明治最後の年1912年も衆議院選挙であり、北海道は札幌や函館、小樽の三都市と、北海道を大きく3つに分けた郡部での合計6の選挙区で議席を争った。
先に北海道記18、そして19で札幌区の投開票の模様を掘り起こしたのだが、6つの選挙区の中で記録的な地すべり的圧勝となった選挙区がある。
それは札幌郡部選挙区。道央〜道北のエリアにあたる選挙区である。
1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス
▽札幌郡部開票
▲増毛支庁管内
開票は本日午前八時より行わる
総投票数三百十五票にて 其中無効四票あり
其の他は悉く東氏の得票にて 其数三百十一票なり
(十八日増毛発)
▲最大多数当選
札幌郡部の逐鹿界は終始一貫 東(あずま)代議士の独占する所となり 各地有権者も亦(また) 熱烈なる同情を以て歓迎し 且つ棄権を戒め 互いに申し合わせを為し 或いは他村迄も連絡を採り 一致の歩調にて同氏を推薦するに至りし
結果は各投票区とも極めて少数の棄権にて 其投票は殆んど氏の独占する所となりて次点者を見るに至らず
愈々(いよいよ)昨日を以て各開票所とも開票終了の結果は実に左の如き最大多数にて当選の栄を得るに至れり
当選
三千七百九十六票
東 武
東武と書いて「とーぶ」ではなく、「あずま・たけし」と読む。
増毛は投票者のうち無効票以外は全部が氏に投票しているが、札幌支庁管内の6投票所合計も、有効投票数427票のうち412票を獲得するなど、各地区の有効投票を総取りするような圧勝である。
これも、村の有権者が会議を開いて「東氏にみんなで投票しよう!」とわざわざ決議しているくらいで、かえって棄権したり他の候補者に投票したら村八分になるのではないかというような全地域一致の支持ぶりであった。
東武とは何者なのか・・・
いまは「東武」と書いてgoogleにかけても東武(とーぶ)グループの検索結果がひっかかるだけで、これだけではなかなか情報はつかめない
「東武 議員」と入れるとウィキペディアの記事などがヒットする。
北海タイムス社の社長であり、初当選は1908年ということがウィキペディアに載っているが、さすがに北海タイムス。自身の社長のことだから、出自も詳しく出ている。
そのままではかなり読みにくいので抜粋すると
・明治2年(1968年)大和国十津川の生まれ
・最初は大阪の大学予備校に学び、それから東京法学院(今の中央大学法学部)に入り卒業
・故郷十津川の豪雨災害を受け、村人に北海道移住を説き、郷民3000人を現在の空知・新十津川町入植させる
・自分も東京法学院卒業の翌年、明治24年(1891年)に北海道へ移住する。その後も明治25年10月に100戸、明治26年4月にも100戸の移住を斡旋
・明治26年(1893年)に雨竜の農場の経営を任される
・明治31年(1898年)に仲間と一緒に「同志倶楽部」という政治団体を結成
・明治31年(1898年)11月、北海時事社という新聞社を設立。社長になる。このころ石狩川治水問題や拓銀の創設、北大設立などの陳情のため度々上京している
・明治34年(1901年)は政友会の札幌支部創立委員となる。さらに政会令発布に際し、空知三郡農事副長などに当選している
・明治34年8月10日、北門新聞と北海道毎日新聞、北海時事の三社が合併して「北海タイムス」が設立されると、その理事となる。明治45年当時はまだ社長ではなく理事のまま
・明治41年(1908年)の衆議院議員選挙で札幌郡部より選出、初当選。
というような感じである。
ともかく、この時代では政治家としてかなり地元民には慕われていたようで、いろんな祝賀行事にも東武氏が姿をみせては歓迎を受けている様子が記事として掲載されている。
北海道でも時代によっては絶対的な当選力を持った政治家は現れてきたが、風になびく有権者が多くなった今は、このように地域と結びついて圧勝するような政治家はなかなか出ないかもしれない。
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