朝鮮半島から進んで来た発達した低気圧が東日本を横断し、この日は関東沖から北海道の南東海上へ北上していった。

▲1922年3月24日午前6時の天気図 (『天気図』大正11年3月,中央気象台,1922-3 国立国会図書館デジタルコレクションより)
この日の札幌は、曇り空で夜が明けた。
ただ風は無く穏やかな朝を迎え、最低気温は−11.4℃と、春分の日を過ぎたにもかかわらず、厳しい冷え込みであった。
この日の朝、札幌では天気とは裏腹に、大きな事件が起きていた。
狂人 巡査に斬つく
札幌郡札幌村大字丘珠村 農 水内松次郎(三四)は 五日前より精神に異状を呈し 家族等に暴行を加へるより 二十三日 家人は同村駐在 栃本千五郎巡査に監置方 願出て 同巡査は二十四日午前七時頃 駐在所を発し 松次郎方に赴き 取鎮め居たるに
突然殴打せんとしたるより 同巡査は火箸をもぎ取たる瞬間 佩(はい)剣に手を掛け 引抜くよと 看る間に同巡査に斬付け 左足鼠径部に突刺 長さ一寸 深さ骨膜に達する重傷と 左手拇指に軽傷を負はせたる騒ぎに
家人は大に驚き 尚 狂ひ廻る松次郎を取押へ 一方 同巡査は 村人に送られ 区内北辰病院に担ぎ込み 目下応急手当中なるが 何分にも出血多量にて生命覚束なからんと
札幌署にては 関係者一同を召喚 取調中
(1922年:大正11年3月25日付 北海タイムスより)
現在の札幌市東区丘珠の農家の主人が精神に異状をきたし、騒ぎを鎮めにきた警察官がサーベルを取られ、斬られてしまった。
松次郎は両親と妻、子供1人と三世代五人暮らしの農家の主人。
軍隊を除隊後に梅毒にかかっていたようで、これが原因となり、事件の10日ほど前に精神に異常が現れ、病院で診察を受けていたのだが、日々病気が増し、家族にも口汚く罵倒するようになっていった。
この日、松次郎は「俺の身体に、『たたり神』がついているので、ストーブの火で焼いてやる!」と言い、台所のストーブの蓋を取り、左肩や右の手のひらなどを焼き、暴れ回った。
家族は力の強い松次郎を抑えることができず、隣家の大滝熊吉氏に頼んで駐在所に急を知らせに行った。
こうして栃本千五郎巡査が松次郎宅に着いたのは午前七時過ぎである。
栃本巡査を見た松五郎は一旦、落ち着きを取り戻した。
しかし、栃本巡査が別の家に行っている間に松五郎は再び暴れ出したため、家族が巡査を迎えに行き、栃本巡査が松五郎の所に戻ると、松五郎は神棚に向かって何か祈願をしていた。
そして突然、栃本巡査に「お前はまだ改心せぬか!」と言いながら、爐の中から火箸を取って向かってきたのである。
栃本巡査はそれをもぎ取って抑えようとして取っ組み合いになったのだが、松次郎は巡査のサーベルを抜き取り、左足の鼠径部を深く刺し、さらに右手の指もほとんど切断するほどの深い傷を負わせたのである。
栃本巡査はそれでも格闘を続け、近所の三上輿次郎氏、坪野八太郎氏と協力して取り押さえ、麻縄で縛り上げた。
三上が「もう大丈夫だ」と言ったとき、栃本巡査はかすかにうなずきつつ、そのまま後ろに倒れ、傷口からは泉のように鮮血がほとばしり出た。
このためますます現場は大騒ぎとなった。
札幌村駐在の佐々木巡査に急報しつつ、栃本巡査を北辰病院へ担ぎ込んだ。
しかし、出血多量のため、当日午後5時、手術台上で絶命したのである。

▲栃本千五郎巡査と家族(1922年:大正11年3月26日北海タイムスより)
栃本巡査は茨城県多賀郡松岡村上手綱(現在の茨城県高萩市)の出身。
日露戦争に従軍後、1911年(明治44年)に福島県の巡査となり、1919年(大正8年)6月に北海道庁の巡査に転職。まず茨戸太駐在所に勤務し、強盗犯人を捜索・検挙して道庁長官から表彰もされている。
1921年(大正10年)12月15日に丘珠駐在所に移ったので、この事件当時、まだ丘珠に来てから4カ月余り。
妻・キヨさんとの間に6人の子供がおり、しかも当時、7人目の子供を妻が妊娠中という状況での殉職であった。
この訃報は、内務省にも伝達され、時の内務大臣・床次竹次郎は「警察官として模範的」ということで、警察官に与えられる勲章としては最高ランクである「功労記章」を授与することとした。道庁も生前の功を表彰するとして、一時金100円を贈ることとしたほか、遺族に月々20円の「特別功労加棒」を贈ることとなった。
葬儀は3月27日に札幌の西本願寺で行われた。
栃本巡査の棺は札幌警察署を出棺、騎馬や弔旗に先導され、音楽隊が悲しみの調べを奏でる中、西本願寺まで葬列が続いた。
また、この事件は広く報じられたことで道民の同情を誘い、多くの義援金が寄せられ、葬儀会場には多くの花輪・電報が届けられた。
ある札幌市民の手紙の内容が報じられている。
・・・今度の栃本巡査の遭難を聞き、私はこの尊い犠牲に深く深く感謝を禁じ得ません
私の母も 私が七つの時に六人の子を残して 父に永別しました
之を思ふ時は 私は此の遺族の今後に対しては 満腔の同情を惜しみません
奉公中の私には多額の義捐も出来ません
氏の殉職に対する慰謝料としては少きかも知れませんが 志だけも諒怨して下さい
若し社会に此件に関して強制的に義捐を募るものとしても 一般社会人は是に応ずる義務のあるものと私は思いたします
・・・
栃本巡査の葬儀の模様は、札幌区内の堀内技師の手により、映画フィルムに撮影された。
葬儀の模様を告げる新聞記事の下に、第一・第二神田館にて、この映画を上映するという広告が打たれている。

▲栃本巡査の葬儀の映画の上映広告。
ある意味、ニュース映画、それころ今のテレビ報道のはしりのようなものかもしれないが、入場料を取って人の葬式を上映するというのは何とも気分が悪い。それこそ「義捐金」として遺族にわたるのなら、まだ慰めにもなるのであるが
日本のどこかに、このフィルムが今も眠っているのかもしれない。