
▲午前6時の天気図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)
北海道付近の気圧配置はやや複雑で、東には高気圧があるが、大陸には低気圧、樺太方面も低圧部、関東方面も低圧部といった形。
北海道は東の高気圧の圏内ではあるが、道南方面は気圧の谷ともいえなくもない微妙な等圧線の描き方である。
札幌は未明に雪がちらついたが、朝は青空。昼頃からは曇り空に変わったが、夜は再び晴れ間が出るというやや変わりやすい天気。
積雪は前日の25日にゼロとなり、市内の景色から根雪は消えようとしていた。
この日の午前3時40分頃。札幌市街の一角で炎があがった。
現在の市立札幌病院、当時の区立札幌病院である。

▲燃える区立札幌病院(1920年:大正9年3月27日付北海タイムス)
当時、区立札幌病院は北1条西8丁目、現在のSTVのあるあたりにあった。
病院は、10くらいの病室などの建物が細長い廊下でつながっている形状をしており、このうちのひとつ「第一号病室」の浴場が出火元。
天気図でみたとおり、風はほとんどなかったが、火の勢いはたちまち拡大、廊下を伝って第二号病室、第三号病室と燃え広がっていった。
この頃、道庁警察部の巡査教習所の夜警が出火に気づき、消防組の番屋へ火事を告げ、警鐘が乱打される。
たちまち260名余りの消防手が駆け付けて消火活動が始まったが、水利が悪い場所であり、植物園の水を使って消火作業が行われた。
燃えている中、病院に飛び込んだ記者のレポートが紙面に掲載されている。
看護婦 火中に飛び込んで大活躍
一号が焼落 二号から三号に延焼して 今 火が燃え盛る大火の真最中、危険を冒して病院内に飛込むと電気が消えて 三号以下の廊下は宛ら魔の洞窟の様に真暗、其処へ紅蓮の炎が反映して織り乱れる阿鼻叫喚の人々を彩り 弥が上にも凄惨の気を添た
看護婦連は何れも髪 振乱して狂い廻り 泣くもあり 叫ぶも有り 全く戦場と異らない一方に 火の手は刻々に熾烈を極めて濛々たる黒煙が廊下に吹くよと見る間に火龍が廊下に踊り出た
蜿蜒(えんえん)としてはしる其疾さ 物凄き 全くたとへんに物なく 男子さへ尻込みするのに 尚も患者を救助せんと 其 火煙中に飛込む勇敢な看護婦もゐたが 刻一刻と近寄る危険には敵し難く 一同 遂に院外に避けるの余儀なきに至ったが 此の際尚も火中に飛び入る一看護婦があったので 鉄道の大星君は是を見兼ねて抱き止めた
兎に角 看護婦の活躍は何人をも驚嘆せしめた。
(1920年:大正9年3月27日付 北海タイムスより)
区立札幌病院は1869年(明治2年)創立。最初は札幌元町に仮診療所があったが、ほどなく創生町に移転、1891年(明治24年)に北1条西8丁目に移転して、それからは100年余りこの場所にあった。
病院の建物は、継ぎ足し継ぎ足しで拡張していたため、防火壁もなく、火災には全く無防備であったという。

▲3月28日付北海タイムスより
札幌の人口が増えるにつれ、北海道の人口が増えるにつれ、区立札幌病院も拡張していったのであろう。
一つの病棟は8つの部屋があり、30人以上の患者が入院できる作りであったが、この大病院の7割が焼失するという大火災となったのである。
命からがら逃げだした入院患者の話。
火元の隣にゐた
火元の湯殿の隣室に入院中であった宗谷郡宗谷村堀内組 藤原栄蔵氏は腰に足に大手術をした許りで身動きも自由にならぬ身であるが不思議に同氏は人出もかからず助かった
収容された八号室に訪へば力なき息遣いで語る「私の病室は二人室で佐藤さんと云ふ方と一緒でしたか 何しろ驚きましたよ、火元から二間と離れてゐないものですから ソラ火事だと云はれた時は もうどうする事も出来なかったのです。
夫でも佐藤さんにはお母さんと内儀(おかみ)さんが付いゐたから二人に担がれて行きましたが 私は全く困りました。
御覧の通の不自由の身体でありますし 付添の婆さん一人では何うにもならん。
是あない命だと諦めましたが 夫でも夢中で廊下へはい出しました、所が廊下には最う猛火が渦巻いて居るのです 一歩も出られません
仕方なく室へ帰ると婆さんも未だ居て 早く窓から逃げろ云ふものですから 窓へ手を掛ると同時に戸外へ転がり落た様な訳です。
夫から誰方やらの手に助けられて植物園に運ばれましたから 命だけは助かりましたが何一つ出しません。
現金も百六十圓焼ました 夫に絹の布団から衣類、金側懐中時計など入れますと どんなに安く見積もっても千円は越ます。
金鎖や何かは或は焼跡から出るかも知れませんからと 今 婆さんが探しに行ました」
(3月27日付 北海タイムスより)
藤原氏が入院していた1号室は、病院の北東の端にあたり、北二条通りに面する。
皮膚病や泌尿器科、眼科、外科の患者が収容され、この火災当時は男女35名の患者が入院していたという。
出火原因は、浴場の火の取り扱いで、毎日午前三時に浴場の番人が出勤し、風呂場に火を入れることとなっているのだが、この日は火を入れてしばらくするとバチバチと物音がして、外から煙突を確認すると、その時にはもう屋根が燃え上がっていたという。
当日の入院患者は285人。多くは自力で、また患者の関係者や消防手の助けによって避難したが、焼け跡から1号室の1室と6室から、それぞれ一人の焼死体が発見された。
一人は脊髄の病のため、岩内から来て治療を受けていた成田岩蔵さん(31)、もう一人は両眼に包帯をして入院中だった新得の武子モン子さん(21)。である。
翌27日の午後4時、この二人の葬儀は札幌病院が喪主となり、南六条の中央寺にて営まれた。

▲春光を浴びて(3月28日付北海タイムスより)