6月に入ってから13日経ったが、札幌の降水量は0.5ミリ。一方で日照時間は147.4時間にも達している。夏日はすでに7日で、6月前半としては1946年以来67年ぶりの多い記録となった。
明日以降は一変してえぞ梅雨じみた天気が続くというが、もうなんでもかんでもほどほどにしてほしい。
さて、空はメリハリが利いているが、これから掘り起こすのは、ずーっと15年もひたすら身を粉にして働いていたという話。
1912年(明治45年)6月19日 北海タイムスより
●節婦の鑑 民子
稀しき(めずらしき)十五年の苦節 昨日長官より表彰さる
北十二条のガランとしたる通り 西二丁目の角に小さき三軒長屋あり
窓際の三畳間には何時も白髪の老婆病臥し居り 入り口の六畳間に女主(おんな・あるじ)が針の手を休めしを見ず
此の主は前野タミとて 今年四十八歳
肉付好き 強健の体格にも 年に増したる額の波は幾歳月の辛酸の跡を残すらし
タミ女は元長野県宮川の農 小池嘉七の家に生れ 明治十五年一家を挙げて札幌郡厚別に移住し来り
年二十 まだ浮世の風に染まぬ所女にて 旧白石藩士・前野嘉平に嫁ぎたり
前野は札幌区裁判所書記なりしが 小樽に転任して九箇年勤続し 明治三十一年の夏 俄かに病死し 後には姑ツル及び十歳の女・松乃と七歳のイヨ子とあり
固(もと)より僅かの棒給に活計を立て居たる勤め人とて 余分の貯への有る筈なく 力と頼まんにも 姑は旧仙台藩片倉家の乳母を勤めしもある身にて万事旧式なれば 差し当っての難儀は一家の糊口にありける
当時三十四歳 尚末が花の香を留しタミ女は 茲(ここ)に毅然と覚悟を定め 製麻会社の女工 となりしが 斯えぬ物思ひに馴れぬ労働の痛々しさ 終に重き熱病に罹り 殆ど進退窮して天地に慟哭したり
去れど幸に余病もなく本復したれば 更に決心を新たにして今度は知辺の人々より洗張り縫仕事の料を受け取り 夜の目も寝ずに針を持ち カツカツ其の日の暮しを立て 二人の娘は附属小学校に通わせたるが 斯くても尚 戸外に迫る餓狼は追ひやるに由なく
タミ女は愈々猛進奮闘を続け 厚別なる二弟より 約三反の水田を借りて 春秋二季に十二箇月の間 札幌の留守を姑に頼み置き 自分は耕くん収穫の荒仕事をして一年中家族を養う料の飯米を収穫る事にし 家に帰れば又 針仕事に精を出し 一月百二、三十枚の衣類を縫い上げたり
其内に二人の娘は段々成長し 費用も嵩み 女の細腕にて悪戦苦闘の最中 三十九年の秋より 姑は足腰立たぬ病となり 朝夕の寝起より便用まで一切 侍づき仕ふるに至り
タミ女は一つの体を二つにも三つにも使い果たして 而も恨む事を知らず
▽全身不随の姑 はタミの厚き介護に機嫌よく 本年九十四歳といふ高齢を重ね 姉娘・松のは既に小学教員検定試験を受けて 寿都の小学校に訓導となり 妹イヨ子も函館区住吉小学校に奉職中にて
節婦タミ女が十五年の苦節 終にその筋より表彰の典に預かり 長き苦しき闘い勝ちて 今回の光栄を荷うに至りしは書くも すがすがしきにこそ
其褒賞 左の如し
札幌郡白石村士族前野松野母タミ
実性貞顧家素と貧農寡居すること十有五年
其の間幼児二人を鞠育し 老いたる姑に事へて・・・一部略・・・金五円下賜候事
明治四十五年六月十七日
北海道庁長官 従四位勲三等 石原 健三
身を粉にして働き、食べるお米も自分の農場で育て、寝たきりのおばあさんを介護しながら二人の娘を育てる。それも15年もその生活を続けたという。
ちゃんと光が当たってよかったと思う。
きっと今の世でも、このような女性はたくさんいるだろう。光が当たらずに。
まじめにがんばっていれば、ちゃんと評価されることもある。
明治の世もなかなかいい所がありますね。
平成の我々も、忙しい忙しいばっかり言ってられませぬ。
前野タミさんに呆れられてしまう。
【関連する記事】
- 明治末年北海道記52 1912年7月6日 恩賜の時計と看守の時計
- 明治末年北海道記51 1912年7月5日 ”不二湖園”の開園
- 明治末年北海道記50:1912年7月1日 道庁赤れんが庁舎再建!
- 明治末年北海道記49:1912年6月28日 樺太守備帰還隊が旭川到着
- 明治末年北海道記48:1912年6月26日 札幌中学校のマラソン競争
- 明治末年北海道記46:1912年6月15日札幌まつり
- 明治末年北海道記45:1912年7月1日樺戸監獄破獄事件(6)
- 明治末年北海道記44:1912年6月21日樺戸監獄破獄事件(5)
- 明治末年北海道記43:1912年6月19日樺戸監獄破獄事件(4)
- 明治末年北海道記42:1912年6月19日樺戸監獄破獄事件(3)