当時の皇太子にして、摂政宮でもあるのちの昭和天皇の、初めての北海道行啓まであと10日ほどということで、当時の新聞紙面には皇室関係の記事が多い。もっとも、東伏見宮依仁親王の薨去(6月26日)という不幸もあったが、北海道行啓は予定通り行われるということが直後に発表され、北海道全体としては歓迎準備が慌ただしくなっていく。
九十三の春秋を重ねた 札幌の高齢者
七十 古来稀なりとされてゐるが 今夏 摂政宮殿下御来道の節 お迎へ申上べき区の高齢者中には九十三の齢を重ねた人々が四人ゐる
それは豊平町水車通 寺尾仁蔵祖母 寺尾セエさん
南七条西一丁目 田中源次郎母 田中登羅さん
北八条西五丁目 鈴木靖蔵さん
南四条西二丁目 福住方 岩永みかさんで
記者は この光栄と歓びをあたいして 寺尾方を訪へば セエさんは端然 神の如くに座して
「私の生れは越後北蒲原で 孫達が笑へますが 天保元年十月十八日の出生です
農業をいたしてゐましたが 廿二年前に夫に先立たれ 七十九歳の時 こちらへ参りました
子供は八人ありましたが 只今では五十五と四十九になる二人が残っている許りです
孫は六人御座います 眼も耳もまだまだ達者なもので、近所の人達がお婆さんの作った草履や草鞋(わらじ)を頂けば たっしゃになるからと 貰へに来ますから 役に立ちさうもありませんが 差し上げてゐます
私の孫婆さんもちょうど九十三迄生きてゐまして 私共が驚いたのですが 自分でその身になると それ程でもありません
若い時から病気一つするのではなし それだけが取柄です
時勢が変わりましたね 私共の若い頃には十円のお金があれば玄米四斗五升入が四十五俵も買はれて 馬一頭が二十五文でした
五両の馬を買ったといふ人があって大騒ぎで見物に出かけたものでした
殿下をお迎へますのは今度二度目ですが 郷里に居ります頃 明治陛下の御巡幸を拝しましたので 御三代といふ事になりまして 私は本当に幸せ者だと思ひます」云々
又 仏のように柔和な田中とらさんは
「此頃で自分の身体を持余してゐますが 四十二三の頃は 二十貫もありましてね 五斗俵位なら そんなに骨を折らずに担いだものでした
私は餅が好きで 若い頃は二升位も食べました
病ですか 是と云て大した病もしませんでした
耳は少し遠くなりました
眼はまだたっしやで思ひ出した様に時偶(ときたま)針仕事をして見ますが 根が続まヘンな
生まれどすかい
京都でな風呂屋をしてゐました
二十五年前こちらへ参りましたが その頃の札幌は寂しいもんでした
子供は一粒種で源次郎一人よりありませんが 孫が二人ございます
妙なことがあるもので 今年の一月三十一日に狐にばかされてな
この通り坊主になりましたが その時の事は私は何も知りまヘンが 家の人はよう知っとりまへう」
との話がそれからそれへと続いた
尚 九十二歳では 北五西十八の西島善七 北一西十一の出倉ナミ、南一西九 五十嵐タセ、北四西六 川村ナカといふ長寿者がゐる
(1922年:大正11年6月26日付 北海タイムス)
セエさんの「天保元年」というのはちょっと複雑。
改元したのが旧暦12月10日なので、正確にいえば天保元年の10月18日は存在しない。
このため、正しくは前の元号である「文政15年」の10月18日の出生ということになる。
この頃は、行啓時に当地の高齢者の方々が特に拝謁を受けたり、下賜品をいただくということが恒例であり、ここで紹介された方々は半月後の7月12日、豊平館前で皇太子を奉迎することとなる。

▲大通(北一西一)の豊平館前で皇太子を奉迎する札幌区内の高齢者たち(1922年:大正11年7月12日午後:北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より)
さて、この記事が載った翌日の北海道は、6月後半としても高齢の彼等でも経験がないような強い冷え込みに見舞われた。

▲6月26日午後6時の地上天気図(『天気図』大正11年6月,中央気象台,1922-6 国立国会図書館デジタルコレクションより)
沿海州方面から樺太方面へ気圧の尾根を延ばす高気圧。大陸から南下してきた寒冷な高気圧であるが、この高気圧が、流氷解消がひときわ遅かったこの年の冷たいオホーツク海がある北方から、冷たい空気をゆっくりと南下させてきた。
翌27日朝の最低気温は、旭川で1.2℃、帯広で1.5℃、釧路で2.0℃、紗那2.3℃、網走2.7℃、羽幌3.0℃と、道北・道東では軒並み3℃以下となり、札幌でも5.8℃、函館と根室5.7℃を記録した。
旭川の1.2℃は、6月下旬としては極めて異常な低温で、この後2024年に至る約100年にわたり、これほどの低温は観測されていない。
この低温により、釧路では結氷を観測したほか、旭川と帯広、網走、釧路では霜を観測した。
北海タイムス6月28日版には、早くもこの日の降霜が速報され、上川支庁一帯で降霜があり、戸外の水には薄氷が張ったと記されている。
翌日の紙面には、道東・道北に加え、倶知安でも霜が降りたことが報じられている。

▲遅霜の大被害を伝える紙面(1922年:大正11年6月29日付 北海タイムスより)
上川地方の剣淵では気温が氷点下に下がり、初冬の如き寒さであった。
富良野の布礼別では、厚さ一分の氷が張り、指で突いても割れないほどであった。
空知地方では一已(深川)で結霜のため、各種の豆は多く枯死した。秩父別でも小豆・カボチャは全滅した。
由仁村では、4.5℃の気温で降霜し、150ha程度の被害があり、馬鈴薯は土より上に現れている部分は全部枯れた。
紋別の渚滑でも作物被害は甚大と伝えられている。
のちの北海道庁のまとめでは、霜の被害の面積は42,000haとされている。
道の地域防災計画資料編の巻末には、本道の災害被害が1000件以上記録されているが、これ以降の約100年間の遅霜被害で、これほどの面積規模の事例はない。
(次は1937年:昭和12年6月12日の12000ha以上。被害額では1985年:昭和60年6月14日〜15日に70億円を超える被害事例あり)
なお、上川支庁の調査では、名寄周辺の霜害について、以下のような特徴が報告された。
・高台は被害はなく、平地や谷間に被害が多い
・水田と水田の間にある畑は被害が少ない
・やや湿地の場所は乾燥地に比べて被害が少ない
この特徴は、上川南部の山部(富良野)についても同様であった。
冷たい空気が重く、水と同じように低い場所にたまりやすいこと。そして水の存在が温度の低下や結霜を和らげること。こういったことが教訓としてあぶりだされている。
被害の大きかった上川・十勝ではそれぞれ善後策が協議されたが、どちらも結論としては「まだ捲き直せば望みはある」というものであった。
こうして、ソバや菜豆を捲き直す対策が行われることとなるが、この先の二か月後の未来に、大正最大級の大水害が待ち受けているとは、まだ誰も知らない。