そして、緑が萌える5月の半ばにもまた、道東方面で雪が降った。

▲5月13日正午の天気図(『天気図』大正11年5月,中央気象台,1922-5 国立国会図書館デジタルコレクションより)
5月13日は日本海と三陸沖から北海道を挟むように北上して来た低気圧に向かって、オホーツク海方面の高気圧から冷たい空気が流れ込んだ。
測候所の観測では、網走で3センチ、帯広で2センチの積雪を記録している。根室でも朝は雨に雪が混じった。

▲帯広と網走で積雪となったことを伝える記事(1922年:大正11年5月14日付 北海タイムスより)
網走の気象観測の原簿をみると、この年の流氷終日は5月8日と記されている。
現在の平年値と比べると一ヶ月ほど遅い。岸からは流氷がみえなくなっていても、沖合にはまだ流氷が解けきれずに残っていたであろう。
この氷海をわたってきた冷たい風が、道東に季節外れの雪をもたらした。
一方、この日の札幌はというと、北海道の中央山脈を吹き下ろしてフェーン現象のような効果もあったのか、最高気温は16.7℃まで上がり、雲には隙間もあって、雨は降ったが降水量は3.3ミリどまり。花が凍えるようなことはなかったようだ。
この頃、冬も春も同居する北海道へ、ひとりの紀行作家がやってきていた。
札幌の街は幅も広く 宛ら母国のやうだ
米国の著名な旅行家であるハーリー・フランク氏が来道して本道に来り 区内山形屋旅館に投宿しているとの事で訪問すると 氏は鄭重(ていちょう)に記者を引見して語る
「私は今から十八年前 即ち貴国と露西亜との大戦争の当時に貴国を旅行した事がありますが 日本語は少しも出来ません」
と前提して
「私は極東を旅行して 此の旅行記を書く為に来たのですが 札幌へは昨朝着いて 明朝は旭川へ行って その翌朝 室蘭を経て船で青森に渡り それから東京へ行き 日本には約一ヶ月滞在し 朝鮮を経て支那方面へ行く予定です
日本はまさに天下の楽天地で 殊に札幌の街は町幅も広く アメリカの町のやうに気持のいい所です」
と愉快に語る
辞し去らんとする記者を引留めて
「まア宜しいでせう 北海道の御話を承り度いですが」
記者は本道の気候や人口の状態やその他開拓当時の事を大略話し アイヌの事に及ぶと物珍らしさうに謹聴し 且つ 質問を発して記者を困らす
尚氏は終りに「ハーリー、エー、フランク」なる一小冊子を記者に与へた
異人間の対話はそれからそれへと続いたが 時間も来たのでグッドバイして辞し去った
(1922年:大正11年5月10日付 北海タイムスより)
ハリー・フランク氏は、今では簡単にネットで情報がとれないが、戦前は日本でも知る人ぞ知る紀行作家だったようで、この年、1922年(大正11年)から1934年(昭和9年)にかけて極東各地を旅行してまわり、その様子を本にまとめて出版していたようである。
このため、一連の極東旅行の最初の頃に北海道に来ていたこととなる。
北海タイムス記者に”逆取材”した内容をどのように紀行に書いたのか?気になるところ。

▲ハリー・フランク氏(5月10日付 北海タイムスより)
網走や帯広で雪が降った翌日、5月14日。函館は晴れ間が広がり、市民は満開の桜を函館公園で楽しんだ。
函館水田会社は例年よりもやや装飾電灯を増やしたため、夜桜が非常にきれいにみられて、「燦然人目を驚かす許り」であったそうだ。
ハリー・フランクも去り際に函館のサクラを横目にしたかもしれない。

▲函館公園のサクラを愛でる市民たち(5月15日付 北海タイムスより)
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