春の堅雪は非常にしまった雪なので、密度が大きい。10センチの雪が解けると50mm程度の雨量に匹敵するくらいの雪解け水が流れ出すので、土壌はたぷたぷとなり、ちょっとした刺激で崩落する。
夕張では列車が通過した振動で、線路の路盤が崩れるという珍しいタイプの土砂災害もあった。
防災対策の進んでいる現代であっても融雪期の洪水、土砂災害は危険な存在であるが、100年前の明治末はもちろん治山・治水・防災システムすべてが未発達。危険度ははるかに上であった。
明治45年の春は遅かったが、それでもやはり春はやってきた。怖い融雪期の始まりは川の変化によって現れる。
1912年(明治45年)4月11日 北海タイムス
漸と(やっと)融雪したに 川面が膨れて増水
両三日来の暖気にて山中融雪のため、美唄川を始め沼貝村を横断せる緒川及び小溝共俄かに増水
氾濫して人家の浸水せる箇所多ほく、或いは流木来たりて危険なれば避難するものあり非常の混雑を極め居れり
(峰延電話)
「川面が膨れる」という表現が面白いところである。
札幌の最高気温は4月1日〜5日までは5度に届かず、6日の朝は氷点下9.6度を記録するほどの冷え込みであった。
これが7日〜9日には8度くらいまで上昇、10日は10.9度と初めて10度台に乗せた。
このため、急に融雪が進んだのであろう。川も急に増水を始めたのである。
1912年(明治45年)4月13日 北海タイムス
北見方面の出水
本年は未曾有の積雪なりしを以て、出水あらんかを憂慮しつつありしに果たせるかな未だ十分の融雪に至らざるに
野付牛村鵡川氾濫し、アイノナイ附近仮定県道に氾濫し交通途絶、人家にも多数浸水しつつありと只今(午後一時二十分)同村長よりも土木派出所に吏員派遣方を請求し来りたり
常呂川も増水しつつあり
(十二日網走電報)
ここの中にある野付牛村というのは今の北見市のこと。鵡川は胆振を流れる川ではなく、「無加川」のことである。またアイノナイはその後「相内」という名がついた。今の北見市中心部と留辺蘂市街の中間あたりに位置する地域である。
網走の根雪終日はほぼ札幌と同じ4月初めだから、この年のオホーツクも雪解けが遅れていたのだろう。
川があふれるような融雪期のピークは、地面も雪解け水で不安定になる。
ついに崖が崩れだした。
1912年(明治45年)4月11日 北海タイムス
凄絶惨絶土崩大椿事
小樽手宮長屋二棟十三戸全壊半壊四戸
轟然漠然一声惨死者十名宛然阿鼻地獄
昨十日払暁二時半頃、小樽手宮町畑二十六番地寿都(中田善八所有地)は山崩れのため同所長屋三棟十三戸は丸潰れ、半潰れ四戸、其の他死傷者十数名を出せる空前大椿事あり。
同長屋は六戸建て一棟(所有者繁野猪之吉)は山麓約三十間離れあり。
昨年大火後に建てたる労働者向きの長屋なるが、四、五日以来の暖気にて地の緩みを覚えある折とて、朝まだ暗き夜の間に、俄然異様の音響を発して土塊一度にドッと崩れ来たり
何れも附近の者は夢うつつより覚めて、地震か雷と周章狼狽の折柄、地響きと共にグワラグワラと何か怪しき物音の刹那、諸所に聞こゆる悲鳴凄惨を極め、真に阿鼻叫喚の思いあらしむるばかりにて
「ソラ山が崩れた」
と、誰言うとなしに大騒ぎとなり、交番所へ急訴するや直に消防夫六十名、本署より急派し救助に務めしが其の際はすでに遅く、瞬間の出来事とて救助の効もなく十名の死者と五、六名の負傷者を出せり
小樽は坂の多い街ではあるが、手宮も山が海に迫っているような所である。
最初に異音がしたあとに、地響きとともに大きく崩れたということだが、現在でもこの「崖から異音」というのは土砂災害が切迫している前兆として、逃げ出すサインとして気象情報でもアナウンスされているものである。
この後につづく記事によると、長屋から約30メートルほど離れた裏手の崖が高さ約20メートル、幅50メートルに渡って崩れたというなかなかの規模の崖崩れであった。このため、長屋二棟が埋まり、多数の圧死者を出したわけである。
翌日の紙面には、現場を見た記者によるレポートも記述されている。
1912年(明治45年)4月12日 北海タイムス
大惨事余聞
春まだ寒き北都の小樽 手宮石山麓に春夢を破り凄絶惨絶を極めたる一大椿事は前号掲載の如く死者十名負傷者数名を出せる、先には港内に於ける増毛丸の大惨事あり、今この無惨なる生き埋めを出せしは真に小樽十万区民の心胆を寒からしめる空前の大椿事といふべし。
一昨日記者は現場について実見せるに、其の惨憺たる光景は言語に絶する有様なり
前号と重複の点あるも左に詳記せんに
全壊三棟十五戸の内、最も麓に近き七戸長屋は僅かに屋根を剥ぎ飛ばされしのみにて全部埋没して影をだに残さず
同棟に住む七戸は如何に酸鼻を極めしが想像に余りあり。
順を追って記せば、田井中国三郎方は隣棟の山崎平蔵に救出され、夫婦と子供三人は辛くも命拾いせしも、嬰児武夫(一つ)を失いたり。
其の隣菅原留三郎(三五)、妻シマ(二九)、養女ハル(五〇)の三名は逃げ所なく無惨の窒息。
次に佐藤太平方は太平(四二)は七、八日前手宮組・丸ト印に雇われ仕事中、百貫匁あまりの大荷物の下となり両足に負傷し入院治療中、家族は此の難に遭い、長男太一郎(一三)は頭部を強く打ち、次男芳夫(六つ)は右眼を負傷し、到底治癒の見込みなき不具者となり、長女キク(八つ)は頭部に裂傷を負い、妻フサ(三八)は哀れや四、五尺の土塊に埋没されたり。
次に丸瀬継蔵は妻と共に身を以て逃れしも一人娘のミネヲ(一五)は倒壊の木片を冠り斃れたるうぃ知らぬ母は悲鳴を上げて「ミネヲ々々」と連呼する様、狂気の如く。
後に其の死を聞き気抜けせる憐れさ何ともいへず。
次に沢留次郎(二八)は滋賀県神崎郡生まれ、妻キン(二一)は七日前に岩内鰊場へ出稼ぎし老母キヨと二人部屋を離れて寝に就き居り、老母は蒲団の中に横臥のまま窒息し二尺余り土を冠り最後を遂げ、留次郎は倒れ来る大柱が斜めに倒れ、其の上に壁板積み重なりため三尺位空所出来、其処へ潜り、声も枯れんばかり助けを叫ぶこと約三、四十分なりしが、第四部の消防夫三人が掘り出し呉れ、左大腿部に顔面部に打撲傷を負ひたるも幸に急死に一生を得たり。
次に南條儀助方は、妻荒木ハル、長男一郎(六つ)次男由松(四つ)を失い、先月生まれし赤ん坊を抱ひて辛くも逃げ出たるも、今は哀れにも精神に少しく異状を起こし、稲穂学校附近にあり。
次の西松徳次郎夫婦は無難に飛び出し、この罹災を免れたり。
其の他、隣棟の神戸床・黒田長三郎所有六戸建ては何れも軽症だに負はず大難を免れたり。
多くの家庭の営みを押しつぶした土砂災害。
100年たったが、手宮ではいまも崖崩れの危険性の高い場所は残る。
災害にあった人のだいたいが、「ここに●年住んでいるが、こんな災害は初めてだ」という。
こうした歴史の事実とともにハザードマップを組み合わせ、地元の人に防災意識を持ってもらわないとなりませぬ。
小樽市はハザードマップをしっかり作成している。
http://www.city.otaru.lg.jp/simin/anzen/bosai/dosyasaigai_hazard_map.html
小樽のひとは是非活用してもらいたいし、そのほかの土地でも自分の居場所は大丈夫か一回でいいから町のホームページで確認しておくのがよいと思う。(一回みればわかるから、一度でいいのだ)
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