2023年12月17日

北海道歴天日誌 その172(1920年1月28日)予防注射液の水増し疑惑!札幌の医師を取り調べ

1920年(大正9年)1月の、網走の積雪データをみていると、奇妙な点に気づく。

1月14日から20日にかけて10時の積雪がすべて「30.3センチ」なのである。
なお、23日と24日は「60.6センチ」になる。

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▲1920年(大正9年)1月16日〜25日の網走の積雪観測値

これは当時の暮らしで日常的な長さの計測単位が「尺」であったことからひもとける。
1尺は30.3センチ。計測する道具が「雪尺」とはよくいったもので、網走の測候所員は積雪を”尺”で計測し、センチメートルに換算して原簿に記入していたのである。

このため、23日の積雪は「2尺」であり、24日も1.9尺までは減っていないからそのまま2尺となったのに過ぎない。厳密にミリメートル単位までは積雪を計測していないことがこのデータから伺えるものである。

網走の積雪が一尺増えたのは低気圧が原因である。

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▲1920年1月22日正午の天気図(国立国会図書館デジタルコレクションより)

発達した低気圧が北海道の南岸を通過して、北寄りの風に乗ってオホーツク海側に雪雲が流れ込みやすい気圧配置である。
網走では21日夜から雪が降りっぱなしとなり、22日午前中は強く降り、また時折地吹雪にも見舞われた。

この影響で、この日網走に着く予定の最終列車は、陸別の小利別付近で4尺以上の吹きだまりに遭遇して立ち往生する始末。
列車は着かなかったものの、翌23日には網走の港に流氷が姿を見せ、24日には視界の海すべてが氷原に変わった。

また、1月27日付北海タイムスには、稚内でも1月25日の夕方から沖合に流氷がみえるようになったとの電報記事が掲載されており、この低気圧はオホーツク沿岸にとっては”流氷の運び屋”の働きをしたようである。

一方、この頃の暮らしの話題の中心はもっぱら「スペイン風邪再流行」である。
前年と違い、この年はウイルス対抗の新兵器「ワクチン接種」が北海道民に広がりを見せていたのであるが、大事件が発生する。

星野医師告発さる

札幌区南六条西三丁目一番地 医師 星野一郎(四二)は 詐欺 医師法施行規則違反として二十三日札幌警察署衛生係主任 新井警部補に告発せられ 二十八日 一件書類 区検事局へ送致せられたり

事件の内容は 本年一月四日より二十三日に至る 同区内山鼻町千二百九十三番地 牧畜業 林文次郎外 約一千七百余名に対し 東京市芝区三光町 北里伝染病研究所謹製に係るインフルエンザ菌予防注射液(ワクチン)を流行感冒の予防注射として注射したるが 同薬液に添付せる使用法に 年齢六十歳以下十五歳以上を除き 第一回には「〇.五」第二回には「一.〇」と注射の要項明記しあるにも拘らず 自宅家族一二名に対し、本月四日 僅かに「〇.一」ずつ注射を行い 試験なしたるに流感に感染せずと信じ 専門家として相当の研究を重ぬべき筈なるに何等学説上 且(かつ)実地上の経験をなさず 単に少量にても効果あるものと自信して 注射液の分量を減じ

前記年齢の注射希望者に対し 「〇.二」の注射液に食塩水を以て希薄となしたるものを効果あるものの如く予防液として多量の人に注射を行い 一回金三十銭ずつの料金を徴収せるは不正の利益を貪りたるものにて

尚且つ 注射を行ひたる人々の住所氏名年齢及び療法を処方箋に記載を怠りたりと云ふにあり

因みに現今 各地に於て流感予防注射を行ふに当り 用法分量を減じ 斯の如き行為の者には当局に於て仮借なくドシドシ処罰する方針なりと
(1920年:大正9年1月29日付 北海タイムスより)

予防注射液を文字通り「水増し」して接種し、儲けていた悪徳医者の告発である。

この北里謹製スペイン風邪用ワクチンは、1ビンにつき20〜40回接種可能な量のワクチンであるのだが、星野医院の星野院長は100回程度まで接種可能な量に薄めて注射していたのであった。

星野医師は札幌に開業して10年以上の長きにわたり医療行為を行い、患者からの信頼もあったといわれ、また、札幌は北海道の中でも最も技術の優秀な医師が集まっていると道民には思われていたことから、わざわざ札幌の病院にかかる患者も多かった。このため、札幌はおろか北海道医療界における大スキャンダルとなったのである。

ただ、このニュースにはこの後、2月3日付紙面に「まだ起訴はされていない」との記事があったのみで、一か月以上続報がなかった。

ほとぼりが醒めるのを待って「嫌疑不十分」としたのか、はたまた黒い理由があるのか、そこは定かではない・・。
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2023年12月16日

北海道歴天日誌 その171(1920年1月21日)札幌一中伝統の”雪戦会”が中止

1920年の1月は暖かい日が多かった。
札幌では真冬日が一か月に7日しかなく、最高気温の平均は1.5℃と、前の10年、後ろの10年にもここまで暖かい年はない。

特に、寒の入りの1月6日からは13日間連続でプラスの気温。1月20日からもまた9日連続プラスの気温である。
このため、札幌は真冬にも関わらず、積雪があまり増えていかない。
1月5日に34.5cmだったのが、9日には20.5cmに減り、12日で21cmに過ぎない。
13日には47.5cmまで増えたが、その後は30センチ台と40センチ台を行ったり来たりのまま、1月20日を迎えた。

現代なら、札幌の雪が少ないと”雪まつりが・・・”という話になりがちだが、戦前の札幌ではこんな話に。

雪戦会は中止乎

日程が切迫して来たのに色々な事情で或は中止するとも伝へられた札幌第一中学校雪戦会に就て 昨日同校に山田校長を訪へば 氏は曰く

「目下の處 餘り雪が少過る 今でも毎日雪を踏み堅めて居るが 今の雪は踏めば五寸位になって了ふ 少なく共 一尺位は無ければいけない
一体ならば此の二十五日頃挙行する予定であったが 北大の駅伝競走と衝突するから来月一日に延ばしたのである
此の雪の模様では駄目だから 此の二十五日頃まで待って見て 餘り雪が少量なら 来月八日の第二日曜に延ばさねばならぬと思ふ

夫から 未(いま)一つ困った事には流感に罹る生徒が段々増加する事で 十五日から統計を取って居るが 十五日四十七名、十六日五十六名、十七日七十九名、十九日百十五名、二十日百二十名となって居て、十八日の日曜一日休んだ間に患者数がグッと殖たから 此の比例で漸次増加して行く様ならば 態(わざ)と流感の渦中へ飛込む様な企ても出来ないから 或は此の雪戦会は中止にせねばならなくなるかも知れない」云々

又 体操教師の小原氏は
「なアに、流行感冒などに恐れて居たら何も出来やしない」と力んで居たから 中止にはなるまいと想像される
(1920年:大正9年1月21日北海タイムスより)

雪が少ないだけではなく、学内でのスペイン風邪の流行も、札幌一中名物「雪戦会」の開催に影を落としていたのであった。

ところで記事中に「北大の駅伝競走」とあるが、これは説明が必要である。
これは、北大スキー部が主催する小樽⇒札幌間のスキー駅伝競走の大会で、この年が記念すべき第一回の大会であった。

参加したのは小樽中、小樽商業、小樽水産、北海商業(現・北照高)、札幌一中、札幌二中、札幌師範、北海中の8校。
ただ、札幌師範は参加選手のスペイン風邪罹患により、棄権となっている。

スタート地点は当初”秘密”とされたが、小樽水産学校の裏手の山の頂上。
1月25日の8時半にスタートし、直後に札幌一中は一区・角田選手が木にスキーを当てて、スキーが折れてしまって棄権。
残る6校は全7区をリレーしていき、ゴールの北大構内に一番最初に飛び込んできたのは小樽商。2位は13分遅れて小樽中、3位は北海中という順番。小樽商は12時14分にゴールしたので、かかった時間は3時間44分というタイムでの優勝だった。

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▲第1回札樽間スキー駅伝の様子(1920年:大正9年1月26日付北海タイムスより)

さて、札幌の雪は1月下旬に入ってから増加に転じた。
1月20日に44.5cmだった積雪は、22日には66cmに増加、27日には81cmに増え、28日には84cmに達した。約一週間で、ほぼ倍の積雪である。

こうなると雪戦会としてもコンディションは整ったか・・と思われたのだが、

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▲1920年:大正9年1月29日付北海タイムスより

雪のコンディションは整ったのだが、生徒の体調のコンディションが整わなかったということである。

ところが、伝統の雪戦会とあって、生徒や関係者の中では中止反対の意見も多かったようで、1月30日には生徒が「温和派」と「過激派」の二派に分かれて不穏な状況となっていると伝えられた。

最終的には、山田校長が、中止は忍び難い事だが、死を要求するスペイン風邪の魔の手には如何ともしがたいことや、来年には再開することを生徒に約束したことで、生徒も中止を受け入れ、学内は平穏を取り戻したのであった。

札幌のスペイン風邪の死者は、元日から1月27日の間で209名。この間に亡くなった方の実に6割にのぼった。
特に10歳未満の子供と20代の若者で119名を占め、血気盛んな青年こそ、病気に注意するべきと伝えられた。

そんな中、大きな事件が発生する。続きは次回・・・。

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2023年12月13日

北海道歴天日誌 その170(1920年1月7日)スペイン風邪再流行!予防液に安全呼吸器、そして・・・

1920年:大正9年の寒の入りは1月6日。
この日の朝は、帯広で−21.5℃、釧路で−19.1℃、旭川で−17.3℃など、道北・道東では厳しい冷え込みとなったのだが、最高気温は札幌で3.5℃、函館で4.4℃と道央・道南ではプラスとなった。

そして翌1月7日はさらに気温が上がる。

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▲正午の天気図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

日本海に低気圧を含む深い気圧の谷が進んできた。
北海道は気圧の谷の前面で、南から暖かい空気が流れ込んで来る。

最高気温は函館では8.2℃まで上がったほか、札幌で6.3℃、寿都で6.5℃といった感じで、道央・道南方面はさらに気温が上昇した。

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▲札幌での異例の暖かさを伝える記事(1920年:大正9年1月9日付北海タイムスより)

札幌の積雪は7日10時には32.5センチあったが、翌8日10時には23センチにまで減る。
この当時は、寒中の気温や天気の状況で一年の気候を占う「寒だめし」のようなことも割と一般的だったのか、記事には「寒中に気温が高いと・・・」との記載がみえる。

ところでこの頃の北海道、特に札幌で上昇していた数字は気温のほかにもある。
スペイン風邪による死者である。

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▲スペイン風邪の流行を伝える記事(1920年:大正9年1月9日付北海タイムスより)

記事は、札幌でのスペイン風邪の再流行は12月20日頃からで、12月22日〜23日頃に丸井で歳末大売り出しをした際に、店員が客から伝染したのが始まりだったと伝えている。

死者の数はその12月20日から1月5日にかけての約半年で50人にのぼった。

○感冒の客は劇場に入れるな

札幌警察署衛生主任 荒井警部補は 昨日区内各劇場並びに活動写真営業主任者を本署に呼出して 現今 内地各府県に於て流行しつつある流行性感冒に就て 当区にも襲来し 倍々猖獗(しょうけつ)の傾向あるを以て 此際多人数集合する場合は 一層注意を要べきを以て 罹患者らしき者には気の毒ながら入場を拒絶して 他に塁を及ぼさぬやうになすべく内達されたり

又 宿屋 営業者 其他にも相応の警戒を與へ 安全呼吸器使用等に就き考究中の由なし
(1920年:大正9年1月11日付 北海タイムスより)


初めての流行ではない。再流行である。しかもまた恐るべき死亡率である。
伝染させないため、人混みから感染者を締め出す。
腐ったミカンをいち早く見つけて追い出す作戦を取る方針となった。

札幌市内の中学校でも、咳のある生徒や少しの熱がある生徒など、風邪の兆候がある者は休校するように勧められていた。

さらに、前回はなかった新しい”スペイン風邪防衛策”が登場している。

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▲1920年:大正9年1月11日付北海タイムスより

予防注射である。記事では「内務省はスペイン風邪ワクチンを北里研究所に注文、15万人の軍人に予防注射を行うこととした」とある。
札幌でも、警察が予防注射をすすめるようになっていた。

流行感冒倍々猖獗

札幌における流行感冒は日毎に患者激増の傾向あり 札幌署の如き 予防の一策として区民に対し 安全呼吸器の使用と流行性感冒予防液の注射施行を勧誘しつつあるはしばしば報道せる處なるが

左に掲げるは同署に於て区内及び郡部病院並びに開業医師に就て緻密に調査せる統計にして今回の流行の初期は 旧臘十一月下旬より始まり 十二月中の罹患者七百七名死亡十六名ありたり

而して本年に入り一月一日より十日に至る十日間の患者一千九十九人(医師の治療を受けたる者)死亡者三十三名にして

十二月中は一日発生二十三人六分なりしに 一月に入り一日平均百十人に 激増を示し 約五倍なり

又 死亡は十二月中 患者四十四人強に対し一人の割なりしも 一月に入り三十三人の患者に一日の死亡者を見るに至り 約四分五厘の増加にて死亡は十二月中 一人半位なりしを一月に入り三人三分といふ数字を示せり

札幌区役所扱ひの死亡者は一日平均五 六名なるに昨今は八 九名なり 又 郡部は百六十六人あり内 死亡九名あり
同署管轄内に一千二百六十五名の内 四十二名の死亡者ありたる訳にて 流行の状況は頗る三発性にして肺炎を併発して斃れる者多く、病勢尚蔓延の兆候あるを以て 各自警戒を要すべく安全呼吸器使用食塩水のうがい等を励行しつつあり
(1920年:大正9年1月14日付 北海タイムス)

16日付の紙面では、函館でもスペイン風邪の予防注射液を北里研究所に3000人ぶん注文したとの記事が載り、都市では行政がワクチン接種を進める取り組みが進められていた。

さて、さきほどの記事も、今回の記事も「安全呼吸器」というものがでてきた。
これは一体何かと言えば、その正体はマスクである。

簡易なマスク

道庁衛生課は流行性感冒予防の一策として 安全呼吸器使用を奨励し居るも薬店より購入するに相応対価を要するを以て 僅 二 三銭にて出来得る 左の簡易な安全呼吸器(マスク)を造り 奨励しつつあり

白晒木綿一尺二寸位、幅五寸とす 左右の中央を三寸づつ鋏を入れ 左右より中央に折り畳み 左右に残れるものを紐として結び合せ 両耳に掛けるやう作り上げ 中央の口の当たる處へ普通の清潔な綿を少し入れて用ふる事
(1920年:大正9年1月15日付北海タイムスより)


この作り方の解説を読むと、まだ北海道ではマスクは一般的ではなく、店で見たこともなければ、聞いたこともない、といった人も多かったと考えられる。

ワクチンやマスク・・・近代的な感染症予防対策が登場する一方、前時代的なこんなことも行われている。

岩内で流感のおまじない 信ずる勿れ

最近岩内町内で誰言ふと無く感冒除けの呪(まじない)として
「素麺三把に葱三本 馬鈴薯三個を煮て 一家族にて少しの汁も残さず食ふ」時は決して感染せぬとの流言が一般に言い囃され 各家庭では盛んに実行されているので 更に其の話のいわれとも云を聞くに頗る根拠の無い途説なるに至っては滑稽に堪へ無い事である。

一般に伝えられるる話は斯うだ
或夜 鷹台町の 山八 若狭商店に老翁一人入り来て 味噌濾し 笊(ざる)を出し 是に酒を盛って呉れとの事に 店員は不思議な事云ふとは思ひつつ 言ふなりに酒を盛って遣ったのに 酒は少しも洩らずして 其翁が立去るに際し
「此頃は感冒が流行するに就き 其の予防の呪として 素麺一把に葱三本 馬鈴薯三個を刃物を使はずに手にて千切って煮て 一家族 皆にて残らず喰ふ時は決して感染せぬ」
と言ひ立ち去りしより

店員は不思議な翁と思ひて後を追ふて 鷹台交番の處まで行きしに 翁は其処にて突然姿を消した。と云ふのである。

そこで記者は若狭商店主に就き聞くに
「飛んでも無い噂を立てられて 私等も吃驚している處です、ソンナ馬鹿気た事の形跡も無かったのです、道で行き会う人毎に聞かれるので困っています」と迷惑がっていた。
(1920年:大正9年1月18日付 北海タイムスより)

実に怪しい話であるが、じゃがいもとネギ入りのソーメンを食べればスペイン風邪にはかからぬという、ナゾの翁の言葉を信じた岩内町民は多かったのだろう。

どんな味だったのかも、ちょっと気になる・・・。
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2023年12月02日

北海道歴天日誌 その169(1920年1月1日)二人の少年

明治天皇の死や第一次世界大戦、米騒動にスペイン風邪・・・
暗い話題が多い1910年代が終わり、新しい10年が始まる。

1920年(大正9年)の元日がやってきた。

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▲6時の天気 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

元日の朝、北海道はちょうど気圧の谷の中にある。
函館も札幌も根室も雪の元日。ただ、午後は冬型の気圧配置への移行につれて網走や釧路など晴れ間が広がったところもあった。
最高気温は2℃くらい。帯広は−2.3℃と真冬日だったが、旭川は1.7℃でプラス。札幌も3.2℃まで上がった。

しかし・・・

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▲元日の天候が記載された記事(1920年:大正9年1月3日北海タイムスより)

こちらは1月3日付の紙面。「日本晴」の見出しがみえる。どの場所が日本晴れなのかというと、札幌のこと。
ちなみに”日本晴れ”は最近ではあまり言わなくなった言葉であるが、「一点の雲もなく晴れ渡った空」のことをいう。
気象的には雲量ゼロの快晴の天気でなければ”日本晴れ”とはいえない。

そこでもう少し札幌の1月1日の天気を詳しく調べると、7時は雲量が10だったが、8時と9時は雲量が2まで減り、札幌上空は青空が広がっていた。午前中雪がちらついたのは8時台だけ。午後は雪の降りやすい天気で、5センチくらいの降雪があったのだが、札幌市民にしてみれば”日本晴れ”と感じることもできるような穏やかな元旦(元日の朝)だったのであった。

さて、そんな1920年の元旦に配達されたであろう新聞をみると、ある二人の人物が紹介されている。
これからの未来を担う、有望な少年である。

二中の模範生

札幌第二中学校第五学年 足羽正伸(一八)は 札幌南一條西十二丁目在住 元陸軍中尉 現時 瀧川富士製紙会社員たる足羽鶴藤氏の長男にて 札幌中央創成小学校在学当時よりの秀才なるが 中学入学以来 学術の優秀 勿論、資性謹厚志操堅自律の精神に富み、校規と学生の本分とを厳守し 全校生徒の模範を示しつつありと
(1920年:大正9年1月1日 北海タイムスより)


一人目は札幌二中の足羽君。小学校から”できる子”として有名だったが、札幌二中でも模範生として育っているということである。
なお、足羽君はこのあと北大へ進んで医学を修め、海軍に入り、軍医となるのだが、戦前期には珍しいいわゆる社会人の大学院入学を果たし、北大で医学博士となって再び軍にもどっていった。

そして太平洋戦争を生き抜き、戦後は昭和23年に埼玉県草加で診療所を開業。日本中の医者が紹介されている昭和33年版の日本医籍録に名前が載っている。

もう一人。

東学校の孝子

水清き豊平川のほとり 東小学校高等科第一学年生に宮崎一昌(十五)と言ふがある

母は数年前四人の幼児を残して岩見澤方面の実家へと帰った
後いとけない幼弟は手にあまったので二人母方へ送り 一昌君兄弟二人は 父の許に残って 不自由勝な男の手一つに育てられて居たのであるが 父の外次郎は 区内苗穂町 鉄道官舎二十七号二戸に住ひ 鉄道工場に通勤する職工であるので 朝は早くから 夜は遅くまで一生懸命工場に働いて 居て とても子供の世話などには手の廻らう筈がない

さうした不如意な家庭に育つ一昌は 少しも捻くれた様な風もなく 至って従順で 父の命には何一つとして叛いた事がない

朝は早く起きて拭き掃除から炊事一切を引き受けて 区内の苗穂小学校の尋常四年に通ふ 弟一雄君(一二)のために何くれとなく手を尽くし 弁当の仕度までもして與へて それで自分は未だ一度も遅刻した事もなく 学校に通学して居る

こうしたせち辛い境遇に在りながら 学業にもよく励み 成績は常に優等で 同僚間から人望も頗る厚いのである

界隈では誰一人此孝子を誉めない者はない
(1920年:大正9年1月1日 北海タイムスより)


職人の子・宮崎君の話である。
家庭的な事情から、中学やその先には進学できなかったかもしれず、今の世では検索しても同一人物とみられる人物を探し出す事はできない。

さて、こうした前途ある少年を記事を掲載したことで、来るべき新年、さらには十年紀が明るいものになるという希望を重ね合わせたのか。
まあ、そこまで考えてはなさそうだが・・・。

戦後恐慌にはじまり、大正デモクラシーの盛り上がりがあった中、関東大震災と十勝岳の泥流災害を経験する中、時代は大正から昭和へと変わり、世界恐慌のはじまりに終わる1920年代の北海道。これまでと同じように、当時の出来事を気象記録から空気感を共有しながら、追体験していこうと思う。

つづく。
posted by 0engosaku0 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする