2024年03月31日

北海道歴天日誌 その181(1920年4月29日)学術的に貴重だった神宮の紅山桜

2011年、東日本大震災があった年の春まで、札幌のサクラの開花・満開の基準となるソメイヨシノは北海道神宮にあった。
その当時、気象キャスターの間で語られていたのが、「札幌のサクラの開花は、積算温度が500℃を超えたら」というもの。

詳しく語ると、3月1日からの最高気温を毎日加算し(真冬日は0として)、その合計が500を超えるタイミングでサクラの開花がなされることが多いという話である。札幌中心部に基準となる木が移った今は、少し早いようだが。

さて、時計の針を1920年まで戻す。
3月1日の札幌の最高気温は−0.2℃で最深積雪は85センチもあった。
翌2日の最高気温は2.1℃となり、ここから毎日の最高気温を足していくと、最初に500℃を超えたのは4月30日となった。

例年の記録を破って 円山の櫻花咲く

咲いた咲いた 円山の櫻が咲いた
「こんなに早く咲いた年は未だ曾てない」と宮澤宮司でさへも驚いてゐた、殆どレコード破りである

両三日前から綻び初めた南枝の如き 全く日に立って白く笑ひ出して居る
折柄昨日は花を誘ふに適当な南風 そよそよと枝頭を渡って 円山四百余株の大樹小樹が今にも連天の雪と化せん許りの暖かさであったから
今日五月一日は三分迄大丈夫 咲出さうと典司の人々も保証された

此分で行ったら四日から掛けて五 六日が満開であらうか
花見の客は既に昨日からチラホラ見え出し 殊に長い間の禁止が解かれて昨日初めて外出を許された月寒聯隊の兵隊さんが 三々五々に駆け込んだので時ならぬ賑ひを呈した

面喰ったのは目下 掛小舎最中の出店連であった
(1920年:大正9年5月1日 北海タイムスより)


札幌測候所がこの年のサクラの開花を観測していたのかは定かではないのだが(現在の統計は1953年からスタートしているが、それ以前も独自基準で観測していたという話はある)、記事をみると「両三日」にはほころび始めたと書いているので、4月28日か29日には、一般人が見ても開花していると判断できるような状態にはあったようだ。

今や札幌で4月のサクラ開花は珍しくない(平年が5月1日)のだが、この頃はかなり珍しく映ったようで、宮司も「曾てない」と話しているほどである。実際、札幌の昭和の観測では、4月中の開花は4回しかなく、最も早いのが4月26日(1968年:昭和43年)だったから、もっと寒冷な大正時代であれば、驚きの受け止めだったであろう。

事実、小屋掛け中ということで、花見の用意は間に合っていない・・。

さて、記事には月寒聯隊の兵隊が外出を許可されたのはこの日が初めてとあるが、これは、軍律が厳しいというわけではなくて、当時の流行りの病「スペイン風邪」のせい。

若者に致死率の高いスペイン風邪が、集団生活を送る軍の中で流行したら大変ということで、軍の病院長が札幌市内のスペイン風邪の流行状況を調査し、札幌ではもう終息しているから外出してよろしい、となったので、4月30日から外出を許可したのである。

ところで、今の北海道神宮のサクラはソメイヨシノにエゾヤマザクラに八重桜といろいろな品種がある。
この頃の円山の櫻は?というと、ほぼエゾヤマザクラだったようだ。

それは、円山がなぜサクラの名所になっていたのかというところにさかのぼる。三日後の紙面に、その経緯が記事になっている。

花に記憶を喚び起す 円山桜花の恩人

円山の花を観る人はあっても 此の櫻樹を移し 植た 花の恩人 福玉仙吉氏の記念碑に気の付く人は至って抄(す)くない

碑は第三華表(とりい)から第二華表に至る 所謂櫻のトンネルの左畔に在り 昨今七分の早咲を誇って居る老樹の下にたって 故人の俤(おもかげ)を偲ばせて居るが

福玉氏は明治二年 島判官の従者として判官と供に来札し 翌三年五月 判官が本道を去るに及んで 自分は手稲村の山麓に去り 草の庵を結んで 本道の開拓に従事して居た
其の後 判官の訃報に接するや 如何として其の記念を札幌に遺し 故判官の霊に対する〇善に供へたいとの志しを起し 種々考案の結果 円山神社は島判官の奉置したもの故 是に櫻を植樹する事に決心し 明治八年 当時手稲付近の山地に思ふざま春を誇る山桜の若樹百五十本を掘り抜いて 移植したのが今日の櫻トンネルである

其れ以来 円山境内に櫻を移植する者が続々出で 今日では大小四百本餘に達し 単に札幌名物たるのみならず 全道切っての櫻の名勝になって居る

宜(むべ)なるかな 円山は櫻の名勝として全道に誇るの価値が充分有る
先づ 其の櫻樹の多い事に於て 全道第一であると共に 夫が悉く北海道産の山桜で 内地から移入したものは一本もない

先年 櫻研究の大家 東大の三好博士が円山の櫻一本一本に付き 研究の結果 境内には北海道各種の櫻を全部網羅して居ると認め
かの伊太利ヴェニスの公園には同国各種の植物全部を網羅し世界にも一驚地を為して居るが 円山の櫻も 恰もそれと同一であると賛嘆したと云ふ

以て 其の価値を充分に知る事は出来るが 元はと云へば福玉氏一個の故恩人に対する菩薩心から発したものであるが 其功績を空しく時の流れに委して忘れ去は遺憾であると 大正五年 同氏の記念の爲に 一丈に達する立派な石碑を樹てられた次第である

併し記念碑が出来上がると 福玉は微笑みつつ黄泉の人となったと云ふ
因に福玉氏の遺族は目下風連別に在る
(1920年:大正9年5月4日付 北海タイムスより)

北海道神宮の桜は、明治の初めに開拓判官として札幌の基礎を作り、のちに佐賀の乱で刑死する島義勇の鎮魂のため、福玉仙吉が第三鳥居から第二鳥居の間の参道に150本のサクラを移植したのが始まりとなる。

トラックも重機もない明治時代に、手稲に生えている山桜を、掘って、背負って、植え替えてというのを150回も繰り返したかと思うと、とんでもない労力。いかに福玉が島に恩を感じていたかを表すものである。

その後、参道の桜は枯れるものも多かったことから、その後は境内にも植えられ、植え足しされて今にいたるというところだが、1920年当時は、ここの桜は”北海道じゅうの”サクラで、本州から移植されたものは一本もないとされているので、基本的にはエゾヤマザクラばかりだったといえる。

記事中に出てくる「桜研究の大家」は、東大の三好学教授であるが、著書の「史蹟名勝天然記念物報告」の中で、福玉が植えたサクラ並木に触れており、これは北海道産の紅山桜(べにやまざくら)の種々の品種を集めたものだが、このような多数の変種が一挙に植えられているところは他に聞かないと評じている。花の色などに微妙な違いがみられたためである。

そして「美観もそうだが、学術的にもまた保存を望む」としているのだが、残念ながら今の世では、北海道神宮や円山公園のサクラが”学術的に貴重”という話は全く聞くことができない。

サクラの寿命は人間を大きく超えるほど長くないというのが、その理由。
もう福玉が植えたサクラは神宮には残っていないらしいのだ。

この後、ソメイヨシノが増え出し、増強された”美観”を今の我々は楽しんでいるわけである。
posted by 0engosaku0 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月23日

北海道歴天日誌 その180(1920年5月2日)北海道初の五輪選手が小樽を出発

大正時代の写真は、基本的に白黒である。

19200502札幌消防組.jpg
▲1920年:大正9年5月2日 札幌・大通公園(3日付北海タイムスより)

こちらの写真は、札幌の大通西5丁目で行われた札幌公立消防組の春季演習を撮影したもの。
白黒写真は、背景の空が晴れているのか曇っているのかがわからない。
だからカラー化には想像力が必要なのだが、新聞記事と気象観測結果を使うとそこを補完することができる。

この演習の模様を伝えた記事には「春空麗らかに晴れたる」とあるので、穏やかに晴れたことは想像できる。
そして当日の気象は札幌測候所が正確に観測している。それによると、午前9時から午後4時までは雲量ゼロが続いている。すなわち快晴。

この写真の背景の多くを占める空の色は、雲の白色がどこにもない青一色で塗りつぶされている。

気温は正午には13.8℃、昼間は北西が5m/s前後なので、彼等の法被の袖はしばしば風ではためき、晴れてはいたが、少し肌の風は冷たく感じたかもしれない。まずまずの演習日和。

そういう情報を入れて、もう一度この写真をみると、初見の時とは全く印象が違ってくるのである。

さて、この日の夜、小樽から一人の青年が、遠くベルギーに向けて旅立った。
目的はオリンピックへの出場である。

提灯行列に送られて 八島選手出発

小樽中学校第三年生 八島健三君は 今回 国際選手の一人として 本邦を代表 白耳義(ベルギー)安府(アンフ)へ渡欧する事となり、昨二日 午後九時五十七分 中央小樽発急行列車にて 数百名の歓送を受け 出発せるが

八島氏は緑町一丁目 八島輿三郎氏の三男にて 常に同校にありて ランニングの選手なりしが
今回国際選手として選抜され 去 三十日 当地出身の先輩 早大生 秋山氏と共に帰樽し 小樽中学校職員 生徒数百名の歓迎を受 又 一昨 一日は午後一時より樽中校に於て 同窓会員の送別会を受しが

昨二日は午後六時 樽中校々友主催の提灯行列に参加し 自宅出発 住吉神社境内に集会し 長途安全を祈り 参拝終って音楽隊を先頭に 小樽中学校長 清水実隆氏 及び職員、生徒六百余名 先輩の校友、梅屋商店員、各新聞社員 八島氏の厳父 輿三郎氏 次兄信夫氏等 列に加はり 樽中校旗、大田楽提灯を真っ先に 梅屋商店寄贈の長旗 其他を押立て 職員生徒一同は 手に手に紅提灯を翳して 住吉神社より永井町を経て 入舟川より左折港、堺、色内各町を経、左折 稲穂町第二火防線通りへ出で 中央小樽駅前に集合し 又 駅前の群集は 此光景を観んとて 駅前 山をなし

出発時刻となるや 校長清水氏は職員生徒一同 及び 八島氏家族と共にプラットホームに出で 清水校長より一場の送別の辞あり

生徒の歓送歌、校歌の合唱につれ 八島選手及び先輩早大の秋山氏と共に乗車し 午後九時五十分 発車の汽笛鳴るや 清水校長の発声にて 数百の職員 生徒 之に和し 万歳を三唱して 此 栄誉ある選手の行を壮にしたるが

八島選手は前記の如く 三十日 帰樽せる許りに 静養の遑も無く 二日夜道に上京せる次第にて上京後は監督、選手一行と共に 来る十四日横浜を解縄の東洋汽船コレア丸に搭乗して 米国 桑港(サンフランシスコ)に五日、紐育(ニューヨーク)に二十二日間滞在の上、開催地白耳義安府へ向ふ筈なり

又 樽中同窓会有志は八島後援会を組織 区内銀行会社篤志等より寄贈金募集中なるが 此額 千円に達せしむる見込みなりと
然して樽中運動部長 工藤教諭は職務整理の上 明後日頃出発 横浜港まで見送る筈

八島選手の帰朝期は本年九月二十六日 仏国マルセーユ出発の加茂丸に便乗 十一月三日神戸入港の予定なり

記者は昨朝 緑町の八島家を訪問せるが 生憎 八島選手不在にて 厳父 輿三郎氏に応援述べしに

輿三郎氏は満面笑みを湛へて曰く
「今回は新聞各社のお力にて倅も満足を得ました 私の子供は男三人女三人 長男輿信は本年北海道大学を卒業し 函館区の三菱経営北洋漁業会社 社員となり 次兄信夫は貯金小樽支局に雇はれ 長女ノブ子は小樽高女校卒業 目下 手宮西校に奉職し、三男健三(一八)であります。平素も至って壮健の方で 目下小樽中学三年生であります。

今回は意外にも国際選手といふ 栄誉を頂きましたは 清水校長様始め 皆様のお力であります
何せ 三十日に帰樽した許りで直 出発させますので 本人も疲れても居りませうが 土地に居て 食べ物でも悪く 反って健康も害してはと上京を早めました次第であります」云々と
(1920年:大正9年5月3日付 北海タイムス)


八島健三氏は、北海道初のオリンピック選手。
アントワープ五輪は、日本人選手は17名で編成されているが、うち12名は陸上選手で、八島はマラソンに出場する陸上選手に選ばれたのであった。

なお、水泳では北大の内田正練氏も五輪代表に選出されているが、彼は浜松の出身なので、道産子アスリートの五輪出場となれば、八島が最初となる。

19200502八島出発.jpg
▲提灯行列に送られる人力車中の八島の様子(1920年:大正9年5月4日付北海タイムスより)

内田のほうは、八島より1日遅れて5月3日の夕方、札幌駅を出発する列車に乗り込み、ベルギーへ向かっていった。
こちらも北大文武会主催の壮行式が開かれて、数百の学生が集まり、勇ましい応援歌に送られていったとのことである。

今なら飛行機で一日もあれば現地に着けるが、当時は二つの太洋を船で渡り、数か月にもわたる旅路。当然、その間は練習に打ち込むことも難しい。五輪に向けたコンディションを整えるのは相当な困難がつきまとう。

48人が出走したマラソンは35人が完走。日本は4名の選手全員が完走し、八島も完走。
2時間57分03秒の記録で21位の順位がついた。

彼の走りはどのように北海道に伝えられたのかは、もう少し後で記すことにしよう。


posted by 0engosaku0 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月20日

北海道歴天日誌 その179(1920年4月23日)冬景色に戻らず・・ごみの町札幌

1920年:大正9年4月23日

この日、日本海から進んできた発達中の低気圧が、北海道の南岸を通過した。

19200423天気図.jpg
▲1920年:大正9年4月23日正午の天気図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

この低気圧の影響で北海道は全道的に天気が崩れ、函館は一日雨。札幌も雨だったが、夕方から雪が混じり、根室は吹雪となった。
札幌の最高気温は5.9℃、根室は1.0℃、網走は0.8℃ということで、道東では雪が降っただけではなく、積もった所も多くなった。

根室地方大雪

一両日前より根室地方は俄然気温低下し 二十三日は天候険悪となり夜に入りて雪と変じたるが 二十四日朝に至るも止まず 若し相当の積雪を見んか飼馬飼料の欠乏を見んとしつつある場合 動物に対する影響少ならからざるべしと一般畜産家は心痛し居れり

札幌にも雪粉々

連日の寒さは遂に二十三日午後六時頃から札幌区に雪を降らし 昨二十四日朝も雨に交えてチラチラと降り 水溜に薄氷を見るなど 孰れも冬の復活に驚き 火鉢を囲みて 寒い寒いを繰り返せり

(1920年:大正9年4月25日付 北海タイムスより)


このほか、旭川や網走、釧路発の降雪・積雪の記事が記事がみえる。
根室は「大雪」とあるが、調べて見ると23日の積雪は3.6センチということで、一寸あまり。「ちょっと(一寸)積もった」という程度であった。
一番積もったのは4月3日に流氷終日を迎えていた網走で15センチ。釧路でも8センチの積雪があった。
なお、22日のうちに帯広は2.2センチ、旭川も1.5センチの雪が積もったのであるが、23日10時の観測のときまでにはすべて解けた。

札幌はみぞれだったため、積もるに至らず、冬景色には戻らなかった。
市民の本音をいえば、見たくないものは雪に覆われてほしかったのかもしれないが・・・。というのもこんな記事が。

札幌は塵の都乎

塵埃の山が区内各所に堆積して不潔を極めるは毎年春先の例で 其都度 区の掃除係では宛然(さながら)怠業でもして居るかの如く 八方から苦情が出て非難の的となる昨今 そろそろ又非難の声が各方面から続出するので 区では応急策に腐心して居るが 何分にも経費に限りがある故 無闇に運搬の馬車を殖す訳にも行かない

又 臨時の馬車を出さうとしても 馬車追払底の今日 三円や四円の日当では却々(なかなか)其を需められぬ

現在 区では札幌を五区に分ち 各区に巡視一名宛を配置して 二十二台の常用馬車に臨時の雇馬車六台を加へて 都合二十八台を督励して 朝の六時から午後四時半頃迄 殆ど小憩みもなく 塵埃を運搬せしめて居るので決して怠って居るのではない

而も 其捨場が白石街道の東橋下、山鼻二十丁目 豊平町川に沿ふた上流等三箇處で何れも区内からは約一里の遠きに在るので不便此上なく 精々と馬力を掛けて運搬しても日に平均六回より運べないと云ふ

然るに区内の塵埃は平素に比較して 昨今約二倍に達して居るので 僅六台の臨時馬車位では到底区民に満足を與ふる程度に運び得ぬ故 経費の許す範囲内に於て 尚数台の臨時馬車を殖す方針であるが 肝心の馬車を区内からは到底雇入れ得ないのが遺憾であると云ふ

尚 一部からは区内の繁華な方面のみを廻って運搬馬車は交通不便な町端れの方面には滅多に廻らぬと云ふが 各区に巡視が附いて満遍なく廻らせて居る筈であると云ふ

当局者曰く 家主を責めよと

塵埃が箱から溢れて路面に散乱して居る事に就いては区役所よりも寧ろ家主側を責めなければならぬ

塵箱(ごみばこ)は二戸乃至三戸に対し 一箇を家主に於て備へ付けなければならぬ事になって居る
然るに現在の札幌区に於ては 其を守って居る家主は殆どなく 二十戸乃至三十戸で あの小っぽけな塵箱一つを使用して居る

其処へ持って来て 各戸が一斉の春先の掃除をやり 溜り溜まった裏表の塵埃を一つの箱へ詰込まふとするのであるから 塵埃が路面に溢れるのが当然である

是は各家主連が もっと自覚し 店子に親切になって欲しい
何れ時期を見て 各家主に対し 是非とも塵箱を増設する様 督励する積である云々と区の当事者は語った

体育会裏へ投棄すると告発

区内大通東二丁目の体育会裏手を宛(あたか)も塵捨場の如くに塵埃を捨て 汚穢(おあい)を極めて居る事は昨報したが 右は区の掃除運搬車ではなく 殆んど個人の塵投馬車であると云ふが 札幌署に於ては 塵を無闇に捨てる者あれば見当り次第 告発する方針であると
(1920年:大正9年4月21日付 北海タイムスより)


札幌はゴミの町・・・。

今や全国の年で魅力度上位常連である札幌には決して似合わぬ”キャッチコピー”であるが、雪解け後の春先は、雪の下から出て来たゴミが散乱、市民は一応掃除をするのだが収集が追い付かず、ゴミ箱はあふれ、あふれたゴミは春風に舞い、また街に散乱・・・。ということで、大正の札幌の春はゴミだらけの風景が広がっていたのである。

さて、一時的に冬の寒さが戻った北海道であったが、再び気温が上がる。
札幌は26日に16.8℃を記録。その後も15℃近くまで上がる日が続き、円山のサクラはこの時代としてはかなり早く、4月中にもかかわらずほころび始めた。

眼下のゴミから頭上のサクラに市民の視線が移っていくこととなった。
posted by 0engosaku0 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月18日

北海道歴天日誌 その178(1920年4月15日)春の朝に狂犬・札幌

1920年(大正9年)の春の札幌。

この年の春は雪解けが順調で、札幌の積雪は3月25日にゼロとなり、29日にナシとなった。
4月に入ってからも7日に一瞬雪化粧しただけで、半ばには若草が萌えだした。

春を喜んだのか、それとも春が気を狂わせたのか。事件が起きる。

狂犬数名を咬む

数日来 札幌大通西十丁目辺に於て 狂犬出没
通行人に咬傷を負はせ 迷惑を蒙る者 二 三人ありしが 何所の飼犬か 或は野犬か判明せぬ為 札幌警察署に於ても 巡査を派して取り調べ中の處 果然昨十五日午前七時頃より九時頃までの間に 大通り西十二丁目 折田某方の飼犬が突然狂ひ出て 通行人なる南一條東五丁目十七番地 佐藤亀吉(四六) 南一條西十二丁目 寺井清太郎(六二) 大通西十丁目二十五号 小笠原勝太郎(五五)及び南一條西十二丁目 大谷直吉長男清治 道庁 高木某等の数名に噛付き 下腿部脛等に咬傷を負はせたる騒ぎに

危険とみたる附近の某(氏名判然せず)は 唯だ一発の下に銃殺して 札幌警察署に届出たり
依って巡査 現場へ出張 勝目獣医 犬の死体を解剖に附し 果して 狂犬なるや調査中なるが

犬の飼い主は此際 必ず繋留し 単独にて外出せしめぬやう注意ありたしと札幌署員は語れり
(1920年:大正9年4月16日 北海タイムスより)

4月15日、雲一つない快晴の空の下。雪が消えた札幌市街に現れたのは人間に噛付く猛犬。
今もなお致死率100%という”狂犬病”の恐怖が、この猛犬にもつきまとう。

家畜伝染病予防法が制定されて、犬にワクチン接種が義務づけられるようになるのは1922年(大正11年)であり、咬んだ犬が狂犬かどうか判明するのを待つのは、咬まれた者としては死刑の宣告を待つ囚人の如く生きた心地がしなかったことであろう。

さかのぼること4日前、初山別でも犬の事件が・・・。

犬の喧嘩から生埋め

苫前郡初山別飲食店 佐藤良太郎(三二)は十一日午前八時頃 生魚買入れの為 天秤棒を携へ 犬を連れて同村三谷漁場前を通らんとしたるに

麻里漁場漁夫の一団が 麻里方飼犬と喧嘩をなせ 遂に良太郎の犬が勝となりしを怒り 漁夫等は同犬を殴打せしかば 良太郎も敗けぬ気になり天秤棒にて麻里の犬を撃たんとして 誤って漁夫 金谷の腕を打ちたるに

ソレッとばかりに良太郎を取巻き 殴打の後 砂の中に生埋となしたる騒ぎに

三谷吉太郎は良太郎の悲鳴を聴き付け救出したり

一方 麻里漁場主は良太郎を相手取 告訴の手続きをなせり
(1920年:大正9年4月19日付 北海タイムスより)


良太郎の犬は強かったのだが、それが漁夫の怒りを呼んでということであるが、記事を見る限り、佐藤良太郎氏は犬をけしかけられたうえに、砂の中に埋められて、被害者にしか見えないのであるが・・・。

さて、喧嘩を始めるのは犬がきっかけとは限らない。

岩内防波堤沖で鮫漁夫の大格闘

十六日午前六時頃 岩内の各川崎漁船が鮫釣に出漁に際し 防波堤沖一哩の海上にて 北間次郎平所有 六人乗り漁船に 円城磊(こいし)所有五人乗り漁船が摺り違はんとする際 衝突せし事より喧嘩の花が咲

双方入り乱れて大格闘を演じ 為に 円城方の船頭 畑音松(三九)は北間方の漁夫 岩崎仁太郎(二二)に板子を以て脳天を打たれ気絶し 又 北間方の船頭 福島長八(四七)は才槌を持って肩より左腕を撃たれて 大挫骨傷を負ひ 尚 北間方の漁夫 三吉なる者も身体数箇所に負傷せるが

此両船の附近に居たる橋本輿太郎所有漁船の乗込漁夫 北山寅吉(二九)なる者が(仲裁に来りしとも云ひ 又 北間方の加勢に来たりしとも云ふ)北間方の船に乗り移るや否や 円城方の漁夫の為 是又 板子を以て後頭部を打たれて大負傷し 北間方の船上には負傷者続出 殆ど修羅場と変じたるより 仲裁船来り 双方負傷者に手当し 畑音松は前田病院に入院せしめたるが

十七日 畑は 北間方船頭 福島長八始め 漁夫岩崎仁太郎 松本直三(二三)、中村寅吉(四○)、飯野某、氏名不詳某、及 橋本輿太郎五漁夫 及 漁夫 北山寅吉の七名を相手取り 岩内署に告訴せり

又 円城方の乗組者は船頭 畑音松 漁夫蓑谷末松 中村末太郎 内田末五郎 加藤佐太郎の五名なりしと

本争闘に至るまでには色々遺恨ありたるとも云へるが 尚 精探 後報すべし
(1920年:大正9年4月20日付 北海タイムス)


こちらは、船がぶつかったことをきっかけの乱闘で、人数の少ないほうが人数の多い船に乗り移り、乗組員をボコボコにしたという結末。
船頭はどちらもけがをしているが、優勢だったほうの船頭が相手側の乗組員全員を訴えているわけであるが、記事を見る限り、円城方のほうがやる気マンマンで、訴えるなら逆じゃないかと思ってしまうのであった。

しかし、これらの喧嘩や争いは、北海道のはるか北方、ニコラエフスク・ナ・アムーレで発生していた赤軍パルチザンのロシア人と朝鮮人・中国人から成る過激派による、市民と日本人居留民に対する虐殺事件と比べれば、ひとりの死者もなく、かわいいものである。

同じ4月20日の北海タイムスは、当時「尼港」と呼ばれていたニコラエフスクにおいて、”同胞婦人”を群集の面前で極端に辱め、指を切り、腕を断ち、足を斬り、五体をばらばらにして残酷に嬲り殺し、馬二頭を並べて同胞の足を両方の馬の鞍に結びつけ 馬に一鞭を与えて五体を八つ裂きにするなどの暴挙が働かれている、と大きく報じた。

「尼港事件」と呼ばれるこの出来事は、4月でも流氷に閉ざされる間宮海峡の奥で、日本軍の救援が届くのを待たずにエスカレートしていくことになる。

19200418小樽公園の春.jpg
▲1920年:大正9年4月18日付 北海タイムスより「春の夜の小樽公園」
posted by 0engosaku0 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする