2012年06月01日

樺太日記27:1912年4月5日豊原で酌婦殺人未遂=後編=

100年前の明治45年4月6日未明。樺太は豊原の飲み屋で、酌婦に傷を負わせ、自らは自殺するという事件が起こった。犯人は、何故自分が凶行に及んだのか、詳細な書置きを新聞社宛てに残していた。という話。

前回はこの書置きの、前半部分を紹介した。今日はつづき、後編を紹介する。
→前編はこちら

登場人物は、豊原・北越館の帳場人である福田與吉、そして梅の家の酌婦であるハイカラ直子(本名:内藤ヨノ)である。


1912年(明治45年)4月7日 樺太日日新聞


毒婦・直子の反心

私(與吉)は其の後、所用の為め大泊へ行き、直子の親戚なる宮野某を訪ひ、種々将来の事まで談合して三月七日帰豊(豊原に帰る)

此の話をしたいばかりに八日は金澤家に行き、同家の春子に頼み、電話で直子の呼び出しを掛けてみたが、今行く今行くとばかり二、三時間も待ちぼうけ喰わして遂に来なかった。

私は何だ、急に変だとは思ったが顔に出さず其の日は北越館に引き返し、翌九日くわしい書面を送ったが何の返事もない。

金澤屋のハル子に頼んで見たけれど、依然何等の返事が無い。

愈々(いよいよ)不審でならぬから十日に亦(また)書面を出したが依然返事が無い。
十二日樺太座で直子の姿を見たから、用が有るで一寸来いと云って見たが知らぬ顔して私の側には来なかった。

此処に始めて、直子から騙されたことを悟りました。



結婚の固い約束をしてわずか十日足らずのうちに、與吉と直子の仲は破綻へと向かう。
騙されたということを悟った與吉の心は、直子への憎悪へと傾くのであった。



漸く殺意を決す

其の翌十三日に愈々決心して、「やめるならやめると云ふて呉れ」と頼みの書面を出してみたが、その返答すら直子はしなかった。

私が今日まで直子に対してのみは、どれ程自分の身に出来まじき迄もあえてしてやったかは、金澤屋の春子が能く(よく)承知して居る筈(はず)である。

金と云ふても大金ではないが
七月二十日に五円、八月十七日十五円、九月三十日三円、十月三十日三円、同日コートの不足金六円、十一月二十八日二円、同月まで居銭として五十銭、山田ナヨより直子渡五円、十二月二十七日五円、十二月三十一日五円、一月十四日三円、一月三十日一円、二月四日五円、二月二十八日此の他に札幌への電信料為替料小使い共に十円

此の通り、今が今まで仕送りし漸くの事、直子の前借が皆済されたと思う矢先に、斯く冷灰無情の振る舞いに及ばれたので、私も男一匹、斯くまで馬鹿にされて残念だと思うと同時に、可愛さ余って憎さが百倍、己れ(おのれ)阿魔っ女、此の世に生かして置くものかと、此処に全く直子を殺す心になったのです。



愛は憎しみに変わると、今までは見えなかった相手の悪いものも見えてくるものである。

自分が何故、直子に嵌められたのか、自問自答したのか、與吉は次のように書いている。


男たらしの秘伝

私は昨年十一月、月末の夜。前後も知らぬほど泥酔して梅の家に行き、散々悪罵(声)を浴びせてやった事がある。
其の翌日、直子は柔しう私を口説きました。

此の後は他家から呼ぶ共、梅の家には来ぬ様にと頼まれ、爾来は行きもせず、一月の末までは只(ただ)言ふがままに小遣銭を仕送って居りました。

私は兼々(かねがね)直子に斯う言った。「見込みが無いなら無いと言ふてくれ」と

直子は何時も、「厭(いや)な位なら相談もせず、金を借りたり貰ったりしませぬ」と答えていた。

私は其の言葉を馬鹿正直に飽くまで信じて居たのです。



直子の言葉を何故信じたのか。
しかし、騙されたと悟ったのち、與吉は自暴自棄となってゆく。



千辛萬苦書餅

正直に告白すれば私は直子にこれ程に惚れぬいて居たのでは無いが、既に当家の主人までも知られたからには何処までも妻にせねばと決心したのでした。

直子の両親に商売させるまでの心配をした、無尽にも入れば共同積み立ての組合も拵えた(こしらえた)。
愈々(いよいよ)十五日に久保田の連中、豊原館の馬車屋等ども定めてあったが、十三日に至り、直子の返事さえも無いので馬鹿馬鹿しく、最早、無尽も糞もあるかと十四日に全部やめてしまった。



無尽というのは仲間内で作る金融機関みたいなもの。金を出し合い、利息はくじでひいて当たった人が総取りするなどのルールだったようだ。
いずれにしても與吉は、無尽や組合などで一生懸命金の工面をしていたが、それもこの件で馬鹿らしくなり、やめてしまったとのことである。

さらに、直子のためにしてあげたことを重ねて挙げている。


直子は人間に非ず

それから直子は始終産婆になりたいと云っていたが、何せ汚れた身の事とて官立には出る事の出来ぬと聞いていたから、私は内々に私立病院と談合なし、結局久春内・杉浦病院に依頼して四月から当分見習いにやる考えで、先方より電信が来て居る。

私はこれ程までに心労して居るに、斯くの所、人情でも無い事をされてみれば、私は直子を人間ではないと思ふ。

今、直子を殺すにも人間を殺すとは思ひません。
馬か猫でも殺すと思ふ心です。

私の心を御察しを願ひます。



1912年4月7日の紙面ではここで「次回に続く」となる。

次回、となったのは翌々日の紙面であるが、この紙面でも犯人の書置状の内容紹介が続くが、ここではなぜ書置きしたか?という理由から記事はスタートしている。

1912年(明治45年)4月9日 樺太日日新聞


書置きする理由

最も私はこんな稼業(旅館の番頭)して居ればろくなものに非ずと世間では言い居るでしょうが、宿屋の番頭はして居ても、今日迄は斯かる大罪悪を犯す心は更にありませんでした。

私が何故こんな書置するかと云えば、世間では事情も知らずに只一途に宿屋の番頭はろくでなしと云われるのが残念であるから。

三月迄の直子との事情も認め、直子の書面も置き、斯かる事情のあったのかと世間に云われたさに書いたのですから、此の全文、必ず新聞に出してください。是非お頼み申します。


顔に似ぬ悪人
私、直子を殺して官の厄介になる様なら書きもしませんが、人を殺せば殺さるるは例にある通りで、此の上、はじを晒すより自殺の決心であるからしたためました。

私も人を殺す以上、善人とは云はれませんが、直子も顔に似ぬ悪人です。

何も此の様にあらずともよし、又は自殺はせずとも私に逢ふて事情を打ち明けて呉れて、立て替えの貸金さへ返済して呉れれば、私も一言なく奇麗に別れて居るのです。

それを色々な事、云ふて金澤屋のハル子頼んでやれども金も返済せず、あまり人間に出来まじき事をするものですから、一時に気は狂ひ、何処までも此の阿魔(あま)、好き折を見て殺さねばならぬと云う決心が消えずにおりました。


與喜雄と直子
十二月の月末の如きは、直子が札幌の親から電信が来たからと頼まれて、私は私の衣類等入質、十円をこしらえて直子に渡し、私は懐中に五十八銭で年を越しました。

今日直子が斯かる不人情をするは人非人と思ふです。

それからこの書面の外に直子から来た書面は全部"與喜雄"とあるが、是は相談の上與喜雄と附けたので、ヨノを直子と云ふも同じことですから其の積もりで願います。


私の原籍地は
秋田県北秋田郡下小阿仁村字鎌澤三十番地、米吉次男與吉(二九)です。
斯かる所に来るにはもとより道楽者の一人ではあり、女の為に身をヤツしているから、白首(ごけ)などには騙されもした事なく、今日までは金銭こそ浪費すれ、こんな義理も人情も知らぬ直子の如き、人非人にあふたのは今度が始めてであります。

ですから斯かる大罪を犯すのも全く直子一人の為であります。


部屋の手前で
前にも云いました通り、直子、即ちヨノなる女はどうも私には人間のニの字とも思はれません。
大金持ちの客を騙すのは、世間直子のみではありませんが、私の如きを相手取り、こんな事せずともよいではありませんか。

それに毎日の様に梅の家にでも入り浸ったのなら又、考え所もあるが、去る十一月末の夜、一盃(いっぱい)機嫌で梅の家に行き、散々悪口し、且つ客の有る直子を呼び来る為め、今、金澤屋に居るハル子を頼み、梅の家に連れ行きなどして夜中の騒ぎをさせた為に、直子も部屋の手前もあり、部屋の方には福田は断然止めたと云ふたから今度は梅の家には来ぬ様頼むとて、佐藤の家に来て八月一日に云うた言葉があったので私も其の後は行きもせず、又は呼ばせもしないのでした。


鬼の顔 猫の心
その時私も考えた。

両親もある身だし、厭(いや)なら清算して別れよう。
と直子に云いましたが、それには臆せず、十二月からは又も書面を寄越す。

或いは金の事をハル子に頼んだり、松方馬車追に頼んだりして寄越すので、私も何となく心変わりは無いものと思ふて居りました。

所が三月二十日に鬼の様な顔になり、馬や猫の様な心になったのです。

三月と云っても、三月二日に金澤屋に呼んだときは何の心も無かった。
久春内から電信の来たのも見て、久春内に行く心であったんですが、其の後二、三日過ぎてから前記の如くなったのです。


畜生を殺す気

直子は斯の如くにしてなお、世間は渡るるものと思っているかも知れぬが、私の如き者も有れば世間は通されません。
現に直子は金澤屋に居る頃、久保田に居た加藤と云う馬車屋から夫婦になる積もりて三十円とか取ったこともあるそうです。

是は私が直子から聞いたわけではないが、世間の話です。

斯の様な詐欺者とも今が今まで思わなんだ。
詐欺されたとばかりでは私も殺すまでは決心せなかったが、直子の心はドンナものかと独り考えてみると、必ずや直子は人間の心では無いと思はれ、遂に畜生でも殺す様な気持ちになりました。



書置きの新聞転載はここまでである。

新聞のあとがきによれば、與吉は目的を果たさざる、つまり直子を殺し損なった場合は自分一人で自殺する覚悟だったということであり、結果如何によっても自殺することは決めていたようだ。

自殺ということについては、直子を殺害して何回も公判に顔を晒すのは日本男児として耐えられないという理由であった。

與吉の死を賭した凶行は、直子に軽い傷を負わせただけに止まり、自分は決心通り自害という結末を辿った。そして與吉の願いどおり、彼の犯行は止むに止まれぬ事情だったという一方的意見書が新聞紙面を飾り、死人を罰せずということで、彼の裁判が開かれることなかったのである。


果たして、與吉はこの結末に満足できたのであろうか。


紙面への反響は大きかったようだ。

1912年(明治45年)4月10日 樺太日日新聞に掲載された「無理情死余聞」という記事から抜粋すると・・・


置手紙を為せしによりて始めて顛末を皆天下に公表さるるや、知る知らぬを問わず、老幼男女の別無く、憐れなる失恋の凶暴者・福田に対する同情の湧くが如きものあり。

なかんずく西一条花街の紅裾連は一人として為に紅涙双頬を濡らさざる者無しと云う


豊原では彼を知るものも、知らぬものも、みな同情を寄せたというのである。
さすがメディアの力である。

一方の直子のほうにはというと・・・


薔薇は棘を隠すのたとえに漏れず・・・手練手管学に成功して幾百野郎を翻弄し、為めに身心共に救うべからざる窮地に貶められたる者三、四に止まらず。


手管=遊女が人を騙す手際 のことで、手練も同じ意味。この二つが重なると、より強い意味になる。
新聞は福田を善、直子を悪として扱ったことがよくわかる。

直子の負った傷は数箇所で、一部は深い切り傷であったものの、全治一週間程度のものであった。

病院内でも「福田さんに気の毒でも何でもない、娼売(しょうばい)に身を沈めるからには、このようなことはホンの当たり前」と言ってしゃーしゃーとしていたため、周りからも恨みを買ったとのことであった。


福田は金澤屋で自殺を図ったあと、瀕死の重傷のまま北越館へと運ばれた。
苦痛は一言も訴えず、かえって「誠に厄介かけてすまない」ということを回りに話し、4月6日夕方に絶命したことを新聞は後日談として伝えている。


かくしてこの話は歴史となった。
その後、直子の消息は知れない。
posted by 0engosaku0 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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