2019年12月22日

明治末年北海道記49:1912年6月28日 樺太守備帰還隊が旭川到着

明治45年から大正元年の樺太の様子を追った「樺太日記」のコーナーでは約190本の読み物を掲載したが、第71回で樺太守備隊の交代について記した。
これは、樺太側からみた、第7師団(旭川)の兵士による樺太守備隊の交代の様子を記したものだったが、今回は北海道に戻ってきた帰還兵への北海道側の記者の視線での報道を掘り起こしていく。

6月25日午前6時半に樺太・豊原を列車で発った帰還兵たちは、船で大泊から小樽へ移動、そこから汽車で旭川へと向かっていった。

1912年(明治45年)6月30日(日) 北海タイムスより
●上川時事 △樺太守備帰還隊

昨年六月 樺太守備の任に當り居たる歩兵第二十六連隊第八中隊歩兵第二十七連隊第十一中隊は 輸送指揮官三浦大尉に引率せられ 二十八日通過途中岩見沢に於ては愛国婦人会員の昨年出発当時同者 懇切なる湯茶接待を受け 深川に於ては 在郷軍人及び有志者の送迎するあり

午後二時三十七分 旭川に着するや 花火を打揚げ 師団道路 毎戸 国旗を掲げ 高橋第十四旅団長 竹内歩兵第二十六連隊長 大森歩兵第二十七連隊長 足立歩兵第二十八連隊長 各特科隊長将校 同相当官 並 旭川官民、学校生徒約千名停車場内外に出迎ふ

樺太守備を終えた兵士たちは、旭川の第七師団に到着後、満期除隊となり、6月29日午前9時に解散し、それぞれの故郷へと帰って行った。

樺太日日新聞には三浦大尉へのインタビュー記事が載っていたが、北海タイムスも小樽に到着したところで帰還将校を訪ねて一年間過ごした樺太の感想を取材している。

●一年見て帰った守備兵の樺太

一昨朝 弘前丸にて樺太から上陸した第二十七連隊将校書士が色内町キト旅館に一泊と聞き 其一年間に於ける感想を叩かんものと 同日夕方訪ねた

カーキ色軍服厳めしい石井中尉と 浴衣姿の加藤中尉 初対面の挨拶あって記者は 冬期間同地の酷寒にはお困りでしたらうと劈頭に問ひ掛くれば 石井中尉「イヤ 旭川で鍛えた体躯 寒さは一向に困難を感じませんでした」と例の軍人式洒落な句調で談話の話を咲かせんとする時、トントンと襖を叩く一兵卒中尉の応答を待って静かに襖を開き、閾にかくみ中隊長の帰られたるを告げる

軈て(やがて) 入り来りしはカーキ色服の中隊長大尉 相浦仁氏
記者を一瞥 ニッコリ挨拶あって 後 おもむろに過去一ヶ年間に於ける観たこと、聴いたこと、感じたことの話に移らんとする時、又も入り来たりしは高橋中尉

一座四名の将校諸氏が代わる代わる話された

▽気候の変化

ご存知の如く 地形 其他の関係上 気候の変化が多く 冬期厳寒の節は摂氏零下四十度内外に降ること往々あり
又 盛夏の候は三十四、五度に昇ること稀(めず)らしからず

一年中最も激烈なる寒気を覚えるは一月より二月初旬で 暑さは八月中旬 昨今は昼間 袷に羽織位なるも 朝は綿入れを脱がれぬ

島中 最も温度の高のは真岡で 大泊是に次ぎ 豊原、栄濱、名好、敷香などといふ順序で思ふたより

▽存外凌ぎ好い

渡樺前は余程の未開地と一種の覚悟を抱いたが 百聞一見に如かずとやら 予想外の好適地で 日中が長い
又た気候寒冷だが 乾湿度に適して健康に宜しい 衛生状態も亦 極めて良好で 風土病と目すべきものなく、一昨年度及び昨年度は守備隊に多数の胸膜炎患者あったけれど 本年度は幸いにも将校兵士約三百人中 該疾患に罹った者 僅かに一名でしたが 是とて二旬で全快した

時に胃腸を患ふ者 風邪に悩む者あるもの軽症で たまたまマラリヤに罹る者あったが 旭川などに流行する悪性のものではない至極軽症です

▽雪の下に魚屋

守備隊の居る豊原は 高地の個所にて 夏期は頗る好適地なるも 冬期吹雪の激烈なる事 到底 言筆に盡し難し想像外で 豊原大泊間記者往復は午前 午後各一回ずつです
冬期間大吹雪のため 列車杜絶する事が一か月に二、三回は必ずあります

ここに積雪中 滑稽談ともいふべきは 本年一月或日のこと 兵士二名宿舎より市街へ約百間の距離を荒れ狂ふ吹雪を冒して買物に出で 途中で積雪丈余に及び歩行叶ず 両人進退きわまり 代わる代わる大の字型に打伏せとなり 一人はその上を歩き 又伏して 前者が立て その上を歩き 市街に漸く来りしと思ひ店頭を探してもない

暫く躊躇 魚屋の屋根を歩行していることがわかり 帰隊の上 一同大笑しました

総じて同島の雪は乾燥して 灰の如く 積雪の甚だしい時は一丈五、六尺に及び 戸口を閉塞さるる事珍しくない
雪トンネルの奇談も稀でない

▽三等病はない

豊原は公娼を抱へ居る貸座敷一軒 其他は料理店の看板で 貸座敷も猶 及ばざる酌業盛んだ

豊原市街の五分の一は怪しげな料理店 飲食店で 芸妓酌婦また少なくない

二の日は検梅施行を受け 公娼同様です
而して本期守備兵士に三等病一名だになかったは絶えて酒色に耽らざるためです

中隊長は特に監督を厳にして武士動的娯楽法を與へ 訓練に努めた結果です 云々

明治時代の旭川といえば、1902年(明治35年)1月に−41.0℃を記録したほどの酷寒の地ということで、樺太の寒さも同レベルといったところだったが、吹雪のひどさや乾いた雪質という部分で北海道との冬の違いを感じたよう。また、北海道より北であるだけ、夏の昼の長さにも驚きがあったようである。

この記事を書いているいまは、ちょうど2019年の”冬至”なのだが、豊原(ユジノサハリンスク)の日の出は日本時間で7時12分、日の入りは同じく15時43分。旭川と比べて24分も昼の時間は短い。きっと、冬の夕暮れの早さにも驚きはあったことだろうと思う。

今日はここまで。
posted by 0engosaku0 at 23:42| Comment(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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