今回は、この日の天気図から。

▲6月19日午前6時の地上天気図
日本列島は、ちょうど平たい山の頂上付近のような気圧となっていて、全般に気圧の差がない。
札幌の6時の風速は0.3m/sと、ほぼ風のない静穏な状態。気温は15.6℃で雲量はゼロ。雲一つない快晴である。
同様に寿都も快晴で、風速はやはり0.3m/s。気温は15.4℃であった。
後志地方では真っ青な空の下に、羊蹄山がくっきり姿をみせていたことであろう。
この穏やかな朝、ある目的を持って羊蹄山に登る者があった。
蝦夷富士 百人収容の石室 経費約二千円で建造
登山季節の近づくにつけ 蝦夷富士登山会では 予て計画中の山頂に経費二千円かけて三間に四間の宿泊用の石室百名収容所建造に就き 建築箇所選定として 同会幹事 高山禎亮氏 建築請負者 石工 渡辺亀之助(六十五)を伴ひ 去 十九日朝十時 半月湖出発、登山、同日午後下山した
建築個所は 元の宿泊所々在地点で 雲泉湖畔お花畑と確定した由
いよいよ二十四日から工事開始することになり、同日前記渡辺請負者は石工三名と人夫八名とを連れて登山、七月中旬竣工まで下山せず 工事作業に従う由
目下 雲泉湖に一大雪渓展開し、之を利用して 手橇で石材を運び卸す由。
また 木の工事材料は 倶知安町から半月湖に運んであるものを、七月六日か七日頃 約三日間、町各青年団の協同援助の作業に依頼して 山頂工事現場まで運搬することになる由
此の外 本月二十一日から半月湖より山頂まで登山道路修繕中で 経費約三百円かかるものの由
今年ははやくも登山申込者 団体で六団体 人員四百名ある程で こうまで早くから蝦夷富士の登山気分になった年はないから 七月十五日の山開きまでには石室竣工させたいと、高山幹事はいふて居るが、先 七月二十日頃ならでは宿泊が叶ふほど工事が進捗しまいといふ
(1922年:大正11年6月25日付 北海タイムスより)
古くは「マッカリヌプリ」とよばれた羊蹄山。
1905年(明治38年)7月には山麓の倶知安の郵便局長などが呼びかけて「蝦夷富士登山会」が設立され、登山道を整備して神社を建立、休息所も建てられて、大正の半ばには多くの登山者が集まる山となっていた。
頂上付近に設けられた木造の休息所は「雲上閣」と名付けられていたのだが、この年、これを壊して頑丈な石室を設けることとなり、2000円ほどの費用をかけて建設工事がはじまることとなったのである。
石室が設けられたのは、倶知安口の登山道を登っていき、標高1700m付近にあるなだらかな広場で、記事では「お花畑」とされている。
この場所に100名が収容できる堅固な”石室”の建設が始まったのである。
記事では山開きまでになんとか竣工させたいとのことなので、わずかに工期一ヶ月という突貫工事である。

▲完成した羊蹄山の石室(1922年:大正11年8月17日付 北海タイムス)
この石室には暖炉もあったようで、避難小屋的な性格も持ち合わせていたようである。
できたての石室に立ち寄った、札幌高等女学校の3年生生徒によるこの年の夏の「蝦夷富士登山談」も読んでみよう。
静寂の闇を衝いて 蝦夷富士の日の出へ
記者様、私たちがハチきれるやうな元気を抱いて山麓の登山事務所についたのは、もう黄昏でした。
靄は何時か霧雨となりました 蒼茫(そうぼう)として暮てゆく事務所から見下すと、半月湖は模糊たる霧間の中に、その鈍い銀の色が刻一刻と暗くなってゆくのでした。
一行が、愈々小丸提灯をもって勢揃ひした時は、あたりはもうすっかり闇につつまれていました
手に手に持つ提灯の火影が、降りしきる霧雨に、夢のやうにボカされるのでした。
午後八時半出発、駒返しあたりから、霧は益々深くなって、喬木の葉末々々にたまる霧が、雫となって落ちては、雨のやうな音を立てるのでした。
皆 元気でした
「ワア」といったやうな歓声が、時々夜の山にこだまします。
トド松やエゾ松や、仰いでも空も見えぬやうな喬木の葉が、提灯の火に照らされては、美しく映えるのです
一合目から二合目と 岩石を攀るうちに 夜はだんだんと更けてゆきます。
汗はグッショリと背を潤ほし、霧はじめじめと衣袂を重くさせます
山中の静寂 山中の闇黒、それを衝いて登るうちに、いつとはなしに霧が薄くなりました。
一行が雲の上に出たのです。
やがて四合目頃から晴れかかった空が見え出し、ボーと明るくなったと思ふとどうでせう、葉頃をもれて十日頃の月が、微笑むが如く輝いているではありませんか。
「月々、月が出たよ」
一行はこえをあげて悦びました。
そのよくみると、ミルクを溶かしたやうな雲の海が、この月の光の下にほのぼのと見えわたるものですもの
やがて六合目も近い頃、フト美しい鳥のこえが聞こえて来ました
聞きなれないその声は、澄みきったものではありましたが、しかも巾の広いもので、どこかに渋味をもっているものでした。
それが深夜の谷あいに響き渡るのですが、聞く我々には、妙に落ちついた それでいて淋しみがあるものでした。
何だか 酸いも甘いも嚙み分けた世捨人が、その人生観を朗らかに賛美するやうにも聞きなされるのでした。
私たちは一斉に鳴りを静めて耳を傾けました。
「一鳥啼いて 山 更に静なり」
その声が絶えますと、風もない夜更けの深山は、ヒッソリとして、静寂といふ感じが犇々(ひしひし)と身に沁みました
六合目から七合目、だんだん道は険しくなる、それでも一人の落伍者も出さずに規則正しく休憩しながら又登る、一行四十二名一列となって漁貫して登る時のさまは我ながら勇ましくも頼もしくも思はれるのでした。
もう喬木はすっかり無くなりました。
月は何時の間にか、西のかた、雲の海に没して 空には夥しい星が、夜を領することを誇るかのやうにキラキラ輝くのが、鮮やかに見えます。
時折スーッと尾を曳いて流星が山角をすれすれに掠めて飛びます。
九合目の石室についたのは午前二時、冷たい夜風が流れて、ジーッと立っていると寒さに堪えられぬ程でした。
しかし ストーブをたいてある石室の中にはいると 春のやうに暖かくて、急に睡魔が襲って来るのでした
石室で一時間休憩し、正三時に此処を出て、頂上にむかひました
一分毎に夜は白々と明て、提灯の火もいつか力のないものとなり、星も次第次第に消えてゆきますと 脚下は一面の雲の海!
恰も大海原の千波万波が、巌に激して数千尺の飛沫をあげているやうに、或は幾千の天馬が、その白い鬣(たてがみ)を暁風になびかせて狂奔しているやうな雲の海の姿
何心なく眺めると凝然として動かぬやうなその雲は、仔細に見るとたえず浮動していて、或は崩れ 或はむらがるのです
そして、この雲の海の間から、群山をぬく幾つかの山がわが羊蹄山より遥に下の方で、大海原の中の小島の如く、所々にあらはれています
一行は頂にわたる寒風に慄(ふる)へながらも、勇を鼓して進みました
そして絶嶺の剣が峰に達し、岩角に風をよけて、日の出を待ち受けました。
もう四辺はすっかり明るくなって、足許につつましげに咲いている龍胆の紫色の花冠に表れる、陰影すら見得る位になりました
見ているうちに、東の空、雲の果てに一抹の朱の横雲が現れ、ついでそれが真紅となり 焔となり、爛々と輝いたのでしたが、肝腎の日輪は容易にあらはれさうもありません
五分、十分 寒さはいよいよ加はる
しかしこの登山もただこれを楽みにと思ふ一行は、じいつと堪へ忍んで待ちました
東の空の幾筋の雲はますます真紅に 黄金に焔々と燃えるやうに輝きはじめました
「ばんざあい」
私共より一足先に頂に来ていた札幌少年団の勇ましい声がきこえました
と 見る東の空には、眩い太陽がかくと輝いて 脚下の雲の海は一面に淡いピンク色に染まりました。
ふりかえるとわが山嶺の影は 反対側の雲の海に、濃い藍色に長く長く投げられていました
壮大な眺め、美しい極み、私達はこの光景を賛美する爲に、暫くは寒さを忘れてジーッと立っていました
自分等の影が長く長く 背後の旧噴火口の口に投げ込まれているのも忘れて
(1922年:大正11年8月4日、5日付 北海タイムスより)
女学生の投稿を装った、同行記者の感想文のような気がしないでもないが、暖をとって休憩できるというのは、まさに石室は蝦夷富士登山者のオアシスのような存在であったことは、この文からもよくわかるもの。
羊蹄山の頂上付近には、その後1943年(昭和18年)10月に気象測候所が設けられるが、数年で観測を終了する。
その後、1972年(昭和47年)に、道が100人収容可能の避難小屋を建設し、現在は、2014年(平成26年)に環境省がほぼ同じ場所に2代目の避難小屋を建設して現在に至っている。
石室は現在は全く放棄され、石積みが大量に残置されているということである。
このため、石室跡まで行けば、100年以上前に建設に携わった石工の仕事ぶりが観察できるかもしれない。
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