2013年04月25日

明治末年北海道記45:1912年7月1日樺戸監獄破獄事件(6)

大型連休が今年も近付いてきた。
世間は前半三連休、後半四連休、間をつなげたら10連休にも!と浮かれているようだが、商売人にとっては逆に10連勤ということもあるだろうし、もちろん天気予報だって休むわけにはいかない。

人が遊んでいるときに働くというのは、特に晴れているときはなんだか悔しかったりするものである。
ただ、その代わり平日に休みがあったりするので、これはこれで嬉しかったりもする。

さて、札幌ではすっかり雪は降らなくなった。傘の季節、春である。もう少しでシラカバの花粉も飛び出すだろう。
長く続いた樺戸監獄破獄事件もいよいよ最終回である。

1912年(明治45年)6月25日 北海タイムス


▼御代澤着札光景

破獄囚の首魁 御代澤金次郎は昨日午前十時三十九分 彼を逮捕の菅原・佐藤両巡査に護送され 札幌停車場へ着いた

頭部に包帯を巻き 服装を捕縛当夜 赤川村監獄署小使・長澤宇市方で強奪し去ったもので瓦斯縦縞の単衣の上に紺筒衣の半天を着け 水色木綿の兵児帯を締め 紺股引 にコール天足袋を穿き 足袋は跣(はだし)のままで 其の他の衣類や物品は一纏(まとめ)に白網の中へ入て 肩から下て居た

逃走以来十数日の不眠と苦心の為 精神と身体を疲労せしめたものか 顔色蒼白を帯び 首魁らしい猛な気色を更に見えなかった

御代澤の姿が停車場に現れるや

ソレ御代澤来た

と駆集る群集も彼の此の姿を見て「何だ小さい男だナ」と其意外に驚いた

しかし首魁となって逃走を企てただけ御代澤は極めて落ち着いたもので 是等の群集をさも鬱陶しさうに眺めてゐた

▼頭にした包帯は下徳富を警戒して居た菅原巡査が 御代澤を認め逮捕せんとして格闘の際 青年団六名応援に来り 其の中の一人が御代澤の逃げんとしたるを見て後ろから殴りつけた傷で 菅原巡査のシャツの手首の所が其時の血で汚れて居た

▼裁判所はまだか
御代澤は前日押送された太田外喜の様に 札幌の街を東京のやうだ等と洒落る元気は全くなく停車場を出てからも堅く口を閉じ 始終左右の群集を厭ふ様子にて 裁判所は未だかと護送の菅原巡査に尋ね 菅原巡査と語りながら歩き居たる記者を顧みて 「新聞社の方ですか 話をする事が沢山ありますが 裁判所へ行ってから申上ます」と低い声で只二語呟いただけで無言のまま拘置監へ収容された



御代澤は小男だが冷静で、しかも豪傑とされている。

太田外喜とは逃走後、生死を共にするという誓約をし、浜益から漁船を乗っ取り内地へ渡り、銀行を破るという約束をしていたようだ。

しかし、太田とは11日に看守によって踏み込まれた際に逃げ別れ、計画も頓挫。一人で藪の中を逃げ回るも、ついに逮捕となった。

小男だが、身体に巻かれた二重の逮捕用縄をぷっつり切ってみせて「逃げようと思えば何時でも逃げられる」と言い放つほどの怪力を持っていたという。

樺戸監獄では、この破獄七人囚のために6月25日頃までの半月あまりで、捜索費用に五千円の巨費を拠出するほどになっていた。

企業物価指数で明治45年と現代のお金の価値の差を計算すると約1000倍となるから、当時の5000円は今の500万円というくらい。なかなかの値段である。

三人が死に、三人が逮捕され、残る一人の破獄囚・三田角之助。
しかし逃げ切ることはできなかった。

彼が逮捕されたのは明治も残り少なくなった、7月1日のことである。

1912年(明治45年)7月3日 北海タイムス


●三田 終に就縛

去月九日 樺戸監獄を破獄したる七囚徒のうち横田・岩田は看守に斬り殺され 太田・御代澤・中野三囚は逮捕され 渡辺は石狩川に溺死せりとて行方不明 其他残るは窃盗三犯・懲役十五年囚三田角之助(五十)一人となりしが 二十三日目まる昨一日午後十一時頃 月形村大字知来乙に於て悪運尽きて 村民のため終に逮捕されたり

彼は去月二十日御代澤金次郎と共に常世農場伊藤常次郎方を襲ひ 同家より外套一枚を盗み逃走せし後 絶て姿を現はさざりしが 昨夜午後十時頃久々にて知来乙字炭釜・澤椿又三郎方を襲ひたるを又三郎に発見されたるより

三田は失敗したりと思ひ逃走せしより 又三郎は隣家の渡辺貞蔵にも依頼し 両名にて追跡して三田に追付き 手にしたる棍棒にて後頭部を乱打したるに

三田は又三郎の連れ来たりしは的切(てっきり)樺戸の看守ならんかと考ひ 絶息したる体にて其場に倒れながら二人の姿を見たるに 全く村民等なりしがば ガバと起き上り

「自分は決して抵抗しませんから何うか監獄へ渡さず月形分署へ渡してください」

と嘆願して両人の為に押へつけられ 終に就縛の上 知来乙巡査駐在所へ連行かれ 巡査同道して今二日払暁二時 月形分署へ押送されたり



最後の破獄囚・三田は意外にも監獄のある月形で捕まった。

20日に外套を盗んで以来、10日ほど山中に潜伏して、タケノコやフキ、雑草、果ては昆虫まで食べて命をつなぐというような辛い脱走生活を送っていたが、空腹に耐えかねて出てきたところをコテンパンにやっつけられたという所である。

三田は50歳ではあるが、幼年より手癖が悪く、40年ほどを牢屋の中で過ごしてきたという悪党。

1911年7月には三田が首謀となり監獄の70人ほどの在監者が決起し、監獄を焼き払い1300人の囚人を全員解放するということを企画。事前に看守側に察知されたため三田は独房へ入れられ、厳重な監視下に置かれていた。

今回脱走した後は、浜益の大工の所へ嫁いでいた姉のもとへ行き、服を取り替えて船で内地へ向かい、行方をくらますという計画だったが、過去に弘前で巡査に逮捕された時の古傷の影響で体の自由がままならず、目的を達せぬまま逮捕に至った。

三田は7月3日、峰延駅より汽車で札幌へ護送された。

7月末明治が終わり、9月26日、天皇崩御に伴う恩赦令が出る。
樺戸監獄からも刑が停止され、放獄された者があった。
もし脱獄せず、真面目に刑を受けていたら、彼らの運命もまた違ったものになっていたかもしれない。


posted by 0engosaku0 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック