2019年12月29日

明治末年北海道記50:1912年7月1日 道庁赤れんが庁舎再建!

札幌市中心部にそびえる、北海道のシンボル的建築物。
北海道庁旧本庁舎、別名は「赤れんが庁舎」

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明治21年(1888年)に創建されたこの建物ですが、火災や設計変更などで姿を変え、1968年の「北海道100年事業」で復元、今に至ります。
特に、明治41年(1909年)の火災は損害が大きく、再建には2年を要したとされています。

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▲赤れんが庁舎紹介のパンフレットより(道庁HP掲載より)

パンフレットでは、1911年に復旧工事完成とあります。
ところが、1912年(明治45年)7月の北海タイムスを読んでみると、このような記事に出会った。

●本庁舎愈落成

北海道本庁舎の政務移転は明後三日に行ふと雖も 別に移庁式は挙行せず 本日午前九時より 改築庁舎内各室の縦覧を許すこととなり 昨日は日曜日なるに拘はらず 工事担当主任 家田技師始め 会計係員 其他数名出勤して 室内の取片付を行いたるが 各室とも特別の装飾を為さざるも 階上正面の長官室には生松の大盆栽を一鉢置き 又 階段の廊下には爛漫たる躑躅(つつじ)の大鉢植を据え付けあり
(1912年:明治45年7月1日 北海タイムスより)


また、同日の記事では、復旧工事を担当した家田於兎之助技師にもインタビューしているのだが・・・

▼本庁舎の大体構造

道庁本庁舎は愈 全部竣工し 本日縦覧を許し 明後三日 開庁のこととなれるが 該庁舎改築工事担当 家田技師の語る所 大要 左の如くなり

改築前の本庁舎は去る明治十九年七月新築に着手し 同二十二年二月落成を告げ 爾来二十年を経過して 四十二年一月十一日 不幸にも内外の煉瓦壁を残して全部烏有に帰するに至れり

越えて一昨四十三年六月二十日を以て 之れが復旧工事に着手したるが 監督者の熱心と請負者の精励に依り 工事 大に進捗して 今 三十日全部の竣工を見るに至れり・・・

記事を見ると、どうやら復旧工事完成は、1912年6月30日じゃないのかな?と思ってしまうのであった。
何を以て「復旧完成」とみるかで事情は異なるのかもしれませんが、このことを指摘すると「定説」が変わってしまうのかもしれない!?

この日の紙面をさらに読み進めて行くと、道庁本庁舎の竣工・落成を喜ぶコラムも掲載されています。

●閑是非

道庁庁舎の焼失したは 去る四十二年の酷寒の時であった
時の長官 磐谷翁も 亦 山田内務部長も上京不在中であった

留守師団長は拓殖部長の黒金
事務官部員の新年宴会とかで 旗亭幾代に開宴中 スワ道庁が火事だと聞くや否や 足袋裸足で駆け付ける

北東隅の警察部から盛んに燃え上がる火焔はトテも手の付けやうが無い
ポンプの水は忽ち凍結し 消防は負傷するという大騒ぎ
トウトウ全庁舎は 外観の煉瓦のみを残してまるやけとなったのだ

札幌名物の建物を失った 惜しい惜しいは異口同音であったが 其の復旧費の支出には 当局も亦 道会も甚だ躊躇した

が ヤット今回 是が竣工 落成したので 本日は庁内各室の縦覧を許す事となった

このあとに、「悲しみあって喜びあり」と続く。
生まれ変わった道庁「赤れんが」庁舎の姿に、北海タイムスのコラム担当者も喜んでいるようである。

さて、7月1日の道庁本庁舎の縦覧だが、午前中は招待者、午後は1時から5時まで一般公衆という順番だったが、見学者総数はなんと7万人!
当時の札幌市の人口は約95,000人だから、すごい数である。一番最初に入ったのは、福岡新聞の記者だったそう。

この縦覧式を取り仕切ったのは、山田内務部長ということだが、談話が残っている。

●新庁舎と述懐 (山田内務部長談)

▼本庁庁舎も漸く落成し 諸君の観覧を願ふこととなったが 回顧すれば 去る四十二年 故 河島長官は議会の為め上京し 余も亦 同年一月十一日に上京し 着京、夜 入浴の上 晩餐を済ますと 美唄炭鉱の松田武一郎氏が来て 河身改修費中 三十万円足らずの寄付を着任地で出来た話の最中 午後七時頃であった

道庁が火事だとの電報が到達したので 驚くの驚かぬのではなかった

道皇・河島長官邸に駆け付けたが長官は不在中である
所が電報は続々来る
開いて見ると 愈 大火である 庁舎は全焼だとのこと
是や困ったものと思ふたが 暫くして鎮火の報があった

別段 他へ類焼は免れたらしいが 本庁舎全焼ではコウして居られぬ
翌朝 直ちに帰道を致さうと仕度をしたが 長官同道で内務省に出頭し 何より仮庁舎を設くるが焦眉の急である
庁舎の復旧費について西村も加はり 三人で相談の結果 仮庁舎建築の大体設計を立てて 当日夜半十二時の列車で帰北の途に就いたのであった

▼列車は急行だ
一刻も早く帰札せんと焦るばかり 小樽へ着くと貴社の安田君が迎へて呉た
帰ると旭新聞からは攻撃を受る庁員は連夜の非常勤務で 疲労が甚しい

其の当時の事を想起すると身の毛がゾッとする如な気がする

差当り 事務室が無いので 附近の官公街を借受けて収容はしたものの 何とも始末が付かぬから 直ちに東京で決定た方針に基づいて家田技師に命じ 仮庁舎の設計を行はしめ 更に 同技師は是を携へて上京するに至った

それから一面には臨時道会を招集したが 確か三十日と思ふ
会議は二月一日から五日間であった
サア議事堂内の事務を取片付けねばならぬ

その時 焼残の書類中で一部を焼き棄てた騒ぎが一問題と成って 持ち上った懲戒やら譴(けん)責を喰ふに至ったのであった

▼旭川では焼けたを幸ひ 札幌から道庁を移転せしめんとの運動が始まる
最も公然では無いが 暗闘は随分激しかった如だが 兎に角 是れも鎮まり 臨時道会では非常に同情で 仮庁舎の建築費は原案の通り決定されたので 忽ち仮庁舎の建設に着手することが出来た

又 其の秋 通常道会へは焼け跡の本庁舎改築費予算を提案し 是も道会の同情の下に決定 向ふ三年間の継続支出となったのであるが 四十三年度には特殊の支出を要する事あるより 其年度割支出額を変更して 四十四年度には一万円丈けの支出となしたが 工事は四十三年から起工したのである

然るに 河島長官逝去し 石原長官 其 後任として赴任されたが 最初の設計には暖房を置かず ストーブの装置をしたのであるが 現在の仮庁舎は庁中各室に於いて百七十餘のストーブを使用して居る

全国の官街で斯くの如き多数のストーブを使用する所は絶無である
真に危険であるから 薪の燃え残りは悉く屋外の穴に容れ 翌日再び燃料とするまでに注意を怠らぬ
夜間は巡視小使のみでは不安といふので 特に各係から一人ずつの宿直をするに至った
如何にも厄介で且 危険である

▼されば 改築の本庁舎に悉くストーブを据付くるとせば更に不用心なので 石原長官は四十四年度の道会へスチームに変更の予算案を提出し 道会も亦 之に決定をしたから 現在の設備が出来たのである

元来 本工事は四十五年度迄 即ち 明年三月迄に出来すべきものなるも 請負者の勤勉で斯く速に落成し 今日移庁することの出来るのは最も幸である
是も道会は元より道民一般の同情と工事の請負者迄が斯く熱誠の致す所の賜物である
火災当時から今日迄の事は追想すれば 実に感慨に堪へぬものがある

長官は譴責、私と立石とは罰棒の懲戒を受けたのだ

然し 今日 斯く諸君を此の新庁舎で迎へるに至ったは真に喜ばしい次第である

(1912年:明治45年7月2日 北海タイムスより)

燃えてから再建、そして新庁舎での業務開始・・・すべてを見てきた内務部長もまた、非常に感慨深いものがあっただろう。

このあと、二度の大戦、各種災害でも失われることなく、道庁赤れんが庁舎は北海道のシンボルとしてありつづけている。
posted by 0engosaku0 at 23:58| Comment(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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