2024年12月13日

北海道歴天日誌 その248(1922年3月24日)ある警察官の殉職・札幌丘珠

1922年(大正11年)3月24日。

朝鮮半島から進んで来た発達した低気圧が東日本を横断し、この日は関東沖から北海道の南東海上へ北上していった。

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▲1922年3月24日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この日の札幌は、曇り空で夜が明けた。
ただ風は無く穏やかな朝を迎え、最低気温は−11.4℃と、春分の日を過ぎたにもかかわらず、厳しい冷え込みであった。

この日の朝、札幌では天気とは裏腹に、大きな事件が起きていた。

狂人 巡査に斬つく

札幌郡札幌村大字丘珠村 農 水内松次郎(三四)は 五日前より精神に異状を呈し 家族等に暴行を加へるより 二十三日 家人は同村駐在 栃本千五郎巡査に監置方 願出て 同巡査は二十四日午前七時頃 駐在所を発し 松次郎方に赴き 取鎮め居たるに

突然殴打せんとしたるより 同巡査は火箸をもぎ取たる瞬間 佩(はい)剣に手を掛け 引抜くよと 看る間に同巡査に斬付け 左足鼠径部に突刺 長さ一寸 深さ骨膜に達する重傷と 左手拇指に軽傷を負はせたる騒ぎに

家人は大に驚き 尚 狂ひ廻る松次郎を取押へ 一方 同巡査は 村人に送られ 区内北辰病院に担ぎ込み 目下応急手当中なるが 何分にも出血多量にて生命覚束なからんと

札幌署にては 関係者一同を召喚 取調中
(1922年:大正11年3月25日付 北海タイムスより)

現在の札幌市東区丘珠の農家の主人が精神に異状をきたし、騒ぎを鎮めにきた警察官がサーベルを取られ、斬られてしまった。

松次郎は両親と妻、子供1人と三世代五人暮らしの農家の主人。
軍隊を除隊後に梅毒にかかっていたようで、これが原因となり、事件の10日ほど前に精神に異常が現れ、病院で診察を受けていたのだが、日々病気が増し、家族にも口汚く罵倒するようになっていった。

この日、松次郎は「俺の身体に、『たたり神』がついているので、ストーブの火で焼いてやる!」と言い、台所のストーブの蓋を取り、左肩や右の手のひらなどを焼き、暴れ回った。

家族は力の強い松次郎を抑えることができず、隣家の大滝熊吉氏に頼んで駐在所に急を知らせに行った。
こうして栃本千五郎巡査が松次郎宅に着いたのは午前七時過ぎである。

栃本巡査を見た松五郎は一旦、落ち着きを取り戻した。
しかし、栃本巡査が別の家に行っている間に松五郎は再び暴れ出したため、家族が巡査を迎えに行き、栃本巡査が松五郎の所に戻ると、松五郎は神棚に向かって何か祈願をしていた。

そして突然、栃本巡査に「お前はまだ改心せぬか!」と言いながら、爐の中から火箸を取って向かってきたのである。

栃本巡査はそれをもぎ取って抑えようとして取っ組み合いになったのだが、松次郎は巡査のサーベルを抜き取り、左足の鼠径部を深く刺し、さらに右手の指もほとんど切断するほどの深い傷を負わせたのである。

栃本巡査はそれでも格闘を続け、近所の三上輿次郎氏、坪野八太郎氏と協力して取り押さえ、麻縄で縛り上げた。
三上が「もう大丈夫だ」と言ったとき、栃本巡査はかすかにうなずきつつ、そのまま後ろに倒れ、傷口からは泉のように鮮血がほとばしり出た。

このためますます現場は大騒ぎとなった。
札幌村駐在の佐々木巡査に急報しつつ、栃本巡査を北辰病院へ担ぎ込んだ。
しかし、出血多量のため、当日午後5時、手術台上で絶命したのである。

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▲栃本千五郎巡査と家族(1922年:大正11年3月26日北海タイムスより)

栃本巡査は茨城県多賀郡松岡村上手綱(現在の茨城県高萩市)の出身。
日露戦争に従軍後、1911年(明治44年)に福島県の巡査となり、1919年(大正8年)6月に北海道庁の巡査に転職。まず茨戸太駐在所に勤務し、強盗犯人を捜索・検挙して道庁長官から表彰もされている。

1921年(大正10年)12月15日に丘珠駐在所に移ったので、この事件当時、まだ丘珠に来てから4カ月余り。
妻・キヨさんとの間に6人の子供がおり、しかも当時、7人目の子供を妻が妊娠中という状況での殉職であった。

この訃報は、内務省にも伝達され、時の内務大臣・床次竹次郎は「警察官として模範的」ということで、警察官に与えられる勲章としては最高ランクである「功労記章」を授与することとした。道庁も生前の功を表彰するとして、一時金100円を贈ることとしたほか、遺族に月々20円の「特別功労加棒」を贈ることとなった。

葬儀は3月27日に札幌の西本願寺で行われた。
栃本巡査の棺は札幌警察署を出棺、騎馬や弔旗に先導され、音楽隊が悲しみの調べを奏でる中、西本願寺まで葬列が続いた。

また、この事件は広く報じられたことで道民の同情を誘い、多くの義援金が寄せられ、葬儀会場には多くの花輪・電報が届けられた。

ある札幌市民の手紙の内容が報じられている。


・・・今度の栃本巡査の遭難を聞き、私はこの尊い犠牲に深く深く感謝を禁じ得ません
私の母も 私が七つの時に六人の子を残して 父に永別しました
之を思ふ時は 私は此の遺族の今後に対しては 満腔の同情を惜しみません

奉公中の私には多額の義捐も出来ません
氏の殉職に対する慰謝料としては少きかも知れませんが 志だけも諒怨して下さい
若し社会に此件に関して強制的に義捐を募るものとしても 一般社会人は是に応ずる義務のあるものと私は思いたします
・・・


栃本巡査の葬儀の模様は、札幌区内の堀内技師の手により、映画フィルムに撮影された。
葬儀の模様を告げる新聞記事の下に、第一・第二神田館にて、この映画を上映するという広告が打たれている。

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▲栃本巡査の葬儀の映画の上映広告。

ある意味、ニュース映画、それころ今のテレビ報道のはしりのようなものかもしれないが、入場料を取って人の葬式を上映するというのは何とも気分が悪い。それこそ「義捐金」として遺族にわたるのなら、まだ慰めにもなるのであるが

日本のどこかに、このフィルムが今も眠っているのかもしれない。
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2024年12月08日

北海道歴天日誌 その247(1922年3月21日)彼岸嵐が命を飲み込む・・利尻の天国と地獄

1922年(大正11年)3月10日。

道北の遠別町で、新しい橋の完成を祝う催しが開催された。

賑へる遠別渡橋式

天塩国遠別橋渡橋式は 去る 十日挙行新架橋の南北の橋詰には 大緑門を立て 国旗を交叉し 市街は本通り四ツ角に大緑門 第一会場たる公会堂前 第二会場前 並に祝賀会場たる学校前等にも緑門を立て 国旗を交叉し 市街は各戸 皆 燈を掲げ 国旗を揚げ 開村以来曾てなき装飾をなしたり

午前八時 第一号砲を以て準備 第二号砲を以て渡橋式場たる北橋詰に着席 第三号砲にて開場の辞 其より神官の祓 終りて 三夫婦揃って渡し初めをなせり

先導は神官次に林松右衛門(八十二才)同人妻マス(八十二才)次に林栄吉(五十五才)同人妻ツキ(五十四才)次に林作太郎(二十二才)同人妻サヨ(二十才)次ぎは長官代理、留萌支庁長、留萌土木派出所長の順にして 其他は各関係者 官公吏役員 及び 其後に小学校生徒は小国旗を手に打振 渡橋式唱歌を高唱し 其後に一般民衆の順序に渡橋して

午前十時 第四号砲にて祝賀会場たる学校に至り 主催者たる森野村長は開会の辞を述べ 戊申詔書を奉読
次に留萌土木派出所長 町田利臣氏の工事報告 長官代理 北村北海道庁属の告辞代読終りて 村長の式辞 留萌支庁長 塩川圭造氏の祝辞に次ぎて 各来賓の祝辞 次ぎに各所よりの祝電を朗読し終りて 紙谷栄太郎氏は村民を代表して 答辞を述ぶ

第五号砲にて 第一会場公会堂の祝宴に臨む

此の時 天候険悪となり 雪降り来りたるも 見物人近郷より蝟集し 非常の雑踏を呈せり此時第一会場緑門前の高き櫓の上より餅撒きの式あり

会場の祝宴は 楽隊の興を添へ 午後二時 一同遠別村の万歳を三唱し 余興に移る
夜間は芸妓の手踊 少年の芝居等にて 堂内は立錐の余地なき見物人なりき

只 遺憾とする處は天候険悪にて 小学生徒の旗行列と提灯行列中止となりし事なり
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)


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▲遠別橋の渡橋式

遠別橋は、遠別町の中心市街の南を流れる遠別川にかかる橋。
渡船や仮橋はあったようだが、しっかりとした橋がかかったのは、これが初めてだったようで、町を挙げての大祝賀となった。

この時、小学校が歌った祝賀の歌には「幕府時代を思わせし、交通絶ゆる川止や、舟守呼ばる不便さも、消えてうれしや今日よりは」とまで謳われている。

この木橋は、道路を車が走るようになるという交通事情や災害への強靭化という事情もあって、昭和10年代から道内各地で行われた「永久構造橋」への置き換えによって、コンクリートや鋼鉄を使った橋に架け替えられた。

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▲永久橋となった遠別橋(新北海道史第5巻より)

現在の遠別橋は留萌開建の国道232号線道路台帳(R5版)によれば1971年(昭和46年)に架かったとのことなので、既に50年以上が経過した。
そろそろ新たな橋に架け替えという話が出て来るのかも。


▲いまの遠別橋

ところで、記事中にあるように、3月10日は遠別では天気はあまりよくなかった。
近隣の羽幌測候所の記録では、10日は午前中は晴れ間があったが、正午前から雨が降り出し、雪に変わって、また雨が混じるという空模様。
風速も10m/sから15m/sとかなり強い。雨や湿った雪が横殴りで降る中では、旗行列や提灯行列も難しかったのもうなずける。

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▲1922年(大正11年)3月9日の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

この荒天の原因となったのは、当時の満州方面から沿海州北部を通って樺太方面へ進んだ低気圧が原因なのだが、この低気圧をめぐっては、遠別からさらに北で、ある”騒ぎ”が巻き起こっていた。

八方に吹き散らされた鬼脇漁民蘇生の祝ひ

利尻郡鬼脇村 蟹漁発動機船十余艘 及び 鱈釣川崎船四十余艘は 去九日未明より 同島沖合に出漁し居たるも
午前十一時頃より 俄に南方の強風吹き荒み 怒涛を巻いて荒れ狂ふより 各船は何れも競ふて帰村の途に就けるも 天候は 刻一刻険悪となり 船の操縦も思ふに任せず 遂に狂瀾の弄ぶ處となりて 同日夕刻迄 辛ふじて帰村せるもの 僅かに川崎船二隻のみにて

他は悉く行方不明となり 漁夫の家族の悲歎一方ならず 悲痛なる一夜を明かして 翌日は村民総出にて夫々救助の方法を講じたるが
同日に至り 礒江 政木 両氏の川崎船二隻が此日未明 水船となりて チュシナイ沖合約六海里の海上に漂流中 中川缶詰所所有の美保丸第二号に救助され 乗組無事にてチンドマリに入港せる由の電話ありて
続いて鴛泊 礼文 納内 其他各地より夫々無事避難せる旨の電報あり

十二日 各避難地より続々帰村せり

村民の喜び一方ならず 是 ひとえに神の加護に外ならずとて 漁業家一同は北見神社に参拝し 同時に鬼脇漁港完備せざる間は 安心して出漁すること難しとし 鬼脇漁港修築請願の議会通過を祈願し 一般村民にも大いに其速成熱を高めたりと

因に 今年の同村に於ける蟹漁は開村以来の大漁にて 今日迄の製造箱数既に五千六百函餘に達し 其価格 実に二十数万円にして 第一期の成績としては全く未曽有なりと
(1922年:大正11年3月19日付 北海タイムスより)

この年は利尻島周辺ではカニが豊漁だったようだが、3月9日の朝、カニやタラを獲りに出漁した漁船は、昼前から南風が強まって天候が悪化してきたが、港に戻れず、そのまま「行方不明」となっていたのだが、実は礼文や他の漁港に避難していて、嵐が収まってから無事戻って来た・・・というニュースである。


▲利尻富士町鬼脇の北見神社

羽幌測候所の記録では、9日は午前2時の風速が3.3m/sだが、午前10時には南南東の風が5.5m/sとなり、午後2時には8.9m/s、午後6時には10.7m/sとだんだん強まっている。ただ、この地方で特別の強風・暴風ということでもない。
また、鬼脇は、利尻島では南東側に位置するので、南東風に流されても、利尻島の山影にまわりこめれば、鴛泊や沓形といった、利尻島の北側にある漁港にも避難は可能。こうしたことが、全員の生還に繋がったのであろう。

しかし、一週間余りのち、利尻の空は再び荒れる。

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▲1922年(大正11年)3月21日の天気図

20日は発達した低気圧が日本海を北東に進み、北海道は朝は穏やかだったが、次第に東寄りの風が強まっていった。
低気圧は21日に北海道をゆっくり通過、22日は強い冬型の気圧配置に変わる。”彼岸荒れ”である。

羽幌測候所の風速も、20日の朝は1〜2m/sだったが、21日には10m/s前後に強まり、22日の午後から23日にかけては15m/s前後と大荒れになった。羽幌では21日に19.0m/sの最大風速を観測している。

函館では、21日に南西の風が25.4m/sに達し、今に至るまで3月の観測史上1位の記録を保持しているほか、宗谷岬でも同日に風速24.8m/sを記録している。稚内地方気象台では、3月にこの時を超える風を観測したことは一度しかない。

利尻 廿名溺死

【廿二日鬼脇発電】
廿一日より廿二日朝迄に 利尻地方は未曽有の暴風雨となり 発動機船三隻難破し 廿餘名溺死を遂ぐ

別報
二十日 利尻郡鴛泊村大字本泊村佐藤倉吉方 鱈釣川崎船同村沖合にて暴風の為遭難し 二十一日午後一時 沓形村に漂着
乗組員八名中 泊村 佐々木梅吉(三〇)は溺死し 行方不明三名 其他救助せりと
(1922年:大正11年3月23日付 北海タイムスより)


3月としては、北海道では十本の指に入るほどの荒れ模様。
利尻での奇跡は、二度は続かなかった。

遭難する船舶からは死者・行方不明者が続出。その数、20名を超える惨事となったのである。

天国と地獄というには、あまりにも落差は大きい。
大正11年はこうして春が近づいていった。
posted by 0engosaku0 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月01日

北海道歴天日誌 その246(1922年3月11日)晩冬の北風に吹かれ、狸小路・第一神田館失火で焼失

1922年:大正11年3月11日。

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▲3月11日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)

千島方面に低気圧があり、東シナ海には高気圧が進んできている。北海道付近は冬型の気圧配置となっている。

札幌は午前4時の気温が−1.8℃で西の風が4.9m/s。雲量はゼロなので快晴である。
ただ、札幌測候所の職員は、ひょっとすると南の空に雲ではなく、炎と煙はみていたかもしれない。

この日の札幌は大きな火災があったのだ。

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▲第一神田館の火災(1922年:大正11年3月12日付北海タイムスより)

札幌の南2条西4丁目・狸小路の北側にあった映画館、第一神田館が燃えた。
第一神田館は、札幌では初の常設映画館で、旭川の実業家・佐藤市太郎が道内各地で経営していた映画館のひとつである。

火焔に包まれ焼死

一方 焼落る家屋の余勢に煽られ 四散せる無数の火の粉は 遠く南七条辺迄落ち 劇場錦座 西田座にては 座員 何れも屋上に攀(よじ)登 降り注ぐ火の粉を消し止め居たり

右火災に際し 火元なる神田館見習事務員 新井不二雄(二五)は 同館三階に就寝し居たるが 火勢速かりし為 逃げ場を失ひ 座布団を冠り 火焔を防ぎつつ うろうろする中に 遂に崩れ落つる建物の下敷となり 両眼飛出し 無惨の焼死を遂げ

同事務室に当直せる下足番 熊谷三郎(二八)は出火と同時に行方不明となり 目下行方捜査中

其他 公立消防組員中 九名の軽傷者を出したるが 何れも出張せる赤十字看護婦の応急手当を受たり

尚 火元に近接せる多くの罹災中には 眼を覚せる当時 既に火の手に見舞われ 殆ど着の身着の儘に避難せる者多く 中には二階より愛児を街路上に投 辛くも焼死を免れたる者すらあり 目下 札幌署にて極力調査中

火元と真向いのライオン食堂

類焼したライオン食堂の高橋君は語る
「火元が真向ひの高い建物なのに 路は狭し 風は北西といふので 私共はまる被りと云った具合で
起きて見ると もう通りは一面の火の海で 危険も甚だしいので 先づ何より家人を避難させねばならぬと思って 其方にのみ気を焦ったが 裏口から出されぬので 大間誤つきでした

それでも手廻り物を少し裏まで運びましたが 其時は既に五重塔に飛火して 盛に燃え上がり 間もなく倒壊して裏の方から火の手が挙がったには全く閉口しました」

又 隣接した貴金属細工商 鈴木一光堂でも同様な始末で家人は殆ど身を以て逃れた様なものである

尚 類焼者中 殊に気の毒に堪えないのは 札幌印判業組合長 三室繁次郎方で 前日 子息の妻女を野辺送りし 一家悲しみの上に 此有様で只呆然としていた
(1922年:大正11年3月12日付 北海タイムスより)

道内各地の「神田館」は1920年代に入ってから受難続きであり、1920年(大正9年)は夕張の神田館が焼失、1921年(大正10年)は旭川の第三神田館が焼失しており、これが三つ目の映画館焼失であった。

札幌の第一神田館も、1920年の暮れにボヤ騒ぎを起こしたことがあったほか、この火災の二日前にもボヤ騒ぎがあったという。

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▲火災後の狸小路の様子(3月12日付 北海タイムスより)

冬型の気圧配置による北西風は、朝にかけて7m/s前後に強まり、神田館からの火が、付近一帯に燃え広がった。
全焼39棟41戸、半焼2棟2戸の大被害であった。ただ、料亭のいく代は石造りが幸いし、類焼は免れた。

火事の原因は、当直中の下足番が10日の営業終了・閉館後、酒を呑んで酔っ払い、爐火が残ったまま眠ってしまったことであった。
目を覚ました時には、既に火焔が付近に燃え広がり、消火ができずにそのまま逃げ出して行方をくらましていた。

11日夜10時40分の琴似駅発の列車で小樽方面に逃げようとしているところを札幌署の警官に逮捕され、失火罪で検事送りとなった。

ところで、火災のあと、違った争いが勃発している。

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▲焼け跡の地価暴騰を報じる記事(1922年:大正11年3月16日付 北海タイムスより)

狸小路南3条側の一角は”強欲非道”の地主・五十嵐久助の所有地であり、「火事の際は借地権消滅」となっていたことから、焼け跡に再び住みたい罹災者と、”野心家”という一種の地上げ屋のようなものとの間で、土地争奪戦が繰り広げられていたのである。

結局、18日になって札幌署の薦田署長が、五十嵐久助をはじめに、若月清八や南部伊三郎・伊之吉など関係者を署に呼び出し、「この機会を利用して地代を値上げするな」と戒告を発したため、地価は上げずに復興に向けて動き出すこととなった。

ただ、罹災者一同に対しても焼け跡の仮小屋建設は許さず、新築の場合も不燃の材料で建てるように戒告したという。

ここから100年余り。この一角はドン・キホーテ狸小路店やカラオケ館狸小路店などがあるが、こうした争いの歴史も織り込みながら、この土地は活用され続けているのであった。
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