7月8日に戦艦日向で函館に到着し、9日は函館山登山は中止となったものの、雨の降る中、函館中学校や五稜郭は予定通り訪問。
10日には御召列車で函館を発し、大沼公園を訪れた。

▲大沼で遊覧船から風景を楽しむ(1922年:大正11年7月10日)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ
上の写真に写る駒ヶ岳の姿は、1929年(昭和4年)の大噴火の前の山容。皇太子殿下が乗る船は「鳳号」といって、日露漁業が七重浜工場で建造し、7月3日に完成したばかりという新品である。
このあと、御召列車に乗って、渡島〜後志を北上。黒松内や倶知安など数分停車して拝謁を行いながら、午後6時過ぎには小樽に入った。
11日は小樽周辺を行啓。小樽港の見学や「手宮古代文字」の見学、小樽高商の見学などの日程をこなし、夕方に再び御召列車に乗って札幌へ。
予定通り午後5時45分に札幌駅に到着した。
札幌は12日、13日、14日とほぼ二日半の見学で、14日の午後には旭川に向かって発つという日程。
さて、当時の札幌には、皇太子殿下の幼少時代、教育係だったという女性教師が住んでいた。
東宮殿下御教育係であった札幌 渥美女史
札幌区立高等女学校教諭として修身と作法を教へつつある渥美千代子女史は 嘗て 東宮殿下御幼児の御教育係として 青山御所皇子仮御殿に仕へたことがある
女史は 殿下が御齢五歳にならせられた明治三十八年から立太子礼を行はせらるる迄 満十一年間 親しく殿下のお側に仕へた記者が 昨日女史を訪ねて 殿下の御幼時の御模様を聞くと
「ええ 此の上ないよろこびで御座います 先日来 御紙上で拝見しました東宮殿下の御生立の記事 其儘で御座いました
唯 殿下には学習院 御通学当時には 殆どお車に召されず 御徒歩でお通ひで御座いました」
と謹んで語った。
(1922年:大正11年7月12日付 北海タイムスより)

▲渥美千代子女史(7月12日付 北海タイムスより)
札幌での行啓日程はかなり過密で、渥美女史が青年に成長した皇太子とお会いできたのかどうかは定かではない。
12日は、北海道庁と札幌神社、完成したばかりの札幌控訴院、そして札幌師範学校、北大と見学。
13日は中島公園で体操などを見学したあと、山鼻公園、商品陳列場、真駒内種畜場、月寒の第二十五聯隊、月寒種羊場と見学。
14日は、札幌麦酒会社と帝国製麻を見学・・・というスケジュールである。
このうち、13日の行啓の様子の記事を・・・。
御巡啓挿話
昨朝六時御起床の東宮殿下には パンとコントビーフ、並びにオートミールに御茶と云ふ 極めて御質素な御食事をとられ 御食後 庭内を御散歩遊ばされ 別項の如く御巡啓相成ったが
昨日は殿下は 殊の外 御機嫌麗しく モーニングにシルクハットの御軽装に 御持になられたステッキは仏国で御購求めになられたもので 蛇の皮の彫刻ある自然木の形をしたもので 仏国の有名な彫刻家の手に成ったものである
御手袋は鼠色であった
中島公園の北海道警官殉難記念碑前では 殿下は脱帽して敬意を表せられたには一同感泣した
一中生徒の水泳を台覧の際 堀野校長代理に「アレは何流か」と御下問があったが 答へが出来なかったので 再度御下問
其れでも堀野氏が御答へが出来得ぬので 今度は長官に御下問になった
然し長官も御答へが出来得ずにしまった
然も 其の御下問は極めて明快な東京の御言葉であった
第二中学生の飛付五人抜きの相撲は 殊の外 御気に召したと見えて 長官は再度迄 時間の迫れるを申上げたが 三度申上げて漸く玉歩を運ばれた
山鼻では 今生陛下 御手植の松 先帝陛下の御声がかりの松に就て 長官御説明申上たが 同所の御手植の木は長さ七尺径一寸の桂であった
宇都宮仙太郎氏 外 数氏の出陳した牛を御台覧になられ 自ら御手を牛の頭上や鼻に触れられて 宇都宮氏の説明を聞召され 宇都宮氏が 此牛がよいとか説明をすると どう云ふ点がヨイか、どう云ふ点が異るかと云う風に 鋭い御下問があったには 宇都宮氏も聊か タヂタヂの體に見受けられた
物産陳列場では 小樽で製缶事業の活動写真を御台覧に供したので 製缶の順序等を示した陳列品に御目を止めさせられ 尚 御帰りの入口間近に陳列し在るラケットを御覧になり 長官の先導も待たずに進み出でられ 御縦覧相成った。
(1922年:大正11年7月14日 北海タイムスより)

▲山鼻公園で乳牛の説明を聞く皇太子殿下(昭和天皇)
事実を淡々とのべる記事が多い中、こういった裏話の記事はなかなか面白く、目をひく。
札幌一中の生徒の水泳については、7月11日の北海タイムス紙面に「大抜手雁行」と「競泳」の2つを台覧予定とあるので、おそらく前者を問われたのだと思う。指導者はアントワープ五輪に出場した「内田正錬」とある。
校長代理や長官も、北海タイムスを見ておれば、答えられたかもしれないし、それこそ内田正錬氏を東宮に付けておけばよかったのに。
ところで、昭和天皇は、ご幼少の頃から相撲が好きだったということで知られる。
「飛び付き五人抜き」というのは、1番ずつの相撲で、誰かが相手方を5人連続で倒すというもの。
このときは、札幌二中の生徒たちが担当した。
3人、4人となっていくと疲れてくるので、5人抜くのはなかなか大変なのだが、結構白熱したようで、相撲好きの昭和天皇も思わず見入ってしまったのだろう。

▲時間ギリギリまで楽しんだ「飛び付き五人抜き」の舞台
函館行啓とは裏腹に、札幌行啓では雨は全く降らず、特に13日は午後を中心に快晴で最高気温は25.9℃。
翌14日も最高気温は25℃を超え、札幌麦酒の工場でサッポロの3種のビールを試飲した、皇太子殿下にはさぞかし美味く感じられたことだろう。
過ごしやすい陽気続きの中、札幌各地をめぐり、皇太子殿下は旭川へと旅立って行ったのであった。
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