2024年10月29日

北海道歴天日誌 その236(1922年1月4日)消防出初式で殉職事故!釧路

札幌で、史上最も寒かった月というのは、1922年(大正11年)の1月である。

寒いといっても色々尺度があるのだが、まず、札幌では、元日から月末の31日まで、すべての日が真冬日である。
つまり、プラスとなった日が一日もない。

最低気温も−10℃以下となった日が29日間ある。逆に言えば、氷点下一桁台の冷え込みにとどまったのは、わずか2日間しかないのだ。
元日から15日連続−10℃以下の日が続く。そして1月17日からの三日間は−20℃以下の冷え込みが続いた。

最も気温が下がったのは1月18日で最低気温は−27.0℃。現時点でも観測史上2位となる厳しい冷え込みであり、これを更新するような冷え込みはポールシフトで北海道が北極にでもならないと出現しないのではないかというほどの寒さであった。

今回は、これほどの酷寒続きになるとは、まだ誰も知らない1月4日の北海道の話。

まず天気図から。

19220104天気図.jpg
▲1月4日正午の天気図  『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより

北海道付近は西高東低の強い冬型の気圧配置となっている。ただ、北海道の等圧線は北東から南西方向へナナメに走っていて、北寄りの風が吹きやすい形。このような形になると、日本海側の内陸や太平洋側は雪は降りにくい。

この日、札幌は朝から快晴で、最低気温は−16.6℃まで下がったが、最高気温は−1.3℃。朝と昼の温度差が大きくなった。
旭川は最低気温が-24.2℃まで下がり、最高気温は−11.2℃までしか上がらなかった。川霧がたちこめたせいか、天気は朝晩「霧」で昼間は晴れとなっている。
道東の釧路は曇りのち晴れの天気であったが、最低気温は−12.5℃できっちり冷え込んでいる。最高気温は−2.3℃。釧路もこの年の1月はすべての日で真冬日となった。

いま天気を紹介した3つの町では、この日、それぞれ出初式が行われている。

19220105札幌出初式.jpg
▲札幌の出初式の様子

雪晴れの消防出初

札幌公設消防組出初式は 吉例に依り 四日午前十時より 札幌警察署前にて挙行されたるが 此日 雪晴れ好日和とて 見物人も同署前道路 両側に蝟集し 時ならぬ雑踏を呈したり

本社前には三台の蒸気ポンプ及び同署前より西方に各消防組は第一部より建制順序にて 二列横隊に整列し 注連飾りの長鳶口に新しき紺法被を着せる消防組員二百八十七名は 定刻 井山警察署長の先導にて 今村警察部長代理・・警視 福田保安課長等の姿勢、被服、機械、器具の点検を受け終はり

梯子乗の妙技は 各組気負の若手に依り演ぜられ 夫より 全員警察署内に参集し 井山署長が恭しく 戊申詔書 を拝読せる後 左記勤続者に表彰状を授与し ・・警視 井山署長の訓示あり

来賓を代表して 前田区助役祝辞を述べ 最後に向井組頭一同を代表して答辞を述べ 閉式せるが 終了後更に同署訓示室にて 火災予防組合長の表彰式あり

式順序は前記消防組員表彰状授与式と同じく 阿由葉火災予防連合組合長の祝辞ありて終る

尚 午後一時より 劇場西田座に於て 組員前部の懇親宴を開催せりと
(1922年:大正11年1月5日付 北海タイムスより)


上の写真は当日の出初式の様子だが、穏やかな雪晴れながら、厳しい寒さの中、白い息を吐きながら消防組員が整列し、出初式が進む様子が目に浮かぶ。

100年経ったが、現在も出初式は同じような流れの所が多い。入場して整列して、器具などを点検し、挨拶があり、はしご乗りをやって、表彰・・・といった感じか。

それにしても、−10℃前後の中、外でじっとして話を聞くというのはなかなか辛い。この年の出初式出席者は各地とも一段と寒さが辛かったのではないかと想像できる。

そんな中、釧路の出初式では大きな事故が発生してしまう。

19220107釧路出初式写真.jpg
▲釧路の出初式で梯子に乗る消防組員(1922年:大正11年1月7日付 北海タイムスより)

釧路では1月4日の午前7時。凍てつく街に警鐘が鳴り響き、消防組員が各自の番屋前に集合。8時にあわせて釧路署前の広場に集まった。
そして、9時から服装・器具・機械の点検が行われ、釧路消防組”独特”とされる登梯式となった。

群集の大喝采の中、上の写真のように釧路消防組の組員の妙技が披露されていたのであるが、中村五三郎さんがハシゴから転落し、亡くなってしまったのである。
ハレの出初式での死亡事故。このような事故が起きたことがあったとは・・・。

中村さんの葬儀は、1月7日、釧路消防組主催で行われた。

釧路の消防士たちは、中村さんの死を悼み、翌年、春採公園の入り口に殉職碑を建てる。
この殉職碑は、今は鶴ヶ岱公園に建立されている。
posted by 0engosaku0 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月27日

北海道歴天日誌 その235(1921年12月13日)小樽神居古潭の凶事!崖崩れで機関車脱線

1921年(大正10年)12月の北海道は、初旬は寒さが厳しく、札幌や旭川など日本海側では雪もかなり多くなった。
しかし、師走に入って一週間を過ぎると昼間の寒さは緩み、札幌では9日に2.2℃を記録した後は20日までプラスの最高気温の日が続いた。

このため、積雪は徐々に減っていく。
札幌は8日に73センチあった積雪が、10日には62.5センチとなり、13日には49.5センチ、16日には39.5センチ、19日には30センチと、暦とは逆向きに雪が減っていった。

こうした中、災害が起きた。その日は12月13日である。

19211213天気図.jpg
▲12月13日正午の天気図  『天気図』大正10年12月,中央気象台,1921-12. 国立国会図書館デジタルコレクションより

天気図をみると、本州方面の高気圧が北海道に南から張り出している。
樺太方面に低気圧がある。南高北低の気圧配置であり、この形では北海道は寒くなりにくい。

確かに、札幌ではこの日は冬にしては珍しく、朝から雲一つない快晴であった。
最高気温も4.0℃まで上がった。

この日の夜、函館線の銭函−張碓間で土砂崩れが発生した。
詳しくは記事をみよう。

列車 岩石と衝突し 貨車三両焼失し惨死者三名

函館本線 函館張碓間百六十五哩四十鎖(張碓寄)の箇所にて 宗谷線音威子府駅を十三日午前七時五十分に発車せる 小樽行混合列車が 墜落していたる岩石と衝突し 車両の焼失と共に 乗務員三名の即死せる椿事あり

岩石の崩落せるは 俗に 張碓神居古潭と称さるる箇所にて 札幌運輸事務所線中の事故発生区域なるが 其の時間判明せず

銭函を発して 約一哩 漸く速力を掛て進行せる列車は 六百坪に亘り崩落せる岩石と 機関車とは 茲に正面衝突を為し 貨車四両と共に脱線の際 小樽機関庫機関手 梁川文平(三三) 並に 機関助手 窪田寅彦(一八)は 之に圧され即死し 車体は上下線に亘りて転覆せり

機関車の次に連結しある緩急車は 旭川の車掌 鈴木高重(二六)が前部車掌として乗務せるが 転覆と共に暖炉より発火し 車両と共に焼死し 貨車三両は雪上に焼失して残骸を晒せり

之が為 其後の 釧路発函館行の急行列車は札幌駅着と共に打切り 昨朝六時三十五分 札幌発函館行列車より 障害箇所たる約一町半を徒歩に依り連絡しつつあるが 今十五日ちゅうには下り線に依り単線分店を開始し得る見込にて 復線迄には約一週間を要する由にて

列車に乗合せた 田中本社員

椿事の列車に乗合せたる田中本社小樽支局長は語る
「私は当日 本社に会議が開かれるので 午後四時二十分の列車にて札幌に赴き 会議に列し
午後八時十分 札幌発列車にて帰樽すべく銭函に着くと 大騒ぎで
現場は危険である 行く事が出来ないと云ふので 乗客の殆ど全部は札幌に引返したが
私の外 六名の乗客は下車し 兎に角現場に赴く事に決し
夜の雪道を徒歩で張碓に着き 現場を視察したが 無惨なもので
大きな岩や石塊 土砂等が打重なって 山の中腹位もあらうと思はれる程の高さとなりて 通行は頗る危険なので
漸く月明りを頼り 這う様にして現場を通過し 漸く十四日午前一時過ぎ 南小樽駅に着することを得た」云々

危険を発見せる漁夫 燃ゆる薪を振って

【張碓特派員電話】
十三日午前七時五十分 音威子府発混合列車は 客車七両に二等乗客九名 三等乗客約八十名の外 角材一両 雑穀澱粉其他取交ぜ四両を牽引し 同日午後八時二十九分 南小樽駅に到着すべく張碓駅付近を進行中なりしが 午後八時十分 張碓停車場を距る約一哩の箇所に於て 線路と併行して連なる丘上より 岩石土砂崩壊 落下し来り

大石塊 火山灰 土砂は累々として 線路上約三百五十坪に山積し 其巾は約五十鎖に及びたり

其時 線路前なる海岸に於て 漁を為し居たる漁夫が之を発見し 折柄 之の椿事を知らずに 間近く驀進し来る前記列車に急を告げ 停止せしむべく 薪に火を点し 危急を告げたるも 此辺は平坦地なるを以て 列車は急速度を以て進行し来り

現場を距る 約四十鎖の處迄 進行し来れるより 漁夫は これは容易ならずと 再び大声を張り上げ 必死となり点火し 炎々として燃ゆる薪を振り 列車の運転を停止せしむべく努め居るを 該機関車乗組の一火夫が之を発見したれば 大いに驚き 機関手に危険信号の旨を報じ 急ぎ停止に努めたるも 此時は既に遅く

列車はカーブに差懸り 轟然たる大音響と共に大石塊と衝突し 山積せる土砂を冠り テンダーは転覆し 緩急車より火を発し 四車を焼失せる外 澱粉一両 雑穀二両焼失し 機関助手一名 火夫一名 前部車掌一名の三名は 別項の如く無惨の焼死を遂げたる外 火夫一名は前額部に擦過傷を負ひたり

此急報の南小樽駅に伝わるや 小樽警察署長以下三十余名の警官 及び 南小樽駅長以下駅員 人夫等百五十名は直ちに救援列車にて駆付け 応急手配をなし 十四日午前迄に五回の救援列車を出し 札幌鉄道局及鉄道病院救護班 張碓青年会員 消防組員等も現場に駆付け手配を為し 青年会員 消防組員等は死体発掘に尽力せり

現場付近の電信線は土砂の為 電柱電線切断され 全部不通にて 電信工夫は目下復旧工事中なり

下り鉄道線路は百足虫(むかで)の如き形となり 海波に流失せる個所もあり 夏期中なれば船車連絡にて開通し得るも 目下は海上波浪高く 船車連絡は不可能にて 十四日午前十時九分 南小樽発下り列車 及び午前十時二十八分南小樽駅着上り列車より 現場二百間程の徒歩連絡にて 列車開通する事となれり

幸にして乗客には何等の故障無く 該列車に乗込たる乗客は 全部札幌に引返せり

蟲が知らすか車掌の躊躇

列車転覆の際 緩急車と共に焼死せる前部車掌の鈴木高重は 札幌駅に着せる際
「腹痛するから誰か繰合して乗って呉れないか」と言いたるも 思ひ返せるものか
「矢張り僕が行かう」とて乗車し 前記の焼死を遂げたるものなり
(1921年:大正10年12月15日付 北海タイムス)


19211215張碓列車事故.jpg
▲崩落土砂に突っ込んで脱線した機関車(1921年:大正10年12月15日 北海タイムス)

神居古潭といえば旭川と深川の間の険しい峡谷を思い出す人がほとんどであろう。
しかし、実は、小樽にも神居古潭がある。

朝里と張碓の間は断崖が続いており、陸路での通行はかなりの難航であった。
アイヌの人々も、必ず木幣(イナウ)を立て祈りながら通過したとされる。

また、ここの崖が崩れ落ちる時には、必ず戦乱や凶事が起こるとされていた。
この時はまさに、神居古潭のガケが崩れ、そして凶事が起きてしまったのである。

19211216張碓神居古潭の現場.jpg
▲崩落したガケ。恵比寿島から張碓駅方向に少し行ったところに今も現存する。手のひらを立てたような大岩と松浦武四郎も記したとか・・・
(1921年:大正10年12月16日付 北海タイムスより)

400から600坪というから、だいたい1500〜2000平方メートルの面積が土砂に覆われたこととなり、かなり大規模な土砂崩れである。
暖かい日が続いて、雪が解けていたことも、原因の一つになったのかもしれない。

この事故では乗員3名が亡くなっているが、奇跡的に客車の乗客から死者は出なかった。(人数は報じられていないが、負傷者はいたらしい)
焼死した鈴木車掌は「虫の知らせ」の腹痛を押しての乗務があだとなってしまった。

鈴木車掌は故郷・音威子府の駅夫に採用され、この年の10月に旭川に勤め始めたところであり、縁談も進んでいたという。

これから100年余り。今もこの崖の下を鉄道が走っている。大きく崩れる日が来なければいいが・・・。
posted by 0engosaku0 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月26日

北海道歴天日誌 その234(1921年12月5日)多雪の師走・札幌の除雪事情と興部上藻小の落成

1921年(大正10年)の師走は大雪ではじまった。
1日に低気圧が発達しながら北海道を通過し、2日には強い冬型の気圧配置となったのである。

19211202天気図.jpg
▲12月2日正午の天気図 『天気図』大正10年12月,中央気象台,1921-12. 国立国会図書館デジタルコレクションより

旭川は1日10時に21センチだった積雪が、2日10時には62センチに増加した。
24時間で40センチを超える大雪である。
旭川はよく雪が降るところではあるが、師走に1日で40センチ以上も降るというのは、1953年〜2023年の70年間でも5回しかないので、かなり珍しい。

19211203旭川大雪.jpg
▲旭川の大雪を伝える記事(1921年:大正10年12月3日付 北海タイムスより)

旭川ではこの後も雪が降り続き、3日10時には78センチ、4日10時には87センチにまで達した。
永山駅構内では吹きだまりもあって積雪が5尺(約1.5m)に達し、列車が埋まってしまうなど、道北や道東では鉄道に大きな影響があった。

旭川ほどではないが、札幌も1日から2日にかけて積雪が15センチほど増えて、2日10時の積雪は56センチ。師走の初めとしては、かなり多い積雪である。その後、6日10時には49.5センチまで減ったものの、再び大雪となり、7日10時には78センチを記録した。

雪が増えると鉄道だけではなく、道路も通れなくなる。当然、日々の生活に影響することになるのだが、当時の除雪はどうだったか・・。

札幌の除雪路区別

札幌区道路除雪問題は 其後 着々実行の域に進みつつあるが 愈々六日午後一時より 除雪実行委員会を札幌署訓示室内に開き 同日より直に着手する事となりたるが 爾後 実行事務所を警察署内に設けたりと

尚 三日午後一時より 区役所会議室に火防組合長会議を開催の実行委員二十五名を選挙し 除雪費用三千六円九十銭を区に要求する事に決定 午後五時散会せる
(1921年:大正10年12月6日付 北海タイムスより)


50センチも積もってからではあるが、札幌の「除雪実行委員会」が開かれ、除雪に着手することになったという。

さて、問題はその除雪の内容であるが、札幌区内の除雪は、積雪すべてを除雪する「一等道路」と、雪を踏みつけて歩きやすくする「二等道路」、”スノープラウ”を通過させる「三等道路」の3種類であった。

なお、一等道路は、現在の札幌駅前通り(札幌駅南口〜ススキノの交番前)と、薄野から中島公園までの間の縦通り1本、そして南一条通りが、西は円山村との境界(今の南1西20)から東は札幌神社の頓宮前(今の南1西3)までの間だけである。

おおまかにいえば、札幌駅から中島公園までの道と、南1条通り。
大正10年の札幌は、二本の道路だけしか完全除雪はされなかったのである。

大正10年はまだササラ電車はなく、「除雪車」もない。このため、除雪方法は人力が中心である。
三等道路(南1西9から西9丁目通りを山鼻交番までなど、これまた数本の道路)は、スノープラウと呼ばれる器具を馬につけて曳かせていたようである。

さて、雪が多い師走初冬の北海道。
札幌から約230キロの北東にある小さな集落で、小学校校舎の落成式が行われている。

上藻校の落成祝賀会 紅白の餅分配

北見国興部村上藻尋常小学校落成式は 五日午前十時より挙行
集まるもの 村内公職者有志 児童等約五百

定刻 先づ 山田村長の挙式の挨拶あり 徳野校長 勅語拝読
終って 山田村長式辞を兼 工事報告と各来賓の祝辞演説あり

最後に徳野校長、児童の答辞ありて式を閉ぢ 児童に紅白の餅を分配す

一方、新校舎にては 餅撒きあり
近年なき壮観を呈した

又 新教室では祝賀会が開催され 主客百名 万歳盛裡に午後五時終了した

因みに 午後六時より余興活動写真を開催し 多大の感興を呈し 午後十一時散会せり
(1921年:大正10年12月12日付 北海タイムスより)


興部村とあるが、この後分村した今の西興部村の南部にあたる上藻地区。
ここには1915年(大正4年)6月に「特別教習所」ができて児童が通っていたのだが、この年の10月に新しい校舎を建てて移転、上藻小学校として開校したのであった。

村の記録では特別教習所ができた時点で86名の児童がいたというから、小学校になった当時は100人くらいはいたのではないかと思われる。

ここは現在の西興部村と滝上町の中間地点で、山の中の農村地帯であることを考えると、集落のお祭りを超える大きなイベントである。夜には活動写真(映画)まで上映しているというから、地域の人は夜遅くまで小学校に残っていたことが容易に想像できる。
校舎の落成式の記事は短いが、それでも村の人の喜ぶ顔が想像できるものである。


▲上藻小学校があった場所の現在

上藻小学校は1931年(昭和6年)に再び移転。上はその場所の今である。
1947年(昭和22年)には中学校が併置されて、上藻小中学校となるが、1966年(昭和41)に中学校が西興部中に統合、そして1976年(昭和51年)3月に小学校も西興部小学校に統合されて、廃校となった。

今も西興部〜滝上のあたりは雪の多い所である。

中でも師走ながらにひときわ雪が多かったこの年のことである。
この地に集まった人たちは、真っ暗な中、西興部中心部まで10キロの道のりを、馬そりに揺られて帰ったのか、それとも前の人の歩いた後を、ぞろぞろ並んでツボ足で帰ったのか・・・。
posted by 0engosaku0 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月19日

北海道歴天日誌 その233(1921年11月25日)ある測候所長自殺直後の荒天災害

1921年(大正10年)11月25日。

この日は、日本の政治史上では歴史的な一日である。

大正天皇は、病気の進行により、この頃は発語がやや不自由となっており、階段の上り下りには側近の手助けが必要な状態となっていた。
このため、この日、皇族による会議が開催され、皇室典範第十九条に基づき、二十歳の皇太子裕仁親王が「摂政」となることが可決されたのである。

19211126皇太子の摂政可決.jpg


一方、この日の北海道はどうだったかといえば、急速に発達した低気圧が北海道付近を通過したため、全道的に大荒れの天気となった。

19211125天気図.jpg
▲11月25日正午の天気図 『天気図』大正10年11月,中央気象台,1921-11. 国立国会図書館デジタルコレクションより


例えば、函館では2時の風速は0.6m/sとほぼ静穏な状態だったが、6時には6m/s、10時には10m/s、14時には19m/sと急激に風が強まった。
その後も15〜20m/sの強風が続き、夜22時には23m/sの暴風が吹き荒れた。

函館だけではなく、25日から26日にかけて観測された各地の風速は11月としては記録的なものであり、函館は23.2m/s(WNW)で11月2位、根室は26.0m/s(NW)で11月1位の記録を保持しているほか、28.6m/s(NW)を観測した寿都、22.4m/s(NW)を観測した網走は、ともに現在でも11月5位の記録となっている。

函館はほぼ雨だったが、札幌は湿った雪が20センチほども降り積もり、積雪は一日で21センチも増加、26日10時には38.8センチに達した。この積雪の深さは、11月9位の記録として残っている。その他、帯広で8センチ、網走で6センチの雪が積もった。

この大荒れの天候により、道内では雪と波での被害があった。

19211129根室の船多数破壊.jpg
▲根室港での暴風・高波被害(1921年:大正10年11月29日付 北海タイムスより)

1921年(大正10年)11月の「気象要覧」をみると、この低気圧による暴風と高波で、北海道周辺の港では船の難破が相次ぎ、
・渡島国で漁舟5隻が沈没
・34名乗組の木材船の萬世丸(1039トン)が襟裳沖で行方不明
・27名乗組の江の島丸(1000トン)が宗谷岬付近で座礁したが、辛くも救助
ということがあったと記載されている。

このほかにも、上記の記事のように、根室でも人的被害はなかったが発動機船や漁船が多数破損・転覆しているほか、以下のような被害記事もみえる。

江差の溺死十二名 日高では十三名溺死

二 三日前の大暴風雪にて 本道各地の被害も少なからざる模様なるが 二十八日道庁保安課に到着せる漁船遭難 左の如し

▼二十五日午後四時 幌泉郡幌泉村大字近呼村 高橋松次郎方 鮭漁場にて 漁船転覆し 漁夫十三名溺死を遂げたり
▼二十六日 江差熊石村沖合 漁船遭難の結果 死者十二名を発見せるが 尚 多数の見込みなりと
▼二十六日 汽船 黄海丸(九百一噸)は宗谷郡宗谷村字鬼志別に碇泊中 天候不良の為 利尻に向け避難せんと航海中 暴風雪の為 針路を誤り 二十七日午後一時三十分 鬼脇村字石崎村キチントマリ海岸に乗揚げ 乗組員二十四名 人夫四百七名上陸 救助されたるが 船底に損傷あり
積荷木材 千五百石 其他は無事

美深材惨事

二十四日午後十時頃 名寄美深村オンネナイ十七線 佐孝浅太郎方住宅一棟 積雪の為倒壊し 長女マサヨ(一五) 二女サダヨ(一二)は何れも圧死を遂げたり

(1921年:大正10年11月29日付 北海タイムスより)


美深の雪崩は、当時の旭川の気温が−5.0℃と、特段寒さが緩んでいる状況ではないので、単にちょっとした雪の重みに耐えられなかっただけかも知れず、低気圧との因果関係ははっきりしないのであるが、海難は大いに関係するところで、急激な風の強まりと波の高まりに対応できず、あわせて25名もの溺死者が生じている。

気象要覧に掲載される襟裳での船の遭難を加えると、死者・行方不明あわせて59名の大災害となるに至った。

この災害より少し前、ある気象台長の自殺が、北海道でも報じられた。

19211118伏木測候所長自殺.jpg
▲伏木測候所長の自殺を報じる記事(1921年:大正10年11月18日付 北海タイムスより)

本名は大森”虎吉”ではなく、大森”虎之助”氏。
秋田出身で、地元の秋田測候所に明治20年から勤務したのち、明治25年(1892年)から伏木測候所の所長として勤務し、約30年近くも所長を続けていたという人物。気象に関わる研究にも優れたものがあり、富山湾の蜃気楼についての論文も残している。

この年の9月25日から26日にかけて、近畿から北陸にかけて縦断した台風について、伏木測候所では、予報事務の不手際から「暴風警報」の発表・伝達ができず、台風は来ないと信じて富山湾で漁をしていた多くの漁民が暴風や高波で命を落とし、富山県下の建物も大被害を受けるという”不祥事”を起こしている。

この”予報事務の不手際”がまた問題で、記事にあるように、中央気象台から伏木測候所に発せられた警報発表に関わる電報を、当直の技手が放置したというのが原因であった。このため、測候所長は富山県民の官民を問わず、全ての方面からの非難・糾弾を受けることとなってしまったのであった。

大森所長は二か月に渡って淡々と事務を進め、経過報告書を作成し、善後策を整理した。そして、記事によれば11月16日午後1時、毒物(石炭酸)を飲んで自殺してしまったのである。

なお、後年、1955年(昭和30年)7月に、気象学会の雑誌に大森虎之助を偲ぶ記事が掲載され、そこでは「11月26日」に魚津で死体となって浮かんだと説明されたため、現在、いろいろな書物には「大森は入水自殺した」というように書かれている。

しかし、26日に自殺したのなら、11月18日に北海道で記事になるわけはないので、少なくとも自殺の日付は間違いである。海洋気象学会の学会誌「海と空」の1921年11月号も「11月16日」に亡くなったと報じている。そもそも地元の新聞「富山日報」が11月17日付の記事で「昨十六日午後一時」に「自殺を遂げた」と詳細に報じている。このため、自殺したのは11月16日が正しい。

また、その方法も、現在語られる入水自殺ではなく、当時の紙面が報じたように毒物自殺が真実である。

北日本新聞のサービスセンターが発行するミニコミ誌、『まいたうんTAKAOKA』では、令和元年(2019年)7月号から9回にわたり、この大森所長自殺事件を掘り起こす特集「大森事件の真相」を連載している。

これには、伏木測候所の別の次席技手(大森所長の部下)が、大森所長が書記のハンコを勝手に使い、測候所の会計上不正をしているとの”フェイクニュ−ス”を新聞などで公表するとして、金品を脅し取ろうとした恐喝事件に大森所長は巻き込まれ、記事差し止めに必要な金が用意できずに自殺したとしており、その方法は石炭酸(弱酸性の殺菌・防腐剤の原料となる薬品)を大量に飲んで自殺したとしている。

翌年も銚子測候所で所長が自殺をするという事件が続くこととなるが、今回とりあげた北海道の荒天については気象台を非難する記事はない。
伏木事件の直後のこの海難、果たして当時の道内の測候所員たちはどう思ったことか。。。
posted by 0engosaku0 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月14日

北海道歴天日誌 その232(1921年11月14日)小春日和に包まれて・・北大附属病院開く

1921年(大正10年)の11月1日、札幌に病院が一つ増えた。
増えた病院の名は「北海道帝国大学医学部付属病院」という。通称「北大病院」である。

11月1日は多くの官民を招待して”開院披露会”を催し、外来患者や入院患者の診療を始めたのは翌2日から。
病院は最初は120名の入院患者を収容でき、当時としては最新式の機械器具が用意され、レントゲンの設備も据え付けられていた。

入院料は一等(1室1人)1日6円、二等(1室3〜4人)1日3円、三等(1室7人〜9人)1円80銭。手術料は種類に応じて1円から100円で、その他の金品のお礼を送ってはいけないというルールになっていた。

19211101北大病院のレントゲン室.jpg
▲北大病院のレントゲン室、人物は北大の秦勉造医学部長(1921年10月29日付 北海タイムスより)

開院から二週間目の北大病院の様子を報じた記事があるので、読んでみよう。

北大病院 開始して間もないのに外来患者で賑ふ(上)

鍍金(めっき)した医療器械には晩秋の朝の光が動いている
近来珍らしい 麗らかさ 静けさである

患者の溜所には三 四十の屈託相な顔が茫然並んでいる
内科教授室に収まった医院長 有馬教授は物思はしげに 小首を傾け 予診室から廻って来る新患に接している

玄関を入って 正面の處に 袖に赤い布を附けた女給仕が二人いて 不案内の人々を導いている

外科の方を覗くと 白衣の看護婦が「何々」さんと呼ぶのにつれて 次から次へと秦教授の部屋の中に吸ひこまれて行く

婦人治療室の向側のレントゲン室には 切下髪のお婆あさんが治療をうけている
婦人科の助手 岩田医学士が急いで出て来ると 砕氷を持った看護婦が ヒョッコリ頭を下げて通り過ぎる

すべてが十四日午前十時頃の北大医学部附属病院の光景だ

開院してから僅(わずか)二週間に過ぎぬ同院は 既に入院患者約九十名 外来患者百名以上に達している
所謂 新店早々 この賑しさである

よく診察抔(など)は学究的で 蒼蠅(うるさい)からうと云ふ者もあるが それは要らぬ取越苦労であって 決して左様な事はない

有馬医院長もそれを心配しているが 入院している人達の云ふことや 朝の六時頃から詰めかけて 開診時間を待っている多くの人々を見ると 這般の消息が諒解される訳である

未だ 一般的でないと思ふから 記者の心附いた二 三を書いて見度い

あの大玄関を入ると 左側には外套や傘、包物抔の預かり所があって 無料で預かって呉る
玄関の正面には受付があって 新患者はここで診察券の交付を受け 内科ならば左の方の廊下を曲がると患者溜り所があり、外科ならば右側五ツ目の部屋が患者の溜り所となっている

更に婦人科は外科の前を通って左折して五ツ目の部屋がそれである

各溜所には看護婦がいて 順々に氏名を読み上げて予診室又は診察室に導いて呉れるが 若 其処まで行くのに不明の点があったら 腕に赤布をつけている案内者に聞くがよい
(1921年:大正10年11月15日付 北海タイムスより)


この年の札幌は、11月10日になってようやく初雪となった。
例年より遅い雪の季節の到来で、記者が北大病院に取材に訪れた14日は、冬型の気圧配置が緩み、日中はよく晴れて、最高気温も10.2℃と小春日和であった。翌15日には16.7℃を記録している。

記事をよむと、北大病院の構成は、内科と外科と婦人科の三科体制であることがわかる。
病院長は有馬英二教授。医局員は6名であったが、患者は全道から集まり、記事にあるように大変混雑した。

このため、入院した重症患者は検査も充分受けず次々と死亡していくほどであったと伝えられている。今であれば、マスコミが騒いで大問題となるところだが、この段階では「小春日和の新病院ほのぼのレポート」といった感じで、特に問題視している様子はみられない。

さて、先に見た記事は前編である。翌日の紙面に掲載された後編の記事も読んでいこう。

北大病院 開始して間もないのに外来患者で賑ふ(下)

北大医学部附属病院では 目下 内科 外科 婦人科とレントゲン科とあって 設備の完成するに従ひ 追々 他の分科も併置する筈である

前にも記したが 受付に於て診療券及び番号札を受取 内科なり外科なりの患者溜所の受付に差出して 自分の番号を記入して貰って置くと 軈て 係りの看護婦が順番を知らして呉れるから それに依って診察室に至るのであるが

診察の終った者は 処方箋を貰って 最初の診察申込書の交付を受けた受付の裏になってゐる収入掛りの窓口で料金を支払ひ それと向合っている調剤室に差出せばよいのである

又 再来患者は必ず 初めに受けた診察券を持参して 直ちに内科なり外科なりの受付に差出して順番を記入して貰ふことである

尚 入院を要する者は 玄関右側の入院患者受付に就て聞けば 大抵判るが 入院中の寝具や食器等も貸与されるが 之は収入掛の指示を受ればよいのである

其他 入院患者 又は外来患者の便宜の為 階上には協済会の売店があって 日用品は勿論 昼食の準備もあるし 月 木曜日には理髪も遣るさうだが 昼食券や理髪店は前記の収入掛で発売している

それから入院患者への面会は 午後一時から同六時までとしてある

以上で一通 書き尽した訳であるが 明年は現在の北隣に二棟の病舎が建築され 更に看護婦寄宿舎を挟んで蟹の手の様に病舎が伸びる予定である

目下 病室に充当している各室は もともと治療室 研究室 教授室等であるが 採光 換気 温度抔 申分なく おまけに各寝台には鈴呼(ベル)がついていて、何不自由なく用が辯ぜられる次第である

さて お医者さんの顔振れを知って置くことも面白いと思ふが

▲内科 有馬医院長、助手 小野、本、佐々木、景山各医学士 副手高橋、松本両医学士
▲外科 秦医学部長、助手 橋本、松野、辻野、清水各医学士
▲婦人科 岩田、山取両医学士

等である

終りに一寸記したいのは同院附属看護生で 現在は一年八十名 二年四十名あるが 毎日午前中は院務に従事し 実習なしつつ 午後は所定の授業を受ける訳であるが 徹宵勤務に服しても不平らしい態度もなく 皆 真面目に学習しているとの事である

尚 十一月十日付官報を以て 産婆養成所が指定されたから 之も追って開設される事であらう
(1921年:大正10年11月15日付 北海タイムスより)


こうして病院の様子をみていくと、病院内に調剤薬局があるだけでなく、売店があったり、昼食を取ることもできたりと、現在の総合病院と同じような機能を有している様子がみえて面白い。

最後には「産婆養成所」も設置されることが書いてあるが、これはのちに「助産婦学校」となり、今では「助産師」と資格の名を変えて、病院と同様、現在まで歴史が続いている。



posted by 0engosaku0 at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月12日

北海道歴天日誌 その231(1921年11月5日)鉄道をめぐる喜びと悲しみの交錯

1921年(大正10年)11月5日。
この日は駅をめぐる、ひとつの喜びと、ひとつの悲しみが交錯した日である。

まず喜びであるが、これは増毛町にもたらされた。
深川と留萌を結んでいた官営鉄道留萌線が、この日より増毛へ延伸し、開業したのである。

19211105天気図.jpg
▲11月5日正午の天気図 (『天気図』大正10年11月,中央気象台,1921-11. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この日は、発達した低気圧が千島の東にあり、中国・華中には高気圧がある。
典型的な冬型の気圧配置となり、北海道は低気圧が抜けたてということもあって、全道的に北寄りの風が強く吹いた。
内陸の旭川でも、午前6時は風速7m/sとやや強い風が吹いているし、根室は20m/s近い強風、網走も15m/sを超える強風を記録している。

この日の天候と同様、増毛への鉄道の延伸は苦労の連続であった。

戦前の北海道を代表的な衆議院議員である、東武(あずま・たけし)の言葉を聞いてみよう。

増毛線の開通まで

・・・増毛町程 熱心に忍耐に 苦酸を甞めたものは、他に例が無い。
ちょうど、増毛鉄道は、斯の運動を継続したこと、驚く勿れ 十有九年と云ふ 長い年月を経過して居る

増毛は今の留萌鉄道を増毛に延くと云ふので、明治三十八、九年頃、技師を雇ひて、深川増毛間の国境を踏査し、留萌と競争をした
鉄道で破れて、今度は築港で大競争をした。

想ひ起せば 今はとうの昔であるが、留萌と増毛は、第三十八議会の頃 大挙中央に出て、各党派の幹部や議員や新聞記者に取り入り、多額な費用を捨て、各々勢力引入れ策に腐心し、一時 帝国議会内には 留萌派、増毛派と云ふものが出来た位で、内地人で北海道を知らないものでも 留萌と増毛との名を知らないものは無い位であった。

其れも 留萌 増毛が読み悪(にく)いので、増毛はますも 留萌はとめもゑ などと云って通ったものであった
今から思へば滑稽な事が多い。

増毛町は再び築港運動で、留萌に敗れ、更に鉄道運動に着手したが、ドウモ気運が増毛に注がない
町では多額の運動費を醵出(きょしゅつ)して最早、刀折れ、矢尽きて 手も足も出ない。

先達者は町のものより 出来もしない運動を継続して、費用ばかり掛かる、畢竟(ひっきょう)彼等上京運動者が、町を、喰物にするなどの非難が群起して、何とも方法が付かない迄惨敗した。

然れども、町の先覚者は、百折不撓の精神にて、飽迄 素志を貫徹しなければ止まぬとの決心の下に、絶えず運動を継続した。

最も悲惨なのは蓮門教会時代で、モウ 金も無ければ同情も無く、宿屋に泊まることも出来ないので、上京委員の加納君や岩田正蔵君、由渡君など宿屋を引払って、芝の愛宕山下の蓮門教会の一室を借りて、自炊生活を為して、半永久的な運動を継続した。

妙なもので、さうなると、又 同情が起って来る
増毛の運動は、衆議院よりは貴族院の方が多大の同情を奇興すると云ふ面白い現象が起った。

吾輩抔(など) 北海道選出の代議士が、却て、他府県の代議士や貴族院議員などから突かれるようになった。

吾輩等の顔を見るごとに『君 増毛だけは早く何とか解決して遣り給へ』抔 勧告さるるやうになった。

同情が基礎で追々 官憲側も何とか鳬(けり)を付けなければならぬことになり、再三再四の請願や建議の後、とうとう最後の目的を達して、第三十九議会に於て無事両院を通過し、芽出度く 茲に開通の式典を挙ぐることになった。

思へば 実に此間の苦辛経験は、其衝に当たったものでなければ、何人も想像の出来ないことである。

・・・

増毛町民諸君は鉄道利用に就て、一層業心一和を要望して止まないものである。
(1921年:大正10年11月5日付 北海タイムスより)


増毛は、留萌との間で、まず、鉄道整備について争って破れ、次に築港整備について争って破れ、そして留萌まで伸びた鉄路をなんとか増毛まで引いて欲しいと運動を続け、その年月なんと19年ということである。

町の先人たちの粘り強い運動が、最終的に代議士や貴族院議員の「同情」を呼び、増毛に鉄道が延びることとなったのだ。

東代議士が「加納君」というのは、のちの増毛町長・加納宇平であるが、そこまでして増毛に鉄道を引く理由としては、増毛の海産物であるマガレイを例にあげ、これを留萌に持って行くには当時は片道50銭。これが鉄道になると2銭で足りる。ということで、輸送費の低下と鮮度の保持、出荷のスピードアップなど、鉄道があることで増毛はさらに栄えるからと語っている。

19211105増毛町.jpg
▲大正10年当時の増毛町の様子

この増毛線は、1917年(大正6年)に工事に着手し、1918年(大正8年)には完成させる計画だった。
しかし、この工事もまた困難の連続であり、開業までさらに3年がかかる結果となる。

最大の理由は路線となる土地の買収が難航したことである。

留萌から増毛にかけては、沿岸に狭い平地があり、後ろは丘と山が迫る。
このため、線路は沿岸の狭い平地に引くしかないのだが、そこは全てニシンなどの干場となっていたので、苦情が絶えなかったのだ。
特に増毛駅は、もっとも大きな干場だったため、土地の確保はなかなか苦労したようである。

また、橋梁が多かったり、海に近い所では護岸のための石垣も積まなければならなかったため、工事費も高額で、1マイルあたり19万円と、同時期に開業している根室線の4倍近くにのぼっている。

こうしてやってきた、念願の鉄道開通・開業日である11月5日。荒天を何のその、留萌駅を出発した6両の客車は来賓客を満載し、同日開業の礼受駅、舎熊駅を通過。増毛駅へと向かった。

午前10時、列車は増毛駅に到着。
小学校の生徒が国旗を手にして大いに歓迎し、また、花火が間断なく打ち揚げられて祝意が示された。

その後、午前11時から増毛小学校で200人余による祝賀式が開催、祝賀の宴が催された。

この間、学生は旗行列を行い、特に増毛の青年たちは仮装行列を行ったという。
増毛は、夜にかけても賑わったのであった。

さて、この日、増毛と鉄道でつながった日本の中心・東京駅。
ここで午後7時25分、内閣総理大臣たる原敬が暗殺されたのである。

19211106原首相暗殺.jpg
▲原首相暗殺を報じる記事(1921年:大正10年11月6日付 北海タイムス)

7時20分、東京駅に車で到着した原首相は、駅長室で約5分間、大臣などと談話を交わしたあと、東京駅の高橋駅長の先導で、午後7時半発の神戸行き急行に乗り込むべく、ホームへ向かって歩み出した。

ここに五分刈りの若い男が短刀を持って飛び込み、原首相の右胸を深く刺したのである。

首相は刺されて倒れ、たちまち意識不明となり、まわりが「総裁」と声をかけるも、一言も発することができなくなった。
すぐに駅長室に運び込んだが、集まった医師は内科医ばかりでまともな処置はできず、担架で自宅に運び込まれたものの、死亡が確認されたのであった。

犯人は鉄道員で、東京・大塚駅の転徹手、中岡良一である。

翌6日午後9時30分頃、十勝・帯広駅から1町のところの線路で、貨物列車に飛び込んで自殺した男がいた。
函館生まれのこの男は、自分の写真に「原敬氏に殉死す」と遺書し、飛び込んでいったのであった。
posted by 0engosaku0 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月11日

北海道歴天日誌 その230(1921年11月4日)龍華丸の悲劇と北海道の気象観測の充実

1921年(大正10年)11月3日。
この日、日本海に進んだ低気圧は動きが遅くなり、急速に発達した。

19211103天気図.jpg
▲11月3日21時の天気図 (『天気図』大正10年11月,中央気象台,1921-11. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

低気圧の前面の北海道は東から南東の風に乗って、暖かく湿った空気が流れ込み、道央方面では3日夜から4日明け方にかけて雷を伴った雨となった。札幌の記録では。3日20時過ぎに電光、23時頃から4日4時過ぎまで断続的に電光、雷鳴、雷電が観測されている。

北大演習林に落雷

【四日苫小牧電話】苫小牧町附近は三日午後十一時頃より本朝に掛け 近来稀有の強風豪雨と雷鳴甚だしく 今朝三時頃には応じ変電所より市内への送電線に故障を生じ 町内は 爲に全く暗黒となり 物凄き光景を呈し 屋根看板 窓硝子等の破壊は数十ヶ所に及び 損害多大なるべく

又 苫小牧町を去る一里半の北大農学部演習林苫小牧出張所構内測候所庭園前の櫻樹に 午前三時頃落雷 附近の建物は爲に震動甚だしかりし

尚 同樹は直径一尺七寸余の大樹にて 地上より八尺の箇所より真二つに折れ 其の破片の大なるものは十間 小なる物は約五間内外に飛散せるが 幸 人畜 機械建造物等には何等の異状の無きを得たりと云ふが

落雷したる時の気象現象は 気圧七五〇ミリ 気温摂氏八、二度 風向東南 風速二六メートルにありき

右に就き 谷本助教授の談に依れば 今時分 斯る強き雷鳴あることは 当所開設以来始めての事にして 奇異なる現象なりと
(1921年:大正10年11月5日付 北海タイムスより)


北大の苫小牧演習林は、今では「苫小牧研究林」といい、苫小牧の市街地東部を流れる幌内川の中流に広がっている。
1904年(明治37年)に国有林を所管替えして発足したので、この時点では17年が経過したところ。
広さは2700haというから、エスコン北海道でいえば、540個分という広大さがある。

記事では、ここで「測候所」を建てて気象観測をしていることが記載されている。気象関係者にはあまり有名ではないので、ここで取ったデータは北大の一部の研究者だけが見られるかどうかといったものなのだろう。

同時刻の札幌測候所の気温が8.8℃、気圧は751.3mmHgで、苫小牧と似たような感じであるのだが、風速だけが決定的に違い、札幌は7m/s程度である。苫小牧の「26メートル」はかなり過大で、こんな風が吹いていたなら、雷ではなく風で桜の木が折れてしまいかねない。

ところで、落雷で苫小牧の桜の木を折った低気圧は、4日も北海道の西で動きが遅く、北海道は東寄りの風の強い状態が長く続いた。
この荒れた天気は、新たな悲劇を生む。

東京の汽船「龍華丸」が、北海道に来航。木材を積み取るため、小樽から宗谷岬をまわって雄武に来ていたのであるが、嵐からの避難中、時化のため機関故障を起こし、猿払村の鬼志別沖合まで流されて岩石に衝突、壊れて沈没してしまった。

この船には34名の乗組員がいたのだが、全員が犠牲となった。

怒濤に呑まれる龍華丸の船員

宗谷沖に於ける龍華丸遭難は既報の通りであるが 其の後 達した詳報に依れば 乗組員 船長中元氏以下三十四名 悉く溺死せる事が明らかにされた

同船は二日朝 規定船員廿名以外に木材積込のため 十四人の人夫を乗せて小樽を出港し 北見国雄武に着いたが 名に負う北海の風が吹荒む上に 北見海岸には入江がないので 万一を慮って 五日未明 避難の目的で同港を出で 鬼志別沖合一海里の處に差掛った 折柄 暗礁に乗り上てしまったのである

浸水のため 岸辺に向って進まんとしたが 此辺一帯は遠浅なので 途中擱座(かくざ)し 船体は砕壊し 遂に乗員三十四名の全滅を見るに至ったのである

附近の漁夫 総出で溺死体の収拾に努力中であるが 七日夕迄には船長東京市月島東仲通り九の七 中元高市(三五)一等運転士 函館旅籠町六 稲利某(四〇) 機関長 石川県羽咋郡粟保村 坂下市太郎(三四)等 廿名は発見された

之に就いて 阿部回漕店員は語る

「何分 不便な土地柄 故 跡始末にしろ前後策にしろ容易でない
三十五名の全滅といふ事は珍らしい大事件である
遺族の方々にも何とか慰謝の途を講ずる考へであるが 主人は今 神戸に旅行中で 殊に三津商会に契約中なるものですから・・・云々」と、

尚 中元船長は平素 仲間でも驚嘆の的となってゐる程の 大胆な冒険家であるといふ
(1921年:大正10年11月12日付 北海タイムス)


冬に向かう北海道の海は荒れやすくて危険である。このため、北前船も冬には北海道には来なかったのであるが、技術の発達は年間を通じた船の航行を可能とはしていた。とはいえ、大シケの海を航行できる船は限られる。

汽船「龍華丸」は時化から逃れるために出航し、時化によって遭難した。
減らない海難に、天気予報の充実が求められたのであるが、この記事と並んで、気象観測の充実に関する記事がみえる。

札幌と旭川の空に 近く測風気球飛ばん

本道の気象観測網も明年頃には多少面目を革(あらた)め得ようと期待されている
道内測候所は函館、寿都、札幌、旭川、帯広、釧路、根室、網走、紗那と今年一月開始した羽幌測候所あり

昨年の同会にて予算通過した室蘭測候所もいよいよ明年から開設され 多年懸案の 上層気流の測風気球も札幌と旭川の空に飛ぶであらう

器械の一部分は 既に札幌に着いた筈
測風気球の設備は 本道は勿論 内地にも未だ無い
内地師団の大演習に二、三回試みたことあったが 設備は確に完全ではなかった

測風気球は天気予報の基礎をなし 暴風警報には至便此上もない 軍事上から云っても飛行機、飛行船の飛翔と上層気流の関係は至密なるものがあり 旭川地方のごとき気流の複雑して居る 盆地の観測には非常な利便がある

亦 明年からは逓信省の許可だにあらば 神戸の海洋気象台から航路保安の爲め 各艦船に時刻の無線報告が実現され 或は 同時に測候所も此恩恵に浴す事となるかも知れぬと 輝かしい希望を抱いて居る

因みに 旭川測候所の昇格問題も久しいが 上川方面では明年辺りから実現されことを 切に望んで居る

尚 数年来 北見の稚内と利尻、礼文と激烈な競争を為し 引っ張り凧となってゐる測候所の新設も 近く 何れとも目鼻が付くだらうとの噂である
(1921年:大正10年11月12日 北海タイムスより)


記事をみると、来年にもかなりの部分で気象観測が充実・・という感じである。
まず、室蘭測候所の開設であるが、これは1年遅れで、1923年(大正12年)1月1日の業務開始となった。

次に、稚内と利尻、礼文の綱引きとなっていた道北の測候所。
実はこの1921年までは宗谷岬に測候所があったのだが、12月末日で廃止となる。このため、代わりにどこか・・・ということなのであるが、羽幌が先にできていたことや、宗谷海峡は北岸となる樺太・亜庭湾の大泊に既に測候所もあったことが理由となったか、なかなか測候所は新設されず、最終的に稚内に測候所ができたのは1938年(昭和13年)まで遅れることとなった。

そして気球による高層の風の観測である。

札幌管区気象台のホームページでは、高層気象観測は1940年(昭和15年)2月10日開始とあるので、それまでは器械はあってもテスト程度で、実現しなかった・・・と思いきや、この大正10年11月から「高層風観測」という形で観測が始まっている。

日本ではこの前の年、1920年に高層気象台が設立され、1921年4月から茨城県の館野で小型気球と測風経緯儀による上層風の観測が開始された。

館野と同じような観測は、1921年10月に福岡でも始まり、次いで11月28日に札幌でも始まった。
この頃の観測方法は、水素ガスを充てんした小型のゴム気球を空に飛ばし、測風経緯儀で追跡しながら上空の風向・風速をあとで計算・観測するというやり方で「パイボール観測」という。

このようにして、少しずつではあるが、北海道の気象観測は充実していくこととなる。

なお、記事には「旭川」の文字もみえるが、旭川での観測は今に至るまで実現していない。気象衛星による観測や数値予報が発達したいまとなっては、旭川の空を観測気球が飛ぶことは、もうなさそうである・・・。
posted by 0engosaku0 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月07日

北海道歴天日誌 その229(1921年10月23日)札幌出身のタイピストが外務省へ抜擢

1921年(大正10年)10月23日。
今回は、この日の天気図から。

19211023天気図.jpg
▲正午の天気図 (『天気図』大正10年10月,中央気象台,1921-10. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

千島北部に低気圧、一方、黄河の上流には高気圧がある。北海道付近は弱いが”冬型の気圧配置”となった。
寒気が入り、最低気温は旭川で0.7℃、札幌は1.6℃を記録。

特に、旭川は明け方から冷たい雨が降っていたが、午前7時19分に雪がまじり、みぞれを観測して初雪となった。
その後、7時25分に雪となったが、7時30分にみぞれに戻り、7時35分には雨となった。
このため、この日、初雪を目撃するチャンスはわずかに16分間。何人の旭川市民が雪を見ただろうか。

この初雪から一週間近く前、10月17日の未明。旭川近郊の東川村で一家七人無理心中の惨事が発生。
1895年(明治28年)に群馬から移住し、開拓農家としてそれなりの成功をおさめていたのだが、肥料の代金の支払いに窮し、9月末までに返済ができなければ田畑・家屋を取られるという状況から、将来を悲観しての心中事件と報じられた。

暗い事件は旭川だけではなく、夕張でも。

10月23日、気圧配置からは夕張でも初雪が舞った可能性があるのだが、地下の炭坑戦士たちは天気に関係ない労働を続けていたであろう。
この日の午前10時10分ごろ、北炭若鍋炭坑がまたもガス爆発事故を起こした。
日曜日だったため、入坑していた作業員は少なかった物の、1名が即死、4名が行方不明となったのであった。

悪いニュースばかりではない。
札幌出身のタイピストが大活躍・大出世した話が報じられている。

国際条約文を整理する 札幌出身の文子さん

九日 横浜の基督教青年会で催した京浜タイピストのチャンピオン協議会に於て 一分間六十八単語を難なく打上 其の優秀な技術を認められて 外務省国際平和条約文を整理する女子タイピストに抜擢された三枝文子さん(一九)は 札幌の出身で 大正四年の春 北九条小学校の尋常科を卒へると同時に 北星女学校に入学したが その翌年 それまで札幌郵便局に勤務していた実父 磯次郎氏が東京へ転住する事になったので、 文子さんは身寄りである大下吉右衛門方に寄寓して 通学してゐたが 大正六年の春 三年級に進むと同時に退学し 一家の後を追ふて上京した

文子さんには二人の兄 一人の姉 二人の弟の五人の兄弟があり その頃 家政が豊でなかった處から 苦学のやうにして学修した英語を生かして行きたい希望から 東京有楽町の外語協会学校で一心不乱にタイプライターを習得し 銀座のある外国貿易商会に就職した

その後も母校で英語を習っていた處が 今後漸く その天才的技術を認められるに至ったのである

普通 一分間 五十五語位を打てば 一人前のタイピストといへるさうであるが 文子さんは平常の時だと九十単語をうちこなすさうである

この天才的タイピストの在学当時に就き 北星女学校某教諭は「三枝さんは至って従順な少女で 学科は之といって優れたものもなく 中位の出来でした」と語り 大下氏を訪ふと「文子さんは一箇年間位 私の家に居ましたが なかなかの勉強家でおとなしい子でした 姉さんは旭川高等女学校の先生の許へ嫁入ってゐます」云々と語った。
(1921年:大正10年10月24日付 北海タイムスより)


三枝文子さんについては、翌1922年(大正11年)の12月に外務省で開催されたタイピスト競技で、破格の成績を挙げ、当時の内田外相から賞品を授与されたという記録がある。

外務省のタイピストは当時、女子76人、男子9人という構成であり、女性の社会進出の中ではひとつの花形の職場であった。
三枝さんの消息は、その後はよくわからない。結婚して退職したのかもしれないし、1923年の震災の災禍に巻き込まれたのかもしれない。

このほかの話題として、10月22日、野付牛町(現・北見市)では「忠魂碑」が完成し、除幕式と招魂祭が執り行われた。
第七師団の内野師団長をはじめ、軍の将校、町の役人、在郷軍人などが参加。
余興の餅撒きや撃剣、相撲も行われ、近郊からの見物人も含めて、一万人も集まったとか。

19211023野付牛忠魂碑.jpg
▲忠魂碑除幕式の様子(1921年:大正10年10月24日付 北海タイムスより)

さまざまな話題を織り込みながら、1921年の北海道は、秋から冬へと向かって進んでいく。
posted by 0engosaku0 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月06日

北海道歴天日誌 その228(1921年10月8日)小樽で大乱闘!赤と青の乗合自動車

北海道運輸局では、北海道内の自動車保有車両が何台あるのか、毎月統計を発表している。

直近は2024年(令和6年)8月末のデータであるが、乗用や貨物用、乗合用などすべて合わせて244万7269台である。
このほかに、自動二輪(バイク)が約7万台、軽自動車が約121万台あり、これらも足し合わせると、373万696台となる。昨年よりはわずかに減っているようだ。

今回は、大正時代の北海道の自動車事情を知る事のできるこちらの記事から読んでいく。

本道各地には 自動車逐年増加

本道拓殖の事績と共に 交通機関の発達著しく、自動車の如き亦 全道を通じて漸く普からんとす
抑も自動車の本道へ始めて輸入されたるは 大正三年七月 函館区に於て 米国領事館へ乗用自動車(瓦斯倫動力)一臺を輸入したるを嚆矢とし、

次いで同年八月 根室町 大澤瀧三郎は運輸業の許可を受け 乗客用一臺を購入せり
越えて同五年五月 旭川区 槇荘治郎は乗客用一臺、六月 札幌区小田良治は自家用として瓦斯倫一臺を備へたり
同年十一月 丸井今井呉服店 貨物用自動車を備へ 札幌区の自動車は 当時 恰も 営業広告の観を呈せり

翌六年に至り 小樽区 五十嵐要 札幌郡琴似村 鈴木重慶 函館区 松本喜一郎 生約太一郎 勝田轍三 静内郡静内村 伊勢一郎等は 個人として運輸営業の許可を受け 乗客の便に供し後 株式会社起り 更に函館今井合名会社 室蘭日本製鋼所等 乗客用を備へ 送迎に供し 七年に至り営業者全道を通して四名を増加したり

然るに 大正八年一月 内務省は自動車取締令を発布し 道庁に於ても大正三年 庁令自動車取締規則を廃止し 同取締令施行細則を定め 之が取締を為し 危険予防に努めつつあり

八年末には営業者三十四 営業用自動車数五十七臺(内貨物十) 自家用八臺(内乗客用四臺)(貨物用四臺)に至れり

斯くの如く自動車は 漸次 年を逐(お)ふて各地に増加したるため 之に伴ふ其の事故も亦 少なからず
大正九年 道庁は 技手一名を当 専ら自動車の原動機其の他技術に関する調査に従事せしめたり
尚 同年中 新営業許可者二十八名 廃業五名あり
営業経営困難と認め 取消処分を為したる者三名にして 現在は営業数五十四(乗客四十臺)(貨物八) 尚 出願中のもの二名あり

自動車の総数は九十四台(内 乗客用八十五臺)貨物用九臺
運転手は大正八年 甲種六十八人 乙種九名 大正九年末現在 甲種百九人 乙種二十七人 計百三十六人を算するに至れり

其他 函館消防組は自動車ポンプ一臺及 水管自動車三臺を備へ 消防の威力を増せり、
自動車は運輸機関として将来益々増加利用せらるは想像に難からず 今回 内務省は道路取締令を発布し 自動車の重量を十四百貫に制限し 道路保護の条件を附せり
(1921年:大正10年1月11日付 北海タイムスより)


1920年(大正9年)の段階では、北海道の自動車は全部で94台である。
先の記事では札幌に来た原敬首相は、自動車であちこち移動しているが、札幌にあった貴重な自動車の1台を使ったものであろう。

自動車は少ないが、記事には「事故もまた少なからず」と書いている。運転免許も札幌・円山公園をぐるっと回ってきたら合格と言われたという時代である。記事にある旭川区の槇氏が所有する自動車は、1917年(大正6年)6月に死亡事故を起こしている。

19170623旭川の自動車事故.jpg
▲旭川区の自動車による死亡事故発生を知らせる記事(1917年:大正6年6月23日付 北海タイムスより)

そして1921年(大正10年)の10月には、小樽で4人が重軽傷を負う自動車事故が発生した。

小樽乗合自動車 四名の男女に重傷

道路狭隘 交通頻繁たる小樽区内には 最近 普通自動車 乗合自動車等 著しき増加を見たる為 交通上少からざる危険を感ずるに至ったが 昨七日朝 遂に小樽乗合自動車会社所属の自動車が一挙四名の男女を傷つけた

即ち 同日午前九時三十分頃 同会社 北二十四号自動車が 運転手見習いの井狩武雄(二二) 同杉村惣松(一九)の両名が運転して 小樽駅前を発し 乗客二名を乗せ 中央通を色内町方面に向って進行中 鉄道線路側 丸菊牛肉店前に差しかかりたる際 前方より進行し来りたる自動車を除けんとして右方に進路を取ったが 技術未熟練の結果が 咄嗟の場合狼狽した為か 丸菊牛肉店角にあった電柱に衝突したが 其際 通行中の中央通 加賀屋旅館に止宿中の 樺太真岡の木材商 大場安次郎(三三)を跳ね飛ばして右足を骨折した上 折柄 前記の電柱に身を避けつつあった 稲穂町東六丁目四番地 関次郎母 館山ナヲ(七二)同老婆に背負われて居た孫の武(四つ)及 静枝(六つ)は 電柱と自動車の間に差し挟まれて重傷を負ふに至ったので 直に第一火防線 鎌倉病院に収容 緊急の治療を施した

老婆ナヲは頭部及び腹部に重傷を負ふた爲 生命覚束なかるべく
静枝は自動車が電柱に衝突の際 機関破壊し 逆出したる熱湯を浴びて 腹部両股殆ど全身に火傷を負 或ひは左足に擦過傷を負ふたが 静枝は化膿せざる限り 二 三週間にして全治し 武は十日位にて全治するであろうと

小樽乗合自動車の成立せるに対して 最近 又 市街乗合自動車会社の開業するあり
爲に両者の使用人まで競争の意気込みとなり 互いに抜きつ抜かれつ 先を争ふて疾走する状態であるので 乗客は 爲に何時も不安にかられつつ乗車し居る場合が多い

多数の人命を預かって居る責任を想ふて 自重する必要があらう
(1921年:大正10年10月8日付 北海タイムスより)


小樽駅を出て、運河方向にまっすぐのびる道路。これが「中央通」である。色内(いろない)は運河沿いに広がる地域。
大正の当時は、運河に出るまでに国鉄・手宮線を越える必要があった。記事に「線路側」とある丸菊牛肉店は、中央通と手宮線が交差する場所の近くにあったと思われる。

今でいえば、日本の車は左側通行。前から車が来たら左に除けるのが普通なのだが、記事によると「右側に避けようとした」とあるから、道路の真ん中を走っていて、たまたま車が避けられそうなのが右側だったという感じなのだろう。


▲現在の小樽市中央通・手宮線との交差付近

この日の北海道は、大陸から進んで来る移動性高気圧に覆われたため、全道的によく晴れた。
小樽も、もちろん秋晴れの朝である。車も気持ちよく小樽駅を出発したのだろうが、大事故を引き起こしてしまった。

さて、記事の中には小樽ではこの頃二つの乗合自動車会社の競争が激化している様子が触れられている。この競争が「荒い運転」にもつながっていたようで、事故はいつか起きるのではないかと。その予感は当たる形となったのだが、自動車会社同士の競争は、”殴り込み”の抗争へとエスカレートしていく。

小樽赤青両自動車組合 運転手等の大乱闘

小樽乗合組合自動車会社 赤青の両社は 営業上競争的立場にある處から 延(ひ)いて両社の使用人間まで此勢ひを助長するに至り 往々運転上にまで敵愾的態度を採るの結果 お蔭で生憎乗合せたる客をして 心胆を寒からしめる場合に遭遇する事があるが 遂に此の敵愾心が爆発し 阿修羅場を演じた

二十一日の夜十一時過 新富町演徳寺前の終点に赤自動車の運転手 藤田巌(二八)が客待し居る處へ 折柄青自動車が停車したので 藤田が青自動車運転手の平野義孝(十九)に対して お前の方の眼鏡をかけた運転手は生意気な奴だなと悪罵したのが始まりで

両人喧嘩を為し居る處へ 恰度 赤自動車二台が来合せ 藤田に加勢して 平野を散々に袋叩きにしたが 衆寡敵せず 平野は恨みをうんで其場を立去り帰社し 其事を仲間に告げたので 一同憤慨し 終業するを待ち 茲に二十余名一団となって稲穂町東三丁目の赤自動車会社に押寄せ 双方入り乱れての一大乱闘を演出した

急報に依りて警察署から係官現場に出張し 一旦之を鎮撫し 赤自動車組より 藤田巌、佐々木元吉(二一)、岩本仲(二三)、名田輿三治(一九)の四名、青組から山本邦太郎(三一)濱中一知(二三)佐々木敬冶(一九)倉持慶三郎(二五)杉村惣松(一九)山本喜太郎(二五)平野義孝(一九)事務員田端栄太郎(三二)外数名を引致し 目下取り調べ中であるが

其の結果 紅組の運転手 藤田巌、名田輿三治、青組運転手濱中一知、佐々木敬冶、倉持慶五郎の五名は 孰れも十日以上を要する傷害を蒙った
(1921年:大正10年10月25日付 北海タイムスより)


この記事には少し説明が必要である。
小樽には、この年の6月に小樽乗合自動車会社が出来て、T型フォード5台での乗合自動車、今でいうバス事業を開始した。
このT型フォードの車体は青い色だったため、小樽区民には「青組(青バス)」と呼ばれた。

一方、9月に小樽市街自動車会社が出来て、これまたT型フォードの改造バス8台で乗合自動車業務を開始した。こちらの車両は赤褐色だったので、小樽区民には「赤組(赤バス)」と呼ばれたのである。

この両者の対抗意識は相当なものであり、それは記事からも伺える。

殴り込みにいって引致された青自動車のメンバーの中に、10月8日に事故を起こした平野と杉村の名前も見える。これはもう、全く反省していない。

なお、この赤・青両会社は、小樽警察署の指導などもあり、翌年に統合することとなる。そして、戦時中の道内バスの統合の際に、北海道中央バスの中核として統合され、今に至るのであった。
posted by 0engosaku0 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする