北海道からニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)の邦人救出に派遣された第七師団の将兵は、全く戦わずに焼け跡の尼港に到達したわけではない。パルチザンとの戦闘は発生し、日本側にも死傷者が出ている。
この日、”名誉の負傷”となった傷病兵のうち17名が船で北海道に戻ってきた。
名誉の傷を負ふて 尼港将卒帰る
尼港傷病将卒十七名の第一回後送は 二十八日午前五時卅分入港の御用船 中華丸にて小樽港へ着せるが 是より先程衛支所内の陸軍運輸本部小樽出張所は傷病兵に対し 夫々上陸の準備をなせり
傷病者は歩行し得るもの十五名 担架使用の兵二名にて 船内より艀船へ背負、埋立地上陸後は直に小樽駅に担架にて運びたるが 第七師団行は十三名、月寒聯隊へは四名にて 患者引取り及び看護の為 旭川と月寒より看護長と各看護卒二名来樽餘受たり
記者は同十一時小樽卒を訪問せるに十七名の傷病将卒は三々五々待合室及び駅外の椅子へ病衣姿にて腰をかけ 四方山の話に耽り居れり
待合室に横臥せる向山歩兵一兵卒、楯岡工兵一等卒を尋ね慰安せるが 向山一等卒に右脚の包帯を気にしつつ斯く語れり
「僕は厚岸町のものですが 小樽へ帰りましたら気候の暑いのに驚きました
尼港の気候は昼頃でも袷衣に単衣三枚もかけねば寒くてたまりません
僕は三月頃 多聞支隊に加はり 亜港へ上陸 デカストリーからキヂ、マリンスクへ転戦 尼港へ向ってツイルまで参りましたは五月三十一日の夜で 此処の砲台を占領しやうと〇大尉の率いる一個中隊で夜襲をしましたが 敵兵三百名許り逆襲し来まして 大衝突となり 終に砲台を占領 別動隊は尼港へ向かって前進した
此の夜襲は夜から朝にかけてで 敵の死者七十名 負傷者も数十名ありました
薄中隊長の率いし中隊中 戦死したは第二十七連隊の荒井一等卒で 負傷は前山上等兵殿と僕とでありました
前山上等兵殿は尼港にて治療中ですが 僕は後送された次第です」云々
軈て 列車は正午を期し 十七名の傷病将卒を乗せ 看護長 看護卒に看護されて南小樽駅を発車せり
(1920年:大正9年7月29日付 北海タイムスより)
尼港事件の傷病兵17名のうち、15名は病気で、2名が負傷したもの。
向山由五郎一等兵は2名の負傷者のうちのひとりで、両足に銃創を負い、北海道へ後送されたものである。
向山一等兵が所属する「多聞支隊」は4月16日に小樽を起ち、22日に北樺太のアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)へ到着した。
そして北海道からの増援を待ち、5月13日に亜港を出発、間宮海峡北部の港町デカストリには翌14日に到着。
その後、5月25日にキジでハバロフスク方面からの援軍と合流、アムール川を下流に向かって進んでいった。
ツイル付近の戦闘を経て尼港に入るのは6月3日であるが、この戦闘で向山一等兵は負傷したのであった。

▲向山一等兵の所属した多聞支隊の進行経路
さて、この傷病兵たちが札幌や旭川へ向かって南小樽駅を出発した7月28日正午の天気図が残っている。

▲1920年:大正9年7月28日正午の天気図 『天気図』大正9年7月,中央気象台,1920-07. 国立国会図書館デジタルコレクション
天気図をみると日本海北部は低気圧になっているが、北海道は割と晴れていたところが多い。ただ、札幌だけは雨が降ったりやんだりの天気で、最高気温は30.5℃と真夏日。非常に蒸し暑く、大気の状態も不安定だったようで、札幌は雷も観測されている。
このため、傷病兵が乗った列車も、雨の中を走ることになったと思われる。
ところで、札幌測候所での雷の記録は「12時40分、北東方向に雷鳴」というものであるが、まさにこの時間、札幌から北東方向にある当別で雷による被害が発生している。

▲当別の落雷(左)と石狩の突風(右)の記事(1920年:大正9年7月29日付、30日付北海タイムスより)
当別の落雷では、水田で除草作業中の農家の男性が即死している。正午頃から雷雨となっており、札幌測候所の記事と合致する。
なお、右側の石狩での突風災害の記事では発生が「27日の正午頃」となっているが、これは28日の間違いの可能性がある。
石狩市の生振と当別は東西に並ぶ地理的関係性なので、そうなると、28日の正午過ぎ、石狩湾から生振、当別方面へ進んだ積乱雲は、落雷やダウンバーストのような突風を生じるほど活動が活発であり、この積乱雲の様子が、南に少し離れた札幌からも観測できたという情景が浮かび上がってくる。
ところで、この日、雷雲が災いしたのは石狩地方だけではなかった。
道東の美幌付近でも午後4時頃、「猛烈なる雷雨」があり、稲黍(いなきび)の除草作業を行っていた19歳の女性が落雷を頭部に受けて即死している。
さて、この日の午前11時過ぎ、訓子府から置戸方向に走っていた列車から一人の男が飛び降りた。
この男は強盗・窃盗の前科があり十勝監獄で懲役15年の刑を受け、刑期をつとめて出所したのだが、北見周辺で窃盗を働き、2500円もの被害があって、再び逮捕されたものである。
そして懲役10年の判決を受けたばかりだったのだが、判決を不服として控訴し、釧路の裁判所へ身柄を移送される途中、看視の目を盗んで逃亡を図ったのだった。
しかし午後9時半。留辺蘂駅に現れたところを警察に逮捕され、再びブタ箱行きとなる。
積乱雲の寿命と同様、短い逃亡生活であった。