10年ほど前。ちょうど今頃、英国に行った時は、北海道以上に昼の長さというのを実感することができたが、ほぼ同じ経度に位置する北海道と樺太は南北に並ぶぶん、緯度の差が大きくなるので、今の季節は北へ行くほど朝の早さ、夜の遅さ、そして昼間の太陽の時間の長さをより身近に実感できるはずである。
ちなみに6月12日の日の出・日の入りの時刻を、国立天文台の「こよみの計算」でざっくりと求めると
・函館 緯度41.7403 日の出4:02 日の入り19:12
・札幌 緯度43.0606 日の出3:55 日の入り19:14
・留萌 緯度43.9411 日の出3:50 日の入り19:16
・天塩 緯度44.8838 日の出3:46 日の入り19:19
・稚内 緯度45.3949 日の出3:44 日の入り19:22
・大泊 緯度46.6195 日の出3:35 日の入り19:22
・豊原 緯度46.9636 日の出3:34 日の入り19:24
・久春内 緯度47.9840 日の出3:31 日の入り19:31
・恵須取 緯度49.0805 日の出3:27 日の入り19:36
・安別 緯度49.9862 日の出3:22 日の入り19:40
・アレクサンドロフスク・サハリンスキー
緯度 50.8905 日の出3:17 日の入り19:45
・ポギビ 緯度52.2229 日の出3:12 南中11:33 日の入り19:54
・オハ 緯度53.5915 日の出2:59 南中11:27 日の入り19:58
・オホーツク 緯度59.3623 日の出2:12 南中11:26:48 日の入り20:43
・ハバロフスク地方とサハ共和国のとある境界
緯度62.4830 日の出1:41 南中11:36 日の入り21:32
・・・・てな感じ。
北海道付近では緯度が1度違うと、だいたい7〜8分昼の長さが変わる。同じ経度なら、日の出は北ほど3〜4分早く、3〜4分遅い感じである。これが樺太になると、その割合がやや大きくなり、緯度1度につき、10分くらいは昼の長さが違うようだ。
札幌と豊原では、日の出は20分ほど豊原が早く、日の入りは10分ほど豊原が遅いから、北海道と樺太の首府では、夏至の頃は30分ほど昼の長さが違うことになる。
昼の長さは久春内で16時間をこえ、国境の街・安別では16時間18分。札幌が15時間19分だから、札幌と旧国境では一時間ほど昼の時間が違う。
この昼の時間だが、サハリン最北の街・オハまで行くとほぼ17時間までのびる。日の出はここから北では日本時間で2時台である。まさに夏至の頃、樺太は北から夜が明けてくるといった感じである。
そしてサハリンからさらに北へ海を越え、オホーツク海の一番北・オホーツクまで行くと、昼の長さは18時間30分にもなる。
日の出日の入りも、大きく見れば一年を通じる暦の一部分である。
明治から大正にかわった1912年。新しい暦の作成進度は別段変化がなかったようで・・・
1912年(大正元年)11月10日 樺太日日新聞
●大正二年の新暦が頒布さる
大正二年の暦は例年の如く 十一月一日 伊勢の神宮神部署から宮中へ献本の上 一般に頒布された
先づ変更された大祭祝日は何んな風に暦に載って居るかと見るに 表紙や表題には『大正二年暦』又は『大正二年略暦平年 癸丑』と立派に出ているが 何しろ百九十万といふ印刷部数である為 大祭祝日の変更勅令の発布になった九月四日には既に七分通印刷した時であったから 休日表には今年と同じく元の儘で出て居て 別に『印刷改訂』の貼紙がしてある
・・・中略・・・
それから 官吏 会社員 学生の書入日なる大祭祝日と日曜日とが都合よく続くことは一度もなく、重なる日が三度 即ち一月五日が新年宴会で八月三十一日が天長節で 両方とも日曜日である。
然れども是はいずれも休暇中であるが 十一月二十三日の新嘗祭も亦日曜日とは 来年は余程 人間を働かすように出来て居る
今は国立天文台が暦を決めていたと思うが、100年も前になると、暦を決めていたのが「伊勢神宮」だったというのはなかなか興味深いものがある。
印刷製本の都合で、大正二年の新祝日は貼紙で訂正をつける形で配られたということであるが、天皇誕生日(天長節)の変更に加えて、明治天皇が没した7月30日は「明治天皇祭」となって暦に加わり、江戸時代最後の天皇だった孝明天皇や(1月30日:孝明天皇祭)、後桃園天皇(12月6日:後桃園天皇祭)にちなむ祭日は姿を消した。
当時は日曜が祝日となった場合の「振替休日」という考えはなかったから、大正二年は日曜日の祝日が多いことから「よほど人間を働かすように出来ている暦」と嘆くあたりは、思わず同情してしまうところ。
さて、11月も半ばに近くなってやっと入ってきた10月のニュースもある。
1912年(大正元年)11月12日 樺太日日新聞
●散江電信開通
東海岸・散江は敷香の北二十八里にあり 鰈漁の豊富を以て 樺太知名の地なるが 明治四十一年以来 歳と共に戸口増殖し 今や盛夏人口二千、越年人口五百を算し 従来 交通不便の故を以て 長く世人の注目を欠きたり
住民の熱心は遂に其の筋の認むる所となり 本年早春 電線架設工事起り 七月郵便局を設置し 同月中 千住技師の測量完了し 八月実地架設工事に着手し 客月二十一日を以て 愈々其の開通を告げたり
附近住民は 年来の宿望茲に達せられたるを喜び 同日沿岸一帯 散江に集合し 盛んなる開通式を挙行せしが 先づ郵便局に紅白の幕を廻らして式場となし 入り口に獄蛯設け 式の次第は
秋浜局長の式辞、千住技師工事報告、成富敷香支庁長の祝詞 其の他有志の祝詞・演説等にして
恰も 其の前日 敦賀丸入港のため 敷香より多数の来会者あり
当日列席者の主なるは
千住技師、成富敷香支庁長、小澤警部補、山本技手、能勢敷香局長、小川科長、鵜澤敷香回漕店主等
なり
千住技師工事経過の報告中、本庁が多からざる予算の内を割きて設計したる事 及び 本工事が本嶋に於いて 無類の難工事に属し 工夫人夫の労苦共 予想外なるものありし一節あり
式終わって午後一時 第二の花火を合図に 来賓は散江湖畔第一楼の宴席に招じ 此の間 花火の放揚と共に 席上は敷香より来れる数名の紅裾斡旋し 主客十分の祝盃をあげ 全く散会したるは午後八時頃なりしと
散江は敷香の北というよりは東に位置し、北知床半島(テルペニア半島)にある村である。
しかしながら、敷香から散江にかけては大きな多来加湖やその周辺の広大な湿地帯が横たわっており、さらに北知床半島には低木が風によって曲がった形で密集して生えるような、人の手を加えるのをハナからあきらめてしまうような手ごわい自然が待ち構えている。
電信線といえども、柱を建て、線を張りながら「28里」も工事をするのは大変である。よく夏だけで仕上げたものと感心してしまう。
今はどうなっているのだろうか・・。
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