2024年08月31日

北海道歴天日誌 その221(1921年7月3日)枝幸の救助に江差の温情

1921年(大正10年)7月の北海道の話をつづける。

道庁の池が釣り堀となった7月3日。この日の天気図を再掲する。

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▲7月3日正午の天気図

樺太方面に低気圧があり、北海道は東西に等圧線が走っている。等圧線の間隔も狭く、西から南西の風が強く吹きやすい形である。
実際道北方面は風が強かった。

この当時、宗谷岬でも有人の気象観測が行われていたが、2日の6時に2.5m/sと穏やかだったのが午後に入って次第に強まり、この3日は午前中は15メートル前後の強風が吹き続いている。夕方に10m/sくらいになって一旦落ち着きかけたが、翌4日の午前中は再び13〜14m/sの強風が吹き荒れた。

このような強風は北見枝幸などオホーツク海側北部でも、陸から海に向かう風として強く吹いていた。
このため、出漁中の漁船が浜に戻れないという事態が発生していた。

第二探海丸 遭難船九隻を救ふ

北海道水産試験場試験船 第二探海丸は 技手 塚崎謙吉 乗組 北見方面に漁場探検中の處 該地方に本月二日午後より四日に亘り 南西強風の時化ありしが

三日午前八時 枝幸水産組合より斜内沖に於て 海扇(ほたて)漁船二十隻遭難中との報に接し 直に 烈風を冒して現場に出航し 発動機蟹漁船 美保丸と協力して遭難中の漁船全部を救助斜内に曳船せるに

尚 五隻 行方不明のものあると聞き 再び単独出航し 風下の沖合の十二 三浬の辺に於て一の帆影を認め 追跡して之を救助し 附近を捜索したるに 二隻を発見救助したるも 他の二隻は遂に発見せず 当日は夕刻に迫り 風波も亦次第に増加し来たりしを以て 茲に捜索を中止し 午後九時 三隻を無事目梨に曳船し来れりと

本遭難に於て救助せし船数九隻にして 内 一隻は水船となり 人員なる人令救助人員三十名にて 本船には些少の損害も無き旨 塚崎技手より道庁に報告ありたるを以て 道庁は 其の勇敢なる行動を激賞し 近く道庁長官より船長船員に対し表彰ある筈
(1921年:大正10年7月22日付 北海タイムスより)


「北海道水産試験場要覧(大正15年)」によると、第二探海丸は補助機関付きの22トンの帆船。
1920年(大正9年)に海洋調査と漁場探検のために建造されたとある。

また、後年にはなるが、1926年(大正15年)4月にも祝津沖で暴風雪により遭難したニシン建網漁船2隻を、果敢にも救出したという出来事もある。当時の道庁の調査船は、調査や探検だけではなく、救助業務まで度々担っていたようだ。

余市にあった北海道水産試場を基地としており、兄船の「探海丸」に加え、その後は弟船の「第三」から「第五」の探海丸も建造された。
第二探海丸は遠く北千島まで調査航海を行っており、「サケ・マス」の魚道の北千島における発見に活躍、北洋サケマス漁業発展に大きな役割を果たしたという。

探海丸が枝幸〜浜頓別方面で船を救助したのち、北海道は雨の降りやすい日が続いていく。
特に函館はまるで梅雨のような雨天続きで、7月6日から10日間、大なり小なり、雨の日が続いた。

雨のあがった7月16日、函館から江差。南の江差を訪れた記者の旅の様子を眺めていく。

未見の江差へ

「江差の五月は江戸にも無い」と昔 殷盛を唄はれた江差町は 僕の未見の地だ
月の十六日 函館から本郷駅に下車すれば 当にした自動車は破損して出ぬと云ふ

止むなくガタ馬車に乗っかったのが朝の八時過ぎ
連日の降雨で申分なき悪路
ユラリガタリと辿るさまは宛然 是 牛車だ

雨上がりの蒸暑いこと夥しいが青葉隠れに鳴く鶯の声は 又なく僕の心緒をチャームした

中山より稍道路が良くて 馬蹄 自 早かりしも 江差に着いたのは夜の九時、ザット十三時間の乗詰め。
お臀(しり)は痛む 體は疲れたが 旅館角一の親切な待遇に心好く眠りに就た

明くれば澤見通信員の訪問を受 種々用談の末 同伴して土地の名家 関川氏を訪ふ

氏は快活能く談じ 而も温情の溢れて敬仰の念 禁ずる能はざるものがある
席上 類三陽先生の遺墨を示され 故人に私淑すること良々久しかりしが 辞して澤見氏と市中を見物す

旅館に帰りて夕餐を認ため 乗船の準備を為さんとする折柄 関川氏来りて 名物の追分節を聴かすから同行せよと薦めらる

僕は乗船時間切迫を告げて固辞すれど 聞かれず 遂に氏に随伴して旗亭「五月」楼上の人となった

席に侍る芸妓 高助 丈八の美声に 成程 本場だけあると感心する
折しも出帆の電話に早々失敬して通船に至れば 関川氏わざわざ見送らる

厚意謝するに辞なし

沖合に停泊せる日向丸に向って艀の進む櫓のキシル音に今し感心した追分節の偲ばれて轍断腸の思ひを為しつつ 船中の人となった
(会生)
(1921年:大正10年7月22日付 北海タイムスより)

100年以上前の函館から江差の旅は、陸路ではなかなか過酷であった様子がわかる紀行である。
本郷駅は函館本線の駅で、のちの渡島大野駅、今の新函館北斗駅である。
ここから朝8時に馬車に乗り、江差に着くのは夜の9時という。

松前藩第一の豪商として江差で廻船問屋を営んでいた関川家とのかかわりについても話がある。
江差に来たなら、追分を聴かないとだめだ、来なよ・・・というように、断る客人を無理やり引っ張っていく様子が目に浮かぶようである。

今回はここまで
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2024年08月16日

北海道歴天日誌 その220(1921年7月2日)念願の道路着工!神恵内本村〜泊村茂岩間

国道229号線は積丹半島の海沿いに張り付くように通っている。
ここをグーグルマップなど衛星画像の地図をみると、直線的な現道のそばに、入り組む海岸線に沿って別の道が現れる場所が多い。



上に示したのは国道229号線の神恵内村と泊村の境界付近。
なだらかな曲線を描く現道の右側に、海岸地形に沿って刻まれたカーブのきつい道路がみえる。
この道路は、昔は国道として使われていたが、新しい道路の完成によって使われなくなった、いわゆる「旧道」である。

神恵内村の中心部と泊村茂岩の間。現在は国道229号線で約4q、車で走ると5分くらいの区間であるが、この区間の海岸に道路がつくのは地域としては念願のことであった。

道路の工事が始まったのは1921年(大正10年)であるが、その時の記事をみてみよう。

古宇の道路起工式

既報、古宇郡泊村字藻岩より 同郡神恵内村本村に至る 二里三十一丁の間は 実に竣嶺嶮崖 海に迫って旅人の生命を奪ひ 通行を阻み 爲に 秋より春にかけての船便杜絶の時は 遉(さすが)富裕の神恵内村をして孤島の中に置くの状態を続け来りて 其の道路開鑿に対する村民の渇望は 実に想像の外なるものありたるが

昨年 同村資産家 澤口庄助氏が 率先 五万円を拠出し 其他 村有志の熱誠運動に依り 原田土木部長の視察となり 遂に道会に於ても工費二十五万円の予算を以て工事遂行の事に通過成り 本春来 第一期 二期工事共 小樽 橋本幸次郎氏に落札 工事に着手しつつあるが

其の起工式は本月二日 午後二時より神恵内郷社境内に於て執行され 参列者は 神保札幌土木派出所長 那須後志支庁長 丸山道議 辻松岩内署長 佐々木工事担当技手 外 随行吏員数氏 請負者 橋本幸次郎氏以下当事者 小樽及び本社記者は官公署者有志 学校児童等にして

神官は 設へたる神壇に向って修祓降神の儀も厳かに 祝詞を奏上し 次に伊藤村長の式辞 神保所長の工事報告文 朗読 那須支庁長 丸山道議 辻松署長 赤石校長 佐野川村議代表等の祝辞あり

各氏 玉串を奉献
小学児童の道起工の唱歌ありて閉式し 午後四時より山の上なる小学校屋内運動場において祝宴を催したるが
参集村民二百余名 先づ北井協賛会長の懇切極むる開会の辞あり

那須支庁長 来賓を代表して謝辞を述べ 清宴に移りたるが 席上 平本社記者のテーブルスピーチを皮切りに 百号百出 歓楽気分漲りたるが 更に 合邦亭に於て慰労宴ありたる外 昼間は小学児童が起工の歌を高唱して村内を旗行列し 夜間は尚志倶楽部員主催の提灯行列に賑い 村を挙げて祝賀気分満ち充ちたり
(1921年:大正10年7月5日付 北海タイムスより)


7月2日に神恵内村で行われた起工式の様子である。
この日の後志沿岸は、日中、西寄りの風がやや強かったものの、雨は降らず、午後からは晴れ間も出てきて、まさに明るい前途を示すような天気。

神恵内は、当時ニシンで豊かだったようだが、冬は荒れやすい日本海を船で渡らず、海岸に沿った安全な道路を村民が熱望し、さらにはその道路の着工を村を挙げて喜ぶ様子が記事から伝わって来る。

道路は翌年、1922年(大正11年)に開通し、神恵内は”陸の孤島”となる状況は大幅に減ることとなる。

ただ、工事は非常な難工事であり、請け負った小樽・橋本組は数万円の赤字を出したそうである。

翌年9月、道路の開通を記念して、神恵内村と泊村の境界付近に「記念碑」が建てられたが、この起工式に登場する人物の名が、そっくりそのまま彫られている。

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▲道路の開通式・記念碑設置の記事(1922年:大正11年9月30日付 北海タイムスより)

※この区間の道路の変遷についてはYoutubeで様々な考察が述べられているので、深く調べたい方はそちらを参考にされたし
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北海道歴天日誌 その219(1921年7月3日)一日だけ「釣り堀」に!道庁の池

1921年(大正10年)7月3日。

この日の札幌が晴れるかどうかは、ある一部の人々には重要であった。
晴れるなら、ある池が「釣り堀」となって開放されるからである。

道庁の池を開放して 釣り放題の清遊

七月三日の日曜日 晴天なれば 午前九時から午後四時迄 道庁構内の池を開放して 道庁を始め 区役所諸官街勤務者の為に釣魚をさせる事にしたるが 当日は開始及び終了を振鈴を以て合図し 参加者の家族同伴は更に差支ないが 左の條々を堅く守って貰ひたいと

一、入場者は勤務所職氏名を記した名刺を正門受付に差出し 徽章交付を受け 一定の場所に集合して合図を待つ事 履物は下駄又は草履
二、竿釣りの外、タモ、網、鉤等の捕漁具や竿枕を用いぬ事 竿は参加者一人一本とす
三、漁獲した魚は各自随意に持帰り勝手だが 鯉だけは五百匁以上の物に限り 係員の指示に依り 措置する事
四、交付を受けた徽章は 釣竿の見易き箇所に結付け置く事

尚 池の中に入ったり 周囲の土を崩壊したり 樹木に攀(よじ)登ったり 樹の枝を折ったり 又は若樹を踏つけたり 喧嘩 口論 其他 人の迷惑を為す様な者は退去を命ずるから係員の指示を遵(まも)って相互愉快に釣漁する様

池の中には鯉、鮒、鰻、鯎(うぐい)、鯰(なまず)、蟹、海老等が棲息している
(1921年:大正10年6月24日付 北海タイムスより)


開放されるのは北海道庁の構内にある池である。

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▲現在の道庁の池(2024年8月撮影)

今はマガモが泳いではいるが、あまり魚の姿をみかけない道庁の池。昔から、北と南と二つの池がある。
上の写真は北側の池であり、昔は冬にスケートリンクにもなった。大正の半ばのこの頃は、鯉やフナ、ウグイなどいろいろな魚が棲んでいたようである。

さて、7月3日がやってきた。

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▲7月3日正午の天気図 (『天気図』大正10年7月,中央気象台,1921-7. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

天気図をみると、夏の太平洋高気圧が西に張り出して、「くじらの尾」の形で朝鮮半島付近まで覆っている。
樺太方面に低気圧があって、北海道は南高北低の気圧配置。ただ、道東には低気圧があり、気圧の谷の中でもある。

大気の状態は不安定だったようで、この日の昼過ぎ、訓子府の「北訓子府」では、畑で草取りをしていた女性が落雷に遭って即死している。

札幌はというと、朝はどんよりとした曇り空であったが、雨が落ちて来ることはなく、次第に雲に隙間ができて、午後は晴れ間が広がった。
気温は朝9時には23.4℃に達し、風も弱く、まずまずの「釣り日和」となった。

開放された道庁の池の大公望

道庁では 昨年始めて構内北側の池を開放して大公望の自由にまかせたが 本年も昨三日の日曜日 午前九時から午後四時を限度として昨年同様 構内北側の池を開放した

短い夏の夜も半分は夢で送った大小ご自慢の大公望は七時頃から吾れ先にと道庁正門に集まり 堅く閉された門扉の開くを今や遅しと待って居る、軈て合図の鈴が鳴ると係員の制するのも聴かばこそ 吾勝ちにと構内になだれ込む者二百余名

ご自慢に違はず早くも二、三尾を引揚て 得々たる者あればゴ馳走を魚に與へて平気で居るゴ仁もあり
或ひは今度こそはと思って引揚て見れば鯉、鮒ならで蟹で苦笑する者 又は漸うの思ひで釣り揚げた魚を途中でポチャリと落として怨めしそうに水面を眺めて居る者もあった

中には余り夢中になって可愛大重な我子の池に陥ちたのも知らないで居る者もあった

朝から池の周囲を幾回となく周って一尾も釣らずに引揚げた連中もあった
十二時頃自治講習所の入所式からのフロック姿の尾崎さんが 愛嬌タップリで池を一周して帰ったのを見受けられた

今年は魚が怜悧になったのか ゴ自慢の大公望も更に意気が揚がらなく 一番多い者で十四、五匹の處であった(午後二時守記)
(1921年:大正10年7月4日付 北海タイムスより)

怜悧(れいり)とは「利口」であるという意味の言葉。

道庁の池はこの時代、普段から”密猟者”が竿に糸を垂らしていたようだが、この日は堂々と釣りができるということで200人もの公務員が朝からはせ参じたのであった。

しかし、道庁に棲む魚は簡単には釣られないのである。これは絵にもなっている。

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▲道庁の池(7月4日付北海タイムスより)

道庁の池をめぐって、悲喜こもごもの人間模様が記事には描かれている。

なお、この日、札幌の円山では人力車の車夫たちの運動会も開かれている。
面白いのが、まず、札幌警察署前に集合し、一人乗りの人力車に来賓を乗せて会場の円山公園まで走るというのが最初の競技だったようである。

北海タイムスの記者を乗せた人力車が、この種目は一位となったが、そのタイムはわずかに8分。
当時は信号がないとはいえ、今ではタクシーで8分で円山公園に行けるだろうか・・・。
人力車のスピードは侮れない。

なお、円山公園での続きの種目も、徒競走や兎跳び、障害物競走など、やはり足を使った競技が多かったようである。

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▲人力車車夫の運動会スケッチ(7月5日付北海タイムスより)
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2024年08月12日

北海道歴天日誌 その218(1921年6月18日)稚内に交通革命!自動車来たる

1921年:大正10年6月の話。

6月18日。北海道の北端・稚内にひとつの機械文明が到達した。

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▲稚内で自動車試運転の記事(1921年6月23日付 北海タイムスより)

この日は、稚内はよく晴れた。朝は宗谷海峡からの風がやや強く吹いていたが、次第に収まって「試運転日和」。
好天と相まって、自動車を一目見ようと、大勢の見物人が集まったようである。

記事にもある井上時次郎氏と、石山兼太郎氏の二人が、横浜から英国製の乗用車を1台、”運転手付き”で稚内まで迎え入れたのであった。

稚内と声問間を「乗合自動車」として走らせることとしたのであるが、稚内市史によれば、当時としては「革命」であり、稚内の町民は馬力をかりずにひとりで動く四ツ車に目を見張り、大きな期待をかけたとある。

しかし、当時の道路は自動車が走れるような道ではなく、故障が相次ぎ、運転していることよりも休日の日が多いくらいで乗合自動車の事業はうまくいかなかったという。

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▲大正末期の駅の様子。乗合自動車と客馬車、人力車が並ぶ。

稚内が自動車で盛り上がった4日後、北海道の広い範囲がドンと揺れに襲われた。

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▲6月22日の地震の記事(6月24日付 北海タイムスより)

記事では札幌、小樽とも「強震」とあるが、当時の震度の観測記録は気象庁にちゃんと残っており、「震度データベース」でみることができる。
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▲6月22日午後8時すぎに発生した地震の道内震度(気象庁HPより)

当時小樽は測候所がないので正式な震度は無いが、札幌は「震度2」となっている。

当時の気象要覧には、弱震が帯広、弱震(弱き方)が函館と釧路、微震が旭川、網走、根室となっていて、震源は襟裳岬南方沖としているが、後年、震源は再評価があったのであろう。

ともかく、記事がいうほどの強い揺れではなく、当然ながら各地とも被害はなかった。

最後は、大正10年の国後島の見物記を。

国後瞥見

根室殖民地の視察を終えたる自分は 更に又 海の産業に有価値なる国後島を見るべく 旅装を解かずして北上の途に就き 去月三十日 発動機船喜代丸で泊港に上陸した

泊村の近況は 蟹漁業の不況を続けて以来 之に代るべき産業を発見せずとかで 寂寥云はん方なし
此夜 島津旅館に宿泊し 湾内漁期真最中の 曳網作業を見などして一日を送り 二日午後一時 騎馬にて西海岸への横断を試むる準備をし 道程七里半の山越 中泊り嶽の絶頂より根室沿線の風光を鳥瞰し 六月と云ふに降雪屡々なる山道を 防寒服に身を固めつつ馬を進むる事数里にして 有名なポントの湖水に出づ

茲は往昔 大爆発の為 斯る深山に一大湖沼を作り 今尚 煙を吐き居る有様で 湖沼の中央に残存する小島の欠壊部分 深度四十尋(ひろ)の熱湯湧出地にバケツを投じ 池底の硫黄を汲取り居る個所あり

而して 又 之と相隣する個所にイチブシナイ硫黄山ありて 共に採取事業を継続する珍しき光景に接せしが 此作業と硫黄の性質の良なる事は世界有数のものなりと云ふ

上下六里の泊山道越えを無事に済まし 同日夕景 古丹消村の温泉場に着す
此地を基点として 西海岸至る處に温泉多く 古丹消村だけでも三ヶ所の湧出地を存し 交通甚だ不便なるにも拘らず 各地より集合する浴客少からず 特に気候関係頗るよく 地味極めて良好なれば あらゆる農作に適すとのこと

同村の開祖は侠客 会津の小鉄の身内某が殺人犯を構成し 逃れて 茲に引籠もり温泉宿を経営したれど 或日 公用巡視の任務を帯びたる数名の巡査に訪問されたるを 自分の前科が発覚せるものと思惟し 其儘 姿を消したるものにより開村の緒を啓き 爾来 漁業の方面にも遺利ありて 人の移住するもの多く 今は小部落ながらもなかなかの殷賑振りを呈して居る
(1921年:大正10年6月26日付 北海タイムスより)


道内では、交通はまだまだ馬の力を借りるところが多い。国後島での移動はなおさらである。

さて、国後島では根室海峡を挟んで別海・標津からは一番近い村となる「泊村」から上陸。その後、泊岳を登り、一菱内湖を通って、島の北側の浜に出て、羅臼の対岸にあたる「古丹消村」までの旅行記であった。
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2024年08月10日

北海道歴天日誌 その217(1921年6月4日)陸軍のサルムソン偵察機!所沢発旭川へ

サルムソン2という飛行機がある。

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フランスのサルムソン社が開発した飛行機で、第一次世界大戦ではフランスの偵察機として活躍。
日本の陸軍も、1919年に29機、1921年に51機を輸入して、「乙式一型偵察機」として運用していた。

1921年(大正10年)6月4日。
埼玉県の所沢陸軍飛行学校は、このサルムソン式の偵察機2機を所沢から旭川まで飛行させることを計画した。
中継地を函館と定め、ここで一度着陸し、補給などしてから旭川へ向かうのだが、気象や機体の条件がよければ、旭川まで一気に飛んでしまうというものである。

この計画は新聞でも大々的に報じられ、多くの北海道民が、飛行機の姿を目撃しようと待ち構えた。

樽前山附近に突風がある

今回の所澤旭川間陸軍長距離飛行の為 所澤飛行場の依頼に依り 今朝 両日間 特に天候 気温 気流 風位 風速 風向等 精細に亘る通報を為す筈であるが 右に関し札幌測候所の高信技手は語は

「本所では 飛行上 最も必要な上空気流の観測をしていないので 確かなる事は判明せぬが 従来の経験に依れば 津軽海峡から噴火湾に於ける気流は最も難物であらう

寿都港が常に南南東の強風圏内にあるのは この噴火湾の気流関係である

又 樽前山附近には飛行に禁物の突風があって 却々油断が出来ないが それから奥地の気流状態は割合突発的に変化のない處を通るから さして危険な事もないと思ふ

我々は この空前の壮挙を満足に遂行させる爲に 出来得る限り精細に亘る観測をせねばならない」
(1921年:大正10年6月3日付 北海タイムスより)


この当時は、高層天気図は作れず、地上天気図しかない。札幌測候所で観測をがんばったところで、長距離飛行にどこまで貢献できたのか?となるとややナゾではあるが、6月4日はやってきた。

この日の天気図。

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▲6月4日正午の天気図 (『天気図』大正10年6月,中央気象台,1921-6. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

日本海に高気圧。日本の東も高気圧で、大きな高気圧に東日本・北日本全体が覆われている天気図である。
朝は全道的に低い雲に覆われ、曇り空であったが、日中はスッキリ晴れて、青空の広がったところが多かった。風も弱く。飛行日和である。

この日、埼玉方面も朝は曇り空であったが、予定通り依田工兵特務曹長はサルムソン式第110号、樋口歩兵中尉は同じくサルムソン式第6378号に乗り組み、所沢を離陸した。

離陸の情報は、午前7時、旭川郵便局に連絡・架設した軍用電信に信号が入り、到着地の旭川にも伝えられた。
その内容は、
「樋口歩兵中尉操縦の6378号機は午前6時43分、依田曹長操縦の110号機は同44分 雁行して所沢を出発せり 天気晴」
というものだった。

この電報を受けて、旭川では飛行機出発合図の花火が鳴らされ、気の早い観衆は旭川の第七師団練兵場へ続々と集まり出した。

6378号機は午前8時45分に仙台を、110号機は午前9時に松島上空を通過する。
110号機は若干障害があり、速力もやや劣っていたようであるが、当初の予定よりも早く、順調な飛行ぶりに、旭川区民の期待は高まる。

午前9時50分、先行する一機が盛岡市の上空を通過、さらに午前10時25分、野辺地上空を通過する。
そして午前11時15分、6378号機は函館の上空に到着した。

樋口中尉と依田特曹 旭川へ向ふ

空前の壮挙とも云ふべき所沢旭川間六百五十哩長距離飛行は愈々四日挙行さる

此日午前六時三十分 二機共所沢を発せりとの報あり
而も 当日は朝来天気快晴にして午前十一時は 南風八米突に過ぎず 飛行には絶好の日和なりしかば 函館湯の川附近より此飛行を見んものと集ひ来る者 無慮数万に達せり

先づ 両機とも午前六時五十分所沢を発し 一千三百七十八号は仙台を八時三十五分、百十号は九時一分に通過し 盛岡を通過の際は一千三百七十八号は九時四十五分、百十号は十時二十分にて

両機共 些の故障なく 予定の針路を執り 千三百七十八号は十一時十五分 函館の上空に姿を現した
着陸地点には各団体や其他観衆 雲霞の如く参集し 今や遅しと待ち居れる折柄とて 拍手と相和して万歳の声がどっと上がる

飛行機は附近を一周し 函館市街の上空にて鮮やかなる宙返りを両三回なしたる後 室蘭指して雲の中に消え去った

一方 依田特曹の操縦せる一一〇号は一二時着陸し 午後二時二十分 万歳声裡に旭川へ向け出発せり
(1921年:大正10年6月5日付 北海タイムス)


所沢からやってきた飛行機は、一機は函館に着陸したが、一機は宙がえりの妙技を披露した後、室蘭方向へ飛び去って行った。
着陸したのは後からやってきた110号のほうであるが、写真をみると函館区民の歓迎ぶりがよくわかる。
110号は燃料補給のため、函館に一度降りる事としたようである。

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▲左上は110号の函館離陸の様子。右上は操縦者の依田特務曹長(左)と長岡函館要塞司令官(右)、下は函館着陸の際に飛行機をとりかこむ函館区民たち(6月6日付 北海タイムスより)

依田特務曹長が函館で歓迎を受けている頃、先行する樋口中尉の1378号のほうは北上を続けていた。
午前11時35分、室蘭上空で一旋回し、北東へ。

正午頃には、苫小牧より約2マイル北を鉄道線路に沿って通過。
コイノボリ大火直後にもかかわらず、苫小牧の町民は駅頭に集合し、万歳を連呼した。

午後0時30分、1378号は岩見沢上空を通過。0時43分には砂川、0時50分には滝川という順に北上してゆく。

樋口中尉は宙返りの妙技を演じて着陸

午後一時 上川平野の一端に小影を示し 瞬間にして歓迎に熱狂せる旭川区の上空に其勇姿を現し 永山村に連なる郊外の上空にて 二 三回宙返りの妙技を演じ 師団練兵場目がけて低空飛行し 午後一時十分 無事予定地に着陸するや 潮の如く来集せる群集より起る歓呼 拍手凄まじ

所沢発より旭川着迄の時間は六時間二十七分なり

本社は着発と同時に旭川滞在の倉茂中佐に向け「樋口中尉の成功を祝し 貴下のご健康を祝す」と祝電を発せり
(6月5日付 北海タイムスより)


旭川から神居連山の向こうに「遠雷の如き響音」を発する黒一点がみえたのは0時45分のこと。砂川・滝川上空にあった飛行機の姿が旭川から確認することができたこととなる。
1000キロ以上にも及ぶ長距離飛行の最後に1回ひねり、3回逆さ宙返りと、体操選手ばりの妙技を披露し、練兵場に着陸していった。

また函館から再出発した110号も午後4時38分、万歳の声の中、無事に旭川へ着陸。

二機の初夏の冒険飛行は成功裡に幕を閉じたのであった。

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2024年08月04日

北海道歴天日誌 その216(1921年5月29日)第一回全道学生青年相撲大会の開催!

北海道の5月、6月といえば「運動会」シーズン。
札幌農学校の”遊戯会”がこの頃だったというのが起源といわれるから、大正時代も当然運動会はこの時期に行われる。

今回は、1921年(大正10年)5月28日の天気図から。

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▲5月28日正午の天気図 (『天気図』大正10年6月,中央気象台,1921-6. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

北海道の西海上に発達した低気圧があり、北海道は気圧の谷の中。こうなると全道的に雨と思われるのだが、旭川は「小雨決行」ということで上川中学校(現・旭川東高)で運動会が開催された。

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▲旭川中の運動会の様子(1921年:大正10年5月30日付 北海タイムスより)

選手競ふ旭中校庭

庁立旭川中学校 第十八回春季運動会は 既報の如く二十八日挙行せるが 午前九時 全生徒 校庭に整列 川村校長開会を宣し 一同の体操を皮切りに百十八回の競技を進む会場の一方には応援台が建られ 生徒は学級毎に赤 紫 黄 取りどりの旗を振って応援に力む

十一時過ぎ 各学年の粒入り選手 十四 五名宛(ずつ)が二列縦隊となりて 喨々たる楽隊を先頭に会場に練込む
斯くて円盤投を始めとして 二 三宛の競技を混入して選手競走中心興味となる
円盤投げ 島影君六十四尺五寸にて勝ちたる

四年は疾走幅跳にて 仁科君十六尺五寸の成績にて一等を勝ち得たるが 一千五百米突には五年の長野君が五分二十一秒にて勝ち呼物たるマラソンなる会場より 師団練兵場を一周して帰来する二里二十七町の距離を 五年の長野君 四十一分二十一秒レコードにて月桂冠を得 四年保原君 三年赤松君 順次入賞

次に一百米突は五年の土橋君一等疾走
走高跳は四年細木君 五尺三寸にて一等五年大林君 五尺一寸にて二等となる

本年初めての競技 槍投げは五年大橋君 六十九尺 三年村井君六十八尺七寸の成績をあぐ

棒高跳は五年白木君九尺八寸にて 亦も五年生勝利となりて 最後のリレーとなる一等五年 二等三年 三等二年にて終了して採点す

五年五十九点 四年四十三点 三年三十一点 一年十三点 二年十二点の結果にて優勝旗は五年に授与されて 七時過盛会裏に散会
(1921年:大正10年5月30日付 北海タイムスより)

朝から日没の頃まで、一日を通しての運動会である。
札幌の運動会と比べると余興的な競技の存在には触れられておらず、陸上競技が中心のようだ。

槍投げは”69尺”が優勝記録で、なんだかすごく飛ばしているように感じられるが、メートルに直すと20.9mなので、どんな槍かはわからないが、それほど遠くまで飛ばしてはいないようである。
それにしても、まさかここから100年余り経って、彼等の後輩から槍投げの世界王者(北口榛花選手)が誕生するとは。

さて、翌5月29日になっても低気圧の動きは遅く、天気は各地でぐずついていた。

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▲5月29日の天気図

札幌は測候所の記録上、一日を通して曇り空で、午前中は雨が降ったりやんだり。雨が完全にやんだのは12時40分である。
27日の降り始めから、48時間で40ミリを超える雨。札幌の土は雨を含んでぬかるんでいたと思われる。

しかし、このようなコンディションでも、己の力を発揮しようとしていた選手たちがいたのである。

学生相撲初日 午後雨収まって俄に開催

角道奨励会札幌支部主催 北大 並に樽新 タイムス後援 第一回全道学生青年相撲大会の第一日目たる昨日は 朝来の降雨の為め 有耶無耶(うやむや)の裡(うち)に時間を経過して居たが、此 晴の土俵に於て大活躍を試みんものと小樽の各中等学校も定刻たる九時前に全部集合した

延期せぬばなるまいと種々打合せを行って居る中に 正午も過ぎて 午後一時 俄に今迄降り頻った小雨もパッタリ小やみ 学生たちは愁眉を開いて腕を撫した

愈々開催しようと決定したのは午後一時で 急に色めき立って 先づ櫓太鼓を打ち鳴らす 煙火を揚げる準備をする
会場整理を行って 一時に大混雑を来し 須曳にして準備は整った

午後二時過ぎ 此事を通じたので出渋っていた小樽水産校も午後三時発の列車に集って 午後四時五分着札すると言ふ事になり 順番を繰変へる丈で取組に相異を来さぬと言ふ事になった

午後二時頃 又しても小雨が降り出したが 各選手の意気は益々昴(たか)まる許りであった
午後三時半大会 成田会長の挨拶あり、支部長の紹介で角道奨励会理事 木戸正栄氏の挨拶を兼ねた講演があって 四本柱には東京大相撲協会 伊勢の海、待乳山 両氏の勝負検査役着席し 愈々取組と言ふ事になると日光急に土俵を照し 頗る活気を呈して来た

併し北海商業学校が不参の為 番組変更を来して 勝負左の如し

樽中 草間(ふみきり)札師 武山
札師 富岡(こてなげ)樽中 久保
札師 菅原(うっちゃり)樽中 宮澤
樽中 橋本(うちむそう)札師 藤澤
樽中 村上(やぐらなげ)札師 佐藤
樽中 澤谷(よりたおし)札師 小関
樽中 西岡(したてなげ)札師 千葉

此勝負中 樽中澤谷 札師小関 両君の取組に 澤谷猛烈に寄り 小関土俵際にて首投を打ち 同体に倒れ 軍配は小関に上りしも 物言ひ付き 取直し 樽中澤谷 猛烈に寄り倒して鮮かな勝を占む

此勝負終る頃より観衆応援団熱狂し、其の観衆中には小樽より河野教諭を初め 角道奨励会小樽支部長 中島親三氏 顧問 殿村幸太郎氏等の態々(わざわざ)来札せるあり(午後四時半)
(1921年:大正10年5月30日)


この年に始まった「全道学生青年相撲大会」。道内の中学生、大学生、青年団、兵隊など腕に覚えのある若者が集まって、三日間に渡って相撲をとるという一大スポーツ大会である。

初日は中等学校、二日目は青年団、三日目は北大と小樽高商、月寒の第25連隊の三団体の巴戦といった形で開催され、多くの札幌っ子・小樽っ子で賑わった。

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▲会場入り口に設けられたアーチ(5月31日付 北海タイムスより)

中等学校の部は、参加6校を甲乙2グループに分けて予選を行い、双方の優勝の学校による決勝戦を行った。
上の記事は、甲グループの予選第1組、小樽中と札幌師範の対戦であった。
このあと、樽中は札幌一中に敗れ、札幌師範も札幌一中に敗れたため、甲グループの1位は札幌一中となった。

また、北海中と小樽水産、教習(札幌鉄道教習所?)の3校からなる乙グループは、小樽水産が1位となり、決勝は札幌一中と小樽水産となった。

決勝戦は7戦勝負。初戦こそ小樽水産が取ったものの、ここから札幌一中が3連勝。
第5試合で小樽水産が取り返して2-3としたが、札幌一中が残り2試合を勝利し、5-2で札幌一中の勝利となった。

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▲決勝戦第7試合、札幌一中・対馬君と小樽水産・石田君の取組(5月31日付 北海タイムスより)

優勝した札幌一中には大相撲協会寄贈の優勝旗が授与され、万歳を三唱となった。

なお、相撲版甲子園の「全国中等学校相撲大会」は1919年(大正8年)から始まっている。
この全道大会の優勝者がこれに出ている可能性も高いと思われるが、戦前では1927年(昭和2年)に札幌師範が全国制覇を成し遂げており、北海道の相撲はなかなかの強さであった。

ただ、この年の全国中学大会の上位記録に札幌一中の名は全く出てこないので、この一回目の大会をきっかけに北海道の相撲が盛り上がっていったのかも。
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2024年08月03日

北海道歴天日誌 その215(1921年5月1日)今度は苫小牧で・・・大正10年コイノボリ大火

1921年(大正10年)5月1日。
この日は日曜日。

札幌は朝からすっきり「紫紺」に晴れ渡って、軟風が心地好く、円山ではサクラが咲きだし「花見初め」の楽しい日曜日である。
咲き始めたサクラの様子をみようと、勤め人、学生、職人、小僧、奥様・・・老若男女が円山に繰り出した。

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▲5月1日正午の天気図

日本海に中心を持つ高気圧が、北海道をゆるやかに覆っている。
札幌の最高気温は13.9℃。雲量は6時が1、午後2時と午後10時はゼロと、一日を通して快晴。湿度は50%台まで低下して、からっとした春の晴天であった。なお14時の湿度は旭川で35%、帯広で45%、函館で50%など、全道的に低く、空気は乾燥している。

ただし、朝はほとんど風がなく、静穏な状態だったのだが、昼前後はやや風が強く、午後2時には風速が約8m/sに達した。

札幌区民が咲き出したサクラを楽しんでいるころ、こいのぼりが5月の空を泳ぐ苫小牧の町が、突然の危機に瀕していた。

市街の過半灰燼 火元は六戸長屋から 消防必死の力も無効

一日午後一時十五分 苫小牧三条通 千葉料理店横六戸長屋 日雇ひ業 佐藤次雄方より発火し 同市街地目貫きの場所 約一千二百戸を焼 四時鎮火せり
重なる焼失家屋は 苫小牧町役場、警察分署、郵便電信局、苫小牧尋常高等小学校、拓銀出張所、登記、門脇、丸橋、砂川各呉服店、川瀬洋服店、中原薬店、丸ヤ印高橋商店、森陶器店、丸亀荒物店、丸井呉服店、野口 春日 古田各委員 大和五楽館、樽前神社、法華寺西本願寺説教所、福住料理店 寿料理店 松尾希 佐藤 尾林各写真館、胆振中央 北海雷新聞各本社、北門日報、室蘭毎日各支局、魚菜市場、川上力之助、吉田財一、森利作、町長住宅、分署長住宅、板谷喜代松、苫小牧見番を全部灰塵に帰せり

官公街の中にて焼残りたるは 御料局出張所のみなる

当日は晴天にして 屋上極めて乾燥し 殊に朝来烈風の折柄 火元 佐藤方壁側暖炉煙突の継目の抜け居りたる處あり 火 生じ 天上裏に火が通りたる際 病床中の戸主 次雄が之を発見して屋外に飛出し 屋上に水を注ぎたるも及ばず

火は舞い上がりて 隣家なる千葉料理店に移り 四十間を隔てたる新川二条通り大津菓子店に飛び 更に八間幅の道路を超えて二条通り角の中村漆器店に移り忽ち二条一条の一割を焼き払ひたり

此の時 苫小牧公立消防組は二台の腕用ポンプを以て 一条通り角 加藤小物店にて喰ひ止めんとせるも 烈風は更に一段の猛威を逞ふし 防火 効を奏せず 火は新川通りより大通の出口 田島酒屋に飛 中原薬店に移り 十間幅の大通りを越え 門脇呉服店に延焼し 猛火 愈(いよいよ)烈しくなりし

一方 火元附近の火は 二条通より新川を越えし幕田長屋に移り 三条通り一角を焼尽くし 隣接せる苫小牧尋常高等小学校は危険に陥りしかば 消防は全力を茲に集注して防火に努めしも 三条通りを舐めし猛火は消防隊の頭上を飛び越え 同校中央の屋上へ飛び 之を灰燼に帰せり

更に幕田長屋の飛火は六十間を距てたる古田委員前 早川旅館に飛び 他に門脇を焼きたる火は西に向かて延焼 学校を焼きたる火は町役場に飛び 更に郵便局に移り 一面火の海を化し 森陶器店を焼きて 大通を越え 丸や荒物店に移りたるが 此の時 北風益々激しく 消防隊は益々手の下し様なく 火は更に西に向かって苫小牧分署を焼き 苫小牧川を飛びて魚菜市場をも烏有に帰せしめたり

又 門脇呉服店より東に延焼せる春日医院 大和座 野口医院を焼きたるが 消防の必死の活動に依り 野口医院の隣家にて喰ひ止めたるが 新川を渡れる一条二条の火は更に西に延びて 法華寺 樽前神社 西本願寺説教所 福住料理店を甞めて遊郭に延び 先づ 錦、大正楼 菊池楼 丸井楼 秋月楼等 焼 此時猛火は絶頂に達し 阿鼻叫喚の声 物凄く 其他 小桜を焼払ひて 更に苫小牧川を越えて苫小牧見番に飛び火し 新築せる寿楼を焼き 此の一廓を烏有に帰せしたるが 王子会社のポンプ 効を奏して 上口料理店 隣信用組合事務所にて喰ひ止めたるを得たり

此時午後四時にして 飛び火の時より約三時間を経たり

東は第一共同便所通 北は三条御料局通りより以西を残して 二条以南 海岸までに全焼し 西は谷川亭 常磐亭付近に至る繁華の場所は 一朝にして烏有に帰し 荒野化して惨状極まりなし

損害 約五百万円 面積二千余坪なるべし 苫小牧商家戸数千七百の中 七分全焼したり

町役場の重要書類 大部分焼失

町役場 警察分署は東小学校に立退き 郵便局は大通り正木方に立ち退きて事務を執り 臨時に東小学校内に電信電話の架設を為して 市外通話の取扱を為し 郵便局登記所警察分署は何れも重要書類全部出せり

町役場は戸籍原簿 其他重要書類も大部分焼失せり
(1921年:大正10年5月3日付 北海タイムスより)

苫小牧では、王子製紙の工場が操業を開始して10年余り。漁業のまちから工業のまちへと変わろうとしていた頃である。
当時の苫小牧の戸数は.3,590戸。このうち約2,900戸で市街地が形成されていたのだが、約3分の1となる1,007戸(あるいは998戸)をこの火事で焼失した。罹災者数は約5,250名にのぼる。

この罹災者収容のため避難所が5カ所に設けられ、330人が避難したが、多くの住民は親戚の家や焼け残った友人等の家に避難した。
苫小牧ではこのときの大火を、5月5日の端午の節句の直前であり、こいのぼりが飛び火を広げる一因となったとして「コイノボリ大火」と呼んでいる。(ただ新聞の詳報にはこいのぼりについての言及はないこともわかる)


▲コイノボリ大火で焼けたあたり。すずらん通りより西、三条通より南、旧苫小牧川の周辺にかけてがほぼ焼失した。

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▲焼失区域図(苫小牧市史・下巻:1976年苫小牧市発行より)

この日は日本海に高気圧があったため、昼間の風向きは北寄りであった。
このため、三条通り付近で出火した火は、海に向かって燃え広がり、旧苫小牧川の河口付近から東へ広がっていた旧市街が焼け払われることとなった。しかし、苫小牧市史によれば、この火事が町の”新陳代謝”を促すことになったとしているから、なかなか興味深いものがある。

こうして、大正10年の北海道は、半月余りの間に、函館、札幌、苫小牧と三つの町で大きな火事を経験することとなった。
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2024年08月01日

北海道歴天日誌 その214(1921年4月18日)札幌でも大火!北海タイムス本社焼失す

大正10年4月の函館大火の発生は4月14日の未明、南東の風が吹く中であった。

そこからちょうど4日後、4月18日の天気図をみる。

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▲1921年:大正10年4月18日午前6時の天気図

オホーツク海方面に高気圧があり、千島方面から三陸方面へと張り出している。
一方、能登半島沖には低気圧があり、北海道の日本海側には気圧の谷がのびている。

北海道は東高西低の気圧配置であるから、この日も風向きは南東である。

そして、この風が広げた火事があった。起きたのは札幌である。

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▲焼失した北海タイムス本社(4月19日付紙面より)

昨暁東南の烈風中に 猛火 札幌の一角に狂ふ

十八日午前一時 札幌区南一條西四丁目十二番地 時計蓄音機商 一進堂 事 相良永記方物置より発火
折柄東南風烈しく 火の手は見る見る中に隣家 西村活版所に燃え移りたり

警鐘乱打の声に打ち驚かれたる区民は 素破や 函館の二の舞かと不安の念に駆られ 逸早く現場に駆付ける者無数 区公設消防全員百八十名、ガソリンポンプ一台、蒸気ポンプ三台、腕用ポンプ四台、札幌村、円山村各消防、月寒聯隊留守隊より一ヶ中隊出動し 山内警察署長 亦 署員全部を引率し 消火に努め 最初火の手は東方に燃え広がんず形勢なるより 消防の全力も同方面に集注したるに

荒狂ふ風は 恰も怒号する如く旋(つむじ)を巻いて、道路を距てたる明石旅館へと移り 風位により安全地帯と目されたる本社も 刻一刻と危険状態に瀕したり

斯くと見たる消防隊は 更に全力を斯の方面に変へ 必死となり注水せるも 如何せん密接せる家屋の事とて 火の手は先づ 本社第二工場を舐め 本館玄関先を残せるのみにて さしもの大建築も灰塵に帰したり

一方 停車場通りに燃え抜けんとする火の手は僅かに拓殖貯金銀行の大建物に依り 辛くも喰い止め得たるも 同銀行の窓硝子は悉く熱火の為め 飴の如くに溶解したれば 内部より 濡鼠(ぬれねずみ)必死となって類焼を免れたり

本社建物 焼落つると共に 火の粉は遠く 停車場附近迄飛散する様物凄く 一時は大通を越え 北方面にも延焼せん有様なりき
斯かる中に降り斯る火の粉は 北一条西五丁目 札幌警察署物置に落来り 危ふく一大事に及んとせしが 同署小使某妻女が 逸早くバケツに水を酌入れ 注ぎ掛けたれば 幸 大事に到らずして消止め得たり

火元附近には丸キ商店の石油石造倉庫あり、萬一 右倉庫に燃移りたる場合には一大事なりしが 幸 此事なかりし
本社左隣に位置せる共立病院にては 一時患者を附近 撞球場に避難せしめ 区内在住者は夫れぞれ自宅に引取らしめたり

全く鎮火せるは午前五時にして全焼十四戸、主なる建物は本社始め 共立病院、明石旅館、遠藤旅館、藤田旅館、小松呉服店等にして 半焼せるは青森物産館、珍鳥料理店、丸キ蕎麦屋、電気軌道変電所等四戸にて

焼失坪数約三百坪 損害高約八十五万円に上るべき見込なり

発火原因に就ては目下札幌警察署にて関係者を取調中 判明せざるも 出火場所は前記相良方の物置に申違なく 只だ 同物置には薪炭類 其他雑具を入れあり 平素火気を使用せざる点よりして放火ならんとの説あり 或は同家雇人が煙草の吸殻よりか疑問に属せり

因みに同物置には区内石田商店所有なるも 相良方にて借受居たるものなりと

人畜には死傷者なく 消防夫二名負傷せるのみなりき
道庁にては浅利警察部長 福田保安課長の一行が 過日の函館大火に出張し居り不在中の出来事とて大狼狽を極めたり

尚 同火災に就き 逸早く火の手を発見せる西村活版所主人は「同夜活動写真を観て 家に帰って見ると 隣家の物置から火の手が揚がって居たので吃驚し 大声で家内中を起した訳です」云々と語れり

紅蓮の炎に包まれた本社本館と工場

発火は午前一時頃だと云ふが 火の手が揚って警鐘の鳴り出したのは夫から七 八分経ってからで、人の騒ぎ出した頃には 西村活版所と相良商店の物置とが一緒になって燃えてゐた

其処へ東南の烈風がこっぴどく叩き付けて来るので 火焔は真赤になってバリバリと燃え広がり 見る間に南一條の表通り 相良商店から 西隣りの、ホリノ 口東に隣接する石田青物店に丸升、ます屋呉服店等に延焼し 一方 北方の中通は 角定旅館 藤田旅館等一帯紅蓮の海と化し 火の手の早い事は 真に焼原の火の観があった

けれども 消防必死の努力に依って 中通で一時火の手は落ち 喰い止めらるる様に見えたが 遂に中通りを越して明石旅館の垣から母屋に燃え渡って 再度の猛威を揮ひ 東に隣する拓殖貯金銀行の大建物と 北にコンクリートの壁一重を以て密接する本社三階の本館から 第一、第二両工場とも危急に迫った

けれども土台から石造の頑丈な本社には よもや火の入る様な事はあるまいと 万人が万人 爾(しか)く信じ切って 只 窓を堅く鎖して 物一つ出さず安堵して居た

夫よりも 寧ろ 拓殖貯金銀行が窓の硝子などを焼かれ火を防ぐに由なく危ふく見えたが 内部から畳を以て防ぎ 遂に事なきを得た

然るに安全と思はれた本社が第二工場三階銅版部から猛火が侵入し来り 内部を伝ふて第一工場から 遂に事務室 編集室に燃え移ったのだが 全く消火に由なく 傍観の状態で烏有に帰した

只 不幸中にも幸なるは 第二工場は階上のみ焼失し 階下の機械場にある輪転機五台は全部無事なるを得た事である
(1921年:大正10年4月19日付 北海タイムスより)


札幌でも大きな火事。しかも、被災区域の中には大正時代のマスメディアの雄・北海タイムス社が含まれている。
燃えた場所の地図も、当時の紙面に掲載されている。

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▲焼失地区の図(4月20日付 北海タイムスより)


▲現在の同じエリア(大通西3丁目〜南1条西3丁目)

焼けたのは西3丁目の大通の南側から電車通り(南一条通)の大半となる。
現在はここに札幌三越があるので、札幌市民にもよく知られたエリアである。

記事や焼失図には詳しく建物名が記されているので、100年余り前は、ここには民家や会社、旅館など多くの建物があったことがわかる。

この火事の記事をみていると、北海タイムスの焼失は「わが社屋までは延焼しないだろう」とか「石造りで頑丈だから燃えない」などといった”正常性バイアス”がしっかり働いており、中のものを持ちだすということは一切合切していない。

そしてみすみす猛火の侵入を許し、原稿もろとも全焼してしまうのである。

一方で拓銀貯金銀行のほうは、畳を窓に向かって立てかけたりとか、「ぬれねずみ」となって必死に防火に努めたことで、最後まで延焼を防ぎきった。北海タイムス社とは対象的であった。

さて、記事中に出て来る「東南の風」はどのくらいの強さだったのか。
当時の札幌測候所のデータをみると、前の夜から南東〜南南東の風が5メートルくらいの強さで吹き続いていた。
出火した午前1時は南南東の風・5m/sである。

”烈風”かというと言いすぎであるが、火事を広げるには十分な風速であった。

こうして北海タイムスは新聞製作に大きな打撃を受けてしまう。
幸い輪転機が助かっているのと、横山庄右衛門氏の好意もあって、大通の向かいとなる北側の西3丁目の空き地を確保し、ここにバラック式の仮事務所を建てて新聞の発行を継続した。

ただ、焼失前から連載中だった記事などは、予定していた掲載原稿や取材メモ、写真などが燃えてしまったことで、連載の継続が困難となったものもみられた。

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▲予定原稿焼失をわびる記事(4月20日付 北海タイムスより)

これは、1919年(大正8年)10月に発生した下湧別での殺人事件の連載記事。
警察の分署長が博徒上がりの前科者と共謀して殺人を犯すに至ったという事件の振り返り記事を連載していたのだが、集めた事実は灰となり、中途半端な記事で終わってしまったようである。
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