2012年10月18日

明治末年北海道記18:1912年5月15日衆議院選挙の投票日

初雪前線はいよいよ宗谷海峡へ到達。

本日18日の午後6時観測のロシア実況データをみると、海馬島(モネロン島)でみぞれとのこと。
敷香で足踏みしていた初雪前線は、南樺太のマチを飛び越して海馬島まで南下してきた。豊原(ユジノサハリンスク)も午後9時の天気は雨、気温は2.9度ということだから、午前0時の観測ではみぞれや雪になっているかもしれない。

だいたい豊原や大泊と稚内、旭川の町は同じタイミングで初雪になってきた。だから宗谷海峡を初雪前線が渡るのも、早ければ今の夜が明ける前、ということになろう。

初雪予想とか真夏日初日の予想とか。天気にもいろいろ節目があって、それが前々から言っていたものがピタリと当たると、とても嬉しいものであるし、間違いないとなっても、本当に雪が降るとか、30度まで上がるとか、その瞬間がおとずれるのを待つのはまるで合格発表や当選発表を待つような心境である。

今から100年前の春。1912年(明治45年)の5月。
北海道ではちょうど札幌のサクラが満開となっていたころ、「サクラサク」を待っていた人たちがいた。

第11回衆議院選挙の投開票が行われたのである。

今回は投票の模様の記事について紹介する。

1912年(明治45年)5月15日 北海タイムスより


●当選と公表期
衆議院総選挙はいよいよ本日執行されるが、開票は各地とも十六、七両日に行はれ 選挙会は長野県の十七日を始め 対馬の二十三日を以て終了すべきが 各府県の当選者を知得べきは二十五日なるべしと当局者は語れり

●各派当選予想
政友会は公認候補二百三十余名 自立五十七名の内 三割落つるとしても二百二人の当選なるが 確実なる当選は公認自立を通じて二百十名なりと見は可ならんと

国民党は百名位を得るべく中央は三十名以下ならんと観測さる


明治の末ではあるが、すでに新聞は「予想議席数」を書くようになっているのがわかる。
当時は1900年に伊藤博文が作った政権与党である立憲政友会が第一党で、続くのが大隈重信の作った立憲改進党を祖とする立憲国民党であり、こちらは反政友会の筆頭となる野党である。

中央というのは中央倶楽部のことで、明治の終わりから大正の初めにだけ短い期間存在した政党。桂太郎の側近が中心となった反政友会の勢力で、こちらも野党である。

実は獲得議席数は政友会が209議席、国民党95議席、中央倶楽部31議席ということなので、かなりこの事前予測は正確であったことがわかる。
今も選挙のときの獲得議席予想はけっこう当たっているが、昔からの新聞の伝統ということがいえよう。

では、各地の投票日の様子。まずは札幌から。


▽札幌区
▲投票所の光景

札幌区衆議院議員選挙投票は予定の如く昨十五日午前七時より区役所楼上に執行せられたり

是れより先 阿部宇之八氏が区の平和上立候補を辞するや 形成は著しく浅羽請氏に傾き 何人も同氏の独り舞台を予想し居たるが 十四日来 突如として理想選挙を旗に阿部宇之八氏を推薦する有志現はれ 大勢の殆ど決したる重囲の裡(うち)に 駒を乗り入れ目覚しき活動を開始したるより 流石の浅羽派も相当に警戒を払うに至り

当日の投票所は予想外に活気を呈したり

見渡せば郵便局前及び正木菓子店 上野筆耕所の都合三ヶ所に休憩所を設け「候補者阿部宇之八君推薦義軍」と白地に墨痕鮮やく染めたる旗二旒(りゅう) 並びに 阿部宇之八氏選挙事務所と記たる大旗三旒を翻し 尚ほ各所に「阿部宇之八君に同情を願います」の貼り紙物々敷く(ものものしく)

亦(また)一方浅羽氏の事務所は投票所正面より左右入り口に懸け 紅白段ダラの幔幕を張り廻し「衆議院議員候補者浅羽靖選挙事務所」と筆太に記したる看板を立て 正々堂々参謀長指揮の下に陣笠連が出て入る人を物色する様物凄く 実に白兵混闘の壮観も斯くやと計り見受けらる

▲場内の雑踏
斯くて予定の午前七時に投票を開始するや 先ず投票所入り口に白頭肥大のシルクハット姿の浅羽氏現はれ 次いで高桑市蔵 笠原文平 榎本・・・他幹部数人頭顧を並べ出入る小僧に迄も警戒の眼を放ちつつあり

翻って理想団の旗織如何を見るに 之れ又数名の参謀手に手に阿部氏の推薦状と名刺を握り殆ど血眼になりて注意を怠らず 就中一種の選挙狂とも目す可き

上野某の如き有権者に混して警戒する角袖を捕えて哀訴の情を凝らすなど 心情又憐れむべし

斯くする程に有権者は暫時投票所に集まり来たりて午前八時十分田中清輔氏の先頭第一を始め続々として入り来たり

階上の受付は見る間に人垣を作るの盛況を呈し 二名の書記が必死の奮闘も物かは忽ちにしては潮の引く如く忽ちにしては又押し寄する 其の混雑名状すべくもあらず

斯くて雑踏せる受付も十一時四十分前後より忽然人波は去りて 一、二の有権者を見るのみ

正午の投票人員五百四十六人と注せらる


札幌の立候補者は二人。
浅羽靖は北海学園の創始者で、札幌区長も務めている当時現職の政治家。
一方の阿部宇之八は明治・大正期の北海道では高名なジャーナリスト。今の道新の源流ともいえる「北海新聞」を創設、この北海タイムスを発行している会社の理事でもある。

新聞としては阿部を応援したいところか・・・そうみえなくもない。

形成としては現職有利で無風と思いきや、選挙直前にやっぱり出る!という作戦。今なら絶対に通用しない作戦であったがどうだったろう。

札幌の投票所、午後の様子もみてみる。


▲午後の叩き頭戦

零時三十分頃に至れば流石に寄せては返す人波もなく 受付口は平穏に帰し 警戒の査公と書記の私語を耳にするのみ
階下の有様如何を見れば之れ 又留守を預かる浅羽派の阿由葉氏と理想団の参謀二、三人が人待ち顔に椅子にかかり白頭翁の影もなし

午後一時前後に至るや今迄の平穏は忽ちにして人波荒き巷と化し シルクハット厳めしき白頭翁は再び姿を現す午前中の投票者多く実業家なりしが午後は折々官吏姿をみとめらる

有島大学教授其の他教師連 金釦(きんボタン)光らせし鉄道官吏さては病院の医師 諸侯何れも興へられたる権利を尊重する愛国忠君の士ならざるはなし

翻って投票所の模様を望見するに 第二入り口の貼り紙 徒(いたずら)に固く形勢を窺知するに由もなし
踵(きびす)を転じて階下に至れば 今や両派の叩頭戦はたけざになるものの如く引きも切らぬ有権者を包囲して名刺を握らせ 口を尖らせ あらゆる術数を尽くす

参謀雑兵の奮闘突撃 真に一大喜劇を見るに如し

▲危機は既に去れり
上野選狂子は彼等戦士の中にも一頭地を抜いて其の奮戦振りを現しけるが突如大勢叱呼して曰く

諸君は同郷の士を愛せざるか
諸君は札幌区の将来を考慮せざるか知らず
諸君の心事は大改党たる筈 政友会を無視するか

と意気 将に天を衝んとして 握れる推薦状を一振すれば翻々(ほんほん)として飛ぶ事 落花の如し

一拾して注視すれば劈頭(へきとう)に大書して曰く「危機一髪再趣意書」

かつんぞ知らん 危機は既に過ぎ 今や間一髪を入れざるものの如きしも 猛烈を極めたる戦闘も〆切時間の切迫するに連れ自然其の威を収め 四時前後よりは役所帰りの官公吏 会社員 理想団より駆り出したる有権者が三々五々出入を継続するのみにて 午前中及び一、二時前後の活気は三度平坦に帰り 明十六日の開票を待つものの如し

午後六時予定の如く〆切り 投票人員千九十八人を算せり
(十五日午後六時記)



今は投票所にはポスターあるのみだが、昔は投票所に各陣営の人が張り付き、こっちに入れてくれ!と声を張り上げて「投票の呼び込み」を行っていた様子がよくわかる。

当時は制限選挙で、誰でも投票できるわけではなく、投票所の数も少ないからこういうことができたのかもしれない。

郡部では投票前に、「我々の町は全員だれそれに投票する」と決議をして、投票を行うということもあったようだ。


▲岩内投票模様

本日岩内町は全町一致 東代議士再選の決議迄も為せし事とて 一の棄権者もなく本日の投票は午後一時までに投票総数百七十二票の多きに上りたり

因みに有権者総数二百三十名なれば午後の分に於いても棄権者等なかるべし

▲鬼鹿の得票
鬼鹿村有権者二十七名の内 二十票 東代議士へ投票せり
其の他は不在者にして棄権者なし

▲増毛町の投票
増毛町は有権者九十名の内 失格不在者等の他七十票は全部東代議士に投票せりと



投票率は高く、旅行等で不在だったり、死んでしまった場合をのぞくとほとんど投票してきている。
もちろん期日前投票の無い時代。一票の重みというのがとてもわかっていた時代なのだなあと思う。

なお、北海道では選挙があり、投票もできたが、樺太のほうは選挙区がなく、選挙については北海道の状況を伝えるのみで、投票したというような記事は見あたらなかった。人口も少ないし、仕方ない話であるのかも。

さて、開票結果はどうなったのか、それはまた次回以降に・・・
posted by 0engosaku0 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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