この日は日本の歴史上では特別な日。
日本に住んでいるすべての人と世帯を対象とする最も重要な統計調査「国勢調査」の第一回調査が実施された日である。
本当は1905年(明治38年)に調査が行われる予定だったのが日露戦争のため延期され、1915年(大正4年)にも企画されたが、こちらも第一次世界大戦のため実施できなかった。三度目の正直の実施である。
初めての調査とあっていろいろな広報(宣伝)が行われ、北海タイムスの紙面では懸賞付き人口あてクイズも募集され、読者の関心も向くところである。

▲北海タイムスの国勢調査懸賞(1920年:大正9年8月28日付紙面より)
さて、この国勢調査であるが、9月21日から全国各地の調査員から各家庭へ調査票の配付が始まり、それぞれが10月1日午前0時の状況を記入する。
これを5日くらいかけて調査員が回収するという手順で実施される。
今夜の国勢調査に札幌区最後の宣伝
全国一斉に施行さるる国勢調査は愈々今夜となった、札幌区は之れが遺漏なきを期する爲 区内要所要所百二十箇所にビラを貼付して最後の宣伝を為すのであるが 銀行会社等の宿直当番の人は申告者には不在とせずに特に家庭にある事として報告して貰ひたりとの事であるが 若 今夜の調査に申告漏れとなった向があったなら 今日より四日間内に直接なり委員なりへ申告す可きで 今日と明日との国旗掲揚は既報の通である
国勢調査員から最も禁物視された花柳界方面も 当面の大汗の宣伝に漸く諒解を得て 愈々今夜は午後十時カッキリお客をお断りとあるのは 単に札幌区に止まらない
殆ど各地とも此例に倣って居る様である
されば遊客に於ても亦それに応じて無理遊びは絶対の禁物である
殊に小樽の南北両遊郭休業の如きは 最も徹底したやり方である
出来得べくんば 各地とも かくあって欲しいと当局は云って居る
自動車で宣伝 旭川国調
旭川区は卅日午後一時より自動車にて区内を隈なく国勢調査宣伝ビラを撒布し 同夜十時を期し 号砲、梵鐘、煙花にて申告者の注意を喚起し 翌一日午前六時 国勢調査員が申告書取り纏め 訪問を知らしむべく同様合図を為す由
(1920年:大正9年9月30日付 北海タイムスより)
第一回の調査を官民挙げてしっかりやろう!という雰囲気を醸成するために、さまざまな取り組みがなされ、遊郭までもが営業短縮に協力している状況が報じられている。さらに、当日は各戸が日章旗を掲げて「調査に祝意を表する」ことも呼びかけられていたし、道内各地では第一回国勢調査を記念して植樹などのメモリアル行事まで行われていた。さらに鐘は鳴る、花火も上がる。
これはもうひとつのお祭りである。
ではその調査日の天気はどうだったか。

▲1920年:大正9年10月1日正午の天気図 『天気図』大正9年10月,中央気象台,1920-10. 国立国会図書館デジタルコレクション
発達した低気圧が根室付近にみえる。
これは「低」と書いてあるが、実は「台風」で、マリアナ諸島近海で発生し、沖縄方面へ向かって進んだのち、進路を北東に変えて日本の南岸を進んだのち、三陸沖を北上してきたもの。根室では最低気圧984hPaを記録している。
30日に大荒れとなった関東では、この日は”台風一過の青空”で国調日和となったのだが、北海道は台風の接近で太平洋側東部を中心に雨が降り、北風も強く、やや荒れた天気となった。
最大風速は根室で17.1m/s、網走で12.1m/s、函館で13.0m/s、札幌は8.8m/sであったし、降水量も函館は3.7mm、札幌は15.8mmだったが、網走は35.8mm、根室は52.6mm、紗那は61mmに達した。
台風の動きが早かったのと、勢力が落ちていたこと、危険半円側ではなかったことなどさまざまな要素の重なりのせいか、北海道では大きな被害はなかった。では、調査には影響はあっただろうか。
煙火や汽笛を合図に国勢調査員の大活動
国調の申告書を提出す可き昨第一日は微雨に明けた。
札幌区の各戸は国旗を掲揚して敬意を表する事 前日の如くで 風に・翻の国旗を縫て 午前八時から各区の委員は申告書の取り纏めに着手した
之より先 区内各所の向上では 八時を期して一斉に汽笛を鳴らし 次いで 札幌区が最後の宣伝煙火が満空に炸裂すれば各寺院の梵鐘は之に和して波紋を書く。
此頃より各区の委員は数箇月来の努力に有終の美を為さしめんものと活動を開始したが 先づ 盛り場たる南一條通は委員に依っては前夜に取り纏めた向きもあって 手廻しの宜い事 夥しく 委員の訪問に「最う暫らく・・・」を連発する奥様もある。
九時頃から雨と風は愈々激しく 委員連中は大分悩まされた
(1920年:大正9年10月2日付 北海タイムスより)
やはり台風のせいで、調査員の調査票回収作業は風や雨に悩まされたようだ。
しかし、雨にも負けず、風にも負けず、全道各地で調査は進められた。
この風や雨の中、調査に奮闘する調査員を横目に、郵便局に向かう者もいた。目的は記念切手である。
一万二千枚の記念切手
国勢調査記念切手売出し及び記念スタンプ押捺第一日に於る札幌郵便局の模様を聞くに
一日午前六時より 局内外側に捺印所二箇所及び切手売払所を仮設して 一時希望者の需めに応じつつありしが 札幌局引受一銭五厘切手一万二千枚は既に午前十時迄に全部売切れ 三銭切手一万五千枚は三分の一 五千枚を残すのみの大盛況を呈し 又 スタンプ押捺所も寸暇なき有様にて 午後三時半迄には約八千枚の押捺をなしたる由
一日は希望の有無に拘わらず 記念切手に貼付したる差出郵便物には記念スタンプの押捺をなしたるも 二日より六日迄五日間は 単に絵葉書等へ記念切手を貼付したる希望者にのみ押捺する事とせりと
(10月2日付 北海タイムスより)
二種類の記念切手を入手しようと、郵便局には大勢の札幌区民が訪れた。
図案は、645年の”大化の改新”の際の、国司の戸籍閲覧を想像して描いたもので、焦げ茶色の一銭五厘と赤色の三銭の二種類である。

▲一銭五厘の記念切手(『原色日本切手図鑑』1968年版より)
yahooオークションをみると2024年現在で未使用のものが1枚200円、4枚が「田」の形になっているものは1200円、消印があるものは1枚31円で売られており、100年以上経っても割と活発にやりとりがされているようだ。
ところで国勢調査は家に住むものだけでなく、船に乗り組んでいる者も対象である。
こうした人々は港に船が入ったタイミングで調べていた模様で、小樽では台風余波で調査に苦労している様子がみられる。
小樽水上の国調
小樽水上の国勢調査は水上署員及び各委員 風浪を冒して続行中なるが 風浪の関係 並びに 積荷の都合にて各船舶の出入移動頻繁なる為 調査極めて困難にて 各委員の苦労一方ならざる模様なり
殊に困難なるは多数の人夫を積載する積取船にて 昨日までに入港せる積取船及び積載人夫数は(略)多数にて 之等は何れも水上に於て申告を為すべきものなるも 殆ど無智の者多く 非常の手数を要し 関係の調査の如きも少なからず各委員を悩まし居れるが 一昨日は豪雨あり 夜に入りて風浪激しく 午後八時より中止の止なきに至り 昨早朝より活動を開始しつつあり
(1920年:大正9年10月3日付 北海タイムス)
台風の影響で波が高く、船の調査に苦労している様子が記事に書かれている。
天気の影響を受けながら行われた調査の結果、北海道の人口は235万9097人で、男が124万4245人、女が111万4852人であった。
区町村では函館区が最も多く14万4740人、次いで小樽が10万8113人で続き、札幌は3番目で10万2571人であった。
札幌管内(現・石狩管内)は江別、当別、豊平の順で人口が多い。また空知の夕張町は5万1064人で、区制が施行された釧路よりも人口が多い。
また、浦河管内(現・日高管内)ではわずか人口30人の葉朽村など、ミニ村があったり、この頃の人口統計を眺めるとなかなか面白い。
この後、国勢調査は敗戦直後の1945年を除き、5年ごとにしっかり実施している。北海道の人口も大正から昭和にかけてどんどん増えていくこととなるのであった。