2025年02月23日

北海道歴天日誌 その254(1922年6月27日)6月末なのに氷が張る?一生に一度の大降霜

1922年(大正11年)6月下旬の北海道。

当時の皇太子にして、摂政宮でもあるのちの昭和天皇の、初めての北海道行啓まであと10日ほどということで、当時の新聞紙面には皇室関係の記事が多い。もっとも、東伏見宮依仁親王の薨去(6月26日)という不幸もあったが、北海道行啓は予定通り行われるということが直後に発表され、北海道全体としては歓迎準備が慌ただしくなっていく。

九十三の春秋を重ねた 札幌の高齢者

七十 古来稀なりとされてゐるが 今夏 摂政宮殿下御来道の節 お迎へ申上べき区の高齢者中には九十三の齢を重ねた人々が四人ゐる

それは豊平町水車通 寺尾仁蔵祖母 寺尾セエさん
南七条西一丁目 田中源次郎母 田中登羅さん
北八条西五丁目 鈴木靖蔵さん
南四条西二丁目 福住方 岩永みかさんで

記者は この光栄と歓びをあたいして 寺尾方を訪へば セエさんは端然 神の如くに座して
「私の生れは越後北蒲原で 孫達が笑へますが 天保元年十月十八日の出生です
 農業をいたしてゐましたが 廿二年前に夫に先立たれ 七十九歳の時 こちらへ参りました
 子供は八人ありましたが 只今では五十五と四十九になる二人が残っている許りです
 孫は六人御座います 眼も耳もまだまだ達者なもので、近所の人達がお婆さんの作った草履や草鞋(わらじ)を頂けば たっしゃになるからと 貰へに来ますから 役に立ちさうもありませんが 差し上げてゐます
 私の孫婆さんもちょうど九十三迄生きてゐまして 私共が驚いたのですが 自分でその身になると それ程でもありません
 若い時から病気一つするのではなし それだけが取柄です

 時勢が変わりましたね 私共の若い頃には十円のお金があれば玄米四斗五升入が四十五俵も買はれて 馬一頭が二十五文でした
 五両の馬を買ったといふ人があって大騒ぎで見物に出かけたものでした

 殿下をお迎へますのは今度二度目ですが 郷里に居ります頃 明治陛下の御巡幸を拝しましたので 御三代といふ事になりまして 私は本当に幸せ者だと思ひます」云々

又 仏のように柔和な田中とらさんは
「此頃で自分の身体を持余してゐますが 四十二三の頃は 二十貫もありましてね 五斗俵位なら そんなに骨を折らずに担いだものでした
 私は餅が好きで 若い頃は二升位も食べました
 病ですか 是と云て大した病もしませんでした
 耳は少し遠くなりました
 眼はまだたっしやで思ひ出した様に時偶(ときたま)針仕事をして見ますが 根が続まヘンな

 生まれどすかい
 京都でな風呂屋をしてゐました
 二十五年前こちらへ参りましたが その頃の札幌は寂しいもんでした

 子供は一粒種で源次郎一人よりありませんが 孫が二人ございます
 妙なことがあるもので 今年の一月三十一日に狐にばかされてな
 この通り坊主になりましたが その時の事は私は何も知りまヘンが 家の人はよう知っとりまへう」
との話がそれからそれへと続いた

尚 九十二歳では 北五西十八の西島善七 北一西十一の出倉ナミ、南一西九 五十嵐タセ、北四西六 川村ナカといふ長寿者がゐる
(1922年:大正11年6月26日付 北海タイムス)


セエさんの「天保元年」というのはちょっと複雑。
改元したのが旧暦12月10日なので、正確にいえば天保元年の10月18日は存在しない。
このため、正しくは前の元号である「文政15年」の10月18日の出生ということになる。

この頃は、行啓時に当地の高齢者の方々が特に拝謁を受けたり、下賜品をいただくということが恒例であり、ここで紹介された方々は半月後の7月12日、豊平館前で皇太子を奉迎することとなる。

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▲大通(北一西一)の豊平館前で皇太子を奉迎する札幌区内の高齢者たち(1922年:大正11年7月12日午後:北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より)

さて、この記事が載った翌日の北海道は、6月後半としても高齢の彼等でも経験がないような強い冷え込みに見舞われた。

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▲6月26日午後6時の地上天気図(『天気図』大正11年6月,中央気象台,1922-6 国立国会図書館デジタルコレクションより)

沿海州方面から樺太方面へ気圧の尾根を延ばす高気圧。大陸から南下してきた寒冷な高気圧であるが、この高気圧が、流氷解消がひときわ遅かったこの年の冷たいオホーツク海がある北方から、冷たい空気をゆっくりと南下させてきた。

翌27日朝の最低気温は、旭川で1.2℃、帯広で1.5℃、釧路で2.0℃、紗那2.3℃、網走2.7℃、羽幌3.0℃と、道北・道東では軒並み3℃以下となり、札幌でも5.8℃、函館と根室5.7℃を記録した。

旭川の1.2℃は、6月下旬としては極めて異常な低温で、この後2024年に至る約100年にわたり、これほどの低温は観測されていない。
この低温により、釧路では結氷を観測したほか、旭川と帯広、網走、釧路では霜を観測した。

北海タイムス6月28日版には、早くもこの日の降霜が速報され、上川支庁一帯で降霜があり、戸外の水には薄氷が張ったと記されている。
翌日の紙面には、道東・道北に加え、倶知安でも霜が降りたことが報じられている。

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▲遅霜の大被害を伝える紙面(1922年:大正11年6月29日付 北海タイムスより)

上川地方の剣淵では気温が氷点下に下がり、初冬の如き寒さであった。
富良野の布礼別では、厚さ一分の氷が張り、指で突いても割れないほどであった。
空知地方では一已(深川)で結霜のため、各種の豆は多く枯死した。秩父別でも小豆・カボチャは全滅した。
由仁村では、4.5℃の気温で降霜し、150ha程度の被害があり、馬鈴薯は土より上に現れている部分は全部枯れた。
紋別の渚滑でも作物被害は甚大と伝えられている。

のちの北海道庁のまとめでは、霜の被害の面積は42,000haとされている。
道の地域防災計画資料編の巻末には、本道の災害被害が1000件以上記録されているが、これ以降の約100年間の遅霜被害で、これほどの面積規模の事例はない。
(次は1937年:昭和12年6月12日の12000ha以上。被害額では1985年:昭和60年6月14日〜15日に70億円を超える被害事例あり)

なお、上川支庁の調査では、名寄周辺の霜害について、以下のような特徴が報告された。
・高台は被害はなく、平地や谷間に被害が多い
・水田と水田の間にある畑は被害が少ない
・やや湿地の場所は乾燥地に比べて被害が少ない

この特徴は、上川南部の山部(富良野)についても同様であった。

冷たい空気が重く、水と同じように低い場所にたまりやすいこと。そして水の存在が温度の低下や結霜を和らげること。こういったことが教訓としてあぶりだされている。

被害の大きかった上川・十勝ではそれぞれ善後策が協議されたが、どちらも結論としては「まだ捲き直せば望みはある」というものであった。
こうして、ソバや菜豆を捲き直す対策が行われることとなるが、この先の二か月後の未来に、大正最大級の大水害が待ち受けているとは、まだ誰も知らない。

posted by 0engosaku0 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月11日

北海道歴天日誌 その253(1922年6月19日)羊蹄山に石室!建設スタート

1922年(大正11年)6月19日。
今回は、この日の天気図から。

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▲6月19日午前6時の地上天気図

日本列島は、ちょうど平たい山の頂上付近のような気圧となっていて、全般に気圧の差がない。
札幌の6時の風速は0.3m/sと、ほぼ風のない静穏な状態。気温は15.6℃で雲量はゼロ。雲一つない快晴である。

同様に寿都も快晴で、風速はやはり0.3m/s。気温は15.4℃であった。
後志地方では真っ青な空の下に、羊蹄山がくっきり姿をみせていたことであろう。

この穏やかな朝、ある目的を持って羊蹄山に登る者があった。

蝦夷富士 百人収容の石室 経費約二千円で建造

登山季節の近づくにつけ 蝦夷富士登山会では 予て計画中の山頂に経費二千円かけて三間に四間の宿泊用の石室百名収容所建造に就き 建築箇所選定として 同会幹事 高山禎亮氏 建築請負者 石工 渡辺亀之助(六十五)を伴ひ 去 十九日朝十時 半月湖出発、登山、同日午後下山した

建築個所は 元の宿泊所々在地点で 雲泉湖畔お花畑と確定した由

いよいよ二十四日から工事開始することになり、同日前記渡辺請負者は石工三名と人夫八名とを連れて登山、七月中旬竣工まで下山せず 工事作業に従う由

目下 雲泉湖に一大雪渓展開し、之を利用して 手橇で石材を運び卸す由。

また 木の工事材料は 倶知安町から半月湖に運んであるものを、七月六日か七日頃 約三日間、町各青年団の協同援助の作業に依頼して 山頂工事現場まで運搬することになる由

此の外 本月二十一日から半月湖より山頂まで登山道路修繕中で 経費約三百円かかるものの由

今年ははやくも登山申込者 団体で六団体 人員四百名ある程で こうまで早くから蝦夷富士の登山気分になった年はないから 七月十五日の山開きまでには石室竣工させたいと、高山幹事はいふて居るが、先 七月二十日頃ならでは宿泊が叶ふほど工事が進捗しまいといふ
(1922年:大正11年6月25日付 北海タイムスより)


古くは「マッカリヌプリ」とよばれた羊蹄山。
1905年(明治38年)7月には山麓の倶知安の郵便局長などが呼びかけて「蝦夷富士登山会」が設立され、登山道を整備して神社を建立、休息所も建てられて、大正の半ばには多くの登山者が集まる山となっていた。

頂上付近に設けられた木造の休息所は「雲上閣」と名付けられていたのだが、この年、これを壊して頑丈な石室を設けることとなり、2000円ほどの費用をかけて建設工事がはじまることとなったのである。

石室が設けられたのは、倶知安口の登山道を登っていき、標高1700m付近にあるなだらかな広場で、記事では「お花畑」とされている。
この場所に100名が収容できる堅固な”石室”の建設が始まったのである。

記事では山開きまでになんとか竣工させたいとのことなので、わずかに工期一ヶ月という突貫工事である。

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▲完成した羊蹄山の石室(1922年:大正11年8月17日付 北海タイムス)

この石室には暖炉もあったようで、避難小屋的な性格も持ち合わせていたようである。

できたての石室に立ち寄った、札幌高等女学校の3年生生徒によるこの年の夏の「蝦夷富士登山談」も読んでみよう。

静寂の闇を衝いて 蝦夷富士の日の出へ

記者様、私たちがハチきれるやうな元気を抱いて山麓の登山事務所についたのは、もう黄昏でした。
靄は何時か霧雨となりました 蒼茫(そうぼう)として暮てゆく事務所から見下すと、半月湖は模糊たる霧間の中に、その鈍い銀の色が刻一刻と暗くなってゆくのでした。

一行が、愈々小丸提灯をもって勢揃ひした時は、あたりはもうすっかり闇につつまれていました
手に手に持つ提灯の火影が、降りしきる霧雨に、夢のやうにボカされるのでした。

午後八時半出発、駒返しあたりから、霧は益々深くなって、喬木の葉末々々にたまる霧が、雫となって落ちては、雨のやうな音を立てるのでした。

皆 元気でした
「ワア」といったやうな歓声が、時々夜の山にこだまします。

トド松やエゾ松や、仰いでも空も見えぬやうな喬木の葉が、提灯の火に照らされては、美しく映えるのです

一合目から二合目と 岩石を攀るうちに 夜はだんだんと更けてゆきます。
汗はグッショリと背を潤ほし、霧はじめじめと衣袂を重くさせます

山中の静寂 山中の闇黒、それを衝いて登るうちに、いつとはなしに霧が薄くなりました。
一行が雲の上に出たのです。

やがて四合目頃から晴れかかった空が見え出し、ボーと明るくなったと思ふとどうでせう、葉頃をもれて十日頃の月が、微笑むが如く輝いているではありませんか。

「月々、月が出たよ」

一行はこえをあげて悦びました。
そのよくみると、ミルクを溶かしたやうな雲の海が、この月の光の下にほのぼのと見えわたるものですもの

やがて六合目も近い頃、フト美しい鳥のこえが聞こえて来ました
聞きなれないその声は、澄みきったものではありましたが、しかも巾の広いもので、どこかに渋味をもっているものでした。

それが深夜の谷あいに響き渡るのですが、聞く我々には、妙に落ちついた それでいて淋しみがあるものでした。
何だか 酸いも甘いも嚙み分けた世捨人が、その人生観を朗らかに賛美するやうにも聞きなされるのでした。

私たちは一斉に鳴りを静めて耳を傾けました。
「一鳥啼いて 山 更に静なり」
その声が絶えますと、風もない夜更けの深山は、ヒッソリとして、静寂といふ感じが犇々(ひしひし)と身に沁みました

六合目から七合目、だんだん道は険しくなる、それでも一人の落伍者も出さずに規則正しく休憩しながら又登る、一行四十二名一列となって漁貫して登る時のさまは我ながら勇ましくも頼もしくも思はれるのでした。

もう喬木はすっかり無くなりました。

月は何時の間にか、西のかた、雲の海に没して 空には夥しい星が、夜を領することを誇るかのやうにキラキラ輝くのが、鮮やかに見えます。
時折スーッと尾を曳いて流星が山角をすれすれに掠めて飛びます。

九合目の石室についたのは午前二時、冷たい夜風が流れて、ジーッと立っていると寒さに堪えられぬ程でした。
しかし ストーブをたいてある石室の中にはいると 春のやうに暖かくて、急に睡魔が襲って来るのでした


石室で一時間休憩し、正三時に此処を出て、頂上にむかひました

一分毎に夜は白々と明て、提灯の火もいつか力のないものとなり、星も次第次第に消えてゆきますと 脚下は一面の雲の海!
恰も大海原の千波万波が、巌に激して数千尺の飛沫をあげているやうに、或は幾千の天馬が、その白い鬣(たてがみ)を暁風になびかせて狂奔しているやうな雲の海の姿

何心なく眺めると凝然として動かぬやうなその雲は、仔細に見るとたえず浮動していて、或は崩れ 或はむらがるのです

そして、この雲の海の間から、群山をぬく幾つかの山がわが羊蹄山より遥に下の方で、大海原の中の小島の如く、所々にあらはれています

一行は頂にわたる寒風に慄(ふる)へながらも、勇を鼓して進みました
そして絶嶺の剣が峰に達し、岩角に風をよけて、日の出を待ち受けました。

もう四辺はすっかり明るくなって、足許につつましげに咲いている龍胆の紫色の花冠に表れる、陰影すら見得る位になりました

見ているうちに、東の空、雲の果てに一抹の朱の横雲が現れ、ついでそれが真紅となり 焔となり、爛々と輝いたのでしたが、肝腎の日輪は容易にあらはれさうもありません

五分、十分 寒さはいよいよ加はる
しかしこの登山もただこれを楽みにと思ふ一行は、じいつと堪へ忍んで待ちました

東の空の幾筋の雲はますます真紅に 黄金に焔々と燃えるやうに輝きはじめました

「ばんざあい」
私共より一足先に頂に来ていた札幌少年団の勇ましい声がきこえました
と 見る東の空には、眩い太陽がかくと輝いて 脚下の雲の海は一面に淡いピンク色に染まりました。

ふりかえるとわが山嶺の影は 反対側の雲の海に、濃い藍色に長く長く投げられていました

壮大な眺め、美しい極み、私達はこの光景を賛美する爲に、暫くは寒さを忘れてジーッと立っていました

自分等の影が長く長く 背後の旧噴火口の口に投げ込まれているのも忘れて
(1922年:大正11年8月4日、5日付 北海タイムスより)


女学生の投稿を装った、同行記者の感想文のような気がしないでもないが、暖をとって休憩できるというのは、まさに石室は蝦夷富士登山者のオアシスのような存在であったことは、この文からもよくわかるもの。


羊蹄山の頂上付近には、その後1943年(昭和18年)10月に気象測候所が設けられるが、数年で観測を終了する。
その後、1972年(昭和47年)に、道が100人収容可能の避難小屋を建設し、現在は、2014年(平成26年)に環境省がほぼ同じ場所に2代目の避難小屋を建設して現在に至っている。

石室は現在は全く放棄され、石積みが大量に残置されているということである。
このため、石室跡まで行けば、100年以上前に建設に携わった石工の仕事ぶりが観察できるかもしれない。
posted by 0engosaku0 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史と天気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする