2012年08月30日

明治末年記北海道記9:1912年4月29日夕張炭鉱爆発事故その1

8月も残すところあと2日となったが、ウルトラ残暑ここに極まれりというか、台風が持ち込んだ暖気がフェーン現象を引き起こして予想通りの猛暑。札幌32.9度に常呂34.6度。函館もまた31度を越え、室蘭も真夏日。

お盆前の暑さは「どうせ北海道の夏は短いから」「お盆過ぎれば」などと言って楽しむところもあるが、この終わりなき?残暑は精神的にかなり堪えるものがある。

さて、今回から数回にわたって書き連ねるのは、衝撃的な大事故の話。
一瞬で二百人以上の命が奪われた夕張炭鉱爆発事故である。

第一報は以前書いたように、4月30日付けの北海タイムスに掲載されている。
今回はその記事から書き起こしていく。

1912年(明治45)年4月30日付け 北海タイムス


稀有の大爆発大惨事
坑内二百余名の坑夫は悶絶か酸鼻の極

▽爆発の状況
昨日午前十一時頃 夕張第二斜坑内に坑夫二百六十三名 係員九名入坑して従業中 突然天地も崩るるばかりの音して瓦斯(ガス)の大爆発あり

其の勢 猛烈を極め 主要各坑道は一時に落盤し 余勢坑口に吹き出して其の附近に在りし事務室 安全燈室 扇風機場等を半ば破壊し 坑口附近にありし運搬夫六名は即死せり

内外の通路全く閉塞したるため坑内の状況を詳らか(つまびらか)にする能はず 取り急ぎ坑口の開掘に努めつつあり

(二十九日午後二時二十五分鉱山監督署発電)

▽爆発の原因
鉱山監督署の稲村鉱業課長は語って曰く 未だ詳報に接せざるを以て爆発の原因を知る能はざれども
去る三十八年爆発当時の如く安全燈より発火したるものにあらざることは之を断言することを得

当節は既に坑内外の気温殆ど平均し 殊に同坑は絶えず通風器を以て坑内の気温を緩和し居るを以て 之がために安全燈に異状を来す様な事は万々なかるべく 其上現時使用する所のウルフ式安全燈は極めて堅牢かつ安全の構造なれば 其の熱度昂上して瓦斯を発火せしむる様な事は到底想像するを得ず

察するに坑道の掘進に従ひ 或る断層に衝き当り(つきあたり) 工夫が爆発薬を以て作業中 断層下に潜在したる濃密なる瓦斯が勢いよく噴出し来りて 遂にかかる大惨状を現出したるものならむ

而して坑中の状況は内外の通路全く閉塞したるを以て 坑口を掘り開けざるうちは之を知に由なきも 幸ひに落盤のため圧死を免れたる者も 瓦斯の毒気に打たれて呼吸逼迫し悶絶して遂に斃るるの外なからむ

同坑は本道の炭鉱の中 もっとも重要かつ有望のものなるに 今や此の稀有の大爆発のために滅茶々々に破壊され 了り(おわり)たるは憎みても余りある事なり云々



1912年4月29日午前11時。北炭夕張炭鉱・第二斜坑で大きなガス爆発事故があり、内部は大規模に落盤した。坑口も崩れて埋没するということだから、相当な大きな爆発であったことだろう。

早くも即死者六人の情報が出ているが、坑口がふさがっているため内部の状況はわからない。
最初の見解では爆発薬(ダイナマイトか)が原因と推定されていることがわかる。

続いて爆発の模様をありありと描いた第三報が飛び込んできた。


▽第三報

本日午前十一時 夕張第一鉱第二斜坑方面に当たり 轟然たる大音響を発すると同時に黒煙濛々(もうもう)として天に沖す

スワ瓦斯だ

すぐさま現場に駆付くればここに入坑する家族等は坑口に群集し坑内の安否を気遣いつつ悲鳴を上る様 阿鼻叫喚を眼前に見る心地して専た凄惨の情に絶えず

岩瀬鉱長は既に鉱務所にあり 諸般の指揮をなし 入坑坑夫の救護方法につき他の役員と共に凝議中なり

登川分署よりは後藤警部部下を引率して現場に臨み 各部署を定め坑口の警戒 其の他の取り締まりに従事せしめつつあり

坑口に於いて就業中なるピン切 其の他雑夫中の即死二名重傷四名を出せしが 是等は出張医員に於いて応急手当をなし 夫々(それぞれ)処置をなし 漸く正午 阪口主任技手は小頭四名を引率し坑内の実況調査のため入坑せしも 坑内何れも爆発崩壊して進行する能はず 目下坑夫を入坑せしめ是等坑道の掘割に従事しつつあり

坑内に於けるピン切 其の他運搬夫の屍体を搬出せるもの午後四時までに川西外十一名にして 此等何れも屍体は黒焦(くろこげ)となりて 皮膚糜爛(びらん)し酸鼻の様 筆紙に尽し難く

入坑坑夫は、二百六十三名 其の他雇員・木村亀太郎外小頭九名にして 坑道閉塞の結果坑内内部の消息をば知る能はざるも 全部死亡せるならんと察せらる

爆発の原因及び個所判明せず 扇風機の破損せるものは直ちに応急修理をなし通電を開始し 坑内通風に便せんと各係員必死となりて尽力し居れり

今回の瓦斯爆発は 其の勢頗る(すこぶる)猛烈にして 坑口より連続せる輸送車十五間余は微塵に粉砕せられ 各風井、及び風道は何れも破壊せられざる所なく 坑道に入坑坑夫の多数なる炭鉱に於ける未曾有の大惨事にして 少なくとも死体全部の収容迄には数日を要するならんと

瓦斯爆発の急報を聞き 第二斜坑方面に群集せる人夫実に数千人の多きに達し 其の雑踏 鼎の湧くが如く市街地より同坑に通ずる道路は絡駅として絶えず

(二十九日午後五時夕張電話)


大音響とともに黒煙がもうもうと上がる。
坑口より15間=30メートルくらいの距離にあった輸送車も木っ端微塵という爆発力である。
入り口付近は爆発現場と比べれば相当な距離だったはずだが、それでもものすごい勢いで爆風が襲ったことが紙面からみてとれる。

263の命の灯火を、一瞬のうちに吹き消した。そんな大爆発だったのか。

さて、この爆発事故を起こした北炭夕張炭鉱・第二斜坑とはどのような構造だったのか。

翌5月1日の紙面に続報が出ている。なぜか第二報である。

1912年(明治45年)5月1日 北海タイムス


▽第二報
大嶋特派員報

今回爆発せる夕張第一鉱の第二斜坑といふは 市街地の下に当たる小山続きにあり、札幌にて言わば円山程の大きさの山が斜面を削れる灰色の岩石を露出し 正面には薄き土壌を被りて 其の上に熊笹繁り 楢樹(ナラの木)もあり

斜面左風道には煉瓦を以て築きし高さ三間弱のアーチ形坑口ありて 軌道を通じトロッコ出入りす

其の右に並びて今一つ小さき坑口あり 之を人道となす 電話を通ぜり

外観何れも鉄道の随道(トンネル)に異ならず 小山の麓には豊平川よりやや小なる急流流れ 坑口の前を右折して市街に至り 此の急流には橋を架して両穴口に出入せり

▼斜道とレベール
橋を渡りてアーチ形の坑口を入れば北東に向かい斜めに廻行して一種の坑道あり
其の坑道を下ると少許にて左に平坦の軌道あり 之を北一番坑とす

其レベールを辿りて奥へ奥へと開穿せる前の坑道を進むこと三百尺ばかりにて左手に北二番坑あり
次に二百尺ばかりにして三番坑あり北四番あり

此の坑道の内部は三尺位の木柱ありて支え 坑内の切端 即ち採炭場には白粘土を張りて 空気の流通を按配し 又特に六尺四方の風道を作りたる第二斜坑には前方四個所の扇風機ありて、内部の空気を排出する装置なり

夕張炭鉱第一図(19120503).JPG

▼爆発後救急工事
今回の爆発は前記レベルの奥より起りしものの如く、レベルの崩壊 最も大なり

北二番の二坑道の如き 爆破後石炭に移りて火災を起こしたるものの如く 之を密閉して防火せり

其の他各坑道は落盤のみに止まり 殊に扇風機の無事なりしは幸福にして そがため救急工事の坑夫らも坑内に侵入するを得る次第なり

同日坑内に就業せし者は北一番に五人 北二番に九十四人 北三番に八十八人 北四番に九十名なるが レベルに入るより先ず坑道にも崩壊あり

坑夫らは僅かに匍匐(ほふく)して前進する有様なれば第一坑道の落盤取り除けを了し それより漸くレベルに入り得る手順にて 中々容易なる作業にはあらず

岩瀬鉱長部下を督励し昼夜兼行にて死体発掘に全力を注ぎ 岩見沢より西炭鉱部長の来援あり
坑口隣りの鉱務所には数百の坑夫等群集し金属製の長さ一尺五寸ばかりなる円筒安全燈(オルラ式)をとりて右往左往 傍へも寄れぬ雑踏なり

(三十日午後三時夕張電話)


坑内では火災も発生し、鎮火のためには坑内の一部を閉塞し酸素を断つのがセオリーである。
しかしそのことは同時に、もし生存者がいたとしても窒息死させることも意味した。

全員絶望視されるなか、坑夫の家族はいちるの望みをもって炭鉱につめかけている。
その姿は、まさに悲惨の極みであった。

この5月1日の紙面では早くも義捐金募集の広告を北海タイムスは掲示している。


●夕張炭山爆発惨事 義捐金募集

此次夕張炭山爆発の大惨事は確かに未曾有に属するや言ふを要せず
其の実状に至っては我社特置通信員により取りあえず報道せられたるが
更に我社特派員の出張現場を視察せる忠実なる報道に依りて 読者の明悉(めいしつ)せらるる所ならん

憶ふに暗黒の地下に労役して日夕黒卵の危うき運命に弄ばれつつある彼等坑夫ほど世に薄倖なるなけん
偶ま爆発と共に二百有余の生命を絶つ鬼哭愁々名状すべくもあらざるなり

況んや其の遺族ら坑口に参集して熱狂するの光景真個哀絶悲絶苑としてうる如し

されば我社はこれに率先、大方の義心に訴へて夕張炭山罹災者同情義捐金募集の挙をなす

其の規定は左の如し
切に全道我読者諸氏の満腔の賛助義捐あらんことをこい願う

▼義捐募集規定
一、義捐金額は一口五十銭以上とす
一、募集締切期日は来る五月十日とす
一、義捐者は其の住所姓名を明記すること
一、義捐金募集総額の分配方法は炭鉱汽船会社に一任す
一、義捐金の取り扱いは本社及び本社支局とす

明治四十五年五月一日
北海タイムス合資会社


つづく
posted by 0engosaku0 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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