名曲「なごり雪」をなぞるように、雪をみるたび「札幌でみる雪はこれが最後」とつぶやいてみたり、まだまだと否定してみたり。
半月後には無事北海道でもサクラが咲き出しているだろうか。
春の足取りがゆっくりなように、当ブログもいつまでたっても1912年6月である。破獄シリーズも長くなってきた。果たしてこの調子で、今年のうちに明治は終わるだろうか・・・?
時は1912年6月21日。祭りが終ったばかりの札幌で、7人の破獄囚の中で初めて生きて囚われた中野甚之助の自白内容が北海タイムスの紙面を飾っていたその朝、残りの三囚のうち1人の運命がまた定まっていた。
1912年(明治45年)6月22日 北海タイムス
▽太田逮捕さる
去九日 樺戸監獄を破獄したる七囚徒のうち、岩田、横田は斬殺されて 中野は逮捕、札幌地方検事局へ押送され、残るは太田、渡辺、御代澤、三田の四囚徒となり、中にも太田外喜(四六)は巧みに足跡を晦(くら)まし 既に内地へ渡航逃走したるとまで喧伝されしも 終に天運尽しにや
破獄後の十三日目なる今二十一日払暁三時 厚田警察分署管内望来村字本澤に於て逮捕さるるに至りたり
是より先 昨二十日夜十二時頃 太田外喜は望来村字マサエラップに現はれたる形跡を発見せりとの情報に 千田分署長より直ちに追討の命を望来村駐在所詰巡査・大野一 古譚村駐在所詰巡査・門馬寅吉の二名に下したるより 両巡査は短銃に装弾して携帯の上 望来村消防組、同村青年団、軍人団等を召集して追跡し、今暁三時頃 望来村字本澤 厚田より北約二里なる広瀬チヨ方宅前まで追窮したるに
太田はモウ是までとや思ひけん 振返りて抵抗せん気勢なるより 二巡査は携帯せる短銃を擬し 「抵抗すると撃ち殺すぞ」と大喝せしに
彼は敵はずと思ひけん 終に神妙に縛につけるより 終に大野、門間の二巡査に逮捕さるるに至りたり
太田は何れよりか窃取せし木綿袷衣(あわせ)に古シャツ、モンペイを穿ちて 全身水腫となり居り、手には蝙蝠傘を携へ 其中に監獄にて強奪したる洋刀を包み 隠匿して是を己が肩にかけ居たり
彼は望来村字本澤より直ちに厚田分署へ押送さるる事となり 千田分署長は石狩町より騎馬にて急行の筈なり
因みに彼は石川県金澤市生れにて前科十一犯を有し 去る(明治)三十五年十二月五日、外喜二十六歳の時 東京市京橋区新富町芸者屋・唐釜エイ方へ強盗に押入り 翌六日深川署金田刑事外二巡査に追跡され 三氏と格闘し金田刑事に短銃にて負傷せしめ 翌三十六年六月中 東京地方裁判所にて無期徒刑の宣告を受け 三十七年二月二十六日樺戸監獄にしんぎんし居たるにて
彼の前頭部には一寸位の斬傷ありと
(二十一日厚田電話)
今の石狩市厚田区望来(もうらい)。
冬は地吹雪でまったく視界がきかないが、夏は青い日本海がきれいに見える絶景の地。
この場所で太田外喜が捕まった。
翌23日の記事によれば、太田は樺戸監獄に入獄以来「脱走注意人物」として独房に入れられて厳重に監視されていたという。
外の作業もほとんどやらせてもらえなかったほどの徹底ぶりだったが、それでも彼の脱獄熱は収まることはなかった。
独房にいながらも破獄の計画を横田米吉にもちかけるなど、その機会を虎視眈々とねらっていた。
脱走後、散り散りとなってからは山中に潜み、持っていた北海道地図とコンパスを頼りに北上、その後人の住まない小屋を見つけて四日間潜むも、6月20日朝、小屋を出たところを農夫にみつかり警戒中の巡査に通報され、逮捕となった。
この時、看守が相手ならばを斬殺、警察が相手ならば逮捕されると決めていたようで、追っ手が警察だったため逮捕という結果になった。従って、もし看守の捜索隊であれば、どちらかが命を失う結果になっていただろう。よほど看守には恨みがあったものとみえる。それは監獄内の扱いにあるのだろうか。
太田が押送された二十二日、石狩川の渡船場には脱獄犯をみるために黒山の人だかりができたそうだ。
渡船場から軽川駅まで特別仕立ての馬車に乗り、軽川駅からは汽車で札幌へ向う。
そこで北海タイムスの汽車をみて一言
「貴下は札幌からお出になった新聞社の方ですか
イヤ色々皆さんに御迷惑をかけました
私の破獄は人家を荒そうなどといふ考えではなく 他に一計画あったので腹が減れば仕方がありませんや
ツイ農家を荒す様になるので誠に済みませんでした
詳しい事は巡査のお許しを得て列車の中で話しましょう」
としゃべりだした。
この後、札幌駅へ向かう列車内での自白は6月24日の北海タイムスに記事となっている。
内容的には前記と同様であるが、犯人と記者が車中で語ることができるというのは、今の世ではなかなか考えられないシチュエーションである。
この太田が押送された22日の正午頃、新十津川の下徳富で一人の怪しい男が非常線にかかる。
巡査が質問をすると「誰でもない」と言い捨てて山中へ逃げようとしたため、すぐに追いかけた巡査と格闘となった。
直ぐに青年団が加勢に入り、ほどなく男は捕えられる。
彼は右手の人差し指が半分無かった。
この特徴から、破獄囚のひとり、御代澤金次郎と判明する。
これで七人の破獄囚は三人が死に、三人が逮捕された。
残るはあと一人である。
次回、シリーズ最終回!
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