2024年04月30日

北海道歴天日誌 その188(1920年7月28日)尼港傷病兵士の帰還と重なる雷雨・突風

1920年:大正9年7月28日(水曜日)

北海道からニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)の邦人救出に派遣された第七師団の将兵は、全く戦わずに焼け跡の尼港に到達したわけではない。パルチザンとの戦闘は発生し、日本側にも死傷者が出ている。

この日、”名誉の負傷”となった傷病兵のうち17名が船で北海道に戻ってきた。

名誉の傷を負ふて 尼港将卒帰る

尼港傷病将卒十七名の第一回後送は 二十八日午前五時卅分入港の御用船 中華丸にて小樽港へ着せるが 是より先程衛支所内の陸軍運輸本部小樽出張所は傷病兵に対し 夫々上陸の準備をなせり

傷病者は歩行し得るもの十五名 担架使用の兵二名にて 船内より艀船へ背負、埋立地上陸後は直に小樽駅に担架にて運びたるが 第七師団行は十三名、月寒聯隊へは四名にて 患者引取り及び看護の為 旭川と月寒より看護長と各看護卒二名来樽餘受たり

記者は同十一時小樽卒を訪問せるに十七名の傷病将卒は三々五々待合室及び駅外の椅子へ病衣姿にて腰をかけ 四方山の話に耽り居れり

待合室に横臥せる向山歩兵一兵卒、楯岡工兵一等卒を尋ね慰安せるが 向山一等卒に右脚の包帯を気にしつつ斯く語れり

「僕は厚岸町のものですが 小樽へ帰りましたら気候の暑いのに驚きました
尼港の気候は昼頃でも袷衣に単衣三枚もかけねば寒くてたまりません

僕は三月頃 多聞支隊に加はり 亜港へ上陸 デカストリーからキヂ、マリンスクへ転戦 尼港へ向ってツイルまで参りましたは五月三十一日の夜で 此処の砲台を占領しやうと〇大尉の率いる一個中隊で夜襲をしましたが 敵兵三百名許り逆襲し来まして 大衝突となり 終に砲台を占領 別動隊は尼港へ向かって前進した

此の夜襲は夜から朝にかけてで 敵の死者七十名 負傷者も数十名ありました
薄中隊長の率いし中隊中 戦死したは第二十七連隊の荒井一等卒で 負傷は前山上等兵殿と僕とでありました

前山上等兵殿は尼港にて治療中ですが 僕は後送された次第です」云々

軈て 列車は正午を期し 十七名の傷病将卒を乗せ 看護長 看護卒に看護されて南小樽駅を発車せり
(1920年:大正9年7月29日付 北海タイムスより)

尼港事件の傷病兵17名のうち、15名は病気で、2名が負傷したもの。
向山由五郎一等兵は2名の負傷者のうちのひとりで、両足に銃創を負い、北海道へ後送されたものである。

向山一等兵が所属する「多聞支隊」は4月16日に小樽を起ち、22日に北樺太のアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)へ到着した。
そして北海道からの増援を待ち、5月13日に亜港を出発、間宮海峡北部の港町デカストリには翌14日に到着。
その後、5月25日にキジでハバロフスク方面からの援軍と合流、アムール川を下流に向かって進んでいった。

ツイル付近の戦闘を経て尼港に入るのは6月3日であるが、この戦闘で向山一等兵は負傷したのであった。

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▲向山一等兵の所属した多聞支隊の進行経路

さて、この傷病兵たちが札幌や旭川へ向かって南小樽駅を出発した7月28日正午の天気図が残っている。

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▲1920年:大正9年7月28日正午の天気図 『天気図』大正9年7月,中央気象台,1920-07. 国立国会図書館デジタルコレクション

天気図をみると日本海北部は低気圧になっているが、北海道は割と晴れていたところが多い。ただ、札幌だけは雨が降ったりやんだりの天気で、最高気温は30.5℃と真夏日。非常に蒸し暑く、大気の状態も不安定だったようで、札幌は雷も観測されている。
このため、傷病兵が乗った列車も、雨の中を走ることになったと思われる。

ところで、札幌測候所での雷の記録は「12時40分、北東方向に雷鳴」というものであるが、まさにこの時間、札幌から北東方向にある当別で雷による被害が発生している。

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▲当別の落雷(左)と石狩の突風(右)の記事(1920年:大正9年7月29日付、30日付北海タイムスより)

当別の落雷では、水田で除草作業中の農家の男性が即死している。正午頃から雷雨となっており、札幌測候所の記事と合致する。
なお、右側の石狩での突風災害の記事では発生が「27日の正午頃」となっているが、これは28日の間違いの可能性がある。

石狩市の生振と当別は東西に並ぶ地理的関係性なので、そうなると、28日の正午過ぎ、石狩湾から生振、当別方面へ進んだ積乱雲は、落雷やダウンバーストのような突風を生じるほど活動が活発であり、この積乱雲の様子が、南に少し離れた札幌からも観測できたという情景が浮かび上がってくる。

ところで、この日、雷雲が災いしたのは石狩地方だけではなかった。

道東の美幌付近でも午後4時頃、「猛烈なる雷雨」があり、稲黍(いなきび)の除草作業を行っていた19歳の女性が落雷を頭部に受けて即死している。

さて、この日の午前11時過ぎ、訓子府から置戸方向に走っていた列車から一人の男が飛び降りた。

この男は強盗・窃盗の前科があり十勝監獄で懲役15年の刑を受け、刑期をつとめて出所したのだが、北見周辺で窃盗を働き、2500円もの被害があって、再び逮捕されたものである。
そして懲役10年の判決を受けたばかりだったのだが、判決を不服として控訴し、釧路の裁判所へ身柄を移送される途中、看視の目を盗んで逃亡を図ったのだった。

しかし午後9時半。留辺蘂駅に現れたところを警察に逮捕され、再びブタ箱行きとなる。
積乱雲の寿命と同様、短い逃亡生活であった。
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2024年04月28日

北海道歴天日誌 その187(1920年7月19日)小樽の中学生による善行と蛮行

1920年:大正9年7月19日。

この日の北海タイムスには、中学生の、まったく正反対の性格の記事が掲載された。

学生美譚

北海中学校五年生 堀内敬作君は本月十三日の善行の廉に依り 戸津校長より表彰された
同君は 毎日学友二十名と共に小樽より汽車で通学し居るが 去月二十七日 常の如く放課後汽車にて帰樽の途中 朝里駅より慌しく泣き叫ぶ四才位の小児を抱き抱えて乗車せる三十七 八才の漁家の妻女らしき一婦人があった

見れば 子供の足から生々しい鮮血滴り 見るも物凄き有様で 其足は汽車に切断されたと云ふ

同車内に乗合せたる人々も多数あったが 其母子が身辺の穢汚しいのに何れも躊躇して近寄らうともしない
夫を堀内君は穢汚しきをも顧みず 車中では何くれとなく世話をなし汽車が小樽駅に着くや駅員に事の由を告げて 改札口にて通過せず レールを横切り子供を抱き 或は薄汚なき手荷物を持つ等 手を尽し 直ちに小樽病院に入院させたと云ふ

同君が平常の品行も可良なるのみではなく 斯る善行をなして 而も 旬余の間 黙過して居たのは誠に世の模範とすべき善行であると云ふので 前記の如く表彰されたのである。
(1920年:大正9年7月19日付 北海タイムスより)

堀内敬作君は、小樽から札幌の北海中へ通学していたとあるが、汽車の中でケガをした子供の「救護活動」を行い、そのことが素晴らしい行いとして表彰されたのである。

堀内君はその後、明治大・商学部へ進み、不動産や金融等を扱う実家の堀内商店に入ったのち、留萌で堀内酒店を開き、店主となったようである。その酒店も現在はもう留萌には存在しないようだ。

堀内君に助けられたほうの少年(少女?)のほうは氏名がなく、その後どうなったのかはわからない。

堀内君は小樽の出身だから、小樽中学校へ進むという選択肢もあったと思われるが、その小樽中の生徒の行いが同日の紙面で記事になっている。

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▲小樽中学校生徒の退学(1920年:大正9年7月19日付北海タイムスより)

小樽中では、春のテニス大会の後の慰労会をきっかけに、学生が酒を呑むようになり、5名に退学処分が下っていた。

このうち、2年生の犬上慶雄君は、第一次世界大戦で大儲けした船成金・犬上慶五郎の次男とみられる。彼はのちに、早稲田大・法へ進み、犬上商店へ就職、戦中は東京の支店長をやっていたようである。犬上商店はもう今はないようで、もともとの”犬上商船”も存続はしているようだが、今の事業内容ははっきりしない。

退学処分を受けた学生たちはさらなる騒ぎを起こしている。

樽中 教諭糞尿責め

庁立小樽中学校にて風紀を乱したる第二学年犬上慶雄、第四学年 福原隆蔵、有馬一郎、横山久雄、第五学年渡辺精吉の五名は退学を命ぜられ 此外 停学生一名も戒諭されたる学生五名ありたるは既報の如くなるが

福原、有馬の両名は改悛の状 見えしも 横山久雄、犬上慶雄、渡辺精吉の三名と戒諭されたる第五学年安達直治及び卒業生中の不良青年 小林幸一郎の五名は某所へ集合 今回の退学に至りしは河野教諭が清水校長に測りたる結果なりとて 河野教諭を深く怨み

横山久雄は一同に同教諭宅へ糞尿をかけよと命じ 四名は久雄指揮の下 小林幸一郎と安達直治は教諭宅付近より糞尿を担ぎ込みて 河野教諭の玄関口へ投込み 尚ほ 玄関の小口へ糞を塗つけ、犬上は塀側の塵芥函を搬出して 入口一杯に塵芥を撒き散らし 渡辺は塀の下の大石二個を搬出し 玄関の口へ投げつけ 乱暴狼藉を極めて引上げたる事 一昨日に至り判明せるが

小樽署の耳へも入りたる形跡あれば 近日処罰さるるに至るべく 又 在学生にて乱暴を働きたる安藤直治は退学処分となるべしと伝へられ居るが 呆れ果たる不良青年等といふべし
(1920年:大正9年7月23日付 北海タイムスより)

退学処分を逆恨みして、集団で教師に仕返しを行ったということである。こうなってくると、もう犯罪行為とみなされてもおかしくないのであるが、いやはや、同じ小樽の中学生であるが、行動の差には驚かされる。

中学生と同年代の学生といえば、師範学校の生徒もいる。
1920年:大正9年7月24日午前3時半、札幌師範学校の生徒9名は、”北海道マラソン界の壮挙”となる札幌−室蘭間の走破に挑み、北海タイムス社前を出発していった。

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▲出発する札師選手(1920年:大正9年7月23日付 北海タイムスより)

スタート後の、4時の札幌の気温は17.8℃だったが、9時には26℃を超え、午後2時には29.3℃まで上がった。また、南南東の風が日中は7〜8m/sにもなったため、暑さと向かい風の中のマラソンは非常に肉体的に厳しいものになったことであろう。

暑い中、しかも超長距離のマラソンはそれまで師範学校では経験がなく、現在のマラソン同様、給食や給水も用意したのだが、何を用意したらよいかよくわからず、卵や牛乳、麦茶、砂糖水、サイダーといろいろ並べたようだ。結果、牛乳を飲み過ぎて腹を下したり、水分補給はなるべく少なくとったほうがよいとか、少しの葡萄酒が効いたなど、学びがあったとのこと。

二人の落伍者を出したものの、残りの七名は翌25日、予定よりやや早く室蘭へ到着。”壮挙”となったのであった。
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2024年04月27日

北海道歴天日誌 その186(1920年7月24日)尼港事件の遺骨が小樽へ

1920年(大正9年)7月の北海道。
この頃は「尼港事件」が世間の関心事となっており、700人を超える犠牲者の中に、数十人の北海道関係者が含まれていることがわかりつつあった。

札幌からは1名の行方不明者が出ており、家族の談話がとれている。

札幌の時計商人 尼港で行方不明

既報、区内南七西八 一番地 楠米治(六〇)長男 清人(三八)は十数年前 尼港に渡航し 時計商を営み居たるが 今回の事件に際し パルチザンの毒手に触れたるものの如く 近来 着信 更に無しと云ふ

米治の四女 サト子(二〇)は目下 札幌実科高等女学校 本科一学年に在学中なるが 往訪の記者に対して涙ながらに語る
「兄は今年三十八才ですが二十四 五の時 尼港へ参りました 而して 時計屋を営んで居りましたが 昨年の十月余から音信が絶え 生死不明なので去月二十一日に確報を得たいと存じまして 内務省へ依頼して置きましたが 未だに何等の報知に接しませんから 家族一同は死んだ者と思って居ります、

それに赤十字社の方からも通知がありませんから 過般 山鼻別院で執行された追弔会にも遺者の一人に数へられて居りまして 宅からも焼香に参りました

現在 家族は五人で 父母と私と妹二人暮らしでしたが 母は此間 樺太に居る二男信治(三五)方へ参りまして、今はアイ、サノ(一七)と父と私の四人暮らしでございます」云々
(1920年(大正9年)7月7日付 北海タイムスより)

札幌実科高等女学校というのは、現在の札幌東高校。
札幌には当時、札幌高等女学校があったが、こちらは「北海道庁立」でのちの札幌北高校。この実科高等女学校は「札幌区立」である。

尼港事件は非常に悲惨な事件だが、日本人は生存者がほとんどいないため、行方不明となった人がどうなったのかを知る事は非常に難しい。
きっと、楠家も、最後まで長兄の消息を知る事は出来なかっただろう。
そして語る者がいないからか、100年余りが経過して、すっかり過去に置き去りにされた、忘れられた事件となっている。これがまた悲しいところ。

尼港から離れた場所で暮らしていた日本人がなんとか生き延び、北海タイムス記者に語った談話を。

パルチザンに襲われた森林の生活も今は夢 月寒聯隊に救はれた山本夫妻

山本夫妻は 其後 引続き雇人として派遣隊司令部に働きつつあるが 二十一日バランコルフ号に於て余に語った

全く夢の如で御座います

はじめ一月四日午前 パルチザンのアムウル司令官ラフタが数十の部下を連れてソロソツエに掠奪に来ました時「此村に日本人で山本といふ者の夫婦が居る筈である、一歩も村から外に出しては成らぬぞ」と酷しく命令したさうで 其夜は寺院で彼等の歓迎会が開かれましたが私は出席せず 彼等が村を立去ると共に 私達の保護者であったイワノフ村長に善後策を相談しました

其後 当分其儘でいましたが 尼港で大市街戦が演ぜられ 日本人が大分殺されたと聞いた時 自分たちは何なる事かと思ひましたが 五月二十日頃でしたか 私を殺しに来るといふ噂を聞いたので 森林の中へ二人でメリケン粉一袋を持って逃げ込みました。

其後パルチザンは私を非常に捜索し 為に 村長其他 五 六のギリヤアク人は ピストルを口元まで見せられたさうでありましたが「知らぬ存ぜぬ」の一点張で私をかばって呉れましたので お蔭で生きのびました

山中の生活は柳の小枝を折曲げて 二人が漸くに入れる丈の物を造り パン粉を嘗めていましたが 夫も危険だったので 五 六日目には必ず場所を代へました

其間 笛の合図をきめていましたので 村人が時々パンを持って来て呉れました
親切はどうして忘れられましょうか

二連発の猟銃に弾丸を込めたのは一分も手を放したとはありませんでした
軍艦が下江すると聞いたとき 是非出て ツイル附近の水雷のお話がしたいと存じ あせりましたが ソロンツエにパルチザンが居たので 出るに出ることが出来ませぬ

そのうちに尼港が日本軍が占領したといふことを聞かして呉れた村民があったもので御座いますから 一番私の為に尽して呉れたイワノフ村長にお願いして お助けを乞ふて かうして助けられたのは全く夢よりも不思議に喜ばしい次第であります

尼港在留民が悉く虐殺されたと軍艦で聞いたときは気がボォッとして了ひました
何とも申せませぬ

私が生残ることが出来たのは何といふ不思議な幸歴者で御座いませうと 嬉し涙に暮れて居る丈であります
(1920年:大正9年7月19日付 北海タイムスより)

ここで登場する「山本夫妻」は、山本灸三郎と日高たつの の二人のことと考えられる。
パルチザンは尼港だけでなく、アムール川下流域の日本人を皆殺しにしようとしたようだが、夫妻は親切な村人に匿われて、山中で逃避生活まで送り、九死に一生を得ることができたようだ。


▲山本夫妻が匿われた”ソロンツェ”

尼港で戦死・虐殺された水戸連隊所属の将兵約340名の遺骨は、7月24日午後2時、第一多聞丸で入港した。
そして、8名ずつを1つの棺に納め、白い布に包まれた43の棺が小樽の在郷軍人に担がれ、楽隊とともに葬列を組んで夜の小樽の街を進んだ。

数万と伝えられる沿道の人々の中を、葬列は小樽公園へ進み、午後9時からは大追悼式となる。
第七師団長の弔辞、道庁長官代理の尾崎内部部長の弔辞。そして一般参列者を含め焼香が行われて、小樽の大追悼式は終了した。

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▲1920年:大正9年7月24日18時の天気図 『天気図』大正9年7月,中央気象台,1920-07. 国立国会図書館デジタルコレクション

この日、四国地方には台風が上陸したが、北海道は高気圧に覆われ、日差しや晴れ間が多かった。
札幌の最高気温は30.8℃で、南東の風がやや強かったことを考えると、小樽はもっと気温が高かった可能性がある。
午後6時も25℃を超えており、昼間の暑さが残る中での葬列、そして大追悼式であった。

翌25日、朝6時35分。遺骨は南小樽駅から、水戸へ向かって出発した。




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2024年04月23日

北海道歴天日誌 その185(1920年7月1日)濃霧の中に”釧路区”スタート

1920年(大正9年)7月1日(木曜日)。

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▲1920年:大正9年7月1日6時の天気図 『天気図』大正9年7月,中央気象台,1920-07. 国立国会図書館デジタルコレクション

大陸が低気圧、本州方面に高気圧で、北海道はやや気圧の谷の中に入っている。
このため、北海道では雨のところが多い。釧路は丸の中に点が打ってあるので、日本式天気記号では「霧」である。

釧路の7月は、一年でもっとも霧がかかる月。平年では16.2日というから、二日に一日は霧になる。
この年も霧でスタートした7月であるが、1920年の7月1日は釧路にとっては大きな節目の日であった。

名物の濃霧に包まれ 全区慶に浮立つ

釧路区制実施第一日たる七月一日を祝するため 公会堂に官民連合祝賀会を開く
当日朝来 濃霧に閉ぢられ 稍冷気を覚えたるも 爆々たる煙火の音に記念すべき日の慶びに 区内は浮立ちて見ゆ

午前十時 先づ吉井区長事務取扱 林田前町長以下 並に 元公職者一同有志四十余名 米町高台なる郷社 厳島神社に参集 荘厳なる奉告祭を執行
十一時より愈々公会堂に祝賀会を開く
参加せる官公衛重立者 一般区民 の数三百余名と註され 稀有の盛況を呈せり

振鈴と共に一同着席するや 林田前町長 開会の挨拶を述べ 全員最敬礼の裡に戊申詔書を奉読し終はりて 吉井区長事務取扱の式辞あり

引続き乾道庁地方課長 林田前町長、落合裁判所長、前町会議員代表者 前田氏等の祝詞 演説あり 閉式の後
直に祝宴を開く 当日は釧路見番、大井見番より芸妓全部の接待寄附あり

献酬の間に斡旋せるが午後一時となれば 早くも各学校児童 各実業団体 、仮装行列の公会堂前に集合せるあり
祝賀会列席者と万歳を呼び交わして 行列は浦見町、米町、真砂町、幣舞橋を経て 西幣舞大通りを停車場前に出て 三時半漸く散会す

此日 区内は 毎戸国旗を掲げ 夜に入ては 球燈を吊し 朝より夜まで祭礼の如き装飾にて華々しく賑へり
(1920年:大正9年7月4日付 北海タイムスより)

この7月1日から釧路は「町」から「区」に昇格した。

当時の北海道には「市」はなく、市に準じた「区」は設置されていて、札幌・函館・小樽の3区から始まり、大正に入ってから旭川、室蘭が区になり、そしてこの日、釧路が道内6番目の区になったのである。

ただし、これには条件があって、町全体の面積に占める人口集中域の面積がある程度大きくないと、区として認められないということであった。このため、釧路町は、区となるために、人口集中地域と人口希薄地域を分割することとなった。要は、農村・漁村部の”分村”が行われたのである。

ということで、この日、釧路区とともに、「釧路村」も誕生した。
年月を経て、両者は「釧路市」と「釧路町」となったのだが、分村当時の経緯もあってか、昭和や平成の大合併でも一緒になることはなく、今も隣町に並び立つ状態が続いている。


ところで、上の天気図は北緯50度くらいまでしか描かれていないが、大陸で等圧線の傾きが大きいのは発達した低気圧があったからのようで、アムール川下流域では暴風雨となっていたらしい。

この日、アムール川河口近くの港湾都市、ニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)には、札幌から派遣された歩兵第25連隊の兵士が”パルチザン狩り”や邦人救援のため出動しており、暴風雨に遭遇している。

黒龍江の水逆巻いて 惨殺の死体浮く

一日夜来の暴風の為 焼跡の鉄板は転々として鳴り 黒龍江の水は浪逆巻いて物凄き中に 尼市とチヌイラフ間の河川屈曲せる三里餘の河岸には 長日河底の泥中に埋りし惨殺の死屍累々として 浮上り打寄せつつあり

予は今 現場を巡視して帰れるままなるが 二日中に河岸に打ち揚げられし死屍は幾十を以て数ふべく

悉く 身には黄色の泥土を着け居るを以て見るも 惨殺後 河中に投ぜられし死屍が 長く河底に埋り居りたるものなることは明白なるべし

内 日本人の死体二十一個あり、大部分は婦人にして 中には頭脳を破られて半分よりなきものあり 腹部を露出せるもあり
何人なるやを明白にする能はずと雖も 軍人も一 二 夫れらしきもの見られたたれど
憐れを止めしは紺のクツツキを着用せる職人体の(或は大工か?)男なりき

死体は硬張りいたれども クツツキは半糜爛(びらん)して 頭部に三ヶ所 胸部及び腹部に十数ヶ所の研創あり

如何にしても二タ目と正視すべからず
今や尼港付近河岸は此暴風雨の為め 再び占領当時の地獄の相を現出せる如き感あり

尼港の気候激変

尼港地方一帯 大陸的気候地帯として 天候快晴なる日の午後は厳しき暑さを見すれども 夜はやはりスチイムまたはペエチカの力を借らざれば凌ぎ難きは 既に日本人も充分知れる處なるが 近頃 快晴一週間以上続き 焼跡の生臭き塵埃と臭気とに苦しめられ居りし 折柄 七月一日夕より吹きかけし強風は 二日に至り雨を加へて愈々激しく暴風雨と成り 了れり

為に 気温は著るしく低下して 余の如きはスチイムを通ぜる一坪半ほどの小室にありながら なほ 地厚の冬服にオーバーを欲するほどなり

出征軍人諸君は 士気 頗る昇れども なほ天候と水との関係か 病人は予想以上に高きパアセンテエジを示しつつあり。
(1920年:大正9年7月8日付 北海タイムスより)

尼港では在留日本人と駐留日本軍(陸軍)の第2連隊(水戸)兵士などあわせて700人余りがいたが、ほぼ全員がロシアの赤軍パルチザンに惨殺された。

惨殺発生時期が流氷に覆われた3月であったことや、通信が断絶していたこともあり、日本側ではなかなか救援を現地へ派遣することができないうちに、尼港の殺戮はロシア人などの日本人以外の住民も対象となり、5月20日以降の数日間で約3000人が殺害され、捕虜となっていた日本軍の兵隊も5月24日に全員がアムール河岸に連れ出されて虐殺された。

小樽を発した札幌・月寒の第25連隊を主力とした救援軍が尼港に入ったのは6月に入ってから。
上記のレポートは7月1日から3日に書かれているので、一か月が経過してもまだひどい臭気が漂う現地の凄惨な状況が伝わってくる。

7月8日付で、北海道出身の殉難者は14名と報じられ、15日には軍人も含めた道内関係の犠牲者名が報じられた。

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▲尼港事件の本道犠牲者氏名(1920年:大正9年7月15日付 北海タイムスより)
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2024年04月20日

北海道歴天日誌 その184(1920年6月24日)雨の記録にウラ側に・・・雷の犯した罪

1920年:大正9年6月24日木曜日。

今回は天気図からみていく。

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▲1920年:大正9年6月24日正午の天気図 『天気図』大正9年6月,中央気象台,1920-06. 国立国会図書館デジタルコレクション


日本の東には高気圧。しかし、日本付近は気圧の谷の中であり、北海道にも低気圧が進んできている。
網走は黒丸なので「雨」である。

この日の網走の気象記録をみると、午前6時40分以降は雨が降ったりやんだりの天気。
なかでも、18時45分からの雨は「強度1」、19時45分からの雨は「強度2」と記録されている。

この「降雨強度」というのは、気象解説でいう「雨の強さ」ではなく、大気現象の観測上の基準(ルール)。
瞬間的な雨の強さが3mm/h未満の場合は「0」、15mm/h以上は「2」、その間は「1」とする決まりとなっている。

実際、網走ではこの時間帯に1時間に11.2ミリの降水量を記録。2024年現在でも6月8位にランクインする強雨を観測した。

また、この強い雨とともに起きたのが雷で、18時40分に南西方向で雷鳴と電光を確認、20時には天頂付近で雷鳴・電光があり、振動も感じられている。その後、雷鳴と電光は東の方角へ移動し、21時05分にはおさまったとある。

したがって、北海道にやってきた低気圧はただの低圧部ではなく、上空に強い寒気を伴っており、大気の状態は不安定であったことが想像できるもの。

この雷雲は網走へ至る前に、殺人の罪を犯していたかもしれない。

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▲1920年:大正9年6月26日付北海タイムスより

網走の土木派出所。いまでいう北海道庁オホーツク振興局の建設管理部にあたり、渚滑川の治水工事を発注・監督する業務を担っていた。
「渚滑川二十一線」については令和の現在でも渚滑川の河口から内陸に向かって「線」の地名が残っているので、ほぼ場所は推定できる。

したがって、中渚滑の郵便局から一本南側を東西にのびる道路が二十一線であるから、このあたりで惨事は発生したのだ。


▲東西に延びる道路が「二十一線」。左側の大きい川が渚滑川であり、このあたりが落雷事故現場となる

この犠牲については、道の「災害年表」には記されていない。
大正時代の記事をみていくと落雷事故はまあまあ数があるのであるが、災害との認識がなかったわけではないだろうし、現在の交通事故ほど”珍しくもなんともない”という事故でもないため、この災害教訓が語り継がれていない理由は”ナゾ”である。

この日の雷で被害があったのは紋別だけではない。

北見の落雷

去月二十四日午後五時半 物凄き雷雨の折柄 北見国常呂郡佐呂間村中佐呂間三線 袖山幸助宅に俄然落雷し 家屋及び厩舎全部焼けたるが 幸ひに人畜に死傷なく 損害二千円位
(1920年:大正9年7月2日付 北海タイムスより)


佐呂間では落雷火災が発生している。中佐呂間は、現在の佐呂間町の中心街にあたり、ここも南北方向に「〇線」の地名が残っているのでだいたいの場所が想像つく。

命を奪い、家屋を焼いた雷雨の威力は、気象観測網に辛うじてとらえられ、網走の気象記録にその片鱗が記され、今に至る訳であるが、データだけを眺めているとここまでの背景はわからない。やはり、記録と記事はあわせてみていかないとならない。

さて、翌25日も道内は雨のところが多かった。
札幌では、記者がこの雨を「咽ぶが如き五月雨」と表現した。

弔旗慈雨にぬれて 会衆涙を呑む

朝来咽ぶが如き五月雨 しとしと悲しく灌(そそ)ぎ 異域の土 深く怨みを呑んで眠れる英魂を悼むが如き 昨二十五日、札幌在郷軍人分会及び仏教連合会主催の 尼港戦死殉難者の大追悼会は 東本願寺に於て 執行された

朝来の雨天は正午より俄に晴上がり 午後一時 区内各宗寺院に於て 撞き鳴らす梵鐘の音 殷々として 全区に響き 互や参拝の老若男女 頻々と詰めかける式場に於ては 内野第七師団長、長官代理尾崎内務部長、佐藤大学総長、佐藤区長を始め 区内重立者等来賓二百五十余名 及 一般参拝者 約三千余名 粛然として席に就くや午後一時三十分 松本在郷軍人分会長 開式の辞を述べて降壇すると共に奏楽起り 東本願寺別院輪番以下 僧侶席を定め読経に入る

仏事は約四十分にして終り 内野師団長 先づ立って悲痛なる弔辞文を朗読するや 満堂一人として感激せざるものなく 続いて尾崎内務部長長官の弔辞を朗読、佐藤区長の弔辞朗読、岡司令官弔辞 麻生少佐代読、佐藤大学総長及阿部教育会長 以下 多数列席者の弔辞 追悼文朗読ありたるが 何れもパルチザンの暴虐に激せざるはなく、弔詞終って一同焼香をなし 内野師団長の長講演あって 午後四時過 閉式した

尚 此間 区内各女学校 中学校生徒 卒塔婆前に於て焼香をなしたるが 一般参拝者は後よりと押かけ行き 堂の外に溢れ 凄まじい混雑であった

因に 赤十字支部から救護班として応援し 愛国婦人会員も種々接待に努めた
(1920年:大正9年6月26日付 北海タイムスより)


19200626尼港事件法会宣伝隊.jpg

涙雨のち晴れ、という天気の中で挙行されたのは、「尼港事件」の被害者に対する札幌区を挙げての追悼会であった。
尼港の日本人居留民と駐留日本軍の虐殺は、日本国民、もちろん北海道民にも深い悲しみと憤りを与えていた。
この頃、道内では各地で尼港事件の犠牲者に対する追悼会が五月雨式に開催されている。

尼港での道内犠牲者については、7月に入ってからぽつぽつと記事が出てくる。そのあたりはまた後日に。
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2024年04月14日

北海道歴天日誌 その183(1920年6月14日)夕張北上坑でガス爆発事故発生

1920年(大正9年)6月6日。
時期的に極めて異例な台風の北海道接近・上陸があったこの日。
荒天によってひとつの行事が翌日に延期された。

その行事は夕張で開催された「北海道炭坑汽船株式会社社友会運動会」。
夕張の鹿の谷にあった会社所有のグラウンドで、開催されることになっていたが、6日は雨となったため、1日延期して7日に開催された。

会社幹部に加え、警察署長や夕張の公職者なども集まり、数字拾いや計算競走、二人三脚、うさぎ跳びといった競技もあれば、600ヤード競争などの本格的協議、また、婦人提灯やお給仕徒競走といった変わり種の種目もあって、年に一度の運動会を大いに楽しんだ。

楽しい運動会から一週間後、6月14日。

19200614天気図.jpg
▲1920年:大正9年6月14日正午の天気図 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

北海道は高気圧に覆われている。札幌は一日を通して晴れて、最高気温は22.9℃。旭川は26.3℃まで上がっている。
夕張も、青空の中に積雲が浮かび、穏やかで過ごしやすい陽気だったことは間違いない。

午後4時50分。その穏やかさを切り裂くような衝撃音が夕張市街地に轟く。
その音は、運動会の会場となった鹿の谷まで伝わったという。

誰もが悲劇の発生を予感した。

夕張北上天神両坑爆発し 生霊二百余奈落に埋まる

十四日午後四時五十分 轟然たる爆発は 耳朶(じだ)を貫ぬいて地揺るぎを感じた
瞬間にして 夕張鉱方面に黒煙は渦を捲いて奔騰(ほんとう)した

次いで地鳴りする音響は鹿の谷方面まで響いたので 夕張本町市街地町民は勿論 鹿の谷住民まで右往左往に狂奔して 瓦斯(ガス)爆発の大椿事を呼応する
市街地は煮え立つ熱狂の巷と化した

記者は倉皇(そうこう)として夕張鉱に駆け付くる道すがら 鉱業地区域に入れば 両眼を涙で泣き腫らし 髪もしどろに素足で駆け出す女もある
夫を呼び 父子兄弟の安否を気遣ふ無数の男女は 狂せん許りに蒐(か)け継て 雑踏を極むる

軈(やが)て 爆発せる北上坑を〇配する丁未事務所に至れば 附近は人の波を打って 泣く人 悲しむ人 名状すべからざる光景を呈した

北上坑は爆発の為に崩壊して 夕張鉱の模範坑口と称する施設は 木端微塵に破壊されて 形跡だも止めない
難たる惨憺なる光景であらうか

・・・

爆発の時刻は一番方は大半出坑して 二番方は交代入坑しつつあるときで、入坑人員は百九十五名の内 役員九名に坑夫は百八十六名であったが、凄まじい瓦斯の爆発と共に 酸鼻すべき死を何れも遂げたのである

爆発と共に輸車路坑口は無惨なる崩壊をしたが、人道の坑口は現状の儘であったので、技手 下村金之助氏は死を決して坑夫 井崎忠一、小南岩吉、原野辰次郎、小頭 藤村長三郎の三氏を引率して、奮然坑内偵察に入坑したが、瓦斯は坑道に漂って居るので 直に窒息し 辛うじて藤村小頭は後より之を憂慮して入坑した坑夫松本松太郎氏の義勇的動作によって救助されたのみで、下村技手外三名の坑夫は死体となりて 救命器隊に依りて搬出された

其後 入坑者の死骸で収容されたのは 僅二名のみである

午後十一時頃 北上坑の瓦斯は発火を起し 火炎坑外に噴出して凄惨を極め、為に 決死的出動の救命器隊さへ入坑すること能はざる

救命器隊は勿論、坑夫の努力により翌十五日午後二時に完全に密閉作業を終えたのである
(1920年:大正9年6月17日付 北海タイムスより)


19200614夕張北上坑.jpg

北炭北上坑のガス爆発事故である。

続く記事によると、北上坑は当時、夕張炭鉱の生命ともいわれた坑道であり、北炭としても自慢の坑道だったという。
1891年(明治24年)に「第二斜坑」として開坑。しかし、この坑道はガスが多く、1912年(明治45年)4月と同年(大正元年)12月に2度の大爆発事故を起こし、それぞれ200人以上の死者を出している、”呪いの坑道”でもある。

そして竪坑の天神坑は当時の金額で100万円をかけ、この年(1920年)の5月にようやく完成した坑道施設というから、本格操業からわずか一か月余りに過ぎない。一年で30万トンの出炭を予定していたのだが、この事故により施設は破壊され、坑口は密閉となり、会社の損害は600万円を下らないと言われた。

事故の一週間ほど前からガスが多く出てきており、現場によってはガスの噴出がひどいので、作業に入った炭鉱夫も作業できずに戻ったことがあったと伝えられている。

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▲北上坑爆発事故の犠牲者を知らせる紙面(1920年:大正9年6月17日付北海タイムスより)

上の紙面から、炭坑で働くさまざまな職種の、さまざまな年齢の作業員が、ガス爆発によって亡くなっていることがわかる。
そして、後ろに続く家族の人数は、事故で一瞬にして一家の大黒柱を失った人数を意味する。

死者は、決死隊の4名を入れて209名。負傷者はわずかに6名であり、炭鉱事故の恐ろしさを物語っている。
北炭は結局ほとんどの遺体を搬出しないまま坑口を閉じたのだが、この残酷な仕打ちに対して当時の坑夫組合は末広町の共同墓地に「北上坑遭難者之碑」を建立している。

この事故を受けて、北上坑は閉鎖される。

戦中も再開されることはなかったのだが、1957年(昭和32年)に志幌鉱として再出発を果たす。
しかし、10年後の1967年(昭和42年)閉鎖され、廃坑となった。

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北海道歴天日誌 その182(1920年6月6日)実は史上最早?台風が北海道上陸!

台風が北海道に接近するのは、平年では1.9個。
ただし、これが6月となると0.1個となるので、頻度としては10年に1回あるかないかである。5月以前の台風の接近はない。

そんな珍しい6月の台風が、大正時代、北海道にやってきたことがある。

1920年(大正9年)6月の気象要覧には、6月4日に日本の南方に台風が出現し、5日は八丈島付近に達し、6日には根室付近を経てオホーツク海に進んだと記載されている。

現在の台風の統計は1951年以降が有効なので、この台風の動きは”参考記録”の扱いとなろうが、ひょっとすると「北海道への台風接近・上陸の最早記録」を持っているのは、この台風かもしれない。

19200606天気図.jpg
▲1920年(大正9年)6月6日午前6時の天気図

天気図に示したように、台風は6日朝には根室付近に到達している。
温帯低気圧に変わってきている可能性もあるが、この台風は海上をずっと進んできており、中心気圧も980hPaほどなので、中心付近は台風の構造を保っていた可能性は十分あるのではないかと思われる。

道内の最低気圧は釧路で観測した973hPaで、根室の974hPaよりも低い。このため、台風は釧路付近に上陸し、道東を横断して知床付近からオホーツク海に抜けて行った模様だ。

最大風速は、紗那で6日13時に26.7m/sと暴風が吹き荒れたほか、根室でも17.0m/s、釧路は13.4m/s、帯広12.7m/s、札幌11.8m/s、網走10.7m/sなど、各地で強い風が吹いた。

網走では6日4時までの1時間降水量が16.8mmであり、100年以上経過した現在においても、1時間降水量の6月1位の記録を保持し続けているし、日降水量62.7mmも6月3位の記録である。
釧路も92.9mm(6月5位)の大雨で、旭川も47.0mmだが、雨の少ない6月とあって、やはり6月5位の記録となっている。

この、極めて珍しい「6月上旬の台風来襲」は北海道にしっかりと傷を残していった。

昆布森の悲惨事

六日午前六時頃 釧路郡昆布森村大字跡永賀字冬窓床六番地 戸主 漁業 高橋政吉方裡高地 高さ三十六尺の所より 約二百坪の土砂突然崩壊し 同家を圧倒せる為 居合わせたる政吉を除き 九人中左記八名は土砂に埋没して悲惨の圧死なり

政吉庶子 高橋亀次(二二)同人妻ナヨ(二一)政吉孫 房市(一ツ)、
雇入漁夫 関川栄作(二十)同 筑波信治(三三)、
政吉継母 片山タケ(七八)政一妹片山トシ(十七)、政吉の親族 仙鳳趾村セキネップ一番地 三浦寅太郎(四四)

釧路警察署は崩落の原因を調査せるに 同地方は四月二十八日以来 連日の降雨の為 附近一帯に地盤緩みを生じ 加ふるに本月五日夜来強雨の為 俄然崩壊せるものなりと
(1920年:大正9年6月11日付 北海タイムスより)

冬窓床と書いて「ぶゆま」または「ぶいま」と読む。釧路から厚岸の間の海岸線は道内屈指の難読地名のオンパレードであるが、そのうちのひとつで起きた土砂災害。

このあたりはがけ下の狭い平地に家を建て、目の前は海、といった地形なので、大雨があるとがけ崩れは起きやすい。
冬窓床では昭和の終わりにがけ崩れの危険性を避けるため、残っていた6戸が昆布森に移転したとのことで、今は定住者はいないようだが、昆布干しなど漁業は行われているよう。

旭川の各川増水

五日午後十一時四十分よりの豪雨は 折柄の西風に煽られ 益々激烈となり 六日午前四時頃まで雨の如き豪雨と変じ 正午迄には一坪当り八斗六升一合雨量あり

之が為 旭川区内を通過する牛別 忠別の二川は四 五尺増水を見るに至り
未だ危険状態に非ざるも 引続き降雨あれば多少の氾濫を免れざるべし

又 低地は到る處 濁水溢れ 交通困難なり 石狩川は十尺の増水にて濁流とうとうとして 鉄道三ヶ所も多少の危険あるを以て目下警戒中なり
之が為 同日午前五時三十分発網走駅三六三列車 緋牛内−端野間の土砂崩壊し 為に 仙美利駅にて停止し 八百四号列車となりて旭川駅に引き返せるが 本日午後四時頃迄に開通する見込みなり
(1920年:大正9年6月7日付 北海タイムスより)

当時の永山村では、9丁目から14丁目裏の石狩川沿岸の堤防が決壊し、水田と畑が水をかぶって、「15万円」の損害を受けた。

函館でも6日午後4時、カレイの網を引き揚げに行く途中、風浪のため漁船が転覆、乗組員1名が亡くなっている。

札幌では6日未明、暴風雨の中、北5条西11丁目の函館本線にて男女の鉄道心中が発生。

由仁のビリヤード場のボーイと追分出身の酌婦が将来を誓い合っていたものの、600円もの借金に前途を悲観したものであるようで、新聞には「暴風雨の真っ最中に男女相抱き北五条の線路へ」と大きな見出しとなっていた。

19200607心中記事.jpg
▲1920年:大正9年6月7日付北海タイムスより心中記事
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