寒いといっても色々尺度があるのだが、まず、札幌では、元日から月末の31日まで、すべての日が真冬日である。
つまり、プラスとなった日が一日もない。
最低気温も−10℃以下となった日が29日間ある。逆に言えば、氷点下一桁台の冷え込みにとどまったのは、わずか2日間しかないのだ。
元日から15日連続−10℃以下の日が続く。そして1月17日からの三日間は−20℃以下の冷え込みが続いた。
最も気温が下がったのは1月18日で最低気温は−27.0℃。現時点でも観測史上2位となる厳しい冷え込みであり、これを更新するような冷え込みはポールシフトで北海道が北極にでもならないと出現しないのではないかというほどの寒さであった。
今回は、これほどの酷寒続きになるとは、まだ誰も知らない1月4日の北海道の話。
まず天気図から。

▲1月4日正午の天気図 『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより
北海道付近は西高東低の強い冬型の気圧配置となっている。ただ、北海道の等圧線は北東から南西方向へナナメに走っていて、北寄りの風が吹きやすい形。このような形になると、日本海側の内陸や太平洋側は雪は降りにくい。
この日、札幌は朝から快晴で、最低気温は−16.6℃まで下がったが、最高気温は−1.3℃。朝と昼の温度差が大きくなった。
旭川は最低気温が-24.2℃まで下がり、最高気温は−11.2℃までしか上がらなかった。川霧がたちこめたせいか、天気は朝晩「霧」で昼間は晴れとなっている。
道東の釧路は曇りのち晴れの天気であったが、最低気温は−12.5℃できっちり冷え込んでいる。最高気温は−2.3℃。釧路もこの年の1月はすべての日で真冬日となった。
いま天気を紹介した3つの町では、この日、それぞれ出初式が行われている。

▲札幌の出初式の様子
雪晴れの消防出初
札幌公設消防組出初式は 吉例に依り 四日午前十時より 札幌警察署前にて挙行されたるが 此日 雪晴れ好日和とて 見物人も同署前道路 両側に蝟集し 時ならぬ雑踏を呈したり
本社前には三台の蒸気ポンプ及び同署前より西方に各消防組は第一部より建制順序にて 二列横隊に整列し 注連飾りの長鳶口に新しき紺法被を着せる消防組員二百八十七名は 定刻 井山警察署長の先導にて 今村警察部長代理・・警視 福田保安課長等の姿勢、被服、機械、器具の点検を受け終はり
梯子乗の妙技は 各組気負の若手に依り演ぜられ 夫より 全員警察署内に参集し 井山署長が恭しく 戊申詔書 を拝読せる後 左記勤続者に表彰状を授与し ・・警視 井山署長の訓示あり
来賓を代表して 前田区助役祝辞を述べ 最後に向井組頭一同を代表して答辞を述べ 閉式せるが 終了後更に同署訓示室にて 火災予防組合長の表彰式あり
式順序は前記消防組員表彰状授与式と同じく 阿由葉火災予防連合組合長の祝辞ありて終る
尚 午後一時より 劇場西田座に於て 組員前部の懇親宴を開催せりと
(1922年:大正11年1月5日付 北海タイムスより)
上の写真は当日の出初式の様子だが、穏やかな雪晴れながら、厳しい寒さの中、白い息を吐きながら消防組員が整列し、出初式が進む様子が目に浮かぶ。
100年経ったが、現在も出初式は同じような流れの所が多い。入場して整列して、器具などを点検し、挨拶があり、はしご乗りをやって、表彰・・・といった感じか。
それにしても、−10℃前後の中、外でじっとして話を聞くというのはなかなか辛い。この年の出初式出席者は各地とも一段と寒さが辛かったのではないかと想像できる。
そんな中、釧路の出初式では大きな事故が発生してしまう。

▲釧路の出初式で梯子に乗る消防組員(1922年:大正11年1月7日付 北海タイムスより)
釧路では1月4日の午前7時。凍てつく街に警鐘が鳴り響き、消防組員が各自の番屋前に集合。8時にあわせて釧路署前の広場に集まった。
そして、9時から服装・器具・機械の点検が行われ、釧路消防組”独特”とされる登梯式となった。
群集の大喝采の中、上の写真のように釧路消防組の組員の妙技が披露されていたのであるが、中村五三郎さんがハシゴから転落し、亡くなってしまったのである。
ハレの出初式での死亡事故。このような事故が起きたことがあったとは・・・。
中村さんの葬儀は、1月7日、釧路消防組主催で行われた。
釧路の消防士たちは、中村さんの死を悼み、翌年、春採公園の入り口に殉職碑を建てる。
この殉職碑は、今は鶴ヶ岱公園に建立されている。