2024年07月28日

北海道歴天日誌 その213(1921年4月14日)大正10年の函館大火!素早く罹災者支援

1921年:大正10年4月13日の夜。

19210413夜の天気図.jpg
▲4月13日18時の天気図(『天気図』大正10年4月,中央気象台,1921-4. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

北海道付近は東高西低の気圧配置である。
朝は晴れていたところが多かったが、次第に雲が広がり、夜は全道的に曇り空に変わった。
そして、東から南東の風が各地で吹き始めた。

函館では5m/sほどの東から南東の風が吹いていた。特段強い訳ではない。

函館の大廈高楼軒を並ぶる商業の中心点 悉く烏有に帰す

十三日来吹き続けたる南東の風は 夜に入るや益々烈風を加へ来れる折柄 十四日午前一時三十分 東川町百八番地 松島屋菓子商より出火したれば 何かは以て堪るべき

驚破(すわ)火事よ と 見間(みるま)に忽ち四方に焼け広がり 附近一面を焼き払ひ 紅蓮の炎は益々荒れる風伯に一段の力を得て 天地は一面 紅に彩どられ 熱火の雨は風下を驚かし 常に全国有数の技量を有すと誇つつありし函館消防隊 必死の努力も何等の功を奏するに至らず 刻々 火の手は四方に燃え広がり 全区は阿鼻叫喚の巷と化し 宝町を一舐と為し 函館一の賑やかなる蓬莱町を瞬間に烏有に帰して 火の手は末広町 相生町に延焼せるが

末広町は函館一の商業繁栄地の事とて 大商店 大建築 軒を列ね居るを以て 之に火の移り 一層物凄き建物の倒壊する等 石油缶の爆発の音をと相和して天地動き 山も崩れんと思はるるばかり

元町には公会堂、富岡町には区立病院ある事とて 若し之に燃移らんか 其 西部全部烏有に帰すべきを消防隊は非常に恐れ 自動車ポンプは茲に全力を傾注せるが 末広町 会所町、元町の大部分を焼盡したる時は風も稍(やや)軟(やわら)ぎ 且つ火勢も衰へ 漸く七時三十分鎮火せるが 電燈線、電信電話線 全部焼落ちて 道路は宛ら無数の鉄条網を張れる観あり

全区黒煙を以て 覆はれ 斯くて交通も出来ざる有様となりたるを以て 焼跡は 其惨憺たる惨 名状すべからず
(1921年:大正10年4月15日付 北海タイムスより)

大正10年の函館大火の発生である。
南東からの”春風”は、1,309棟2,141戸を焼く大火災に加担する風となってしまったのである。

この火事で、宝町に住む50歳の女性が、火災中の家から家財を運び出そうとして焼死した。

19210415函館焼失図.jpg
▲函館の焼失区域(4月16日付 北海タイムスより)


▲現在の同じあたり

この火災により、庁立函館商業(現・函館商業高校)、大谷女学校が焼失し、今井呉服店函館支店や北海道拓殖銀行函館支店、五島軒、映画館、料亭など函館の西部地区にある多数の建物が焼失する惨事となった。

函館区は罹災者のために、宝小学校に荷物の一時保管所を設け、函館区公会堂や住吉小学校などに罹災者収容所を設けて炊き出しをすること、宝小学校に救護所を設けて負傷の治療をすることとし、直ちに市内にビラを撒いてこのことを知らせた。

さらに、翌日には公設市場と公認市場で、鍋やバケツ、洗面器、茶碗、小皿、どんぶりなど各種日用品を安い値段で販売することを決め、これまたビラを撒いて周知した。
そして、罹災者に関する様々な問い合わせは警察が引き受けることとしたのである。
このあたりの対応は極めて早く、当時の新聞記者をもって「全く注意周到である」との感想を引き出しているほどである。

さらに、函館大火の報道に接した仁丹本舗からは、函館区に一万人分の焚きだしの寄付があり、早速函館区は罹災者に分配の手続きを行っている。

19210416函館末広町焼け跡.jpg
▲末広町の焼け跡の様子(4月16日付 北海タイムスより)

この大火に際し、函館経験者の警察幹部が語っているので聞いてみよう。

鬼門は東南の風 井上道庁警部談

函館今回の大火に就ては 同区に対し まことに同情に堪へぬ
自分も曾て 函館に在勤し 大正五年 旭町より発火して白昼二千余戸を焼尽した火災に遭遇して居る

同地は何時も東南の風強く 一度火を失せんか 常に此風に煽られ 惨禍を蒙るのである
殊に水道の水量は甚だ貧弱で 飲料にさへ差支 一昼夜 一 二回の断水時間を作って 漸々間に合せて居る状態で 到底 消防用としては頼むに足らず

防火用水道 又は火防用水タンク等あるも 同区には其の用を為さず
常に此 風と水の不足が大火の因を為すのである

幸ひに近年 自動車ポンプ等 最新式の消防機械を備へ付けられ 又 勝田組頭以下の消防組員は頗る熱心で 全く献身的に努力せられて居て 此点は大いに信頼するに足るが 併し 如何に当局が努力するも 有力なる機械を備へるも 肝心な水が無く 而も 同区の様な烈風のある處では 従来の消防力にのみ信頼するのも不安心である

依って自分は どうしても所々に防火壁を設くるの必要があると思ふ
之は 敢て 大なる費用を要する訳でない

同区は殆ど数年に一回宛の大火を見るのであるから 其 損害に比較したなら実に安価な防御設備が出来るのである
而も一度建設せば 経常費としては何等の支出を要せず 同区の如き細長き町で 風が常に縦に吹く所では格別此方法は採り易いから 凡そ 五 六ヶ所以上 風の方向を遮断すべき向きに設くれば 不幸にして火を失するも 其の壁と壁の間だけしか焼ぬから 壁一重隣の区域は大安心である

将来 シベリア方面との交通頻繁となるに伴ひ 年々同方面に跡を絶たぬペストの何時輸入せらるるも測り難い

同区の如きは常に其の脅威を受て居るのであるか 此の防火壁があれば 其の場所に 鼠族の交通防止装置として利用する事が出来るので 防火衛生上極めて有益な施設と信ずるから 此際思ひ切って是非其の設備をせらるる事は同区将来の為 幸福と思ふ」云々
(1921年:大正10年4月16日付 北海タイムスより)


函館の大火の原因は風と水不足にあるのだから、防火壁で風の向きを変えてしまおう、という提言である。
ペストも撲滅できて一石二鳥というのであるが、やはり札幌と函館の距離の遠さか、この提言はさほど伝わらなかったようで、函館で防火壁が発展したという話はない。
そして、ここから13年後、大正10年大火とは異なる南から南西の風によって、函館はさらなる大火の惨禍にあえぐこととなる。

繰り返し大火に見舞われる函館を横目に、札幌の防火体制を憂う人も・・・。

19210416投書jpg.jpg
▲札幌の防火体制を嘆く投書(4月16日付 北海タイムスより)

記事には、火防番屋付近に住む人ということで紹介されている。金はとるけど有事は動かず・・。前回、岩内で聞いた話と似たような話である。
そして、松本さんの懸念は、まもなく現実のこととなるのであった。
posted by 0engosaku0 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月27日

北海道歴天日誌 その212(1921年4月4日)融雪洪水+暴風高波=救難所員動かず

1921年(大正10年)4月3日。

この日の夜、余市の浜にはたくさんのニシンが押し寄せた。ニシンの厚群来である。
漁師は勇んで、ニシンを獲り、枠船の網に詰め込んで、口を縛って沖揚げの準備を行っていた。ところが、夜明け前から海がどんどん荒れてきたのである。

19210404天気図.jpg
▲4月4日午前6時の天気図(『天気図』大正10年4月,中央気象台,1921-4. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

台湾付近の低気圧が北東へ進み、朝鮮半島付近を通過して日本海に入った頃から急速に発達。
4日朝には積丹半島付近に達し、北海道を横断してオホーツク海へ抜けていった。

このため、北海道は4日を中心に全道的に大荒れの天気となった。
最大風速は、函館で南西の風が25.8m/s、根室で南南西の風が23.7m/sを記録し、ともに現在に至るまで4月史上1位として残る暴風を記録した。
また、釧路18.8m/s、網走17.3m/s、旭川16.0m/sなど内陸・沿岸問わず、強風が吹き荒れた。

特に函館測候所では上に掲げた風速を観測後、風力計と風信計が風で破壊されてしまった上、2基ある暴風信号柱の1基が倒壊するという被害があったほか、家屋の全半壊が111戸など風の被害が大きく「函館有史以来の椿事」と伝えられた。

3日から4日にかけての降水量は釧路81.9ミリ、根室64.5ミリ、帯広64.4ミリ、札幌で48.1ミリ、寿都で36.0ミリ、函館31.6ミリ、旭川16.3ミリ、網走15.9ミリなど。旭川や網走、帯広ではまだ積雪が残っていたが、この両日で5センチから10センチほど減っている。まとまった雨に加え、強風と高い気温で雪解けも進んだのである。

結局、余市では人的被害こそなかったが、暴風と怒濤の影響で一万石ともいう大漁のニシンを枠船から引き揚げることができず、そのまま放棄せざるを得なかった。

このほかにも全道的に被害があり、例えば、礼文では船泊村神崎で雪崩により人家が埋没1名が亡くなり、7人が乗りの2隻の鱈釣り船が遭難し、行方不明となった。
また、倶知安では下水が氾濫して68戸が浸水したし、温根別(現・士別市)では帝国製麻の倉庫が基礎から吹き飛ばされ、がれきが市街地の細川旅館を直撃するといったことも起きた。

十勝では利別川と美利別川が増水。
本別村では美利別川にかかる栄橋が雨水に雪解け水と氷塊が押し寄せて中央付近が流失。その下流にあった完成したての開盛橋もまた中央部分が流失。そのまた下流の高島橋もまた全部流失という、連鎖的な被害が発生した。
厚岸でも100戸の家屋に浸水被害が出ている。

夕張では雪解け水と雨水で河川が増水、鹿の谷市街は氾濫した川の水が流れ込んで、巡査駐在所が流されて巡査の妻が行方不明となった。後に死体で発見されている。
また、鹿の谷では民家や飯場など17軒が床上浸水、土砂災害により1棟12戸のうち2戸全壊、6戸半壊など大きな被害があった。

このほか、同じ空知では長沼で、800戸が浸水する大きな被害が出ている。

人的被害として大きなものは、深川と利尻で発生している。
まず、深川で発生した惨事から。

深川から音江へ通じる渡船場惨事後報

昨報 風雨被害欄に掲載せる雨竜郡深川町字蓬莱町九丁目 西津恵吉 同郡一已村字一已九戸 青地初三郎経営になる 深川より音江村に通ずる石狩川渡船場に於て 四日午後四時頃 馬船を以て 船渡し二名と船客八名が深川から音江村に渡船中 約 川の中頃に至り 流氷に突当られ 船は転覆し 船客は何れも渦中に巻込まれ 悲鳴を上げて救助を求むれども 融雪の為 水量強くして あれよあれよと立騒ぐのみにして 救助の術なく子供を背負ひたる儘 押し流さるる婦人あり 学校長の娘あり 在郷軍人あり 青年あり 老人ありて 渡船場は一大悲憤を演じたり

渦中に巻き込まれたる内 船渡し小林某は 約十間程下流に引張られある橋船用のワイヤーロープに飛付きて救助され 九死に一生を得たり
(約一時間程 ワイヤーロープにぶら下がり居たり)

又 音江巡査 藤田幸吉氏も同じくワイヤーロープにとび付き ぶら下り居たれども 其足に本田栄吉なる者に抱付かれたる為 藤田氏は身を支え切れず 共に又 渦中に落込みたり

溺死者の氏名は
雨竜郡深川市街地 西津清、同石山清
空知郡音江村 大峠常吉、本田栄吉、星賀親子、安藤某
音江巡査 藤田幸吉
沖里小学校長 井上包太郎二女某 以上九名にして

此の報に接し 深川分署員 深川消防組 其の他は直に救助に出動せり
五日も早朝より分署員 消防組 其他等 引き続き死体捜索に出動し居れり

殊に西津清氏は 渡船場経営者 西津忠吉氏の長男にして 深川在郷軍人分会に籍を有し居ることとて 深川分会にては 佐藤会長 分会員を指揮し 同じく死体捜索に出動せり

因に 深川蓬莱町七丁目 河野佐平 深川渡船場前 伊藤幸次郎氏は 早くも水難罹災者捜索接待所を伊藤幸次郎氏宅に設け 焚出 其他に努めたるは奇特の事なり
(1921年:大正10年4月7日付 北海タイムスより)

深川市のホームページによると、深川市街地と音江地区の間の石狩川には昔は橋がなく、1892年(明治25年)に渡船が始まって以降、メム地区から納内地区までの間に10カ所ばかりの渡船場が作られて多くの開拓者や屯田兵が利用したとある。

渡船は、川の両岸にワイヤーを張り、それをたどりながら舟を動かすもので、風の強い日や、増水のときは大変危険であって、舟が転覆し多くの人命が失われたこともあったともあるが、春先の融雪期は単に増水するだけではなく、流れに乗って上流から割れた氷の塊もどんどん流れて来るので極めて危ない。

なお、「馬船」というのは、馬が動かす船ではなく、馬を渡すために使われた小船のことであり、船首と船尾が幅の広い箱型となっている特徴がある。このため、必ずしも早い流れに強い船ではない。

このため、石狩川の本流を渡るには耐えられなかった。氷の浮かぶ川の中に落とされてしまっては、数分ももたない。
ひとりがロープにぶら下がって九死に一生を得ているが、これも奇跡的なことである。

魁丸 二十の生霊

利尻鴛泊沖に座礁したる東照丸救助の為 二日目 本海事工業所の第三魁丸 現場に急航したるが 三日夜より海上 俄に暴出したるを以て 一先づ函館へ回航する事となし 其準備に着手したるに

暴風は刻々激しくなり 四日午前三時 激浪の為 遂に同船も亦 座礁 沈没し 船長 村上作次郎外 高級船員五名及び東照丸救助員十七名の生死不明となりたるは昨報の如くなるが、昨報 魁丸 船首楼浸水せざる部分より 舵夫 山本罹太郎、油差 戸市栄一郎、火夫 吉本清作の三名救助され 宅間命之丞の死体を発見したる旨入電あり

此の報に接したる日本海事工業函館支店より 黒沢実主氏 比叡丸にて現場に向ふ筈にて 来樽したるも 海上尚時化の事なれば 或は本日辺出帆の事となるべし

右に就き 同氏は語る
「電文簡略で詳細を知る事は出来ぬが 陸との連絡はとられていぬらしい、三名を船首楼から救助したといふのも きっと三名が船首楼から陸に辿り揚がったものと思ふ

何にしても魁丸が遭難したるは意外だ
あの船は救助船で 他船よりも総ての点に於て強く出来ているのである
それに低気圧が二日は沿海州 三日は九州にあることは知っている筈なのであるから 東照丸の乗組員一部其儘にして避難するわけには行かず やむなく全部を救助しやうとして つい手遅れとなったものであらう」云々

因みに魁丸は神戸海上に四万五千円の保険を附しあると
(4月7日付北海タイムスより)

救助に向かった船が荒天の中で逃げ遅れ、座礁、沈没という”二次被害”が発生したというものである。
1名が遺体で見つかったものの、残り16名は行方不明となり、大きな犠牲となってしまった。

この頃の救助は命がけで、小樽の祝津でも暴風と高波から逃げ遅れたニシンの船を、救助の「決死隊」を組織して怒濤の海に漕ぎ出し、救助してくるということをやってのけている。成功したら武勇伝であるが、一方で二次災害で亡くなる可能性も高く、本当に決死隊である。

この頃、「水難救助会」なるものが集落には組織されていたようであり、ここに所属する救助夫が決死隊の船に乗り組んでいたりしている。
まさに祝津の救助は、この救助夫たちが加わって為されたものであるが、一方で「働かない」水難救助会もあったようで、避難の的となっている。

警鐘鳴らせども救難手出動せず

既報、四日 岩内沿岸に於る大時化は実に近来稀有の凄惨を極め 野東 敷島内は勿論 岩内港内繋留の保津船 川崎船の漂流 遭難する者続出し 其乗組漁夫の救助に向っては 寸刻も猶予を許さざるものあり

岩内救難所員の如きは 即刻出動して救助に努むるべきに拘わらず 同日 竹内信号手が一時間余も警鐘を乱打して救難手の出動を促したるも殆ど出動なく 斯する内 碇泊中の発動機付帆船 第七善知鳥(うとう)丸(九十噸)が錨の効を失して 将に避難せんとしたるを目撃せる岩内署長 辻松警部は 到底斯かる誠意無き救難所員に頼りては此眼前の遭難者及び船舶を見殺しにするより外なきを悟りて 即刻岩内消防組頭 向山忠太郎氏を召集し 打合せの上 同組合部長 境青塚氏以下組員を非常招集し 浜中に座礁したる第七善知鳥丸乗組船員の救助に努めさせたるが 此時 同組小頭 宮下某氏は 挺身海中に躍り込み 怒涛の間 ロツアを該船に投げて 陸上との連絡を保たしめ 遂に人名は素より重要貨物まで無事救助せしむるを得たる

勇敢なる行動は 実に実揚すべき事なるが 茲に又 最も不条理 奇怪な事は 救難所員は消防組員が斯く出動したるを不快とし 消防組が出動するなら吾々救難手は救助に従はずと揚言して 将に消防組との暗闘を惹起せんとしたるも 向山消防組頭は断乎として救助を完了したり

由来 同救難所は 本道有数の沿革と成績を有し居り 其の演習振りの如きは全道各救難所の上に一頭地を築き居るものなるが 如何なる理由にや 近年頗る有事の際の活動振にあり足らざるものあり

現に昨年四月三日 岩内沿海に於て 漁夫四十余名 溺死せる際も 僅に田中所長が出動せるのみにて見す見す数多漁夫を見殺しになし 今 又 此度の不誠意振と云ひ 尚且つ 糾弾すべき事実は 四日 大しけにして 港内波止場先沖合の川崎船中に六十余歳の老人と十三歳の少年とが残留し居り 将に遭難せんとして 陸上には少年の母親が叫喚悲鳴して救助を乞ひ居るにも不拘(かかわらず) 救難所として何等方策を講せざりしには 並み居る町民 憤慨の声を放たざるものなかりし

要するに 同救難所 近年の行動は 演習とか慰安会とかのみ寄附 其他に依り 盛大に執行するも 非常有事の際は 所員皆姿を隠して 其存在すら疑はしむるものと云ふて可なるべし
(1921年:大正10年4月7日付 北海タイムスより)

本来は、道内の中でも特に優秀だったはずの岩内の救難所であるが、演習や慰安会はがんばるが、本番では活動に及び腰ということで、町民にも警察・消防からも厳しい目が向けられていたのであった。

信頼回復は、行動で示すしかないとは思うが、さて新聞に書かれて、どうなったことであろうか・・・。
posted by 0engosaku0 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月22日

北海道歴天日誌 その211(1921年3月25日)発展のかげにアイヌを想う人

1921年(大正10年)の3月下旬。
北海道の西海岸には、例年通りニシンがやってきていた。

19210323余市の大漁.jpg
▲余市のニシン漁(1921年3月26日付 北海タイムスより)

余市では21日にシケがあり、「シケの後は必ず、初の大漁が来るに違いない」と待ち受けていたところ、はたして22日の夜から23日朝にかけて群来があり、まず2500石。翌日にも4000石と大漁続きで、漁場と停車場の間の雪解け道路は大変混雑、余市駅構内もニシン箱が山積して置き場に困るような状況だったとか。

鉄道では、ニシン箱が乗るのは貨車であるが、一方で客車には人が乗る。
ただ、この頃の鉄道の旅行は、道民にとってはやや悩ましいものだったようで・・・。

列車道徳 却々 理想通り行かぬ

努めてはいるものの 旅客には規定の内容が一般に徹底せず 其処へ若い現業員が 条文を楯に威張る事を痛快視している爲に旅客が鉄道従事員に対する不平の声が昨今又復(またまた)多くなって来た傾向がある

一帯 現在の鉄道現業員制度は 餘りに能力増進を強る嫌があるので 些しでも手数を要するものは威圧的に最後の条件とされている規定に拘泥した措置を採るので 旅客こそ泣面に蜂の感がある

一例を示せば 乗車券や急行券などは 鋏が入って居らぬ限りは使用を見合せた際には 賃金の払戻しを受得るのであるが 其手続きが面倒な爲に駅員は成可く拒否しやうと 或人は「急病でも起こったのか」と一喝されて引込んだといふ滑稽味を帯びた非礼な行為や 寝台券は四日前より請求し得る事に為っているに関らず 求めようとした處が「明後日辺りにしたって差支えが無いぢゃないか」と引続きの面倒を幾分でも遁れ様と二度足を運ばせたなど 何の為に給料を貰っているか解らぬ出札掛もいたといふ

殊に往復乗車券の復券を使用しなく共用件が片付いたので払戻しを請求したら
「是非共要るといふ的も無くて 往復券を何故購(か)ったか」と叱咤された客もあるといふが 之は 係員の行為の甚だしいものにせよ 餘りに言へば非常識極まる行為で 旅客に鉄道の知識が欠けていたなら向後の誤りをせぬ様注意した上 寛大な処置を採る可きで鉄道局の運輸課が口を酸っぱくして戒めている

常識判断の行はれているのは遺憾千万と謂はねばならぬ頻々起発の無改鋏乗車券の処置などでも徒らに始発駅より二倍の賃銀を徴収して 以て 「改鋏は乗客の義務也」などと現業員が納まって居る始末では 客の方も反感をもった結果 彼等の瑕疵を拾う事となり「家庭的に」を標語する鉄道の列車道徳も行はれぬ事になりにすまいか

北海道の旅行季節も旬日に迫っている際 兎に角 旅客の不平が盛になるなどは一考の要があらう
(1921年:大正10年3月26日 北海タイムスより)

今でも、JRではなく「国鉄」を知っている人は、あの頃の駅員は態度が悪かったとか、そういう思い出があったりするものであるが、鉄道省が設置されてわずか一年「省線」時代の駅員は、さすが国鉄の前身だけあって、客に対する当たりがキツかったようである。

このような駅員が当たり前だったとしても、自分が住んでいる町に鉄道が延びてくるというのは嬉しい話である。
この年の3月25日、オホーツク沿岸で省線の鉄道が新たに開業した。

19210327名寄新線祝賀会.jpg
▲開業した”名寄新線”の祝賀の模様(1921年3月27日付 北海タイムスより)

名寄本線は、名寄から峠を越えて興部に至り、そこから紋別、湧別を経て中湧別につながる鉄路。
前年、1920年(大正9年)の暮れに、名寄から上興部までは開通していたのだが、一冬をこえて、逆の中湧別から紋別、興部までの間が開通した。
このため、先に開通していた名寄側は「名寄西線」、中湧別側は「名寄東線」と呼ばれることとなる。

3月25日午前8時20分、万国旗で飾られた一番列車は、機関車の戦闘に日の丸を交差して、興部駅を出発していった。

19210325天気図.jpg
▲3月25日正午の天気図 『天気図』大正10年3月,中央気象台,1921-3. 国立国会図書館デジタルコレクションより

本州方面に低気圧があり、オホーツク海にも低気圧があるので、北海道付近はちょうど気圧の尾根にあたる。
穏やかな初春の日和の中、一番列車は残氷が浮かぶオホーツク海を横目に見ながら走り抜けていったことであろう。

列車は午後1時半に紋別に到着。花火を打ち上げ、学校生徒の歓迎仮装行列が行われるなど、祝賀行事が繰り広げられた。

19210325紋別駅.jpg
▲開業当時の紋別駅(1921年3月25日付 北海タイムスより)

鉄道開通を目の当たりにした開拓者の話が掲載されている。

殆ど隔世の大発展

自分は高知県より移住したものだが 其動機は 明治十四年十月時の網走郡長 大木良房氏に東京にて面会し 北国開拓の有望なる話を聞き 単身飄然 湧別原野(コタン) 今の中湧別に居住して 旧土人の群に入り 毎日狩猟に日を送っていた處 翌十五年 大阪の人 和田隣吉氏(湧別郵便局長の開祖)が来往したので 共に馬鈴薯の作付をした所 頗る上作にて 五畝歩位の處から約三十俵程収穫したから 之を鱒 鮭等に混じ 常食していた

当時は道路なく 交通 頗る不便で 米味噌等は紋別港よりアイヌ道と称する細道を馬背により漸く運搬したもので 一升の米を得るにも実に容易のものでなかった

その頃は湧別川に無数の鮭鱒が群集し アイヌを相手に一日数千尾を収穫したが 塩の無い為 空しく遺棄したことがある

自分は長内慶太郎と云ふ酋長と共に 紋別港迄七里の間 細道を辿り 日用貨物の購入に往復したことが度々ある
時としては熊公に出合ひ 危険に遭遇したことも数度ある

中湧別の地名をナヲザネとも称して居た

同二十二年 今の中湧別市街西方に農牧場の付与を受け 牛二 三十頭飼育したことがある
夏は蚊虻の襲撃甚だしく 閉口したものだ

明治十九年の夏 故永山将軍が荒城少佐 栃内大尉 富田曹長を従へ 探検せられたことがある
是は屯田兵移植の為でああった
此時 永山将軍の口吟された歌がある

「夏衣 袖まくりしていでにしに 帰りは秋の錦なりけり」

同二十五年 石北道路開鑿 殖民地千三百九十四万二千坪を選定し 屯田兵村予定地とせられ 明治三十年及び三十一年の両年に 屯田兵四百戸移植されてから大いに開けたけれど 湧別海浜は砂浜にして 汽船の寄港出来ざること多く 日用貨物の輸送に少なからず不便を感じた

所が 鉄道敷設の恩恵で中湧別は夢想も及ばぬ大発展を見たので 殆ど隔世の思ひがある

此土地は 幸いに地の利を得て居るのと 新田君等が 熱誠 地方の為 努力して呉れるから 漸次進展することと喜んでいる

只 気の毒なのは旧土人である
彼等の墳墓の地は 悉く取上げられ 川西方面に換地を附与されたが 湧別川の洪水で大半決壊流失する
又 土人唯一の食糧たる鮭鱒は 湧別川暴漁の為 僅の漁獲をしても密漁処分の刑に処され 全く彼等は衣食の途を断たれたも同様 哀れ 悲惨な生活をして居る

これ等は何とかして保護の方法を設け 敗残の土人救済の途を講じて貰ひたい
(1921年:大正10年3月25日付 北海タイムスより)


これは、北海タイムス紙に掲載された、中湧別の草分け的な存在とされる徳弘正輝氏の談話である。
1893年(明治26年)に発刊された「北海道通覧」には、湧別で牧畜業を営む者として氏の名前が出て来るし、1906年(明治39年)に道庁から発行された「殖民広報」にも、明治17年に湧別移住した人物として和田隣吉とともにその名が記されている。

徳弘は1855年、高知に生まれ、若くして立志社系の獄洋社に学び、民権家となる。特に同郷の中江兆民を敬愛していたそうである。
1881年(明治14年)の開拓使官有物払下げ事件に憤怒して上京、湧別に入った。

なお、徳弘はアイヌ人のコタンに住み、アイヌ人の生活改善に取り組み、さらにはアイヌの娘を嫁にして暮らしていた経緯があるので、アイヌ人たちへの情も厚かった。
実際、鮭鱒を捕ったアイヌ人が警察に密漁と追われた際にも、アイヌ人をかばって警察に立ち向かったりしている。
そんな徳弘の、大正時代の貴重な肉声が紙面に残されているのだ。

鉄道が通るとは夢のように感じられる一方で、土地を追われ悲惨な生活に追い込まれたアイヌの救済もまた訴えているのである。

徳弘は”コタンの父”としてその後も生き、1935年(昭和10年)に息子の任地である浦河で亡くなったという。

また、歓迎されて開業した名寄東線は、のち全通して名寄本線となるが、国鉄からJRとなったのち、1989年(平成元年)の長大四線廃止に伴い、全線廃止となって姿を消すこととなるのであった。
posted by 0engosaku0 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月21日

北海道歴天日誌 その210(1921年3月15日)夕張からエジプトへ!南部さん

今回はクイズからスタート。
「夕張橋」という橋があるが、夕張市内にはない。○か×か!

ちなみに大正10年当時の夕張橋は、こんな橋である。

19210326夕張橋.jpg
▲完成した夕張橋(1921年:大正10年3月26日付 北海タイムスより)

答えあわせもかねて、夕張橋の架け替えに関する記事を読んでいこう。

夕張橋の渡橋式

夕張郡角田 由仁 両村間にある国道十七号夕張橋腐朽の結果 昨年六月中 墜落し 爾来 渡船を以て 僅 交通し来りたるが 昨年九月二十八日指名入札の結果 札幌 森合孫吉氏に之を請負はせ 同年十月 旧橋取除き 十二月六日より架橋に着手せり

同橋は延長六百八尺 径間三十尺 工費六万三百九十一円八十二銭の木橋にて 道庁技手 高橋勝衛氏監督の許に 寒気と降雪と闘ひ 幾多の辛酸を嘗め 本月十日 漸く竣工を告げたれば 十五日 角田 由仁両村合同にて盛大なる渡橋式を挙行せり

橋上には祭壇を設へ 佐藤由仁神社 江波角田神社の神官 並びに 坂東角田 吉村由仁両村長 両村々会議員有志等参列 修祓降神の式ありて 新撰を供えへ 佐藤神官の祝詞 吉村村長の式辞 国廣角田村会議員の祝詞 坂東村長 土木派出署長 空知支庁長の祝電朗読等ありて 三夫婦四組の渡橋を為し 式を終え 余興として橋の両側にて餅撒きあり

夫より由仁市街 渡辺旅館にて盛大なる祝賀会を催せり

当日渡り初の夫婦は左の如し

角田村多良津御料 佐々木良吉(六六)妻マキノ(六六)長男藤右エ門(四四)妻イセジ(四二)孫藤三郎(二二)妻ワカノ(二〇)
角田村 青沼万(七七)妻リサ(六・)長男染助(五一)妻ミツ(四七)孫武雅(二七)妻マサノ(二二)
由仁村山形 多田善太郎(七九)妻ユキ(六九)長男善四郎(四二)妻チヨ(四二)孫善作(二一)妻リイ(二七)
由仁村下古山 庄司久右エ門(七〇)妻リツ(六六)長男門三郎(四六)妻リイ(四六)孫政次郎(二一)妻イシ(二一)の三夫婦四組
(1921年:大正10年3月18日付 北海タイムスより)


角田村は現在の栗山町なので、正解は○。現在の栗山町と由仁町にかかる橋の名前が「夕張橋」なのである。
なぜ夕張橋かといえば、夕張川にかかる橋だからということだろう。

栗山町の角田地区と由仁町の間に流れる夕張川には、1891年(明治24年)に渡船場が設けられ、先に開けていた由仁の役所に手続きに行ったり、日用品の買い物に行ったりなどしていたようだが、1909年(明治42年)に夕張橋が架けられ、両地区の行き来が容易になったのであった。

ところが1921年に早くも2代目架け替えということなので、橋が傷むのがなかなか早い。写真で見る限り立派な橋ができている。

この橋が何年もったのかは不明だが、1960年(昭和35年)に現在の橋に架け替えられたようである。ここから60年余り、「永久橋」とはいったものである。


▲いまの夕張橋

なお、渡橋式の行われた3月15日は気圧の谷が通過し、冬型の気圧配置が一層強まるステージにあった。
雪と風、寒さの中の渡橋式ではあったが、賑やかに行われたようである。

続いては、正真正銘の夕張に関係する話題。

アフリカに活躍する夕張生の三兄弟

スエズ運河のつきる處 アフリカの一角近く アジアに対し地中海の波の寄る處、此処ポートセイドの港に上陸した程の日本人は 必ずや南部商会を訪問する事を忘れぬであらう。

人種の展覧会場と呼ばれている程の此ポートセイド、各人各種の服装はまづ旅人の眼を惹くのである。
織るが如く行き交う人、日本人と見ればナンブ、ナンブと声をかける者が少なくない。
その意味は、南部商店に案内しやうと云ふのである。

メーンストリート、札幌で云へば南一條通、東京ならば銀座であらうか、此 メーンストリートの一角に、堂々たる一構への大商店、これぞ南部商会である。
大正九年一月 此地に領事館の設けらるる迄 殆どわが祖国を代表して居った様なものである

殊に戦争当時 伊仏両国の軍隊の為に尽したのは非常であった。
両国政府から感謝の意を表されたのは当然であらう。

わが海軍の十数隻の駆逐隊、数十艘のトロール船と共に、地中海に活躍したるとき、南部商会の活動は、これに伴ふて目覚ましいものがあった。又 昨年領事館設置に際しても、ある家屋を買求めて 之を領事館に提供したもので、領事館の家屋は即ち南部商会である

尚 又 南部商会は此地を通過し 或はアフリカ内地に旅行する邦人旅行者の為に 実に至れりつくせりの便宜を與へ居る事に 多くの人の感謝して居る處である。

利益を度外視して、唯 祖国のために立つ一面は われ等は南部商会に認めて、感謝せざるを得ない南部商会。

私は、北海道の青年諸君が此名を記憶さるる事を希望する。
アフリカの一角に祖国を代表して、富嶽の如く聳えたつのが南部商会の主人公は、諸君の縁故浅からぬ夕張に生れた人であるからである。

辰造、憲一、慶三
此三人の兄弟が此商会の主人公なのである。

憲一君が最初 此処の門戸を開かれ、次いで 長男次男と共に 此の発展をされたのである。

悉く二十年代の青年、長兄が漸く三十歳位であらう此若さで、三人の活躍と発展、君等の使雇人は人種にして十余種に及んでいる。
ギリシャ、イタリイ、アラビア、猶太(ユダヤ)、エジプトなどは云ふ迄もなく、われ等の耳に珍しいスダン人、シリア人、マルタ人などがある。

綺麗な、可愛らしいギリシャ娘の店員の写真を、僕のカメラに撮った。
現像が出来たらお目にかけやう。

三兄弟の御両親は今尚 夕張に住んで居らるると聞く。よき此三兄弟を残したる御両親は羨れるに足る人々である。

わが南部兄弟を出した北海道は 日本に対し誇るに足るのである。
ひとり北海道の誇りではない、わが南部兄弟の如き日本の誇りであり、誉である。

僕が北海道の青年諸君に、南部兄弟の名を記憶せらるるを望むは理由ある事と思う。
感じのよい紳士、容姿端正、健康のもとを頬に漲らして、ヨーロッパ人を向ふに廻し、祖国を代表して活動せらるる三君の健康を祝し、あはせてはるかに夕張の諸君、此賢児諸君の両親に祝意を表する。
(1921年:大正10年3月25日付 北海タイムスより)

スエズ運河の地中海側玄関口にある港町・ポートサイド。
今のように空路の無い時代。日本からヨーロッパへの旅はもっぱら船旅で、このポートサイドは日本人旅行者などが必ずといっていいほど立寄る町であった。

この町で日本船に食糧などを納入する一方、日本人のエジプト観光の世話をすることで財産を築いたのが南部兄弟商会を興した南部憲一氏である。

その知名度たるや物凄いもので、ポートサイドからカイロにかけてのエジプト人は、日本人と見れば、川の船頭もホテルのボーイも街頭の物売りも「ナンブ、ナンブ」と呼び、「ミスターナンブを知っている」と言うのが挨拶だったという。

南部は1895年(明治28年)夕張に生まれ、小学校卒業後にイタリア人が経営するヒヨラバンテ商会で働き、大正の初めにエジプトに渡ってきた。そして真面目な働きぶりがイタリア人社長に認められ、娘をもらい、兄と弟を呼び寄せてポートサイドに南部兄弟商店を興したのである。

後年、妻が病にかかって自殺するという不幸に見舞われ、日本人女性と再婚し、事業を兄に任せて帰国したとされるが、日本とエジプトの友好関係の礎になった貴重な人物といえよう。

1921年(大正10年)3月3日。のちに昭和天皇となられる皇太子殿下が東京を出発、欧州巡遊の旅に就いた。
南部のいるポートサイドも通り道。紙面で紹介された頃は、皇太子一行のお世話の準備に忙しかったかもしれない。
posted by 0engosaku0 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月19日

北海道歴天日誌 その209(1921年2月12日)「北海道版レ・ミゼラブル」脱獄囚・近藤徳延の捕縛

1921年(大正10年)2月11日。
北海道は低気圧が通過し、札幌は曇り空で日中は雪もちらついた。
ただ、最高気温は1.5℃まで上がり、風も弱く、冬の中では穏やかなほう。

この日は紀元節の祝日。札幌の中島公園では前々から計画されていた「スケート大会」が行われた。

19210211中島公園.jpg
▲スケート大会の様子(2月13日付 北海タイムスより)

新聞記事では「当日は天候が最良好で見物人の為には申分は無かった」とあるが、暖かかった上に、見物人が凍った池の上に大勢乗ってきたため、池の水が氷の上まであがってきて、競技はやりにくい状況だったとのこと。

ちなみに、上の写真は競技のひとつ「綱引」。摩擦が少ないのでなかなか難しかったのかも。
当然であるが、池の一周競走とか、フィギュアスケートの技をみせる競技、アイスホッケーなどのスケート競技もちゃんと行われているのであしからず。

そして翌日12日は、関東の沖合を発達した低気圧が北東に進んだ。

19210212天気図.jpg
▲2月12日正午の天気図 『天気図』大正10年2月,中央気象台,1921-2. 国立国会図書館デジタルコレクション

札幌は曇り空が続いたが、低気圧が遠いため雪は宵にちらついた程度。
日中は風は弱く、最高気温は−2.5℃と5日ぶりの真冬日であった。

この日、一人の男が手錠をはめて札幌駅に降り立った。

風寒き札幌駅頭

空は暗澹として風寒き十二日の夜は 去る九日 茨城県水海道木賃宿で札幌署・亀田刑事の為に逮捕された重罪犯 明治三十一年七月中無期徒刑として樺戸監獄に苦役中 脱獄を企て 爾来十三年間 巧みに姿を晦(くら)ましていた自称・吉川錠太郎 事 近藤徳延(六六)が護送されて着札の日であった

是より先 午後十一時頃 札幌停車場 一 二等待合室には犯人が東京府下に潜伏していることを探知して捜査の端緒を得た 札幌署高等係・松山警部が私服に身を包んで佐々木本社記者の間に対して 会見の笑を漏しつつポツリポツリと当時の状況を語りながら 共に列車の到着を待った

軈(やが)て同三十七分魔物の様な列車が その長躯を構内に横たへると多くの旅人の中に打交じる徳延は上州草津温泉で豪遊中 追跡の道庁保安課 寺井 篠原 両刑事の手に逮捕された区内北海道医科大学建築工事事務所金庫内から五千二百六十四円を窃取した元事務員・諸岡幸夫と同じ手錠に繋がれて改札口を出ると 小幡本社写真班が向けるレンズの前に臆する色もなく立って 諸願無髭の徳延は 黒のインバネスに茶の中折を被り 小さい竹行李と信玄袋とを白木綿で結へて 振分を肩にした様に斯かる重罪犯人とも思はれぬ程の好々爺である

19210214近藤徳延.jpg

群り寄った人々は 異口同音に「あれが脱獄囚の爺か」と一様に驚異の瞳を彼の上に注いだ
(1921年:大正10年2月14日北海タイムスより)


月形の「樺戸監獄」を脱走し、13年間も逃げていた男が茨城県で逮捕され、札幌へ護送されてきたのであった。

近藤徳延は1856年(安政3年)生まれというから、数えで66歳、満では64歳か65歳となるか。
東京市麹町土手三番町に生まれ、1875年(明治8年)の秋に詐欺罪で懲役7年の刑を言い渡されたのが刑務所人生の始まり。

1884年(明治17年)の秋にも懲役6年、1894年(明治27年)10月には強盗罪でついに”無期徒刑”を言い渡され、樺戸監獄に服役していた。
ところが1898年(明治31年)に一回目の脱獄を図り、雨竜に逃げたが逮捕され、再び”無期徒刑”を言い渡され、また樺戸監獄で服役をしていた。

そして1909年(明治42年)6月27日に再び脱獄を図る。
舞台は札比内分監。布団の中に、くくり枕や手桶、小桶を入れて、寝ているように装い、窓格子の鉄棒を外してまんまと脱獄したのである。

今度は二度目の脱獄ということで巧みに姿を隠し、行方をくらますことに成功した。

そして「吉田錠太郎」という偽名を使い、宗谷・留萌・オホーツク各地方を転々とする。
まず、頓別(現・浜頓別町)にて、頓別小学校の代表教員の職を得て、次に枝幸村役場、渚滑村(現紋別市)役場の雇員となる。

そして戸籍をごまかして未開地の払下げを受け、土地売買を始め、鬼志別・宗谷両村の村医をしていた茂呂田氏の財産管理を行う。
ちょうど宗谷の沿岸は、天北線の敷設工事が進んでおり、大胆にも鉄道敷設の運動員としても活動、浅羽靖などの有力者とも知り合いとなり、明治の終わりから大正の初めにかけては何度か上京もして、名士とも会見していたという。

ところが中頓別で暮らしていた1916年(大正5年)12月に、旭川裁判所から懲役三ヶ月・執行猶予三年を言い渡され、道北にも居られなくなり、1917年(大正6年)には内縁の妻・田中スミと札幌に移り住み、北7西7に一家を構え、鉱山や仲買に手を出し、失敗する。

そしてある日のこと、脱獄当時の分監長が、所用で札幌に出て来たときに、道端で吉田(=近藤)とばったり出会ったのである。
「おい!近藤!どうした!」と分監長が叫ぶも、近藤は「人違いだ、知らねえ」といって逃げるように雑踏に姿を消した。

このようなことで、警察が「吉田錠太郎とは脱獄囚・近藤徳延の偽名では」と探知、1918年(大正7年)11月18日、道庁保安課の刑事と札幌署の刑事が二人で自宅に踏み込んだが、近藤は間一髪、裏口から逃走。木材業の知り合いから1円を借りて江別へ。

江別ではスミの妹が住んでおり、ここでまた3円を借りて「旭川方面へ行く」と行って立ち去ったが、実際は小樽、増毛、留萌を経て樺太・留多加へ渡り、さらには東京へ飛んで北豊島郡役所の小使となった。

そして病院の小使や酒蔵に勤めるなどしたのち、茨城県水海道で椅子の張替行商を営む「斎藤文太郎」と新たな偽名を使い、妻・スミを呼び寄せようとしたのだが、これが警察の知るところとなった。

こうして、札幌から刑事が上京、2月9日に茨城において逮捕と相成ったのであった。

護送の途中「私はもう年老いた身であり、もう2〜3年も経たら自首する考えだった」と言い、便所に行くときにも「旦那 決して逃げませぬ」とは言うものの、常に隙をうかがっていたというから侮れない。

騙された人の話。

脱監囚の近藤は道庁にも出入した

「人間って奴は解らんものだ 吉田錠太郎 事 近藤徳延が脱監囚だとは夢にも思はなかった あれには 百五十円の貸金がある」
と札幌某の懐述に依れば

「吉田が枝幸役場から中頓別に移って代用教員をしているうちに 土地を五戸分払下を願出たが 先生をしていてはそれを貰へぬといふので 一年許りで退職したが 土地を貰ってからは部長を勤めたりして顔役であった

兎に角その附近では旦那で通っていた程の羽振がよかったのだが、本人は「俺は東京で代議士をしたこともある」抔と云ひ騙らしたものだから 尚更信用されたもので 停車場前に 旅館と煙草店と二戸家屋を所有していた

其の後 金鉱を発見し 他人の名義で試掘権設定を願出て 本人は態々(わざわざ)出札して越中屋に宿泊し 道庁へも屡々(しばしば)出入していたが その時 中頓別の橋本旅館からの紹介状もあったので 私が東本願寺前に六畳間を借りてやったが 帰村に際して諸支払をするため五十円程を貸した事もある

それから音沙汰がないので手紙を出すと付箋付きで戻って来た

宗谷線が開通する当時 運動員としては上京したり なかなか村の為に尽したものだから 誰一人 そんな重罪犯人だと思ふ者もなかった
その頃 枝幸でデップリ太った女を家内にしていたが 今はどうしているか」云々
(1921年:大正10年2月17日付 北海タイムスより)


後年の「北海道行政史」などの書物では、近藤徳延は上川村(現・上川町)の戸籍係となり、上川村長にまでのぼりつめたと書かれているが、上川が愛別から分村したのが1924年(大正13年)であり、この当時まで村がないことを考えると、この新聞記事のほうが正しいことと思う。

さて、レ・ミゼラブルの日本リメイク版を見ているような話ではあるが、近藤はジャン・ヴァルジャンのように改心して生きたわけではない。
近藤が逃走生活を送っている13年の中で、樺戸監獄は廃止となり、彼には帰るべき?監獄がない。
このため、札幌なのか網走なのか、どこかの監獄に再収監され、”無期徒刑”の続きを行うこととなったと思われるが、その後の処遇の記事はなかなか出てこない。

そのまま獄死したのか、どうなったのか・・・。
posted by 0engosaku0 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月15日

北海道歴天日誌 その208(1921年2月5日)二千人も足りない北海道の小学校教員

1921年(大正10年)2月2日。
北海道付近を低気圧が急速に発達しながら通過し、道内は大荒れの天気となった。

19210202天気図.jpg
▲2月2日正午の天気図 『天気図』大正10年2月,中央気象台,1921-2. 国立国会図書館デジタルコレクション

札幌の最大風速は19.6m/sに達し、現在でも2月として6位にあたる記録的な暴風。
なお、函館でも同日に2月6位に相当する19.1m/s(WNW)を観測しているが、こちらは正規な記録に残っていない。(抜けているだけかも)

ただ、この大荒れの天気の影響は比較的小さく、札幌では電信電話の一時的な不通はあったが、大きな被害は生じていない。
しかし、留萌管内では鬼鹿村で漁に出ていた漁船三隻が暴風雪に遭い、3名が溺死する惨事が発生している。

嵐の後は上空には強い寒気が流れ込んできたようで、札幌では3日、4日と二日連続で最高気温が−5.3℃どまりとなり、5日朝は−22.8℃と厳しい冷え込みとなった。

この5日は、朝9時でも−14.9℃と、札幌としては酷寒であったが、この寒さの中に行われたのは、札幌一中(現・札幌南高)伝統の「雪戦会」。

19210206第24回雪戦会.jpg
▲第24回札幌一中雪戦会の模様(1921年(大正10年)2月6日付 北海タイムスより)

グラウンドに設けられた高さ二丈(約12メートル)の南北二つの城のてっぺんに、南は赤、北は白の旗が建てられ、まず1年生を除いた全体で猛烈な一回戦。ただ、規定の20分で両軍とも旗は奪取できず引き分け。

騎馬戦や昼食をはさんで行われた第二回、第三回も激しい攻防で北軍・南軍両軍どちらも旗を取るまでにいかず、これまた時間切れ引き分けとなり、最後の城落としで南軍が勝利、結果、大正10年は南軍の勝利ということになった。

こういった学校行事が円滑に行われるのは先生の指導力のたまものなのであるが、この頃は、北海道の学校で先生が足りないという話が話題となっていた。

二千名以上不足の本道の小学教員

「朝の八時から弁当箱提て 円山通は辛いもの」とは 楡の都の学生界に「藻岩の鳥」が通り名の札幌師範学校教生建のコーラスである

この教生建が自ら称する「缶詰の蓋の開く」卒業期が迫って 近来メッキリ殖えたのだが 所謂訓導服だ

来る三月 同校から本道教育界に送り出される卒業生は第一部四十五名 第二部十七名で 外に 北海道教育界主催の尋正講習会からも約三十名出るといふものの 近年に無い少数であって 之ではとても各区町村の希望通りに充当する事は 勿論至難である

財界が好況を示したいた当時 之が因を為して 待遇の良い会社 銀行 工場へと転職者が頻出し さなきだに不足勝の教員が 非常な欠員を生じたが その後復職者があっても目下二千名以上の代用教員を有資格者で充当するには 札幌 函館 両師範学校と各女学校師範部卒業生だけでは 九牛の一毛といふ有様だ

任地の希望はと云へば 成るべく郷里か さもなくば郷里に近く鉄道沿線といふのが多い
尤も 義務年限がある以上 希望に反して僻地に赴任せねばならぬ様があったからとて 之は 致し方の無い話である

次に 庁立札幌高等女学校の師範部生は 二十一名あるが 教員として就職を希望している者が十四名で その大部分は札幌といふ希望であるが 以前 給費制のあった時は自分の希望が容れられぬ様なことがあっても田舎へ赴任したものだが 給費制が廃され一ヶ年の義務年限が無くなって 何等高速を受ける事はなし

よし札幌区内で採用されぬとしても近来婦人の職業範囲が広くなって 官街でも会社でも就職が出来るといふので腰が強い
(1921年:大正10年2月5日付 北海タイムスより)

2000人の不足に対し、師範学校などの卒業生はあわせて約100人。しかもこれが全部先生になるわけではなくて、官庁や会社にもずいぶんとられてしまうということで、教師不足は大変な状況である。

このように師範学校卒業者数が十分でなかったため、戦前では教員免許を持っていない人でも学校の先生になることがあり、こういう人は「代用教員」といわれ、代用教員が小学校教員免許の試験を受けて、晴れて正式な教師になるということも多々あったらしい。

しかし、そんな代用教員も・・・

19210206代用教員の自殺.jpg
▲代用教員の自殺のニュース(1921年:大正10年2月6日付 北海タイムスより)

こういうことでは、教師不足の解決にならないのである。。。

恋に悩む代用教員がいる一方、岩内の小学校教諭は発明に精を出しており、こんな記事も。

19210207訓導発明の竹スキー.jpg
▲雨夜一秀訓導の竹スキー(1921年:大正10年2月7日付 北海タイムスより)

引く手数多で活躍もできるが、一方でいろいろな悩みも多い、大正10年の北海道の教師たちの姿であった。
posted by 0engosaku0 at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月14日

北海道歴天日誌 その207(1921年1月27日)酷寒の旭川で軍用自動車を試験

1921年:大正10年1月27日。

この日の旭川は猛烈な冷え込みに襲われた。
最低気温は−36.4℃を記録、1月史上8位の低温であり、その後100年以上、これを下回る気温の記録はない。

19210127天気図.jpg
▲1921年:大正10年1月27日午前6時の天気図 『天気図』大正10年1月,中央気象台,1921-1. 国立国会図書館デジタルコレクション


この頃の北海道は冬型の気圧配置が続いていたのだが、25日に本州方面を気圧の谷が通過した後は、等圧線が南北に立つ北風の吹きやすい形の冬型の気圧配置に変わった。そして27日は大陸の高気圧の一部が朝鮮半島から日本海西部に張り出してきて、冬型の気圧配置が弱まった。
上の天気図はそういう一場面の切り取りである。

27日の朝は、北海道中央部で等圧線が折れ曲がっている。これは、内陸の強い冷え込みによって局地的な高気圧が現れた場合によく見える形。
北海道が強く冷え込んでいることを示す天気図のしるしでもあるのだ。

旭川では前日26日の最高気温が−13.5℃どまりで、午後2時には−14.7℃であった。
午後4時半ごろに日が沈むと、ここからぐんぐん気温が下がり、午後6時には早くも−25.2℃を記録、午後10時には−32.0℃を記録した。
そして日付が変わって27日2時には−35.0℃に達し、−36.4℃の最低気温記録を生んだのであった。

この日の最低気温は、帯広−28.6℃、札幌−20.6℃、網走−14.9℃、函館−14.3℃、釧路−13.4℃などを記録しており、旭川に限らず、内陸の寒さは厳しい。

この北海道の寒さを求めていた人々がいた。日本軍である。

19210112陸軍自動車来道.jpg
▲陸軍自動車隊の記事(1921年:大正10年1月12日付 北海タイムスより)

時代は尼港事件の直後である。しかも北樺太を保護占領中でシベリアにも出兵中という日本。
ロシア極東の冬将軍下でも行動できる軍用自動車の開発は、まさに時代の要求であった。

この頃の旭川の寒さはシベリア級で遠くまで出かける必要はない。旭川なら日本語も通じるし、そもそも第七師団の本拠地である。軍がテストを行うには最適の地であったのだ。

陸軍自動車 旭川区内を疾走

東京千駄ヶ谷の陸軍自動車隊は今回 陸軍軍用自動車制式決定の重大使命を果すべく 酷寒の旭川に於て各種自動車の運動性中 耐寒機能並び揮発油代用燃料試験を行ふ事となれるは既報の如し

右 試験隊の一行 洲崎少将以下三十八名は 先着の岩城砲兵大尉に続いて 二十八日には上橋、内田両輜重中尉と下士卒の一部が自動車と共に午後五時八分着列車二台 四十五馬力牽引車一台 五噸牽引車一台 自動自動車二台にて 何れも西伯利の広野にて其威力を発揮せる我陸軍新鋭の武器にして 怪異なる四十五馬力牽引車は 武装タンクを偲ばしむ

モーランド自動車は輸送遅延し 二十七日青森着の電報ありたれば ニ 三日遅れて着すべしと

三等自動車の運行試験は練兵場にて行ふ計画ありしが 積雪量意外に多量なるを以て旭川市内に変更 試験委員本部も偕行社を見合わせて三浦屋に置くこととし 自動車は宮下通十丁目 鉄道貨物倉庫前に置き 二十九日は自動車の模章を付せる将校下士が朝来試験準備に忙しく 委員長洲崎少佐、三輪、秋山砲兵大佐、三木技師一行は二十九日午前十一時五十分列車にて着旭 本社写真班のレンズに入りたる後 出迎えの輜重兵 第七大隊 長南部中佐 菊池大尉と共に三浦屋に入り 諸般の打合せを遂げたり

自動自動車は旭川駅前より四条通にて積雪の上を縦横し疾駆し 通行人を驚嘆せしめたり

尚 一行の語る所によれば 約五日間用意の試験を行ふて 後 運転や野砲牽引の演習を行ふ計画なりと
(1921年:大正10年1月30日付 北海タイムスより)


27日ほどではないが、旭川では28日以降も真冬日が続き、最低気温も−10℃台の半ばから後半と厳しい寒さは続いたが、軍用車両たちはちゃんと走れたようである。

19210131陸軍自動車その1.jpg
▲耐寒試験の牽引車(左)など(1月31日付北海タイムスより)

ちなみに持ち込まれた車は乗用車が2台(フランクリン1台とハドソン1台)、ガーフォード自動車1台、セルデン自動貨車1台、4トン貨車1台、モアーランド自動車1台、45馬力牽引車1台、5トン牽引自動車1台、そして自動自動車2台(印式1台、巴式1台)だった。
この中から戦車に似た「牽引車」などが写真で紹介されている。

この当時、北海道の乗用車の数はわずか94台。冬の道路は車が走れるように除雪は行わないから運行不能であり、真冬に道路を車が走ってきたら旭川市民もそれはびっくりしたことであろう。

19210131陸軍自動車乗用.jpg
▲耐寒試験の乗用車

ところで軍隊の耐寒試験は自動車だけではない。人間もしっかり活動できるようにしないといけない。
このため、第7師団各部隊は2月に入ると「耐寒雪中行軍」の実施に移った。

例えば、歩兵第26連隊は、旭川から美瑛町雨粉、美瑛、鷹栖、江丹別、近文と、スキーやカンジキで行軍し、野営しながらまわって戻って来るというなかなかの行程である。

車も人間も試されながら、1921年の冬は、最も寒い時期を過ぎていったのである。
posted by 0engosaku0 at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月13日

北海道歴天日誌 その206(1921年1月24日)砕氷船バイカル号の救難

1921年1月10日、アレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)まで数マイルの所まで迫りながら、嵐により流氷もろとも南へと流された砕氷船バイカル号。

1月15日には小樽から救援に向かった中華丸は間宮海峡へ入ったものの、流氷に遭遇し難航を余儀なくされていた。
また、大泊から救援に向かおうとした大禮丸は亜庭湾の流氷のためになかなか湾外に出られず、ウラジオストクから救援に派遣された軍艦・三笠も中継地の小樽にまだ到着できずといった状況。

当のバイカル号はどうだったか。

バ号に便乗して(中)

最も心配したのはバ号が陸岸に打揚られはしないかといふ事であったらしい
食糧や炭水さへ充分にあれば 何処へ打ち揚げられても野営も出来やうが 食糧は兎も角 燃料がないのであるから忽ち凍死して仕舞ふ

内地の海岸のやうに 村から村と連続した人家があるわけでなし
名も知らぬ海岸一帯に吹雪が渦を巻いている有様である

此処で適当な地位に錨を卸して碇泊していれば いつが蒸気がないので巻上る事が出来い
一旦暴風にでも逢ったら 錨諸共流されなければならない

而して万一錨が海底の岩角にでも引っ掛かりでもしやうものなら もう最後である

吾々はこんなふうにいろいろと心配をしているのに露西亜人達は一向平気で、食ふ丈食って ストーブを焚いて、自分達の家内に未だ給料を渡してないさうだから 早く給料を呉れるやう 無線電信を打って呉れなど 虫の好い事をいふて来る

御承知の通り 無線電信は水がないため発電機を回転させる事が出来ないから 発信はできないが、受信は出来る
それで陸上で吾々を救助する爲に いろいろの手配をしている事は承知していた

中華丸や大禮丸が救助に向かった事も勿論承知していた
只 発信が出来ない為 吾々の居る處を知らしてやる事が出来ないので 皆 残念に思ふていた

愈々(いよいよ)燃料は欠乏に近づいて来た
石炭が無くなったら船の物を破壊して 焚いて仕舞ふといふ議も起こったが 何しろ 船全部を焚いても石炭一噸位もあるかなしで そのうちには救助船も来る事だから船室中で寝ていた方が好いといふ事となった

こんな事情で 皆 神経過敏になっている處に 露人の奴等は相変はらずの態度で「吾々は食料や炭水を節約して 飢えや寒気と戦ふ爲に雇はれて来たのではない」と理屈を捏(こね)回し 吾々の云ふ事を聞かない

「それぢゃ 食糧や燃料が欠乏したら何する」と云へば「無くなれば仕方がない」と嘯(うそぶ)いている
奴等は明日死んで 今日の腹を満たしたいのだ

此辺は確かに露西亜の国民性を遺憾なく表しているものと思った
とうとう感情の衝突からアワヤ血の雨を見んとしたが、奴等は多勢なので適わないと慰めるものもあって 事無きを得た

僕などは密かに寝刃を合た程であった
(1921年:大正10年1月27日付 北海タイムスより)


これは、バイカル号に乗り合わせた従軍記者の話なのであるが、ロシアの砕氷船だが船頭は日本軍という複雑な事情もあり、助かるために考えて備えようとする日本人と、なんとかなるから今を楽しもうとするロシア人、遭難船の中で双方の国民性が交錯しているのは外から見るとなかなか面白い。

本来、亜港で炭水や食糧を補給する予定だったバイカル号であり、漂流時にはほとんど石炭が無かった。
このため、残った2トンの石炭は炊事用に振り分けることとしたのだが、ロシア人乗組員は一週間もすれば日本の助けが来るんだからと、その石炭をどんどんストーブにくべる。

ロシア人の船長も、船員に石炭を使うなと言うのを拒否する始末で、それではと日本軍がストーブを海中に捨てようと考えたが強硬な反対に遭いとりやめたところ、船中のストーブの使用で船員が気を失うという騒ぎが発生・・・と、まあいろいろな出来事があったようである。

19210125バイカル号.jpg
▲砕氷船バイカル号(1921年:大正10年1月25日付 北海タイムスより)

バイカル号は流氷に閉じ込められたまま間宮海峡を南下、12日には南樺太西海岸の西柵丹沖(にし・さくたん)、14日は名好(きた・なよし)の沖合にその船影を認めることができた。

そして中華丸も1月16日、名好の沖合でバイカル号を発見。バイカル号は船・乗員とも無事ということが確認された。
さらに、追いついた大禮丸が砕氷しながらバイカル号の接近を試みる状況となった。

19210114バイカル号の漂流.jpg
▲バイカル号の漂流経路

そしてついに1月18日午前10時、藻糸音(もいとい)沖合で、中華丸と大禮丸により、砕氷船バイカル号の救助に成功。10日近い漂流にピリオドが打たれた。
乗組員は全員無事で、炭水食糧の供給も行われ、バイカル号は自力航行ができるようになり、三隻一緒に小樽へ向かうこととなった。
ただ、流氷はまだまだ多かったため、航海は引続き難航、小樽到着は22日となった。

では、救出時の模様も乗り組んだ従軍記者の談話をきいてみよう。

バ号に便乗して(下)

斯して十四日は来た
此日 僕は炊事室に下りて行って 飯を炊く火に炙っていた

料理長は中々の弱虫で「一体何うなるんだらう」と心配許りしている
僕は「助かる時は皆助かるし 死ぬ時だってお前許り殺しやしないよ みんな死ぬんだ」といふと 彼はもう泣きだしている

もう夕頃には近かった、突然これも弱虫等の脇野通訳が甲板から転げるように下りて来て「船が見える、船が見える」といふ騒ぎ

皆が甲板へ上がると 遥 地平線上に煙丈が見える
「ああ中華丸だ」
僕は直感的にさう感じた

然し その煙りは漸次 北の方へ向って進行している
バイカル号を発見しないらしい
其うちに又 煙は地平線下に没して見えなくなって終った
弱虫党は又 オイオイ泣き出す始末

翌十五日の朝には全く中華丸のマストが見えた
其時の喜びたら無かった

マストが見えるんだから バイカルも見つけているに違ひないといふので、一同石油缶などを持ち出し 火をつけて極力信号に努めた

中華丸は漸く近づいて来る
軈て バイカル号発見したといふ無線電信がア港の本部に打たれたのがバイカルの無線電信機に感じた

十六日には大禮が見えた
「バイカル号らしき船発見」の無線電信が大禮の鈴木中尉から発せられた

翌十七日には中華丸と大禮丸も大分接近して来た
而して 本船救助の為に尽した
此時の喜びったら 実に例へやうもなかったのだ

そのうちに大禮丸は氷の上に乗揚たのを中華丸が努力して引降ろし 砕氷の装置ある大禮丸はどしどし本船に接近し 十八日午前十時には全く食糧炭水の補給もされ 茲に漸く吾々は救助されるに至ったのである

翌十九日午後四時には軍艦三笠との連絡もとれて 望月少佐は中村司令官へ報告に赴いたのである
(1921年:大正10年1月28日付 北海タイムスより)


1月24日午後7時。小樽の開陽亭で、小樽官民合同の「バイカル号救難祝賀会」が開催された。

ウラジオ警備司令官の中村少佐、三笠の艦長、バイカル号監督将校の望月少佐、高等通訳の脇野直記氏、バイカル号船長のヴェクトル・レイウンベルグ、機関長のアレクサンドル・イルマーゴフ、中華丸の遠山喜市船長、大禮丸の早川政治船長と、関係者一同が顔をあわせ開宴。

レイウンベルグ船長は「モスクワの劇場にいる気分だ」と言って脇野通訳とダンスを始め、イルマーゴフ機関長はゲイシャと頻りに握手をしていたとか。

最後に中村司令官を胴上げし、めでたしめでたし・・・となった。

しかしながら、この日の北海道は日本海側を中心に荒れた。
この宴のウラで、焼尻ではこの日午後からの暴風により、タラ釣り漁船6隻が遭難、2名が溺死する惨事が発生していたのであった。

19210124天気図.jpg
▲1月24日午後6時の天気図 『天気図』大正10年1月,中央気象台,1921-1. 国立国会図書館デジタルコレクション
posted by 0engosaku0 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月10日

北海道歴天日誌 その205(1921年1月10日)砕氷船バイカル号の遭難

1920年(大正9年)。
ニコラエフスク・ナ・アムーレで発生したパルチザンによる居留日本人と駐留日本軍の皆殺し事件、いわゆる「尼港事件」であるが、この事件をきっかけに、日本は、この年の7月3日に「交渉すべき政府がなく、(政治的な解決が)どうにもならない状況であるため、将来、正当な政府ができて、尼港事件に対して満足な決着が着くまではサハリン州の必要な場所を占領する」との声明を出し、”保護占領”の名目で北樺太に日本軍を派遣した。

そして、北樺太では最大の町であるアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)とルイコフを拠点とし、それぞれに軍政署を置き、亜港側が北樺太の西半分を、ルイコフは東半分を担当する形で「新領土」の占領行政が始まった。

1921年(大正10年)の1月の北樺太の様子を、当時の記事からみていこう。

北樺太の大炭鉱

北樺 亜港 最近の状況 左の如し

亜港は全く氷結してしまって 気温は零下二十度を示し 漁業は勿論 海上の仕事は一切出来ぬ
砕氷船は目下 黒煙を吐いて活動中である

魚類の如きも 小鯖でさへ 一尾 一圓五十銭と云ふ高値である
軍政署と一般居留民との関係は 実に円満である

軍政署は我軍冬期中の食料品 其他の一部として 今回 同地在留の御用商人八十名に命じ 米千五百俵、麦三千俵、燕麦五千俵、石油五百箱、牧草一万五千貫の注文をしたが、近く小樽より運送線到着する筈である

過般 良材の産出を以て聞こえて居るミハイルスクの山林の入札を行ったが 其結果邦人に四万石の落札があった

尚 亜港を距る北方三里のチールに一大炭鉱を発見し軍政署は三菱に此採炭方を任せたが、実に珍しい程大きな炭鉱で 三菱は既に坑夫一千名の募集に着手して居る

若し 此 炭鉱が活動を開始したとすれば 勢い学校教育と云ふ様な附属物が要するので、軍政署では百万円の見積りを立てて デカストリーに市街を建設すると云ふ事は愈々具体的になり、目下 着々準備中であって、之に要する費用は三百五十円を唱へられて居る

兎角 亜港は 我軍占領後 面目全く一新し 漸次に善くなって行くので 一時 他に避難して居た露国人も 陸続 帰来して居る有様だ」云々
(1921年:大正10年1月9日付 北海タイムスより)

亜港には日本から作業員が入り込み、商人が入り込み、炭鉱が見つかったので、これから町もできようか・・・といった状況がみえる。
もちろん、元から住んでいたロシア人もいるし、中国人や朝鮮人もいて、いろいろな国の人が日本軍の軍政の下で暮らしている。そういう状況である。

ところで、冬は間宮海峡は凍結するので、亜港も氷に閉ざされる。
ただ、このあたりまでは対馬暖流の影響をわずかながらも受けるので、比較的氷は薄い。
このため、”砕氷船”の活躍により、なんとか物資を船で運搬することができるのである。

記事にも、近日中に小樽から物資が入る予定であると書かれているが、実際この時、小樽から亜港に向かっていた船がある。

19210112三国丸.jpg
▲御用船「三国丸」(1921年:大正10年1月12日付北海タイムスより)

1920年(大正9年)の12月31日、小樽を出港した三国丸は、砕氷船・バイカル号の先導を受けて間宮海峡を北上、亜港へと向かっていた。

バイカル号はもともとウラジオストクにあったロシア海軍の2100トン級の砕氷船だが、尼港事件のような悲劇を起こさぬよう、日本が借り受け、海軍からは望月少佐、陸軍からは畑中歩兵大尉が主任として乗り組み、1920年の10月の半ばころから航行を始め、亜港が結氷し始めた11月以降は日本の輸送船を先導する形で何度か航海を繰り返していたものである。

12月には氷が厚くなってきたため、亜港には南樺太の大泊から陸路で交通をつづけることとして、海上交通は一旦やめていたのだが、この年の冬は12月まで比較的暖かかったことから、1月上旬ではあるが航海をすることになったのであった。

こうして北上して来た”船団”ではあるが、亜港からあと20マイル(約32キロ)のところに到着したところで三国丸は氷に阻まれ、航行不能となってしまった。

このため、三国丸の荷物はバイカル号に載せ替え、三国丸は小樽へ引き返し、バイカル号だけが単独で亜港に向かう事となったのである。
こうして1月9日、バイカル号は亜港から5マイル(約8キロ)の海上に到着したのであるが、翌10日の昼頃、風雪が強まり、流氷の動きも激しくなったため、バイカル号もまた、航行不能となってしまった。

こうしてバイカル号は流氷もろとも南へ向かって漂流し、燃料も水も食糧も不足したため、亜港の日本軍に救援を求める電報を送ってきた。

これは大変ということで、小樽からは中華丸が、南樺太の大泊からは連絡船の大禮丸、さらにウラジオストクからは軍艦・三笠がそれぞれ救出・応援に駆けつけることとなった。

19210113天気図.jpg
▲1921年:大正10年1月13日正午の天気図

この三つの船のうち、11日に小樽を出た中華丸は13日には南樺太・真岡付近に達したが、大時化のため、北への航行はかなり難航したとある。
実際にこの日の天気図をみると、樺太付近は強い冬型の気圧配置となっており、風が強い。

南樺太では、真岡で12日に風速19.1m/sを記録、敷香でも11日夜に15.8m/sを記録している。この日も10メートル内外の風が吹き荒れていた。当然、波も高い。また、このあたりから流氷が姿を見せ始めたため、中華丸は一旦知来岬沖に停泊し、北から漂流してくるであろうバイカル号と出会うのを待つこととしたのであった。

さて、続きは次回に・・・。

posted by 0engosaku0 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月09日

北海道歴天日誌 その204(1921年1月9日)雪国と凍国

1921年(大正10年)1月9日(日曜日)。

この頃、北海道で新進気鋭の冬のスポーツといえば、スキーかスケートかといったところである。

ただ、札幌でスキーといってもまだスキー場はなく、山や丘に行って滑るだけ。

19210113道庁スキー.jpg
▲スキーの練習をする道庁職員たち(1月13日)

例えば上の写真は、道庁職員の「スキー会」による練習の模様であるが、ここはどこかと問われれば、円山でもなければ藻岩山でもない。
なんと北大植物園の中である。

しかし、スケートに関しては札幌の中にちゃんとスケート場があった。

スケート場開式 遊園地ポンド

札幌野球協会主催 区内遊園地ポンドなるスケート場開式は既報の如く 昨日午前十時 同所に於て挙行された
参列者は高松博士、内藤農学士、青木工学士、木下法学士、越山氏 及び 各新聞社員等で 会員は北大スケーチング部員以下五 六十名であった

式を終へ 直ちに各種カーブ滑走を開始するや 本社写真班は之をレンズに収め、それより更に高松博士、内藤学士の老練あんる滑走振の外 何れも軽快なる滑走を行ひ 次いで 茶菓の饗応あり 更に昼餐の振舞があったが 当日は天候もよく 見物人は頗る多く 中には婦人連もあり 可なりの盛況であった

19210109スケート場開き.jpg

(1921年:大正10年1月10日付 北海タイムスより)


この記事を読むには多少解説が必要で、「遊園地」というのは、現在の中島公園のこと。
そして高松博士というのは、当時畜産学科の高松正信教授のことで、札幌農学校を卒業後、ドイツで馬を学んで北大に戻り、教授となって6年目である。

面白いのは、”野球協会”がスケート場の開会式を行っているところである。この年、札幌にはスケート協会が発足しているようだが、年始のスケート場オープンには間に合っていないようだ。

記事には天気についても出てくる。「天候もよく」と。

19210109天気図.jpg
▲1月9日午前6時の天気図 『天気図』大正10年1月,中央気象台,1921-1. 国立国会図書館デジタルコレクション


天気図は西高東低の冬型だが、よくみると石狩湾に低気圧ができている。
全般に北寄りの風が吹きやすい気圧配置で、旭川は−24.7℃まで下がり、内陸は局地的な高気圧ができたため、札幌周辺は前の夜から朝にかけて雪が降りやすく、15センチほどのまとまった雪となった。

ただ、スケート場開きの10時頃には雪は一旦やみ、雲に隙間も出来て晴れ間が見え、風も弱く穏やかとあって、まさにスケート日和となった。
写真をよくみると、背景の木々には、枝に雪をたっぷり乗せているが、これは前の晩から降った新雪ということになる。

一方で、同じ北海道でも、スキーもスケートも・・・という場所が。

冬の太平洋沿岸

冬の北海道と云へば その全土が積雪に蔽はれて銀世界に化するものと思はれて居るが 併し本道にも 雪国と凍国とある
即ち 白雪の積む地方と 地上一面鏡の如き氷に蔽はれる地方とがあって 此の凍国に於てはスキーの如き壮快なる冬の競技は到底見られぬ

先づ 本道としては 函館線に沿って 倶知安、小樽、札幌、旭川から天塩、北見地方にかけては積雪深く 到る處スキーを以て踏破する事は出来るが 狩勝国境を超えて 十勝方面から釧路線に入るに及んで 其積雪が漸次薄らぎ 釧路に入っては殆ど積雪を見るを得ない

地も露はに山骨稜々、只 所々に残雪の如き雪の溜を見るに過ぎない

而して地は一面に鶴嘴(つるはし)も打込めぬ程に堅く固く凍結して居る
殊に夫れが悉く氷結して地上一帯に堅氷に蔽はれた如くに化する

随って 足駄は勿論 駒下駄でも危険で歩けぬ
夫故 多くは草履や雪駄を用いて居るが 是は 凍国特有の特徴で 太平洋に面して 日高から釧路、厚岸、根室等にかけては 一帯 是である

此の地方では札樽方面の青年学生等が狂喜して本道の誇と称するスキー競技の如きも到底行ひ得ない
釧路中学校や根室商業学校に於て 冬季の運動が揮わぬのも一つは其等の気候の関係に依る

併し 寒気は真に凛冽にして一度強風でも吹き荒まんか、実に肌を破らんばかりであるが 其 冬風収まって 日の輝く際には 雪国の札樽地方では夢想だに出来ない春が甦って来て 花咲く南国を想はせるものがあると云ふ
(1921年:大正10年1月21日付 北海タイムスより)


北海道には「雪国」と「凍国」の二つがある。という記事である。
凍国の代表は釧路ということであるが、雪がないからスキーはできないにしろ、氷があるからスケートはできる。

この頃はまだ、スケートは入りこんでいないようだが、のちに釧路は「凍国」の代表として、スケートやアイスホッケーといった氷上スポーツが盛んとなり、五輪選手も輩出するようになるのであった。
posted by 0engosaku0 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月08日

北海道歴天日誌 その203(1921年1月3日)小樽の書き初め大会

1921年:大正10年1月。

札幌の三が日は、元日は曇り空ながらも穏やかに経過し、最高気温もプラス1.0℃まで上がった。しかし、二日は低気圧の通過で湿った雪が降りやすく、風も強くてやや荒れた天気となった。三日は冬型の気圧配置となり、雪はちらつく程度だったものの、最高気温は−4.8℃と厳しい寒さが到来といった具合である。

19210103天気図.jpg
▲正午の天気図 『天気図』大正9年12月,中央気象台,1921-1. 国立国会図書館デジタルコレクション

正月の風物詩の一つに「書き初め」がある。
大正時代ももちろん、年頭にあたって、半紙に一筆ということは行われている。
小樽では”書き初め大会”が開催されているので、その様子を掘り出してみよう。

筆勢 龍に似たり

小樽区の誇りの一とする 書道奨励会では 既報の如く 第十一回書初会を三日 花園女子校に於て開催した

参加者は 区内各小学校男女生八百に達した
先づ二階は高等一年 高等二年 尋常一年の三組が三室に分れ 書題は高一「春到達辺第一風」、高二「飛花吹満硯港頭」で尋常一年生は「大正十年」

腕よりも太い筆を握って 揮毫する態 可憐に見えた

中階では二年生「四海泰平」三年生「心清意自閑」四年生「筆硯得佳友」五年生「花有意而獨咲」六年生「謹奉社頭如暁」といふ課題で 何れも神童の群は 筆端 火を散らして筆を走らせていた

古澤幹事は語る
「今年は昨年より参加数が減じているが 等外は非常に少ない、数の減じた事は お互いに自重するやうになったからで 現に 各校の委員達でさへ害がなかった物が多かった、又 参加者のうちでも自分より先に書いた者の書を見て 見込みがないといふので 書かずに返った者もある
今迄のやうに誰でも彼でも参加する事のなかったのは 書道進歩の道程を表示するものと云ってよい、
本会は設立以来既に十一年を関し 区内公職有力者の後援を以て 年々旺になりつつあるのは 実に小樽区の誇りの一と云って好いと思ふ」云々

尚 審査も昨年迄は 各小学校長及び専門家の合議審査であったが 此れは弊害が多いといふので 今年からは書家・高木鵬洲、高女教諭(書方)本間弄石 二の氏に全部の審査を托する事となし 優等入選には特に講評を附し 本日中 全部の審査を終り花園小学校内の全廊下に掲載し 七日、午前十一時から表彰式を行ふ筈である

(1921年:大正10年1月5日付 北海タイムスより)


小樽では、大正10年の書き初め大会が、1月3日、小樽・花園小にて行われた。
参加者の数が800人というから、かなり大規模である。が、記事を読み進めると、これでも以前より数が減っているという。

二人の審査員がこれをすべてみて、優等入選を決めたというから、審査もまた大変であったろう。
この書の審査は、位置と態勢、間などを総合的にみたうえで、各学年の特等を定めた、その中からさらに特選3名を決めていった。

では、その特選作品をみていただこう。こちらである。

19210108小樽書き初め.jpg
▲書き初め大会の特選作品(1921年:大正10年1月8日北海タイムスより)

小樽の書初会の表彰式は7日午前11時、花園小学校で行われた。
君が代の奉唱に加えて教育勅語の奉読も行われ、厳格なもの。

特選者は稲穂小学校の6年生・蛇川桂太郎君、花園小学校の5年生・北川敬男君、同じく花園小学校の3年生・長倉巌君の三名であった。

特等入選者は37名で、それぞれ賞品と賞状が贈られた。
このほか、1等が109名、2等が258名、3等が267名と、600名余りが入選し、それぞれ賞状が贈られている。

なお、特選3名のうち、長倉君は1932年(昭和7年)の小樽高商の卒業生名簿に名前が見える。
ただ、高商では書道ではなく弓道を極めていたようで、弓の試合で好成績をおさめていたのであった。

さて、100年余りが過ぎ、2024年:令和6年の小樽。
もう「小樽書初会」なる団体はないようであるが、小中学校の書き初めは続いている。

小樽の幸小学校では6年生が書き初めを行った。書題は「将来の夢」。
書き初めに何を書くかは、時代を反映するといえるだろう。
posted by 0engosaku0 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月07日

北海道歴天日誌 その202(1920年12月31日)札幌郵便局の喧騒

1920年の年末。

クリスマスの後、北海道の北部を発達しながら低気圧が通過した。
一旦東に抜けた低気圧ではあったが、上空の風の流れが巻いていたのか、12月28日には再び北海道に接近、冬型の気圧配置が強まった。

19201228天気図.jpg
▲1920年:大正9年12月28日正午の天気図 『天気図』大正9年11月,中央気象台,1920-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

この日、札幌は19.5m/sの北西の風を観測。今でも12月の最大風速ランキングでは6位に残るほどの非常に強い風である。
風だけではなく、雪も強く、札幌の積雪は26日は16センチだったのであるが、毎日どんどん増加して、31日には53センチまで増えていった。

札幌に着く列車は一時間、二時間は遅れ、歳末の買い物に出る客の旅行には大きな影響があったし、小樽では25日から「歳の市」が開いていたが猛吹雪で客足は遠のいた。

29日の未明には、猛吹雪中に火事まで起きた。
北1条西7丁目の角にあった竹林支店写真館から火が出て、北寄りの風にあおられ、隣接する下宿屋や飲食店に延焼した。
結局、これら三棟が全焼して三時間余りで消し止められた。夜中かつ猛吹雪にも拘らず、現場は相当混乱したとのこと。

同じく29日未明、白石遊郭では、愛知県出身の店員と旭川出身の芸妓が毒薬を飲んで心中を図り、介抱の効なく、昼前には絶命してしまう。
店員の名は、馬場鹿雄と報じられたが、果たして本名だったのかどうか。

師走街巷

私有財産の均等に怖毛立つる一部の紳士も 狸小路に哀声を投掛くる乞食に金を與へ 之が財産均等の第一歩とは知らぬ也
其の 乞食の生活程 期待されぬ生活を期待して楽に生活し行けるものは外に無いそう也

洋服をを着たればこそ、衣服にボロ無ければこそ、乞食に金を與へて 己は明日の生活にも不安を感ずるは 白痴の骨頂也、皮肉の極み也

彼等の衣類は破れても 一般の細民や窮民よりは暖かいといふ、師走は兎も角 元旦の恵方詣りにも乞食成金が沢山出来るとの事也

考へてみれば春は悲しく 其 彼等の蔭には苦悶無し
御結構とは酉年なすとも存在する由

19201231歳末風景.jpg

(1920年:大正9年12月31日 北海タイムスより)


富める者にも、貧しい者にも、等しく時は流れて行く。
1920年の大みそかは、寒さは厳しいが吹雪はやみ、穏やかさが戻るなかで迎えた。

今もそうかもしれないが、この時代も大みそかの夜から元旦にかけて一番忙しいのは郵便局の局員たちである。
前々回「消印押し機」の初導入をとりあげたところだが、多忙な年越し風景が翌年元日の記事となった。

札幌局員の活躍

大晦日から元旦にかけての札幌局は 真に目覚しい活躍振を示して 浅井局長以下 各課長 主事 総出で徹宵 局員を督励していた。

先 郵便課では 向ふ鉢巻襷掛の吏員が「おいとこ」や「やっころやア」で気勢を添へて 宛然 賀状の山に酔った様 上り下りの列車が到着する毎に 行嚢は後から後から運び込まれて 何時 果しのつく事やらと思はれる位で 長嶺課長や畑主事まで飛び出して郵便物を持ち運んで歩くやら 消印をポンポン遣るやら大騒ぎ

危ぶまれた天候も回復して 各地からの到着便も頗る順調であったのは何よりのことだ

大正十年の吉報を齎(もたら)す第一号便は 五十八名の配達夫が午前七時 一斉に東西南北に走り出したが 一人で一万二千通、一区内で二万二 三千通の郵便物を鞄に孕ませ 小包の方も三十名で約二千個を配達したのである

電信課でも同様 二十七日来不通であった樺太線や小樽経由の各線、天塩沿岸から礼文利尻方面の故障も三十一日の午前中にはやっと回復したので それっと許りに打つわ叩くわの目眩るしさであったが 百八ツの除夜の鐘が鳴り響く頃には 大方整理がついて ホッと安堵の胸を撫で下ろした訳だ

電話課でも同様モシモシ姫が手にする接続紐 俊の如く右に往き左に往き 平常ならば使用度数の減退する夜の十一時頃には尚日中と異らぬ程て平均使用度数に比較すると二割五分を増している

大時計が大正九年の最後のタイムを報ずる頃には 各方面から「お芽出たう」が舞ひ込んで来る

大正十年の市街電の魁は 苫小牧発信のもので 零時を過ぐる二 三分であった

(1921年:大正10年1月1日付 北海タイムスより)


こうして1920年は過ぎ去っていった。
次回からは1921年(大正10年)の北海道をみていく。
posted by 0engosaku0 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月06日

北海道歴天日誌 その201(1920年12月21日)北海道の人口は何人?結果発表!

1920年:大正9年の11月下旬。
北日本は相次ぐ低気圧の通過で、風が強く荒れた天気の日が多かった。

19201124天気図.jpg
▲11月24日正午の天気図 『天気図』大正9年11月,中央気象台,1920-11. 国立国会図書館デジタルコレクション 以下同じ

19201127天気図.jpg
▲11月27日正午の天気図

この天候の影響を受けた書類がある。

それは、この年に初めて行われた「国勢調査」の北海道分の結果が書かれた申告書であった。

国調と本道の名誉

今回の国勢調査は 当局並びに調査員の奮励と 国民の誠意ある申告により 各府県とも予想外の好成績を挙げ 東電伝ふる處によれば 東京、石川、福井を除き 申告書到着済の趣きにて

北海道の如きは十一月二十一日に申告書 郵送せしも 青函連絡の際 偶々(たまたま)暴風雪に遭ひ 青森荷揚不能の為 漸く十二月一日東京に着し 引渡しを了せるが 然かも人口二百万以上を有する府県としては 静岡県 大阪府 先便ありしのみにて 他は本道の半に至らざる人口を有する府県に過ぎず 要計表は十一月二十三日 九番目に 申告書は十二月一日 十二番目にて引渡を了せるは 頗る好成績なりとて

牛塚次長 並に 各統計官より 本道に於ける宣伝の方法 実施の成績等に就いて その労苦 著大にして成績の優秀なるを称揚せられ 大に而目を施せり

之れ 当局 並びに之に関係する調査員は勿論 本道民の名誉とする處なり

其の全国に於ける市区町村の人口概数は 遅くとも本年末には発表せんとて 調査局に於て鋭意 調査の進捗を図り居れり

今回の調査の結果 大正七年末公簿調査の人口に比し 各県 何れも減少を示せりに 獨り 東北の端に在る本道が 十七万余人 西端の福岡県とか七万余万人の増加を示せり

一は殖民地鉱業地として 一は全国有数の鉱業地として共に年と共に隆昌を極めつつあるを想察し得べく

その減少の甚だしきは大阪府の三十万余人 東京府の二十余万人にして
是れは従来の公簿調査の不備と経済界不況の反影が直に本調査に顕れ 又 男女の均衡は従前に比し 女子の数の多きを伝ふる尚あるも 是 決して全国を通じての現象にあらず 一部地方 鳥取、島根、茨城、群馬、千葉、静岡、山梨、福島、岩手、青森、岡山、山口、佐賀、熊本等の諸県は 女子超過の数を示せるも 此数には陸海軍人並びに囚人が包含せざる数なるを以て 是等人口を加算するときは女子の超過あるべきも 此を全国より包含するときは男子の数 女子の数より多きは勿論なりとす

本道に於ける人口は 前年迄は全国の第四位にありしか 今回の国勢調査により第一位 東京府 三百六十五万四千 第二位 大阪府 二百五十七万九千 第三位 北海道 二百三十五万九千となり 第四位 兵庫県二百二十八万一千か或は愛知県の何れか帰する状況なり

臨時国勢調査局に於ては 一日も早く 此の結果を国民に知らさんとて 本月中に第一回速報を一小冊子に印刷し 是を府県市区町村まで配付し 又 一般に官庁又は新聞雑誌紙上に公表する筈なり

勿論一般人の便宜を図り 地方行政学会をして全国を通ぜるもの一冊一圓二十銭、府県分冊は一部二十五銭を以て頻付せしむる筈なりと云ふ
(1920年:大正9年12月12日 北海タイムスより)


10月1日を期して実施された国勢調査の結果は、各市町村から札幌の道庁本庁へ送付され、全道分がまとめられて東京へと送付されていく。
今や、電子メールで一瞬で到着する調査結果であるが、大正時代は郵便によって汽車に揺られ、青函連絡船で運ばれ、また汽車にゆられ・・・と長い旅路である。

前述したように、11月下旬は低気圧の通過で津軽海峡は荒れることが多かったから、調査結果も函館で凪を待ち、本当ならもっと早く着いたのかもしれないが、10日もかかって東京へ到着したのであった。

ここで記事は「北海道の人口は都道府県別では全国3位」としている。
この時の調査結果では、東京、大阪、北海道、兵庫、福岡、愛知の順番であり、200万人を超えているところも、この6道府県であった。

ところで、この国勢調査の人口について、北海タイムス社は「読者クイズ」を行っていたのだが、12月20日にその答え合わせとなる北海道の人口”速報値”が電報で到着、直ちに当選者の選定にかかった。

19201220人口速報.jpg
▲北海道の人口速報値を告げる記事(1920年:大正9年12月20日付北海タイムスより)

そして翌21日の紙面で、結果発表となった。

19201220人口的中者.jpg
▲結果発表(1920年:大正9年12月21日付北海タイムスより)

約2万人の応募があった中で、速報値の人口である235万9097人をピッタリ当てた人はいなかったのだが、なんと1人差の235万9096人を予想していた人がいた。

それが美唄の桜木源氏である。
住所から炭坑で働いていたのではないかと推定されるところである。
2位は235万9118人を予想した中富良野村の大隈作次郎氏であった。

ただし、これは速報値である。
この後、さらにデータは精査され、「確定値」というものが出る。

1920年の国勢調査の、北海道の人口確定値は、速報値より少し増えて、235万9183人であった。

本当は誰が一番近かったのか・・・。紙面のデータを眺めると、7位に235万9230人という数が見える。
47人差で、中富良野の大隈氏よりも近い。

空知郡鷹泊村下班渓、今の深川市鷹泊にあたる場所にお住まいの、干場伊五郎氏。
彼が本当のNo.1だった。

ともあれ、上位10名には、歳末に思わぬ嬉しいプレゼントとなった。

結果発表が紙面に載った12月21日は、夕方から札幌や旭川など各地で吹雪となった。
大正9年もそろそろ終わりである。
posted by 0engosaku0 at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月03日

北海道歴天日誌 その200(1920年12月5日)アントワープ五輪に出た北海道のふたり

1920年(大正9年)12月4日。
札幌はこの冬になってから初めてのまとまった雪。

19201204札幌の雪.jpg
▲12月4日朝の札幌市街(大正9年12月5日付 北海タイムスより)

積雪は7センチとなったが、この雪はそのまま次の春が来るまで消えなかった。
翌5日は最高気温が−0.5℃と、やはりこの冬になって初めての「真冬日」である。

19201204天気図.jpg
▲12月4日正午の天気図

師走らしい雪景色と寒さの到来で、札幌っ子もようやく歳末の準備に本腰が入り出したところである。
新聞には「年賀状」の話題が掲載されたが、この1920年を期に、札幌郵便局には年賀状を迎えるための”新兵器”が導入された。

札幌郵便局の年賀郵便準備 本年から自動消印器

師走に入った昨今 札幌郵便局では来る十五日から開始される年賀郵便の特別取扱いに就ての戦闘準備に忙がしい

この月に入ってから 平常一万二 三千円の切手や葉書の売上高か四倍 五倍の多額に上り 日によっては七 八倍になる事がある
近来 各封筒を使用する向が多く たった為二銭切手の売上も素晴らしいものだ

従来 消印には手廻しの機械であったが 逐年 受付数が増加する一方で 昨年は十五日から二十九日までの期間内に 約百九十五万 期日後に約百四十九万といふ数を取扱ったのに鑑み 本年からモーター仕掛の自動消印器を使って五分間に一千枚の葉書を整理するさうだ

既に同局では 集配人の補充を終り 更に二十日頃には臨時雇員を募集して この目まぐるしい忙しさを切り抜け様(よう)と計画している

此際 一般に注意すべきは 成る可く期日内に出す事で 殊に歳暮贈答品の小包等は 早い方から相互の便利である
よくある事であるが 住所姓名の誤記不明、小包の梱包が不充分な為 折角の心盡すも内容品脱落して仕舞ふ處があるから 之等は余程注意せねばならぬ

尚 年賀郵便は一括して投函する事で バラバラにしたものは年内に配達されて 飛んだ笑ひ話の種を蒔く様な事もある
例年の通り 各郵便局からは「年賀郵便」と印刷された用紙を呉れる事になっているから 之を貼付すれば一番安全である
(1920年:大正9年12月5日付 北海タイムスより)

札幌郵便局では、消印を押すために手回し式の機械を使っていたのが、この年からモーターを使った「自動消印器」が導入されたという。
そのスピードは5分で1000枚。1時間なら12000枚も処理することができるから、これは大助かりである。

ちなみに、2024年現在、あるメーカーの自動消印器は1時間で24000枚の処理能力というから、大正時代の自動消印器も処理の早さだけでいえばなかなかのものである。

なお、これは人ならどうなのか?ということだが、当時、普通の郵便局員では5分で500枚、熟練者は620〜630枚、トップレベルの局員で5分で1000枚であったそうである。機械は優秀である。

ところで、1920年はオリンピック・イヤー。
この年はアントワープ五輪が開催された。

”消印押し”は残念ながら正式競技でも公開競技でもないのだが、北海道は陸上競技と水泳競技にそれぞれ選手を送り込んでいた。
その旅立ちの華々しさは、先に紹介したところであるが、本番は”惨敗”との文字が新聞の片隅に載っただけである。
そしていつしか北海道に戻ってきたのだが、その様子が報じられることはほとんどなかった。

そんな2人の選手が、師走になって、この年を振り返るかの如く、五輪の話をすることとなった。

時は12月5日午後2時。場所は小樽区の稲穂小学校の屋内運動場である。

小樽稲穂小学校で国際両選手の獅子吼

本社主催 内田、八島両選手の国際オリンピック講演会は 昨報の如く 五日午後二時から小樽区稲穂男子小学校屋内運動場に於て開催された。

本社 田中支局長の紹介で 数名の聴衆から急霰の如き拍手を浴びせられて登壇した八島健三君は「陸上競技に就て」と題し 元気溌剌たる態度で 大要 下の如き講演を試みた

「私達一行 十五名の国際選手は本年五月十四日 横浜解縄のコレア丸で白耳義(ベルギー)アントワープの競技会場へ向かったのあるが 其途中 米国紐育(ニューヨーク)に於ける出来事を一つ紹介する

我々一行が此処に滞在中にちょうど米国独立記念日に遭遇したが 其日 米国では全国を三十六箇所に分かちて 簡単なオリンピックゲームを挙行した

我々一行の中の六名が其競技に参加し 一万米突の道路を走るランニングに六人共優勝し 準備された商品は全部 我々が頂戴して 大いに気勢を挙げたのであった

それより 仏、英等を経て 八月三日 アントワープに着き 競技場が解放されて居たので 前日マラソンの全コースを走って見たが、寒気が痛烈で 道は悪く 充分の練習も出来ずに八月十四日 入場式の当日となった、

当日には白耳義皇帝の来御あり 二十七ヶ国の選手が堂々入場したのであった
其中 英国は南米、印度、阿弗利加等を独立させてあったので 全選手は二千五百名に達して居た

選手の最も多いのは 英米の三百余名
婦人の多いのはスエーデン、ノルウェーで 何も百余名の婦人選手がユニフォーム姿で堂々と入場した

殊に米国選手には前後に軍人の護衛があって 実に見事であった
最も少ないのは智里(チリ)の二人で 日本の十五名抔(など)も最少の部に属して居た

斯くて愈々競技は開始されたのであるが フィールドに於ては 我選手は実に悲惨な敗方をした

マラソンレースは最後であったので 私は他のトラックを全部見たが 百米は加賀、岡山、二百米同上、千五百は蓮見、一万米は佐野、大浦、五千米同上で 何れも第一予選ですらも 其の足下へ寄りつけない有様で 八百米の蓮見君は 第二周目に先頭に立ったが 最後のコーナーで遂に六着になって 是も敗れて仕舞った

一万米突抔は同じトラックを二十五周するので 其の間に先頭の者と二周の差を生じた様な訳だから 是が本競技ならば三周も遅れたかも知れない

其処で 在留邦人は悉く悲観して 唯 マラソンにのみ望みを属し居たのであった
(1920年:大正9年12月7日付 北海タイムスより)

アントワープ五輪の陸上といえば、”空飛ぶフィンランド人”パーヴォ・ヌルミの伝説が始まった大会である。
特に5000mと10000mはフランスのジョゼフ・ギルモと金・銀を分け合う大熱戦が展開されたのであるが、小樽中の生徒ながら日本代表として競技場にいた八島も、この様子は目の当たりにしていたかもしれない。

八島はマラソンに出場した。

選手団は、1マイルごとに日本茶と砂糖水、冷水を日章旗とともに置いて補給できるように準備をしている。
8月22日午後3時55分、振鈴とともに世界の49選手がスタートにつく。
午後4時、号砲とともに、小雨の降る中、選手たちは一斉に駆け出していった。

折り返し点では、金栗が22位というのが日本のトップ。八島は金栗から3分ほど遅れて、日本選手の最後尾で前半を終える。

雨は本降りとなり、寒さも加わってくる。
悪条件の中、選手たちはあきらめずに粘った。

フィンランドのコーレマイネンが2時間32分35秒で最初にゴール。
ここから25分近く遅れて、八島健三がゴールしていく。2時間57分2秒の21位。20位の茂木からは約6分遅れ、最後は前後に誰も選手が見えない一人旅でのゴールであった。

19201207内田選手と八島選手.jpg
▲講演する内田選手と八島選手

もうひとりの代表選手である北大・内田正練の話の内容は12月9日付紙面に掲載されたが、日本を発ってハワイに着き、同地の邦人から歓迎を受けて感激したことや、サンフランシスコでは排日の空気があり、屋内水泳上には絶対に入らせてもらえなかったことなどが語られている。

内田はさかのぼること二日前、12月3日に札幌の北海高女でもアントワープ五輪の講演を行っている。
ここでは、大会前に寄ったロンドンでは、水が冷たくて練習にならず、アントワープの水もまた非常に冷たくて、朝に一度水泳をすると、一日じゅう骨まで寒くて閉口したという話をしている。

そして本番は、非常に緊張し、甲斐もなく敗れてしまったと言っている。

内田は100メートル自由形の予選に出場し、失格。400メートル自由形も予選C組で4人中3着に終わり、敗退した。
クロールを知らず、日本の古式泳法で勝負に出たが、歯が立たなかったというのが現状であった。

日本と世界の差を痛感した二人のオリンピアンではあったが、その貴重な経験を北海道にもたらし、そして、ここからわずか12年で北海道は、陸上金メダリストを輩出することになるのである。

その話はまた遠い後日に・・。
posted by 0engosaku0 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする