当初「2010年のようなことはない」とのことだったが、結局残暑のレベルだけをみれば2010年に匹敵、もしくは超えるようなレベルであった。
原発の止まる中、電力需要がもったのも節電の努力の効果のたまものか。
9月もまだまだ太平洋高気圧の縁で、暖湿気の流入する日は続く。蒸し暑い日が続くのだろうか。
さて、100年前の話についても続き物で、今回は夕張炭鉱の爆発事故についての第二話。
前回は初期報道の内容が中心であった。今回は、事故の発生時そしてその後に何を見て、どのような光景が広がっていたのか。その内容について書き起こして行くことにする。
5月も3日ほどたつとぽろぽろと体験談や見聞記が紙面に出てくる。
まず、事故から一週間後の記事から。
1912年(明治45年)5月6日 北海タイムス
▼悲愁の涙 乾かざる坑夫長屋
▲阿修羅の衝
怪しい地響きを聞いて駆け出した者は留守居のおかみさん計りではない
男も女も又町の者も皆 北の方へ走る
川上の坑口が見るとモウ解った 第二斜坑の橋が飛んで了った
大分怪我人があった風で 鉱務所の中は煮え返っている
人の言葉だか獣の言葉だか分らない 怒る声 罵る(ののしる)声 泣く声 叫ぶ声
色々な者が合わさって 阿鼻叫喚阿修羅のちまたさながらだ
(第)二斜坑へ行った家の者はモウ目付が変わっている
髪振り乱して跣足(はだし)のもある
洗いかけたオムツ片手に狂い廻るのもある
色々な噂を聞けば聞くだけ益々望みがなくなった。
これはある夕張住民が語った事故直後の鉱務所の様子であろう。
続いて炭鉱のそばの登川第二小学校の様子も記されている。
▼第二小学校
さういう内に学校の方も騒ぎ出した
坂の上の第二小学校では子供等が外へ駆け出して見ている
「瓦斯だ々」
「第二斜坑だとヨ」
「辰ちゃんの家は二斜坑でないか」
「さうだべ俺方の藤本もヨ」
教師が入り口から手招きをして
「コラコラさう勝手に出ては可かん(いかん) 皆此方(こちら)へ入りなさい」
其所(そこ)へ渡辺校長が来て
「君どうだ今朝入坑した家の子は帰さうぢゃないか」
「そうです そういうのが大分沢山あります」
「一旦家へ帰って見て 変わりがなかったら又学校へ来るやうに言い付けて呉れ給へ」
学校にいた子供たちにとって、この不吉な出来事を目にしては勉強どころではなかった。
この第二小学校に通っていた、ある児童についての記事がある。
▼夫婦共稼ぎ
阿部円蔵(三三)は岩手県の者で二番坑に坑夫をしている
妻トメ(二八)も同じ坑の運搬夫をして二人の子供を育て、長男・辰治は今年九つになるが第二小学校の尋常二年生だ。
円顔の頑丈な体格で 随分腕白(わんぱく)だが
「家へ帰って見て来い」と言われて三番坑上の長屋へ急いで帰って行った
家には誰も居ない
隣の小父さんも何処か行った
辰治の弟で秀三郎という七つに成るのが一人ポツネンとして何処からか帰ってきた。
「高橋の小父さん二番坑さ行ったゾ」
と、短い木片を持ったまま家の中へ入って来た。
「父ちゃんドウした」
「ウン父ちゃんも母ちゃんもまだ来ねえ」
「秀 お前 家に居れナ 俺二番坑へ行って見て来るから」
「いやだ俺も行く」
「お前なんか歩けるもんか チャット行って来るから待ってれ」
「インヤ俺も行く」
とうとう二人で出て行くと長屋の角で高橋の小父さんに会った
「ヤ、辰に秀か 可哀相だがモウ諦めれ・・・・・・
今朝チャンは何か云って行ったか?」
「いや何も言わねぇ」
「おっかァも一緒に行ったか」
「うん 俺に弁当を拵えて(こしらえて)呉て 秀もおとなしくせえョって言って行った」
「うん」
高橋の小父さんは涙が出てきた。
すると辰治も鼻声になる
「チャンもおっかも帰らねぇのか」
「マア待て家へ入れ」
三人は暗い長屋の中へ入った
このような光景はひとつやふたつではなかったはずだ。
約270の命の数だけ、この光景があり、涙の量は何倍にわたっただろうか。
この辰・秀兄弟の両親は帰らぬ人となった。
1912年5月5日北海タイムスより
▲兄弟孤児となる
岩手県生まれ坑夫・阿部円蔵(三三)一家も亦た(また)悲惨の極みなり
二十九日には円蔵および運搬夫なる妻トメ(二八)と共に北三番坑に入り、夫婦共惨死を遂げたり
同夫婦は一昨年当山に来たり、両名共稼ぎをなせしが夫婦の間には長男辰治(九つ)とて登川第二尋常小学校二年生と次男秀三郎(七つ)の兄弟あるが両親とも弊死せるより一朝にして二人は孤児となれるが
頑是なき子供の事とて両親の死を格別 意にも止めず 平然と遊戯をなし居るには付近の人々 貰い涙に暮れ居れりと
1912年4月29日。夕張の空は晴れていたようだ。
同年5月5日の北海タイムスより
▼二十九日の朝
朝七時前に飯を済まして働き人が誘い合わせて出て行くと 一しきり(ひとしきり)長屋中がヒッソリする
夫から子供やお上さんが思い思いの事を始めるが 四月二十九日の朝はカラッと晴れた春日和であって 上(かみ)さん連は昼ごろ迄 井戸端で洗濯してるのが多かった
「安さん所のお上さん 未(まだ)治らなかったべか」
「未 寝てるさ 俺ハァ何より病気怖ねてば」
「真だ真だ 安さんも気の毒だハイ」
その時 底強い地響きがして ボーンという音がした
上さん達は弾き飛ばされた様に起き上がった
お互いに黙会した様に動悸が撃った
「何処だろ」
一人が真っ先に崖の鼻へ駆けて行った
内に居た者は一斉に外へ駆け出した
其の内に北の方で白い煙が立ち上る
「一番鉱だ」
「二斜坑だぞ」という声が聞こえる
「俺とこも二斜坑だ」
「安さんのお上さん寝て居なさい 俺行ってきてやるから」
モウ女たちは泣き声であった。
この安さんというのは大隈安五郎の事で、病める妻と子供とを置いて到底帰らぬ人となったのだ
青い空にごう音とともに立ちのぼる黒味がかった灰色の煙。
さて、この大惨事に駆けつけた官吏による談話もあるが、これは事件直後のヤマの様子を見た者の一人としての貴重な証言である。紹介しておく。
1912年(明治45年)5月2日 北海タイムス
夕張爆発現場を視察したる財部警務長の談
夕張炭山瓦斯爆発 実地調査の為め 二十九日道庁保安係勝田警部急行したるも事件は意外の大惨事なる為め財部警察部長は随員一名と共に三十日現場に急行、昨日(一日)午後四時半の列車にて帰札せられたるが来訪の記者に語る所大要左の如し
▼登川停車場
に到着したるは午後六時過ぎにして 現場は停車場まで約十八丁あり第二斜坑に着きたる頃は既に夕刻の七時頃なり
先ず炭山事務所に至り 岩見沢本社の西村採炭部長及び夕張炭山・岩瀬工長の二氏に就き各種の事実を聴取したるが
登川分署長の語る所に依れば同日午前十一時 突然地震の如き大音響を聞きたるは今回の大惨事を惹き起こしたるなり
▼第二斜坑は
夕張炭山の最も有望なる炭鉱口にして同山の三分の一は第二斜坑より採掘 今回の事は実に同山の致命傷とも云うべく
従来同坑は平素多少の瓦斯を発したるも 近来別に瓦斯の増加したるを認めざりしが 先々月頃坑内の或る一部に自然火気を発したることあるより推察するも 近来多少瓦斯の出で居ったことは明らかなるものの如し
第二斜坑の坑道は掘削三千二百余尺(約1km)にして之に第一坑より第五坑なり
発火の局部は未だ不明なるも第一坑第二坑の中間に火気あるを発見し、本官の到着したる頃はようやく四分板を以て仮密閉を為し終はりたる所なりしが 更にその危険を防ぐために角材と粘土を以て本密閉を決行して第一坑第二坑は密閉して暫く其の自然に任すより方法なく
次いで、夕張・登川分署長の後藤さんの話。
1912年(明治45年)5月4日北海タイムス
夕張炭鉱爆発大惨事
▼後藤登川分署長談
登川分署長・後藤雄之助氏は元札幌警察署詰時代より知己であった。
二日同氏を登川分署に訪問したるが氏の談に「珍事出来の当時自分は署の室にありて執務中、大きいというほどで妙に堪えるドンといふ音響に接し ハテ瓦斯の爆発ではないかと思ふでる所へ間もなく隣の炭鉱事務所へ第二斜坑の椿事が電話で報知があったので 本職は直ちに現場へ駆けたが
同坑は他坑より常に多くの坑夫が入坑し居る場所とて容易ならざるを感じ 一面分署員全部を召集し 諸般の救護任務にあたらしめるに
正午に至り坑口及び臨時救護所前まで死傷者を収容すべき病院付近まで頗る雑踏を極め 死体発見されたる被害者の遺族なる老幼男女泣き叫びて惨状を極め 見るも気の毒の有様であった
本職は事 容易ならざるとし道庁へも報告し、岩見沢本署へも応援を求め坑口前にある三十間余の建小屋を利用し ここに医師二名、分署より渡辺警部補、摂待巡査部長を配置し 収容したる死体を臨検して夫々(それぞれ)炭鉱病院に送り 高野院長医師二名、看護婦三名を配し死体の洗浄 包帯等に従事せしめ、尚ほ真谷地、万字、若鍋、新夕張、大夕張各地より医師・看護婦方応援に出張し、昨日夕刻までに死体四十四名を収容し悉く遺族に引渡したるが、いずれも四日三夜不眠不休の体に従事し居る次第で 兎に角今回の椿事は本道空前にして二百六十余名の坑夫や事務員に対しては何とも気の毒な次第である云々
一瞬で多くの命を奪ったガス爆発事故。
第一坑、第二坑では火災が発生したため、鎮火のための密閉作業が行われた。二番坑では94人が取り残された。
また、第三坑、第四坑は鎮火作業の間、死体の搬出作業が行われた。
記事をみるかぎり、まともにガス爆発を食らい、奇跡の生還をはたしたものはいない。
完全に爆発=即死となった模様で、この事故の爆発のすさまじさは想像を超えるものだったことをうかがわせる。
初期は事故の模様や惨事の状況を伝える記事が多かったが、このあと日がたつにつれて残された家族、葬儀のようす、遺体との対面と、悲しい記事が多くを占めるようになる。
これについてはまた次回。
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