2024年01月20日

北海道歴天日誌 その176(1920年3月26日)燃える区立札幌病院

1920年:大正9年3月26日の札幌のお話。

19200326天気図.jpg
▲午前6時の天気図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

北海道付近の気圧配置はやや複雑で、東には高気圧があるが、大陸には低気圧、樺太方面も低圧部、関東方面も低圧部といった形。
北海道は東の高気圧の圏内ではあるが、道南方面は気圧の谷ともいえなくもない微妙な等圧線の描き方である。

札幌は未明に雪がちらついたが、朝は青空。昼頃からは曇り空に変わったが、夜は再び晴れ間が出るというやや変わりやすい天気。
積雪は前日の25日にゼロとなり、市内の景色から根雪は消えようとしていた。

この日の午前3時40分頃。札幌市街の一角で炎があがった。
現在の市立札幌病院、当時の区立札幌病院である。

19200327猛火の札幌病院.jpg
▲燃える区立札幌病院(1920年:大正9年3月27日付北海タイムス)

当時、区立札幌病院は北1条西8丁目、現在のSTVのあるあたりにあった。
病院は、10くらいの病室などの建物が細長い廊下でつながっている形状をしており、このうちのひとつ「第一号病室」の浴場が出火元。

天気図でみたとおり、風はほとんどなかったが、火の勢いはたちまち拡大、廊下を伝って第二号病室、第三号病室と燃え広がっていった。
この頃、道庁警察部の巡査教習所の夜警が出火に気づき、消防組の番屋へ火事を告げ、警鐘が乱打される。

たちまち260名余りの消防手が駆け付けて消火活動が始まったが、水利が悪い場所であり、植物園の水を使って消火作業が行われた。

燃えている中、病院に飛び込んだ記者のレポートが紙面に掲載されている。

看護婦 火中に飛び込んで大活躍

一号が焼落 二号から三号に延焼して 今 火が燃え盛る大火の真最中、危険を冒して病院内に飛込むと電気が消えて 三号以下の廊下は宛ら魔の洞窟の様に真暗、其処へ紅蓮の炎が反映して織り乱れる阿鼻叫喚の人々を彩り 弥が上にも凄惨の気を添た

看護婦連は何れも髪 振乱して狂い廻り 泣くもあり 叫ぶも有り 全く戦場と異らない一方に 火の手は刻々に熾烈を極めて濛々たる黒煙が廊下に吹くよと見る間に火龍が廊下に踊り出た

蜿蜒(えんえん)としてはしる其疾さ 物凄き 全くたとへんに物なく 男子さへ尻込みするのに 尚も患者を救助せんと 其 火煙中に飛込む勇敢な看護婦もゐたが 刻一刻と近寄る危険には敵し難く 一同 遂に院外に避けるの余儀なきに至ったが 此の際尚も火中に飛び入る一看護婦があったので 鉄道の大星君は是を見兼ねて抱き止めた

兎に角 看護婦の活躍は何人をも驚嘆せしめた。
(1920年:大正9年3月27日付 北海タイムスより)


区立札幌病院は1869年(明治2年)創立。最初は札幌元町に仮診療所があったが、ほどなく創生町に移転、1891年(明治24年)に北1条西8丁目に移転して、それからは100年余りこの場所にあった。

病院の建物は、継ぎ足し継ぎ足しで拡張していたため、防火壁もなく、火災には全く無防備であったという。

19200327札幌病院焼失図.jpg
▲3月28日付北海タイムスより

札幌の人口が増えるにつれ、北海道の人口が増えるにつれ、区立札幌病院も拡張していったのであろう。
一つの病棟は8つの部屋があり、30人以上の患者が入院できる作りであったが、この大病院の7割が焼失するという大火災となったのである。

命からがら逃げだした入院患者の話。

火元の隣にゐた

火元の湯殿の隣室に入院中であった宗谷郡宗谷村堀内組 藤原栄蔵氏は腰に足に大手術をした許りで身動きも自由にならぬ身であるが不思議に同氏は人出もかからず助かった

収容された八号室に訪へば力なき息遣いで語る「私の病室は二人室で佐藤さんと云ふ方と一緒でしたか 何しろ驚きましたよ、火元から二間と離れてゐないものですから ソラ火事だと云はれた時は もうどうする事も出来なかったのです。

夫でも佐藤さんにはお母さんと内儀(おかみ)さんが付いゐたから二人に担がれて行きましたが 私は全く困りました。
御覧の通の不自由の身体でありますし 付添の婆さん一人では何うにもならん。

是あない命だと諦めましたが 夫でも夢中で廊下へはい出しました、所が廊下には最う猛火が渦巻いて居るのです 一歩も出られません

仕方なく室へ帰ると婆さんも未だ居て 早く窓から逃げろ云ふものですから 窓へ手を掛ると同時に戸外へ転がり落た様な訳です。

夫から誰方やらの手に助けられて植物園に運ばれましたから 命だけは助かりましたが何一つ出しません。
現金も百六十圓焼ました 夫に絹の布団から衣類、金側懐中時計など入れますと どんなに安く見積もっても千円は越ます。

金鎖や何かは或は焼跡から出るかも知れませんからと 今 婆さんが探しに行ました」
(3月27日付 北海タイムスより)


藤原氏が入院していた1号室は、病院の北東の端にあたり、北二条通りに面する。
皮膚病や泌尿器科、眼科、外科の患者が収容され、この火災当時は男女35名の患者が入院していたという。

出火原因は、浴場の火の取り扱いで、毎日午前三時に浴場の番人が出勤し、風呂場に火を入れることとなっているのだが、この日は火を入れてしばらくするとバチバチと物音がして、外から煙突を確認すると、その時にはもう屋根が燃え上がっていたという。

当日の入院患者は285人。多くは自力で、また患者の関係者や消防手の助けによって避難したが、焼け跡から1号室の1室と6室から、それぞれ一人の焼死体が発見された。

一人は脊髄の病のため、岩内から来て治療を受けていた成田岩蔵さん(31)、もう一人は両眼に包帯をして入院中だった新得の武子モン子さん(21)。である。
翌27日の午後4時、この二人の葬儀は札幌病院が喪主となり、南六条の中央寺にて営まれた。

19200328春光を浴びて.jpg
▲春光を浴びて(3月28日付北海タイムスより)
posted by 0engosaku0 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月19日

北海道歴天日誌 その175(1920年3月19日)網にかかるものたち

さて、今回は夕張のとある小学校の「幽霊騒ぎ」の続きから。

不可思議極まる 登川校幽霊問答(下)

亡霊が夜な夜な現れて 宿直教員の驚かされた夕張町登川尋常高等小学校では二月二十八日の教員会議を開いた結果 其夜 三名の宿直教員は亡霊と問答を開始することとなった

夕張川の水は刻々として更行く冬の夜の調子を取って、冷たい風は咽ぶが如き声して 枯薄(すすき)の上をわたる真夜中となった頃、例の如く宿直室の戸を拳を以て叩くものがある

桑島訓導、佐藤代用教員、中村准訓導は胸を躍らせつつも息を凝らして耳を欹(そばだ)て 胆を据へて茲に問答に取りかかった

「汝 狐狸妖怪なるや、若(もし)亡霊ならば五ツ 戸を叩つべし」と問へば「五つ叩った」
然らば
「女ならば六ツ打べく、男なれば七ツ打つべし」と問へば、直ちに「七ツ」打ったので、更に進んで「其人数だけを叩てよ」と問へば「三ツ」打つ

怨みを呑むものかと問へば音なきに、重ねて「無縁仏のため供養を欲するものならば五十叩くべし」と問へば、相違なく五十叩いたので 流石の三教員も戦慄して心臓の鼓動が早鐘を鳴らすやう、呼吸は益々烈しく迫ってくる

斯くてはならじと、胆を据へて最後の問として「必ず名前を探して供養をせしむべきに付き、今夜は・・・」と云へば 一つだに・らず 一気呵成に百を打たので 流石に三教員も詮すべなく 其夜は満足に寝もやらずして、翌朝松本校長に前記問答の顛末を逐一報告したのである

松本校長も之が判断に苦しみ 夕張町三丁目 実相寺住職 柴田信龍師を訪問し 三月一日午後四時を期し 供養を頼む約束をして別れ 之を秘密に附して、二月二十九日の夜は 中村主席訓導を初めとして 十三名の男教員は宿直室不寝研究に着手した

然るに 其夜は戸を叩かなかったが 夜色陰々と更けて一時頃 凄愴(せいそう)の気は漂ふたと思ふと 佐藤代用教員は背中に水を浴びせらるる様な気持がすると謂ふて、其処にウタタ寝をすると 間もなく

「我等三人も明日の四時には成仏が出来るから今晩からは出ない」

と妄語を云ふたので、揺り起すと 佐藤教員は冷汗をビッショリ掻いて 何の夢も見なかったと語った

明日の四時を期して柴田重職に供養を頼んだことは松本校長は誰にも秘密にして居たのに此の奇異の現象を一同は目撃したのは全く理外の擬たる不思議な事実であった

三月一日午後四時 教員一同参列して 柴田重職によりて供養は行なはれ より十日餘り過ぎた今日まで幽霊は現れないが 歴史を辿れば 右学校敷地は往時 炭鉱鉄道の敷設の当時 殺伐の気 漲って 土工は三人惨殺されて死骸を捨てられた所であると古老の記憶におぼろげに存して居るのみで、市街地続きで狐狸の現れぬ場所なので、今尚 市街地の不思議話として それからそれへと喧伝されて 的確な判断を下すものはない

以上は松本校長の談話と記者の調査せし真相である(完)

(1920年:大正9年3月19日付 北海タイムス)

生きている人間が幽霊と意思を疎通させ、供養を依頼され、そして寝ている人間の口を借りて成仏することを告げるという、とんでもないオカルトな話である。とても信じがたいが、ひとりではなく、多くの人が同時に体験していることが話の信ぴょう性を増している。

これから100年以上の月日が流れたのであるが、今の世でも十分怖い、晩冬の怪談であった。

ところで、この話が掲載された3月19日は、日本付近は移動性高気圧に覆われたため、穏やかに晴れたことから朝の冷え込みは厳しかった。
札幌の最低気温は−10.7℃というから、春の彼岸に入っても厳しい寒さの中、朝の新聞を読んだ札幌区民は、この記事を見ていっそう震え上がったことだろう。

さて、この日、天気は穏やかだったが、余市は大変な賑わい。ニシンが来たのである。

19200320北海タイムス.jpg
▲初ニシンを告げる記事(1920年:大正9年3月20日付北海タイムスより)

大漁旗を掲げた漁船がどんどん港へ入り、浜で待つ「モッコ隊」は大忙し、ニシン箱は山のように積み上がる。魚体もいいときたもんだ。
スペイン風邪に不景気と暗いニュースが多かったこの頃としては、明るい話題。記事にも「春風」の文字がみえる。

さて、余市のニシンは漁網にかかったが、岩内でも網にかかっていたものが・・・

大入の岩内監房

岩内警察署未決監房は 岩内区裁判所公判に廻さるる各地よりの被告人を入れてある関係より 平素でも六 七人位の入監者はあるのだが 最近は二十六人と云ふ大多数で 殆ど畳一枚に三人の被告を入れてある程の満員木戸止めである

此被告人内には 万引女一人 姦通男女二組 金指輪盗みの酌婦一人 賭博十数人 外 詐欺 横領と殆ど社会罪悪史を繙(ひもと)く様な犯罪の所有者のみであって 既に判決が決まって札幌其の他監獄に護送の日を待つ者 或は尚 岩内公判の審理中の者等 其の経過も色々変わってゐる

従って 岩内区役所 裁判所でも 久我判事以下 大繁忙を極め 十六日公判の日などは 刑事事件のみ五件 賭博犯三人の公判に弁護士が五人付添ふたなど それ丈傍聴者も廷外に迄 詰め掛けた

殊に中御門検事は帰省中なので 大沼署長が代理事務を執っているが 署長も両方掛持なので 殆ど目を廻している

而し 毎年今頃激増する漁夫の二重売詐欺は殆ど皆無と云ってよい位なは 聊か注目に値する事であらう
(1920年:大正9年3月20日北海タイムスより)


法の網にかかった人間たちが審判を待つ警察署の監房。畳一畳に大人三人というのは、災害時の避難所よりもはるかに狭く、非常に過酷な環境。犯罪者には人権なぞない、というところか。

26人もいるので、ざっくり計算すると、未決監房はたたみ9畳くらいしかないことになる。
だからといって、審理を適当に行う訳にはいかないので、裁判官も大忙しである。

ということで、網にからんで何かと忙しい、1920年初春の後志であった。
posted by 0engosaku0 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月16日

北海道歴天日誌 その174(1920年3月17日)北海中の秀才・野呂榮太郎

1920年:大正9年3月17日の北海道。

19200317天気図.jpg
▲1920年3月17日午後6時の天気図(国立国会図書館デジタルコレクションより)

大正の天気図は、午後6時の天気図の横に、天気予報と天気概況が書いてある。
天気概況を読んでいくと、いきなり「大高気圧」と来る。今では天気の解説に全然使わない表現だ。
さらに、「中心は日本海南部に有り」とある。今は、日本海は北部・中部・西部となっていて、東部と南部はない。
そして、北海道は「曇天」で、その他は「天気晴朗」である。

100年も経つと、天気図の説明っぷりも変わるものである。

さて、この日の北海タイムスの紙面には、100年経っても名の残る人物の青年時代の姿をみることができる。

北中の秀才

私立北海中学校 本年度の卒業生中に 野呂榮太郎君(二一)と言ふのがある
幼少の折 尋常小学校に在籍中 木登り遊びをして足首に関節炎を起こし 頸(けい)部の中間から切断し 両方共義足を用ひて居る

同校に入学する前 両度 公立中学の入学試験を受け 学術には二度共合格したが 不具の故を以て 入学拒絶された

其処で北中に入学し 体操科は欠いて居たが一年から五年迄五ヶ年間 優等特待生として毎年同校校長から表彰されてゐたが 本年は卒業に際し 同校校友会からも表彰された

嘗て 四年修行の昨年 某官立高等学校に入学の試験を受けたが 是亦義足の故を以て拒絶された、依って本年は法科を志望し 明大に入学すべく過日上京したと
(1920年:大正9年3月17日付 北海タイムスより)

野呂榮太郎。

彼がどのような人物かというと、「日本資本主義の成り立ちや諸矛盾を科学的社会主義の「科学の目」で分析・解明し、その後の日本資本主義の科学的研究の出発点を切り開いた経済学者」(日本共産党HPより)である。

共産党は昔、北海道にゆかりの人物に由来する二つの賞を設けていた。ひとつは多喜二・百合子賞。これは、小林多喜二と宮本百合子で、前者の多喜二は小樽に育ち、多くの道民がその名を知る。

もうひとつが野呂榮太郎賞なのであるが、こちらは多喜二ほどの知名度はない。
しかし、生きた時代はほぼ同じであり、その人生もまた多喜二と重なる部分がある。

野呂栄太郎は1900年(明治33年)に長沼に生まれ、紙面にあるように義足を理由に札幌一中への入学を二度にわたり許されなかった。
高校もまた同様。このため、官立の学校への進学はあきらめざるを得ず、記事には明大とあるが、実際は慶大へと進む。

その後、大学時代に野坂参三とつながり、共産党とのつながりが出てくる。
慶大でも学業優秀であり、学者として大学に残る話もあったのであるが、野坂のつくった産業労働調査所に籍を置くことになった。

1930年には実際に入党、肺結核にむしばまれながらも、33年には中央委員の一人として活躍するが、最後はスパイの働きによって警察の手にかかり、拷問の結果病状が悪化、命を落とすこととなる。

さて、この100年名の残る秀才の記事が掲載される一方で、100年たっても科学の力で解けない謎もまた、この日の紙面には掲載されている。こちらもみてみよう。

不可思議極まる 登川校幽霊問答

夕張町登川尋常高等小学校宿直室に 夜な夜な怨霊現れて 現在自炊せる三名の教員を脅かせりとの噂は噂を孕みて 全町に喧伝するやうに至ったが、夢のやうなナゾのやうな妄説なので 迷信の徒の蜚(ひ)語として 一向に信を措かなかったが、餘りに不思議なる事実を報告したものがあるので、記者は松本校長を訪問し その事実の真相を確むるに及んで、物理化学の進歩した現代文明の世として 理外の理なる亡霊問答の事実物語りを読者に紹介することを得たのである

現在の同校宿直室は 校長室に隣接する八畳の間で 下宿払底の為に現在 自炊を営みて宿直せるは柔道の師範で胆力の据った桑島訓導と 内地で校長の経歴ある佐藤代用教員に中村准訓導の三教員である

然るに去月十八日の深更一時頃 廊下に面せる戸を拳にて叩く音が聞えたので 何者か訪ね来たものと思って探索したが 何等の形跡を認めなかったのである

然るに教員室の時計が寂寥を破って一時を告ぐる頃になると、三人の教員はさながら水を浴たやうに冷やっとして 思はず戦慄した、
夫れから戸を叩くこと五晩に及んだのである

然るに其廊下は両端に硝子戸は閉鎖され居りて 狐狸の類の入るべき方法とてなきに 益々不思議を増し 此事を三名の教員は 松本校長に逐一語ったのである

然るに松本校長も餘に馬鹿げた話なので真を措かなかったが、三教員の語る處 餘りに真面目なので一応 尚三晩研究すべき旨を命じたのである

三教員はここに於て胆を練り 妖怪の正体を見現さんと息巻いた
然るに夜は更けて物凄くなると思はず眠気を催したかと思ふと 力なげに戸を頻りに叩くものがある

斯くして三晩を経過したので、二十七日放課後 教員一同の協議会を開き ここに問答を開始した結果、まことに不可思議な理外の理なる事実を確かめた

狐狸か妖怪か亡霊の暗示は 文明の世にあるべからざる事実を語る

乞う明日を待て・・・
(1920年:大正9年3月17日付北海タイムスより)


真冬の夕張に、毎晩夜更けに宿直室の戸が何者かに叩かれるという、奇怪な現象が発生した。
これは科学では説明のつかない、何かの存在によるものでは・・・?

謎の解明は「明日を待て」として記事は結ばれた。このころの新聞は、まるで連載小説のような記事がいくつも見られる。
ここのブログでも、まて次号!としておこうか・・・。
posted by 0engosaku0 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月06日

北海道歴天日誌 その173(1920年2月15日)函館の砂山に住み着く漂泊者たち

1920年:大正9年2月15日の北海タイムスに一枚の写真が掲載された。

19200215凍らぬ根室.jpg

この年は、真冬というのに根室の港が凍らない、という記事である。
本来なら氷上荷役が必要なのに、船で航行できる。

根室では、この年の1月の平均気温が−1.6℃。
1880年以降、140年を超えて続く気象観測の歴史において、この気温は1月としては今なお4番目に高い値。
当時としては異常レベルの暖冬の天候であった。

2月に入ってもプラスの気温となる日が多かったが、2月10日に最高気温−1.5℃の”真冬日”を記録してからは厳しい冬が戻ってくる。
この日から16日連続の真冬日で、22日には最高−7.5℃、最低−16.0℃と、2月下旬にしてこの冬の寒さのピークを迎えるに至った。

このため、この写真が掲載された頃には根室の港は氷が押し寄せていたかもしれない。ただ、凍っていたとしても、氷上荷役ができるような堅氷だったかどうかは怪しい。

さて、この写真の隣に掲載されている記事は、函館のある集落の様子の上下連載ドキュメント記事。
ただし(下)のほうなので、数日前に掲載された(上)のほうから記事を読んでいくことにしよう。

函館高大森砂丘の貧民部落を訪ふて(上)

流転の身の今宵 一夜を宿かる家もない、漂泊者の群の隠れ家−それは、函館区は津軽海峡に臨んだ海浜 宇賀の浦の砂丘にある 一部落 俗に云ふ函館区大森である

其所には世の常人の夢だにも思ひ及ばぬ生活が繰返されている

砂丘の海浜を新川辺から約一丁も奥へと進むと 其所は直部落の入口である、部落の戸数百五十と云ふ、堂々たる一村落の如く聞ゆるが これはまた、莚一枚で囲まれた一間四方ある かなしの掘立小屋で、其所には約五百人に近い人々が生息している

ソシテ此所に斯うした一部落があるとは思はれもせねば見られれもせぬ低地で、遠くから臨むと一見単なる砂丘としか見えぬ、此所に棲息している人々は一体如何なる人々であらうか

禽獣も等い 所謂遊牧の民とでも云はうか コノ社会のどん底に棲む人々は、一定の職業もなければ、人の道もなく、希望も財産も智識もない人々である

併社会の寄生蟲とも云ふべき彼等にも矢張生存欲はもとより無い訳ではない、彼等をして労働せしめ 莚一枚でも住宅を造らしめるのはコノ生存欲があるからであるが、彼等の纏ふている衣服を見ると到底生きてゐる人間とは思はれない程度のものである

新川橋一ツ内と外に隔てられている此一部落はそれでも可なりの階級のあると云ふ意外な事には一寸驚かされるが、それは全くの事実であった
彼等の仲間には家主もあれば日貸の高利貸もあるし 淫売婦もあって、彼等の多くは平素函館市街の塵埃箱を訪問するのが唯一の稼業である

彼等は未だ日輪が暁の空を彩らぬかはたれ時、市民の夢に遊んでゐる頃ほひから稼業に就いて、塵(ごみ)箱から得た、魚の腸とか果実の腐敗したものや、残飯を漁って其収穫に依って一日の糊口を凌いでゐるのだ
(1920年:大正9年2月14日付 北海タイムスより)


函館山を北海道とつなぐ細長い陸地。西側は七重浜、東側は大森浜とよぶが、大森浜の亀田川河口のあたりを宇賀浦といい、近くには湯の川温泉にかけて巨大な砂丘・砂山が連なってそびえていた。

この砂山は、「夏にはハマナスの花が咲き乱れ、月の輝く夜などまるでアラビアの砂漠をさまようような感じを抱かせた」(函館市史より)といわれ、明治の末に函館で暮らした石川啄木も、歌集”一握の砂”にて「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くにおもひ出づる日」などと詠んでいるほど。

きれいな景観と妖しげな雰囲気が人を惹きつけたのか?ここには500人ほどの人が小屋を作って住みついていたのである。

19200215函館の砂山地図.jpg
▲1915年の函館区の地図 (今昔マップ on the webより一部加工)

上に示した1915年(大正4年)の地図では、亀田川より西側は市街地だが、東側はほとんど建物はなく、砂山の周囲では、浜側の道路沿いに住家のマークが僅かにあるのみ。実際、大正2〜3年の頃は数軒の小屋があっただけだったそうだから、10年足らずの間にかなりの人間がここに漂泊、住みついていったことが伺える。

函館高大森砂丘の貧民部落を訪ねて(下)

吹雪の夜も嵐の朝も、渚を洗ふ波の音に目覚むる彼等は、夜明け前の仄闇(ほのやみ)に這ひ出して 又 今日一日の餌を漁らなければならぬ飢へた犬か何ぞのやうに、一日一杯市中を彷徨た揚句、嬉々として己が家路へと急ぐ頃は、函館市街には赤い灯が瞬く頃であった

彼等は多くの収穫を得て 今宵の食膳に向ふ時が唯一の悦楽でもあらう

軈て夜の安息か 彼等の眼前に展開される時が来ると云ふ順になるのであるが、茲で一寸一体彼等は如何なる種類の人間であるかを説く必要がある、元来乞食の群であるから、彼等には本籍地も碌に知っている者がないと同時に 彼等には殆ど満足な人間らしい名前さえ呼ぶ事の無い人間許りである

唯「南部」とか或は「津軽」などと云ふのが彼等の名でもあり 且つ 又 本籍でもあらう
彼等は何時何処から流れて来たともなく 此処に穴居しているので 殆ど戸籍法なんか適用さるる訳合でもなく、今日居たかと思ふと 一か月も姿が見えぬ事もある

さうかと云ふと又ヒョッコリ戻って来ると云ふ風で 到底調査など出来るものではないので、区役所や警察でも持て餘さざるを得ぬ部落である

併して 彼等の多くは諸国を流れ歩く漂泊者であるから 中には犯罪者も居やうし 本道各地の土工部屋からの逃走者も居やう
又 嘗ては名を知られた富豪の成れの果も居るし 又 旅役者や渡り鳥 或は三期梅毒で腐り掛た白粉の女や 足腰起たぬ敗残者もゐれば 世を忍ぶお尋ね者も隠れてゐるので 従って いさかひの絶える事がないのであった

中には家主と称するものもあって、彼等から幾何かの金をハネて生存してゐる横着者もあれば、人の収穫を目当に強者の権利で生きて行く人間もあって 全く原始的な強者の弱者の肉を食らふと云ったやうな生活である。
(1920年:大正9年2月15日 北海タイムスより)


この砂山は太平洋戦争の末期に砂鉄の採取が始まったことから、次第にその体積を減らしていく。
昭和30年代には、砂鉄に加えてダムの建設の資源として砂が用いられたことから、”砂山崩し”に拍車がかかった。砂山の集落も姿を消す。

こうして昭和のうちに砂山がある景色は幻のものとなり、今に到る。

砂山のあった辺りはすっかり市街地に姿を変えて、「高盛町」という地名に記憶をとどめる程度となっている。
posted by 0engosaku0 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする