まあ「夏まつり」というよりは「大通公園のビアガーデン」といったほうが一番しっくりくるか。
昼間は暑くても、夜は涼しいこの土地だから、ビールを飲むなら真昼間のほうがいいのかもしれないが、昼に酩酊すると、何か「冬のスイカ」のようにあずましくないもののように感じるのは何故だろう。
さて、前回予告した夕張炭山の爆発事故は相当ボリュームがあるので、これは改めて書く。
この大事件について記す前に、1912年4月の北海道で起こったミニニュースをいくつか拾い上げて置きたい。
まずは網走から熊の話
1912年(明治45年)4月22日 北海タイムス
銃猟の名手 巨熊を海上に討ち止む
網走町薬店・十文堂主人田中千松氏は全道銃猟家中屈指の名人にて、殆んど百発百中ならざるなきが、
去十二日網走郡藻琴村濤沸湖(とうふつこ)に白鳥の来遊せるを聞き、午後網走を発し其の夜は付近に一泊し、翌朝早々日本燐寸(マッチ)製軸工場の島田・橋本両氏が所要を帯びて湖上を通過するを聞き、便乗して橇(そり)中から発射せんと同工場に至り支度中、一匹の巨熊、工場前を驀進(ばくしん)して人影を認むれば狂い猛るより、ソレ手負い熊ぢゃ避難せよとて民家は戸締りをする騒ぎに
件の熊は益々猛り狂ふにぞ、豪胆なる田中氏は一発の下に打ち留め人害を救はんと単身小銃を手にして巨熊を追跡せしに、熊は小丘を越えて海岸に至り、折りしも斜里行きの漁夫二名が此の巨熊に出合ひたるを以って一生懸命帰らんとするにぞ、二名を引き連れ尚も追跡したるに
熊は一里ぐらい沖合の海中に入りて八畳敷程の流氷に寄りかかり、負傷したる左足の爪を塩水に浸し治療し居るものの如くなるより、鈴木漁舎に至り、漁船を借受け、件の漁夫二名を乗り込ましめ、海上はるかに漕ぎ出たるに、
熊は人影を認めて巨声を揚げ、猛りに猛り、今にも舟を覆さんとする勢いなるより一発空砲を放ちたるに驚きて右往左往に泳ぎ回り、僅かに五間近くになりたるを以って、一発実弾を放ちたるに鼻上に命中したるも尚一発眉間を打ち抜き、すぐさま兵児帯(へこおび)を首にくくり陸地に引き上げたるは六歳の雄熊にて、長さ五尺四寸(=1.63m)後足九寸四分の巨熊なるより、十三日網走校の請により生徒に実見せしめ、尚捕獲の説明を為したるが、旧土人の談によるも眉間及び鼻上などは普通の者にては的中するものにもあらずといふ。
網走の郊外、藻琴に出現した大きな熊を流氷の海まで追いかけ、撃つという、壮絶な狩猟を行っている。
あまりの大きさに、学校で見世物にして、いかに撃ったかという話までしたわけだが、「ヒグマが海を泳ぐ」という事実、行動範囲の広さにもなかなか目を見張るものがある。
沖合を漂う春先の残氷にシカの姿をみかけることはあったが、山ではなく、流氷に乗ってヒグマが海からやってくる、そんなこともあったのだろうか。
さて、同日の北海タイムスから
記念琵琶大会
川中島大合戦三百五十年記念、薩摩琵琶大会は十九日午後六時より(札幌)区内北一条西六丁目基督教青年会ローリ館楼上に於て開催。
最も喝采を博せしは安西氏の那須の与一、川中島の二席にて。
来集男女二百名盛会なりしと
川中島の合戦●周年・・・というので大会が開かれている所が、今の世と全然違うところであろう。
しかも琵琶大会・・・。昔はこのような芸能も身近だったのだろうか?
これから100年。今年の札幌には「川中島」にかこつけたイベントなぞ皆無である。
さて、続いてはまた熊の話。
1912年(明治45年)4月24日 北海タイムス
熊を噛殺した猛犬
(札幌)区内山鼻町・鎌田十郎左衛門の飼犬イチ(ニつ)といふは、本月十三日主人十郎左衛門に伴われ、札幌郡平岸村字定山渓を距る二里奥の字白井川といふに至りし時、白凱々たる積雪の上に一頭の熊を認めたれば十郎左衛門は直ちに飼犬イチの鎖を解き、イチに声援して熊と格闘をしめたるに
最初は双方とも負けず劣らず噛合ひしが、十郎左衛門の叱声怒号して声援し効、空しからず、イチは逃げる熊を乗り越え追いかけ、遂に熊を其の場に噛み斃し、凱歌を挙げて引き取りたる。
網走は猟師が鉄砲で撃ち、そして定山渓の山奥では犬が噛殺すと、春の熊も受難続きである。
この時代の熊は生活上の脅威という認識だから、撃ち殺すが当然である。
網走の熊は今は浜辺に降り立つことなぞすっかりなくなったが、札幌は未だに熊が出てくる。
でも今の熊に対する認識の変化については、今年の記事で垣間見ることができる
2012年(平成24年)4月23日 J-CASTニュースより
★ヒグマ射殺の様子をテレビが放映 「なぜ殺す」と札幌市に苦情100件
・札幌市の民家近くに2、3歳と思われるオスのヒグマが一頭出現し、北海道猟友会のハンターが猟銃で駆除した。この様子がテレビのニュースで流れたことがきっかけで、札幌市役所には100件を超える電話が入り、その大半は「なぜ殺した!」という苦情だった。
札幌市役所では、本州に生息するツキノワグマに比べてヒグマは比較にならないほど巨大で凶暴なため駆除してきたが、これからは山に追い返すなど別の対策を検討しなくてはいけない、と頭を抱えている。
駆除されたヒグマは体長が135センチ、体重が120キロほどだった。2012年4月19日、里に降りてきたことが確認され、翌20日の午前6時ごろには民家から約20メートル離れた林の中にいた。
人を怖がる様子はなく、このままでは住宅街に進入する心配があると判断し射殺した。この日、近隣の小学校では子供に親が付き添って登校させる姿が目立った。
ヒグマが射殺される様子を20日に複数のニュース番組が放送したところ、直後から札幌市役所の電話が鳴り続けた。環境局みどりの推進課だけでこの日60件近くあり、これまでに100件を超えているという。メディアからの問い合わせを除くと全てが苦情で、「なんで殺したんだ!」「山に返せばいいだけなのに」といったものに加え、「何も悪いことをしていない若いクマなのに・・・」と電話口で泣く女性もいたという。全ての内容を細かく調べてはいないが、苦情は札幌市内からのものではなかったようだ、とみどりの推進課では話している。
みどりの推進課によれば、ヒグマは大きいものになると体長が3メートル、500キロもあり非常に凶暴だ。小熊であったとしても人を恐れない場合はやがて大きな被害をもたらす可能性があるため射殺してきた、という。しかし、今回のニュース映像がショッキングに受け止められ、苦情が多数寄せられた。これからはすぐに殺したりはせず、山に追い返すにはどうしたらいいのかなどの検討を始めているという。(抜粋)
動物愛護という精神が広くいきわたった現代の世では、凶暴なクマとて「駆除」することは容易ではなくなりつつあるようである。
熊が出てきたらびっくりするのは今も昔も同じだが、小樽ではあわてん坊のこんなニュースが・・・
1912年(明治45年)4月24日 北海タイムス
船から海中に飛び込む
小樽港停泊中の大三印所有・樺太丸乗組コック・徳島県生まれ小倉龍蔵(三四)は元大礼丸水夫たりし縁により、二十二日大礼丸に乗り込み、ご馳走酒に酩酊し管巻き居る折しも、大礼丸は正午の出帆時刻
となり黒煙を残し港外に前進し始めたれば
小倉は狼狽一方ならず、甲板に立ち、酔いに乗じて前後の思慮もなく陸上へ泳ぎ行かんともんどり打って海中に飛び入り泳がんと焦るも、着衣のままとて身体自由ならず、あわや土佐衛門と改名するの危うきに陥り、浮きつ沈みつあるを折よく出帆の帆船・勢至丸(百七十八石積)が通りかかり、船頭渡辺幸太郎外三名は伝馬船を卸し、小倉は近寄り救助し、斯く水上署に届出でたれば、同署は保護の上、稲穂町伊藤寄宿所・山本鶴作(四一)に引渡したり。
船乗りが旧友と再会し、ついつい深酒・・というのはあるだろうが、それを相手の船でやってしまったためにあわてて小樽の港へダイビング。そのまま乗っていたら樺太まで運ばれてしまう。相当焦っていたのであろう。
このような「笑い話」がニュースになるというのもいい時代である。今はテレビはケガしたとか死なないとニュースにしないし、新聞も結局無事というニュースを収容するスペースが今やないものである。
さて、本日最後は後日談エピソード
1912年(明治45年)4月26日 北海タイムス
奇特な床屋の主人
本紙の記事を浪花節にし哀れの一家の義捐を集む
札幌郡厚別村厚別停車場前・理髪業大阪床主人・大阪作太郎といふ人は常に浪花節を好み、南部坂でも高田の馬場でも頗る器用に唸り出す所から村内の評判となり、当人まだ自ら"桃中軒作丸"と号して、美しい咽喉を村人に聞かせ、我れ人互いに楽しみ居りしが、
去る四日本紙に掲載したる「斯の如く哀れな健気な娘は逝けり」と題せし記事を読みて、作太郎氏は甚く(いたく)野口ヒワ一家の窮状に同情を寄せ、爾来該記事を再読尽くして暗誦し、それより更に其の暗礁したるものに対して節を附け、之を当人の麗はしい咽喉にかけて見ると立派なる所の長歌一席に留まりしかば、作太郎氏は大いに喜び、世の中は持ちつ持たれつにて、お互いの愛別離苦は明日をも計られぬとて、このことを村人に吹聴し、去二十三日「哀れなる野口ヒワへ義捐のためなりと」て浜旅館主に交渉して同館を一晩無代にて借受け、桃中軒作丸事、大阪作太郎氏が素人浪花節を開催したるに
何がさて、日頃作丸先生の美音を歓迎したる人々ドヤドヤ参集し、作丸先生の哀れなる語りにもらい泣きしたるは勿論、其の場にて我も我もと寄贈の申し出あり。
合計八円九十五銭に上りたれば、大阪氏は右の全員を本社経由にて野口ヒワへ贈呈し呉るやう依頼ありたれば、本社は直ちに野口ヒワへ届けたる。
この話の元となる野口ヒワ一家の記事は、この明治末年記の3回目に紹介した。
今でいう「チャリティーコンサート」のさきがけである。
ただし、歌が「浪花節」というところはさすが明治である。
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