3月12日だったか、最初に小樽と札幌、旭川の積雪ゼロになる日を予想したとき、4月12日に消えると予想したのは旭川だった。札幌は15日、小樽は18日だったかと思う。
札幌が4月12日にゼロというのは、当初予想していた4月15日より3日早かったが、先週末の大雨&大融雪はさすがに3月の初めの段階では予想できないから、まあ誤差の範囲内ではないだろうか。
旭川は10cmで今日は足踏みだが、まあ2日もあれば無くなるだろう。小樽は24cmなので、あと4〜5日かかりそう。ということで一ヶ月前にした予想とはいえ、まずまず的中しているのではないかと自己評価している。
天気現象よりも全然予想がつかないのは、人間様の行動である。
既に今は、北朝鮮の指導者を中心に発せされる言動により、国際社会が振り回されているわけであるが、明治の末の北海道も、集団脱走した囚人の行動に大勢の道民が振り回されていた。
シリーズ4回目となる今回は、19日に逮捕された中野甚之助の発言から、それまで謎とされていた部分の多い脱走から逮捕までの経緯をたどることにしよう。
いずれも1912年(明治45年)6月21日の北海タイムス掲載である。
まず、脱獄の模様から。
▽脱監の模様
脱監囚横田は脳病のため 桶に水を貰ひて頭を冷し 戻りしが 去九日の午後一時頃 自分の桶は小さき故 大きい分と取り替えて貰ひたし と見張看守に申出でたるに
同じく脱監囚なる御代澤の分が大きければ それと取り替ふるため 両監房が同時に開かれたるを以て 予て示し合せありたる両囚は 双方より見張看守に行なり 取ってかかりて 其場に捻じすへ 看守を監房に押込みて 剣 及び 錠前を奪取し 逃走の申合わせをなし居りたる十名の内より 渡辺 太田 三田 岩田 中野の順にて七名を監房より出したるが 残り三人は出獄時期にも近づき居りしを以て 脱監せざりしを以て
此の三人を其の儘(まま)に打捨て置くときは直ちに発覚の惧れ(おそれ)あるため此等を暗室に入れ置き 更に太田は見張りに来るべき看守を一刀の下に切り捨てて剣を奪う目的にて 潜り戸に隠れ居たりと
而して板塀を乗越えるため 御代澤の発案にて梯子を作ることに決し 暖炉の上を覆う板を繋ぎ合せ 長さ一丈五尺ばかりの梯子となし 監房の裏口より乗り越へたり
其際 布団の皮を破りて 之を被り 獄衣を被いて逃走せるが 此の間約一時間を要したるものなりと
作戦通りに看守に対して2対1の優位を作り、7人での脱走となったが、当初は10人で脱走する計画だったようだ。
それにしても、脱獄にはスピードが要求されると思うのだが、逃げるまで「一時間」ほどかかっている。かなり、想像よりのんびりした脱走劇である。
▽其後の状況
首尾よく脱監の目的を達したる七名のものは 韋駄天走り監獄の裏手なる丸山を目がけて逃込みたるに 途中 柿色の私服を着け 鳥打帽子を被りたる一看守に遭遇したるも頓着なく逃走し やや暫くして振り返り見たるに 病気中なる岩田は既に落伍し 姿を認めざりしが 已む無く之を打ち捨て置き 無我夢中に駆け登りて 山中にて夜を明かし 其の翌十日 家の四戸計りある所に出でたりと
其の際 犬の鳴声を聞きて 張番の入込みたるを感じ 直ちに姿を隠し 夜に入りて人家に押入りたるが 三田 渡辺は表口にて立番して 中野太田横田御代澤の四名 屋内に押入り飯を炊かせ居る所へ 近所の男二名 包丁を携えて襲来したけれども 大勢にて立番までなし居たるため 驚いて逃去らんとせる所を追っかけて 携帯の包丁を奪取し 更に太田 横田の二名が隣家の二戸に押入り 妻子全部を最初の家に連れ来り 又空家の方よりも色々必要の部品を摂取し来たりて
白米三斗 黍七升 身欠鰊若干 鍋二個 味噌四〆目斗り 足袋二足 衣類十余枚 柾割二挺 磁石一個を荷造りして 三戸の家族全部を脱監の際携帯せる木綿糸にて縛り置き 約四時間の後 山奥差して 逃げ込みたるものなり
シリーズ第一回で紹介した常世農場押入りの顛末が告白されている。
最初に斬り殺された岩田は病気で、一番の落伍者となっていた。仲間を探し、山中を彷徨っているところを看守にみつかり斬殺されたことになる。
犬の鳴き声から、農家を襲うのを夜まで待つという慎重さである。北の青年将軍もこのくらいの慎重さは持っているのだろうか。
その後、山中で彼等は散り散りになっていったようだ。
▽追撃隊に逢ふ
而して五つ六つの山を越え 谷を渡りしに十二日の朝に至り 元の所に逆戻りし居ること判明し 更に山奥に向て馳込み 午前十時頃 飯を炊きて食事を了へ(おえ) 予定の方向へ向はんとする一刹那 追撃帯のために認められ 驚いて姿を隠さんとしたけれども 其追撃頗る急なる為め 同十一時頃 太田御代澤の両名を見失ひ 横田三田渡辺中野の四名だけにて谷二つばかり越へたる頃 横田三田の両名は他の道をとりたり
然るに中野と渡辺は地形不明のため踏み迷ひ 四日間ばかり山又山を越へ 遂に樺戸監獄より僅か一里計り石狩川上流なる札比内(外役所のある所)に出てたるを以て 俄かに滝川方面に向ふことに変更して 下山したるに
幸にも此方面の警戒なかりしを以て 易々十六日の夜 新十津川なる石狩川鉄橋付近に着するを得たり
第二回に、看守の一団が食事中の六人の囚人のいるところへ斬り込んだが逃げられた話があったが、この急襲により、6人の囚人が2人と4人の2グループに別れ、さらに4人のグループが2人ずつのグループに分かれていったことが告白されている。
6人から2人となった渡辺と中野の前に、北海道一の大河。石狩川が横たわる。
▽石狩川を泳ぐ
石狩川鉄橋を渡らんとせるも 橋の袂(たもと)に張込みありて 誰何せられて渡ることを得ず それより橋の上流約百間計りの所にて 筏を編み 窃取したる衣類は首につけ 獄衣は筏にのせて裸体になり 筏を手にかけて泳ぎ始めたるに河の中央に至りて 渡辺が非常に衰弱して モー駄目だといひし儘(まま) 姿を認むること能はざりしが 多分溺死したるならん
中野は首尾よく泳ぎつき 身体をふきて渡船場の附近なる笹薮の中に姿を隠し 夜(十六日の夜)に入りて滝川町に出で 九時頃 楓通(かえで・どおり)なる或る家に押入りしに
亭主は床に就き居りしも 妻と見ゆるものは尚ほ仕事をなし居たれども 男の枕者に掛け居りし 古インバネス及び 茶縞綿入れ ハンテン 綿ネル股引の三点を盗み出し 獄衣と着替えたるが 余り空腹になりし故 弁当屋らしき家に入りたれど 啖呵せられて逃出し 一目散に空知川に至り 獄衣を空知川に沈め置き 其の儘 砂川方面を差して疾走し
十七日未明砂川の町を過ぎて其の附近に姿を隠し 夜に入りて町端れ(はずれ)の職人風の台所に入り 洋傘一本 トタン製杓一本を窃取し 更に二三軒隔りたる家に押入りて白米二升を盗み 十町ばかり隔りたる所にて窃取したる杓にて飯を炊きて腹仕度なし 夜通しにて美唄に向ふ途次 濱田部長外一名の巡査の為めに取り押へられたるものなり云々
中野が逃走してから逮捕に至るまでの、「逃亡者」から見た時間の経過であった。
▼現在の石狩川橋付近。左が新十津川・右が滝川。川幅は約150mくらいだろうか。
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同日の紙面には中野を逮捕した二人の警官について、一人は幾春別炭山部長派出所詰めの浜田小二郎部長、そしてもう一人は志文駐在所詰めの今渡亀吉巡査であると記されている。
中野が捕まった相手が看守ではなく、警察だったことが「命」の助かった要因なのかもしれない。
この中野の自白が紙面となって全道の市民が読んでいる頃、残る三人の囚徒のうち一人の運命が定まっていた。それについては次号で。
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