2012年06月07日

樺太日記28:1912年4月21日嫁探しギリヤーク人帰る

札幌ではよさこいソーラン祭りが始まっているが、あまり実感がない。
街は普通と何等変わらず、祭りらしい喧騒や音も全く聞こえない。静かである。

というのも、まあ札幌市民からしてみれば、普通に暮らす上ではあまり関わりのない祭りである。
踊り手として参加する人たちにとっては楽しいものかもしれないが、そうでない人には何か違う場所での話のよう。そして興味もない・・・タクシーのおっちゃんと話が合った。

さて、よさこいソーランは雨のジンクスがある。まあ毎年毎年雨が降る・・・という印象をなぜか受けてしまう祭りなのである。今年は前の日曜日の週間天気予報ではかさマークなどひとつもなかったが、初日の昨日に雨が降り、そして今日また降り・・・予報では明日後半から明後日にかけてまた雨だから、よっぽどの雨男がいるものである。唯一まだ雨が予想されていないファイナルの日曜日もこのぶんでは危ないかも。


さて、前回の樺太日記は前編・後編となったが、これも依然紹介した話の続きだから、ちょっと時間が経った後編エピソードみたいなものである。樺太の西海岸から東海岸へ嫁探しに出たギリヤーク人の若者の話。なお、前編は樺太日記19を参照


1912年(明治45年)4月21日 樺太日日新聞


嫁探しの土人旅行団 帰名す
▼二人は残って浮かれ歩き

西海岸北名好(きた・なよし)のギリヤーク人チエリカ、グシャエン、オートカ、バーリン、キックライ、ホトボン等の面々が、総代バーリンに連れられ谷川(を)伝い敷香方面に旅行した事は先にも書いた。

此の旅行の目的は同人種間の懇親を結ぶためで、一月も二月も旅行先なる同人種のお客分として遊び帰るのであるが、其の実、若い面々には適当な配偶者を探すと云う一大希望を以て出かけるので、五人の若者勇みに勇んで出かけたのは去る二月の初旬であった

ところが一行中の三人はめぼしき嫁を捜し当て、之を迎える準備のためか、はた失意でか、兎に角無事バーリン総代に連れられて帰ってきた。

彼らの語る所によると、往きには四日で敷香に出たが、帰りは六日を費やしたが、之は吹雪に逢ふたためで、道筋は西柵丹川の上流を下り、途中で麝香鹿(じゃこうじか)其の他多数の猟をして面白可笑しく、丁度内地人の京巡りでもした帰りの様な有様で帰ってきたそうである。

あとの二人はどうしているかと聞いて見ると、何でも先方で好い嫁を探し当てて、其の家へは毎日出入りをしているが、まだ何とも話が極まった様でもないし、併し浮き浮きと暮らして一行が帰る時さそってみたがどうしても同行をきかなかったとの事である。

人並に浮かれ歩いているのであろうか。



よさこいソーランも人によってはずいぶん浮かれているとみえるが、まあ春の恋だもの、舞い上がるわな。

舞い上がるといえば、空を飛ぶワシ。樺太であればオジロワシかオオワシであろうが、このワシの記事も同日の記事に載っている。



能登呂の鷲

能登呂の鷲と言えば、本島の珍談の一として伝えられてあるが、年々の捕獲数二百より不足なことはない。
即ち明治四十三年には約三百羽、翌年には二百有余羽といふ結構な猟があったのにも拘わらず、本年は僅々九十五羽の捕獲で例年比すると著しい減少を示している。

之れは気候の関係もあるとの事であるが、乱獲の弊も其の一原因だといふ事である。

之等を買い占める為め、年々五六人の商人が同地に入り込む

一羽の価格は大概五円内外で、千島方面で獲れる鷲のように十円以上の良品は少ない。

本年も大泊皮商が数名同地に出かけたが、品不足のため費用倒れとなったらしい。
この鷲は内地に輸出されて、鷲の掃立に使用する箒、若しくは弓の矢の羽根に利用されるのことである。



能登呂とは宗谷岬から宗谷海峡越しに望むことができる、西能登呂岬一帯のこと。
今はクリリオン岬と呼ばれるこの岬には、以前から宗谷海峡に橋をかけようという話が持ち上がるが、、、。まあ無理でしょうな。


posted by 0engosaku0 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック