その当時、気象キャスターの間で語られていたのが、「札幌のサクラの開花は、積算温度が500℃を超えたら」というもの。
詳しく語ると、3月1日からの最高気温を毎日加算し(真冬日は0として)、その合計が500を超えるタイミングでサクラの開花がなされることが多いという話である。札幌中心部に基準となる木が移った今は、少し早いようだが。
さて、時計の針を1920年まで戻す。
3月1日の札幌の最高気温は−0.2℃で最深積雪は85センチもあった。
翌2日の最高気温は2.1℃となり、ここから毎日の最高気温を足していくと、最初に500℃を超えたのは4月30日となった。
例年の記録を破って 円山の櫻花咲く
咲いた咲いた 円山の櫻が咲いた
「こんなに早く咲いた年は未だ曾てない」と宮澤宮司でさへも驚いてゐた、殆どレコード破りである
両三日前から綻び初めた南枝の如き 全く日に立って白く笑ひ出して居る
折柄昨日は花を誘ふに適当な南風 そよそよと枝頭を渡って 円山四百余株の大樹小樹が今にも連天の雪と化せん許りの暖かさであったから
今日五月一日は三分迄大丈夫 咲出さうと典司の人々も保証された
此分で行ったら四日から掛けて五 六日が満開であらうか
花見の客は既に昨日からチラホラ見え出し 殊に長い間の禁止が解かれて昨日初めて外出を許された月寒聯隊の兵隊さんが 三々五々に駆け込んだので時ならぬ賑ひを呈した
面喰ったのは目下 掛小舎最中の出店連であった
(1920年:大正9年5月1日 北海タイムスより)
札幌測候所がこの年のサクラの開花を観測していたのかは定かではないのだが(現在の統計は1953年からスタートしているが、それ以前も独自基準で観測していたという話はある)、記事をみると「両三日」にはほころび始めたと書いているので、4月28日か29日には、一般人が見ても開花していると判断できるような状態にはあったようだ。
今や札幌で4月のサクラ開花は珍しくない(平年が5月1日)のだが、この頃はかなり珍しく映ったようで、宮司も「曾てない」と話しているほどである。実際、札幌の昭和の観測では、4月中の開花は4回しかなく、最も早いのが4月26日(1968年:昭和43年)だったから、もっと寒冷な大正時代であれば、驚きの受け止めだったであろう。
事実、小屋掛け中ということで、花見の用意は間に合っていない・・。
さて、記事には月寒聯隊の兵隊が外出を許可されたのはこの日が初めてとあるが、これは、軍律が厳しいというわけではなくて、当時の流行りの病「スペイン風邪」のせい。
若者に致死率の高いスペイン風邪が、集団生活を送る軍の中で流行したら大変ということで、軍の病院長が札幌市内のスペイン風邪の流行状況を調査し、札幌ではもう終息しているから外出してよろしい、となったので、4月30日から外出を許可したのである。
ところで、今の北海道神宮のサクラはソメイヨシノにエゾヤマザクラに八重桜といろいろな品種がある。
この頃の円山の櫻は?というと、ほぼエゾヤマザクラだったようだ。
それは、円山がなぜサクラの名所になっていたのかというところにさかのぼる。三日後の紙面に、その経緯が記事になっている。
花に記憶を喚び起す 円山桜花の恩人
円山の花を観る人はあっても 此の櫻樹を移し 植た 花の恩人 福玉仙吉氏の記念碑に気の付く人は至って抄(す)くない
碑は第三華表(とりい)から第二華表に至る 所謂櫻のトンネルの左畔に在り 昨今七分の早咲を誇って居る老樹の下にたって 故人の俤(おもかげ)を偲ばせて居るが
福玉氏は明治二年 島判官の従者として判官と供に来札し 翌三年五月 判官が本道を去るに及んで 自分は手稲村の山麓に去り 草の庵を結んで 本道の開拓に従事して居た
其の後 判官の訃報に接するや 如何として其の記念を札幌に遺し 故判官の霊に対する〇善に供へたいとの志しを起し 種々考案の結果 円山神社は島判官の奉置したもの故 是に櫻を植樹する事に決心し 明治八年 当時手稲付近の山地に思ふざま春を誇る山桜の若樹百五十本を掘り抜いて 移植したのが今日の櫻トンネルである
其れ以来 円山境内に櫻を移植する者が続々出で 今日では大小四百本餘に達し 単に札幌名物たるのみならず 全道切っての櫻の名勝になって居る
宜(むべ)なるかな 円山は櫻の名勝として全道に誇るの価値が充分有る
先づ 其の櫻樹の多い事に於て 全道第一であると共に 夫が悉く北海道産の山桜で 内地から移入したものは一本もない
先年 櫻研究の大家 東大の三好博士が円山の櫻一本一本に付き 研究の結果 境内には北海道各種の櫻を全部網羅して居ると認め
かの伊太利ヴェニスの公園には同国各種の植物全部を網羅し世界にも一驚地を為して居るが 円山の櫻も 恰もそれと同一であると賛嘆したと云ふ
以て 其の価値を充分に知る事は出来るが 元はと云へば福玉氏一個の故恩人に対する菩薩心から発したものであるが 其功績を空しく時の流れに委して忘れ去は遺憾であると 大正五年 同氏の記念の爲に 一丈に達する立派な石碑を樹てられた次第である
併し記念碑が出来上がると 福玉は微笑みつつ黄泉の人となったと云ふ
因に福玉氏の遺族は目下風連別に在る
(1920年:大正9年5月4日付 北海タイムスより)
北海道神宮の桜は、明治の初めに開拓判官として札幌の基礎を作り、のちに佐賀の乱で刑死する島義勇の鎮魂のため、福玉仙吉が第三鳥居から第二鳥居の間の参道に150本のサクラを移植したのが始まりとなる。
トラックも重機もない明治時代に、手稲に生えている山桜を、掘って、背負って、植え替えてというのを150回も繰り返したかと思うと、とんでもない労力。いかに福玉が島に恩を感じていたかを表すものである。
その後、参道の桜は枯れるものも多かったことから、その後は境内にも植えられ、植え足しされて今にいたるというところだが、1920年当時は、ここの桜は”北海道じゅうの”サクラで、本州から移植されたものは一本もないとされているので、基本的にはエゾヤマザクラばかりだったといえる。
記事中に出てくる「桜研究の大家」は、東大の三好学教授であるが、著書の「史蹟名勝天然記念物報告」の中で、福玉が植えたサクラ並木に触れており、これは北海道産の紅山桜(べにやまざくら)の種々の品種を集めたものだが、このような多数の変種が一挙に植えられているところは他に聞かないと評じている。花の色などに微妙な違いがみられたためである。
そして「美観もそうだが、学術的にもまた保存を望む」としているのだが、残念ながら今の世では、北海道神宮や円山公園のサクラが”学術的に貴重”という話は全く聞くことができない。
サクラの寿命は人間を大きく超えるほど長くないというのが、その理由。
もう福玉が植えたサクラは神宮には残っていないらしいのだ。
この後、ソメイヨシノが増え出し、増強された”美観”を今の我々は楽しんでいるわけである。