道庁の池が釣り堀となった7月3日。この日の天気図を再掲する。

▲7月3日正午の天気図
樺太方面に低気圧があり、北海道は東西に等圧線が走っている。等圧線の間隔も狭く、西から南西の風が強く吹きやすい形である。
実際道北方面は風が強かった。
この当時、宗谷岬でも有人の気象観測が行われていたが、2日の6時に2.5m/sと穏やかだったのが午後に入って次第に強まり、この3日は午前中は15メートル前後の強風が吹き続いている。夕方に10m/sくらいになって一旦落ち着きかけたが、翌4日の午前中は再び13〜14m/sの強風が吹き荒れた。
このような強風は北見枝幸などオホーツク海側北部でも、陸から海に向かう風として強く吹いていた。
このため、出漁中の漁船が浜に戻れないという事態が発生していた。
第二探海丸 遭難船九隻を救ふ
北海道水産試験場試験船 第二探海丸は 技手 塚崎謙吉 乗組 北見方面に漁場探検中の處 該地方に本月二日午後より四日に亘り 南西強風の時化ありしが
三日午前八時 枝幸水産組合より斜内沖に於て 海扇(ほたて)漁船二十隻遭難中との報に接し 直に 烈風を冒して現場に出航し 発動機蟹漁船 美保丸と協力して遭難中の漁船全部を救助斜内に曳船せるに
尚 五隻 行方不明のものあると聞き 再び単独出航し 風下の沖合の十二 三浬の辺に於て一の帆影を認め 追跡して之を救助し 附近を捜索したるに 二隻を発見救助したるも 他の二隻は遂に発見せず 当日は夕刻に迫り 風波も亦次第に増加し来たりしを以て 茲に捜索を中止し 午後九時 三隻を無事目梨に曳船し来れりと
本遭難に於て救助せし船数九隻にして 内 一隻は水船となり 人員なる人令救助人員三十名にて 本船には些少の損害も無き旨 塚崎技手より道庁に報告ありたるを以て 道庁は 其の勇敢なる行動を激賞し 近く道庁長官より船長船員に対し表彰ある筈
(1921年:大正10年7月22日付 北海タイムスより)
「北海道水産試験場要覧(大正15年)」によると、第二探海丸は補助機関付きの22トンの帆船。
1920年(大正9年)に海洋調査と漁場探検のために建造されたとある。
また、後年にはなるが、1926年(大正15年)4月にも祝津沖で暴風雪により遭難したニシン建網漁船2隻を、果敢にも救出したという出来事もある。当時の道庁の調査船は、調査や探検だけではなく、救助業務まで度々担っていたようだ。
余市にあった北海道水産試場を基地としており、兄船の「探海丸」に加え、その後は弟船の「第三」から「第五」の探海丸も建造された。
第二探海丸は遠く北千島まで調査航海を行っており、「サケ・マス」の魚道の北千島における発見に活躍、北洋サケマス漁業発展に大きな役割を果たしたという。
探海丸が枝幸〜浜頓別方面で船を救助したのち、北海道は雨の降りやすい日が続いていく。
特に函館はまるで梅雨のような雨天続きで、7月6日から10日間、大なり小なり、雨の日が続いた。
雨のあがった7月16日、函館から江差。南の江差を訪れた記者の旅の様子を眺めていく。
未見の江差へ
「江差の五月は江戸にも無い」と昔 殷盛を唄はれた江差町は 僕の未見の地だ
月の十六日 函館から本郷駅に下車すれば 当にした自動車は破損して出ぬと云ふ
止むなくガタ馬車に乗っかったのが朝の八時過ぎ
連日の降雨で申分なき悪路
ユラリガタリと辿るさまは宛然 是 牛車だ
雨上がりの蒸暑いこと夥しいが青葉隠れに鳴く鶯の声は 又なく僕の心緒をチャームした
中山より稍道路が良くて 馬蹄 自 早かりしも 江差に着いたのは夜の九時、ザット十三時間の乗詰め。
お臀(しり)は痛む 體は疲れたが 旅館角一の親切な待遇に心好く眠りに就た
明くれば澤見通信員の訪問を受 種々用談の末 同伴して土地の名家 関川氏を訪ふ
氏は快活能く談じ 而も温情の溢れて敬仰の念 禁ずる能はざるものがある
席上 類三陽先生の遺墨を示され 故人に私淑すること良々久しかりしが 辞して澤見氏と市中を見物す
旅館に帰りて夕餐を認ため 乗船の準備を為さんとする折柄 関川氏来りて 名物の追分節を聴かすから同行せよと薦めらる
僕は乗船時間切迫を告げて固辞すれど 聞かれず 遂に氏に随伴して旗亭「五月」楼上の人となった
席に侍る芸妓 高助 丈八の美声に 成程 本場だけあると感心する
折しも出帆の電話に早々失敬して通船に至れば 関川氏わざわざ見送らる
厚意謝するに辞なし
沖合に停泊せる日向丸に向って艀の進む櫓のキシル音に今し感心した追分節の偲ばれて轍断腸の思ひを為しつつ 船中の人となった
(会生)
(1921年:大正10年7月22日付 北海タイムスより)
100年以上前の函館から江差の旅は、陸路ではなかなか過酷であった様子がわかる紀行である。
本郷駅は函館本線の駅で、のちの渡島大野駅、今の新函館北斗駅である。
ここから朝8時に馬車に乗り、江差に着くのは夜の9時という。
松前藩第一の豪商として江差で廻船問屋を営んでいた関川家とのかかわりについても話がある。
江差に来たなら、追分を聴かないとだめだ、来なよ・・・というように、断る客人を無理やり引っ張っていく様子が目に浮かぶようである。
今回はここまで