のちに昭和天皇となられる、当時の皇太子・摂政宮の16日間にわたる北海道行啓の真っ最中である。
函館、札幌、旭川と巡って来た皇太子殿下は、7月16日は鉄道の旅。
旭川午前7時発の御召列車で、まず宗谷線を北上。
名寄駅からは名寄本線に入り、初めてのオホーツク海を目にし、遠軽まで進んでからは石北線で留辺蘂をまわって野付牛へ。
そこからは網走本線で、美幌を通過して、網走までやってきた。
網走着は午後6時25分というから、半日ほど列車の中である。

▲和寒駅で皇太子殿下の通過を待つ町民たち(1922年:大正11年7月16日午前)※北海道庁編『皇太子殿下行啓記念写真帖』大正11年より 以下同じ
上の和寒駅のように、止まらずに通過する駅がほとんどだったのであるが、それでも地域の住民は駅に集まり、皇太子殿下の姿を一目見ようと目を凝らした。紋別の渚滑駅には滝上村の村民や学校生徒が集まり、遠軽駅には白滝・丸瀬布から奉迎のために村民が出て来たと当時の紙面が記している。
名寄駅では6分停車、中湧別駅では7分停車、野付牛駅(北見駅)で7分停車。それぞれの町の名士に拝謁しては、時間通りのダイヤで走り去っていく。
そんな中、宿泊地となる網走は、一晩だけではあるが皇太子殿下が滞在なさるということで大変な歓迎ぶり。
ホームで町長以下、約200人の名士が奉迎し、宿泊所のとなる桂ヶ丘の網走小学校へ自動車で皇太子殿下を送る。この沿道にも、網走のみならず、斜里・小清水・常呂・佐呂間・女満別と周囲の各村から、或は汽車、或は徒歩!で十数里の道路を集まってきた人が、人垣を作った。その数は三万とも四万ともいわれる。

▲網走小学校の屋上に設けられた展望所から景色を眺める皇太子殿下(1922年:大正11年7月16日午後7時頃)
翌7月17日。網走の朝は雨模様で明けた。

▲7月17日正午の天気図 (『天気図』大正11年7月,中央気象台,1922-7 国立国会図書館デジタルコレクションより)
気圧配置は日本の東に高気圧、大陸には低気圧。
ただ、時期的に梅雨末期ということで、梅雨前線は日本海から東北北部あたりには北上していたようで、このあたりは気圧の谷となっている。
このため、天気は北陸から東北、北海道の太平洋側では雨のところが多い。
皇太子殿下の行啓は、ここまで、札幌以外の各都市で行われた地域の生徒・児童による体操等の催しについては、雨続きである。
旭川でもどろんこの中での体操や騎馬戦であった。
網走でも皇太子殿下が起床して網走駅から出発されるまでの3時間足らずのスケジュールの中、午前7時台に学校生徒や少年団など約3500人が網走小のグラウンドに整列し、拝謁・君が代・万歳三唱ということになっていたが、この時間を狙ったような雨天。
皇太子殿下はこの様子を聞き、侍従に「供奉員一同の蝙蝠傘を学校生徒に與えよ」と命じ、実際、傘が配付されたという。
さて、この日も皇太子は列車の中。現在でいう石北本線で北見まで進み、その後は池北線で訓子府、置戸、陸別、足寄・・・と走り、池田からは根室線で浦幌、音別、白糠と進み、釧路まで。
釧路駅の到着は午後5時50分というから、この日も9時間近くの汽車の旅である。
この日は、皇太子殿下が車窓からちょっとした発見ができるよう、”工夫”が凝らされている。
原始時代時代を偲ばるる 丸木舟の操縦御覧
【十七日 池田電話】
十七日の御旅程は 早朝に網走を御発車なり 夕刻 釧路に御着遊ばるる迄 百八十五哩 約十時間に亘る 汽車中に在しますこととて 十勝国川合豊頃両村にては 御慰の物として 愛奴(アイヌ)の丸木舟操縦を御覧に入れたるが
前日に準備遺憾なきを保する爲 河西支庁よりは渡部支庁長 吉野二課長 神山拓殖主任 川合、豊頃両村長出張し 新聞社よりも写真班出張して予習を行ひたり
十七日 池田駅を午後三時十分 万歳の動揺に奉送されて御発車と同時に 丸木舟操縦の現場にて煙火の合図は報せられ 御召列車は池田駅を去る三哩五分の十勝川流域に添ふ線路に差掛るや 遠く 川合、豊頃両村界 緑の木の間影より列車の黒煙認むると同時に 三発の煙火は未明の雨に洗われた青空に打揚げられるを合図に 丸木舟は漕ぎ出されたるが、
其個所はコタンオロ(往時アイヌ部落の意味)と称するも 開拓使前に於てはチップ、カリイシ(往時 桂タモ繁茂し丸木舟を採取せしと称する所)にして
其操縦の次第は 一艘ごとに丸木舟にアイヌとメノコは真の土人風俗の正装にて搭乗し 船頭には柳の木を以って造れるアイヌ特製の御幣(アイヌ語 イナオ)を飾 船端には日章旗 川風に涼しく翻り、三艘並べ 一列五段列となりて、メノコを舟の中央に立てて アイヌは櫂を漕ぐ手も甲斐甲斐しく 満艦飾を施せる平太舟は白帆に風を孕んで 之を指導す
軈て 御召列車は其中央鉄橋に差し掛かるや 一同は漕ぐ手を止めて、直立し 一斉に御召列車に向かって礼拝をなす
之より御召列車に添ふて五百間を、下流に向ひ漕ぎ行きたるが、今生陛下東宮の御巡啓に際しても 此 催しに御鑑賞あられられたる由なるが 東宮殿下にも頗るご興味を曳かせられ 御満足の由に漏れ承はる
而して 操縦のアイヌ、メノコ三十名、十勝国、豊頃、高島、利別、伏古のものなるが 当日は此 面白きアイヌの催しを見て 遥かに御召列車を送迎し奉らんとする附近の住民も ここに集まり 非常の賑わいなりし
(1922年:大正11年7月18日付 北海タイムスより)

▲皇太子殿下のため十勝川を下るアイヌ民族の丸木舟(1922年:大正11年7月17日午後3時過ぎ)
車中での長旅を続ける皇太子殿下の「慰め」のために、十勝のアイヌ民族による丸木舟での川下りの「実演」が行われたということである。
御召列車は割と自由に徐行できたようなので、この場所では少し速度を落としてゆっくり御見物できるよう配慮されたことであろう。
そして皇太子殿下の御召列車は道東を縦断し、太平洋沿岸に出て、午後6時前に予定通り釧路駅に到着した。
釧路はまだ自動車の数が足りなかったか、駅から宿泊所までの皇太子殿下の移動は人力車となった。

▲釧路駅を人力車で出発する皇太子殿下(1922年:大正11年7月17日午後6時過ぎ)
この日の夜。釧路は午後8時頃から名物の霧につつまれ、夜遅くには霧の中、弱い雨まで降り出した。
同時刻、官民合同、約五千人が参加する、奉迎の「大提灯行列」が行われ、各団体が趣向をこらした行灯とともに提灯を持つ町民が釧路駅から行啓通を通って宿泊所となった釧路公会堂まで行進した。
皇太子殿下も霧雨降る中、公会堂の露台に立ち、菊花御紋章の入った提灯を振り、これに応えた。
着ている物が露でしっとり濡れるほどだったようであるが、心配する侍従に「何かあらん」と言い、最後まで行列を眺めていたという。
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