それでも日差しは強く、南北海道の高校野球も今日が準決勝。決勝に勝ち上がった札幌日大と札幌第一が明日甲子園をかけて戦う。
今春の全道一だった北海も今日敗退、選抜に出た北照も姿を消すなど、なかなか一発勝負のトーナメントの勝ち上がりを予想していくのは難しいものである。北北海道などは、選抜出場の女満別が地区予選の初戦敗退という有様である。
日々の天気予報も同様に、今の技術をもってしても完全に当てるのは至難の業である。
しかしそれ以上に難しいのが「サクラの開花予想」である。
本州方面はまだしも、北海道は開花前後にあたる4月下旬から5月半ばにかけては気温変動の大きい時期にあたるため、大きく外れやすい。去年も今年も、気象協会は胸を張れる結果ではなかった。
さて、100年前。明治の末にサクラ開花予想など、それは無茶な話だったと思うのであるが、測候所の技官が予想している記事をみつけたので見てみよう。
1912年(明治45年)4月28日 北海タイムス
春寒み円山の桜花は何時咲くか
過去十年間の統計によれば四月に入って平均温度摂氏零下に降る事はなかったそうだ。
今年は(四月)一日から五日までの平均が零下一度。此(この)寒さは本道固有の気候ではなく、大陸方面に頻々と低気圧の起るのに因るので、此の低気圧が北陸から日本海沿岸を襲うて何時も寒い風が吹きつける。
東京では早い桜が三月二十六日、遅くても四月六日には咲く。
今はモウ躑躅(つつじ)に藤に牡丹に、紅紫爛爛(こうしらんらん)の最中。
当地ではヤット庭の隅にクロウカス(クロッカス)が咲いて居る時節。而も(しかも)今年は四月の末に雪さへ降って、尚今後如何に変わるかは知らんが、大抵今日迄の平均温度を見ると、当地の桜開花期を預言する事が出来やう。
学者の言ふ所は、摂氏五度の温度で咲き、一度に付いて四日の遅速があるさうだが、寒い土地ではもっと低温度でも咲くやうだ。
尤も(もっとも)一つ土地でも風当たりや日の受けやうで一週間も十日も違うが、例の円山の桜に就いて、測候所米田技手の調査に由れば、今年は五月十七日を以て満開とし、昨年より五日ほど遅れるさうだ。
観桜会や遠足会も其の頃を目当てとして間違いが無いといふ事だ。
どうやら当時は「予想」ではなく「預言」とされていたようだが、何らかのデータを根拠に予想していることは「調査」という文字が見えるように明らかと思う。
その予想であるが今と違って満開予想である。「5月17日」と現代同様日付指定というところが、当時の技術としてはなかなか思い切っているのではないだろうか。
新聞に掲載されたこの桜満開予想を元に観桜会の予定を決めた読者も当然いただろう。このあたりは今と同じであるようだ。
もちろん、この「調査」による「預言」が当たっていたのか。「検証」はもちろん必要である。
ただ、札幌管区気象台には1952年以前の生物観測データは既に散逸しているらしく、保存されていない。其の上、今と違って標準木などもないから、正確な当たり外れの検証は無理である。
ということで、何時頃が円山の桜の見ごろだったのか、5月の記事をあたってみると・・・
1912年(明治45年)5月4日 北海タイムス
円山の花便り
糠賀宮司(ぬかが・札幌神社宮司)往訪の記者に語って曰はく、今年は気候甚だしく遅れたが為めに一般の人方は桜も余程遅かろうと懸念されて居る様だが、昨今の好日和で境内百余本の桜はいずれも蕾が俄かにふくらんで、梢は皆紅(くれない)を吹出して居ります。
私が神社に赴任して以来、五ヵ年の日記から拾い出した花の咲きかけと其の見頃を申しますと左記の表が出来ます。
年次 咲かけ 観頃(みごろ)
(明治)四十年 (五月)三日ごろ (五月)九日十日頃
四十一年 五日頃 十一日十二日頃
四十二年 二日頃 七日八日頃
四十三年 四日頃 八日九日十日頃
四十四年 二日頃 七日八日頃
以上の如くで、今年は気候が遅れた為めにやや遅い様でありますが、五日はたしかに十数本は咲きかけて、九日十日十一日十二日の日曜日頃は最も観頃と思ふと
斯くて宮司と共に連れ立って境内を廻って見ると、大鳥居の並木の老木は将に蕾を破らんとして居る
花見茶屋も八銭屋、叶や(かなや)金枡国一、三島屋、竹の屋などは今日から開店して居た
(三日朝記)
いきなり、大はずれの予感・・・
そして続報はわずかに3日後。
1912年(明治45年)5月7日 北海タイムス
お花は見頃
▼見頃は何時?
例年より遅からうと噂された円山の桜は、一雨毎に色づいて早や一株二株は蕾を破って気早い連中の遊び心をそそって居るしたが、見頃と云えば十日を過ぎての一週間、先ず十二日の日曜を懸けての二、三日が咲きも揃わず散りも失せず、ここ千金の花の山と謂ふ所。
▼鉄道の大奮発
然ればにや鉄道管理局では十日から十二日迄を限って、中央小樽、軽川より白石、岩見沢より札幌迄二、三等客車の割引をして遊覧者の利便を計るとか何がさてお商売柄抜け目のないこと定めし、押すな突くなの盛況でがな御座ろう。
▼花見車の新設
花見る人の長閑でさえ無風流なるに、まして花見る人に懐具合の悪かろう筈もなし
去りとは入らざるご配慮、十銭二十銭のはした銭なら、それ持てとの御じょうが出ればいざしらず、先ず何よりの安直主義均一、花見車の新設こそ最も時期に適したと感ずってか、札幌停車場組合の人力車は開花期間中、停車場円山間往復五十銭の花見車を挽き出すとか、御用の方は桜花の旗の目印にご遠慮なく召しましやう。
▼由仁団体の桜狩
花見の魁け、これ見ヤシャんせ、揃いの手拭いサットばかりに由仁団体五十余名は十二日の日曜かけて円山に乗り込み、ビール(サッポロビール)に製麻(帝国製麻)を見物する手筈だとか。
何れは咲いた桜にササヤートコセの賑わいを呈すであらう。
先ずは一筆花便りハイサヨナラ
(春公)
5月に入って一週間、境内の桜の木は徐々に咲き出してきた。
この時点で円山の桜は5月12日頃が見頃!という流れにすっかり変わってしまっている。
1912年(明治45年)5月10日 北海タイムス
咲た咲た 社頭の花はもう散るのもある
今年はしばしば日本海側より低気圧の襲来に遇ひて、測候所の観測には十七日頃が花の盛りなるべしとありたれど、何がさて世の中は三日見ぬ間も油断はならず、円山社頭も花の梢はハヤ一本、昨日今日散り初めたるがあり
鳥居側の老樹も芝生の若木も今満開か十数本。此の十二日の日曜まで一週間が花も人も盛りの山なるべく、花下の売店も悉皆立ち揃ひ、三島屋、国一、金枡、福井、桜ずし、八せんやなど暖簾続きに赤前垂の姉さんが白粉(おしろい)コテコテ塗ったくって、頓狂な声出して客を呼び、御膳御肴何でも仕度は整ひたり
花見の酒に野暮いふ向きもあるまじけど、売店取締の協定相場は左の通り
▼麦酒一本三十五銭、▼大坂酒一本十八銭、▼サイダ一本十五銭 ▼肴一人前二十銭 ▼鮨一人前十五銭 ▼茶十銭
ついに測候所の予想は見放された形に。。。
5月10日は札幌麦酒会社の観桜会が開かれ、12日は先の記事にもなっている由仁の団体も来札するなど花見はこの頃をピークに盛り上がる。これはこれで面白いので別に取り上げようと思うが、さて測候所が予想した17日頃はいったいどうなったのか、先を急ごう。
1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス
名残の花所々
今年の花の盛りは十七日と観測されて、まだ日もあらうと思う間に早くも円山社内の梢がほころび初め、十五日の真っ盛りは丁度雨に降り込められて、心あわただしく過ぎ、昨日、今日の空はハヤみずみずしき新緑の色をはなりぬ
▼円山社頭
一樹も残らず散り果てて忌垣のあたりは踏まなく憎き落花の雪白し
昨日も五、六の団体花見客あり、散り行く花も奥深く本日の日曜が好晴ならば人でも亦多からん
▼御料局の桜
北一条西十一丁目の一般御料局支庁の後庭は小山の上の山桜が散り終りて竹垣に沿てたる芳野桜の一列、今が真っ盛り。明日はハラハラと散り方をるべく
椴赤松(とどあかまつ)などの背景、殊に美し
▼芳野桜の真盛
中島公園は西の宮入り口より職業学校裏にかけてる一区画、既記の如く濃き薄き満だの雲に包まれて、春は今ここにや酣(たけなわ)ならむ。
岡田花園はおんこ(?)の刈り込み美しき生垣の上に芳野桜の今真っ盛り
彼岸桜も咲き垂れ、小山の後ろは小梅林。是も今咲き匂ふ春の名残なり
どうやら17日の時点では円山の桜はすっかり散ってしまっていたようだ。
15日は花盛りだったということだから、大目に見て2日のずれ。でもやはり4〜5日は予想よりも桜の見頃が早かったというのが当時の世間の目であろう。
あれから100年、今年4月25日に気象協会が発表した札幌のサクラ「満開」予想は5月7日。
そして実際に満開となったのは5月2日。予想よりも5日も早かった。
100年経って進歩していないわけではないが・・・結果が伴わない。
予測に対する結果を見るとき、胃の痛さ、心の痛みは、100年前と共通・・・というより今のほうが、はるかに上であろう。と申し上げておく。
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