この日の朝、皇太子殿下、のちの昭和天皇が、東京駅発の列車に乗り込んだ。
行く先は北国。北海道である。
前年、欧州歴訪の旅に出た皇太子殿下であったが、21歳の青年皇太子は、初の北海道行啓の旅に出発することとなったのである。
この日は仙台で宿泊し、翌7日は青森まで再び列車の旅。
夕方5時に青森に着いた皇太子殿下は、ここで宮尾道庁長官の出迎えを受け、戦艦・日向に乗り組んだ。
そして7月8日、日向は青森から北へ進み、まず松前沖に碇泊。
皇太子殿下には宮尾長官から松前藩からの歴史などを説明し、町民は花火をあげるなどして歓迎の意を示す。
その後、日向は北東へ進み、午後2時前に函館港に投錨。皇太子殿下はここから水雷艇に乗り換えて、函館桟橋にて北海道への第一歩をしるした。

▲函館桟橋を歩く皇太子殿下(1922年:大正11年7月8日午後2時過ぎ)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ
ところが、ちょうどその頃から函館の空は崩れ、小雨が降り出した。
上の写真は浮き桟橋から本桟橋に皇太子殿下が歩みを進めるところなのだが、降り出した雨により、足元は濡れているのがわかる。
函館に上陸した皇太子殿下は、まず函館要塞司令部を視察。夕方には函館公園へと移動した。
函館公園では、函館区内13校の学校生徒と函館高女(現・函館西高)の生徒が待っており、小雨が降る中、男子生徒の体操、女子生徒の遊戯、そして高女生徒のワンズ体操を御見学なされた。

▲函館高女のワンズ体操と皇太子殿下(奥)
この”ワンズ体操”というのは、魔法の杖(ワンド)から来ている言葉で、小さな棒を使った体操という。
写真ではあまりよくわからないが、きっとこの女学生たちもワンドを持っているはず。
当然ながら皇太子殿下も、非常に珍しい体操だということで感慨深く見ていたようである。
この夜は、函館公会堂でご一泊され、提灯行列の様子も感慨深く眺められたという。
函館は翌9日も一日をかけて見学予定であったのだが、天候はさらに悪化する。

▲7月9日午後2時の天気図 (『天気図』大正11年7月,中央気象台,1922-7 国立国会図書館デジタルコレクションより)
太平洋高気圧が日本の南を東西に張り出し、低気圧が沿海州にある。北海道は深い気圧の谷の中である。
この日の函館は朝5時過ぎから雨になり、皇太子殿下も雨音を聞いて起床されたかもしれない。
雲は低く垂れこめ、午前中は函館山に登る予定だったのだが、この行事は中止された。
そして昼をすぎると雨脚が強まっていったのだが、折しも、昼過ぎに予定されていた行事は、函館中学校の校庭での、函館区内中学生徒の各種運動台覧であった。
しかし、こちらの行事は中止されず、体操、撃剣、リレーレースなど一通り実施されたが、写真をみるかぎり、どろんこの校庭でかなり大変だったようだ。

▲函館中学校校庭での「野仕合」の模様(1922年:大正11年7月9日午後1時頃)
このような雨の中ではあったが、8日、9日とも移動経路となる沿道や、体操会場となるグラウンドには近郷近在から大勢の人が青年皇太子をひと目見ようと押し掛け、大混雑だった。姿をみて、手を合わせる人もちらほらいたそうである。
こうして雨の函館行啓は終了し、7月11日は大沼公園を経て、函館本線を北上、小樽へと歩みを進めていくこととなる。
なお、皇太子行啓と時を同じくして、作家で軍医でもあった森鴎外が死去している。
ほぼ行啓一色の紙面の隅に、ひっそりと訃報が置かれた。

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