2024年05月27日

北海道歴天日誌 その194(1920年10月1日)台風来襲下で実施となった第1回国勢調査

1920年:大正9年10月1日。
この日は日本の歴史上では特別な日。

日本に住んでいるすべての人と世帯を対象とする最も重要な統計調査「国勢調査」の第一回調査が実施された日である。
本当は1905年(明治38年)に調査が行われる予定だったのが日露戦争のため延期され、1915年(大正4年)にも企画されたが、こちらも第一次世界大戦のため実施できなかった。三度目の正直の実施である。

初めての調査とあっていろいろな広報(宣伝)が行われ、北海タイムスの紙面では懸賞付き人口あてクイズも募集され、読者の関心も向くところである。

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▲北海タイムスの国勢調査懸賞(1920年:大正9年8月28日付紙面より)

さて、この国勢調査であるが、9月21日から全国各地の調査員から各家庭へ調査票の配付が始まり、それぞれが10月1日午前0時の状況を記入する。
これを5日くらいかけて調査員が回収するという手順で実施される。

今夜の国勢調査に札幌区最後の宣伝

全国一斉に施行さるる国勢調査は愈々今夜となった、札幌区は之れが遺漏なきを期する爲 区内要所要所百二十箇所にビラを貼付して最後の宣伝を為すのであるが 銀行会社等の宿直当番の人は申告者には不在とせずに特に家庭にある事として報告して貰ひたりとの事であるが 若 今夜の調査に申告漏れとなった向があったなら 今日より四日間内に直接なり委員なりへ申告す可きで 今日と明日との国旗掲揚は既報の通である

国勢調査員から最も禁物視された花柳界方面も 当面の大汗の宣伝に漸く諒解を得て 愈々今夜は午後十時カッキリお客をお断りとあるのは 単に札幌区に止まらない

殆ど各地とも此例に倣って居る様である
されば遊客に於ても亦それに応じて無理遊びは絶対の禁物である

殊に小樽の南北両遊郭休業の如きは 最も徹底したやり方である
出来得べくんば 各地とも かくあって欲しいと当局は云って居る

自動車で宣伝 旭川国調

旭川区は卅日午後一時より自動車にて区内を隈なく国勢調査宣伝ビラを撒布し 同夜十時を期し 号砲、梵鐘、煙花にて申告者の注意を喚起し 翌一日午前六時 国勢調査員が申告書取り纏め 訪問を知らしむべく同様合図を為す由
(1920年:大正9年9月30日付 北海タイムスより)

第一回の調査を官民挙げてしっかりやろう!という雰囲気を醸成するために、さまざまな取り組みがなされ、遊郭までもが営業短縮に協力している状況が報じられている。さらに、当日は各戸が日章旗を掲げて「調査に祝意を表する」ことも呼びかけられていたし、道内各地では第一回国勢調査を記念して植樹などのメモリアル行事まで行われていた。さらに鐘は鳴る、花火も上がる。

これはもうひとつのお祭りである。

ではその調査日の天気はどうだったか。

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▲1920年:大正9年10月1日正午の天気図 『天気図』大正9年10月,中央気象台,1920-10. 国立国会図書館デジタルコレクション

発達した低気圧が根室付近にみえる。
これは「低」と書いてあるが、実は「台風」で、マリアナ諸島近海で発生し、沖縄方面へ向かって進んだのち、進路を北東に変えて日本の南岸を進んだのち、三陸沖を北上してきたもの。根室では最低気圧984hPaを記録している。

30日に大荒れとなった関東では、この日は”台風一過の青空”で国調日和となったのだが、北海道は台風の接近で太平洋側東部を中心に雨が降り、北風も強く、やや荒れた天気となった。
最大風速は根室で17.1m/s、網走で12.1m/s、函館で13.0m/s、札幌は8.8m/sであったし、降水量も函館は3.7mm、札幌は15.8mmだったが、網走は35.8mm、根室は52.6mm、紗那は61mmに達した。

台風の動きが早かったのと、勢力が落ちていたこと、危険半円側ではなかったことなどさまざまな要素の重なりのせいか、北海道では大きな被害はなかった。では、調査には影響はあっただろうか。

煙火や汽笛を合図に国勢調査員の大活動

国調の申告書を提出す可き昨第一日は微雨に明けた。
札幌区の各戸は国旗を掲揚して敬意を表する事 前日の如くで 風に・翻の国旗を縫て 午前八時から各区の委員は申告書の取り纏めに着手した

之より先 区内各所の向上では 八時を期して一斉に汽笛を鳴らし 次いで 札幌区が最後の宣伝煙火が満空に炸裂すれば各寺院の梵鐘は之に和して波紋を書く。

此頃より各区の委員は数箇月来の努力に有終の美を為さしめんものと活動を開始したが 先づ 盛り場たる南一條通は委員に依っては前夜に取り纏めた向きもあって 手廻しの宜い事 夥しく 委員の訪問に「最う暫らく・・・」を連発する奥様もある。

九時頃から雨と風は愈々激しく 委員連中は大分悩まされた
(1920年:大正9年10月2日付 北海タイムスより)

やはり台風のせいで、調査員の調査票回収作業は風や雨に悩まされたようだ。
しかし、雨にも負けず、風にも負けず、全道各地で調査は進められた。

この風や雨の中、調査に奮闘する調査員を横目に、郵便局に向かう者もいた。目的は記念切手である。

一万二千枚の記念切手

国勢調査記念切手売出し及び記念スタンプ押捺第一日に於る札幌郵便局の模様を聞くに
一日午前六時より 局内外側に捺印所二箇所及び切手売払所を仮設して 一時希望者の需めに応じつつありしが 札幌局引受一銭五厘切手一万二千枚は既に午前十時迄に全部売切れ 三銭切手一万五千枚は三分の一 五千枚を残すのみの大盛況を呈し 又 スタンプ押捺所も寸暇なき有様にて 午後三時半迄には約八千枚の押捺をなしたる由

一日は希望の有無に拘わらず 記念切手に貼付したる差出郵便物には記念スタンプの押捺をなしたるも 二日より六日迄五日間は 単に絵葉書等へ記念切手を貼付したる希望者にのみ押捺する事とせりと
(10月2日付 北海タイムスより)


二種類の記念切手を入手しようと、郵便局には大勢の札幌区民が訪れた。
図案は、645年の”大化の改新”の際の、国司の戸籍閲覧を想像して描いたもので、焦げ茶色の一銭五厘と赤色の三銭の二種類である。

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▲一銭五厘の記念切手(『原色日本切手図鑑』1968年版より

yahooオークションをみると2024年現在で未使用のものが1枚200円、4枚が「田」の形になっているものは1200円、消印があるものは1枚31円で売られており、100年以上経っても割と活発にやりとりがされているようだ。

ところで国勢調査は家に住むものだけでなく、船に乗り組んでいる者も対象である。
こうした人々は港に船が入ったタイミングで調べていた模様で、小樽では台風余波で調査に苦労している様子がみられる。

小樽水上の国調

小樽水上の国勢調査は水上署員及び各委員 風浪を冒して続行中なるが 風浪の関係 並びに 積荷の都合にて各船舶の出入移動頻繁なる為 調査極めて困難にて 各委員の苦労一方ならざる模様なり

殊に困難なるは多数の人夫を積載する積取船にて 昨日までに入港せる積取船及び積載人夫数は(略)多数にて 之等は何れも水上に於て申告を為すべきものなるも 殆ど無智の者多く 非常の手数を要し 関係の調査の如きも少なからず各委員を悩まし居れるが 一昨日は豪雨あり 夜に入りて風浪激しく 午後八時より中止の止なきに至り 昨早朝より活動を開始しつつあり
(1920年:大正9年10月3日付 北海タイムス)

台風の影響で波が高く、船の調査に苦労している様子が記事に書かれている。

天気の影響を受けながら行われた調査の結果、北海道の人口は235万9097人で、男が124万4245人、女が111万4852人であった。

区町村では函館区が最も多く14万4740人、次いで小樽が10万8113人で続き、札幌は3番目で10万2571人であった。
札幌管内(現・石狩管内)は江別、当別、豊平の順で人口が多い。また空知の夕張町は5万1064人で、区制が施行された釧路よりも人口が多い。
また、浦河管内(現・日高管内)ではわずか人口30人の葉朽村など、ミニ村があったり、この頃の人口統計を眺めるとなかなか面白い。

この後、国勢調査は敗戦直後の1945年を除き、5年ごとにしっかり実施している。北海道の人口も大正から昭和にかけてどんどん増えていくこととなるのであった。
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2024年05月25日

北海道歴天日誌 その193(1920年9月5日)大正九年の”九月の雨”で重なる災害

1920年(大正9年)9月の札幌。

初旬は残暑が厳しく、最高気温は1日は30.2℃、2日から4日にかけても28℃以上が続いた。
この残暑を終らせたのは雨である。

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▲涼を呼ぶ雨の記事(1920年:大正9年9月6日付 北海タイムスより)

札幌は一時間降水量の最大値は11.0ミリ。日降水量は24.8ミリを記録している。
記事では11時の気温が前の日から10度下がるとの記載だが、その後に「七十度」とある。これは70℃ではなく70℉。摂氏ではなくて華氏を使っている。この頃の新聞をみていると、両方の単位が使われる傾向があるので、注意が必要である。

摂氏での11時の気温は、9月4日は27.8℃で、5日は23.6℃なので、4℃ほど低い。華氏ならそれぞれ82.0℉と74.5℉なので、7.5℉ほど低い。
「10度」というのは、記者が少し”盛って”いたようだ。

ただ、この雨のせいで犠牲者が出ている。場所は豊平川。

豊平川の激流に巻込まる

昨五日午前十一時頃 札幌区南一條東六丁目三番地 庄子東蔵 倅 勇(九つ)(東小学尋一年生)は豊平川豊平橋より約三丁下流 俗称 茶碗と云ふ水深 稍や深き箇所に於て水泳中 水流激しきため遂に溺れ 瀕死の状態にあるを 水泳中の他の子供等目撃し アレヨアレヨと救はんとせしも 勇は暫次下流に流され 姿を失ひたれば 多分溺死せるものならんと 死体捜索中なりと
(9月6日付 北海タイムスより)


豊平橋の下流で川遊びをしていた子供が、増水した川の水に流されて行方不明となったというもの。

100年以上経ち、河川改修も繰り返されているので”茶碗”も今は存在しないが、いまの豊平橋の下流側にある三連の水道橋(昭和45年完成)の下あたりが、茶碗とよばれたあたりと推定される。

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▲いまの豊平橋の下流側の様子(上が下流:Google地図を加工)

さて、札幌では20ミリ余りだった雨だが、同じ日、旭川は115.1ミリも降った。これは今に至るまで9月2位の記録である。
そして一時間最大も31.5ミリで、こちらも9月4位。上川中部は大雨であった。

このため、函館本線の神居古潭駅構内では築堤が崩壊し、伊納駅と近文駅の間でもがけ崩れがあって線路が土砂で埋まった。
当然ながら、汽車は不通となってしまった。

また、鷹栖ではオサラッペ川と支流のヨンカスペ川が増水・氾濫し、築堤も壊れ、家屋300戸と水田約13haが浸水、橋も6つ流失する大被害となった。溺死者も2名あったと報じられた。

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▲9月5日午前6時の天気図 『天気図』大正9年9月,中央気象台,1920-09. 国立国会図書館デジタルコレクション

天気図をみると、台湾付近を通過した台風が中国南部へ進んでいて、関東の東には高気圧があるが勢力が弱いようで、日本付近は気圧の谷がのびている。
北海道は低気圧が通過しているのだが、前日から数枚の天気図をみていくと、どうやら秋雨前線上にできた低気圧がやや発達したしたような動きに見える。台風起源の暖湿気もあったのか、大気の状態は不安定で、落雷も観測されているし、局地的には強い雨が降りやすかったようだ。

光珠内に落雷して人妻惨死

五日午前一時半頃 雷鳴と共に 俄に天曇暫次雷鳴と共に大降雨となり 折柄 午前四時半頃 大音響と共に 空知郡沼貝村光珠内五号の澤 佐々木宇吉方に落雷し 柱時計一個粉砕し 家中に臥床中の宇吉妻(五三)は 其場に惨死したれば 巡査の出張を乞ひ 検視を了せりと
(9月7日付 北海タイムスより)


美唄では落雷により、家の中にいた女性が亡くなっている。柱時計から電撃が飛んだのだろうか。

ところで、この低気圧の雨は一旦落ち着くのだが、8日は再び低気圧の影響で全道的に雨となり、上川や十勝方面では40ミリ前後のまとまった降水となった。

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▲9月8日正午の天気図

この低気圧でも道内では犠牲者があった。原因は風である。

苫小牧の暴風被害

八日午後二時半より三時半頃迄 苫小牧町に大暴風来襲し 王子製紙会社社宅の板塀倒れ 湯屋の煙突吹き折られ 或は硝子窓を破壊せられたるもの数十戸に及べるが

苫小牧町 中村捨次郎氏所有の小糸魚六号漁場に住む塚田三次郎 妻サン(四〇)が午後五時頃外出せんとて戸口迄来りし際 家屋倒壊して圧死せり

当町に於ける暴風被害額は千二百円に上れり
(1920年:大正9年9月10日付 北海タイムスより)


このころ苫小牧には測候所がないため、どのくらいの風が吹いたのかは不明だが、前線通過によるものなのか、それともダウンバーストのようなものの発生か、結構大きな被害が出ている。

さて、この雨は人的被害だけではなく、港町・小樽の経済にも多少の影響があったようだ。
というのも、ちょうど小樽港に海軍の第二艦隊がやってきていたからである。全道から大勢の人が観覧にくる一方、寄港により大勢の水兵が街に上陸、小樽の経済は潤うはずだったのだ。

雨に寂れた昨日の小樽

一昨日よりの降雨は昨晩より又降続き 沛然たる大雨の為 艦隊より水上署へ無線電話にて来衆の観艦を拒絶し来り
各停車場にては「強風の為 風浪荒く 危険なり」との掲示をなし 又 艦隊兵員四分の一 上陸を許したれど 上陸兵少なく 爲に公園通も賑はず 同所に設けある裏湯見世も僅に水兵四 五名 居合はせるのみにて 茶店には女の給仕も見えず 至って寂寞を告げ 又 午前より午後に亘る活動写真各常設館も 昨日は開放を見合たる筈

(9月10日付 北海タイムスより)


小樽を離れ、後志沖で訓練を行っていた第二艦隊を9月12日、悲劇が襲う。
巡洋戦艦・榛名で1番砲塔右砲内で榴弾が破裂する事故が発生したのである。

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▲榛名の事故を告げる紙面(1920年:大正9年9月15日付 北海タイムスより)

この事故で15名の死傷者があり、艦自体も大きな損傷を受けることとなった。

この年の九月の雨は、いろいろな場所で命を奪っていったのであった。
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2024年05月18日

北海道歴天日誌 その192(1920年8月26日)伝書鳩の公開実験!札幌

1920年:大正9年8月は、上旬に釧路で川の流れが変わるような大洪水があったことは前に記したが、下旬は上川・空知で大雨があり、洪水被害に見舞われている。

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▲1920年:大正9年8月25日付 北海タイムスより

8月20日夜から21日朝にかけて四国・中国地方を縦断した台風は、日本海に進んで勢力が落ちて低気圧になったのだが、活発な雨雲を伴ったままゆっくり北上して23日には北海道の西に進んできたようで、道内は20日頃から気圧の谷の中で日本海側を中心に雨が降り、22日の夜は旭川で1時間に33.7ミリの強雨が降った。

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▲8月23日正午の天気図 『天気図』大正9年8月,中央気象台,1920-08. 国立国会図書館デジタルコレクション

20日から24日までの五日間の雨量は旭川では143.0ミリ、札幌で86.0ミリ、帯広で101.8ミリと、北海道の中央部で多くなった。

旭川は22日14時からの24時間で59.7ミリの降水で、激しい雨も含んでいたため、23日の朝には富良野では富良野川が氾濫し、23日の夜には空知川が滝川で氾濫、24日の未明には砂川も氾濫、岩見沢も幾春別川の氾濫で農地や市街の一部が浸水した。

札幌では浸水被害には至ることなく25日の未明には雨はやんだ。
晴れ間が戻り、風もなく穏やかだった翌26日の明け方は市街が深い霧に包まれた。

朝になり、霧が消えた午前8時30分。青空が戻ってきた札幌市街を五羽のハトがはばたいた。
このハトはただのハトではない。重要な文言が書かれた紙を運ぶ「伝書バト」である。

本社三階の窓から秋空に翔ける使へ鳩

飛んだとんだ見事に飛んだ
昨日午前八時三十分、本社主催の第一回軍用鳩の飛行がいよいよ本社三階に於て行はれた

此日 連日の驟雨も漸く収まって、札都には珍しい濃霧が暁の空を篭(こめ)て 咫尺を辨じなかったが 軈て 茜さす朝日の光が東を染めて 薄紅に濃霧を彩どるよと 見る間に濃霧は忽ち風なきに 宛然 ヴェールの如く静に引かれて 秋空は真に一碧、草木に置かれた朝露が只々真珠とばかり輝くのみで 申分ない鳩日和となった

其 朝露を踏んで本社の前、大通の花壇には、老に若きに区々の男女、刻々と詰掛けて 之を三階から鳩に代って鳥瞰すれば、茲一圓 全くの人の海、その数 数千に達したかは固より定かに分る道理はない 只「人の海」の一句を持って 之を形用するの外はなかった

一方 鳩を飛ばす三階には 佐藤札幌区長、大場道庁理事官 山内警察署長、武田札幌憲兵分隊長、阿部札幌郵便局長 其他の来賓が中津井本社支配人、山口編集長 其他の本社員と供に茶を汲みながら 五羽の使節を詰込んだ鳩籠を取囲んで 鳩の主人公 小熊博士や北大新庄、栃内両学士等の説明を聞く。

最初の試みである為 小熊博士も大事を取った
鳩信には二羽の鳩を使用して 他の三羽は空手で還す事に決め、アルミニウムの通信管を二個丈用意して来た
此二箇丈でも優に通信用紙五 六枚は托す事が出来ると云ふ

そこで集まれる来賓も 多大の興味を以て 各々鳩に通信を託す事となり 通信用紙に万年筆を走らせた
かうして準備が整ふと、内では時の到るを待 外では数千の観衆、今か今かと本社の三階を仰いで居る

午前八時三十分!
予定の正八時に後るる事三十分、先 第一信を託された三〇一三号が愛の籠った小熊博士の手に抱かれ 三階正面の窓に立つ

下からはワーッと拍手喝采が起る
背後で時計を計る栃内学士が呼吸を量って其背を打てば 鳩は 忽ち小熊博士の手を離れて 澄み亘る天空に舞上る

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流石に馴ぬ変った場所から放され 而も下には 小さき其身一つに黙る数千の瞳があるので 聊か面喰ったらしく、北東の札幌郵便局の上空指て飛び、其処で大きく円を描いて廻翔する事二回又三回、悠々として地形を眺め 方向定むるや 矢の如く植物園の森を目がけて飛んだ

続いて同三十一分三十秒、三六五八号が飛ぶ、之は又迷ふ事もなく 一直線に北西に見える緑の森を指たが夫は御料局の林である為 其処で二回程回旋し 軈て 巣のある植物園の方へと消えた

三番の三二九七号は同三十三分、仏蘭西式に依って小熊博士の手を放れる
実に快翔とは此鳩である、手を放れると同時に植物園を指して 瞬く間に其姿を没した
「これや好成績好成績」と小熊博士も大喜び、来賓一同も驚嘆した

同三十六分スタートの二八三八号は手を放れると共に 不幸 電線に衝突した為 隣家の共立病院屋上にとまり 一同に気を揉ませて却々(なかなか)飛ばない

最後に同三十八分の三二九五号も 之も亦 電線に掛り 三階の屋上に暫し翼を休めつつ 方向を定めて北へ飛ぶと 共立病院屋上の二八三八号も間もなく北へ飛んだ

時に植物園から電話があり「三羽無事着と」・・・
(1920年:大正9年8月27日付 北海タイムスより)

1920年(大正9年)8月26日、札幌で行われた伝書鳩(軍用鳩)の公開実験の模様である。

記事に出て来る小熊博士というのは、当時北大の農業生物学教室の教員だった小熊 捍(まもる)博士。現在、札幌市の伏見にある”旧小熊邸”のもともとの建物の主といえば馴染みが出て来るかもしれない。

博士はもともと札幌農学校の出身で、そのまま学内に残って研究を続けていた。前年にカゲロウの論文を出したかと思うと、この2年後(1922年)には染色体の研究を発表していて、昆虫学や細胞学、遺伝学を幅広く対象に研究していた。

「伝書バト」は小熊博士の研究対象からはちょっと離れているような気もしないでもないが、東京・中野の調査所で軍用鳩の研究も行っていて、鳩が付近の地形や電柱などの目印を参考に飛んでくることなどを調べてきていた。そして札幌でも、鳩の研究を続けていたのである。

この公開実験については、北海タイムスの紙面で事前に宣伝されたため、平日(木曜日)の朝8時半という時間帯にもかかわらず、大勢の札幌区民が集まった。

この日の実験は、北海タイムス社の3階から5羽の伝書鳩を放し、北大植物園に戻ってくるところを見ようというもの。

当時、北海タイムス社は大通公園の北側の、大通西3丁目に存在した。
現在は後継の北海道新聞社が建っている。ここから北2条〜4条、西8〜10丁目に広がる北大植物園は約900メートルの距離となる。
伝書鳩としては、ゲームの1面程度の難易度であろう。

では、続報を見よう。

鳩を待つ植物園

昨朝 本社の三階から信書を斎して其巣に帰って来る軍用鳩を見んものと 午前七時半頃から北大植物園へ詰かけて来た群集は 忽ちの中に博物館事務所のあたり埋て 人垣を築いた

中には増田札幌支庁長杯の顔も見えて 頗る盛況を極めた

八時を過ぐる十分にして「八時三十分に放す」との電話が本社からあると 群集は忽ち色めき亘って 一斉に南の空を仰いで 今か今かと待受ける緊張した興味の裡に時は進んだ

軈て 八時卅三分 此処彼処に千切雲がフウワリと浮んで 初秋らしい色を見せて居る空を真一文字に横切って 二羽の鳩が威勢好く続いて飛んで来たが 鳩舎の周囲に蝟集した群集に驚いてか 急には下ず 事務所の上の碧空を大きく円を描いて回翔して居る内 八時三十四分三十秒に又一羽が飛び返って三羽になり 軈て事務所の屋根へ舞下って疲れた翼を休めつつ群集を不思議さうに見廻して居た

最後の二羽は八時三十五分に少し間隔を置いて 是も続いて帰り 同じく円を描いて 間もなく五羽とも並で事務所の屋根に止まった

斯くて 立ち疲れた群集が一人帰り 二人と帰りして 人の数も漸く減ずると 四羽一度に到着台からトラップを押して這入り 與へられた米を啄()ついば)み始めたが 通信筒を着けて来た三〇一三号の鳩は どうしたものか直には巣へ帰らず 其処等あたりを飛廻って居る中に 水松の木の下へ 其 通信筒を落して間もなく安心した様に 瞳をクリクリさせて 其ホームに入った

落された通信筒を拾ってみれば
「本日の快晴と共に閣下の御健康を祝す 佐藤総長閣下、佐藤友熊」
及び
「北海道に於ける軍用伝書鳩の試みに当り 其成功を祈る 北海タイムス社内 戸石正憲」と讀まれた

来合せた群集の其処此処から「成功だ」の声が起って 何も満足な微笑を浮べて居た
(1920年:大正9年8月27日付 北海タイムスより)

この時に放たれた5羽の伝書鳩は生後半年の若鳩で、通信用として放たれたのは初めてであった。
5羽とも植物園に戻り、通信文書もちゃんと植物園まで届いたため、実験はひとまず成功を収めたのであった。

さて、電話線のない戦場ではハトが通信手段となるのだろうが、この時代は既に電信・電話のある時代。
遠くヨーロッパで開催されている”アントワープ五輪”の模様は、ハトではなく、電信で日本まで伝えられていた。

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▲1920年:大正9年8月28日付 北海タイムスより

この時代に、東洋の小国・日本の選手団が五輪で上位に入るだけでもすごいと思うのだが、準優勝のテニスであっても健闘、喜びの声はなく、「惨敗」という報道である。

マラソンは期待されていたのだが、金栗選手の16位が最高で、道産子初の五輪選手となった小樽中の八島健三は21位であった。
上の記事では「記録されず」となっているが、IOCには記録が残っていて、実際は2時間57分3秒。

今でいう高校生(18歳)がマラソンで3時間を切るというのはなかなか大変だと思うし、なんといっても大正時代である。これはとてもすごいことである。

八島が戻り、体験談を講演するのは数か月先のこと。
その間に伝書鳩の実験は、距離を伸ばしながら進められていくこととなる。その模様はまた改めて書くこととしよう。
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2024年05月12日

北海道歴天日誌 その191(1920年8月15日)小樽商業生徒「釧路から小樽」走破!

1919年(大正8年)に明治大学の学生が、札幌から東京まで約3週間かけて走破したことは以前とりあげた

この出来事に触発されたのか、翌1920年(大正9年)の夏、北海道では各地で数日かけて長距離を走ることに挑戦する学校がいくつか現れた。

例えば札幌師範は室蘭から札幌へのマラソンに挑戦したし、北海商業は小樽から函館を目指した。

そしてもっとも長距離を走破することに挑戦したのが、小樽商業(現:小樽未来創造高)の学生と卒業生たちである。
彼等が挑んだのは、釧路から小樽を約2週間で走ろうという”冒険”であった。

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▲小樽商の挑戦を紹介する記事(1920年:大正9年7月16日付 北海タイムスより)

上の記事にあるように、予定では8月2日に釧路を出発、帯広や新得、富良野、旭川、深川と経由して、札幌と走り抜け、14日午後に小樽にゴールする予定となっている。

前回触れたように、途中で大雨の影響を受けたはずだが、1日遅れただけで、小樽商業のランナーたちは8月14日に札幌に姿を現した。

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▲札幌市内を走る小樽商業の選手たち(1920年:大正9年8月14日撮影、15日付北海タイムスより)

庁商マラソン三選手 昨日 本社前に着

庁立小樽商業学校 空前の壮挙たる 釧路小樽間マラソン競走は 既報の如く 二日釧路を出発以来 炎熱と戦ひ 風雨を浴 十有四日の間疾走を続け 昨日午前十一時十分 元気旺盛裡に札幌に入り 本社前に到着したり

是より先 樽見教諭は 卒業生 野坂留蔵、本科一年 畠山一二三、橋本清治、米田隆吉の四選手に近藤勇君付き添ひ 十四日午前六時 岩見沢なる空知支庁前を万歳声裡に出発し 折柄の陰鬱なる陽光を浴び 韋駄天の如く 同七時半 江別に入り 一時間の休憩を取り 更に厚別にて二十分休憩し 十二里の行程を一時間十五分の割合にて疾走を続け 札幌の東端に現るるや 小樽庁商より在学生荒谷浩、本間清、高橋三郎 並に卒業生 古谷栄一の四君出迎ひ 風を切って南一條通に現るる途端 足を傷つける野坂選手 躓きて倒たれば 付添の看護を受け 一方 樽見氏以下三選手は本社前のラインに入りたり

十重二十重の群集裡に流汗瀧の如き四選手は 南蛮鉄の如き皮膚を並ぶるや 河合本社社会部長 歓迎の辞を述べ 次で 本社三層楼上に導き 中津井支配人の長途を讃ふの辞ありて 茶菓の饗応をなし 歓談裡に続々小樽よりの出迎へ学生来訪せり

樽見氏は語る
「一番苦しかったのは白糠下●部間でした 道はなし 虻の大群は襲ふ 殆ど閉口しました、
狩勝峠は折からの雨でしたが 熊が常に出没するといふ丈餘の熊笹を掻き分け 旭川を廻り 深川 瀧川と一気にやって来たのでしたが 旭川からは非常に楽でした、
感じたのは沿道各青年、在郷軍人、消防隊の方々で 熱誠のこもった迎送には真に感謝の辞もありません

食事は何も制限しません
空腹は大禁物で大いに鱈腹(たらふく)やりました
飯は一食に少なくとも八 九杯やります 飲料も其通 何も毛嫌いしませんでした」

と意気豪壮なるものがあった

斯く一行は 当夜 古谷辰四郎氏に一泊、本日午前六時 北海道庁前よりスタートを切り 午前十一時前後 軍用道路を下り 公会堂前の終点に入る筈なるが 母校よりは自動車 丸井よりは花輪等の寄贈あるべく 同日緑小学校内にて歓迎会を開催すべしと

尚 本社よりは選手諸君に対し 記念メダルを贈呈せり
(1920年:大正9年8月15日付 北海タイムスより)

この日の札幌の最高気温は28.7℃。午前11時に記録したので、小樽商業のランナーたちが札幌に入った頃が最も気温が高かった。
現在では真夏にマラソンは体力的に非常に厳しく、時には危険とされるのであるが、この時代はそういうことはお構いなしで、学生がまとまった時間のとれる夏休み期間ということのほうが優先したのか、一年で最も暑い時期の長距離マラソンとなったのであった。

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▲北海タイムス社の前で記念撮影に収まる小樽商業の選手たち(8月15日付 北海タイムスより)

とはいえ、岩見沢から一気に小樽・・・というのではなく、札幌で一泊というのは、一応、選手に充分休養を与えるという意味もあるだろう。
この日は当時の名士・古谷家に一泊し、翌8月15日、いよいよゴールの小樽へ向かって走り出す。

走破す百二十里 本道空前の長距離競争を了へて庁商選手一行昨日小樽着

汗ばんでギラギラ光る南蛮鉄の如き皮膚を真夏の陽に晒し乍ら 十四日午前十一時十分 本社前に到着した庁立小樽商業学校の釧路小樽間百二十餘里マラソン競走の五選手は 昨朝午前六時 小樽公会堂前の最終点に向って本社前を出発した

一昨日 帰札後未だ本社前のゴールに入らずに足部に負傷した卒業生 野坂選手は 昨朝四時の汽車で先発し 小樽に向ったが 小樽からは樽見教諭、畠山、橋本、米田の四選手応援の爲に 同校在校生三名と本道マラソン界の一権威たる小樽魚商の玉置君の四名が加はり 昨日は午前六時に本社前のスタートに集合した

未だ早朝なるに拘らず 見物人及び見送り人は山の如くに周囲に堵を築き 頗る盛況を呈したが 折柄雲間を離れた曙光は 一行の壮途を寿くが如く 莞爾と微笑み 四選手及び四応援者がスタートに整列すると 本社社会部長 河合裸石氏の挨拶があり 同氏は更にスタートを切り 急霰の如き拍手の裡(うち)に一行のユニホームの雄姿は西五丁目を北進し 石狩街道に其姿を消た
(1920年:大正9年8月16日付 北海タイムスより)


8月15日午前6時。札幌の雲量は8で降水はなく、天気としては「晴れ」となる。湿度は86%、気温は23.4℃と、やや空気はじとっとしていたか。
この日の北海道は気圧の谷の中で、札幌は昼前後は曇り空となり、12時前後には弱い雨も降った。
明け方までの南寄りの風は、スタート時には北西の風に変わり、その後はやや強く吹いたから、選手たちは向かい風の中、小樽に走って行ったこととなる。

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▲8月15日正午の天気図 『天気図』大正9年8月,中央気象台,1920-08. 国立国会図書館デジタルコレクション

小樽着 区民熱狂して歓迎

十五日午前六時 札幌区大通の本社前を出発したる釧路小樽間百二十餘里マラソン選手一行 庁立小樽商業学校 樽見教諭を先に 卒業生野坂留蔵、本科一年畠山一二三、橋本清治、米田隆吉の四選手に近藤勇君の六名は 昨日午前十一時三十分 無事小樽に着せり

是より先 庁商根岸教頭を始め 教諭数名「突破到着点」なる公園内小樽公会堂前及び公園前に詰めかけ 選手の着を待受け 諸準備に取かかり 門前には庁商校徒歩部の立札をなし 玄関前には優勝旗四流 徒歩部、梅屋運動具店より寄贈の花輪二個を併置し 軈て大山庁商校長を始め 飯田助役、寿原道議、区内校長諸氏 選手一行の安着を待ち受け 次で名物の玉置看板屋さんは選手着を祝たる大旗を押立て詰掛来り 公園入口より公会堂前まで両側 人山を築きたり

築港までは馬上の梅屋主人、自動車へ乗りたる卒業生在校生五名歓迎し、午前十時廿分 一行より選手等 今 熊碓へ着したりとの電話ありたり

折柄小雨降りしきり 午前十一時三十分となるや 色内町より選手通貨の電話ありしより 校長始め一同門前に歓迎したるが 折しも降雨盛となりしも 樽見教諭を始め 選手 附随生五名は、馬上の梅屋主人 自動車隊を先頭に 徒歩隊の旗を手にしたる在校生一名と共に 意気豪壮 午前十一時三十分 公会堂のラインに入りたるが

歓迎者一同は万歳の声、拍手の響き 公園内を震撼し 流汗瀧の如き四選手を玄関前なる設けの席にて労へ シトロン、玉子の饗応あり

校長始め卒業生 在校生と歓談に耽り 軈て校長より花輪の授与式、記念撮影ありて 選手一行は自動車にて新聞社、丸井、梅屋を回礼したる後、午後一時より花園小学校内にて盛んなる歓迎会に臨みたり

一行中の野坂選手 足部の痛みは快よく 競争に加はりて毫も疲れたる気色も無かりし

札樽競走に就いては樽見教諭は
「選手は午前六時 札幌 北海タイムス社前を出発 道中無事にて 同七時四十五分 銭函村へ着し 夫より軍用道路を少しく徐行し 築港前にて歓迎者と共に少進 小樽区内へ入り 有幌町より港、堺、色内町各町を経て 第二火防線を上り 稲穂町大通り 花園町大通り 交番前を右折 公園通りより到着地点へ入りたるが 軍用道路は少しく困難なるのみにて 他は頗る無事なりし為 一行は此の通り意気大に壮んです」云々と汗を吹きつつ話されたり
(1920年:大正9年8月15日 北海タイムスより)

最後の札幌−小樽間は約5時間半をかけて走り抜けた小樽商業の生徒たちは、雨の降る中ではあったが、元気にゴールに到着、大歓迎を受けたのであった。

さて、小樽商業は2年後の全国中等学校陸上競技大会で全国優勝の偉業を成し遂げるのだが、この釧路小樽間マラソンに関わったメンバーが中心的な活躍をみせる。畠山、橋本、米田の三選手と付添の近藤選手は個人種目でそれぞれ優勝も果たしている。

特に、米田選手は小樽高商(現・小樽商大)に進み、1925年(大正14年)に開催された極東選手権に出場、1500mで3位に入る活躍を見せたのであった。
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2024年05月06日

北海道歴天日誌 その190(1920年8月7日)大正9年8月の釧路大洪水!投票も延期に

1920年(大正9年)の8月4日の夜、日本の南からゆっくり北上していた台風が伊勢湾付近に上陸した。

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▲8月4日正午の天気図 『天気図』大正9年8月,中央気象台,1920-08. 国立国会図書館デジタルコレクション

上の天気図は上陸前の台風が潮岬の南に描かれている。このあと北東に進むのだが、日本の東には優勢な高気圧があるため移動はゆっくりとしている。このため、台風は上陸後に勢力を弱めながら北東へ進んだため、「著しき暴風雨を起こすに至らなかった」と解説されている。

台風の中心は本州ではあるが、この気圧配置である。北海道には台風からの暖湿気が南から流れ込む。
この頃の天気図には「前線」は描かれないのだが、北海道付近は前線が停滞していたようである。実際に前日3日は南樺太は記録的な大雨であり、日雨量は落合で162.3ミリ、真岡で136.6ミリに達し、河川の洪水などで死者も発生したほどであった。

この日から北海道は暖湿気の流入と、樺太から南下して来た前線の停滞と、双方が原因で雨の降りやすい天気が数日続くこととなる。

〇岩内の大雷雨

岩内地方は四日午前五時頃より稀有の大雷雨となり 沛然たる驟雨は瀧かと疑われ かくする内 町内各川流 下水は溢れて 浸水箇所続出し 最も甚だしかりしは停車場前 消防番屋附近より小森商店附近迄にして床上浸水及び積薪の流失等あり 金天商店裏にある山仙印佐藤某の土蔵は崩壊 傾斜し 危険に瀕したるが 同家は岩内開拓以来の旧家なれば 其家什珍品は数台の馬車にて 親戚各仙方に運び 是を見んとて群集黒山と成りたり
(1920年:大正9年8月7日付 北海タイムスより)

まず、影響が出たのは日本海側の後志地方であった。8月4日の降水量は、函館は14.1ミリ、札幌は6ミリだが、寿都は44ミリも降った。
一方で旭川や網走は晴れており、旭川は31.1℃を記録するほどの厳しい暑さとなった。

一番影響があったのはこの記事にある岩内で、短時間の強い雨により、浸水被害が出ている。
岩内一の旧家からの荷物の避難に野次馬が集まっている様子が報じられている。

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▲8月8日午前6時の天気図 『天気図』大正9年8月,中央気象台,1920-08. 国立国会図書館デジタルコレクション

5日から7日にかけては太平洋側を中心に雨が降ったが、全般には降っても日降水量が10〜20ミリ程度で済んでいた。
しかし8日は全道的に雨となり、道東の太平洋側では強く降った。日降水量は釧路で99.6ミリ、これは現在(2024年)でも8月5位の記録になる大雨であり、根室でも84.5ミリ、帯広47.1ミリに達した。

翌9日も釧路では78.7ミリ、帯広34.1ミリの降水を記録。その後も12日にかけて20〜30ミリの降水が続いた。
このため、7日から12日にかけての6日間の降水量は、最も多い釧路では303.0ミリにも達し、帯広で186.4ミリ、根室161.2ミリ、網走131.6ミリと道東方面は100ミリ以上となった。
同じ期間、旭川は88.2ミリ、札幌は36.9ミリの降水量だったので、道東の雨が突出して多い事がよくわかる。

この影響で7日から十勝・釧路方面では河川の氾濫や浸水、土砂の流出などの影響を受けて鉄道の運行に影響が出始めた。
そして様似では”サノシベ川”(おそらくポンサヌシベツ川かポロサヌシベツ川のどちらか)が氾濫し、家屋四戸が流失、2名が亡くなる惨事となった。また浦幌でも死傷者が発生し、弟子屈でも河川の氾濫や家屋の流失の被害が生じた。

一番大きな影響を受けたのは、道内で一番の大雨となった釧路である。

釧路公会堂に避難民一千餘

五日来の豪雨は釧路測候所開設以来の降雨量を示し 四石八斗 録さる
釧路地方は未だ曾て見ざる大洪水となり 中にも釧路川、阿寒川は未曽有の氾濫を来し 遠隔の地は通信機破壊の為 知るを得ざるも 釧路区丈(だけ)にて西幣舞 茂尻矢一帯の浸水家屋二千戸を越え 避難民続々として橋南に押し寄せ 十日夜十時より十一日午前十時迄の間に公会堂に収容せる者 一千余名、浦見町第一学校に収容せる者三百余名、尚続々として避難しつつあるが 空腹に堪へざる老若男女が餓鬼の如く食を求むる有様 酸鼻の極みなり

斯く未曽有の大氾濫を出せるは阿寒川の切換箇所が西幣舞に近く決壊せる為にて 又 釧路川に架せる鉄橋の流木を整理する爲に消防組の出動を促したるが 之が為 厚岸方面行きの列車は運転中止す

又 其の下流なる幣舞橋も山なす流木の爲に危険に瀕せる状態なり
一朝 之等橋梁の流失せんか 一万五千の住民は糧道を断たれたるも同然にて生活する能はず 今や必死の努力にて同橋梁の保護に努めつつあり

一方 阿寒、釧路、大楽毛、庶路、屈茶路の各川に沿ふて堆積せる木材は何れも海中に流失し 其額 何万石なるやを知らず
釧路地方の同業者は未曽有の大打撃にて 経済界に及ぼす影響甚大なるものあり

十一日正午に至り 僅かに雨やみたるも 依然増水一方にて 浸水益々多く 四万区民戦々恐々たり

庶路方面 避難百餘 石油暴利

十一日釧路警察署発軍に依れば 市街地浸水甚だしく浸水家屋二千餘戸に及び電燈点ぜず 石油の暴利を貪るを防ぐ爲 石油商人には注意せり
飲料水供給無く 当局者と打ち合せの上 手配をなせり

救護所は更に二 三ヶ所増設手配中なり 又 救護人数百人に及ぶ
釧路川増水五尺餘 木材流失多し

阿寒は減水しつつあり 白糠郡庶路村方面浸水し 避難救助の必要ありもの百餘名あり

釧路署より樋口警部補巡査を率い同地にあり 十一日大楽毛に来たり 俄に連絡を取り 相当救助の方法を講じつつあり
(1920年:大正9年8月13日付 北海タイムスより)

大楽毛川の濁流 生霊八個を呑む

釧路本線の大楽毛川鉄橋流失の為 目下 白糠釧路間は多く徒歩にて交通し 幅二百間の大楽毛川は渡船を用いて通じ居る状態なるが 尚 濁流急にして 十二日には渡船夫三名 乗客二名が 船転覆し溺死し 翌十三日 又 渡船の際 船夫一名と乗客二名が濁流に捲込れて溺死せり 之が為 庶路青年会在郷軍人等は協力し 同所渡船の安全を図らんが爲に必死となりて対岸に舟を廻し 種々なる方策を講じつつありと

(1920年:大正9年8月15日付 北海タイムスより)


8月8日の午後10時半頃。この年「区」に昇格したばかりの釧路に警鐘の音が鳴り響く。
これは釧路川があふれ出したことを知らせる警鐘の音であった。

釧路区は山の手を残し、市街・郊外一帯がすべて溢れた水で見渡す限り浸水してしまうという未曽有の大洪水となった。
記事中の「西幣舞」は幣舞橋の北側の一帯のことで、「茂尻矢」は大川、城山、材木町の一帯のことである。このあたりは全部泥水に浸かってしまった。

釧路警察署の調査では、釧路国全体の洪水被害は、死者5名、行方不明5名、負傷2名、家屋流失39戸、住家全壊18戸、住家半壊5戸である。
さらに床上浸水は1437戸で、うち釧路区は1206戸にのぼった。
ちなみに、記事にはないが、道東各地から釧路港に貯められていた50万石の丸太のうち20万石が洪水のために流されてしまう被害もあった。このとき流失した木材は、親潮にのって青森県の下北半島に続々と漂着した。

人的被害は洪水の規模の割にはこの時代としては少ないものの、河口の釧路区は市街地のほとんどが洪水にのまれたため、大量の避難者が発生した。その数は11日と12日は1700人前後に達している。なお、避難所に避難せず、船の上で避難生活をしていたという家庭も相当あったらしい。食べ物や飲み水に事欠く状況となり、部落によっては石油商人が暴利を貪るのを防止する対策が取られるなど人心・治安が乱れる状況も発生した。

なお、この大雨で大楽毛地区では釧路本線(現在の根室本線)の大楽毛鉄橋が落ち、渡船も激流で転覆して死者を出すなど大きな被害が生じているのだが、これには理由がある。

それは、阿寒川の流路が変わってしまったのが原因である。

阿寒川はこの大正9年(1920年)8月の大雨の前までは、今の鳥取橋のあたりから、鳥取北と昭和南の間を流れる「仁々志別川」のところを流れていた。
ところが、この大雨の結果、今の山花温泉のあたりから堤防を破って南に流れ、大楽毛川とつながってしまったのである。

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▲阿寒川の流路の変化:左:1897年(明治30年)、右:1922年(大正11年)

このため、この大雨により新阿寒川と旧阿寒川が誕生し、旧阿寒川は仁々志別川となって今に至るのである。

なお、この洪水をきっかけに釧路の治水事業が進むこととなったが、のちの十勝沖地震(1952年:昭和27年)の津波も、この時の洪水と比べるとたいしたことはない、と考えた釧路市民は多かったようで、釧路の歴史の上でも非常に大きな出来事だった。

また、この洪水により流されてしまったものがもうひとつある。それは「選挙」である。

8月10日は北海道会の議員選挙の投票日であった。しかし釧路はもちろん、その他の地方でも洪水や浸水による道路の寸断や、橋の流失などにより、投票に行くことができない有権者が続出することとなった。

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▲道議会選挙の延期を伝える記事(1920年:大正9年8月11日付北海タイムスより)

釧路の選挙は、被害が少なかった厚岸や昆布森では投票ができたそうだが、その他の場所ではとても投票ができる状況になく、厚岸・昆布森も含めて9月17日に投票日が延期された。

「天災その他避けることのできない事故」により、本来の投票期日を延期して行う投票のことを「繰り延べ投票」といい、国政選挙では1974年(昭和49年)7月の参議院議員選挙で台風8号による出水のため、三重県で繰り延べ投票が行われたことがある。ただ、都道府県レベルの選挙で繰り延べ投票に至った事例は少し調べた程度ではみつからないので、これだけの広範囲での繰り延べ投票の実施というのは、かなり珍しい事例といっていいだろう。

8月13日の朝は、釧路の空には久々に青空が広がった。
避難者は公会堂を後にし、釧路は災害からの復興の道についたのであった。
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2024年05月03日

北海道歴天日誌 その189(1920年8月1日)初の全道中学野球大会開幕!

1920年:大正9年8月1日(日曜日)

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▲正午の天気図 『天気図』大正9年7月,中央気象台,1920-08. 国立国会図書館デジタルコレクション

日本の東に夏の太平洋高気圧が居座り、日本海方面へ向かって張り出している。
また、九州の南には低気圧があるが、これは台風である。
北海道は高気圧の縁辺で、南から暖かい空気が流れ込んでおり、各地で真夏らしい暑さ。

この日、道内で最も暑かったのは網走で、最高気温は30.4℃。札幌も30.1℃となり、この2カ所で真夏日を記録。
択捉島の紗那でも27.6℃と、8月の最高気温を記録した。

なお、空のほうは多少隙間がある曇り空となった所が多い。高気圧の縁辺ということもあるのだろう。

この日の札幌。厳しい暑さの中、初めてとなる全道中等学校野球大会が開催された。
これは現在の、夏の全道高校野球大会であり、”夏の甲子園”につながる大会である。この当時は甲子園はなかったが、各地区代表による全国大会はあり、この野球大会は初めての北海道代表を決める大会でもある。

第一回大会は、北大倶楽部と函館大洋倶楽部の主催で、北海道大学球場にて開催された。
参加チームは6チームで、北海中、小樽中、小樽商、函館中、根室商、函館商。

6チーム”しか”参加していないのは、深い理由がある。
実は野球に関しては、中学校間で試合をしてはいけないという申し合わせが、道内にはあったのである。

宙に迷へる全道中学の野球選手

来月一日 北大及び大洋後援の下に 北大グランドに於て 全道中等学校の野球優勝試合が行はるるに就て 端なくも問題が惹起しつつある

夫(それ)は 全道庁立中学校が対抗試合禁止を申合せであるので 何人の主催たりと雖も 此 申合せを無理して学校側が挙行させるか否や
若(も)し 挙行を許すとすると 申合は何等の権威もないものであるし 去(さり)とて許さぬ訳にも行かぬであらうから 此納まりはどうなるか 浪花節ではないが 頗る興味ある問題として全国の運動家が注目しつつある

右に就き笠井長官は語る
「凡そ運動と命名し得るものに絶対に弊害のないものはない 殊に野球は最も男性的な好運動である 大にそれ丈 裏面に伴う弊害も又あるかも知れないが 是はスポーツマン各自が自覚すればよいので 過般 本道各中等学校長会議に申合せた対抗試合禁止問題の如きは永遠的に継続す可き性質のものでない 適当な時季に解禁す可き事 勿論である」と、

又 大場視学官は往訪の記者に語って曰く
「庁立中等学校の対抗野球試合禁止問題は 嘗て語った事もある通り 自分の関知する處でないが 私の考へとしては 之は時期の問題だと思ふ
私は初め知らずに居た位だから記憶には無いが 確か 明治四十二、三年頃で 今から十二 三年以前の申合せであるから 今はもう解禁するか否かに就て教育者が考へなくてはならぬ時季だと思はれる」

更に此の問題の発頭者である山田(札幌)一中校長曰く
「此問題に就ては屡々(しばしば)世の誤解を招くが実際私だって運動を軽視する訳ではないから 正科の柔道剣道等は大いに奨励して居るのである
唯 野球 庭球は前に申合せもあり 絶対に是を禁止して居る
併し生徒が運動の為に 一度や二度試合をする位ならば決して禁止する訳でない、ボールは得て熱狂し易い遊戯で 是が為に大切な入学試験に落第したりする様な事があってはと言う老婆心から禁止問題も起したに過ぎない」云々

一方 各校生徒は試合が出来るものと信じ大喜びで練習して居たのを 同校長は二中 能校長と協議し 各中等学校長に対し禁止申合せを厳守する事に骨を折っているから目下選手は宙に迷ふている
(1920年:大正9年7月18日付 北海タイムスより)


この頃になると、申し合わせはあるが、ナゼ中学校同士で対外試合をしてはいけないんだっけ・・・という感じでもあるようだが、明治の終わりごろ、札幌師範と札幌一中で野球対抗試合を行ったところ、かなりの騒ぎとなり、負傷者まで発生した。そしてその後もしばらく両校の間が不穏な状況となったということがあった。このため、1910年(明治43年)の全道中学校長会議の席で両校の校長より、この際、中学校では野球の対抗試合は禁止しようと主張があり、他の学校の校長も賛成したことから、「対外試合禁止」も申し合わせが発効したのである。

大正の初めから、これについて「禁止」をつづけるか「解除」するかは全道校長会議の席で毎年のように話題となり、1919年(大正8年)の段階では、禁止派と解除派の真っ二つに割れている状況であった。禁止派は先の記事の札幌一中校長のように”勉学の障害”となることや新たな紛争の防止を論じ、解除派は、時代とともに学生の心理が変化していることや統率者の指導により紛争は防止でき、試合で得るもののほうが大きいし、他の競技は対抗試合をしているのに野球だけ禁止というのはおかしい、という意見であった。

こうして、大正半ばには校長会議の席上で公然と申し合わせからの脱退を発言する校長も現れたため、札幌一中校長は申し合わせ厳守に骨を折る動きをみせているのであった。

その結果、札幌一中(札幌南)、札幌二中(札幌西)、上川中(旭川東)、釧路中(釧路湖陵)、室蘭中(室蘭栄)などの学校が参加せず、私立の北海中(北海)と小樽中(小樽潮陵)、小樽商、函館中(函館中部)、函館商、根室商(根室高)の6校の参加となったのであった。

それでは大会の模様である。

開幕試合は1回戦。午前9時から、北海中と小樽中の対戦。
北海中は大坂、小樽中は廣瀬の両先発で、ヒットは北海3本、小樽4本だったが、北海は7エラー、小樽も9与四死球ということで荒れたゲーム。
結局北海中が5−4で小樽中を振り切った。

続いて正午からは函館中と根室商の対戦。
このゲームは函館中が圧倒。8安打に5四死球、相手の7失策もあり、大量19点を奪って6回コールドゲーム19−3で根室商に勝利した。

午後2時15分からは準決勝の第一試合。
この試合は、北海中と、一回戦不戦勝の函館商業が対戦した。
北海の大坂投手は午前中の1回戦に続き、この試合も完投し、10三振を奪う。北海中の打線も8安打と活発で、両チーム失策6と、塁上が賑わう展開。結局、北海中が6−4で函館商業を退けた。

午後4時10分からは準決勝の第二試合。
こちらは小樽商と函館中の対戦。
小樽商は6安打ながら、函館中の12エラーに助けられ、大量12得点を挙げた。
一方の函館中は4安打に抑えられ、得点が伸びず、12−4のスコアで小樽商が決勝に進むこととなった。

ここで日没となり、決勝戦は翌2日の午後1時半からの試合となった。
試合の模様は、当時の記事でご覧いただこう。

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▲決勝戦の記事(1920年:大正9年8月3日付北海タイムスより)

第一回の全道中等学校野球大会の優勝は、北海中学となった。

この試合も北海中は大坂がエースかつ4番バッターとして先発出場。水谷捕手とのバッテリーで、小樽商業に向かった。
北海中の安打は6本、小樽商業は4本だったが、勝敗を分けたのはエラーの数。北海はこの試合も7つのエラーがあったが、小樽商業のエラーはなんと「16」であった。

小樽商の鈴木投手は北海中から9三振、四死球ゼロと素晴らしいピッチングだったが、守りに足を引っ張られ、12−3の大差に涙を飲むこととなった。

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▲優勝した北海中の選手たち (朝日新聞社 編『運動年鑑』大正10年度より)

1920年(大正9年)の全国大会は、大阪の鳴尾球場で8月13日に開幕。
北海中の選手13名は皆川監督の引率の下、8月7日午後4時10分発の列車で札幌を出発していった。
大阪着は10日頃というから、行くまでに3泊4日もかかるという長旅である。この旅に北海中卒業生から成る「北中野球部後援会」が組織され、大いに援助があったという。

そして8月13日の全国大会。初陣の北海中はなんと開幕試合に登場することとなった。相手は新潟県の長岡中学である。

午前9時20分からの試合は初回から動く。
1回裏、北海中は1死からエラーで出た2番・飛澤が、続く3番・沼倉の二塁打によりホームイン、1点を先制する。

ところが3回表、先発の大坂が乱れ、1死満塁のピンチを招き、三塁手のエラーと安打によって4点を失ってしまう。
5回表も満塁のピンチからショートゴロの間に1点を失い、5−1と劣勢に。
ここから北海中は反撃に入り、5回裏はエラーで1点を返すと、6回も5番・水谷の二塁打を足掛かりに小西のタイムリーで1点を返し、5−3と2点差に迫った。

そして9回を迎える。
9回の表、大阪は2アウト走者なしから四球を出し、さらにピッチャーゴロを一塁に高く投げてしまい、3つ目のアウトがなかなか取れない。
このあと、ヒットに加え、右翼手の一塁への暴投があり、2者が生還。7−3と4点差に広げられてしまった。

9回裏は1死後、8番・安富が安打のあと2塁へ盗塁。その後2アウトとなったが、1番・中嶋の2塁打により生還し、意地をみせる。
しかし、続く沼倉が投ゴロに終わり、北海中はスコア7−4で長岡中に敗れ、全国大会初勝利とはならなかった。

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▲両軍のメンバーと成績 (朝日新聞社 編『運動年鑑』大正10年度より)

なお、長岡中(のちの長岡高校)は夏の選手権には合計6回出場しているが、勝利を挙げたのはこの試合だけで、あとはすべて初戦敗退となっている。

北海中はその後も夏の選手権に繰り返し出場し、2023年(令和5年)までに全国最多の40回の出場を果たすこととなる。

一方、全道決勝に勝ちあがった小樽商は、甲子園出場を果たせないまま2020年(令和2年)に閉校、小樽未来創造高となった。
一回戦で北海中と接戦を演じた小樽中も、今に至るまで甲子園出場はない。小樽勢はこの両校のかわりに、私立の北海商業(北照)が甲子園へ出て行くこととなるのである。
posted by 0engosaku0 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする