2024年06月23日

北海道歴天日誌 その199(1920年11月12日)気温も高いが物価も高い

1920年(大正9年)11月の札幌。

まずはこのグラフから、ご覧いただこう。
19201101札幌気温経過.jpg

最高気温の経過を現代の平年値と比較してみたものであるが、この時代よりも気温が高い現代の平年データを使用してもなお、札幌の気温はほとんどの日でそれを上回っている。
特に、11月3日は19.9℃、4日は21.2℃まで上がり、どちらも11月の最高気温としては2024年現在においてもトップ10に入る高温であるし、例年なら雪がしばしば積もる日が現れる11月中旬も10℃前後、11月下旬も7℃くらいで、根雪がはじまるような寒さではない。

実際、この年の11月、札幌では1センチ以上の積雪は観測されなかった。
異例の暖かさと雪の遅れについて、月末の紙面では札幌測候所の豊蔵所長が解説を行っている。

この暖かさで行けば降雪は来月中旬頃

豊蔵札幌測候所長の談に依れば 平年の温度は本月の上旬で 華氏の四十度、中旬が三十七度、下旬は三十二 三度であったが 中旬迄は昨年と大差無く平均二 三度の高温であったのが 下旬になってグッと上って 本年は四十五度を示して居る

平年ならば近頃になると満州方面に七百七十粍内外の高気圧が出来 太平洋北部など根室東方の海上に七百五十五粍位の低気圧が来て 爲に 北西の風が強く 寒気が加はるのが例であるが

本年は満州方面の高気圧が七百五十七粍位で平年より低く 剰(あまつさ)え 其 高気圧は固定して居らず 絶えず東方に向かひ 太平洋方面に移入するから 当に南風が多く 殊に太平洋北部の低気圧も約七百六十粍で平年より高いので 本年は非常に高温なのである

右の如き状態に在る所から 本道の上には時折小低気圧が通過して雨量が多いのである

根雪にならない迄も 雪が降るのは平年十二月の三日とあるが 昨年は十二月八日であったが 旭川が同日の雪が昨年根雪になって居る
勿論 降雪の最も遅れた年で十二月二十日であるが 本年は未だどう変化するか不明である

今迄通りで順調に行くならば 降雪は平年より二週間後れて 来月の十日乃至二十日頃になるであらうと
(1920年:大正9年11月28日 北海タイムスより)

この年の11月の気候の状況について、中央気象台が発行した「気象要覧」をみると、豊蔵測候所長の話と大体同じような説明が載っている。
大陸の高気圧は弱く、ベーリング海方面の低気圧もまた弱く、冬型の気圧配置が弱かったうえ、長続きしなかったことが原因であった。

この時期、同じように下がるべきものが下がらず、高止まりしていたものがある。
それは「物価」である。

第一次世界大戦が終結して戦後不況に陥る中、卸値は下がるのに小売物価はなかなか下がらず、庶民の生活は苦しさを増していた。
このため、商店には「暴利を貪っているのではないか」という疑念の眼が向けられたのである。

11月12日に道庁内務部地方課が札幌市内の物価調査を行った結果を公表すると、新聞はその内容を詳細に報じた。

札幌各町内に於ける卸と小売値の差

札幌区内小売商は卸値の低落せるにも拘らず 依然高値を持ち居れるが 日用必要品に就き 本月十二日現在を道庁内務部地方課にて調査したる値段左の如くなるが 是に依って見れば 卸値と小売値の差 甚だ大にして 殊に店毎に其の価格を異にせるを知らん

▽素麺饂飩類

素麺 蓮の糸五貫入り一箱 卸値八圓なるを以て 百匁に対し十六銭の割合なり
区内十二軒の小売商に就き 小売価格を見る

二十八銭なるもの二軒 二十銭なるもの七軒 二十二 二十三銭なるもの各一軒 北八条某店の如きは二十五銭にして 百匁に対し 他店に比し 実に二銭乃至七銭高価なり

乾饂飩も販売店に依り 曲大(かねだい)製大束一把十二銭なるものあり 甚だしきは十二銭なるものありて 同一製品一把に対し 二銭の差あり

白玉丸松印五十本入 一箱八円なれば 一本の卸値相場十六銭の割なり
小売相場は十一軒の小売店中 十八銭のもの一軒 某店二十三銭にして五銭の差あり
他店は凡て二十銭なり

▽味噌醤油酒類

佐渡味噌 十貫目入一樽相場九円なるを以て 一貫匁九十銭の割合なり
小売相場は一圓十銭或は一圓二十銭にして 商店に依り十銭の差あり
而して一貫匁に対する小売相場は卸相場より店に依り二十銭乃至三十銭の利益ある訳なり

醤油 亀甲万一升の小売相場は区内数軒の商店を調査するに 一圓二十銭を普通とするものの如きも 南一條某店は一圓なり
又 卸相場は一斗樽(正味九升入)金七円五十銭なれば 一升八十三銭三厘の割合なり

酒金露一升 南一條某店一圓七十銭 南七条某店 南二条某店は各二円二十銭にして 金露一升入一瓶に対し 金五十銭の差額あり
他店は二円のも多し 卸売は一升入り二十四本入れにて 金四十円なれば 一升瓶一本の価格は一圓六十六銭六厘なれば 平均二割強の暴利を貪れり

札幌ビール赤一本 区内小売相場は五十五銭のもの多し
而して卸相場は一ケース五円八十銭なれば 一本四十八銭三厘なり

牛乳小売は普通一合七銭なるも 卸は一合平均二銭八厘なれば 一合に対し 四銭二厘の利益にして 十二 三割の利益ある訳合あり

牛肉缶詰 三井物産株式会社製 やまと煮緑色レッテルもの一缶の小売価格を調ぶるに 停車場通某大商店一軒は六十五銭 一軒は六十銭なるに 南一條某店は八十銭 北二条某店は七十五銭にして 十五銭又は二十銭高価なり

要するに需要者は大いに目覚めざるべからず
(1920年:大正9年11月20日付 北海タイムスより)

「蓮の糸」というのは、この頃の”そうめん”の代表的な商品名だろうか。今なら”揖保乃糸”みたいな感じ。
醤油の「亀甲万」というのはキッコーマンのことで、「金露」は当時神戸・灘の酒造メーカーのブランド清酒。
この当時の札幌区民が、どういうものを食べて飲んでいたのかがちょっとわかる記事である。

卸値に対して2〜3割の利益がある状態は「暴利」として、また、同じ札幌の中でも価格差がある状態を、記事は攻撃にかかっている。

同じ紙面には、岩内では料理飲食店業組合が、店で出す蕎麦とお酒の値段を値下げすることとしたとの記事があり、札幌の商店主にプレッシャーを加えている。

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▲肉屋の暴利を糾弾する記事(1920年:大正9年11月21日付 北海タイムスより)

原料は低落した 蕎麦十二銭は不当

札幌蕎麦営業者は原料低落の今日 尚 もりかけ各十二銭を唱へ居るは甚だ穏かならす

既に北八条附近飲食店は もりかけ各五銭の大破格を以て販売しつつあり
尤も手打ちなるや機械打ちなるや疑問なるも 量の上よりするも質の上よりするも 一般のそれに比し 決して遜色なく 然も器物の清潔は場末に於ける飲食店として稀に見る處にて味の美、不味は兎に角として 一箇に付 七銭の差あり

五銭売にて相当収益あるものとせば 一般営業者は甚だしき暴利を貪りつつあるを立証するに難からず由来 組合規定なるものは斯かる場合 営業者にとりて恰好の逃口上となり
「組合規定なれば致し方なし」とて自ら暴利つつあるを認め乍ら 更に顧みる處なく 値下げを当然とするも組合の情誼(じょうぎ)に左右されて 断行するを得ざる場合ありと云ふが 所謂社会奉仕の精神より 斯る情弊を打開して速やかに値下げをせざれば 需要者の非難同盟に遭ふやも計り難し

一方 豆腐の如きも本紙の痛撃に遭ふて 一銭値下したるは 蕎麦屋に比して稍や怨すべき点ありとするも 尚 値下げの余地十分あり

既に旭川は六銭に値下げを断行し 社会奉仕の実を挙居るにあらずや
是亦 組合に於て協議を遂げ 少なくとも三銭乃至四銭の値下をなすべし
(1920年:大正9年11月2日付 北海タイムスより)

商人の側からすると、価格は必ずしも卸の値段だけで決まるわけではないから・・・と言いたいところだが、ここはぐっと我慢で、時折安売りをしながら嵐が去るのをただ待つのみといったところか。

気温は高いが、商人の懐は決して温かいわけではなさそうだ。
そうこうしているうちに、大正9年も師走へと入っていくのである。
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2024年06月15日

北海道歴天日誌 その198(1920年11月11日)東川の仙人

1920年:大正9年初冬を迎えた北海道。
11月は来るべき本格的な雪の季節の到来に向けて、準備を進める時期。それは人だけではなく、動物も同じである。

11月7日、冬眠前のヒグマが一頭、登別で斃された。

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▲ヒグマと記念撮影(1920年:大正9年11月11日付 北海タイムスより)

この年の7月頃から、登別の幌別地区では一頭のヒグマが出没して、さまざまな所を荒らしていたのだがなかなか駆除できず、役場から200円の懸賞金までかけられて行方を追っていた。

そんな中、7日の早朝。大きな熊が潜んでいるのがみつかり、高瀬、地利の両名と他の三、四名が現場に向かい追跡にかかった。

そして、登別温泉の発電所付近でまず高瀬が第一発を見舞い、これがクマの左手に当たった。
次いで、地利が第二、第三発を発射、腹部と右脚に命中し、遂に斃れた。

このヒグマは体重が80貫で体長8尺というから、それぞれ換算すると体重約300キロで体長は約2.4メートルとなる。
現在でも体重300キロのヒグマは”巨大熊”と十分呼ばれるサイズである。

上の記念写真の面々も、これで安心して年が越せると感じたことだろう。

翌11月8日がこの年の立冬。

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▲1920年11月8日の天気図 『天気図』大正9年11月,中央気象台,1920-11. 国立国会図書館デジタルコレクションより

5日から6日にかけて道北を中心に雪が積もったが、7日は10度くらいまで気温が上がったので、雪はきれいさっぱり消えてしまった。
立冬の天気図は”冬型”で、最高気温は網走は5.4℃、旭川は5.7℃どまり。しかし、帯広は10.4℃、釧路9.9℃、函館10.2℃、札幌10.1℃まで上がっている。

天気は日中は晴れ間や日差しのあったところが多かったが、夜は函館では雨になった。札幌と函館では”日がさ”を観測している。

さて、立冬を過ぎ、札幌では”まるいさん”が冬の製品の売出しの広告を掲げている。

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▲今井呉服店の歳暮等売出し広告(1920年:大正9年11月13日付 北海タイムスより)

今井呉服店は当時は札幌随一の百貨店である。年末、真冬を前にいろいろな商品を取りそろえ、また客は札幌だけではなく道内各地からも群がって来るのである。

しかし、まねからざる客もまたやってくる。

○丸井の万引男

旭川区一条通り八丁目右九号 戸主 当時札幌区北一条西三丁目五番地 斎藤文治方同居 文栄堂活版所校正係 木村幸一郎事 笹森末吉(四七)は 七日午前十一時頃 区内南一條丸井呉服店の混雑に乗じ 店員の隙を窺い 御召反物二反(五十円)を窃取し 警官に取押へられ 本署に取調べの末 大正八年二月中 数回に亘り同商店よりラクダ襟巻外八点(時価百五十六円余)を窃取せる事発覚し 九日 窃盗罪として区検事局送り
(1920年:大正9年11月11日付 北海タイムスより)


今井呉服店で万引きという見出しの記事は、この頃の紙面ではちょいちょい見かけるものである。
10月にも女の万引き犯が捕まり、函館高女卒業生の”高学歴マダム”ということまで報じられたほどである。

物欲にまみれる万引き犯と対極にある人についても、同日の紙面に記事があるので読んでみよう。

寄せ鍋

上川郡東旭川村に山本忠蔵と云って不思議な老人が居る

今年六十才で十七才の娘と二人暮しであるが 同村の廣部農場内に二十年も実直に働いて 水田一反歩を貰って居る
そして今ではそれを耕して居るが 他人とは一切交際せず 自分一人で草を取れば稲も刈り 刈った稲は二 三把ずつ 爐(いろり)の上に吊して乾燥し 乾けば手で籾を揉み落とし それを一升徳利に入れて 手頃の棒で撞いて殻を取り 之を御飯に焚いて 其の日を送って居るので 家には鍋一個に茶碗一個の外 道具とては何もない

冬はそれで寝て暮らして一歩も外に出ず 春夏の候 他に頼まれれば出面にも出るが 其の賃銀は全部其まま貯へて 塩も味噌も何一つ買った事がない

全く世間から絶対にかけ離れて悠々独自の生涯をなして居る
人呼んで「東旭川の仙人」と云ふが 全く仙人其儘(そのまま)で 當今には二人とあるまい
(1920年:大正9年11月11日付 北海タイムスより)


東旭川の仙人と紹介されているが、記事に出てくる「廣部農場」は、東旭川のさらに南東にある「東川村(現在の東川町)」の開かれていたので、仙人のすみかは「東川」なのかもしれない。

大正2年の北海道農場調査では、廣部農場は明治29年に廣部清兵衛が貸付を受け、東川村の1号から西8号にかけて水田100町歩(約100ha)、裸麦畑15町歩の農場であり、60戸が小作していると記されている。その中でも50戸は富山県から、2戸は山梨県から、5戸は香川県から、3戸は秋田県からそれぞれ小作に入ったと記されている。この60戸のうちの1戸が仙人の住む家か。

廣部農場は昭和3年までに、土地を小作人に開放した。
仙人も人生の最後には自作農になれたかもしれない。
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2024年06月09日

北海道歴天日誌 その197(1920年10月27日)初雪合図に出発進行!3路線3区間で鉄道開業

1920年の初冬の北海道。
初雪は前回触れたように、10月24日に観測したところが多い。札幌、旭川、網走、紗那である。

初めての積雪は11月5日。旭川では11.5センチの積雪、網走で0.2センチ、札幌も0.1センチの積雪を記録している。
(※このころはミリ単位まで積雪を観測している)
そして、この日には寿都でも遅れていた初雪を観測した。

この初雪から初積雪までの10日あまりの期間に、道内では3つの路線で鉄道が新たに開業している。

開業したのは、鉄道省(のちの国鉄、JR)の名寄線のうち下川駅−上興部駅の間と宗谷本線(のちの天北線)のうち浅茅野駅−鬼志別駅の間、そして寿都鉄道の寿都駅−黒松内駅の全線である。

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この3路線3区間のうち、開業したのは寿都鉄道が一番早いのだが、祝賀会が行われたのは名寄線のほうが先。
開業した10月25日の賑わいの様子が記事になっている。

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▲名寄線の祝賀の様子(1920年:大正9年10月27日付北海タイムスより)

上興部は今の西興部村のエリア内なのだが、興部から西興部が分村するのは1925年なので、この開通祝賀の場では興部村長が開会の辞を述べている。

上興部駅の駅舎は1989年(平成元年)の名寄本線廃止時まで建て替えられることはなかったうえ、その後も鉄道記念館となって保存されたため、令和6年の現代でも現存している。


▲1920年からの時を刻み続ける旧上興部駅

名寄線の下川−上興部間より一日前に開業し、二日遅れで祝賀会を開いたのは寿都鉄道である。

こちらの祝賀会は大々的であった。
10月27日の祝賀当日は、午前6時から午後10時まで、寿都駅に汽車が発着するたびに花火が上がる。
そして午前10時には寿都駅を発着点として寿都町内をめぐる”徒歩競走”が行われ、正午からは寿都小学校の3年生以上の生徒が寿都駅に集合して楽隊を先頭に旗行列を編成し、町民有志の仮装行列隊と一緒に町内をめぐる。さらに、午後6時からは寿都小学校の5年生以上の生徒と有志が提灯行列を編成して、やはり町内を巡った。

また開業連携イベントとして、寿都女子職業学校の校内では生徒の成績品の展覧会が開かれた。この職業学校の一室では寿都測候所の気象観測機器の展示もあわせて行われ、一般や来賓に気象観測の必要性を知らしめたという。

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▲開業時の寿都停車場(1920年:大正9年10月27日付 北海タイムスより)

ところで、この寿都鉄道に関しては”省線”ではなく民営であり、いわゆる私鉄である。
これは私鉄でなければ寿都に鉄道が通せなかったであろう事情があった。

寿都鉄道開業に苦心した人の談話が載っているのでみてみよう。

開通式挙行に際して 寿都鉄道敷設の動機と会社設立の苦心

寿都黒松内間鉄道開通祝賀会は愈々本日を以て挙行さるることとなれるが 之に就き 同社専務取締役 畑金吉氏を事務所に訪へば 氏は曰く

「大正六年春 未だ浅き頃と覚ゆ
偶然にも寿都町の客となり、我社現重役の中田忠治氏に会見、余談 寿黒間の鉄道問題に及ぶ

同氏は之の成否は本町安危の分かるる所にして 実に死活問題と云ふも不可なき理由を力説せられ 頗る同情の念に駆られたる結果 応援を辞さるべきを約すと同時に 只 単に請願書の通過に甘んじても 到底近き将来に官設起工の曙光を観る能はざるべく

寧ろ 之を 一大勇躍の下に私設軌道を布いて 以て一日も速く救済の実を挙ぐるの経そうなる卑見を被瀧し 事業費は大部分寿都方面にて負担し得べしとの説もありたれば 先以て 布設権を獲得すべく 故 吉田三郎右衛門 佐々木平次郎 その他の諸氏とも了解を得て 大正九年に入り 免許を得 具体的に事業の進行を諮らんとするの時に於て

出資の大部分を負ふ可き筈の寿都町 当年の鰊漁は 前古未曽有の殆ど絶無の惨況を呈したるより 出資の実力を減退して 予期の半額をも募集困難なる事情突破し 之が為 一旦得たる権利を失効せしむるは 発起人として忍びざる所より

佐々木氏初め 関係者は吾輩に専心経営の任に当たるべき条件を以て 出資不足額を支出せむとする意見には 吾輩は 相互間に介在して 頗る決断に苦しみたるも 常に敬事する先輩の教を乞へたるに 将来の立場を慮からば 寧ろ 受諾すべしとの意見に任せ 茲に 応援して 蛤貝以上の位置転換を来たせる次第なり

大事を挙ぐるものが苦心を語るは 或る意味に於ては 自己の無能を語り 薄志励行を表明するものと観られざるにあらざれば 之を説くの要なしと雖も 吾輩が外に対しては全責任を負 内にありては忠実な支配人 若しくは事務主任と同一の事務を自ら央掌せざるべからざりし

一事を以ても想像に難からざるべく 之等は只 人々の観察に委せんの町民の宿望たりし
陸上交通機関も未だ以て完しと云ふ能はざれども 兎に角開通を見るに至りたる以上は 之を善用することに力るは 将に為すべきの事に属し 而して鉄道をして真に有用たらしむるには 更に港湾を修築して 連絡を保たざるべからざる

寿都町焦眉の急務で 其他 寿都町として為すべき事業費 出するなるべく吾輩も 来町以来 本町の風俗純朴にして人心 亦 敦厚なるものの如く観取りせられ 何となく去りがたきものなり

新開地方面の悪化せる人情風俗と比較せば 交わり易きの感 切なり

永く町民の端と為り 諸君の騎尾に附して より以上 寿都町の開発に微力を捧げんと欲せるものなり
世間評を為して 寿都町の前途発展の余力なしとするものあるも コハ 謬論たるを信ずるものにして 其の理由は他日 適当の機会に於て所見を発表することあるべし」
云々
(1920年:大正9年10月27日付 北海タイムスより)

明治の終わりには函館から長万部、倶知安、小樽を通って札幌へつながる函館本線、いわゆる山線は開通していたが、ここから日本海沿岸の港町に出る「支線」については各地から請願は出ていたものの、省線としての鉄道敷設は国会の議決がなければ着工できない。

岩内は一足先に1912年(大正元年)11月に鉄道が通ったものの、寿都や瀬棚、江差、留萌など、他の日本海沿岸の港町にはなかなか鉄道が通らない。
このため寿都では「早く鉄道を引くには私鉄のほうが早い」ということで、地元が中心となって工事費等を負担し、私鉄として鉄道を通したのである。

第一次世界大戦の影響による材料費の高騰に、寿都周辺でのニシンの不漁も加わり、厳しい状況を乗り越えながらも寿都鉄道は開業にこぎつけたのであった。この苦労と喜びが、興部と寿都の祝賀会の規模の差を示しているのかも。

10月27日の北海道は高気圧に覆われ、寿都はスッキリとした秋晴れの一日となった。
青空の下、寿都鉄道のSLは白い煙を吐きながら、開通祝賀に湧く寿都町内を走り抜けていったことだろう。

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▲1920年:大正9年10月27日6時の天気図 『天気図』大正9年10月,中央気象台,1920-10. 国立国会図書館デジタルコレクションより

そして11月1日。今度は最北の稚内に向けて伸びている鉄路「宗谷線」の延伸開業である。
将来は北見線、天北線と名を変えるこの鉄路は、猿払村内を10マイル分、北へ延ばし、鬼志別に届いた。

ここは地形的には平坦なのだが、湿地が多く「泥濘 馬腹を没」するような状況で、船を使えるような川もなく、工事の材料はもちろん、工事作業員の日用物資の運搬も非常に困難を極めたという。

鉄道開通と各駅の賑ひ

本日午前九時四十三分 浅茅野発鬼士別行の一番列車に 中頓別団体 浜頓別営業団体の両団体は 二台の貸切車に万国旗 其他にて美しく装飾し 十台の客車は満員立錐の余地なく

猿払駅に至れば 煙火は沖天に轟き 猿払同窓会の旗を立て 国旗を振れる小学生徒列し 一斉に万歳を唱へ 駅前にはアーチを設け 「開通を祝す」の額を掲げ 餅撒きを為せり

浅茅野線の乗客 本日朝 一番列車のみにて二百名内外あり

芦野駅に至れば 駅附近にアーチを造り 餅撒きの俵を改札口に運び 車中の人々 我勝に降りて餅を奪ひ取り 遂に俵迄 車中に運び去ると云ふ

十時三十三分 鬼士別に着せば 煙火と万歳の声 轟き渡り 駅には 河内祝賀会長 森局長 外 多数有志参集し 旭川運輸所長外 多数の鉄道吏員も見受けられたり

鬼士別駅前には大アーチを造り「祝開通」額を掲げ 会場に幕を張り 公開余興場にては演劇を為せり

市街は各戸国旗を掲げ 附近より人出 織るが如く お祭り気分に充たされ 活気横溢せり
(1920年:大正9年11月2日付 北海タイムスより)

猿払も開通初日に祝賀行事を行っている。もちまきの荒々しさが何となく滑稽。

さて、こうして1920年は初雪から10日あまりの間に、3路線3区間の鉄道が開業したのであるが、すべてが平成元年までに廃止されてしまい、今の世に残る鉄路はない。特に寿都鉄道は”国有化”の夢を果たせないまま、1968年(昭和43年)に運転休止、そして廃止の道をたどったのであった。
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2024年06月08日

北海道歴天日誌 その196(1920年10月21日)”或る男”の人生観

1920年:大正9年10月21日。

この日は、季節外れの台風が日本の南の海上を北東に進んでいたが、遠く離れた北海道には影響はなく、午後7時の札幌は快晴。
南からの微風と穏やかな宵。16.9℃まで上がった気温は、この時間は5.9℃まで下がっている。

ひんやりとして静かな晩秋の札幌の夜であるが、時計台だけは多くの人が集まり、熱気に包まれていたようだ。
ここでは当時絶頂期を迎えていた、北海道ゆかりの一人の文学者の講演会が開かれていたのである。

では、その時の模様を当時の新聞記事で追体験してみよう。

我々は理知の生活を混じて生きて行く
一昨夜の有島武郎氏の講演会


現代文壇の人気者として 将又(はたまた) 北大出身者として本道に縁故の深い有島武郎氏の「一つの人生観」と題する講演会は 北大弁論部主催の下に一昨日午後七時から時計台楼上に於て開催された

聴衆は定刻前 既に堂に溢るる程に詰かけ 先 北大弁論部 田代主任の開会の辞、森本博士の紹介が済むと 有島氏登壇して一通りの挨拶をすませた後

「私も一個の人間である以上 生きていくと言ふ事に就て 考へて居ない事は無い、
誰かが『人間は生れ乍らにして哲学味を帯びて居る』と言って居る
私は夫れに就いて述べて見度(みた)いと思ふ」

と前提して

「私の教えられた道徳は ミリューの爲に自己を犠牲にせよと言ふのであった、
併し 此 道徳は理智に依って築かれた不自然なものである
此の形式的な理智の奥には人間自然の本能がある

本能は愛である 而して愛は與ふるものに非ずして奪うものである
此の意味に於ての愛は 善悪とか邪正とか云ふ対比的なものから超越した 純真な自己で、
他の愛(め)くべきものを自己の中に融し容れるのである

故にキリストの十字架やセントプランセスが荊(いばら)の中に身を投じて 他を救はんとした事は大なる犠牲の様に見えて 実は何でもない
自己の内部的生活に於ける本能、愛に依って満たされて居たのである

19201023有島武郎.jpg

吾人は 此 本能の生活を愛する
併しながら本能生活は頗る緊張して居て それ許りでは三日間も生存する事が出来ない

其処で我々は其中に理智の生活を混じて生て行くのである」

と言ふ意味の熱弁に 種々なる例を引いて 約二時間に亘って講演を行った

聴者は氏の自由な諧謔(かいぎゃく)的な口調に失笑する外 極めて静粛に熱心に聴講して午後九時閉会した
(1920年:大正9年10月23日付 北海タイムスより)


諧謔的を辞書でひくと「物事や言動などに笑いを誘うようなユーモアがあることを意味する表現」となる。
ということは、この日の有島武郎の講演は、なかなか上機嫌な話しぶりだっただろうと想像できる。

このころの有島は、記事に出て来る「森本博士」こと北大農学部の森本厚吉教授や自由民権運動で名高い吉野作造などと、科学的に生活を改善し、誰もが文化的な生活を営める方策を啓蒙することを目的とした文化生活運動を行っていた。

ただ、記事の講演の内容は文化生活の話というよりは、キリスト教の牧師の話のようなものである。まあ、タイトルが「人生観」だから、自分が何を心のよりどころとしながら生きているかという話になったのかも。

ミリューとはフランス語で真ん中とか環境、社会階層などの意味がある。
このため、有島はミリューではなく、愛と理智を交ぜて生きよと諭したのがこの日の講演の胆のようだ。

実際、この頃の有島は「愛己主義」という講演で語った考え方で追い求めていた「本当の自分」の姿をみつけていたそうである。

さて、有島武郎の講演の模様が記事となった10月23日、台風は低気圧となって千島の東へ去り、北海道付近は冬型の気圧配置となった。
このため、23日は南樺太の落合、大泊で初雪となり、24日は旭川、札幌、網走、紗那で初雪が観測された。

24日の朝は札幌から藻岩山や手稲の諸山が雪をかぶっている様子がみられたというが、有島は札幌を去る前にこの雪を見られたかどうか。

そして有島は人生観の講演を札幌で終えてからわずか3年足らずで、自ら人生を閉じることとなるのである。
それは、ひとつの答えを見つけたはずの人生観に挫折し、虚無を深めたからだという。

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▲有島武郎の死を伝える紙面(1923年:大正12年7月9日付 北海タイムスより)
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2024年06月02日

北海道歴天日誌 その195(1920年10月2日)旭川時間とは?

1920年(大正9年)に始まったもののひとつに「時の記念日」がある。
この年に東京で開催された「時の展覧会」の期間中に記念日の構想がもちあがり、天智天皇が初めて漏刻(水時計)を作り、人民に時を知らせたのが671年6月10日という故事にちなみ、6月10日を時の記念日としたものである。

この年の6月10日に東京では各工場の汽笛や寺院の鐘などを正午に一斉に鳴らすイベントが行われている。

時は流れて、この年の秋の北海道から「時」に関する話題を二つ。

札幌局電話課の応答時間安全日

札幌郵便局電話課にては 本月一日 二日の両日を応答時間安全日と定め 兎角 苦情の多い交換事務に就て直接その衝に當る交換手が勤務中に事故を発見して能率の増進を図り 尚且 それに伴う注意を喚起して仕事を円滑ならしめ様と云ふのであるが 是は同局の新しい試みで結果は頗る好成績である

勤務中の事故と言へば 「ドロップ」が開いているのに不注意のため応答が遅延したり 又は隣席の「ドロップ」が開いてゐるのに補助もせず 又 加入者に応答の機を輿へず 言葉使いが不良 或は 粗暴に失したり 信号方不良、番号を開け放し、不明番号を確かめず、二度以上問返し 相手番号の間違い「ジャック」の誤り等 其他 沢山あらうが 要するに夫等を出来得るだけ少くしやうとするので 数多い交歓手 中には 一応答 十五、六秒を費やす者もあるが平均二秒半といふ素早さで 窓外には横殴りの雨が降って肌寒いのに 交換台の前の電話詰は汗ダクの有様である

何しろ加入者の職業に依っては一日の度数百五十四位も使用する者があるし お剰に背後には主事補の眼が光って居るので一通りの苦心ではなく 健康体でなければとても勤まらないと云ふ
(1920年:大正9年 10月3日付 北海タイムス)


前回の記事でみたように、10月1日は台風の根室方面通過により札幌は雨が降って風もやや強く、荒れ模様の天気。
1日の札幌の最低気温は13.3℃、最高気温は16.5℃だが、翌2日は最低気温が5.1℃まで下がり、最高気温は16.9℃どまりということで、やはり10月ということで、外では肌寒さも感じられたか。

だが、電話交換の仕事のほうは、応答時間に気をつけながら汗だくで行われていたということで、忙しく交換作業をする交換手の様子がなんとなく想像できるもの。

ところで「電話交換」というと、現代では古くなった電話機を新しい電話機に「交換」するような仕事をイメージしがちだが、この記事でいう電話交換は、電話をかけてきた人と電話を受ける人の電話線を接続する作業のこと。

この頃の「電話番号」はあるが、電話機のほうにボタンやダイヤルはない。受話器をあげると郵便局に電話がつながるのだ。
そして、応答した電話交換手に電話番号を言うと、その電話交換手が相手先の電話につながる電話線に連絡プラグを差し込み、これでやっと電話ができるという仕組みである。

このため、まちの人口規模が大きくなるにつれ、電話交換の負担は大きくなる。
大正時代の北海道は、都市から地方で様々な設備が広がっていった時代だから、札幌の電話交換の仕事も飛躍的に多忙化していったことであろう。それでも応答時間は待たせても15〜16秒、平均では2秒半ということだから素早い仕事ぶりである。

1秒を争う、せかせかと仕事をする人たちがいる一方、こんな話題も。

汽車に乗る気で時間を守れ

従来 旭川へ行くと「旭川時間」と呼ばるるものがあった。

それは如何なる時間かと云ふと、例えば午後七時開会と云ふ集会が 七時には開会されないで八時になったり 甚だしいのは九時近くになって漸く始まる、そのふしだら千万な時間を指したものであるが 是は獨り旭川区に止まらない

札幌では札幌時間と呼ばれ 小樽では小樽時間と称されて 何処へ行っても其時間の不励行を見ない所は稀である、寧ろ是は日本国民一般の遺伝的悪癖と云っても可からう

其結果 貴重な時間を空費し 尚 共に惰性を増長し 一方には是が爲に迷惑を蒙る人士が少なくなかった

旭川商業会議所では此悪習慣を打破しやうとの目的から時間励行標語の募集を行ったが 其の 応募句八千余点の内 審査の結果一等(賞金二十円)を得たのは 旭川区宮下通四丁目 鉄道官舎 保科福五郎君で 其の句が面白い

汽車に乗る気で時間を守れ

お職業柄 汽車と結び付けてあるが 若し此気で行ったら総ての集会が定めの時間通行はれる事 疑ひない。

次の二等(賞金十円)は旭川衛戍病院 藤田静君で 左の句である

時間励行は公徳の始なり

時間の不励行を道徳上から責めて行った丈は聊か固すぎる憾はあるが それ丈 時間の不励行者にはビシンと来る句だ
公徳を重んずるならば須らく時間を励行せよと云ふ事になる

三等(賞金五円)は旭川区四条通十二丁目左七号 大橋毅君で其の句は

時を守らば心に余裕あり

是は確である
無闇に忙しい忙しいと云って騒ぐ人に限って多く時間を無駄に盡し ダラシなくなっているのである

因みに旭川郵便局の如き 最も時間を励行し 通信機関の職務に忠実であって欲しい本稿の如きは 同局の怠慢から一日遅着したのである
(1920年:大正9年10月2日付 北海タイムス)


記事の最後にオチを持ってくるあたり、これを書いた新聞記者は文章がうまい。

ところで、今は「旭川時間」という言葉はすっかり死語のようだ。
旭川だから時間にルーズということはなくなったわけだが、今や何でもかんでも効率化が進み、日本ではどこに住んでいても時間に追われる暮らしになっているような。

旭川時間が消えるとともに、ゆっくりのんびりとした暮らしも今や”絶滅危惧種”かも。
posted by 0engosaku0 at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする