2024年09月23日

北海道歴天日誌 その227(1921年9月13日)クラーク博士の孫、レーン氏とともに来札

1921年(大正10年)9月13日。

この日の北海道は緩やかに高気圧に覆われた。

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▲9月13日の天気図

札幌は無風・快晴というこれ以上ない秋晴れの空で、この日の朝を迎えた。
最低気温は8.5℃まで下がったが、日差しで気温はぐんぐん上昇。最高気温は26.8℃まで上がって、夏日を記録、汗ばむ陽気となった。

この申し分のない好天の下、北海道にゆかりのある人物が札幌を訪問した。
その人の名前はクラークという。

故クラーク博士の愛孫 憧れの札幌へ

Boys Be anbicious…!

秋風草路を拂ふ月寒原頭、馬を駐めて見送りの学生諸子を顧み 馬上から かう叫んで感慨深き訣(わか)れを告げて 遠く故国アメリカに去った 故クラーク博士の此言こそ 実に北大に一貫する精神である。

顧みれば それは四十六年前の昔であるが 併し 札幌農学校が農科大学と変り 更に北海道大学となっても故クラーク博士の此の一句こそ根深くも強く此学園に植え付けられて爾来幾百千の学生を今に激励し鞭撻して居るのである

博士は去ってもその言、その精神は永久に消ゆるの時はない
実にクラーク家の名誉も亦 永遠に此言と共に日本の学界から消ゆるの時はあるまい。

故国ボストンにあるクラーク家に於ても 非常に是を光栄とし 日本の噂、殊に札幌の噂を繰返されて居るさうだが 故博士の愛孫で 本年 アーモスト大学を卒業した青年 ウイリアム・スミス・クラーク氏は是非とも祖父の足跡を親く踏んで見たいとの止み難き愛慕の念から 今回 米国伝道会社から 特に此 札幌に派遣さるる事となり 日本視察の傍 学生伝道と云ふ名目の下に 昨日 午前七時五十分 札幌駅着急行列車で着札した

停車場にはローランド博士夫妻を始め 佐藤北大総長 南博士 森本博士 其他 故クラーク博士の教へを受た人々十数名出迎へ クラーク氏は、これも今回 初めて米国から北大予科英語講師として来任したレーン氏と共に 北大から差廻された馬車でローランド氏の宅に入った

尚 ウイリアム・エス・クラークとは故博士の氏名であるが 愛孫クラーク君は特にお祖父さんの寵愛深く故老博士の氏名を其儘頂戴したさうである

目下 博士の遺族は 六人の子息に沢山の孫があり 今回来札のクラーク君は 博士の次男の令息であるが 同君の叔父に当たる長男に子息なき爲 同君がクラーク家の相続者であると云ふ
(1921年:大正10年9月14日付 北海タイムスより)


札幌農学校の初代教頭として招かれ、「少年よ、大志を抱け」の名言を残して北海道を去ったクラーク博士。
博士が札幌を離れてから44年、同じ名前の孫が札幌にやってきたのである。

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▲孫クラークとレーン氏(1921年:大正10年9月15日付 北海タイムスより)

一緒にやってきたのはハロルド・レーン。この名前でピンと来た方は、戦前の北海道の歴史に相当詳しい向きである。
のちに、軍事秘密の保護法に違反したとして北大生とともに逮捕される冤罪事件の被害者となる英語教師。この時は、そのレーン氏の札幌第一歩でもあった。

別日の記事で、北海タイムスの記者はレーン氏のことを「口数少なき温厚な紳士」と評している。

では、クーラクの孫は札幌で何を感じたのか。翌日の記事を読んでみよう。

札幌の自然は私を惹き着ける

お祖父さんの故クラーク博士が遺した光栄ある足跡を慕ひて 遥々(はるばる)万里の波濤を越え 此 札幌迄 遣って来たウイリアム・エス・クラーク君を一昨日の午後 ローランド氏邸に訪問すれば「ハロー」と見るからに元気な声を揚げて「能うこそお出でになった」と快活に手を握る、実に心持の好い程率直で天真爛漫だ

七尺近くの丈長だが 一見瀟洒(しょうしゃ)な貴公子然として居る口も能弁らしく 秩序整然 能く語る

「お祖父さんに就ては 私共遺族の者は非常に光栄と感じて居ります
殊に私がウイリアム・スミス・クラークとお祖父様の名前を 其まま有(も)って居るので 一層日本に対しては興味を感じ、又 格別にお祖父さんが札幌でなすった事業に関しては 非常に興味を感じています

そして 其事蹟などを色々と想像に描いて居り、小さい時から是非札幌へ来て お祖父さんを偲びたいと思ふていた

こんど米国伝道会社から此日本に派遣される事になり 而もそれが札幌と云ふ事を聞いて私は飛び立つ程の嬉しさを覚えました。
そして非常な喜びに満たされて遣って来たのです。

併しお祖父さんの様な事は出来ませんけれども家内を辱ず出来るだけお祖父さんの足跡を踏んで行きたいと考へています」
と話は要領を得て、キチンと纏めて口を結ぶ

それから来朝の感想談を聴くと
「今朝着いた許りで未だ纏まった思想談は出来ませんが、先刻 北海道大学に行って見ました
大変米国に似ています、殊に気候や自然が新英国に酷似なので 非常に心地能く感じています。

自分が新英国(ニューイングランド)から参ったので 日本の何処よりも此辺の自然が一層惹付ける力が強い様です」と語った。

尚 クラーク君はアーモスト大学の出身だが アーモストには外に故クラーク博士が創立したも同様な州立農科大学がある
故博士は長く同大学の学長で 札幌農学校に来た際も その大学に在任の儘であった

その大学が本年六月 第一回卒業生の五十年記念祭を挙行し 故博士の愛慕者が多数集まったさうだ
(1921年:大正10年9月15日付 北海タイムスより)

二人が滞在していたのは、宣教師で北大予科の英語教師も務めたジョージ・ミラー・ローランド氏の家である。
クラーク氏は早速北大を見学している。40年以上も経っているが、当時の建物や何やらもまだ少しは残っている時代であろう。

祖父が見た景色を想像しながらの散歩だったと思われる。

ここから102年が経過した2023年12月。
アメリカのノースカロライナ大チャペルヒル校のケイレブ・キング博士が北海道大学を訪問した。

キング博士の祖母の祖父は、クラーク博士。
クラークという名前ではないが、クラーク博士の血をひく、玄孫である。

クラーク博士はアメリカに帰ってからも札幌の話をよくしていたとか。
子孫の札幌詣でも、北大があるかぎり続いていくことであろう。
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2024年09月22日

北海道歴天日誌 その226(1921年9月11日)秋の札幌、熊祭を見て熊汁に舌鼓

突然だが、釧路の農産品と聞いて何を思い浮かべるであろうか。
海の幸は思い浮かんでも、山の幸はなかなか思い浮かばない。湿原に加え、夏の寒さで、農業には不向きな地域。そのようなイメージがある。

しかし、ひょっとすると釧路はゴボウの名産地になったのかもしれない。
こんな記事に出くわした。

牛蒡百萬貫の注文 大阪天満市場から釧路へ

農産物の天恵に比較的薄いとされてあった釧路地方でも 近年好適物の研究や調査が届いて 農村の人たちに安心と奮発心を與へているが 今度は大坂から牛蒡(ごぼう)百万貫 この代価約三十万円ばかりの注文が来て 支庁では 折角農村の人たちと相談し 需(もと)めに応ずる準備中である

牛蒡百万貫といへば 容積だけでも大したもので 植つける面積は 実に五百町歩を要するので 各村の割振だけでも冗談ごとではない

殊に足寄方面や海岸の厚岸 浜中 昆布森地方は容易に植付けられさうもないので 釧路附近の農村に植さすらしいが 是がまた 塘路から雪裡幌呂の各原野から阿寒や白糠 尺別の各村に頗る適し 比較的面倒だとされてある牛蒡の栽培が巧く成功しているので 引受けも簡単に済むらしい

そこで百万貫の牛蒡をどうすると謂ふに これは大阪市の天満公設市場からの注文で 道庁に相談して来たのを釧路が成績がいいからといふのでお鉢が廻って来たのだ

斯うして 大阪方面で評判を博すと 或ひは 釧路の牛蒡は名産として喧伝される時期が来るかもしれぬ。
(1921年:大正10年9月11日付 北海タイムスより)


1921年(大正10年)の秋、大阪の天満市場から道庁を通じて釧路地方へ「ゴボウ100万貫」の注文が来たという話である。
100万貫というと、3750トンにもなる。2020年頃の北海道のごぼう生産量は約12,000トンというから、現代であってもなかなか莫大な注文である。

ごぼうは日当たりがよく、水はけがよい土壌で、あまり暑くない気候が適地とされる。
釧路はたしかに涼しいが、日当たりと水はけという部分では適地ではない。
このためか、2006年の調査では釧路市のゴボウはわずか1haの作付けで、生産量は12tに過ぎない。釧路はゴボウの名産地とはなれなかった。

一方で、北海道のゴボウ生産量は、青森、茨城に次ぐ全国3位であり、日本の中ではゴボウの主要産地である。現在は十勝と網走が道内では産地の中心となっている。結局はこういう場所から大阪にゴボウが出荷されていったのかもしれない。

ところでゴボウはキンピラゴボウを始めとしたさまざまな和風料理に活用されるのであるが、この注文の話題と時を同じくして、北海道では全国の料理店関係者が集まる大きな会議が開催された。

西田座で開かれた全国料理業者大会

第十九回全国料理飲食業同盟大会は 既報の如く 十一日午前十一時より区内劇場 西田座に開催

午前十時から遊園地で打揚げる数発の煙火を合図に 主客無慮七百余名は何れも羽織袴姿 厳めしく 場内外共 光彩美々しく電燈に映ゆる会場指して集合し 定刻前にはさしもの西田座も人を以て満たされた

階下土間には全国からの出席者約四百名、階上正面両座敷には来賓として松實代議士外道会議員、区会議員、区内各公職者、道庁及警察署員 各日刊新聞各雑誌記者等 着席し 定刻に同会本部理事 三宅孤軒氏の開会の辞あり

主催地一同 東京庵 五頭_太郎氏以下各役員舞台上に居並び 一場の挨拶あり

・・・中略・・・

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古式に則る式包丁は 烏帽子直垂姿の京都生野流 小西甚三氏の 鯉の片身作に始まり 拍手裡に終り 続いて同流 小西嘉一郎氏の 薄隠れ鯉の式包丁あり

これにて大会終了 園遊会上なる遊園地に向かった
(1921年:大正10年9月12日付 北海タイムスより)


1921年(大正10年)9月11日。全国の料理業者が集まる大会が札幌で開催された。
この大会は1900年(明治33年)に東京で第1回が開催されたのがはじまりで、北海道での開催は初のことであった。
※このあと、1955年(昭和30年)と1968年(昭和43年)、2015年(平成27年)にも開催されている

なお、「式包丁」というのは平安時代より伝わる”庖丁師”により執り行われる儀式のこと。
烏帽子・直垂を身にまとい、大まな板の前に座って食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手にまな箸を持ち、食材を切り分けていくというものである。

なお、記事には「生野流」とあるが、これは「生間(いかま)流」の間違いであろう。

ところで、はるばる札幌までやってきた全国各地の料理業者をもてなすために、余興として「イオマンテ」が催されている。

内地の参列者は殊の外 大歓の熊祭

園遊会の呼物である熊祭は遊園地実科高等女学校横手空地に三方に座敷を設へ 紅白の幔幕を引きめぐらしたる会場中央に行はる

アイヌ一行は日高平取の大酋長 平村イコレアツ夫婦外十数名で 一々来賓一同に挨拶し廻る
会場東方にはイナホの祭壇を設け 刺青に盛装厳めしきメノコが登壇 横手に居流れる

アツシ姿のアイヌは 神の犠牲の子熊を中央に引き出した

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イコレアツ大酋長は赤陣羽織に身を固め 軈て祭壇の前に恭しく進み 愈々 熊祭の開始を報告する

中央柱に緊縛された犠牲の子熊は ここを先駆を荒れ狂ふのを アイヌ三名に依り取押へられ ブシを塗った毒矢は三本迄子熊に命中する

さしもの猛獣も全く息絶へて パッタリ其処に打倒れると 待構へたメノコはグルリと円陣を造り「ホイヤホイ」の掛声賑やかに雁の踊 豊年踊を舞ひ 余興にメノコ対アイヌの頭の綱引があり 最後にアイヌは一同マキリを振翳して メノコも打交じり 出陣踊で呼物の余興は全く終った

熊祭を観んものと 遊園地指して集まった群集は この時高潮に達して身動きもならぬ雑踏を極め 甚だしいのは 桟敷上の屋根に迄登って警官に制止される向もあった

西の宮支店庭園内の園遊会は午後二時 鐘を合図に開始され 北海道名物熊汁、おでん、かん酒、牛乳、だんご、麦酒に各自 樹間をめぐりて池畔の清遊に半日を費やした

同庭園絵葉書を土産に 園遊会果てて後 美満寿館の拓殖活動写真を観たが 内地各府県よりの出席者には珍しかった
(1921年:大正10年9月12日付 北海タイムスより)


熊祭り(イオマンテ)を見学し、熊汁に舌鼓を打つ。
熊こそ北海道というのか、下の写真にみられるように「北海の珍味」には、かなりの人が集まっている。

19210912熊汁に集まる.jpg

平取から札幌へ、はるばる熊祭りをやりにくるというのは、大正10年にはもうイオマンテが観光商売化していたということなのだろう。
クマはどうやって運んだのか。まさか汽車で?

さて、この日の北海道は東からの高気圧に覆われ、札幌は日中はよく晴れて青空が広がった。
最高気温は24.9℃ながら、湿度は50%くらいと、割合からっとした秋晴れの陽気。

全国から集まった料理業者たちも、さわやかな秋の北海道を満喫したことであろう。

午後の中島公園は、ちょっとした「大正版札幌オータムフェスト」のような雰囲気だったのかも。
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2024年09月21日

北海道歴天日誌 その225(1921年8月10日)”平民宰相”札幌へ来る

1921年(大正10年)8月10日。

最初に、この日の天気図から見ていく。
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▲8月10日正午の天気図 (『天気図』大正10年8月,中央気象台,1921-08. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

日本の東からは太平洋高気圧が本州から朝鮮半島南部にかけて張り出しており、沖縄の西には台風がみえて、南大東島付近を通過中である。
※この頃、南大東島は製糖会社の私設気象観測所があったが、天気図にはそのデータが掲載されているようだ

北海道は等圧線がまるく閉じていて、風向は反時計回り。つまり、低気圧が通過中である。

この日の札幌は、雨は降らなかったが曇り空。明け方は濃い霧がかかっていたが、6時半頃に解消した。
その一時間後、函館から走り続けてきた汽車に乗っていた一人の男が札幌駅に降り立つ。

この人物とは、時の内閣総理大臣・原敬である。

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▲札幌駅の原首相(1921年:大正10年8月11日付 北海タイムスより)

原敬の北海道訪問は、開拓草創期の明治14年(1881年)、そして明治40年(1908年)に次いで三度目である。
今回は立憲政友会の総裁として、札幌で開催される北海道支部・東北大会に隣席するため、はるばる東京から札幌まで旅をしてきたのであった。

札幌駅には首相を迎える官民多数の人士が集まり、小野駅長が到着列車の一等車の扉を開けると、背広姿の原首相が白い扇子とパナマ帽を手にホームに降り立つ。駅前では期せずして万歳の声があがった。爵位を持たない初の首相となり”平民宰相”と呼ばれていただけに、当時の新聞にも「平民的な挨拶」とか「平民振を発揮」など記され、この頃の原首相への視線を知る事ができる。

札幌に到着した原首相は、富士倶楽部で休憩ののち道庁へ向かい、次いで札幌神社に参拝。その後、中島公園の豊平館に向かい、ここで開催された立憲政友会の大会へ出席した。

曇り空ながらも最高気温はこの年2番目の高さとなる31.4℃まで上がった。汗をふきつつの行脚になったことであろう。

そして翌11日は、北海道大学を見学する。

北海大学視察 長官の案内にて

十日の大会後歓迎攻めに遇へる原総理は 同夜深更帰宿せるにも拘らず十一日は早朝より起床規定の日程通り午前九時富士倶楽部を出で宮尾長官の案内にて 北海道大学を訪ふ

自動車五台馬車、人力車にて多数の有司有職随行す 校門を入りて停車するや佐藤総長 職員全部を率ひて 出迎へ階上に導き小憩後一室に職員一同を集めたる上 総理は同大学の歴史より 総理と佐藤総長との友誼関係 今後の発展に就て説く所あり
進んで昇格問題の梗概、各大学の特色等に言及し 教職諸氏に対して一層の努力を希望する所あり

之に対し佐藤総長は同大学の発祥後 明治九年時の太政大臣実美三條公が本校を視察されたる以来総理大臣の来臨を視たるは四十幾年後の今日に於て原総理あるのみとて先づ其光栄を謝したる後 明治四十年大学に進み 大正七年帝大となり 次いで医学部、工学部を置かるるに至りたる経路について説述し 今後一同と共に一層の努力をおしまざるべきとの答辞を述べ 夫より佐藤総長の案内にて動物学の標本室に至り 小熊博士よりうんか、蛾等の発生より 之に寄生する害虫、益虫の生代交番説に耳を傾け 或は盛岡の同邸に於ける松樹の新芯に寄生する害虫の駆除法につき 学理的説明を求め 或は生物同化の実物等に就き 多大の興味を以て 一瞥する等 総理の何事にも研究心強きことを思はしめたり

次いで図書館に至り 南、東海林 両博士より水稲の日光試験に対する成績、燕麦、亜麻、甜菜に関する説明を聞き 更に佐藤総長の説明にて明治五年以来の札幌 其の他 各種の珍奇なる写真を観て 今昔の感に堪えざるものの如くなりき

最後は秦博士の案内にて医科大学の外郭を視察し かくて午前十時三十分 予定の如く同校を辞し 直ちに豊平館に於ける岩手県人会の懇親会場に向へり
(1921年:大正10年8月12日 北海タイムスより)


原敬首相と佐藤昌介北大総長は、同い年であるばかりか、同じ岩手の出身であり、しかも盛岡藩の藩校・作人館で共に学んだ仲である。
単なる大学視察ではなく、古き友との再会という一面もあり、和やかな雰囲気だったのではないかと想像できるものである。

なお、続く岩手県人会の懇親会には原首相と佐藤総長は共に出席している。
ここでは、原首相は北海道に移り住んだ岩手県出身者に対し、挨拶を述べ、そのことを自らの日記にも残している。

そこには「私は郷土の誇りとなならないかもしれないが、面目を汚がさないようにしていることを述べ、激励した」という主旨のことが書かれているが、果たしてどういう挨拶だったのか。

原首相歓迎会

岩手県人及び旧南部領の人々より成る厳鷲協会の同県出身身内総理大臣 原敬氏招待会は昨日午前十時半 札幌豊平館に催さる

札幌在住者は勿論 遠くは北見、天塩地方よりの参会者等三百八十名 原首相は令息 原秘書 岩崎幹事、宮尾長官等と共に佐藤総長の案内にて自動車にて会場に来れば 予て正門より玄関迄 左右にと列する会員一斉に万歳を唱ふ

首相 ニコニコとして下車 庭園に於て撮影後 階下にて暫時休憩 それより階上設けの食堂に入り 佐藤総長は主催者及来会者を代表して首相歓迎の辞を述ぶれば 原首相は徐(おもむろ)に説き出して曰く

誰でも郷里を出でて 他地方に於て 同郷の人に会へば愉快なものだが 自分は特に今日 愉快の感深きものがある
夫れば 我旧南部領と北地との深き因縁があるからである

維新前百年の間といふもは 我 南部藩は幕府の命に依って 専ら北地経営の任に当たった

北海道は勿論 樺太に迄 陣屋を置て 非常の苦心を以て 北地を経営したが 今日と交通機関初め 百般の事情が雲泥の差があった丈に藩でも随分と骨を折り 其後の藩の疲弊をも招いた次第である

幕府ににても 其功労を思ひ 十万石の封録を二十万石に増して呉れたのである

自分は今より四十年前に北海道を廻ったが 東海岸では主として北陸の人に会ったが 西海岸では能く南部領の人に会った

旧南部藩と北海道は斯く因縁も深く 北地の開拓には相当に貢献して居るが その代りに 南方には余り発展もし無かった様である

諸君は今後一層 国家の爲 本道の爲 貢献し 兼て一身一家を整へん事を希望して止まざる次第である

自分は微力ながら国家の為に一生懸命働いて居るのである
それと共に自分は常に セメテ故郷の誇りとならぬ迄も 郷里の面汚しとならぬ様に心がけて居るのである

此事は 諸君に於ても平素良く心がけて戴きたいのである

云ひたい事が沢山無いでも無いが 萬福の精神を以て諸君の好意を謝する


と終って食事を共にし 始終相好を崩してのニコニコ振に 同郷人全くチャームされて 中には感激の餘り演説するもの 懐に忍ばせ居たる祝辞を読み上ぐるもの等あり

各地よりの祝電朗読もありて伊藤代議士の発声にて原首相の万歳を三唱し 原首相亦 一同の為に乾杯し 十一時半頃 徹宴

首相一行は別室にて少憩の後 岡崎総務 寺田支部長 東代議士等に迎へられ 一同自動車にて豊平館を出て停車場に向ふ
万歳の声また轟けり
(1921年:大正10年8月12日付 北海タイムスより)


日記に記した部分は終盤に出て来る。
一方で、明治14年に北海道へ来た時に、郷里の人間とよく出会った思い出も語っている。

原首相は8月10日夜に札幌女子小学校で行われた官民歓迎会でも、3度の北海道訪問について触れて、明治14年当時と大正10年現在との北海道の変化に驚いていることを語っている。特に最初の北海道訪問は、非常に印象的だったのだろう。

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▲8月10日夜の立憲政友会北海道支部による首相招待会の様子(1921年:大正10年8月12日付北海タイムスより)

豊平館を出た原首相は札幌駅から汽車に乗り、そのまま札幌を去る。
その後、小樽でも旧南部藩の出身者の歓迎会に顔を出し、夜汽車に乗って函館へ。翌13日、函館から連絡船に乗り、北海道を離れた。

原敬にとっては、これが人生最後の北海道訪問となった。

平民宰相はこのあと三ヶ月あまりのち、東京駅において凶刃に倒れることとなるのである。
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2024年09月15日

北海道歴天日誌 その224(1921年8月5日)根室駅開業!根室本線ついに全通

1921年(大正10年)8月1日。

この日、函館の柏野運動場で、第2回となる北海道中等学校野球大会が開催された。
前回は札幌開催だったのだが、この年は函館開催である。

中学校同士の対外試合禁止の申し合わせは撤回されたのか、前年は不参加だった札幌一中、旭川中、札幌工業が参加、さらに地元の函館師範が加わって、全10チームによるトーナメントとなった。

大会は、1日の1回戦に、前回優勝の北海中が二連覇を狙って登場したが、わずか1安打に封じられ、函館商業に6−4で敗退するという波乱の幕開け。

北海中だけではなく、札幌勢は遠征の疲労がたたったのか、全チームが初戦敗退となってしまう。

決勝は函館中(現・函館中部高)と、北海を破った函館商業の対戦となった。

凱歌は高し函中軍

函館柏野グラウンドに於ける全道中等学校野球大会は北大及び函館太洋倶楽部主催の下に 去る一日より挙行されたるが、最後の優勝旗争奪戦は三戦三勝の函館商業と 函館中学の顔合せにして 此日 万区のファンをして極度に高潮せしめ定刻前 既に三千の観衆をを以て両スタシは埋められたり、審判員は加藤正一(帝室林野函館出張所長)氏球審、塁審は石岡(北大)山田(同)両氏にして 函中先攻の下に 午後一時二十分 プレーを宣せられたり

連戦連勝の函商軍は 此日 第二回の裏に大破綻を生じ 失策続して一挙四点を奪はれ 意気頗る振るはずして 第三回及び九回に辛ふじて二点を入たるのみなり

これに反して 函中軍は四回に二点、九回に一点を加へ 総得点七となり 遂に七対二したり

全道中学校の覇者となれる函中軍選手一同は 応援隊の旺んなる校歌に包囲されてダイヤモンドを先づ一周して後整列し 西村大洋監督より一場の挨拶と共に万雷の如き拍手の裡に優勝旗は高山遊撃手に授与されたり

斯くて函館水電会社寄贈の大花輪も 次いでキャプテンに授与され 紀念の撮影ありて後 再び校歌の裡に場内を一周して威風堂々退場せり
(1921年:大正10年8月6日付 北海タイムスより)


ということで函館中学が初優勝を飾り、北海道代表として全国大会へ駒を進めることとなった。

なお、この大会では、根室から函館まではるばる遠征していた学校があった。根室商業(現・根室高)である。

根室商業は2年連続の出場であり、この年は開幕ゲームで小樽中学(現・小樽潮陵高)と対戦した。
しかし、13エラーに6四死球と守りが崩れ、13−4のスコアで二年連続の初戦敗退となってしまった。

根室商ナインは函館から根室まで何で帰るのか。この年の7月までは「船」だったのだろうが、8月からは交通の選択肢が増える。

根室まで鉄道が延びたのである。
それは1921年(大正10年)8月5日(金曜日)のこと。

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▲8月5日正午の天気図 (『天気図』大正10年8月,中央気象台,1921-08. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

太平洋高気圧が日本の南を西にむかって張り出している。
また、オホーツク海も弱いながらも高気圧があり、北海道は弱い気圧の谷の中である。

根室は朝晩は霧がかかり、朝9時過ぎから10分ほどは小雨も降ったが、昼間は晴れ間が出て、最高気温は20.0℃まで上がった。

この日、午後1時から、根室停車場前では「鉄道開通祝賀会」が開催され、一斉に号砲があがった。
根室の町民は、老幼男女を問わず歓喜に熱狂、提灯行列も行われたとある。

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▲開業直前の根室駅の様子

当時の根室町長・坂牛祐直氏が根室に鉄道が来るまでの苦労を語っている。

根室鉄道の回顧

根室線鉄道の第一期線として法律に制定されたるは 今より二十六年前のことなるが、爾来 後れて計画せられたる北見国各線の反りて 先に敷設を見るの現象を呈したるは如何なる理由に基くべきか、

蓋し 根室線は仮令(たとえ) 速に敷設したればとて 沿道 原野開けて移民希薄なるの故に 鉄道経済より見て収益上がる見込なく、又 根室地方民も因襲の久しき兎角に海産物は船舶の便にのみ拠るの故に 農産地に棲息する住民の如く鉄道の必要を痛切に直覚せざりしにも由るとならんと想ふ

故柳田藤吉翁の衆議院議員時代(明治三七 八年乃至四十一年頃)此 鉄道速成を図るには大政党の力に頼るの外なきを自覚し 根室国の有志を率いて政友会に入会し 尽力斡旋する所ありしも 遂に其の目的を達するに至らざりしは 想い出すだに遺憾の極みにぞある。

柳田翁 明治四十二年物故してより 以降 根室町有志 就中 故鈴木松吉氏 故白石代議士、及中島義一氏、小池代議士等諸氏は 柳田翁の遺志を継ぎて運動を継承したるも時運容易に熟せず 屡々頓挫して或は根室線は釧路迄にて打ち切るべしと伝えられ、或は厚岸迄を以て終点とすべしとの説あり

其の都度 根室の有志は非常の苦痛と恐慌とに駆られ 倉皇有志を上京せしめて政府当局者及び 各党の間に奔走して 運動を怠らず 終始一貫努力を払ひたる結果 漸く時節到来して 今日二十余年来の目的を達成して 先輩諸氏の宿志に酬い 死者の英霊を慰むるを得たるは実に至高至福本懐の至りと云はねばならぬ

根室町民は斯の如く経過を経て 根室線鉄道をかち得たる

二十余年の久しき間 鶴首 願望して待ち構へたるに省み 此 文明的唯一の交通機関をより以上利用するの方法を講ずるを以て 最も賢きことと思ふ

根室町民は益々大なる抱負、的確なる成算あるべき、吾人は必ずや之あることを信ぜんと欲するのである

標津原野の開発策 根室と択捉等との提携親善等 其 最も急務中の緊急なるは 敢て繰返す迄も無かるべし

茲には単に根室鉄道の経過を回顧して先輩諸氏の功績を偲び 長へに将来の記念と為すと同時に、此鉄道の全通を一紀元として 大根室の諸般施設の根底を築かんことを希望するに止めんと欲すのである。
(1921年:大正10年8月4日付 北海タイムスより)


根室までの線路は明治29年には、「第一期線」として工事・開通することになっていた。ところが、根室は人もいないし鉄道で運ぶべき資源も乏しいから、留萌線や網走線のほうを先に開通するべきということになり、第二期線に繰り下げられ、明治44年の皇太子北海道行啓の時には根室線は計画書類の中から消えてしまう始末だった。

しかし、根室の有志が盛んに運動し、港より前に鉄道が必要だ!標津原野の産物も鉄道が必要だ!ということで、再び着工すべき線路として机上に戻り、ようやく着工。そして大正10年、ようやく根室まで線路が届いたのであった。

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▲根室開通記念スタンプ

鉄道を根室まで敷くことを決めるのも大変だったが、実際にレールを敷く工事のほうも大変だったようで、別保トンネルから東は道路がないため、工事の材料や日用品を運ぶのに難儀したとか、沿線は道床用の砂利が少なく、厚岸海岸の築港用の砂利地から一部分を譲り受けて、これを充てたとか、かなりの苦労があったという。

根室線は昭和末期の赤字ローカル線廃止の嵐を潜り抜け、令和まで生き残ってはいるが、”花咲線”という名で「単独では存続できない」”黄色線区”に指定され、廃止の二文字がちらつく状況になった。

沿線住民の中で、一週間に2回以上乗る人が0.4%、一度も乗らない人が74%という状況の中、根室は、今度は線路を残すための苦しい戦いを強いられている。
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2024年09月08日

北海道歴天日誌 その223(1921年7月26日)金成マツの暮す旭川に徳川”16代様”来たる

1921年(大正10年)7月26日。

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▲7月26日正午の天気図 (『天気図』大正10年7月,中央気象台,1921-7. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

オホーツク海高気圧が北海道に張り出しているようにみえるが、当時の天気概況では「高気圧依然トシテ千島方面ニ存ス 然レドモ勢力漸ク衰エントス」とあり、高気圧は後退局面で、むしろ気圧の谷の影響を受けている。
実際に道内は全般に雲の広がりやすい天気で、帯広、釧路、根室では雨も降った。

旭川では午後3時過ぎに西南西の方向に雷を観測しているが、この日、旭川にある男がやってきた。

徳川公の旭川入り

自然は腕を伸べて人間を懐く

仙境神居古潭には疾雷、閃電凄じく 環境は暗澹として驟雨沛然たりしが 妖雲一過 忽ちにして蒼天を仰ぎ 淙々たる水音に蝉蛙滋し

この日 二十六日 暮あい垂るる頃 礫轆(れきろく)汽笛答すと見れば 列車は黒煙を吐いて隧道を潜り 八鎖回線を延々す 乃(すなは)ち 此に 貴族院議長 徳川家達公を迎ふ

最後部 一等の鬨を排するや 徳川公爵は令夫人、令嬢、家令、老女と同席 悠揚迫らず 厳乎侵す可からざる風ほうの公爵は セル三ツ揃いの麦藁帽子に洋杖といふ身軽な装束にて 車外の山水を瞰(み)下し 極めて質素なる令夫人は 令嬢と共に肩を並べ 睦じく応対す

公爵は莞爾として記者に席を譲って応酬の後 聊かも貴族的の気配なく打解けて歓談し「旭川地方は非常な暑熱と承ったが涼しい」などと冒頭し 「今回の北海道旅行は改まっての視察とてもない、左様、丁度二十一年程以前 北清事変の頃に 函館から旭川まで旅行した、当時の記憶は判らぬが 勿論鉄道沿線は斯様に拓けてをらぬように想ふ、今日の旭川市街は実に立派になったであらうが 当時は粗末な家屋が極少数点在したいたのみぢゃ」
と言葉を続け
「釧路方面は 初めて旅行する次第で事情が判らない、何?ウム・・・婦人共は北海道が始めて」

公爵は 二 三 記者の説明に頷き「北海道の新聞は?」と質問あり

熊狩り殿様として勇壮闊達の聞え高き 徳川義親侯の話頭に移るや「今は南洋方面に出掛けて居る、北海道には時々来る」

列車がアイヌ部落近く差掛ると 公爵には夫人 令嬢に細々お話される

かくて 午後五時五十七分 電飾燦燦たる旭川ステーションに入るや 公爵は驚異の眼をみはる

ホームには村本区助役、今田支庁長、長谷川警察署長はじめ、官公吏 区有志数十名 列を正しての出迎えあり
公爵の縁戚 松平伯爵家経営の鷹栖村松平農場佐野支配人は 伯爵家令息直国氏を導て迎ふ

公爵には一 二等待合室にて主立者の挨拶を受け 徒歩 三浦屋旅館に入る

因に一行は 二十七日松平農場等視察し 三浦屋に宿泊し 二十八日旭川出発、釧路二泊後、再び旭川に引返し 登別、室蘭を経て来月二日 小樽一泊、三日函館を去り 青森より済生会長として奥羽を巡閲すると
(1921年:大正10年7月28日付 北海タイムスより)


徳川家達(いえさと)は、十五代将軍・慶喜の謹慎後に徳川家の宗家の当主となったため「十六代さま」と呼ばれた名士。もちろん徳川幕府が続いていたならば”将軍様”である。1903年(明治36年)から貴族院議長となり、30年もその座にあった。

この年は10月に日本の全権のひとりとして国際軍縮会議「ワシントン会議」に出席するため渡米するのだが、その前のちょっとした夏休みの旅行みたいなものか。徳川の殿様のお成りということで、旭川では地域の名士が出迎えを行ってはいるが、数十名ということだから、やはり時代は天皇の世なのである。

家達が汽車の中から細々と説明したアイヌ部落。果たしてこの女性の存在は知っていたか、説明したかどうか。

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金成マツである。(写真には「子」と書いてあるが、マツコではない)

彼女の語る、当時の神居古潭でのアイヌの様子を聴いてみよう。

神の教えを信じ 神の恵に生きる女(一)

頽廃(たいはい)の近文土人部落、文明の光を避けて侘住む愛奴の群、さうした中にも 霊に生き 主の摂理に依って滅び行く民族の為に平和と祝福とを祈りつつ 恵み深き神の道を説いている一人の女性がいる。

彼女の名は金成まつと云って もう五十路に近い
曖昧な同族の圧迫と 和人の人種的偏見の嘲笑とに闘ひつつ 半生の永い間 一身を捧げて伝道事業に従っている 一日 彼の女を訪へば 人懐しい面持ちで語る。

「私は胆振幌別の生れです。
幌別は愛奴の都、私は幼少の折 不図した事で不自由な體となり、許嫁もありましたが一生独身で暮したいと思ひました、それには宗教に依って明治三十五年に函館に出ました

私は本真(ほんと)に神様に救はれた幸福者です
神の教へを信じ 神の恵みに生きるものはみな幸福です
日高の平取に十二年間をりました
近文に来てからさへ最早十三年になります

和人 必ずしも善人のみとは限ません
ずいぶん紳士として非常識な方もありますが、翻って同族の生活を思ふ時に どうしてじっとしていられませう

一日も早く 蒙を啓いてもっともっと立派な生活に導かねばならないと思ひます
それにはやはり宗教の力と教育の力とに依るより外ないと思ひます

同族には統一された宗教的観念といふものが乏しい爲に 今でも私達を異端者として冷やかな眼で見ている人達が多いのです
勿論 伝統的な儀式といふ様なものがありますが、それは頗る低級なもので 私達の生活とどれ程の交渉があるか

只 さうする事に依って 危を遁れ 罰を許されるかの如く考へているのです
目下日曜学校には四十人程も集まりますが 若い人達の折角の芽生えも家庭の慣習抔に依って蹂躙されて了ひます

朝は早いうちに仕事に出かけ 夜は早く寝て仕舞ふので 村の人達と接触する機会も少し只通りかかりに話したり 雨の日や仕事を休んでいる様な日にはこちらから出かけて三十分一時間と話したりするのでは 却々思ふ様にもなりません

それに年寄りを差置いてまでもとは今の場合 事情が許しません、どうしても私達の仕事が理解されるのは十年も後の事でせう
(1921年:大正10年7月27日付 北海タイムスより)


話はここではおわらない。
続く話をきいていこう。

神の教えを信じ 神の恵に生きる女(二)

金成まつさんは 更に言葉を継いでこう語った

「近来は和人の中でもずいぶん打融けていろいろお力添へして下さる方もありますが、まだまだ私達を見る眼は冷やかです。
外に向かって人種差別撤廃を要望する紳士が 内では愛奴だからといふ様な考へから無茶をやるかたもありますが、それでは餘りに理解もなさすぎます。

強い者が盛になって弱い者が衰えるのは自然の理屈でせう
けれ共 さうした理屈に依ってのみ 私達が生活するものとしたならば 人種差別撤廃などは必要がないと思ひます。

弱ければ弱い程 激しい生存の落伍者とならぬ様 立派な生活に導いて遣るのが強い者の神様から與へられた仕事なのです。

私の娘(同人の妹の娘を養女にした者)が北門小学校に通っていた頃 子供達が娘の身辺に付纏ふて 鼻をフンフンさせ乍ら「この愛奴は臭くない」抔と嘲笑しますので 娘は学校へ出る事を厭ひました。

私もそのいぢらしい姿を見ると 可愛想ではありましたが 和人に負けてなるものかといふ気持で 娘にもいろいろ云ひ含めて励ましたのでした。
その後 区の職業学校に通ふ様になってからは 遉にそんな生徒は少なくなりましたが 中には親み難い態度をしている方もあるので 娘は何時も寂しい顔をしていました。

これ抔は私達の身辺に起った一例に過ませんが 少くとも人種差別撤廃は強い者が弱い者を同情し 理解して導いて遣る處に第一歩を踏出すものだと思ひます」とて ・とした様な面持で

「若い人には入れ墨はありませんが 私達の年頃のものは皆あります。
之は和人がお歯黒をつけるのと同じ意味なのです。」と愛嬌よく笑ひ 記者が「私達が朝夕 先祖や神様に礼拝する様に愛奴も遣りますか」との問ひに対して 「遣ります共 愛奴にはいろいろたくさんの神様がありますとも

その中で 火の神様と家を守る神様とはいちばん有難いのです。
ですからその家の長が 朝と晩とには必ず酒を供えて拝みます。

又三日も四日も 或は十日も留守にする時には その様に神様に告げまして 家の長が居ない間は 殊に留守をするものが万事に気をつけます。」
(1921年:大正10年7月28日付 北海タイムスより)


金成マツの養女は、「アイヌ神謡集」で有名な知里幸恵である。
このエピソードは、知里幸恵の子供時代の一端が語られており、貴重なものであろう。

話はさらに続く。

神の教へを信じ 神の恵に生きる女(完)

記者は金成さんを訪れて三時間も長座して了った。
話はいろんな方面に亘った 湧く様に尽きない。

その中でも最も興味をそそられたのは愛奴の冠婚葬祭の話である

「愛奴語では結婚の事をウハレツブムと云ひます。
今では儀式の型も崩れて すべて和人の方式を見倣っていますので 別段 これを取立てて云ふ程のこともありませんが、昔は厳格な方式があったものです。

勿論 家柄に依って多少違ひがありますが 同族間には和人同様 許嫁と云ふものがあります。
許嫁は事情・・・事情と云っても余程のことでなければ駄目ですが・・・・に依っては結婚を見合せる事も出来ます。

さうした人達は 大抵一生を独身で暮します。
一人の男がある女性に恋をして それを飽までも為す遂げるのが強いのださうですが、若(もし) 親達がそれに反対を唱へる様な事があっても それに打勝たねば駄目だとされています

又 相思の男女が その孰(いず)れかが一方を見棄てた時に 見棄てられた者が更に第二の恋を求めるのが見棄てた者に対する復讐であり 侮辱であるのだと伝へられています。

又 葬儀の際も 和人の通夜といふのを二晩やります
ですから 死んでから三日間に葬式を出します。

通夜の晩にはユウカリといふものを遣りますが、之は和人の浄瑠璃に似たもので、それはそれは本当に悲しくって、聞いているうちに遂に涙が催されます

このユウカリの面白いのを二つも三つも語ります
さうしなければ死人が物足りないと思って それを聞きに戻って来るといふ迷信を持っています。

通夜に来る人は 金や米を持って来ますが、その持ち寄った米でシトギといふ餅を拵えて みんなで食べます。

墓へ埋る時にはいちばん良い着物を着せ、更に着替をも入れます。それが金持なればなるほど その中に入れて遣る着物の数が多いのです
ですから着物の数で あの家は金持ちだとか貧乏だとか云ひます。

死人を埋めた頭の所に墓標を立てます
墓標は男と女とで違ひますが、この他に家財道具をも持たせます。

それが女であれば鍋釜まで揃へ、墓標の前に並べて散々に毀して帰ります。

祭では熊祭りがいちばんよく知れてをりますが、熊を殺す事はいかにも惨めな事の様に思はれますが、愛奴はこれを神様の許に送るのだと思っているのです。

そのときもユウカリを遣ります、しかし面白い處で止めて了ひます
さうするとその続きを聞きたい爲に 翌年は又 熊が殺される事を望んで出て来ます」
などと語った。
(1921年:大正10年7月29日付 北海タイムスより)


金成マツは1875年(明治8年)11月生まれで、このインタビューのときは45歳である。
記者は「五十路」といっているのは、女性にとってはちょっと失礼か?ただ、苦労により、見た目は年齢より老けてみえたのかもしれない。

一本目の記事で身体が不自由になったことを明かしているが、これは大きな樽から落ちて腰の骨を折ったのがきっかけで、両足が不自由になってしまったことを言っている。

この頃は金田一京助や知里真志保も旭川を訪れている時代だが、記事にはそのような話は出てこない。

まだまだ厳しい差別の中にありながらも、学者や記者と率直に意見を交わしていた金成マツは、この後、多くのアイヌ文学をローマ字で筆記、文化の伝承に大きな功績を残すことになるのであった。
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2024年09月01日

北海道歴天日誌 その222(1921年7月17日)留萌神社の大祭に風神・雷神来る

例年7月16日からの3日間、留萌では留萌神社のお祭りが開催される。
16日が宵宮祭、17日が本祭、18日は後祭である。

今年、2024年(令和6年)の留萌神社の祭りは、旧JR留萌駅に続く道路の一部が歩行者天国となって「たこ焼き」などの約60の出店が並び、留萌の子どもたちなどが参加したみこしも練り歩いて賑わいをみせたという。

約100年ほど前、1921年(大正10年)の留萌神社の祭りには”招かざる客”が現れた。

留萌の大旋風 お祭を荒らす

十七日は朝来室内九十度以上の暑さにて 前日宵宮祭りより引続き 近年稀なる賑はひを呈せる留萌祭典も 近郷近在よりの人出ますます加はり 町を挙げて歓喜に狂ふ

午後二時頃 一天 俄に掻き曇るより 見る間もなく忽ちにして疾風迅雷 豆の如き豪雨は天地を捲きて 物凄く不意を喰ひし路傍の観衆は右往左往に逃げ惑ふさまは見るも憐れに 軒を並べし露店 見世物は屋根を飛ばされたるもあり 或は倒壊せるあり

売溜の紙幣を箱の儘 吹き取られしもありて 其の惨状見るに忍びず一時は中々の混雑なりしが 四時頃にして風は止みしも雨は晴れず 祭典の余興ものは悉くお流れとなれり

一時半に神社を御発連の神輿は 同時刻に折よく栖原支店に御休憩中にて 行列の一隊も風雨の障りなく晴間を見て午後三時頃無事川北に渡御 古丹に一泊せり

十八日は午前十時御発連順序を市街西南部を経て予定の如く午後五時還御せり
(1921年:大正10年7月20日付 北海タイムスより)


招かざる客の正体は、風神・雷神。
記事冒頭の「九十度」は華氏のことなので、摂氏なら32℃くらいか。厳しい暑さの中のお祭りは、”ゲリラ豪雨”と突風に見舞われ、露店は屋根を飛ばされたり、つぶれたりということだから、なかなか活発な積乱雲の襲来を受けたこととなる。

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▲7月17日正午の天気図 (『天気図』大正10年7月,中央気象台,1921-7. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

夏の高気圧が本州方面から朝鮮半島方面へ「クジラの尾」の形で張り出し、猛暑の気圧配置である。
最高気温は旭川で31.5℃、札幌29.4℃、網走28.1℃を記録。択捉島の紗那でも27.2℃まで上がった。

朝は札幌も旭川も晴れていて、特に旭川は6時の雲量がゼロと快晴だった。しかし午後はにわか雨となっている。
高気圧の縁をまわる暖湿気や、停滞前線が南下して来たとか、そうした要素で留萌では天気の急変となったのだろう。

この三日後の天気図。

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▲7月20日正午の天気図 

高気圧の西への張り出しが若干弱まっているが、北海道付近の状況はさほど変化はない。
夏の高気圧に覆われているが、日本海側は高気圧の縁で、等圧線の間隔も狭い。全般には曇り空で、函館や札幌では雨も観測している。

この日、根室では「蜃気楼」が見えたという。

根室沖合の蜃気楼

根室港より千島を背景しせる中間の沖合遥に 例年蜃気楼の出現することは 確に学界の研究資料たるべしとの見地より 曾つて同町花咲小学校に 庭田訓導の在職中 各大学へ報告したる事あり

然れども これは教員の僅に認められ得たる程度のものにて 一般人の肉眼に映ずる船名のものに有らざりし爲 評判とはならず 自然等閑し 去らるる状態なりし處 俄然 廿日午前七時 前記の位置 水平線上に最も濃厚なる高架桟橋を現し 是が消滅するや 今度は天の橋立に似たる風景を現し 最初の松林小部分が見え 間もなくその範囲は忽ち拡大して数丁に渉る大森林となり 美麗なる色彩迄が肉眼に映じ 隻眼鏡を以てすれば 殆どパラノマに違はざる壮観を呈し 全町大多数のものに認められたり
(1921年:大正10年7月24日付 北海タイムスより)


根室半島の周辺海域は、夏でも親潮の影響で海水温が低い。平年では7月20日頃でも15℃そこそこしかない。
このため、冷たい海の上に、暖かい空気が流れ込んでくると蜃気楼が出現することがあるという。

根室の市街地からみえる蜃気楼としては、国後島が変わった形に見えるとか、船が浮かんで見えるというものがあるようだ。
1921年7月の蜃気楼も根室から千島(たぶん国後島)方向に出現したということであり、さながら「天の橋立」のように見えたという。

ただ、根室の町じゅうで話題となったというこの蜃気楼は、当時の測候所の気象観測記録には全く記載がない。

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▲1921年7月18日から22日にかけての根室測候所の天気記事

確かに「蜃気楼」は大気現象としての観測項目にはないようだが、大正や昭和のはじめは割と自由に天気記事欄に変わった出来事などを記載していることがあるので、ひょっとしたらと思ったのだが・・・。

根室測候所の職員は非常にまじめだったようである。
posted by 0engosaku0 at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする