の灯 輝き亘って いとも神々しき中に 函館聖公会は函館公会堂を会場とし 正面には黒地を背景に金銀の星を明滅させて、右手に植えた降誕樹に淡雪をあしらったのが如何にも感じが好かった

司会者の挨拶に次いで 第一部を終はり 第二部に入って 余興の数々は軈て天真爛漫な少年少女に依って運ばれた

中にも滑稽劇「最大の強者?」は四人の少年が筋肉労働者と金力万能主義者、富豪者、基督者の四つに分れての問答は 頗る意味の深いものであった

三十余番の余興後 日曜学校長の挨拶に依って 贈物(プレゼント)は喜悦に余念なき少年少女の手に堅く握らせられた

聖画を背景に ベツレヘムの星を尋ねて 三人の博士が旅行く所を現した日本基督教函館教会は 同じく午後六時から催ふされた
周囲を色彩る常磐木の緑葉にもフレッシュな感が味はひ得て 心地好かった

余興はお話やら聖句暗誦、対話、英語対話等 日曜学校教師の苦心の跡は歴然に見受られた

平和の象徴たる鐘に 柊を型どった装飾で 正面に円形を描き 其処に金、銀の糸をあしらった装飾は 淡泊り(あっさり)として 却て気持好くして呉れた

此処は日曜学校の生徒が最も多い丈に 愛らしい少年少女の歌劇や印度語もなかなか巧なものであった

軈て サンタクロースの叔父さんが現れて 皆さんへの贈物を済まして 可愛少年に依って閉会を宣せられた

次に 曙町の組合教会は質素な装飾ではあったが 天真な少年少女の喜びに満ちた微笑が思はず親たちを微笑ませずには置かなかった

斯うして 各教会が閉会したのは午後九時過ぎの事で、少年少女が喜々として家路に急いだ時は、小鳥の羽のやうな淡い六つの花がフワフワと夢のやうに降りしきって居た
(銀星子)
(1919年:大正8年12月28日付北海タイムス)


記事の「平和第一年」というのは、第一次世界大戦終結後の最初のクリスマスという意味。

函館での聖公会、日本基督教、曙町の教会と、三者のクリスマスの様子をそれぞれ描いているが、どこも楽しい催しであったことが伺える。
そしてプレゼントも配られている。この時代のプレゼントの中身は何だろう。

函館の午後6時の気温は4.0℃、午後9時は2.1℃とプラスではあるが、風速は午後7時には13.7m/sを記録しており、なかなかの荒れ模様。

なお、開会時には降っていなかった雪は、午後9時50分から11時20分にかけて観測されているが、低気圧の風に乗っているので、記事にあるような「フワフワと夢のように」という降り方ではなかっただろうが、聖夜の清い雰囲気を経験した記者の目には、そのように映ったのかもしれない・・・。
posted by 0engosaku0 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月03日

北海道歴天日誌 その167(1919年12月10日)どっちが暴威?暴風雪と鉄拳

今回は1919年(大正8年)の師走の北海道。

最初の一週間は割合穏やかに過ぎたのだが、12月9日には発達した低気圧が北海道を通過し、強い冬型の気圧配置に変わったため、全道的に大荒れの天気となった。

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▲1919年(大正8年)12月9日正午の天気図

札幌区内の大吹雪

昨日午前十時頃より降出せる雪は 西北方の風を伴ひ 正午頃に至りて猛烈なる吹雪と化せり
是 今冬に於ける 第一回の吹雪来襲なるが 札幌市内の如きは濛々として辻々に吹雪の巴 渦巻き 殆ど 咫尺も辨せざる有様にて

午後 益々風力加り 一時頃よりは電車も遂に立往生するに至れり
(1919年:大正8年12月10日付北海タイムスより)


札幌では9日午後から11日未明にかけて、風速10メートルから15メートルの暴風雪となった。
9日は1時間降水量10.2ミリを記録し、12月としては3位の記録として収まっているが、実際のところ降ってきた雪だけではなく吹き飛ばされてきた雪も入った数字であろう。

札幌では特段の被害は出なかったが、音威子府や野付牛、夕張などでは列車が吹きだまりなどで立ち往生するなどして鉄道不通の状態となり、小樽では祝津で漁船が遭難した。網走では高波(または高潮)により、浸水被害が出ている。

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▲網走の高波被害を伝える記事(1919年:大正8年12月16日付北海タイムス)

さらに岩見沢では死者が出ている。

大吹雪で老母凍死

岩見沢町字南部下利根別(札幌通沿)千百四番地 農 谷口仁太郎妻スズ(五九)は 九日午前十一時頃 三百間許り隔てたる隣家 森島某方の法事に行きたるに

午後より大吹雪となり 交通殆ど杜絶の状態となりたれば 他の来客は何れも森島方に宿り込み スズにも宿(とま)って行けと勧めたるに 亭主が心配するからと云って 午後三時頃 強て同家を立ち出でたりしが

折柄 風雪益々猛威を遑しふして 咫尺を辨せず 辛ふじて自宅の入口より 僅十間ばかりの所まで辿り付きしも 老母のこととて精力全く尽き果てて 道端に積み重ねありたる燕麦稈の傍らに打倒れ そのまま窒息凍死せり

亭主の仁太郎は斯かる変事のあらうとは夢にも知らず 吹雪いたから森島で遊んで居るものとのみ 心得居たれども 三日目の十一日になるも尚 帰宅せざるにより 何となく気がかりとなり 森島方へ聞きに行きたるところ 九日の午後三時頃帰途に就きたりとの故 俄に大騒ぎとなり 近所の人達と共に心当りを取調べ中 前記 麦稈の傍に凍死し居れるを発見せるものなりと
(1919年:大正8年12月13日付北海タイムスより)


このほか、三笠でも岡山小学校に通う子供を迎えに行こうとした母親が凍死する惨事も発生している。
また、根室港の沖合でも貨客船が座礁・転覆し、4名が死亡しており、この荒天による人的被害は甚大であった。

さて、全道的に風が強く、荒天が続いていた10日。旭川では別の嵐が巻き起こっていた。

旭中校鉄拳の雨 四 五年生一同は休学状態

十日 庁立旭川中学校に生徒の殴打事件あり
夫が原因にて 十一日は三年生以下は一時間の授業を受けしも 四、五年生は殆ど休学の状態となり 五年生は事件の解決迄動かず 一室に閉じ籠り居る等 事態穏かならず

事件の内情を探知するに 十日午後二時半 授業開始の振鈴あるも 四 五年生は整列し居らざるを山田書記が発見
其の様子の只ならざるを見て 櫻井教頭に告げしより騒ぎ出し 職員室へ出頭を命ぜじも応ぜず 五年生は教室の戸を締切りて出でず 四年生 亦 自己教室に立籠り居りしが

暫時にして四年生の一人 五年教室より突出されたるが 同人の左の頬には擦過傷あり 前額部に血汐滴り(後に鼻血と判る)眼鏡は破壊され 凄惨の姿なるを四年生が発見激昂し 両学年 今にも大挙衝突の形勢なるより 職員一同にて制止せるも

五年側は制裁を加ふるべき者 尚 十四 五人あり 出せと迫り 四年側はこのままでには捨て置けずとて 解決を職員に迫りしが 職員一同の制止にて 五年生は柔道場に引き揚げ 四年側は職員の調停にて一先づ学校を引上げしは 午後三時半頃なりし

夫より当日 不快の為 朝礼後早引せる能校長に急報し 午後四時より職員会議を開き 結局鉄拳沙汰は十数年来の悪習なれば 徹底的解決の方法を講ずべく 父母保証人の出校を促せるに 四十五 六人 来会者あり

協議の末 委員を挙げて解決すべく 市来区長 入山知一 両氏を相談役に 学校側小泉教諭 同窓側田中亮 井上伝 外二 三氏を挙ぐる事に決せるが 此相談中 同夜八時頃に至り 柔道場から一旦引揚退散せる

五年生は保証人に面会を求めしを以て 個人として小泉 田中両氏会見せるに 此事情を訴へて 後 責任は学校に在りといきまき 尚 新旧職員の待遇不当を詰(なじ)り 又 五 六の条件を朗読し 実行を迫り退散せり

学校側は何れ 委員側の申出を参酌 処罰の方針を執るらしく 委員並びに保証人は十一日も午後二時過ぎ迄 宿直室にて最善の方法を取るべく協議中なるも未だ纏まらず 四年生側は速かに解決を迫り 五年側は教室に依然引籠もりて結果を待ち 父兄との面会を謝絶しつつあり

該事件に就き 能校長は 全責任は自分にありとて恐縮の体なるも 其の教諭の語る所によれば同校は十数年 上級生が下級生を制裁する悪習繰り返され 現 能校長の時代に至りても止まず 昨年二月の試験切迫せる際も 五年生が四年以下の者に対し 校風を保つ上より 無礼あれば断然たる処置を執るべしとて殴打し 又 本年六月運動会の時にも同様事件あり

今回の事情と言ひ 教育界の不祥事を出来し 申訳なき次第なり云々と

因みに被害生徒の治療日数は約一週間を要すべしと
(1919年:大正8年12月11日付北海タイムスより)


旭川中学校は現在の旭川東高だが、100年以上前にはこのような”暴力的校風”のある学校であった。
この事件は、5年生が4年生の1名をボコボコにしたところから始まっている。

上の記事にはないが、五年生の条件には試験の延期も含まれており、12月15日に予定されていた試験は要求を容れて20日にずらされているというから、生徒の荒々しさが伺えるというもの。

なお、上級生が下級生に”ヤキを入れる”という校風は、明治41年(1908年)に札幌一中から旭川中へ転校してきた5年生が「札中では校風を傷つける不良学生には鉄拳の制裁を加えている」と言いだしたことが始まりであるとされている。

当初は学校の裏や、白樺の森へ連れ出して忠告(お説教)し、それでも懲りない者に鉄拳を加えるというルールであった。

ところが、前年(大正7年)の5年生が、4年生を「生意気な行為」を理由に、お説教無しで教室に呼び込み殴打するという出来事があり、そこからエスカレートしてきたようである。

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▲生徒の処罰を伝える記事(1919年:大正8年12月16日付北海タイムスより)

15日、中学校側が処罰・処置を発表し、事態は一段落したかに見えたのだが、翌16日、この処分が手ぬるいとして4年生は一斉に退学届を提出、玄関前に整列して校歌を合唱、万歳を叫んで脱帽し「母校よさらば」と言って帰っていく事態となった。

学校側はこれを無視し、18日から二学期の試験を行うことに決め、また、父母会も退学を撤回して無条件復校を呼びかけることとして4年生代表へと伝えた。

旭中四年は謝罪 復校

久しきに亘れる旭川中学校紛憂事件は 十九日 四年生より校長に謝罪し 全く落着を告げたり

四年代表者は十八日 校長に会見し 謝罪の希望なりしも目的を果たさざりしが 十九日午前九時 大場理事官の全校生徒一同に対する訓告の後 四年代表者は校長室にて軽挙を謝せしより 能校長は 不心得を諭したる上 連袂退学届を返付せり

尚 第二学期試験は十八日より二十四日迄執行の筈なりしも 彼等復習の日数なかりしより 十九日より来月八日迄の冬季休業を兼 臨時休校と決せり

尚 十九日午後五時半 父兄公職者会合の席上 大場理事官の本道教育施設 並に 旭中 今回の紛憂事件等に関する講演ありたり
(1919年:大正8年12月20日付 北海タイムスより)


こちらの嵐は10日に始まり、約10日間吹き荒れたのであるが、負傷1名でひとまずおさまったのであった。
やはり自然のほうが怖い・・・のか。
posted by 0engosaku0 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする