
▲4月13日18時の天気図(『天気図』大正10年4月,中央気象台,1921-4. 国立国会図書館デジタルコレクションより)
北海道付近は東高西低の気圧配置である。
朝は晴れていたところが多かったが、次第に雲が広がり、夜は全道的に曇り空に変わった。
そして、東から南東の風が各地で吹き始めた。
函館では5m/sほどの東から南東の風が吹いていた。特段強い訳ではない。
函館の大廈高楼軒を並ぶる商業の中心点 悉く烏有に帰す
十三日来吹き続けたる南東の風は 夜に入るや益々烈風を加へ来れる折柄 十四日午前一時三十分 東川町百八番地 松島屋菓子商より出火したれば 何かは以て堪るべき
驚破(すわ)火事よ と 見間(みるま)に忽ち四方に焼け広がり 附近一面を焼き払ひ 紅蓮の炎は益々荒れる風伯に一段の力を得て 天地は一面 紅に彩どられ 熱火の雨は風下を驚かし 常に全国有数の技量を有すと誇つつありし函館消防隊 必死の努力も何等の功を奏するに至らず 刻々 火の手は四方に燃え広がり 全区は阿鼻叫喚の巷と化し 宝町を一舐と為し 函館一の賑やかなる蓬莱町を瞬間に烏有に帰して 火の手は末広町 相生町に延焼せるが
末広町は函館一の商業繁栄地の事とて 大商店 大建築 軒を列ね居るを以て 之に火の移り 一層物凄き建物の倒壊する等 石油缶の爆発の音をと相和して天地動き 山も崩れんと思はるるばかり
元町には公会堂、富岡町には区立病院ある事とて 若し之に燃移らんか 其 西部全部烏有に帰すべきを消防隊は非常に恐れ 自動車ポンプは茲に全力を傾注せるが 末広町 会所町、元町の大部分を焼盡したる時は風も稍(やや)軟(やわら)ぎ 且つ火勢も衰へ 漸く七時三十分鎮火せるが 電燈線、電信電話線 全部焼落ちて 道路は宛ら無数の鉄条網を張れる観あり
全区黒煙を以て 覆はれ 斯くて交通も出来ざる有様となりたるを以て 焼跡は 其惨憺たる惨 名状すべからず
(1921年:大正10年4月15日付 北海タイムスより)
大正10年の函館大火の発生である。
南東からの”春風”は、1,309棟2,141戸を焼く大火災に加担する風となってしまったのである。
この火事で、宝町に住む50歳の女性が、火災中の家から家財を運び出そうとして焼死した。

▲函館の焼失区域(4月16日付 北海タイムスより)
▲現在の同じあたり
この火災により、庁立函館商業(現・函館商業高校)、大谷女学校が焼失し、今井呉服店函館支店や北海道拓殖銀行函館支店、五島軒、映画館、料亭など函館の西部地区にある多数の建物が焼失する惨事となった。
函館区は罹災者のために、宝小学校に荷物の一時保管所を設け、函館区公会堂や住吉小学校などに罹災者収容所を設けて炊き出しをすること、宝小学校に救護所を設けて負傷の治療をすることとし、直ちに市内にビラを撒いてこのことを知らせた。
さらに、翌日には公設市場と公認市場で、鍋やバケツ、洗面器、茶碗、小皿、どんぶりなど各種日用品を安い値段で販売することを決め、これまたビラを撒いて周知した。
そして、罹災者に関する様々な問い合わせは警察が引き受けることとしたのである。
このあたりの対応は極めて早く、当時の新聞記者をもって「全く注意周到である」との感想を引き出しているほどである。
さらに、函館大火の報道に接した仁丹本舗からは、函館区に一万人分の焚きだしの寄付があり、早速函館区は罹災者に分配の手続きを行っている。

▲末広町の焼け跡の様子(4月16日付 北海タイムスより)
この大火に際し、函館経験者の警察幹部が語っているので聞いてみよう。
鬼門は東南の風 井上道庁警部談
函館今回の大火に就ては 同区に対し まことに同情に堪へぬ
自分も曾て 函館に在勤し 大正五年 旭町より発火して白昼二千余戸を焼尽した火災に遭遇して居る
同地は何時も東南の風強く 一度火を失せんか 常に此風に煽られ 惨禍を蒙るのである
殊に水道の水量は甚だ貧弱で 飲料にさへ差支 一昼夜 一 二回の断水時間を作って 漸々間に合せて居る状態で 到底 消防用としては頼むに足らず
防火用水道 又は火防用水タンク等あるも 同区には其の用を為さず
常に此 風と水の不足が大火の因を為すのである
幸ひに近年 自動車ポンプ等 最新式の消防機械を備へ付けられ 又 勝田組頭以下の消防組員は頗る熱心で 全く献身的に努力せられて居て 此点は大いに信頼するに足るが 併し 如何に当局が努力するも 有力なる機械を備へるも 肝心な水が無く 而も 同区の様な烈風のある處では 従来の消防力にのみ信頼するのも不安心である
依って自分は どうしても所々に防火壁を設くるの必要があると思ふ
之は 敢て 大なる費用を要する訳でない
同区は殆ど数年に一回宛の大火を見るのであるから 其 損害に比較したなら実に安価な防御設備が出来るのである
而も一度建設せば 経常費としては何等の支出を要せず 同区の如き細長き町で 風が常に縦に吹く所では格別此方法は採り易いから 凡そ 五 六ヶ所以上 風の方向を遮断すべき向きに設くれば 不幸にして火を失するも 其の壁と壁の間だけしか焼ぬから 壁一重隣の区域は大安心である
将来 シベリア方面との交通頻繁となるに伴ひ 年々同方面に跡を絶たぬペストの何時輸入せらるるも測り難い
同区の如きは常に其の脅威を受て居るのであるか 此の防火壁があれば 其の場所に 鼠族の交通防止装置として利用する事が出来るので 防火衛生上極めて有益な施設と信ずるから 此際思ひ切って是非其の設備をせらるる事は同区将来の為 幸福と思ふ」云々
(1921年:大正10年4月16日付 北海タイムスより)
函館の大火の原因は風と水不足にあるのだから、防火壁で風の向きを変えてしまおう、という提言である。
ペストも撲滅できて一石二鳥というのであるが、やはり札幌と函館の距離の遠さか、この提言はさほど伝わらなかったようで、函館で防火壁が発展したという話はない。
そして、ここから13年後、大正10年大火とは異なる南から南西の風によって、函館はさらなる大火の惨禍にあえぐこととなる。
繰り返し大火に見舞われる函館を横目に、札幌の防火体制を憂う人も・・・。

▲札幌の防火体制を嘆く投書(4月16日付 北海タイムスより)
記事には、火防番屋付近に住む人ということで紹介されている。金はとるけど有事は動かず・・。前回、岩内で聞いた話と似たような話である。
そして、松本さんの懸念は、まもなく現実のこととなるのであった。