2020年01月19日

明治末年北海道記52 1912年7月6日 恩賜の時計と看守の時計

令和となった今の時代。
卒業といえば、小学生も中学生も高校生も大学生も、基本的には3月で揃っている。

日本の年度は4月スタート、3月ゴールだから、今の社会システム上は当然といえば当然なのだが、明治の終わりは違った。
大学の卒業は7月に行われていたのである。

1912年7月。札幌でも明治最後の卒業式が行われようとしていた。

●農大卒業式

七月六日午前十時より 東北帝国大学農科大学図書館に於て 第五回卒業証書授輿式挙行
文部大臣代理として 専門学校局長 松浦鎮次郎氏 臨席すべく 氏は昨日東京発

仙台に一泊し 四日着札の筈なり

(1912年:明治45年7月2日 北海タイムスより)


1876年(明治9年)開校の札幌農学校は、1907年(明治39年)に東北帝国大学農科大学に改称。
その後、1918年に北海道帝国大学となるまでは、仙台の理科と札幌の農科によって成る「東北帝国大学」として運営されていた。

名前は東北帝大だが、仙台に東北帝大理科大学ができたのは1911年1月なので、実質的には札幌の農科のほうが先輩格。
逆に言えば1910年までは東北帝大なのに校舎は札幌にしかないという状態だったということで、この頃の大学の姿を語るのは大変ややこしい。

ということで、明治45年7月の東北帝大の卒業生も札幌の農科の学生しかいないのである。
だからというわけではないだろうが、最優秀の卒業生には天皇陛下から”銀時計”が贈られていたようである。

●恩賜時計下賜されし農大卒業生

昨日農科大学第五回卒業生中 最優等生とし恩賜の銀時計を下賜されし 農芸化学科卒業生 蛯子孝作氏は 当年二十四歳 函館区弁天町十一番地 漁業 蛯子和右衛門氏の二男にて 函館中学校四年にて退学 更に 東京中学に入り 卒業後現在の農科大学に入り 品行方正 学績常に優良のものの由

大熊博士曰く 大学優等卒業生として今回恩賜の時計を賜りしは農芸化学科卒業の蛯子孝作なるが、是迄 優等生を此科より出し 而も我 教授せしものより出せしこと三回に及ぶは光栄であるが、蛯子の論文は 萩の成分に関する研究である

元来 萩は七種ありて家畜の飼料として有用であるから 営業上の価格および十勝国の如く 高台地多く将来畜産地たるべき不毛の地に栽培するの必要あらむ 然れば馬匹は嗜好何れにありや 又 収穫時期と成分の関係等を研究し 尤も力を尽せしは 成分として特種のものあるやを究めたるにあり

其結果 従来 未知のもの二つを発見したり
其の他牧草の収穫時期と成分の関係、日本に於る 販売資料評価に関する研究等をなせしも 卒業論文としては其の中 以上の如く 萩に付て提出せしなり云々
(1912年:明治45年7月7日 北海タイムスより)

この年の最優秀卒業生は函館出身の蛯子孝作氏であった。
この記事の続きには、予科と実科の卒業生全員の名前が記されているのだが、北海道出身者は各学科に1〜2名程度しかおらず、内地出身の学生が多いから、”道産子”が一番を取るというのはなかなか名誉なことであったろう。

蛯子氏は大正になってから、当時日本領の台湾に渡り、台湾総督府の煙草課の技手となる。そして大正の終わりには台北煙草工場の工場長を務めた。その後「笠島」に姓が変わり、戦後も専売公社で煙草についての研究を続けていたようである。

ところで、同じ日の紙面にはもうひとつ時計に絡んだ記事がみえる。

●看守の時計を盗む

樺戸監獄 看守合宿所 成田音三郎は 去る四日 何者かに懐中時計一個を盗まれ 爾来 月形警察分署に於て犯人捜索中なりしが 被害者の同僚 若月才吉と判明し 札幌地方裁判所検事局へ押送さる
(1912年:明治45年7月7日 北海タイムスより)


看守が看守の時計を盗み、牢屋行き・・・

本日はここまで。
posted by 0engosaku0 at 00:17| Comment(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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