2024年11月30日

北海道歴天日誌 その245(1922年3月6日)小樽の名士にスキャンダル!小樽実科高女の舎監堕胎事件

1922年:大正11年3月6日。

この日、一人の女の子が津軽海峡で誕生した。

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▲西村比羅子さんの誕生(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムスより)

記事にあるとおり、山形から空知の由仁へ戻る途中の西村カネさんが、青函連絡船の船中で女の子を産んだのである。
この子が後の・・・ということは一切無いようではあるが、この時代はしばしば、連絡船の中での出産がニュースとなってとりあげられる。

「比羅夫丸」で誕生したので、船の名前をとって”比羅子”と名前がついたようである。

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▲3月6日正午の天気図

この日の気圧配置は西高東低の冬型の気圧配置。この時期としてはよくある天気図で、津軽海峡は波もやや高かったであろう。
揺れる船の中での分娩にも苦労があったかもしれない。

船が着いた函館は晴れ昼過ぎ一時雪の天気で、積雪は5センチ。比羅子ちゃんの目には雪景色が映ったことだろう。

産まれる命がある一方、産まれることができなかった命もある。
当時の北海道は、ある事件でもちきりであった。

舎監堕胎事件 小樽実科高女の教師

小樽区 私立実科高等女学校(元実践女学校)舎監、教師 佐藤イマ子(二五)は 堕胎被告事件の嫌疑で 去る二十八日 小樽警察署に引致され 爾来 厳重取調を受けつつあるが 一方 イマ子が住居し居たる 同学校内舎監内の家宅捜査を為すと共に 学校便所の糞便の汲取りを行ひ 彼の女の使用し居たる血塊附着し居る腰巻を押収して引揚げたが

尚 二日深更 同学校長にして区会議員である中谷宇吉氏を警察署に召喚 検事局より里美検事出張の上 厳重取調べを行ふた結果 如何なる供述を為したかは 区会議員たる地位と名誉を重んじて詳記する事を見合せ置く

尚同夜 婦人科専門の岡本病院長 岡本辰之輔氏を招き イマの身体検査を為す處があったが 同医師は 懐妊の徴候絶対に無しとの鑑定を下したが 更に他医師の鑑定を求むる筈

風紀頽廃(たいはい)驚くべし

イマ子は大正五年 実践女学校を卒業と同時に 直に母校の教師に就職して 自宅より通勤しつつあったが 一昨年の新学期より 前舎監の辞職の後を受けて舎監となり 現在の寄宿舎内に起臥する事となったものである

然るにイマの実妹は校費生として通校し居る位 実家も裕福でないから 従ってイマの服装等に於ても 推して知る事が出来るが 彼の女が舎監として寄宿舎に入りてからは 美衣粉黛(ふんたい)に身を飾って居た

然も三日と無く着替をする處から 薄給の身で好く贅沢が出来るものだと噂されたものだ

然るに昨年夏に至って 彼の女は婦人病にて岡本病院に入院 局部を手術した事があったので 口喧(やかま)しい女生徒等は結婚した事の無い者が手術する訳は無いだらうと 上級生間に於ては 校紀の腐敗を歎じて 改革を叫ぶ者が多かったが 決行するに至らなかった

其頃から イマ子と男との関係に就いて 一年生に至る迄 誰知らぬ者無きに至った

處が 彼女は旧臘十日 突然廊下に於て倒れ 其際 局部から出血して一週間臥床したが 其時は遂に医師の診察をも受けずに了った
彼女は他人に対して容態に就いては話されない事があると云ふて居た

此時は便所内に血が沢山あったとて 又々生徒間に喧しい噂を産んだ

此問題の為に 寄宿生は終業期をも待たずに続々と帰省せるを見ても 同校が如何に腐敗して居るかが知れる

冬期休暇が了って 一月始業と共に補習科及本科の女生徒は 餘に問題が喧しいので 校風革正の為に奮起する事となり ストライキを行ふと共に 中谷校長 並に佐藤イマ子に面接して 忠告を與へたさうだが 果たして当事者は如何なる態度を採らんとしたか

其内に其筋の探知する處となった結果 ここに活動を開始するに至ったのである

生徒間にはイマ子の居室の窓に 酸漿(ホオズキ)の乾してあるのを見た者があると噂されて居る
果して彼女は堕胎したか 其筋の取調べの進捗を待って更に報道しやう
(1922年:大正11年3月4日付 北海タイムスより)

今は使わない言葉もあるので、多少解説が必要だが、「舎監(しゃかん)」というのは、寄宿舎で、寄宿している学生・生徒の生活指導や監督をする人のこと。また、「堕胎」というのは人工妊娠中絶のこと。

つまり、小樽の実科高等女学校の寄宿舎の監督をしている女性教師が、堕胎罪で警察につかまったというニュースである。

今の世では、望まない妊娠の中絶は医療行為として普通に行われている印象があるが、現在は法律で妊娠22週未満であれば中絶が認められているからであり、現代も「堕胎」は実は犯罪である。妊娠中の女子が薬物などで堕胎する犯罪は刑法で「自己堕胎罪」として規定されており、1年未満の懲役という刑罰もある。

堕胎方法としてカギとなるのが「ホオズキ」である。観賞用のホオズキは根に毒があり、子宮収縮の作用があるとのことで、江戸時代から長く”堕胎薬”として大正時代もよく知られていたようである。

なお、堕胎罪は、妊娠していた女性の犯罪であり、妊娠させた男性は罪に問われない。(今も)
このため、この事件では女性教師は逮捕されたが、相手の男性は逮捕されていない。

そして記事には相手の男性を窺わせる内容の記載がある。当時、校長を務めていた小樽の名士・中谷宇吉氏である。
※名前は似ているが、人工雪で世界的に名を知られる中谷宇吉郎とは別人

徳島出身で明治に小樽に渡り、運漕業などで名を挙げ、道会の議員もつとめたという名士である。
この当時は50台半ば、前年の1921年(大正10年)に小樽実践女学校から小樽実科高等女学校となるタイミングで校長に就任していた。

小樽では知らぬ人がいないような名士が、校長と教師という立場を超えた関係となり、堕胎事件を引き起こしたということで、これは大スキャンダルである。

一度、生徒が騒いだ時に、医者から「イマ子は処女」との診断書を提出させて騒ぎを収めたのも、政治力を使ったのではないか・・・となり、これまた噂を呼んでいたのである。

舎監と校長の醜事

既報、小樽実科女学校舎監 佐藤イマ(二五)は小樽署に於て取調の結果 遂に堕胎罪として小樽監獄に収監され 愈々取調は里見検事の手に移ったが 本社の探知する處に依ると 相手の中谷宇吉も亦 不拘束の儘 同罪で事件のみ検事局に送付された模様である

イマの堕胎事件なるものが果たして事実とせば 相手の男に何等の相談なく独断で胎児を処置したとは誰しも首肯する能はざる處であらう

中谷校長とイマとは 九年六月以来 情交を継続し来ったが 昨年六月頃に至り イマが不義の胤を宿すに至ったが 其の処置に窮し 女小使の加藤フサ(六四)に事情を打明け 善後策を図った結果 奥澤町青物行商 稲村ヨシ(三五)より酸漿及び茎三本を買受け 之を以て堕胎を企てた者の如く 家宅捜索の結果 証拠物件は既に其の筋の手に押収されてある模様である

之に就いては 右の酸漿を供給した前記の青物商 稲村ヨシ並に被告イマも自白して居るが 唯小使の加藤フサのみは頗る強情で容易に事実を明かさないので 目下厳重取調中であるが

併し果たして酸漿を用いたものであるかは 尚 取調を要する處であらうが 同校生徒のストライキ事件の際 即ち 本年一月 佐藤イマに対し「処女に相違無 之 候」といふ證明書を與へたに就て非常に疑問の中心となって居るが それがあらぬか 五日夜 岡本病院長は其筋に出頭を命じられ 何事か取調を受けた模様である
(1922年:大正11年3月7日付 北海タイムス)

佐藤イマ子は収監され、堕胎を自供し、裁判を待つ身となった。

しかし裁判は開かれなかった。
というのも、この事件は”起訴猶予”となったからである。

検察から、この事件の原因は校長の中谷宇吉にあるが、佐藤イマ子は中谷の身分を考慮して、すべて自分がやったこととして罪をかぶろうとしており、改悛の様子がみられる。また、中谷はイマ子に堕胎を奨めたという疑いを否認しているが、数日に亘り新聞に書かれて、道民に広く知られることにより、社会的制裁を受けてきた。このため両者とも起訴猶予の決定を為した、との発表が3月10日にあったのである。

中谷宇吉は別日の記事では「3月4日限りで校長の職を辞した」とあるが、実際のところは辞めなかったようで、現在の小樽双葉高(小樽実科高等女学校の後継)のホームページでは、校長の交代は「大正15年2月」となっているから、この事件のあとも4年、校長を続けたようである。

中谷が校長を続けられたのは、この事件が起訴猶予となったからであろうか。

一方、この事件のとばっちりを受けたのが一人。

イマ子を処女と診断した医師の岡本辰之輔である。

検察に、医師はあくまで診断書に正当を期すべきはずなのに、何等の診断もなく、警察にも処女云々とのウソの証明をしたということで、「看過する能はざる」として、医師法違反の罪で告発されてしまったのであった。

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2024年11月29日

北海道歴天日誌 その244(1922年3月1日)厳寒の三月に社会保障の萌芽!札幌の敗残者事情

1922年(大正11年)3月1日。

2月の下旬には最高気温が8℃(23日)や9℃(25日)まで上がっていた札幌だが、簡単には春は来ない。
この日の最高気温は−3.0℃と真冬日で、最低気温も−11.6℃と弥生のはじまりは厳しい寒さ。

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▲3月1日正午の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

しかし、それでもここまでの暖かさが効いていたのか、氷結した石狩川を石炭を乗せて通過中の馬橇が、この日の午後一時頃、突然氷が割れたことをきっかけに石狩川に落ち、3名が転落。2名は助かったが、石狩川治水事務所の当別太工場で火夫を勤めていた二十歳の男性が亡くなっている。

3月を迎えても厳しい寒さの札幌で、懸命に生きている人たちの姿を伝える記事をひとつ。

札幌の敗残者 収入二十三円

道庁に於ては 本道社会事業施設の基礎的調査に周到なる努力を試み 以て済世救民の実を挙ぐるが為 差当り明年度より六区に保導委員を設置することとし 目下計画中であることは既報の如くであるが

之が為には貧困者分布の状態を知ることが必要なる處から、先に支庁、区に照会を発して 貧困者生活状態を調査している

札幌区は已に調査終了したので 今 其の状態を見ると 貧困者の戸数は九十二戸ある

之を職業別に見ると
日雇四十五戸 屑拾い二十六戸 無職六戸 井戸浚へ三戸 車挽一戸 縄製造二戸 夜廻り、靴修理、煙管修理、竹割、駄菓子行商、物貰い、僧侶各一戸宛

之に依ると 貧困者の半ばは 職業不定の日雇いであり 次は屑拾いであることは注目すべきことである

右の内 現に救済を受けているものが十二戸あり 公課を免除されているものが三十九戸ある

次に人員を調べると 男百五十八人 女百二十一人 計二百七十九人であって 之を年齢別に見ると
十五歳以下九十四人 三十才以下二十九人 五十才以下九十六人 六十才以下十八人 六十一才以上四十二人

十五才以下の幼少者は総数の三割三分余を占めているが 卅才以下の働き盛りのものは流石に少い
然るに 五十才以下の壮年期のものが 総数の三割四分余を占めていることと 六十才前後のものが相当多数を占めていることとは注意すべきことと思ふ

更に労働能力の有無に就て調ると能力者は男六十八人 女三十六人 合計百四人であって 総数の三割七分に当たる
従って 働き得ざる者が六割三分の多数を占めている

家族数は一家八人といふが最多で 平均三人強に当たる

独身者 若(もし)くは扶養者なきもの男子二十三人 女子九人で 全体の一割一分強に当たっている

健康状態を調べると 病人不具廃疾者は四十一人で 其内訳は
老衰七人 低能白痴七人 不具五人 盲目五人 胃腸病四人 リウマチ三人 心臓病肋膜二人 痔疾二人 眼病二人 栄養不良二人 喘息 挫骨神経痛各一人
であって 全数の一割四分強に当たっている

次に 一ヶ月の収入を調ると最多額は井戸掘の八十円 最少額が無職の六円で 平均して見ると 一戸当り月二十三円十銭余に過ぎない

家賃は最高月五円 最低八十銭 平均二円四十八銭強である

日常に於ける食料品の大要を調べて見ると
普通米食二十八戸 残飯二十七戸 米麦混色二十三戸 蕎麦粉饂飩粉麦等混食十一戸 粥食三戸
といふ状態である

斯の如く 区民の一部は後に取残されて 国民生活の平準から遥かに低下し 生存の敗残者、落伍者となっている
之を其儘に見棄てることは社会全般の欠陥を意味する事になるから 是等の落伍者に就て 更に各種方面から慎重な研究を遂げ 適当な方法に依って 救済又は保導することは適者の自衛の為にも社会の安寧の為にも必要なる義務である
(1922年:大正11年3月3日付 北海タイムスより)

白痴に不具・・・放送禁止用語のオンパレードである。

この頃は、現在の「生活保護」の仕組みができる以前であり、明治初期にできた公的扶助制度「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」の生きている時代。少ないながらもお金はもらえるが、その条件は血縁がなく、近所に頼れず、70歳以上か13歳以下などかなり間口の狭いものであり、記事をみても、井戸をさらったり屑を拾ったりしてなんとか糊口をしのいでいる苦しい様子がみてとれる。

食べ物も「残飯」という者が27戸もある。

記事にある「保導委員」というのは、現在の民生委員。
第一次世界大戦の頃の物価上昇、特に米価の上昇で貧困者が増大したため、岡山で原形となる制度が作られ、この年の4月に北海道訓令により保導委員設置規定が公布され、札幌をはじめ、小樽、函館、旭川、釧路、室蘭の道内6区に保導委員176名が置かれて、貧民対策に取り組むこととなる。

この記事は、制度を立てる前に、状況調査を行った結果であるが、この保導委員の制度化をきっかけに、北海道では公的な社会保障がはじまっていくのであった。

一方、民間でも救済事業は行われている。
刑務所のある網走の様子をみてみよう。

再犯を重ねる最大原因は酒と女

網走慈恵院に四宮理事長を訪問すると 世には奇篤な人もあるものだと 冒頭を置いて 花王石鹸の田中花阿弥氏が還暦の祝を廃して友人知己より贈られたる金品に加へ 二万円を全国の慈善事業に寄附し 当慈恵院も七十五円の寄贈を受けたと 手紙やら花阿弥氏に送った芳名録やらを見せて 花阿弥氏は 徒歩実行主義者で巨額の金を蓄積したと云ふ事である

当院は早速 被保護者に此の活た教訓を教訓を説いて聞かしたのでありますと語り 状況に移ったが

現在は二十一名を保護し 一名の外は 皆 出稼ぎに出て居ります
再犯を重ねる最大原因は 矢張り 酒と女です

被保護者は孰れも 猜疑心が強いと 貯金の通帳でも預かれば 直 僻(ひが)みを起し 金銭を自由にさすれば 多くは酒色に耽るのであります

酒色に耽れば 鋼鉄の錆を出して エエ儘よ 汚れた身体だ 太く短く暮らした方がよい どうせ社会には容れられないと自暴自棄を起こしては 詰まらぬ罪悪を犯すのであります

私の考へとしては 免囚保護事業を完全に感化遷善に導かんとするには 慈善事業では到底目的を達する事が出来ません

国家の事業とするより外 途はありませんが 国家事業とする事が容易でないとすれば 現在の監獄制度を改正して自活自治の観念を監獄で充分に知らしむるの必要があります

現在もない訳ではありませんが 少しも徹底して居ないので 囚人には経済の頭が少しもありません

夫れに娯楽の途がないので 出獄の免囚は 第一に酒色娯楽の方面にのみ憧れるので 夫故 再び罪悪を犯す事になりますとて 監獄制度を自活自治制度に改め 家族主義を取 娯楽の方法も ・ずれば社会との書簡 接見も頻繁ならしむる必要ありと 引証を示して論及した

四宮理事長は 更に昨今の監獄制度は遷善主義に非ずして 懲戒主義である
懲戒主義は既に時代錯誤であると難じ 出獄人の実話を挙げて 今に於て監獄制度を改正せずんば 徒らに囚人増加を見るのみで 国家の経済に及ぼす影響は 軍縮問題の如き者に非ずと 白髭を撫しつつ 三時間も説いた
(1922年:大正11年2月22日付 北海タイムスより)


1907年(明治40年)に網走・永専寺の開祖である寺永法専が開設した「網走慈恵院」。

これは、網走刑務所を出獄した囚人の中でも、旅費もないほど困窮した者や帰るあてのない者など、特に困難な事情を抱えた者を引き取り、食事を与え、仕事の世話などを行っていた。

網走慈恵院はその後100年の時を経て現在に至るまで、免囚保護から更生保護へと役割を変えつつ、事業を継続している。
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2024年11月24日

北海道歴天日誌 その243(1922年2月16日)湿雪+暴風で電線ズタズタ・・・室蘭

1922年(大正11年)2月16日。
本州の南に発達した低気圧が進んできたが、この低気圧は翌17日にかけてさらに発達しながら三陸沖に進み、18日には北海道の東へと移動した。

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▲2月17日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この低気圧からのびる気圧の谷の影響で、北海道では16日から17日にかけて全道的に湿った雪が降り、函館では時折雨に変わった。

16日〜17日の降水量は、函館では75.8ミリに達し、24時間降水量は70.2ミリと2024年現在においても観測史上2位となる記録的な降水量を観測した。その他、帯広41.0ミリ、寿都は35.0ミリ、札幌は33.7ミリ、釧路31.7ミリと、道央や道東太平洋側もまとまった降水となったが、根室は7.0ミリ、旭川4.8ミリ、網走4.3ミリ、紗那1.8ミリと道北やオホーツク海側は少なかった。

また、16日から17日にかけての積雪は、札幌では25センチも増加。帯広は36センチ、釧路は19センチ、函館は12センチ、寿都は8センチ、旭川7センチ、羽幌1センチ、網走0センチという具合の増加。降水量の多いところでは、湿った雪がどっさり降り積もった。

風も強く、最大風速は函館では14.9m/s、釧路15.1m/s、釧路16.9m/sにも達した。

湿り雪と強風、さらには0℃前後の気温ということで、電線や電話線に湿雪がくっつき、これらを次々と切断していく。

一昨夜来の降雪で電信電話被害多し

十六日夜来の降雪にて電信新絵の被害 夥しく 電信線は十七日午前二時に至り 札幌東京間一、二、三、四番線を始め 青森、新潟、大阪の各線は全く不通となり

又 札幌函館線は 倶知安以遠 室蘭線は苫小牧以遠も通信不通に陥り 小樽よりの内地各線も同様なるが 更に電話線は午前八時に至り 札幌函館間 札幌室蘭間も全然不通となり 小樽函館間も雪害を蒙りたる為 中継も不能にて 雪害に関する模様を知るに由なく 目下 落石無電局を通じて各地の状況を問ひ合せつつあるも 何分 斯くの如く 各方面閉塞の有様にては回復の時日等も判明せず

尚 十七日午前七時の内地便も不着にて 或は吹雪の為 青函連絡船が欠航せるに非ざるかと 内地方面の発信電報停滞数百に及びたり(正午発表)

右に関し 浅井札幌局長は語る
『今回の被害は 単に降雪に依る漏電の如きものではないらしい 斯多方面の通信が一時に不能に陥る事は被害程度も甚だしいものだらうと考へるが何分情報が無いので 全く不明ではあるが 札幌函館間 函館室蘭間の不通な所から察するに 森附近にて電柱が倒れたのではないかと思はれる

孰れ 落石無電局から何等の通知がある筈だが 今の處 何時回復するかは予測ができない』云々

故障箇所発見

別項、電信線の雪害箇所は函館白井川附近 又 室蘭線蘭越附近と判明し 極力復旧に努めつつあり
又 電信被害に就き 落石無電局を通じて照会中なるもの銚子無電局応答なき為 尚不明なり
(1922年:大正11年2月18日付 北海タイムスより)


札幌と函館を結ぶ電話線は「白井川」で、室蘭行きの電話線も「蘭越」で故障があったため、電報や電話が不通となってしまった。
白井川は、たぶん黒松内町の白井川で、函館本線熱郛駅のあたりである。

なお、北海道ではこの低気圧による死者・行方不明者はなかったが、気象要覧によると、関東や東北では土砂災害や洪水が発生し、福島県で百数十人、茨城県で20人、千葉でも数名の犠牲者が出たとされている。また、東京府では浸水家屋が3000戸に達した。東京との通信の断絶は、こうした北海道側だけはない被害の影響があったと思われる。

ただ、故障は後志だけで起きていたのではない。室蘭では電信・電話・送電線が到るところで切れる大被害となっていた。

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▲切れた電線の垂れさがる電柱:室蘭(1922年:大正11年2月21日付 北海タイムスより)

稀有の暴風雪で 室蘭市街暗黒

室蘭地方は 十六日朝来 北方の風雪 稍 強かりしが 午後八時頃より暴風雪と変じ 積雪尺余 吹溜の箇所も少なからず 交通杜絶の状態となり 午後十一時 電話は不通となり 電燈の故障は頻出し 遂に市街暗黒と化し 凄愴の感を抱かしむ

翌十七日 天候依然険悪に 街路の電信電話線は切断され 其の光景は 恰も機織を断ちたる如く 或は挫折せる電柱が電線に繋がれ宙に迷ふなど 惨憺たるものあり

区外との電信電話は全く不通となり 区内電話八百番の内 辛ふじて通話し得るもの百番以内に過ぎず

室蘭局との調査によれば区内電柱の挫折せるもの二十本、傾斜せるもの十一本、市街線たる母恋町電柱の挫折せるもの六本にて
目下二十数名の人夫を狩出し 主力を市街線の復旧工事に注ぎ居るが 復旧までは一両日を要すべく 市内電話の仮通話に一週間 完全に通話し得るには一か月を要する見込なり

同局三枝主事は
『電線は 水気を含んだ處で凍結し その重量で切断されたのであるが 在勤十五年 始めて見る被害で 恐らくは北海道でも始めてのことであらう』と。
(1922年:大正11年2月19日付 北海タイムスより)

室蘭では電柱がニ十本以上も「挫折」し、折れたり傾いたりしなかったところでもあちこちで切れるなどして、暗黒の一夜を過ごすこととなってしまったのであった。

このほか、室蘭港内では繋留中の貨物船が黒鉛を積んだまま沈没するなど、あわせて8隻の船が沈没している。

18日にこの方面の天候が回復すると、さらに調査が進み、室蘭市外の電線についても、苫小牧と室蘭の間で27本の電柱が折れていて、電線もまた切断されているのが見つかった。

このため、作業員が不眠不休で復旧工事にあたったのであるが、2月ということもあり倒れた電柱はそのままにして、「軍用電話線」のように、立ち木や人家の軒先も電線を取り付けるなどして、仮復旧をめざした。

こうして2月19日午後8時、室蘭の電灯は再び一斉に灯った。約69時間での電気の復旧であった。

この出来事から90年後、2012年(平成24年)の11月27日。
室蘭を再び湿った雪の暴風雪が襲う。

送電線鉄塔が倒れ、最大5万6千戸が停電、最長4日間も停電が継続した。
歴史は繰り返すものなのか・・・。
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2024年11月23日

北海道歴天日誌 その242(1922年2月11日)ダラダラ訓話に空も怒り?積丹・入舸

1922年(大正10年)2月11日(土曜日)。

北海道では、立春を迎えた後は、1月の酷寒が嘘のように、暖かい日が続いた。
札幌の最高気温は、7日は0.6℃と真冬日を脱し、8日は4.5℃、9日は3.7℃、10日は5.5℃、11日は5.0℃・・・といった具合である。
積雪も6日には105センチに達していたが、11日には74センチ、12日には63センチというように、どんどん減っていく。

網走では10日には、年が変わってから初めての雨が降り、それが話題にもなった。

そんな中での2月11日である。

この日は紀元節ということで、積丹町のある小学校では校長の訓話が行われた。ところが・・・
北海タイムスのコラム「クマの目」で、この日のことが紹介されている。

クマの目

来月は各学校の卒業式だが 校長来賓等が生徒の迷惑を顧みず 型にはまった誨告やら祝辞やらを長々と弁ずるのは不心得も甚だしい

殊に来賓の如きは 入替立ち替 同じやうな事を述べたり 方角違ひの火防衛生の宣伝などに脱線するに到っては 沙汰の限りである

現に去る紀元節の当日 積丹郡入舸の相木校長が 例の不得要領の訓話を牛の涎れのやうに ダラダラと長い間やった為に 尋二の女生徒が立小便をして式場を汚したといふが 昨年も此の訓話が長いのにアテられて 大便をした生徒があったといふ事だが

迷惑も此処まで行けば徹底したものサ
(1922年:大正11年2月16日付 北海タイムスより)


入舸(いりか)村は、積丹半島の北東側の突端にあたる「積丹岬」を含む集落。
集落の中央を入舸川が流れている。1956年(昭和31年)に合併して積丹町が誕生するまで、この場所に一つの村があった。

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▲入舸村の位置

入舸小学校は1887年(明治20年)に開校というから、この年は開校35年目。
”相木校長”の話の長さと退屈さは、インターネットもSNSもないこの時代にあっても、札幌まで話題にのぼるほどだったようである。

相木校長の訓話のまずさは、天をも怒らせたのか。
翌日、入舸村を災害が襲う。

豪雨で入舸川氾濫

積丹郡入舸村は 十二日夜来の豪雨にて大出水を為し 川筋は 其 表面 氷張詰居る為 充分の排水出来ず 十二日午前十時氾濫
青年団 消防組 非常召募を為し 協力排水に尽力せり

入舸村役場の如きは 玄来前二尺、場内廊下便所浸水一尺 事務室 会議室 宿直室等 畳 建具、書類 函等取片付けの為 青年団 消防組の応援を求めたり

午後三時 青年団 消防組の協力にて 川筋下流へ漁舟を浮べ 張詰たる氷を砕き 排水に便ならしめたる結果 減水せり

浸水家屋三軒 又 日司村五戸浸水 野塚村八戸浸水、野塚橋は流失し 西川濱中へ漂着せるを野塚、日司、西青年団及 入舸村 第二 第三部消防出動協力して橋の材料を運搬 仮橋を応急架して 辛うじて 人だけの交通を連絡せり

因みに十二日 入舸 余別間の郵便逓送 一日二回往復すべき所 出水の為 全然不通となり 十三日に至り 漸く開通せり
(1922年:大正11年2月16日付 北海タイムスより)


11日から12日にかけて、北海道付近を低気圧が通過した。
11日の夜から降り出した雨は、12日朝にかけて断続的に降り続いた。
夜でも雨となるほどだから気温も高く、各地で雪解けも進んだ。

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▲11日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

道内の測候所で観測された雨の量は、一番多い寿都で16.3ミリ、釧路12.8ミリ、旭川5.8ミリ、札幌は3.0ミリ、網走0.2ミリ。
後志地方で一番多いが、「豪雨」というほどの量ではない。

しかし、高い気温で雪も解けている。11日から12日にかけて札幌は11センチ、函館は8センチ、寿都も16センチの積雪が減った。
この時期に10センチの雪が減ると、30ミリ前後の雨量に相当する。積丹では、50ミリ前後の雨に相当する出水があったことは十分考えられる。

しかも悪いことに、1月の酷寒で川は凍結していた。
記事を見る限りは全面結氷ではなかったようだが、それでも、川の両側の厚い氷により狭まった川では雨水と融雪水が吐きだせず、溢れていった様子は想像できる。


▲いまの入舸川

浸水家屋は3棟ということだが、橋は流され、町の行政の中心である役場が浸水してしまうというのは”おおごと”であった。

流れる川に船を浮かべ、そこから氷を割って流れの幅を広げるというのは非常に危険な作業であるが、何とかこれが功を奏して、水は次第に引いていったということである。

この災害に直面して、入舸小の校長がどのような働きをみせたのかは、一文も記録は残っていない・・・。
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2024年11月17日

北海道歴天日誌 その241(1922年2月4日)葬儀後10日あまりでクランクイン・吉良平治郎の殉職映画・釧路

1922年(大正11年)2月4日。
この日の釧路は、風の強い荒れた天気から、空模様は徐々に回復へと向かっていた。

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▲2月4日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

発達した低気圧が三陸沖から北海道の東へと進み、北寄りの風が強く吹いた。
釧路では4日午前2時に北の風15.8m/sを観測したが、昼過ぎには10メートルを切り、夜には3メートル以下へと収まって行った。

このような空の下、釧路ではある映画の撮影が始まった。
その映画は、ある「殉職者」をテーマとした物語である。

悲壮の最期を遂げた釧路殉職逓送夫 逓信省から活動写真隊を派遣して撮影す(上)

勇敢なる釧路郵便逓送夫 吉良平治郎殉職の悲壮極まる光景を活動写真に撮影せしめ、尊き犠牲の大精神を国民の模範として周知せしめんが爲に、逓信省より派遣されたる 東京フヰルム会社活動写真隊一行は 既報の 溝口札幌逓信局事務官一行と共に 三日来 釧路角大旅館に滞在、釧路郵便局間と撮影に関する打合わせ中であったが、愈々四日から撮影に着手した

成るべく事実通りを撮りたいと云ふ方針で、出場人物は悉く当時事件に関係した人々であるが故に、平治郎に扮する逓送夫には 平治郎に酷似せる同人の従兄 吉良平吉を煩はすこととなった

先づ四日には 誂(あつら)え向の釧路吹雪の市街停車場前より 西幣舞通を経て 幣舞橋に織るが如き人馬の来往から始まって、市街の要所要所が終ると愈々釧路郵便局の全景に入って、故逓送夫平治郎が去一月二十日の午前一時、昆布森局へ逓送さるべき約四 五貫目の郵便行嚢を背負って郵便局を出発の光景

画面は換はって 二十二日に至り 昆布森局から平治郎が到着せぬとの照会に釧路局の小林主事が驚いて佐藤局長に報告の場、引続き中野書記が防寒着に身を固め捜索隊の先発として出発の場などの撮影があり、これで四日の日程を終わり

五日は午前八時 新聞記者も加はって 一行十五名 現場に向かった

平治郎の住家は釧路市外 春採十番地 荒漠たる丘上にある

当時 平治郎は空白で堪まらぬ、立寄ると妻のハナ(中川郡川合村旧土人上田チマビシの娘)より飯が一粒もないと聞いて、冷たい味噌汁を啜(すす)って出発しようとする

折から雪を交へた烈風が吹き荒む「これから四里の山路は、つらからう 夜が明けてから」と止めるのを聞かず、職務の為と吹雪の山道を杖に縋ってよろよろとして進み往く

此の光景を撮影したが、真に迫って当時が偲ばれる

約二里の山道を暴風雪に弄ばれつつ桂恋村へ降りる路と、昆布森村へ往く路との交差点たる字オソップで、雪の為に穿がてる鷹匠足袋を脱られて、一歩進んでは倒れ、起ては又進む

現に今ですら積雪 脚を没する有様なので 芝居とは思はれず 一同悲壮の感にうたれた
(五日 桂恋にて一記者)
(1922年:大正11年2月8日付 北海タイムスより)


この映画の撮影からさかのぼること半月。
この年の1月20日未明、釧路郵便局の逓送人を務めていた吉良平治郎というアイヌの男性が、釧路から東、約16キロのところにある昆布森の郵便局に郵便物を輸送するため、郵便局を出発した。

ところが、この日は発達した低気圧が北海道の南海上を通過中であった。

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▲1922年:大正11年1月20日正午の天気図

このため、釧路では吹雪となった。
釧路の当日の天候は以下の表のとおりだが、氷点下4℃前後の気温に加え、風速も日中は10メートル以上の状況が続き、特に昼前後は15メートルを越えている。積雪は前日10時の4センチから、当日10時には22センチと、18センチ増加した。

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低い気温と強い風は地吹雪の危険性を高める。
釧路測候所の観測記録では、20日は午前2時から午後7時過ぎにかけて高い地吹雪が観測され続けている。
この日も10時以降の降水量から、10センチほどは降雪があったはずだが、翌日にかけて釧路の積雪は増えなかった。積もる先から風に飛ばされる状況だったのである。

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▲郵便局と昆布森の位置関係。矢印で示した道路は1922年当時も昆布森を結ぶ主要な道として存在した。

体感気温−20℃という猛吹雪の中、昆布森に向かって歩き続けた吉良平治郎。
観測所の積雪はたかだか20センチといえども、道路は所々ふきだまりができて、白い波を打つような状況であったことは容易に想像できる。

吉良は、昆布森まであと少しというところまではたどりついたのだが、寒さと疲労で、これ以上の前進が困難となった。

このため、吉良は、背中から郵便物入りの行嚢を下ろし、自らの外套でくるみ、携行していた木杖に手ぬぐいを結び付けた”目印”を立てた後、枝道を南の海岸に下った先にある宿徳内の集落に難を避けようと歩き出した。
しかし、そこからわずか100メートルほどの所で力尽き、命を落としてしまうのである。

遺体は1月25日になって捜索隊に発見されるのだが、郵便物は外套に守られて異常がなく、自らの命にかえて郵便物を守ったという職務上の責任感を全うした姿がこの時代の人々の心を打ち、賞賛の声があがった。

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▲吉良平治郎の葬儀を伝える記事(1922年;大正11年1月29日付 北海タイムスより)

この声の高まりをうけて、急遽、吉良平治郎の映画が作られることとなり、撮影隊が釧路に入り、撮影を始めたのである。
撮影は、吉良平治郎の葬儀からわずか11日後にクランクインとなっている。

しかも、悲しみの癒えぬ中、関係者本人や縁者がそのまま出演するという、「ノンフィクション・ドキュメンタリー」の様相を呈している。
今の世で同じことを行おうとすると、何とも無神経な行為にみえるのだが、ここは時代が許したのだろうか。

悲壮の最期を遂げた釧路殉職逓送夫 逓信省から活動写真隊を派遣して撮影す(上)

場面は換わって 捜索先発隊の中野書記は 此処まで来て日が暮れた、進退谷(きわ)まり焚火をして大声に信号をする
漸く青年会の連中に救はれるなどのフヰルムも撮った

平治郎が臨終の場所は これより一里許り進んで昆布森市街を距る約二十丁の箇所である

寒気と飢餓と疲労に堪えず 最早一歩も進むことが出来ぬ、茲に凍死を覚悟するや 静かに背負へる行嚢を下ろし、官給の外套を脱いで 其郵便物を蔽ふた

何といふ尊き精神であらう
それでも尚 降りしきる雪の為めに 埋没されることを慮って、長い杖を其傍に建て、後日の目印にした

死後の瞬間に来らんとする前に、何たる用意の周到なことであらう

彼は斯して其傍の枯木に腰を下ろし 眠るが如くに瞑目した
吾らは実に感激せざるを得ぬのである

此実景は 地理の関係上 六日撮影することとし、五日は桂恋村に降りて 平治郎の出生地なる叔母サリマツの家や、遺族慰問の場、葬式場に於ける山岸逓信局長の弔辞朗読や、墓地に於ける回向など撮影した

叔母のサリマツや未亡人のハナは光栄に満てる故人を偲びて、人目も構わず大声を挙げて泣き伏た

一行は 七日引揚げ 東京にてフヰルムを完成し 先づ札幌逓信局で試写をする筈であると
因に 平治郎の戸籍を区役所で調て見ると 釧路区桂恋村十番地 祖父 吉良利死亡 父逢治長男平治郎(土人名コツコツ)明治十九年二月三日生まれとある
(1922年:大正11年2月9日付 北海タイムスより)

このとき制作された映画が、現在どこに保管されていて、見る事ができるかどうかは不明であるが、もし現存しているのであれば、事件半月後の現地の雪の状況や、平治郎が歩きながら見たであろう景色、釧路市街の当時の様子など様々な貴重な情報が得られるはずである。

吉良平治郎の殉職話は、1930年(昭和5年)に高等小学校1年生の児童を対象とした”修身”の教科書に「責任」としてとりあげられたし、1971年(昭和46年)に北海道の小学校4年生向けに配布された副読本「新しい生活」にも掲載され、後世にわたり語り継がれることとなる。

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▲修身の教科書に「責任」に掲載された吉良平治郎 (文部省 著『高等小学修身書 : 女生用』巻1,文部省,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

殉職した場所のあたりは、現在は「吉良が丘」と呼ばれ、記念碑も建立されている。

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▲昭和30年頃の慰霊碑の様子 (北海道立教育研究所 編『北海道教育史』[第2] 第1 (地方編 第1),北海道教育委員会,1955. 国立国会図書館デジタルコレクションより)
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2024年11月10日

北海道歴天日誌 その240(1922年2月3日)幸運の手紙とともに?暖気と悪報

1922年(大正11年)2月2日。

この日、札幌の最高気温は3.5℃。
新年になってから初めて、プラスの気温となった。

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▲2月2日正午の天気図 (『天気図』大正11年2月,中央気象台,1922-2 国立国会図書館デジタルコレクションより)

札幌では、前年の12月30日から続いていた”連続真冬日”の記録は34日でストップ。
この日は、函館も3.1℃、旭川0.3℃とプラスの気温となり、帯広は−3.7℃、網走も−3.6℃どまりだったが、翌2月3日にはこれらの町でも氷点下の世界を脱した。

氷 小樽は豊年

今年の寒さは 處によりては幾百年来 嘗て無 厳しさであるといふ丈け
従って 近年にない氷の豊年だ

現在 小樽の製氷業者は小樽製凍会社を始めとして四軒あって 場所は奥澤と最上町とで 合計五ヶ所の製氷池を所有して居るが 例年は冬季間に二回切り出すのが普通で 夫れも少し暖かい年には 規定の一尺の厚ささへ得ることが困難であるが 今年は既に二回の切出を為しつつあって 三回の製氷は充分である

其上 切り出しに愚図愚図して居ると 忽ちにして一尺の厚さのものが 一尺二寸 三寸になるといふ
製氷業者には此上ない当り年であった

昨年は 近年に見ない豊作と言はれ 平年の二割増しの出来高であった
處が本年は夫以上で 未だに具体的に判らないが 僅かに五割増加は間違ひない處であらうと

其上 品質も頗る優良であるさうだが 寒気と共に降雪量も亦 例年になく多かったが 此降雪は 製氷業者の最も嫌ふ處で 降雪があると 温度が昴るので 本年は従って之が掻き取に多大の費用を要したさうである

さて 製氷池一坪の製出高は平年で一噸とされて居るが 本年は二噸五分は楽なものだから 全部五箇所の製氷地の面積二千七百坪として 六千七百五十噸の製産は先づ間違ひなからうと

さうすると 一年の小樽区 並びに 船舶等の需要高が四千噸とされて居るから 此の分で行くと二千噸は過剰を見る訳になる
従って 本年の夏季には廉(やす)い氷が飲める
(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

この頃は池に張った水を自然の寒さで凍らせて氷を採るという、自然製氷が基本的。
1月の記録的な酷寒は、北海道の製氷業者に大量の氷を自然に作り出してくれた。
この調子なら夏のかき氷も、安価で食べられるのでは?という皮算用も面白い。

ところで、この頃、道民は違った意味で、背筋が寒くなるような体験をしていた。
変な手紙が届き始めたのだ。

ハガキの文字は「幸運の為に」

【三十一日東京発電】
東京の各方面に向って 何者かの手に依り 発送されたる「幸運の為に」は 三十日朝 千葉警察署長 警視 後藤法学士夫人雪子 及び 同県土木課中田夫人 其他三氏の婦人宛に舞込みたるより 警察部にては 遉(さすが)に狼狽し 犯人の捜査に努め居れるが 差出人は東京方面の者と同人ならんと

旭川にも舞込む

三十日 謎の葉書が旭川の某々有力者宛に舞込んだ
受取った本人は 餘りに突然なので 何事であらうと 内々不安の念に駆られている

旭川に舞込んだ葉書の消印は二十九日付投函したので 旭川から投函した事が明瞭で 差出人は匿名だが 宛名は勿論 何条何丁目と記してある

文句は東京に配布されたのと 一 二字違ふ處があって 併も毛筆でなく 黒インキで万年筆を以て書かれ 幸運の為にとは 東京のは初めのみだが 旭川のは 初めと終りに書いてある

全文を記せば 左の如くである
而して筆跡を見ると実に見事なものである

「好運の為に」

是れを九枚の葉書にかいて あなたの好運を望まるる方に御送り下さい
九日あたりはあなたは大なる喜びに出会ひます

此連鎖を絶ちてはなりませぬ
絶つ所に悪運が来ますから

此の連鎖は米国の大官から始りましたそうで
九度地球を廻らねばなりません
二十四時間内に此の通り 此書き下さい

好運の為に


(1922年:大正11年2月1日付 北海タイムスより)

これは、日本における元祖チェーン・レターである「幸運の手紙」の北海道上陸を告げるニュースである。

同じ文面の9枚の葉書を、24時間以内に9名に差し出せば、9日後には「大いなる喜び」がやってくるが、無視して何もしなければ、たちまち悪運がやってくる、という内容の手紙が旭川の家に届き始めたのだ。

手紙の文面に「世界を9回めぐる」とあるように、幸運の手紙は日本ではなく外国から舞い込んできたものである。
日本への侵入時期はこの年の1月らしく、日本人の生真面目さもあってか、受け取った方の幸運を信じて、または止めた場合の悪運を恐れて、差し出す人があったため、この「幸運の手紙」は日本国内で爆発的に流行した。

※なお、幸運の手紙が「不幸の手紙」となって日本で再流行するのは、約50年後の1970年(昭和45年)のことである

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▲「幸運の手紙」への注意を呼びかけるコラム(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

ただ、幸運の手紙を出したにも関わらず、日本人は悲しいニュースに接しなくてはならなかった。

まず、2月1日。元老の山縣有朋の訃報に接する。天保9年生まれ、83歳であった。

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▲山縣元首相の訃報(1922年:大正11年2月3日付 北海タイムスより)

さらに、2月3日。新潟県糸魚川の北陸本線親不知駅−青海駅の間の勝山トンネル付近で大規模な雪崩が発生、多くの除雪作業員を乗せた列車を直撃し、90名が死亡する大惨事となった。

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▲北陸線雪崩災害の発生を伝える記事(1922年:大正11年2月5日付 北海タイムスより)

現場近くの上越高田では、現在、平年の2月3日の積雪は63センチであるが、1922年(大正11年)の2月3日は221センチの積雪があった。
これも、1月に北海道・東北を中心に記録的酷寒をもたらした寒気団の影響である。

しかし、2月3日は発達した低気圧の通過で、全国的に寒さが緩んでいた。上越高田でも最高気温は5.2℃、3日から4日にかけて50.9ミリもの降水があり、列車の汽笛が雪崩の引き金を引くことになったようだ。

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▲2月3日午後6時の天気図

雪崩による悲惨な事故は、同じ日に北海道でも起きている。

函館幸校の校庭の悲惨

【四日函館電話】
三日午後二時半頃 函館区幸町小学校運動場に於て 尋常科一年生 天神町十六番地 八太郎二男 宮本勇(八つ)及び二年生山風泊二十六番地 輿次郎長女 吉川トヨ(九つ)の両名が遊び居たる處

校舎屋上より大量の雪が 雪止め棟木と共に雪崩来り 埋没されたり

急報に接し 消防夫駆付け 掘出せる結果 トヨは人工呼吸に因り蘇生せるも 勇は即死せり
(1922年:大正11年2月5日付 北海タイムスより)

函館も、現在の平年値では、2月3日の積雪は26センチである。しかし、この年の2月3日は53センチもの積雪があった。
そして、最高気温は2.4℃。二日連続のプラスの気温となって、屋根の雪が緩んだ。
校庭で雪遊びをしていた小学生2人が巻き込まれ、小学1年生の男子が亡くなってしまった。

函館幸小は1970年(昭和45年)に閉校となり、函館西小学校に統合。そして函館西小学校も2009年(平成21年)に閉校し、弥生小学校に統合している。このような状況となると、大正半ばに発生した、雪崩の悲しい事故の話が現代まで残るというのは難しい。

このほか、札幌では”流行性感冒”も流行り出し、西創成小学校が臨時休校。校長たちは時計台に集まって、善後策を協議するという事態となっていった。
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2024年11月04日

北海道歴天日誌 その239(1922年1月31日)そっちのけ?記録的低温の北海道

1922年(大正11年)1月の下旬のこと。

この年の1月は、北海道では今に至るまで月平均気温の低温記録を保持している所が多い。
札幌は−10.2℃で唯一の−10℃台であるし、帯広(−16.6℃)や旭川(−16.3℃)、寿都(−7.1℃)など、明治時代からの観測記録がある観測所の多くで低温1位の記録を保持している。

しかし、この記録的な酷寒は北海道だけではなく、本州方面にも広がっていたようである。
北海道以外でも月平均気温が低温1位の記録となっているのは、主な所では東京(0.6℃:1885年1月と同値)、秋田(−4.4℃)、新潟(−1.4℃)など。東北や関東、北陸では1945年1月と1922年1月で1位と2位を分け合っているところがよく見られる。

このため、北海道の新聞紙面にも、本州方面から雪や寒さの知らせがどしどし届いて掲載されている。

例えば、1月22日の名古屋発の記事では、名古屋が20日から21日にかけて大雪となり、路面電車や列車の運転が不能としている。
この記事は名古屋の雪は「二尺に達する」としているが、実際の観測値は25センチ(21日)である。

また、23日の敦賀発の記事では、大吹雪に加えて雪崩も起きて、腰越トンネルの中で汽車が立ち往生しているとか、23日高田発の記事では、信越国境が大吹雪で直江津などの各駅では、雪に埋没する列車が多数発生、旅客が閉じ込められるなどのニュースが伝えられたし、23日の新潟発では信濃川が結氷して、川蒸気船の交通が途絶したこと、24日の東京発の記事では、東京市内各所で水道が凍結して破裂する騒ぎが起きていることなどが伝えられている。(東京では22日の最低気温は−8.1℃を記録している)

この様子を北海タイムスは「北海道そっちのけの騒ぎで 各地とも椿事続出」としている。
では、そっちのけとされた北海道では、この頃何が起きていたのか。

不漁をかこつ余市の漁民

余市近海に於ける小漁民の冬期唯一産業は 鰈を始め 其他の雑漁で 凪さへよくば 斯る漁民等は一艘七 八名の組を作り 風雪に晒されながらも朝は未明より遠く沖合に出漁し 一艘少くとも 百円乃至百三 四十円宛は優に漁獲して魚市場をも賑はし居れるが 今年は何うしたものか 旧臘来 殆ど連日の時化続きで 頃日迄に出漁せるは 僅 五指を屈する許り

従って 平素 何等貯へもなき小漁民等は 直に生活を脅かされ 中には 魚市場経営の親方に縋って 出来るだけの前借をなし 其日を糊す者もあるが 親方とても 海の物相手の事だから こんな時化続きではさうさう面倒もならぬので 昨今の彼等は悲境のドン底に沈める有様なるが

一方 鰈雑漁不漁の影響は 魚市場を中心として 鮮魚搬出 馬車荷造り 又は仲買などの周囲に迄 自然 不印が渦巻いている

夫にしても 漁港の設備さへあれば 安全な根拠地がある訳だから 少々の時化位は発動機漁船で乗廻し 斯う不漁を見る事もなからうと

今更宿題漁港の解決を急いでいるのも無理はない
(1922年:大正11年1月24日 北海タイムスより)


この年の異例の寒さ続きは、冬型の気圧配置が長く続いて、大陸からの強い寒気がどんどん流れ込んでいることにあるのだが、その裏返しで、日本海はいつも荒れていて、後志沿岸では漁がままならない状況が続いていた。

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▲1922年(大正11年)1月22日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより)

上は名古屋や北陸方面で大雪となっていた、1月22日の天気図。
北海道は等圧線の間隔が開いて、西岸の小さな低気圧と、内陸に高気圧が現れている状況がみえる。

北海道は今も真冬にこのような気圧配置となることはよくあるが、日中は気温の上昇で内陸高が解消し、冬型が戻ってくるのが常である。
従って、今なら、この天気図で漁に出るということは考えられないだろう。
しかし、一瞬の凪となった海を見て、岩内の漁民は出漁していった。

岩内漁船遭難後報

岩内鰈釣川崎船は 一月に入りて時化続きの為 僅々二日の出漁に過ず 一般人気沈蓑の矢先 二十二日は朝来好凪とて 百三十余艘 一斉に出漁せるに

正午頃より 咫尺を辨ぜざる降雪となり 更に午後二時頃より北東の強風さへ加はりたれば 同川崎船は揃って帰途に就けるも 吹雪の為 陸地の見通し利かず 続々漁獲物を放棄して帰港を急ぐ内 五人乃至六人乗川崎船十一艘 転覆し

此内 御鉾内(おもない)町濱内亀蔵所有 五人乗りの内 同人二男 輿作(三二)は遂に浪に呑まれて行方不明となり 他漁夫全部は僚船に救助され 折柄三時頃より雪止み 風収まりたる間に 無事入港せるが 尚 此外に梅村初蔵五人乗は午後五時過に至るも行方不明にて 警察署にては八方手を尽し 捜索中なるも 多分沖合にて覆没せるものならんと
(1922年:大正11年1月24日付 北海タイムスより)


朝は凪でも、昼には激しい雪となり、その後は風が強まって来る・・・。
典型的な内陸高の衰弱課程での後志地方での天気変化である。

130艘もの漁船は天候悪化で帰港を急いだが、11の船が転覆する海難事故につながってしまったのであった。

さらに北の海でも船が難航している。

千歳丸辛じて帰る

氷の為 難航を続けた樺太定期郵船 千歳丸は 辛じて一昨日小樽港に入港したが 一船員は曰く

「真岡 大泊 能登呂の沖合及び宗谷海峡は一帯に厚く結氷し 実に十年来の大結氷である、厚い處は三尺からあった、
温度も頗る低下し 零点下三十四度乃至四十度もあった

本船の如く 砕氷装置ある汽船でさへも 実に名状すべからざる難航を続けた、
能登呂港を開かれたので砕氷しつつ進航していたが 氷片は両船側に幾重にも凍着し 一日一杯かかって僅かに一哩位より進行出来ぬので 余儀なく港内に避難し 氷が開くのを待っていた

二十二日から二十五日迄 三昼夜は 不休で避難していた
今後 一般船舶も砕氷装置のない千噸(トン)以下の汽船は 到底 航海不可能であらうと思はれる」
云々
(1922年:大正11年1月28日付 北海タイムスより)

宗谷海峡から樺太の西海岸にかけては大量の流氷で航行が困難な状況となっていた。

現代では、1月25日頃に樺太の南西岸や宗谷海峡西部に流氷が存在する割合は「0%」であり、この海域でこの時期に、船が流氷に出会うというのは極めて異常な事態である。この年の流氷の勢力は、間宮海峡でも非常に強かったことが伺える。

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▲現在の1月25日の流氷出現率分布

当時の樺太・真岡の観測データをみると、1月6日以降は31日まで、最高気温はほとんどの日で−12℃前後。1月26日の最低気温は−25.0℃を記録している。
大泊も1月20日の最高気温は−15.4℃、27日の最低気温は−26.5℃。最高気温の月平均が−11.3℃という酷寒であった。

樺太の観測所で、1922年1月に最も低い気温を観測したのは、内陸の落合で1月8日に−34.0℃であったが、この月に限っては、北海道のほうが最低気温は低くなった。

1月31日は、全道各地でこの冬の最低気温を記録したが、帯広は−34.9℃、旭川−34.4℃を記録した。
このほか、札幌と網走はともに−24.3℃まで下がり、釧路−21.2℃、根室−17.6℃、紗那−12.6℃、函館−10.6℃を記録している。

なお、帯広では、その後現在まで、ここまでの低温は一度も観測されていない。

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▲ひときわの酷寒となった1922年(大正11年)1月31日午前6時の天気図

東京でも水道管が破裂しているが、北海道も雪がどっさり積もっているとはいえ、同様の危険がある。
この当時、水道凍結の防止方法は、”水落し”ではなく、蛇口を少しだけひねって細く水を出しておき、水道管の中の水の流れを途絶えさせないことであった。

小樽水道 寒に入ってから使用量俄に増加

昨年 夏季甚だしい旱魃続きの祟りて 上水湛水 苦い経験を甞めた
小樽区に来るべき減水期の為に 大に蓄積して置かなくてはならぬ

冬季に入ってから再び 日々減水一方といふ心細い現状に在るとは情けない

従来の平均使用量は一日九万三千四百石であったが 寒に入ってから俄に増加して 二十五日は一躍して十一万九千石 二十六日は十二万二千石 二十七日が十一万二千石といふ数量に上って居る

之が為 配水池には現在 三万三千石より水がなくなった

其処で 当事者も大慌てで貯水池の方から大に湛水の能力を増進する事に極力努力して辛うじて十万石の水を配水池へ貯へる事が出来たが 夫でも一日の使用量には尚 一万石から不足して居る訳である

之が為 緑町方面の如な高区にあっては 数日来 全く送水不可能に陥った為め 洗面用の水にさへ窮して 雪や氷を融かして 漸くに顔を洗ふといふ状態である

斯も 俄に使用量が増加した理由は寒気が厳しい結果 水道栓の凍結を防ぐ爲め 昼夜間間断なく各家庭に於て 放水する結果であって 当局に於ても発見次第 厳重処分する方針であるが 一朝火災でも起れば 由々敷(ゆゆしき)事となるから 各自言はれる迄もなく注意したらよかろう
(1922年:大正11年1月29日付 北海タイムスより)

各家庭が水道凍結を防ぐため、蛇口を開けることにより、小樽では水道の需要が増加したため貯水量が減ってしまい、一部地域では断水するような事態がおきているということである。

火事になった時に水が足りないという事態が起きかねないのであるが、このような「水道凍結自衛法」は、この後も数十年は続き、厳しい寒さの冬には同様のことが繰り返されることになるのであった。
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2024年11月03日

北海道歴天日誌 その238(1922年1月18日)札幌で−27℃を記録!凍傷の失業者を助ける小樽の人

1922年(大正11年)1月18日(水曜日)。
今回は、この日の天気図から。

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▲午後6時の天気図 『天気図』大正11年1月,中央気象台,1922-1. 国立国会図書館デジタルコレクションより

北海道付近は気圧の谷となっていて、道北方面に低気圧が描かれているが、等圧線の間隔は真冬にしてはかなり広い。
この日、札幌は日中から晴れていたが、夜は雲一つない快晴となった。風も1メートル程度と穏やかな夜を迎えることとなった。

札幌は午後3時頃に−5.1度の最高気温を観測したが、その後はどんどん冷え込みが強まっていった。

午後5時に−16.6℃に下がり、午後9時に−19.6℃を記録。午後10時には−20.1℃を記録して−20℃台に突入した。
そして、日付が変わる直前に−27.0℃を記録した。

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▲1月18日〜19日の札幌の気温経過

この−27.0℃は当時としては札幌の観測史上最低気温であった。現在でも、この気温は札幌の観測史上2番目に低い気温である。
また、日付が変わってすぐ−26.8℃を記録しているが、これは観測史上3位の低温として記録に残っている。したがって、一夜にして二つの記録的な低温が観測されたのである。

札幌測候所創設以来の寒さ

本年昨今の気温は 平年より毎日 三 四度の低度にありしが 十七日以来 頓に寒気加はり
十七日夜半は摂氏氷点下二十一度八(華氏零下七度二) 十八日夜半は氷点下二十七度(華氏零下十六度六)に降り 札幌測候所創立以来の記録を破るに至れり
(1922年:大正11年1月20日付 北海タイムスより)

なお、上には上がいて、旭川では18日の最低気温が−32.5℃、19日も−31.9℃を記録した。

旭川の酷寒

【二十三日旭川電話】旭川地方は寒に入りてより 近年稀なる寒気にて 殊に 小寒や摂氏零下三十度以下の酷寒三日間打続きたるが 斯かることは明治四十二年 四日打続きたる外 類例なく 実に十余年来の厳寒なり

即ち 一月十八日は摂氏零下三十二度四分、十九日は同三十二度五分、二十日は同三十一度九分にして

大寒に入りて少し緩みし感ありしが 二十三日午前四時半に至り 又も三十二度二分に低下
今後も寒気打続く模様にて 恐らく従来の記録を破るならん
(1922年:大正11年1月24日付 北海タイムスより)

記事にある観測日付は一日ずれている。正しくは1月17日〜19日の三日間の気温である。

このような厳しい寒さ、しかも当時は不況下であり、フトコロもまた寒い。
この頃、小樽では失業者に身銭を切って救いの手を差し伸べていた人がいた。

敗残者を救ふ 慈悲深い小樽の人

立派な五体を有し乍ら 働くに職なく 日々 乞食同然 小樽区内を徘徊する失業者が 四 五十名ある
此 憐な失業者に同情の餘り 独力にて彼等を我家に収容し 就職口を探し與へ 或は病者には薬餌を與へて之を保護し 是等の人々の味方となり働いて居る奇特な人がある

彼れは小樽富岡町一丁目 佐々木兵作といって 昨年中 道庁より野中属来樽視察し 其結果 尾崎内務部長より鄭重なる感謝状を贈られた

彼は自分では 左程立派な事をしたとは思はず「同じ同胞であり乍ら 働く職もなく蒼白な顔をしてブラブラして居る憐れな姿を眺めては黙って居られない」とて 当然為すべき事を為した位に考へて居る

全く彼の持つ 広い人類愛の発露の結果に他ならない

現在でも十四 五人の敗残者を収容して 夫々世話して居る

記者が訪問した際にも ちょうど区役所紹介係の添書を持って 十五 六の小僧が尋ねて来て居たが 水上警察署人事相談所 区内各停車場は 彼の最も大華客で 待合室にゴロゴロして居るもの 或は相談所に泣き込んで来る

昨年一ヶ年間 彼の世話した者は 百名に上って居るが 此等の大部分は 山方面の地獄部屋を逃げ出して来たもので 全くの裸一貫の者のみであるから 就職口を見出して 働かせるにしても 差当り 服装から整へて 與へねばならず 其上 此等の多くは此頃では孰れも凍傷に罹って居るので 手のかかる事大抵で無いさうだ

而して 丁度よく仕事でもなければ 無代 食はして置かなければならぬので 昨年の如きは二月二十日から三月三十日まで五十日の間に 三十人で 僅か三十五円より 働かなかった事さへあった為 一年間で数百円の損失を蒙ったさうだ

「此等の人々には各地を流浪し歩いて 一曲(ひとくせ)も二曲もある者のみであるから 雪の中 仕事の無い間は居るが 春にでもなって何処へでも行って食へる様になると 一言の挨拶もなく去って了ひます

現在でも此の様な人々は区内に優に四 五十名はありますが 今 少し設備が出来たら せめて三十名位は始終世話したいと思って居ます

全くみすぼらしい姿をして区内をブラブラして居るのは 区の体面上からも見苦しい事であるから 資力が許すなら大々的に行って見度いと思って居ます」と語って居たが、希(こいねが)はくば 彼の抱負をして実現せしめ度いものだ
(1922年:大正11年1月20日付 北海タイムスより)

小樽をぶらつく失業者たち。
彼等に宿と食べ物などの世話を自発的に行っていた男の話である。
大正でも、民間の力でこうした失業者のセーフティーネットが存在していたというのは興味深いものがある。

一年で数百円というのは、この時代ではかなりのお金となるだろうから、何かの事業で成功している者と思うが、そこは、この記事ではわからない。

この年の厳しい寒さを反映して、失業者は誰もが凍傷を負っているというのが痛々しい。

第一次世界大戦をきっかけとしたバブル的な大戦景気と、その後にやってきた不況。
さらにこの頃は、アメリカで軍縮会議も開催中であり、景気には浮上の気配がなかなかみられない。

さまざまな面で春が待ち遠しい、1922年1月の北海道であった。
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2024年11月02日

北海道歴天日誌 その237(1922年1月6日)機関車の先頭に人間が・・・岩内線の線路除雪列車事故

北海道としては、後にも先にも無いレベルの酷寒に見舞われた1922年(大正11年)1月。

北海道南西部である後志の寿都でも、この年の1月はすべての日が真冬日であった。
月平均気温は−7.1℃と、今の平年値と比べると5℃くらいも低い。
そしてこの月の降水量は193.5ミリ。気温が氷点下なので、これは全部、雪で降る。

したがって、積雪は毎日どんどん増えていく。
寿都の積雪は元日は78センチだったが、月末には170センチにまで増加した。
なお、この170センチは、現在に至るまで1月史上1位の記録を保持している。

この時代、道路の「除雪」はほとんど行われていなかったのだが、線路については除雪をしないと汽車が走れない。

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▲道内各地で雪の影響を受ける鉄道の記事(1922年:大正11年1月8日付北海タイムスより)

この頃は、多少の雪ではそのまま汽車が走っていたようだが、さすがに吹きだまりがあると走行ができず、補助機関車により積雪を押しのけたり、除雪を待って走るので、数時間の遅延が各路線で発生していた。

従って、この冬は毎日のように線路の除雪作業が行われていたことは想像に難くない。

1922年(大正11年)1月6日。岩内と共和町小沢の約15キロを結ぶ岩内線で起きた出来事である。

排雪車に触れて 除雪夫の死傷十三名

【七日岩内電話】六日午後三時十分 岩内支線小澤駅発排雪車が 同四十五分 前田岩内間七哩十鎖附近(俗に山崎と云ふ)進行中 折柄七哩三十鎖附近の除雪作業を終り 岩内町への帰途 線路工夫及除雪夫十六名は 背後より同列車の近づきたるに気付かず 右前部のものが同列車に触れ 即死者二名 重傷者三名 軽傷八名 合計十三名の死傷者を出せり

同排雪車九〇四二号は 機関手 宮由一、機関助手 小路兵七、同 高谷鉄男(以上 倶知安機関庫詰)の三名乗務し居れり
又 排雪車には倶知安補線区工夫 藤原政之助には 前方注視の任に在り 岩内保線助手 吉岡初蔵は機関把平の操縦を為しつつ 前記の箇所に差掛りたるに

同町は吹雪並に 積雪の大難所と目され居れる事とて 忽ち 除雪車の窓の硝子は吹雪の為塞がり 為に見透かし不能と為り 藤原工夫長は上部空窓より首を出し 前方に注意しつつ 警笛を鳴らし前進せるも 日本海より真向ひに猛り打つ風雪の為 咫尺を辨せず 辛ふじて岩内駅に到着せるに

驚ろく可し 同排雪車の前角に 二箇の即死体一人の重傷者が引懸り居り 且 車輪は鮮血に染まり居るを発見 大騒ぎになり 即ち 右死傷者の処置を為すと共に 一方 線路を捜索せるに 前記の箇所(岩内より一哩半)に約二名の重傷 八名の軽傷者 其他が飛ばされしも 傷なき者三名を発見 直ちに鉄道医なる前田病院に収容 応急手当を施せるも

重傷者たる山本留三郎、同 納屋多助両名は 相前後し絶命せり
及川長作のみは 腰肢部に重傷を負えしも 生命を取止め得可く 外八名は軽傷者なり 自宅に引取らしめたり

原因は該箇所は日本海の湿気を帯びたる飛雪は 烈風を捲いて襲来する爲 累次 救援機関車の増設する處あり

当日は救援車を発する旨の電報を現場に作業中の組頭に通せるも 同人は 安達牧場に雪囲いの地所を借受く可く当港に出かけ 暇を要せず為に 他の者に知らしむ能はず

作業者十七名は平成より二 三十分切揚 幌子を眼前に冠し 前方の強風をついて歩み居りし事とて 背後より排雪車が汽笛を鳴らしつつ来れりを気付かず 揃へも揃って列車にはね飛ばされたる次第なり

尚 七日午前零時四十五分岩内着貨物列車も亦 同所にて立往生し 機関車のみ岩内に到着 炭水補給の上 同八時半開通せり
(1922年:大正11年1月8日付 北海タイムスより)

小沢駅から走って来た排雪列車が、岩内駅に着いてみれば、機関車の前に3人の作業員がひっかかっていた。これには、列車を迎えた岩内の駅員も大変驚いたことだろう。

2人は既に亡くなっており、1名は辛うじて息があったということである。

そして調べて見ると、除雪作業を終わらせて岩内へ歩いていた除雪人夫たちが跳ね飛ばされて雪の上に倒れているのが発見されたというわけである。

事故現場は、岩内から1マイル半とある。現在は岩内線は廃止されており、線路跡は道路となっている。
岩内駅から3キロくらいのところは今も「山崎」と呼ばれている。


▲事故現場付近の現在の様子、冬は道路の左側から風が吹き込みやすいので、鉄道自体はこのあたりは吹きだまりが発生しやすかったと考えられる

岩内線は駅から北東に進み、この山崎で大きく右に90度ほどカーブして南東へ向かい、共和町を通り抜けていく。
共和町内は線路の向きと季節風の向きが並行となるため、雪は降っても吹きだまりにはなりにくい。
しかし、岩内駅から山崎までは、線路の向きと季節風の向きが直交するので、線路には吹きだまりが発生しやすくなる。

山崎のところのカーブ区間は、今も北側に林があるのだが、昔の航空写真をみても北側に林帯があり、ひょっとしたらこれは”鉄道防雪林”なのかも。

なお、積雪は音を吸収する性質があり、特に新雪は吸収する割合が大きい。
このため、線路上を歩く作業員は、後ろから近づく列車に気づきにくかったと思われる。
さらに記事には「幌子」とあるが、「帽子」の誤植とすると、作業員は帽子を被って、手ぬぐいなどで耳を覆っているようなことがあれば、なおさら音が聞こえなかっただろう。

また、吹雪に向かって走って来た機関車の窓が、雪がくっついて見えにくくなったことも前方の確認を難しくしたし、そもそも吹雪いていると視界が、悪い。

この日、こうした条件が重なったことで、不幸な事故は発生した。
死者は即死2名に加え、重傷者2名がのちに絶命したことで、合計4名に達する。重傷1名、軽傷8名、合計13名の人的被害の発生である。

このような事故はなかなか無くならず、1998年(平成10年)1月には東青森駅でも線路の除雪作業をしていたJR貨物の臨時作業員4人が臨時列車にはねられて全員死亡する事故が起きている。

当時と違い、モバイル端末の技術が進化したため、現在では列車の接近を知ることも容易になっているとは思うが、吹雪中の安全な線路除雪作業の実施は、今も課題として残り続けている。

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