2012年11月29日

1972年12月1日〜5日 稚内湿雪大停電=前編=

今回は明治末年の北海道、樺太の社会を掘り起こしていくのはお休みさせていただき、今と重なる、故郷の気象災害のことを書いていく。

11月27日、小さな低気圧が北海道を通過した。小低気圧の後面は気圧傾度が非常に大きく、さらに低気圧を反時計回りに巻き込むように活発な雪雲が流れ込んだ。この両者の影響が重なった室蘭方面では湿った雪の猛吹雪となり送電線鉄塔が1基倒壊。室蘭・登別両市を含む広範囲で大停電を引き起こした。

室蘭の最大瞬間風速39.7m/sは観測史上3位で、1位が洞爺丸台風、2位がポプラ台風の時だったことを考えると、風の強さはまさに「台風並み」だったといえる。

ただし、台風は雨だから物に当たっても流れ去るだけ。
しかし、水分を含んだ雪は物に「くっつく」ことにより、問題を大きくする。

普段の室蘭は冬でも低気圧通過時は雨となることが多い土地だが、今回に限っては雪だった。室蘭は冬型の気圧配置の際、昆布岳が北西〜北風に乗って南下する雪雲をブロックするので基本は晴れる。しかしこの時は低気圧後面で北西風に乗って流れ込んだ雪雲は、上空に入っていた真冬並みの寒気によって発達しており、地形効果を弱める結果となった。
 このことで雪雲は活発なまま室蘭まで流れ込んだ。活発な雪雲は雪を降らせるだけではなく、雪とともに地上へ吹き降ろす冷たい空気が気温を下げた。このため冬の雨の多い室蘭でも、雲から落ちてきた雪が、雨に変わりきらないまま地上へ到達することとなった。

一部では「過去に例のない大停電」と報じられたようだが、過去にはこれを越える雪害があった。

場所は稚内市を含めた宗谷地方北部。しかも状況は室蘭よりも悪かった。
送電線鉄塔の倒壊に国道・道道の通行止め、鉄道の運休、海運の停止、空港閉鎖・・・

町につながるすべてが湿雪による暴風雪に寸断されたことを記憶する稚内市民は今も多い。

悪夢の始まりは1972年(昭和47年)12月1日。午後0時41分のことである。


湿雪襲う 交通関係ズタズタ
停電・臨時休校 今冬最大の被害

師走入りを待っていたように、本道は一日未明から大荒れ。道東中心にべタ雪。また各地てミゾレ、大雨などに見舞われた。このため国鉄が根室本線で、特急、急行が立ち往生したのをはじめ、午前中だけで列車五十一本が運休、朝の通勤パスダイヤもベタ遅れだったが、「あと十日」を迎えた"選挙の足"も乱れに乱れ、候補者の遊説力ーは大難航。このほか臨時休校も道東、道北で続出、三百六十二校を数え、また帯広市内などて三万世帯が停電するなと、この冬一番の雪害になった。

 この風雪雨をもたらレたのは、えりも沖に発生、時速四、五〇`で根室沖にかけ抜けた低気圧のせい。とくに近かった十勝地方は中札内で八〇a積もったのをはじめ新得町など各地で三〇−
五〇aの降雪量を記録。「気温が高かったこともあってベタ雪、また西部はミゾレか雨になった」(札幌管区気象台)。

 このため交通機関は大きく乱れた。国鉄道総局の調べによると、同日正午現在、根室本線十勝清水−御影間、広尾線、士幌線が不通。下り急行狩勝4号が落合駅、下り普通旅客423列車が山部訳で、同日午前三時ごろから立ち往生、駅側の炊きだしを受けた。釧鉄局ではこの冬初の雪害対策本部を設置、手持ちのラッセル十五両をフル出動させ、同日午後一時に開通した。

 道北地方も同日午後から風雪が強まり、国鉄天北線鬼志別−浜頓別、名寄本線中興部−宇津、宗谷本線南稚内−幌延が相次いで不通、旭鉄局でも同午後一時、対策本部を設置した。

 一方、同日夕からの時間外拒否闘争で、除雪の遅れが心配される国道は、道開発局道路情報センターの調べだと、同日未明から狩勝峠、日勝道路、阿寒横断道路の交通止めが相次ぎ、天北峠、美幌峠も普通一歩前。都市部もベタ雪、吹きだまりでバス、マイカーの足に影響が出、帯広市内では除雪車四十台を出動させたが、湿雪で難航、ハイタクは全部ストップ、十勝バス、拓殖バスも一日中、混乱した。

 このほか、東亜国内航空の釧路便、帯広便がいずれも欠航。利札両島と稚内を結ぶフェリーも止まるなど被害は空や海にも広がった。

 雪による臨時休校も続出。とくに十勝管内は、帯広市内の小、中、高四十五校が全部休校したのはじめ音更、上士幌などで合わせて二百二校が運休。道教委への報告によると、このほか釧路、根室、宗谷、網走、上川管内を合わせ小、中校三百四十六校、高校十六校に達した。湿雪だったことから停電被害も増え、北電帯広支社管内では、帯広市内の七千世帯をはじめ上士幌、新得両町の全町停電など三万世帯を超え、釧路管内弟子屈町でも、断続的な停電が続いた。また稚内市でも中心部一帯で雪まじりの強風で部分停電が続いた。

 同気象台の予報によると、この低気圧通過の後へ、大陸からの冷たい高気圧が入り込み、いわゆる"西高東低"の冬型になりそう。このため道東の風雪は一応、峠を越えたとみられるが、道北、道央とくに日本海、オホーツク両沿岸地方は風説もようになるとみており、雪害はさらに増えることが心酔される。
道内各地の降雪、降雨量次の通り(正午現在・札幌管区気象台調べ)。

降雪量 糠平(十勝管内上士幌町)五九、帯広四四、北見二一、夕張十六、滝川十四、札幌八、岩見沢七(いずれもセンチ)

<1972年(昭和47年)12月1日:北海道新聞・夕刊より>


その日の午後の北海道新聞・夕刊ではまだ、悪夢の始まりはわずかに記述されているだけであった。
同日の紙面に掲載されていた天気図を下に示す。津軽海峡と釧路付近に低気圧があり、北海道は深い気圧の谷の中である。前線は長く閉塞しており、低気圧の発達としてはピークである。

tenkizu1972120109.JPG

このような閉塞過程に入った低気圧は上空の寒冷渦直下に位置していることが多く、動きが遅くなることが多い。この低気圧のこの後、北海道付近で動きが遅くなったことで強風や湿雪が長く続くこととなった。

翌日の道新をみてみよう。

1972年(昭和47年)12月2日 北海道新聞・朝刊より


ベタ雪一転、道北で猛威

 モーレツ低気圧の影響で"師走湿雪"に見舞われた本道は、一日夜も大荒れが続いた。風雪の中心は道東から道北へ。とくにべタ雪、ドガ雪が重なって、国鉄はこの日だけで列車百五十二本が運休、十一時間半遅れでたどりついた急行も。また同日夜、突入した全開発闘争で除雪作業が遅れた国道の復旧見通しもつかない有様.このほか道内で停電被害は一時は十万戸を超え、このうち約七万戸が、不安と暗黒の一夜をおくった。

ざっと四万戸停電 稚内など不安な一夜

<道北地方>
道北地方の風雪は一日昼過ぎから一段と激しくなり、内陸部では五〇a以上もベタ雪が積もった。

このため稚内市−留萌管内幌延間で高圧送電線の鉄塔六基が直径十aのチクワ状の着雪と二十−三十bの強風で倒壊、送電線が切断したのを始め各地で配電線がズタズタに断線。このため稚内市全域で一万六千五百戸を始め宗谷管内の中頓別、浜頓別、枝幸、豊富、猿払の四町一村、留萌管内の遠別、天塩、幌延の三町、また網走管内でも雄武、興部が被害を受け、合せて四万千九百戸が停電している。

北電道北支店では作業員百人を動員、倒壊箇所現地に向かわせたが、突風のため復旧作業が出来ないでおり、復旧見通しは立っていない。

このため一般家庭ではロウソクを買いに走り、一晩明りのない"原始生活"を送った。稚内市内の水産加工場は操業を中止、官公庁も午後四時に退庁した。

 融雪水により稚内市末広で二むね八世帯が床上浸水、また礼文町船泊、香深でも二戸が床下浸水の被害。また突風で礼文島内で十戸が屋根を飛ばされた。

 吹きだまりなどによる交通ストップも相次いでいる。
稚内市サラキトマナイ−浜勇知間の国道四〇号がストップしたほか稚内土現管内で十一ヶ所、道路が一部通行止めになっている。

 留萌管内天塩、豊富町では全戸が停電のため断水した。

 電話被害も昼過ぎから出始め、旭川電気通信部の調べでは稚内市、浜頓別町を中心に宗谷管内各地で八百加入(一日午後七時現在)が着雪断線で不通になっている。

 国鉄ダイヤの混乱もひどくなった。旭川局管内では、幹線の宗谷本線を中心に運休が相次ぎ、旅客列車三十五本、貨物列車十本の合せて四十五本にものぼり、このあおりで直轄(札幌)局管内でも六本の列車がストップした。今冬最大の雪害パンチをくらった。

 同局のまとめによると、宗谷本線の天塩中川−豊富間、天北線の音威子府−鬼志別間が、湿雪と強風で、通信回線が寸断、駅間連絡がとれず運行不能となった。障害の程度、個所など詳しいことは不明で、宗谷本線と天北線は急行「天北」の上下二本を含め、旅客十一本、貨物四本がそれぞれ一部、または全面的に運転をとりやめた。
 このほか、興浜北線の浜頓別−枝幸間、美幸線全線も不通になった。

 同局は復旧工事を急いでおり、宗谷本線は二日朝からの開通をメドにしているが、天北線、興浜北線、美幸線は二日午前零時現在、復旧の見通しがまったく立っていない。

=旭川=


電気のないローソクでの暮らしのスタートである。
それを紙面では「原始生活」としているが、この原始生活が5日の長きにわたって続くとは、この時点では想像されていない。

当時は今と比べて停電の多い時代だったとはいえ、ローソクやランプでの暮らしを強いられることに慣れているわけではない。

2日夕刊には、じわじわと出る生活への影響、そして復旧の見通しがつかめないまま他地域と寸断された状態の続く中、不便な暮らしを強いられる稚内市民の様子が伝えられている。

1972年(昭和47年)12月2日 北海道新聞・夕刊


不安におののく 陸の孤島

 まるで魔神のように急襲した"冬はやて"だった。一日夜から道東、道北を見舞った暴風雪はシ−ズン初めにしては予想外のモーレツさ。稚内地方、オホーツク、日本海沿いの北のマチはほぼ全域にわたって停電。道路や鉄道も寸断され、虚を突かれた住民たちは時折なぐれつける三〇b以上の突風にさらされて暗黒の一夜を送った。二日になっても被害は広がり、道北は大きな"陸の孤島"と化してきた。

暗く、寒く、水がない  日用品不足じわり

【稚内】水が山ない、と泣き出しそうな市民。石油ストープをたけない寒い部屋で震える子供たち。暴風雪で一日午後から全市が停電している稚内市民は、不安のドン底に突き落とされた。国道、鉄道、海路が閉ざされた同市とその周辺は、休校や日用品の品不足も出始め"陸の孤島"の状態に追い込まれている。

荒波が砕け散る宗谷沿岸のあちこちや稚内に通じる道路沿線では、電柱がポキポキと折れ、倒れていた。
稚内市内も一日昼過ぎから全戸停電が続いている。

 自衛隊員の応援を得て復旧作業に励む北電稚内営業所には、市民から不安そうな電話の声が殺到。
市内には、地下水をポンプアップしているところが多く、同市中央の主婦は「停電で水が出ないんですよ、いったいどうしたら・・・・」と、不安げな声。

 停電で石油ストーブも満足にたけない.二日も、同市で小学校四校、中学校三校をはじめ、宗谷管内で小、中学校合わせて三十四校が休校した。これは校舎の破損や通学路の決壊もあったが、停電や暖房の重油ボイラーが使えない理由もあった・

 「一日夜から石油ストープがたけなかった。マッチで火をつけてもちょろちょろ燃えるだけて寒くて寒くて.真っ暗やみの中で過ごす一夜はわびしかった」。市内開運町のある会社員は、昨夜から続く恐怖の模様をこう語る。

 その灯油も品不足になり出した。暴風雪が来る前から不足気味のところへ、シケでタンカーが接岸出来ないためだ。業者間で"貸し借り"してさばいているが、送電ストップのため貯蔵タンクからタンクローリーへ移せなくて販売面についても支障が出だし、市民の不安を一層かり立てる。

 国鉄や道路の輸送の遅れ、海運ストップや漁の中止で食料品も心配だ。

 大手の冷凍工場では「原料魚がはいってこないし、ストックは三日朝まで凍結が持つが、それ以上は・・・」と顔を曇らせる。一般市民用の野菜や魚の入荷も遅れだした。

 利礼航路のフェリーも二日間ストップのまま。稚内市の機能がマヒすると、宗谷地方に及ぼす影響が大きい。「早く停電が、道路が復旧してほしい」。住民達はさいはての孤立感をつのらせながらも、祈るような表情だった。



このようなひどい被害をもたらした低気圧について、同日の紙面に気象台の分析記事が掲載されている。

1972年(昭和47年)12月2日 北海道新聞・夕刊


台風クラスの力 高気圧に挟まれ"牛歩"

 まるで師走入りを待っていたように、ドカ雪をおともに低気圧が暴れ回っている。といってもベタ雪、大雨、突風と"攻め道具"を駆使するタチの悪さ.春先にはともかく「真冬には数年に一度の珍しさ」(札幌管区気象台)という"冬台風"ともいわれるゆえんだ。
それもこれも北極生まれの寒気団のコースが異常南下しているため。「今冬は北暖西冷型になる兆しがあり、性悪な低気圧がこのあとも」と不気味なケをたてている。

 猛威を振るっている低気圧は東シナ浄生まれ、日本海育ちの"二代目"。親は太平洋へ抜けるころ勢力が衰えて死んだが、子供は十一月三十日ごろ、エリモ岬沖で後継ぎ、勢力アップして根室沖へ。二日正午現在、九七四mと中型台風級のエネルギーを保ちながら、居すわっている感じ。

 暴風雪雨圏は中心から千五百`四方に及び、本道はこの圏内にスッポリ閉じ込められた形。このため稚内は最大瞬間風速三八・五bを記録、また道北中心にべタ雪、みぞれ、ところによっては雨などの荒れ模様が続いている。

 "冬台風"を招いたのはなにか−。杉本予報課長の分析ではこうだ。冷えこみはそれほどでないが、これは北極寒気団の異常南下のためだ。二日の高層天気図をみると、マイナス四〇度の寒気団が、山陰地方にカマ首を向けグンと下がっている。「ふだんの冬だともっと北部、本道にまともに季節風を吹きこむ感じになる。こんな例は(昭和)三十八年の北陸豪雪以来」という。北暖西冷型の一つの裏づけだ。事実、二日朝本道は雨、ベタ雪なのに西日本は初雪だよりが聞かれた。

 次に低気圧が居すわった感じになったのは前方にあるオホーツク高気圧の力が強く前進をブロックされ、また後方の大陸高気圧の"シリ押しパワー"が弱いため。これが根室沖での"牛歩"になって現われ、強風や雪雨が長引く理由になっているという。

「各地とも南寄りから東寄りに風向が変わったが、二日夜以降、やっと本格的なな冬型(西高東低)になり、北西の季節風が強まりそう」とのこと。とすれば、ベタ雪の上にシバレとドカ雪。除雪など復旧作業泣かせの"追い打ち"になりそうだ。


強い風にのって湿ったベタ雪は送電線にくっつき、電線の周囲をくるくるまわりながら膨らんでいく。
こうしてチクワ状の雪をまとった電線は重みを増して垂れ下がろうとする。その力が送電線を切断したり、鉄塔を引き倒す力となる。

電流を強くして雪を溶かしたり、電線に着雪防止リングをとりつけるなどの対策は、北電側もカナダなどへ研究者を派遣するなどまだ試行錯誤の段階。しかも道南などの湿雪常襲地帯が対策の中心で、もともと軽い雪の多い道北は、そのようなことの必要のない場所とされていた。

昭和元禄を過ぎ、昭和47年はすでに電気は生活に欠かせないものとなっていた。
停電になれば、光も熱も奪われる。
下の写真のような倒壊した送電線鉄塔を直そうにも、ストライキ騒ぎで除雪の進まない国道を中心に悪路が復旧を阻んだ。マチが死んだような光景は12月3日にかけても続いた。

1972年(昭和47年)12月3日 北海道新聞朝刊は、倒壊した送電線鉄塔の姿を一面に掲載している。(下の写真は引用)
tettou19721203.JPG

その後、復旧に至る道についてはまた次回に。
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2012年11月30日

1972年12月1日〜5日 稚内湿雪大停電=後編=

11月30日午後1時10分。登別市の停電戸数はゼロとなり、その後壮瞥町などの停電も解消。今回の暴風雪災害での胆振大停電は一応の解決をみた。

約100時間ほどにわたる大停電は、おそらく室蘭・登別市民にはずーっと記憶に残るはずである。
なぜなら40年前、四日四晩にわたった稚内の大停電も、稚内の人にとっては今なお語り草だからである。

前回は停電のはじまりから二日目を迎えるまでを紹介した。
今回は復旧までの記事を読んでいく。

1972年(昭和47年)12月3日 北海道新聞朝刊

早く光と熱を・・・
つかぬ送電のメド 不安に追い打ち食料品値上がり

【稚内】突然の暴れん坊低気圧に急襲された道北地方は二日も国鉄、国道が各所でズタズタ。送電線は無残に切断され、各村町村は全く「死のマチ」と化した。いつ正常に戻るかわからない暗黒と寒さの中で、住民たちは二晩目の不安な夜を過ごした。そのうえ、日常生活に欠かせない生鮮食料品もジリジリと値上がりの気配をみせており、「早く光りと熱を・・・」と"冬はやて"が吹きすさぷ中で身を寄せ合って一刻も早い復旧を祈っている。

 スケソウダラのシーズンを迎え、活況に満ちているはずのさい果てのマチ・稚内は二日も一日中マチの機能が停止。二晩目の夜を迎えても、電気も国鉄も鉄道も復旧のメドが立たず、市民は蓄えのロウソクも次第に底をついて真っ暗な中で早々と床についた。
 
ほとんどの家が電気利用の石油ストーブに切り替えているだけに、停電は暖房もストップさせた。プロパンガス店では、電動ボンベ充てん機が使用できず、炊事用プロパンガスが切れた家庭も続出している。身を切る寒さのうえ、夕食の支度もできない家もあった。
 一方、商店街は夕暮れと同時に早々と店仕舞い。いつもはにぎやかな飲食店街も火の消えた街となった。

 日本海はスケソウダラの盛漁期にはいり、街は先月下旬ごろから活況を呈していた。
稚内市内の冷凍庫、冷蔵庫の中には鮮魚や加工品がいっぱいだが、三日午前中が貯蔵の限度という。
「明日以降は、腐敗するものも出るので廃棄の事態も・・・」と、水産業者は深刻な表情だ。

 国鉄の寸断で貨車輸送に頼る鮮食、冷凍魚類は一日発送分の十一車、百二十dが貨車積みされたまま駅構内でストップしている。
業者は「トラック、海上輸送もダメ。いったいいつになったら復旧するのか」と怒りの声さえあげている。

 停電地域は、宗谷、留萌、網走、上川の十一市町村にのぼっている。道北一帯の電力は、雨竜発電所からの送電幹線で供給されているが、一日の激しい暴風雪で幹線鉄塔はいたるところで倒壊。木柱は立っている方が珍しいくらいズタズタに倒れている。
 ベタ雪が送電線にからみつき、電線はまるで雪だんごの連続のような姿。そこへ三十b前後の強風が吹き荒れ、電線はあちこちでひとたまりもなく切断した。

 北電では、留萌、名寄駐とん地の自衛隊員の応援を得て、人海作戦で復旧に全力投球しているが、人里離れた現場も多く、三日夜からの通電も可能かどうかわからない状態だという。
 北電稚内営業所では、「こんなひどい被害は初めて」と次々に入る苦情電話の応接にも力ない。

 こうした情勢から、生鮮食料品もジリジリと値上げの気配をみせており、二日夕には稚内市内で鶏卵一個二十円と、平常より二円アップした店が早くも出た。

 このままだと野菜などの大幅値上げも避けられないといわれ、庶民たちは「こんな死のマチのようになったうえ、食料品まで値上げされては・・・」と暗黒と冷気の中で不安な時を送っている。



北電では3日には1200人の作業員を送って復旧に全力を挙げた。
しかし、この日の時点で高圧送電線の鉄塔が49基も倒れていることがわかり、早期の復旧は絶望的な状況であった。
稚内に到着した電源車はわずかに一台。この一台の電源は、上水道のポンプアップなど緊急用電源にしようされたのみであった。

一年で最も昼の短い12月。しかも北海道の中でも最も日の短い稚内。三回目の暗黒の長い夜を前に市民の精神状況は既に限界に達していた。

1972年(昭和47年)12月4日 北海道新聞朝刊


まだ停電−怒る市民(稚内)
底をつくロウソク 生活に、生産に、深刻な打撃

【稚内】台風型の大暴れ低気圧の直撃を受けて三日目を迎えた三日の稚内市内は、荒れ狂った一日の空がウソのように晴れ上がった。しかし、最果てのマチに早い夕暮れが訪れると、一転して市内はまたまた暗ヤミに沈んだ。一日のばしに連続三日三晩の暗黒生活。「今夜こそ・・・」という期待もあっさり裏切られ、忍耐の限界に達した市民は「どうした北電、いつになったら電気がつくんだ」と怒りを爆発させていた。

 停電の影響をまともに受け続けているのは市内の八割の家庭が使用している石油ストープ。ファンが作動しないため自然通気を利用して暖をとっているが、火勢が弱く、部屋全体を暖めるのはとうてい無理。各家庭ともロウソクの明かりの下でストーブを抱きかかえるように暖をとり、遅々として進まない復旧作業にイライラはこうずるはかり。

 ロウソク不足も深刻だ。市内の雑貨店では何年もタナの上に上がったままだったロウソクが、二日夜、完全に底をつき、備えのロウソクを二晩で使い果たした家庭は、知り合いをたよりに走り回るみじめさ。このため、市対策本部は札幌から二千本のロウソクとトラック一台分の乾電池をかき集め、ロウソクが切れた家庭に町内会を通じて配ったが、たちまち底をつき、三日夜にはその細々としたロウソクの炎からも見捨てられる家庭が続出した。

 市内の水産加工場、商店、飲食店街も三日続きの停電に大きな打撃を受けている。とくにナマ魚を扱う水産加工場の冷蔵庫、冷凍庫も三日目を迎えて、貯蔵能力も限界。
「鮮度は落ちっ放し。だれが損失補償してくれるのか。こうなったら北電を訴える以外に手はない」と不満をぶちまける。

 このほかプロパンガス販売会社では電動機のストップで、ボンベ詰め替えが出来ず、食事の支度が出来なくなった家庭も・・・。灯油販売店では従業員が手動ポンプを回し、家庭に配る灯油のかん詰めに汗だく。油そう所から積み出しが出来ず「このままでは地下のタンクが底をついてしまう」と、業者はメーカーの出荷調整に続いてのダブルパンチに頭を痛めている。

 このようななかで、三日も十万ボルトの送電線一本を架設する工事が旭川、留萌、名寄陸上自衛隊の協力で進められたが、北電稚内営業所の話によると「送電は早くとも四日夜になりそう」というスローテンポだ。このため市と宗谷支庁はそれぞれ独自の災害対策本部を三日設置、ようやく善後策に本腰を入れて取り組む姿勢を打ち出したが、電気の場合、架設工事終了後も市内の電力不足が続くところから、当分午後三時から午後八時までの五時間は市内の一般家庭だけが使用し、水産加工場はこの間、操業を完全に休止することを業者との間で申し合わせた。

 一方、国鉄はこの日午前十一時五十分、急行天北代行のバスを名寄まで片道運行、天北線の稚内−曲淵(同市内)間に旅客列車を一本ようやく走らせただけというお粗末さ。
 さらに郵便物も三日から一週間遅れの渋滞ぶりで"陸の孤島"をしいられた最北のマチ・稚内は文字通り非常事態下に沈み、いつもの水産都市の活気はミジンもみられないやつれようだ。



ついに怒り出す市民も現れた。
3日の最低気温は-0.2℃。4日の最低気温は1.4℃。
風の強い町だけに、強い冷え込みはないものの、師走なだけに空気に暖かさなどない。
昔の家だから、部屋もなかなか温まらなかった。

そして4日目の夜が過ぎ、5日目の朝がやってきた。

電気のない暮らしが5日に及ぶ中、新たな危険が迫る。

1972年(昭和47年)12月5日 北海道新聞夕刊

爆発、流出の恐れ
稚内 冷凍用のアンモニア

 【稚内】五日間続いた停電のため、稚内市内の冷凍工場が使用しているアンモニア液がパイプの中で徐々に気化し、パイプ内の気圧があがって管外にもれ出す危険が出てきた。

 一日昼過ぎからの暴風雪による停電で操業中だった市内四十五の冷凍工場の冷凍機械が一斉にストップした。このため冷凍用のアンモニア液が冷凍庫のパイプの中に停滞、気圧装置も作動しないまま、五日間に管内の気圧がしだいに上昇、運転時には最高でも一`ほどの気圧がすでに三`にまで上昇した。

パイプはいずれも八`の気圧まで耐えられるように作られているが、古い工場では五日昼過ぎからパイプの継ぎ目などからアンモニアがもれ出す恐れが出てきた。

 もし停電が北電が通電を予定している六日夕を過ぎても続くと、パイプ内の気圧がさらに上がり、パイプが爆発することも予想される。大規模工場では約二百`のアンモニアを使用しており、これが爆発、流出すると住民が退避しなければならない事態も起こりかねないと、各工場ではいずれも緊張している。
 しかしパイプ内の気圧を下げるには停電の解消以外にはないため、市消防本部も「万が一もれ出したら大変」と五日午後、全冷凍工場の実態調査を始めた。


アンモニア爆発という危険が現れてきたのであった。

5日には復旧作業にあたる職員は、自衛隊と北電職員などあわせて2000人に達していた。
しかし雪の中の作業ということで作業は難航。それでも5日夜中には幹線送電線は復旧できる見通しが生まれつつあった。

そして待望のその時がやってくる。

1972年12月6日午前3時41分



やっと電灯がついた
稚内地方 五日ぶり街に活気

【稚内】六日午前三時四十一分−北電稚内変電所が五日ぶりに受電、同四十四分から四十九分にかけ、稚内市内十一回戦のスイッチが次々と押され、暗黒のマチに電灯がともっていった。長くていらだたしい、稚内はじまって以来の停電記録にもやっと終止符が打たれた。

 北電稚内営業所の広報車が早朝から稚内市内を巡回した。「長らくご不自由をおかけしていましたが、きょう午前四時から送電を開始いたしました」
一日夜から炊事さえ満足にできず、五日間も暗黒の生活を強制され「けさは家族になにを食べさせたらよいものやら」と心を重くしていた主婦たちの表情がばっと明るくなった。

 臨休、そうでなければ午前授業で打ち切りになっていた小、中学生たちも、六日はにこにこしながら登校、教室は久しぶりに元気のよい歓声でつつまれた。

 稚内の経済を支える水産加工場もいっせいに操業を開始した。冷凍庫はアンモニアガスの圧力が急上昇、鉄の太い冷却管が爆発寸前の状態に追い込まれるという、危険状態からようやく脱出した喜びでひとしお。しかし、冷凍庫内の温度は五日ですでに十度前後上がっているため、在庫品が腐敗しているのでは−と心配。

 すり身、冷凍、冷蔵など水産加工場が生きかえると、これまで紋別や留萌、小樽などへスケソを陸揚げ、買いたたかれていた稚内経済の原動力、七十隻余りの底引き漁船も稚内港に帰ってくる。
 商工関係者も大喜び。これからは歳末商戦で体制を立て直して、と張り切っている。

 天塩、遠別、幌延、豊富なども稚内市同様、周辺部の一部部落を除いて通電した。

暗黒の百十時間

 道北大停電は、六日午前三時四十一分、稚内地方に通じる基幹送電線の稚内線が仮復旧したことにより、一応ピリオドが打たれたが、北電は六日、その被害状況などをまとめた。それによると稚内市を中心とした停電は一日午後零時十一分に始まり、約百十一時間に及んだ。送電線鉄塔の倒壊数は五十九基、停電戸数は道東と合わせると最高時で十万一千百戸と全道家庭供給戸数の一〇%近くにのぼり、いずれも北電始まって以来の規模とわかった。
六日正午現在、まだ稚内市郊外、宗谷管内猿払村など停電戸数は九千四百二十戸残っているが、七日にかけて解消する予定という。

 北電本店の調べによると、送電、配電関係の被害は道北だけで送電線鉄塔五十九基倒壊のほか、配電柱の倒壊三千八百本、折損千二百本、傾斜一万二千本、断線一万四千ヵ所となり、総被害額は約十億円と見込まれている。
 繰り出した復旧作業員は、自衛隊の応援を含め、北電社員、工事業者など延べ約一万人。

 北電は停電が長引いた理由として「吹雪にさまたげられ、初動の事故掌握体制が思うように出来ず、被害状況のキャッチが遅れた」ことをあげているが、技術的には、いままで道北地方では例のない湿雪に見舞われ、送電線に雪が張りつき、過重な張力に耐えきれなくなって、切断、倒壊が発生した、といっている。

送電線鉄塔は一b当たり一・五キログラムの加重が限度に設計されているが、今回の場合、雪が凍って直径十八aの送電線が二十五aに太ってしまったことにより、基準の三倍にあたる四・五キログラムの重量となり、これが倒壊、切断につながった、という説明だ。
 現在、仮復旧として、木柱による代替の送電塔を建設したが、このままでは、同様規模の風雪が襲った場合、再び停電が起きる恐れがある。このため、近く、支線を取り付けるなど強化するが、本復旧は来春。

 北電では本復旧の際、現在、室蘭、函館、釧路など湿雪地帯で採用している、雪を振り落とす装置のついた軟着雪電線を取り付けるとともに配電線も、同様に雪のつかない電線に取り替えたいといっている。
<1972年(昭和47年)12月6日北海道新聞:夕刊>


110時間余り続いた稚内の「原始生活」はついに終わりを迎えた。

稚内市民の中には、電気がついて家族みんなで拍手したとかバンザイをしたというような話も多い。
まさに待ちに待った電気の復活であった。

この大停電を教訓に、北電によって「難着雪リング」が開発され、必要以上に電線がねじられるのを防止する「ねじれ防止ダンバ」とあわせて送電線に取り付けられることにより、このような長時間停電事故というのは、その後40年の間、ほとんど起きなかった。

しかし、人智を自然は超える。ということは今回改めて教えられた気がする。

そして56基の送電線鉄塔倒壊に対して仮設電柱で復旧にこぎつけるまえ110時間。
これは今回の室蘭で1基の送電線鉄塔倒壊に対して復旧にかかった時間(約100時間)を考えると、相当なスピードを持って当時の北電は事に対処したことが浮き彫りである。

やはり「想定外」という事態を減らし、さまざまな災害に対するシミュレーションをしておくこと。

施設というハードの強化より、事態に対処するソフトの強化、というのが今後の気象災害に対応する上では非常に大切なことと思うのであった。

posted by 0engosaku0 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道気象史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする