今日の北海道は北見市常呂の29.9度が最高。北海道の9月の真夏日は昨日まで5日連続と史上最長に並んでいたが、1999年を越えて6日連続には至らなかった。
果たして明日の青空。そしてカラッとした空気。
秋っぽくなったと感じるのか、それとも夏の続きと感じるのか。
どう感じるのか、どのような声が聞かれるのか楽しみである。
本日の道新夕刊の天気情報の解説文は拙著作であるが「からりと晴れて洗濯日和。夏日の所が多いが、日陰は涼しい。」としてみた。果たしてどうなるだろうか。
さて、こちらの話は続き物。今から100年前の明治45年4月に起こった夕張炭鉱爆発事故である。
今回は最終回のつもりである。悲しみの現場の記事をいろんな角度から見た目を追いかけてゆく。
1912年(明治45年)5月4日 北海タイムスより。
悲惨なる病院前
昨一日は被害者・百合専三郎唯だ一人より死体発見せざりしため 現場及び病院付近は寂寥なりしが 今二日午前十一時三十分より午後三時に亘り 八人の死体発見せるより 現場なる坑口前及び炭鉱病院前は非常の雑踏を極め 死体が一人ひとり病院に運び入れらるるや遺族の老幼男女付随し来たり ドカドカ診察室前まで侵入し 羅漢の如く黒焦げになりし死体を取り囲み 父よ倅(せがれ)よと泣き叫ぶ
悲惨の光景はさながら修羅地獄にて 其の親子の境遇に立ち至らばさもあるべしと 記者もそぞろ同情に堪えざりし
絶望とはわかっていても、黒こげでもなんでも、とにかく姿を確認したい。
探すほうも大変な作業である。同日の記事
不眠不休の主事
岩瀬鉱長始め第一鉱務所・斉藤主任技師 其の他四日三夜に亘り 身体綿の如く疲れながら坑口密閉 死体発見に奔走中なるが 鈴木主事も同断炊き出し其の他一切の業務に従事し不眠不休の状態なり
24時間テレビどころの話ではない。
四日三夜不眠不休。しかも記事の時点では、それはさらに進行中のことであろう。
1912年(明治45年)5月6日 北海タイムス
▲遺族の現状
▲憐れな孤児
貧民窟と称せられる市街地第四区炭山長屋居住の罹災者・森谷與四朗の倅・為次郎(一〇)は目下尋常四年生なるがまだ十歳の幼児とて父の死も気に止めぬ風にて 隣家渡辺平次郎方の厄介になりながら 平気にて記者の訪れし時は道路に付近の子供等とパッチの遊戯に余念なかりし
又た同じ長屋に住む罹災者・山本福一郎の倅・勇(一二)は尋常五年生にて隣家・和泉寛之丞に家に預けられ 記者の訪問に接しさすがは年かまだけ父の死を悼むものの如く、稚な顔(おさながお)に憂愁の色を湛えしは記者を始め付近の人を泣かしめたり
▲飽迄(あくまで)勉強する
遭難せし一番坑のピン切・森本勇蔵(三八)は鳥取市生まれにて去二十年当山に移住せるが、妻ナツとの間に長男忠平(一五)、三男源治(四つ)、長女ヨシエ、次女スミ、二男勇の五人ありしが、妻ナツ、子供ヨシエ、スミ、勇三名は共に病死せしより男の手にて忠平・源治を育て居りしが今回の災厄に罹れり
忠平(一四)は目下登川第二尋常五年生なるが、十四歳にもなりし少年とて父の死に発奮し 是から飽くまで勉強して弟源治を養はんと健気な言を吐き居れり
▲罹災者多き飯場
罹災十一名に達する坑夫を出せる第一鉱の松尾飯場を訪ふ
同所は五十余名の坑夫を抱え居るうち今回災厄に罹りしは須藤菊之助、成田末作、須田辰吉、管野高之助、堀内譚、土屋助治、土門文太、永井善松、丸山五郎、杉村喜平次、川戸繁の十一名なるが、三日までに死体の発見せるは須藤・成田・須田の三名のみにて、坑夫部屋には香華燈明の煙絶えねど 地下層底に残れる八つのむくろは其のまま宇宙に迷い居るならん
▲異臭鼻を衝く
坑内より発見せる遺体は日一日と腐乱し来たり
昨二日の夕刻よりソロソロ臭気を発せしが 今朝より午後に至るまでに十三個の死体は追々異臭紛々として鼻を衝き 臨検の際も医員等 非常に困難の模様なり
5月も10日近くになってくると札幌ではサクラが見ごろを迎えつつあり、花見客も続々と現れるようになっていた。
おそらく夕張でもエゾヤマザクラのピンク色の花が開き出していたであろうが、上や周りを見る余裕は坑夫たち・家族たちにはなかったであろう。
1912年(明治45年)5月9日
涙乾かぬ坑夫長屋
北はずれの丁未長屋でも駆け出した上さん連中が日暮れになって帰ってきた
モウ死骸の出たのもあった風だ
「ヤアヤあんたの所で今朝入ったかネ」
「俺とこは昼から入るのであったんだハイ」
「何て仕合(しあわせ)したモノ」
「鈴木さんで二人とも入ったね」
「アイアイ庄蔵さんもおフデさんも今朝早く行ったハイ」
「末(まだ)戸が締まってら」
「夫婦とも助からねべか」
「気の毒だね子供も何もねんだハイ」
「俺どうも死ぬんだは二人で死んだ方がよい」
「真さんのお上さんなんて先刻はだしでバカみたいに走って来たハイ」
「真さんとは此の間来たばっかりだもんな尚と気の毒ださね」
「真さんて誰だ」
「ホラ此の間秋田から来たべ、子供が三人あって」
「うん泉真助さんか」
其の晩坑夫長屋の方々に燈明がともり 線香が立て 泣き崩れる遺族の周囲に近所の男や上さんが集って来て 伽(とぎ)をした石田義松の所でも五、六人集っていた
「此家の義さんなんざ此の間二番坑をかはりてえといっていたのヨ
それとかはってれァ何の事アなかったのにナ」
「死骸だって何時出るか分からねってんだから箆棒(べらぼう)ぢゃねえか」
「お上さん泣きなさんな 何とか法の立つやうになるからよ 吉公どうだ モ一度事務所へ行ってみやうか」
其処へソラリ戸を明けて入ってきた腹掛け法被の石田義松 泥まみれの顔を撫でながら「すまねえ 心配させた」
一同は「ヒャア」と驚いた
確かに足があるから本物に違いない
それでも女や子供はまだ気味悪そうに後ろのほうにモツ込である。
皆に急立てられて義松の語る所に依れば、彼は此の日、度々トロッコを運び出したが十一時頃 丁度押し出して一服やっている所へズドーンといふ響きだ。
それからアノ大騒ぎの中に巻き込まれて居たが 自分も死人の中に数えられていると聞いて吃驚(びっくり)して小頭の所へ顔を出し 過去帳から名を消して貰った
斯ふいふ連中が十五、六人もあるといふ
人間万事塞翁が馬
「此の弔い酒で祝杯を飲もう」と一座 夜を撤してさんざめいた。
丁未の小林飯場では広い一間の中に山本栄松の寝ていた枕上と水野喬の寝ていた枕上とに線香が上がって 現場の飯場の若い者が仕事を了って来て伽をしている
山本は石川県 水野は新潟県の者だ
生前の記憶などいろいろ語り合っている
「伊達は未だ帰らねえのか」と誰かが言い出した
「いや俺より一時間も先に上がって来たぞ」
「おかしいナ何処へ行ったらう」
「大将大分くたびれたから一盃やっているかも知れねえ 煙臭い坑(あな)で随分働いたからナ」
併し(しかし)その晩 伊達は帰らなかった
そして翌朝 鉱務所の方から知らせて来たときはモウ死体となって収容所の中に寝ていた。
彼は当日救護隊に加はって五、六箇の死体を掘り出し一旦鉱を出たが、二坑道の三号あたりに外套を遺れて来た事に気が付いて それを取りに入った其の時 跡瓦斯(あとガス)が出てきて到頭窒息して了った。
彼は友のために身を殺したのだ
「何て情けねえ事してくれたナ 死ぬ筈(はず)の人間ぢゃなかったに」と
飯場の若い者は泣いた
梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」という有名な文言を吐き記した。
今後、春に夕張で咲き出すサクラをみるとき、サクラの咲き出す時期に爆発に倒れた坑夫の姿を、うすくれないの花びらに重ねてしてしまいそう。そんな気がした。
さて、夕張に同情の目が向いていた春浅き5月。
北海道・樺太は時ならぬ大嵐に襲われる。
再びたくさんの命を奪ったメイストーム。
その話はまた次回に・・・
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