2007年05月14日

稚内機関区の扇型車庫と転車台

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とは室生犀星の言葉であるが、今年8月で生まれ故郷の稚内を離れてからちょうど20年になる。
 既に稚内以外の地で暮らす人生のほうが長くなってしまったが、稚内が一番長く暮らした土地であること、生を受けて最も多感な少年時代を過ごしたこともあり、自分にとって故郷といえば「稚内」を指す。

 この20年間で稚内は大きく姿を変えてしまい、稚内を離れたころの風景はそのほとんどが失われた。今になって最も心に残る風景は何だっただろうか?と考えると、いろいろ思い浮かぶわけであるが、その一つとして昭和50年代まで南稚内駅の側にあった稚内機関区の扇型車庫と転車台がある。

 昭和50年から52年頃にかけて、国鉄南稚内駅の裏に住んでいたが、窓から見える様々な列車が非常に面白かった。よちよち歩きで南稚内駅の線路にまで入り込んで母親に迷惑をかけたこともある。この南稚内駅から稚内駅方向に少し行った所に、その扇形の車庫はあった。
 扇形の中心部には転車台というのがあり、昔はその上に機関車をのせて回転させ、車庫に汽車を納めていた。わたしが住んだ頃はちょうど蒸気機関車が廃止された直後だったが、確かDD51という赤いディーゼル機関車が転車台の上に乗って回転していた記憶がある。(何分小さかったので記憶に違いがあったらすみません)
 この転車台で機関車(列車?)をまわして扇型の車庫に格納するというシステムが幼いわたしの心を捉え、今でも懐かしい風景として心に焼きついている。

その割には、その後の人生で鉄道に大きな興味が生じなかったのは何故だろう?

▼1977年頃の南稚内駅周辺の様子

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2007年08月05日

日食

 4日放送のNHK−BS「日めくりタイムトラベル」をみた。今回は昭和38年(1963年)であったが、その中で短く「北海道東部で皆既日食が見られた」というのがあった。
 へ〜!と思って見ていたが、19世紀終わりから20世紀半ばにかけて北海道ではたびたび皆既日食となり、世界中から観測隊がやってきたらしい。そういえば礼文島や枝幸に碑があるとかないとか、女満別でもあるとかないとか聞いた覚えがある。

 皆既は無いが日食は度々見たことがある。

 一番最初は小学校一年生の時。1981年7月31日である。サハリンが皆既日食帯となり、日本では北に向かうほど太陽が大きく欠けた。わが稚内でも日本最大の87%という相当の欠けっぷりであった。
 当日はやや雲の多い天気だったのを覚えている。稚内の気象記録を見ると、雲量は10だったからやはり「曇り」だ。日食はめずらしいからと、当時レントゲン技師だった父親がフィルムを数枚持ってきた。これを使って見ることにしていたのだが、薄雲がちょうどよい感じで太陽を透かしたため、肉眼で太陽の欠けた様子を見ることができた。
 欠けた太陽は細い三日月のようになって見えた。薄雲の中では頼りない光も、時々雲の隙間に入り込むと結構まぶしく感じられた。今でもはっきり覚えているから、けっこう感動したのだろう。以降、ここまで欠けた太陽を見たことはない。

 次に1985年5月20日。この日は早朝に最も欠けたが、一人早起きして見た。この時は大変天気がよかったのを覚えている。確認すると雲量は4だった。半分ほど欠けた太陽を見たはずだが、あまり記憶はない。

 最近では2004年。初めて写真にとって見た。フィルムをデジカメに巻きつけて透かし撮りしたが、なかなか上手くいった。手元にある日食の写真は今のところこれだけ。

 2009年7月には屋久島などで6分以上にもわたる皆既日食があるという。宇宙飛行士になった毛利さんのように、皆既日食は人生を変えるほどすさまじい感動を人に与えるらしいし、2009年は無理でも2035年の関東の皆既日食はぜひぜひ見物してみたいものである。

 そして、もちろん晴れてほしい。
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2010年05月13日

くつ袋

中学校のころ、稚内から苫小牧に転校して一番驚いたのは「くつ袋」だった。

靴箱はあるのだが、教室の壁にくっついていて、玄関で外靴を脱ぎ、上靴を出して、くつ袋の中に外靴を入れて靴箱に入れて授業。終わったら逆、上靴を靴袋に入れて家に持って帰るシステム。

男女交際に発展すると、かなりの確率で彼女が彼氏にくつ袋をプレゼントしてたな。

クラスの数が多いからかな〜とか思っていたけど、50年前の新聞に意外な真実を発見した。

昭和35年5月13日 北海道新聞 コラム「先生の目」


放課後の後者を巡視していた私はふと児童玄関のくつだなに心を引かれて立ち止まった。

大小五百八十余足の上ぐつがきちんとツマ先をそろえて置かれている。

上の段には上学年の大きいのが並び、下のほうには一年生のかわいらしいのが行儀よく並んでいる。

私は放課後の靴棚にこのようにきちんと並んだ上ぐつをみるのは絶えて久しい。

戦争がはげしくなるにつれて物資の不足から安心して学校の下足だなに「はき物」が置かれなくなり、その自営措置として考案?された「くつ袋」がカバンとともに学童の携帯必需品となったのは昭和十五、六年ごろからだったろうか。

そして戦後十五年たった今日でもそのまま継続されて、それでなくても持ち物の多くなった子供たちにとってくつ袋は荷厄介なものである。

特に雨の日やぬかるみの季節にはその取り扱いが大変である。

また、昭和三十年に開校された本校は、開校以来くつ袋を使用しないことにしているが、間違いの起こったことはほとんどないということである。

それは子供たちがくつ袋を携行することのわずわらしさがないということよりも、安心して「はき物」をくつだなに置くことのできる秩序が守られていることである。

そして一日も早くすべての学童がくつ袋のわずわらしさから解放される日のくることを願ってやまない。

帯広市東小学校校長 三神 公輝



「くつ袋」は戦中の物資不足からくる「くつ盗難」からきていたとは全くもって意外。

今は豊かな時代だけど、まだまだくつ袋の文化、残っているだろうな。

これは北海道だけなのだろうか?外の土地でもこうなのだろうか・・・?

posted by 0engosaku0 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする