樺太シリーズを一回お休みして今回記述しようというのは「日食」について。
ずっと前に(2009年7月)にこのブログでも1963年7月21日に道東方面で観測された「日の出直後の皆既日食」の記事について紹介した。
http://blogs.dion.ne.jp/0engosaku0/archives/8575504.html皆既日食という稀な日食ではあったが、読むだけでまるで風景が、状況がありありと想像させられるような「読み物」となっている。
いろいろな時代の新聞を読んできたが、この時代までは新聞記事は「読者に想像させる」読み物という要素があったと思う。またそれも記者の国語力とか文字を使った表現力が非常に豊かだったからであろう。
先日の金環日食における新聞報道の中でみる日食の記事たるや、まあ淡々としていて、事実を紹介するのみ。
2012年(平成24年)5月21日 北海道新聞夕刊
道民も太陽ショーに歓声 8割欠ける部分日食 道東は悪天候
「太陽が欠けた」「三日月みたい」―。太陽の最大8割以上が欠ける部分日食となった道内では21日朝、各地で通学・通勤前の親子連れらが専用の観測グラスを手に、壮大な天体ショーを楽しんだ。
同規模の部分日食が道内で観測されたのは、1981年7月以来31年ぶり。一方、道東や胆振・日高地方などは雲や霧に覆われ、観測できず残念がる声が広がった。
札幌市内は朝から青空が広がる観測日和で、市天文台(中央区)の前庭で開かれた観望会には約600人が参加した。午前6時半ごろから太陽が欠け始め、最も欠ける同7時49分48秒を前に職員がカウントダウン。参加者は一斉に観測グラスを太陽に向け「おおー」などと感嘆の声を上げた。
一方、道東地方などはあいにくの悪天候。釧路市は濃い霧が立ちこめ、市こども遊学館での観測会は前庭から館内に会場を変更。大型テレビでインターネット中継の日食の映像を見た。
どうですか?この記事は。
正直、新聞というメディアはこれでいいのかなあ?と思ってしまった。
「見やすさ」を理由に文字をどんどん大きくしているが、結局紙面に収容できる文字数が減り、記事の中に「あそび」がない。
太陽が「どこから」かけ始め、「最も欠けた」太陽はどのように見えたのか・・・
写真はもちろん掲載されているが、それは1963年だって、これから紹介する1943年だって同じである。
百聞は一見にしかずとはいうが、一見に近い「百聞」の能力を発揮できなければ、新聞というメディアの存在意義はあるのだろうかと思ってしまう。
戦時下、検閲のある時代でもこれだけ記者は書ける。
1943年(昭和18年)2月5日 北海道新聞 弟97号
見ん事射たり"世紀の日食"
決戦下・凱歌高し科学陣
観測戦でも米・英圧倒 燦然と輝く"勝利のコロナ"
日食観測の決戦は理想的条件に恵まれ、感激の凱歌を奏した。
五日朝南北百八十キロにわたる暗黒の帯が本道中部を西東に走り、戦雲の北太平洋を越えて敵領アラスカに上陸する"黒い太陽"は遂に出現したのである。
南に北に敵米英との死闘が連日相つづく決戦下、勝たねばならぬこの、日米日食科学戦に必勝を期す現地十一班のわが観測陣は眠られぬ夜を明かし、天文協賛の街の観測隊も夜明けとともに配置についた。
根室、女満別の悪条件を除き、釧路、厚岸、帯広、雄別の中心地帯は勿論、南限線通過の札幌も絶好の条件に恵まれ天佑を神に謝した。
この凍る二月の朝、酷しい寒波の中に、全道民あげて待つ約二分の黒い太陽。
北洋に戦うわが勇士も仰ぎ見るであらう世紀の太陽は午前六時四十分ころから大輪の花が僅かにむしばまれつつ凛々たる輝きを地上に放った。
十度余の高度から刻々日はかげり、日の出三十分後の下界は黄昏こめ、みるみる地上は暗く覆われた。
その瞬間出た、出た、神秘のコロナは真珠色の光を左右に放ち、大東亜戦の勝利を約束する如く白銀の線は照り映える。
この一刻を待ちに待った各観測陣営の望遠鏡は歓声とともにシャッターを切り、街の観測者は肉眼ですら紅焔やダイヤモンドリングの神秘を見たのだ。
大成功だ、かくして月余にわたる苦心の観測隊は科学戦にも米英を圧倒、喜びの凱歌を雪原にあげ、神秘の謎を解く貴重な資料を得て大成功を祝し合ったのである。
この日の紙面はトップ一面がまるまる「皆既日食」報道で、上に掲げた文書は、トップの見出しとそれに続く概要の一文である。
戦時下であるため勇ましい調子の文書だが、それにしても比喩表現はあるし装飾語句もふんだんにあり、70年近く経った現代にその時の模様を想像させるに十分な読み物である。
今年の道新の記事からは、そうはいくまい。
おそらく18年後、いやそれまでに数回ある部分日食の時に、今回の日食はどう北海道でみられたか?ということを後年の人が調べようと思っても、追体験はまあ不可能といったところである。
ちなみに、前述の昭和18年の記事では、このあとに釧路、網走、雄別(炭鉱)、帯広、厚岸、根室、そして旭川と各都市での日食観察の様子が詳細に記述されている。二面は札幌の観測状況が詳しく乗っている。
部分日食と皆既日食はまた違うという向きもあろうが、前回同様の規模の日食が観測された1981年(昭和56年)でももう少しマシである。
1981年(昭和56年)7月31日 北海道新聞夕刊
日食ショー 道内沸く
ぎらぎら輝く真昼の太陽が三日月のように細り"真夏の宇宙ショー"部分日食が三十一日昼前から約三時間にわたって、本道はじめ全国各地で観測された。
国内では最も大きく欠ける稚内地方だけ曇りで薄雲を通してのつかの間の観測となったが、他の道内各地は快晴が多く、絶好の日食日和となった。
本道での部分日食は三年ぶり、道南を除き八十%以上も欠ける規模では今世紀最後で、夏休み中の子供たちはじめ、天文ファンは三〇度を越す暑さの中で、望遠鏡やススガラス、黒フィルムで空を見上げて「欠けた、欠けた」と歓声を上げ、"黒い太陽"を満喫した。
猛暑も一服のロマン
日食は地球と太陽の間に月が入って太陽を隠す現象で、今回はカスピ海−シベリア−サハリン北部−北太平洋を走る地帯で皆既日食となった。このため、日本列島では北になるほど欠け方が大きくなり、本道はうってつけの観測地。
午前十一時四十三分、小樽地方から太陽の右側がゆっくり欠け始めた。
しだいにやせ細った太陽は欠け始めから一時間二十四分前後経った午後一時八分過ぎには、札幌付近で八〇・七%、旭川で八三・五%、網走が八五・八%も黒くなる"最大食"となり、太陽は三日月ほどに細まり空もちょっぴりほの暗くなった。
各地の天文台や、小、中、高校などではアマチュア観測家たちが望遠鏡を据えたり、すすガラスや感光ネガなどを使って日食ショーに見入った。
この日の道内各地のほとんどが快晴または晴れで、気温も前日に続き三〇度を超す真夏日となった地域も多く、観測には申し分ない日和となった。
最大食前後には気温が二、三度下がった感じでちょっぴり涼しさが味わえ、昼食時のサラリーマン、観光客も黒白フィルムなどを使って、空をあおいで「欠けてる!」
全国で最も大きく欠ける稚内は朝から曇り時折雨がぱらつくあいにくの天気になったが、午後零時五十分ごろ、薄曇の間から白っぽい三日月形の太陽がポッカリ姿を現した。
最北端の宗谷岬には道内や全国各地から、百人以上の天文ファンが集まり、望遠鏡をつらねていらいらしながら晴れ間を待ったが「見えた」と大騒ぎし、一斉にシャッターを切っていた。
部分日食は約三時間後の午後二時半前に終わり、太陽は再びギラつきを取り戻した。
本道で次に部分日食が見られるのは(昭和)六十年五月になる。
現代においても、このくらいのレポートは紙面の中に欲しいところ。
事実中心だが、比喩もあり、使う言葉も巧みで、やはり景色の見える記事である。
しかもちゃんと次回の日食のことも書いてある。見逃した人には次はいつか気になるに違いない。
欲しい情報はちゃんと新聞の中に書いてある。ニーズもちゃんと捉えてる。
やはり新聞記者は紙媒体のメディアという特徴をよく理解して記事を作成すべき。
今回の金環日食の報道では、そう思ったのでありました。
ざざっと今年の金環日食のニュースを眺めてみたが・・・
タイトルでいうと今回の記事で面白かったのは以下のようなものです。
・金環日食各地で観測 雲間にのぞいた天空のリング(産経)
・金のリング、キラリ 県内で173年ぶり金環日食(信濃毎日)
・リングに思い出いっぱい 県内でも金環日食ショー 横浜の中学「感動した」と歓声(東京新聞神奈川版)
・欠ける太陽 満ちる感動(読売新聞島根版)
・欠ける太陽 駆ける歓声(読売新聞広島版)
・見えた黄金の輪/県内でも282年ぶり金環日食(四国新聞香川版)
・カチューシャくっきり 福知山でも観測(両丹日日新聞)
「カチューシャ日食」というのが非常に面白く印象に残った。
頑張れ新聞!