この日、一人の女の子が津軽海峡で誕生した。

▲西村比羅子さんの誕生(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムスより)
記事にあるとおり、山形から空知の由仁へ戻る途中の西村カネさんが、青函連絡船の船中で女の子を産んだのである。
この子が後の・・・ということは一切無いようではあるが、この時代はしばしば、連絡船の中での出産がニュースとなってとりあげられる。
「比羅夫丸」で誕生したので、船の名前をとって”比羅子”と名前がついたようである。

▲3月6日正午の天気図
この日の気圧配置は西高東低の冬型の気圧配置。この時期としてはよくある天気図で、津軽海峡は波もやや高かったであろう。
揺れる船の中での分娩にも苦労があったかもしれない。
船が着いた函館は晴れ昼過ぎ一時雪の天気で、積雪は5センチ。比羅子ちゃんの目には雪景色が映ったことだろう。
産まれる命がある一方、産まれることができなかった命もある。
当時の北海道は、ある事件でもちきりであった。
舎監堕胎事件 小樽実科高女の教師
小樽区 私立実科高等女学校(元実践女学校)舎監、教師 佐藤イマ子(二五)は 堕胎被告事件の嫌疑で 去る二十八日 小樽警察署に引致され 爾来 厳重取調を受けつつあるが 一方 イマ子が住居し居たる 同学校内舎監内の家宅捜査を為すと共に 学校便所の糞便の汲取りを行ひ 彼の女の使用し居たる血塊附着し居る腰巻を押収して引揚げたが
尚 二日深更 同学校長にして区会議員である中谷宇吉氏を警察署に召喚 検事局より里美検事出張の上 厳重取調べを行ふた結果 如何なる供述を為したかは 区会議員たる地位と名誉を重んじて詳記する事を見合せ置く
尚同夜 婦人科専門の岡本病院長 岡本辰之輔氏を招き イマの身体検査を為す處があったが 同医師は 懐妊の徴候絶対に無しとの鑑定を下したが 更に他医師の鑑定を求むる筈
風紀頽廃(たいはい)驚くべし
イマ子は大正五年 実践女学校を卒業と同時に 直に母校の教師に就職して 自宅より通勤しつつあったが 一昨年の新学期より 前舎監の辞職の後を受けて舎監となり 現在の寄宿舎内に起臥する事となったものである
然るにイマの実妹は校費生として通校し居る位 実家も裕福でないから 従ってイマの服装等に於ても 推して知る事が出来るが 彼の女が舎監として寄宿舎に入りてからは 美衣粉黛(ふんたい)に身を飾って居た
然も三日と無く着替をする處から 薄給の身で好く贅沢が出来るものだと噂されたものだ
然るに昨年夏に至って 彼の女は婦人病にて岡本病院に入院 局部を手術した事があったので 口喧(やかま)しい女生徒等は結婚した事の無い者が手術する訳は無いだらうと 上級生間に於ては 校紀の腐敗を歎じて 改革を叫ぶ者が多かったが 決行するに至らなかった
其頃から イマ子と男との関係に就いて 一年生に至る迄 誰知らぬ者無きに至った
處が 彼女は旧臘十日 突然廊下に於て倒れ 其際 局部から出血して一週間臥床したが 其時は遂に医師の診察をも受けずに了った
彼女は他人に対して容態に就いては話されない事があると云ふて居た
此時は便所内に血が沢山あったとて 又々生徒間に喧しい噂を産んだ
此問題の為に 寄宿生は終業期をも待たずに続々と帰省せるを見ても 同校が如何に腐敗して居るかが知れる
冬期休暇が了って 一月始業と共に補習科及本科の女生徒は 餘に問題が喧しいので 校風革正の為に奮起する事となり ストライキを行ふと共に 中谷校長 並に佐藤イマ子に面接して 忠告を與へたさうだが 果たして当事者は如何なる態度を採らんとしたか
其内に其筋の探知する處となった結果 ここに活動を開始するに至ったのである
生徒間にはイマ子の居室の窓に 酸漿(ホオズキ)の乾してあるのを見た者があると噂されて居る
果して彼女は堕胎したか 其筋の取調べの進捗を待って更に報道しやう
(1922年:大正11年3月4日付 北海タイムスより)
今は使わない言葉もあるので、多少解説が必要だが、「舎監(しゃかん)」というのは、寄宿舎で、寄宿している学生・生徒の生活指導や監督をする人のこと。また、「堕胎」というのは人工妊娠中絶のこと。
つまり、小樽の実科高等女学校の寄宿舎の監督をしている女性教師が、堕胎罪で警察につかまったというニュースである。
今の世では、望まない妊娠の中絶は医療行為として普通に行われている印象があるが、現在は法律で妊娠22週未満であれば中絶が認められているからであり、現代も「堕胎」は実は犯罪である。妊娠中の女子が薬物などで堕胎する犯罪は刑法で「自己堕胎罪」として規定されており、1年未満の懲役という刑罰もある。
堕胎方法としてカギとなるのが「ホオズキ」である。観賞用のホオズキは根に毒があり、子宮収縮の作用があるとのことで、江戸時代から長く”堕胎薬”として大正時代もよく知られていたようである。
なお、堕胎罪は、妊娠していた女性の犯罪であり、妊娠させた男性は罪に問われない。(今も)
このため、この事件では女性教師は逮捕されたが、相手の男性は逮捕されていない。
そして記事には相手の男性を窺わせる内容の記載がある。当時、校長を務めていた小樽の名士・中谷宇吉氏である。
※名前は似ているが、人工雪で世界的に名を知られる中谷宇吉郎とは別人
徳島出身で明治に小樽に渡り、運漕業などで名を挙げ、道会の議員もつとめたという名士である。
この当時は50台半ば、前年の1921年(大正10年)に小樽実践女学校から小樽実科高等女学校となるタイミングで校長に就任していた。
小樽では知らぬ人がいないような名士が、校長と教師という立場を超えた関係となり、堕胎事件を引き起こしたということで、これは大スキャンダルである。
一度、生徒が騒いだ時に、医者から「イマ子は処女」との診断書を提出させて騒ぎを収めたのも、政治力を使ったのではないか・・・となり、これまた噂を呼んでいたのである。
舎監と校長の醜事
既報、小樽実科女学校舎監 佐藤イマ(二五)は小樽署に於て取調の結果 遂に堕胎罪として小樽監獄に収監され 愈々取調は里見検事の手に移ったが 本社の探知する處に依ると 相手の中谷宇吉も亦 不拘束の儘 同罪で事件のみ検事局に送付された模様である
イマの堕胎事件なるものが果たして事実とせば 相手の男に何等の相談なく独断で胎児を処置したとは誰しも首肯する能はざる處であらう
中谷校長とイマとは 九年六月以来 情交を継続し来ったが 昨年六月頃に至り イマが不義の胤を宿すに至ったが 其の処置に窮し 女小使の加藤フサ(六四)に事情を打明け 善後策を図った結果 奥澤町青物行商 稲村ヨシ(三五)より酸漿及び茎三本を買受け 之を以て堕胎を企てた者の如く 家宅捜索の結果 証拠物件は既に其の筋の手に押収されてある模様である
之に就いては 右の酸漿を供給した前記の青物商 稲村ヨシ並に被告イマも自白して居るが 唯小使の加藤フサのみは頗る強情で容易に事実を明かさないので 目下厳重取調中であるが
併し果たして酸漿を用いたものであるかは 尚 取調を要する處であらうが 同校生徒のストライキ事件の際 即ち 本年一月 佐藤イマに対し「処女に相違無 之 候」といふ證明書を與へたに就て非常に疑問の中心となって居るが それがあらぬか 五日夜 岡本病院長は其筋に出頭を命じられ 何事か取調を受けた模様である
(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムス)
佐藤イマ子は収監され、堕胎を自供し、裁判を待つ身となった。
しかし裁判は開かれなかった。
というのも、この事件は”起訴猶予”となったからである。
検察から、この事件の原因は校長の中谷宇吉にあるが、佐藤イマ子は中谷の身分を考慮して、すべて自分がやったこととして罪をかぶろうとしており、改悛の様子がみられる。また、中谷はイマ子に堕胎を奨めたという疑いを否認しているが、数日に亘り新聞に書かれて、道民に広く知られることにより、社会的制裁を受けてきた。このため両者とも起訴猶予の決定を為した、との発表が3月10日にあったのである。
中谷宇吉は別日の記事では「3月4日限りで校長の職を辞した」とあるが、実際のところは辞めなかったようで、現在の小樽双葉高(小樽実科高等女学校の後継)のホームページでは、校長の交代は「大正15年2月」となっているから、この事件のあとも4年、校長を続けたようである。
中谷が校長を続けられたのは、この事件が起訴猶予となったからであろうか。
一方、この事件のとばっちりを受けたのが一人。
イマ子を処女と診断した医師の岡本辰之輔である。
検察に、医師はあくまで診断書に正当を期すべきはずなのに、何等の診断もなく、警察にも処女云々とのウソの証明をしたということで、「看過する能はざる」として、医師法違反の罪で告発されてしまったのであった。