2008年09月04日

9月 石狩サケ漁の今・昔

9月に入ったが暑い。
札幌は9月1日から4日連続の夏日である。これは1994年以来(9月1日〜9日の9日間連続)だから14年ぶりである。

そんな9月の初め、石狩では今年のサケ漁が解禁になった。秋を告げるニュースだ。


石狩沖の秋サケ定置網漁が一日解禁され、二日に石狩湾新港と厚田漁港に初水揚げされた。初日の漁獲量は両港とも昨年を下回り、燃油高の影響も受ける漁業者たちは、今後の漁に期待を込めていた。

石狩湾新港からは二隻が出漁。沖合に仕掛けた定置網四カ所で、漁業者が掛け声を合わせて網を引き揚げると、体長一メートルほどの秋サケが姿を現した。

「型はいいけど、量が少ないね」と石狩さけ定置網漁業生産組合の秋雅士組合長。同港での水揚げ量は三百八十キロで、昨年初日の二割にも届かなかった。
【北海道新聞 2007年(平成20年)9月3日】


石狩川に戻ってくるサケを沖合いの定置網で獲るというのが、現代のサケ漁であるが、昔はちがった。

50年前の新聞記事によると・・・


石狩川のアキアジ漁が一日から解禁された。今年は大漁だった(昭和)二十九年から四年目のウラ年に当たるというので漁師たちの張切りようは非常なもの。

「エイヤ、エイヤ」のカケ声勇ましく引き揚げたが網にはあいにくサケの姿は一匹もなし。

午前十時頃二回目の網を引き揚げたが、これまた一匹も入っておらず、つめかけていた町民たちもガックリ。

しかしことしの解禁は四日早く「なに、漁はこれからさ」と漁師たちはいっている。
【北海道新聞夕刊 1958(昭和33年)9月2日】


今年も50年前も、「不漁」という点で共通しているのが面白いが、燃料高の今年と違って漁師たちが明るい感じがする記事である。

ところで不漁は同じだったが、この50年前のサケ漁は「石狩川の地引網」による漁であり、船で沖合いに出て行くものではない点が今のサケ漁と決定的に違う。
新聞に掲載されている写真でも、十数人の漁師が胴長をはいて川に入り、地引網を引っ張っている様子が映し出されている。

石狩市のホームページ、石狩の鮭漁によれば、今から50年ほど前の昭和30年代は、孵化用親鮭採取を目的に特別に石狩川河口付近で地引網漁が行われ、これを見ようとする観光客で賑わったとある。

しかし石狩川の水質汚染により、昭和45(1970)年を最後に地曳網漁は中止になったとのことであった。

定置網も一時不漁をかこったが、近年はサケが戻ってきているとのこと。わたしが小さかった昭和50年代、「カムバックサーモン」運動というのが展開されていたが、これが実を結んだ結果だという。

通常の漁ではやらなくなった地引網も、サケまつりでは見られるとのことなので、今年は時間が合えば見に行って見たいと思う。

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2009年03月13日

1929年3月の北海道(1)

今から50年前に着目して北海道の暮らしぶりの違いなどを比べてきたが、今日はさらに前、今から80年前の1929年3月の北海道の記事を読んできた。

ちょうど世界恐慌の始まった年であるが、3月はまだ恐慌前。札幌ではこの年の3月14日の積雪が146cmを記録して、当時としては観測史上最高。現在でも3月史上3位となる多雪となるなど残雪の非常に多い初春を迎えていたところであった。

そんなこの頃の新聞(北海タイムス)を見て見たが、時代を感じさせるエピソードがやはり多い

まず昭和4年(1929年)3月4日の紙面から


下駄で殴打す

小樽市色内町三丁目福岡勇作方積取人夫鳩山新一(二九)、住ノ江町四丁目近藤サワ方島田汽船部火夫中野新一(三四)の両名は二日午後九時頃稲穂町ビツクリヤ方で飲酒中、奥沢町四丁目二十四番地村山新治(四五)と口論の末両名は下駄を以って新治の頭部を殴打十日間を要する傷を負はせたので両名とも傷害罪でその筋へ引致取調べ中である。


普通の傷害事件だが、履いているものが「下駄」である。事件当時の札幌の気温が氷点下6.5度。しかも積雪状態で下駄である。当時の真冬の北海道なら下駄履きでは足が凍傷になってしまいそうな気がするが。
殴られたほうも、雪氷の付いた下駄ならちょっとした鈍器であろう。相当なダメージがあったに違いない。


昭和4年3月6日の紙面から


アスパラガスの大量栽培

岩内の日本アスパラガス会社で缶詰に製造する後志管内の原料産額はまだまだ足らず、目下の所では缶詰製造消化力の約半分位の原料しかないので、現在岩内・倶知安のアスパラガス原料栽培地以外に適当な耕作地を求めやうと昨年来管内喜茂別村に試作中であったが成績も非常に良好な所から本年は同地で約五十町歩の大量栽培をなす事となり今回関係側で其の協議をまとめたから今後は前記会社で消化する原料の大部分は優に喜茂別から供給し、更に同村に近き将来分工場も設置する計画である。


喜茂別といえば中山峠の道の駅にアスパラガスのモニュメントが立っているほど、今やアスパラガスの名産地として有名である。

喜茂別町ホームページの、きもべつ辞典「あ」にも、昭和4年に本格的栽培が始まるとある。
アスパラの里きもべつの産声がまさにあがったことを示す記事だったのだ。

次、
昭和4年3月9日の紙面より


バナナの初荷

寒国人の味覚をそそる暖国の珍客バナナが来たる十三日小樽に入港する青龍丸に積込まれて九十四個入荷することになった。之は小樽に於ける本年最初の入荷でお祝儀あきないも加味され羽根が生えて飛ぶように売りさばかれている筈だが、続いて十五日、十九日と間を置いて続々入荷する筈で見るからに食欲をそそるバナナの姿が果物屋の店頭に現れるのも近い。


春告魚はニシンであるが、春告食はバナナであったのであろうか?「おやつにバナナは入りますか?」というフレーズは今では昔となっただろうが、当時のバナナは高級品。店頭で見かけても、早速買う!というところまではいかなかったろう。
なお、昭和初めの日本は台湾のみならずパラオなど南方の島々も領土であったから、小樽に来るバナナも意外と「国産バナナ」だったのかもしれない。

次、
昭和4年3月11日の紙面より


実戦そのまま機関銃のひびき
きのう陸軍記念日当日 札幌大通の攻防戦

奉天の会戦を記念する雪中の札幌市街戦は昨十日午前十時、月寒歩兵二十五隊兵により壮烈なる攻防戦により開始された。

此の日札幌市電気局では市民の観覧に便する為に電車台数を特に増設し赤十字社よりは救護班の出動あり。

正十時空天に轟く数発の煙花を合図に電気会社上の重機関銃の援護の下に南軍は西一丁目創成河畔に散兵線を進め、之を阻止せんとする銀行屋上の北軍兵に猛烈な機関銃隊の射撃を開始する。

折からの寒気を破って小銃、機関銃の音は市街の建築物に反響し、実戦さながらの気分を演出した。

特に北軍利あらず暫時豊平館附近に退却すれば電車線路を突破して南軍の攻撃ますます激しく暫時タイムス社、郵便局附近に北軍を圧迫し、北軍亦必死となり軽機関銃隊を以って之に応戦する。

十時四十分南軍は今井呉服店屋上、鐘楼並びに銀行屋上を占領し、ここに機関銃隊を据えて放火を浴びせ北軍は大通の雪上に銃を据えて火蓋を切る。

市長公舎前の北軍機関銃隊とタイムス社前南軍の機関銃隊とは僅五十数メートルの接戦を演じたが、十一時敗色漂う北軍は根拠地豊平館前に退き、同所に於いて追撃の南軍と白兵戦となり、午前十一時一時間にわたる攻防戦は終了した。

此の日市民の人出は近来にない程で電車は満員となり、四丁目、南一条線、大通は人の黒山を築いた。


真昼間に兵士が市街戦の訓練を公開で行い、その舞台が札幌のど真ん中大通である!!!

こんな現代では絶対できないような行事が80年前の札幌ではなされていたのである。これはさすがに信じられなかったが、大通で機関銃を構える兵士の写真まで写っているので間違いはない。

大通に機関銃の音が反響するなぞ、平和運動をしている人がみたら卒倒しそうだ。

最後に昭和四年三月十五日付け紙面記載の天気予報


<天氣豫報>
北西の風強く 雪時々止む(今晩)
北西の風強く 雪時々晴れ模様(明日)

<暴風警報>
北西の風強かるべし全管内沿海部警戒を要す。

<天氣概況>
七百七十二粍の高気圧は支那大陸を覆うて滞留の模様にて、七百三十六粍の低気圧、根室の南海上に進み東北東に徐行中の為、樺太から本道西部、羽越地方の日本海岸は強烈な吹雪を起して居る。内地方面は北乃至西の風強く裏日本から琉球方面迄所々に雨雪を降らして居るが表日本は風はないが天気悪く岡山土佐等は雪が降って居る。只満州は快晴である。当地方の荒天は明日も収まらない

<正午の気温>
小樽 二十七度
旭川 二十一度六分
帯広 二十四度四分


天気予報本文は意外と今とほとんど変わりがない。
札幌の予報と思われるが、当時は予報区が少ないため、実は北海道全域が対象の天気予報なのかもしれない。

概況についてはもう、今の時代ではほとんど放送禁止(笑)

そして正午の気温。華氏!80年前の昭和初期は華氏のほうがなじみがあったのかな?

続きは後日
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2009年03月14日

1929年3月の北海道(2)

今年の北海道は嵐のバレンタインデーのお返しとばかりに嵐のホワイトデーとなり、朝は暴風雨、夜は吹雪と大荒れの天気となった。

奇しくも80年前も3月13日〜14日にかけては全道的に荒れたようである。

昭和4年(1929年)3月15日 北海タイムス夕刊


札幌の吹雪 一尺も積もる

十三日の黄昏からまた冬に逆戻りした様な吹雪となり、十四日の明け方から風も強く九時頃には暴風となって一尺近い積雪をみるに至ったが、右に就て札幌測候所では語る。

十四日は午前九時から暴風雪となって正午頃には風速十三、四米を示したがこれは積丹から寿都沖にあった低気圧が暫次発達して根室沖に移動したのと、北支那地方の高気圧との傾度があまりにも急であったので十四日未明から風も北に変わって移動の圏内では一夜に九寸七分という積雪をみるに至ったものだがもうたいしたことはない。温度は風の強い割合に温かいほうだ。


この低気圧による吹雪により、同日の新聞には函館港内では二十メートルに達する大暴風ではしけや伝馬船の沈没が相次いだこと、国鉄は稚内−抜海間で六尺の吹き溜まりにより列車が立ち往生して不通になっていることなどが記載されている。

さてこの吹雪で交通事故も発生しているが、冬ともなれば車のほとんど走っていないこの時代、交通事故を起しているのは「ソリ」であった。

同日付の北海タイムス


列車と馬橇 衝突し馬負傷

【函館電話】函館本線石倉−森間五十五キロ三百メートルの地点に於いて、五百四十五号貨物列車が進行中、今朝右手より茅部村山下留吉(二五)の馬橇が現れ機関車に触れて馬は負傷したが山下は無事なるを得た。


同じ日には函館本線山崎信号所附近でも踏み切りで馬橇と機関車が衝突する事故があり、こちらは馬が後足を折って馬橇で馬を追っていた男は胴を真っ二つに切られて惨死という事故も記事になっている。

冬の交通は馬や馬橇が活躍していた時代であることをいやがおうにも感じさせる記事であった。

嵐も収まった3月18日月曜日の紙面には、当時日本領だった南樺太の話題が掲載されている。


沖も、陸も 景気のよい蟹合戦

時化を恨んだ樺太西海岸名物の蟹漁は十日夜来海上の風に恵まれて真岡沿岸では一挙五千尾を挙げ、更に引き続き各漁業者死に物狂いで投網し滋許沿岸では蟹合戦が展開され鰊漁期までに相当の成績を見んと華々しい活動を見せている。

なお陸上工場では製缶準備一切が整えられ、揚がり蟹を片っ端から製缶中で景気がよい。沿線ならびに東海岸方面からこの蟹缶製造状態を視察に来るものが最近頻である。


戦前、樺太真岡の蟹というのはかなり有名だったようだ。北海道の北に日本人の住む島がもう一つあるという時代。北海道は最果てではなく、さらに北へ向かう開拓者の通過点だった時代であったことを思い出させてくれる記事である。

さて昨今は「裁判員制度」スタートということで論議が巻き起こっているが、80年前の日本に「陪審制」があったとは不勉強ながら知らなかった。

昭和4年3月20日北海タイムスより


お気の毒だがもう一晩ご辛抱を
裁判長より陪審員に第二夜の缶詰を宣す

札幌地裁における小樽放火陪審裁判二日目午後は一時再開。

矢野裁判長は午前中秋山弁護人より申請の鈴木卯吉は小樽から来札中であるといふので許可を保留して直に予審の実地検証調書をはじめ裁判所の実地検証調書つづいて小樽支部予審廷における九回に亘るきょうだいな予審調書等二時間以上に及んで詳細に書簡をなしたが、五味方便所に放火媒介物たる揮発油を振りかけた外套その他を投げ込んだ放火顛末につき、被告の便所窓口から上半身を乗り出して長さ一間ばかりのタル木の先に外套をつき掛け五味方便所の回転格子窓を突き開けて押し込んだ、つまりタル木の橋渡しで便所から便所へのこの珍妙なる放火手段は傍聴席の嘲笑を受けたようであった・・・・

中略

かくて三時半全部の証拠調べ終わり十分休憩、再開直に検事の論告ある筈であったが高野弁護人より
「被告は放火に使用した新聞紙(十月十四日の北海タイムス)を半分は用便に用い、その残りを放火に使用したと述べているが証拠物件として此のところにある新聞紙は一部分ではなく全紙であることは念のため陪審員諸君に見ておいてもらいたい」
とのことで新聞紙は陪審員席にまわされた。

以上を以って予定変更して閉廷となり裁判長は陪審員に向かい
「真にお不自由でお気の毒ですがもう一日御辛抱願いたい」との再度の缶詰を宣告すれば一同苦笑しながらもおとなしく宿下りとなった。本日も午前九時半から開廷の筈。


一文が長く読みにくいが、陪審裁判の雰囲気が伝わる珍しい内容の記事である。

この事件は小樽で発生した放火未遂の陪審公判で、翌日の紙面には陪審員が被告を放火犯と断じ、裁判官が懲役二年六月を宣告したという記事が掲載されている。これも当時の陪審制の内容がよくわかるので以下昭和4年3月21日の記事を抜粋してみた


二十日札幌地裁における小樽馬車追業○○政吉(四〇)に係る放火未遂陪審裁判三日目、午後は一時十五分より再開

中略

『警察の捜査上の欠陥不統一から確たる証拠がないからとてたまたま自白したものを犯人として責めつけることは不合理千万ではないか』と熱情込めた弁論あり。

以上三弁護人の結論に対して男庭検事正は
「本件は奇奇怪怪どころか被告がやったことはその自白で明らかである」と強行な反発あり。

中略

矢野裁判長は
『これからいよいよ陪審員諸君の一評議を願ふに先立って本件の問題となっている事実の関係、証拠の要領、法律上の論点について教示を致します』
といって…

中略

約一時間にわたり詳細なる説示をなし、評議上の注意二三を与えて

問書
昭和二年十月十八日午前二時小樽市奥沢町一丁目五味○○方便所に放火したものは被告人であるかや否や

という問書を陪審員の手に渡したが此の時丁度五時。

陪審員一同はすこぶる緊張の面持ちで評議室に退き札幌市会議員松田学氏を陪審員長として評議の結果、約十分足らずして再び出廷、松田陪審員長から答申は裁判長の手に渡され、厳かに傍聴席の多大の興味と期待のうちに「然り」と朗読。

かくて三日間における陪審裁判のクライマックスは無事通過。
陪審員退廷後、被告人が放火の犯罪者であるという事実の認定の下に男庭検事正の最後の論告に入った・・・

後略


被告は上告権を棄却して涙ながらに退廷したが、陪審員は札幌の近いところで二十円、浦河からは六十六円の旅費・日当・宿泊費を土産にニコニコと懐かしい我が家へと帰路についたそうである。

今も裁判員が遠いところから来るのが大変などの議論が出ているが、80年前という不便な時代において札幌地裁まで浦河から出向いていたというのも興味深い。

さてウィキペディアによると昭和初期の陪審制度で1928年(昭和3年)から1942年(昭和17年)までの間に、法定陪審事件2万5097件のうち、実際に陪審に付されたのは448件、請求陪審事件で請求があった43件のうち、実際に陪審に付されたのは12件であったという。

したがって、陪審が答申を出したこの裁判は、北海道の司法史上でも珍しいものだったのかもしれない。

いやはや昭和四年の話題は尽きない。三月下旬についての話題は日を改めて書く予定。(月末まで更新無理そうだが)
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2009年03月26日

1929年3月の北海道(3)

気象庁の三ヶ月予報では4月、5月と寒暖の差が大きいそうである。
予想資料をみると4月・5月とも低温になっておかしくないような中身であるが、はたしてどうなるであろうか?本当にサクラは早く咲くのかしら?

未だに気象庁よりも当たる!とされる天気占いがある。「寒だめし」である。長期予報のなかった江戸時代には既に農家が利用していたらしいから長い歴史があるものだ。

1929年3月の新聞記事にも寒だめし農家の話題が取り上げられている。

1929年(昭和4年)3月23日 北海タイムス


本年農作物の豊凶のうらなひ

渡島農業の開拓者として又農事改良の功労者として歴代の道庁長官から表彰された渡島農会の副会長、大野村藤田市五郎氏は例年寒九の雨を標準として作柄の大体を判別して一般農家を驚かしてゐるばかりでなく、農事試験場あたりの専門家までをアット言はせてゐる位であるが、一日記者の本年の作柄についての質問に対し左の如く語る。

今年の寒は平均すると不作の年よりも概して低温であったが一月十四日寒九の雨が降ったから低温でもどうかしらと考へている。

昔から寒九の雨が降った年は不作なしと言ふて居る。之について明治二十二年以来の経験から自分は一寸申述べたい。

寒九の雨は明治三十年、明治三十四年、明治四十年、大正六年、大正九年の五回でそれと本年といふわけだが温度は何れも本年と比べると高温であったが作柄は平年並みで豊作とまでは行かなかった。

私が知ってから本年ほど低温な寒九にあったことはない。全く今年は寒九年の試験年で、かうした年は充分に注意して種蒔しなければなるまい。



函館の1929年のデータをみると、5月は今でも観測史上6位にあたる低温月であるが7月、8月は最高気温の月平均値がともに25度をこえており、今の平年値でみても高い数字である。つまり暑い夏でおそらく不作ではなかっただろうと思われる。
北海道農政事務所の米作100年暦でも、北海道の水稲10アールあたりの収量は206kgと前後の年ほどの豊作ではなかったが、まずまずの収量であった。

最近は温暖化で寒九の雨ばかり降り、豊凶も占えないかもしれない?今後ちょっと調べてみようかと思う。

さて昭和4年の3月の北海道をみてきたが、3月24日の北海タイムスには札幌市内の道路で「馬糞掃除」を行う人々を写した写真が掲載されている。記事がないが、雪解け時期の道路の馬糞掃除は公衆衛生上必要なものだったのだろう。なにしろ札幌の公害といえば、昭和初期は馬糞、中期はばい煙、後期は車粉であった。


昭和4年3月28日 北海タイムス

新設高等小学校 敷地内定す

札幌市がかねて市会の決議を経た小学教育方針の変更による五ヵ年継続事業の高等小学校三校新設、既設小学校増築計画の第一年度の新設男子高等小学校は鉄北方面に建設のことに内定し、創成川東と川西との間にその高等小学校のうばいあいとまでなったのであったが川東の住民は市の大勢より見て創成川方面に譲ることとし、市もまた川西にその敷地を求めんとしたので、鉄北平和会は此の問を斡旋して其の敷地を物色中のところ、かねて見込みをつけていた北十八條西二丁目(西一丁目は創成川のためなし)の一角に定まり、一方その継続事業資金たる五十八万九千円も、安田信託会社と市債買い入れ締結のことにまとまり四月一日を以って金銭の受け渡しとなるのでいよいよ融雪後直ちに建設工事に取りかかることとなっている。


いまのこの位置には札幌市立北辰中学校が立っている。北辰中学校のホームページでは昭和22年創立とあるが、前身はどうやらこの記事で建設された高等小学校(札幌第一高等小学校)のようである。開校は昭和5年ということで、つじつまも合う。

さて最後は火事の話。昭和4年3月30日の北海タイムスに大きく掲載されている。


網走署全焼す

二十九日午前三時半網走町南五条東四丁目三番地旧網走支庁庁舎より出火、折から西北の強風にて火はたちまちわずか二間を距る風下の警察署庁舎に燃え移り全焼し四時鎮火。損害四千五百円。

原因は旧支庁建物を白井仁太郎が払い下げを受け、数日前より取り壊し作業中、前夜人夫が焚き火をしたるまま帰宅したるに風のため燃え上がり大事に至ったもので出火と共に消防各部出動消化に努力したが幸い警察署留置所には拘留者一名もなかった。

宿直の菅原巡査が発見したときは旧支庁庁舎には火が一面にまわり強風のこととて重要書類は搬出したが巡査に給与する被服類、拾得物、牛乳試験器等を消失した。

網走警察署庁舎は明治十九年の建築で、その後建て増しをしたもので消失坪数は旧支庁庁舎木造平屋百四十六坪、木造倉庫三十一坪三棟、警察署庁舎および演武場トタン葺き木造百三十一坪一棟他物置十四坪三棟合計八棟で焼失した警察署では直ちに野口署長より山田町長に交渉し、桂ヶ丘旧私立女学校を仮庁舎とし事務を開始した。


網走には「網走歴史の会」があって詳細な年表もWebでみることができるが、この事件については掲載がない。網走署のホームページには沿革が記載されているが、もちろん?不名誉な記述はなかった。

この網走支庁跡にはその後網走町役場が建ち、そのまま現在市役所になっている。市役所の隣は網走署があるから、網走署もそのまま燃えたあとに再建されたのであろう。

なお、同じ日には火災で焼死した少女の様子について「様似の少女生不動になる」との見出しで記事にしている。何のことか現在の間隔ではわからないが、どうやら不動明王の姿のことを言っているらしい。今で言えば「火だるま」である。痛ましい事件ではあるが、時代によって表現方法が違うのは趣があった。以上
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2009年05月02日

#50年前# えくぼさん始まる

5月になり札幌にもサクラが咲いた。木々の芽も一気に芽吹いて、みるみる周囲の景色が変わっていく。ぼっとしていると浦島太郎になってしまいそうだ。

さて、今回は50年前の4月後半の北海道をざっと流し読んでいこうと思う。

昭和34年4月16日朝刊:北海道新聞

21日から朝刊に新連載マンガ

八年ものながいあいだ、読者のみなさまに親しまれてきました金親堅太郎氏作の朝刊連載マンガ『ニタリ君』は、二十日付、三千回でお別れすることになりました。かわって、こんどはマンガ集団のベテラン、松下井知夫氏による「えくぼさん」が登場します。

『えくぼさん』は青春の息吹きでマリのようにはずんでいる、チャキチャキの現代娘ですが家庭的ユーモアと明るい笑顔を毎朝紙面におくり、みなさまと大の仲良しになっていただけることでしょう。


松下井知夫氏についてはウィキペディアに記載がある。子供向け長編漫画の草分けの一人だそうである。しかし、代表作のところに「えくぼさん」はない。現代となってはナゾの忘れられた漫画であるといえよう。

ぱっと見たところでは、サザエさんの結婚前のような感じである。古い両親、小さくて生意気な弟がいる。兄も"石炭のような頑固者"ということで、息苦しい家庭?の設定だ。

昭和34年4月21日夕刊


雪の結晶で気象判る

北大中谷宇吉郎博士がその随筆"冬の華"に「雪は天からの手紙」という文学的表現で雪の結晶と気象条件の違いとの関係を記したのは有名だが、同大教授孫野長治博士(四二)らを中心とした道内の雲物理研究会の学者たちが今冬、札幌郊外の手稲山で雪の総合的な観測を行った結果、地上の雪から大気中の温度や湿度がわかるという"手紙"のナゾを解くことに成功した。

この研究成果は五月東京で開かれる気象学会と、六月アメリカで開かれる国際雲物理学会で発表される。

北大理学部、低温科学研究所、道学大、札幌気象台の学者で構成された雲物理研究会ではこの一月から手稲山で自然雪の成長する過程を中心に、雪の結晶の状態、温度、湿度、ボタン雪のできる課程、雪と関係の深い霧の量などについて総合的な観測を行った。

この結果、上空の温度と降ってくる雪の結晶の関係は
、マイナス15度C付近では樹枝状結晶、同13度Cまたは同20度C付近では角枝結晶、同10度Cまたは同22度C付近では角状結晶、同7度付近では針状結晶の雪がそれぞれできること。角枝、角板の結晶では適温が2種類あったときには高いほうの温度に影響されること。また、この温度の条件から、雲の層が厚く、高さにより温度がまちまちだとこれに伴っていろんな結晶の雪が降り、雲の層が薄いと少ない結晶の雪が降ること、数十から数百の雪の結晶がくっついてできるボタン雪は厚い雲のなかでできることなどがわかった。


この頃は、降ってくる雪から上空の気象条件や雲の状況を推定しようとしていた。今の気象予測では、降ってきた雪の結晶をもとに・・・なんてことはやらない。数値予報全盛だからだ。それでもこういう記事をみると、次の冬は雪の結晶の少し手にとって見て、自分の予想と合致しているかどうか確かめるくらいの余裕をもちたいなあと思う。


軒借りの店先で

○…西一条通りといえば帯広市の目抜き通りを東と西に分けるメーン・ストリート。ここ2、3年の間に店舗の改築が目立ち、スマートで気のきいた店構えが多くなってきた。

こんな街並みのなかで、いちばんちっぽけでつつましやかな店−既製服の栄屋洋服店だ。店主の岩野洋一さん(二五)、朝子さん(二五)夫婦は昨年十月に結婚した。やさしくて若い店主と熱心でよく気がつく店員との間に芽生えた恋が実ったもの。よい面も悪い面もお互いにすっかり気心をのみ込んでいるだけに、いっしょうショウバイに身が入っているよう。構えは小さくとも若夫婦のキビキビとした雰囲気にあふれた店はとても明るい。

○…帯広近郊の農家に育った岩野さんが一人前の商人になる道はずいぶんけわしかった。中学を卒業した二十四年の春、病気がちだった父竹太さんが死亡、小さな妹や弟たち一家六人の生活は長男の肩にかかってきた。

その岩野さんもまもなく盲腸で倒れ、その年の収穫は全くほかの人の手を借りるほかなかった。父親の病気以来出費がかさみ、とうとう一家のたったひとつの財産だった畑も手放すハメになった。

中学しか出ていない岩野さんは帯広市内のある呉服問屋の住み込み店員になった。"農民としてやりとおしたい"と思いつづけていたというのだが…。

○…しかし住み込みはわずか一年で独立、市内のマーケットの一角に既製服の小売店を開いた。十七歳の小僧っ子店主。布地の種類さえロクにのみ込んでいなかったが、大人数の一家の口をうるおすにはどうしても店をもたなければならなかった。

知人の間をかけめぐって集めた金、それに借金を返して残った金をあわせてどうやら店開きまでにこぎつけた。

あまり若いので問屋から信用されず、仕入れたばかりの商品をすぐ引き揚げられたこともあった。こうして細々とした商売がはじまったのもつかの間、二十七年の春にマーケットが全焼、二百万円ほどもあった岩野さんの商品もみんな灰になった。

"泣くに泣けない気持ち、でもちっともくじけなかった"

幸運なことに岩野さんにはすぐ救いの手が差し伸べられた。帯広いちばんの目抜きで店を構えている島岡糸店が岩野さんの誠実さを買って、権利金もとらず店の片隅を貸してくれたのだ。ちょうどこんなとき、いまはベター・ハーフとなった朝子さんが知人の紹介で手伝いにくるようになった。

○…まさか結婚するとは思いませんでした。と二人ともはにかみながら語る。そうかもしれない。岩野さんはなんとか火事でできた負債を片付けたい。朝子さんは早く役に立つ店員になりたいという気持ちでいっぱいだったから。

お互いに結婚を意識したのは五年もたってから。そうなるとバタバタと話はまとまった。
『タイショウの夢を実現させるのがワタシの仕事』と朝子さんはもうすっかり商人のおかみさんになりきっている。

その夢の第一は自分の店を持つこと。わずか二十六平方メートル。間口も奥行きもせまい軒借りでは衣料品のポイント、ムードのある飾りつけができない。スプリング、ダスター・コート、背広をただびっしり並べるだけ。しゃれた店という感じからはほど遠い。

将来に備えて売り上げの一部を積み立てしているが、理想としている百平方メートルの店舗を市街地に構えるには権利金だけで三百万円が必要。しかも管外資本の大きな店ができて婦人ものを中心に値下げが目立つこのごろ、資本力の小さな岩野さんのような店には苦しいヤリクリもある。

それに税金。『何年先になるかはわかりませんがネ…」と岩野さんはちょっと弱気だが『思ったことをやりとげるのがタイショウのとりえです』と朝子さんの信頼はあくまでも強い。

○…店を開けているのは朝7時から夜9時過ぎまで。帳面をつけて帰るのは十二時近く。普通のサラリーマンの倍以上の労働時間だ。いまは通いの店員を三人も使っている。

『経営を合理化して、働く時間を少しでも縮め、せめて夜だけでもゆっくりとした家庭生活をおくりたい』と若い夫婦らしく、新しい労務管理への抱負ももらす。

結婚して問屋の信用もつき、商品を豊富に仕入れることができるようになったいま、夫婦のこんな夢が実現するのも遠いことではないだろう。

この冬のはじめには赤ちゃんが生れる予定。いたわりあって店番をする二人の姿は本当にほのぼのとした感じだ。


googleで「岩野洋一」を検索すると帯広商工会議所会頭でヒットする。

商工会議所のホームページでは、平成10年から約9年半もの間、岩野氏は商工会議所の会頭であった。そのほかにも十勝の数々の要職を歴任とある。いや〜サクセスストーリーの序章を読んだ感じがする。

と終わりがいいのでここで今日はここまで。
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2009年05月07日

1929年4月の北海道(前半)

GSMが20kmメッシュに変更になってから週間予測資料の精度は格段に上がっており、一週間程度先までは大きく気圧配置が変わることが少なくなり、アンサンブルの傾向さえ一致していれば大胆な予想もできるようになってきたわけだが、前々から予想していた通り今日は大陸からの暖気流入で暑い一日となった。旭川は予想通り夏日になったし、遠軽では本道本年度初の真夏日を記録である。

そんな暑い日に今から80年前の記事の話を書いてゆくが、札幌では5月に唯一1センチ以上の積雪を記録したのがこの1929年(昭和4年)である。(5月4日の2センチ)。今年も4月末に32年ぶりとなる遅い積雪を記録したが、1929年の4月〜5月は寒く不順だったようだ。

今回はそんな1929年の4月の北海道について、いろいろと記事を書き出していこうと思う。

1929年(昭和4年)4月3日 北海タイムス


仲の好い人見嬢の忠告で満鉄へ行く南部選手

うちの子供は足一本で外国の和蘭(オランダ)から華の巴里(パリ)を旅行して来ました…とは、吾本道の誇りの一人オリンピック選手南部忠平君がお母さんの言葉である。

さても羨ましき話の主人公南部君は得意の強靭たるバネを応用して、今春めでたく残された数多い好記録とローマンスを働いて実社会に飛び出した。

落ち着く先は何処?なつかしい小学校時代と更になつかしい中学校時代の腕白時代とを暮らしたお母さんの居るアカシアの札幌…と思ひきや、とびもとんだり満鉄と聞いては忠平君のバネの強さに一驚する。
然し其処には実にローマンスに富んだ物語があった。

最初はキネマ俳優として日活に招かれたんですよ…僕も行かうと決心したんですがね―とは相変わらず鳩が豆鉄砲を食ったやうな眼を輝かして語りだす忠平君。

ようく考えたんですよ。そして先輩や人見さんたちが忠告して来ましたんで、とうとうキネマ入りを断念したんです。

と語りだす。言葉がこみいってきた頃にはオリンピック大会で三段跳びに見事入賞した時の様な真面目な顔に成ってきた。

人見さんとは人見絹枝さんで身長五尺七寸余りの女丈夫、世界でリンドバークに次ぐ人気者の女流運動家であるが、和蘭アムステルダムのオリンピック大会で人見嬢は見事八百米競走で万丈の気を吐いて二着に入賞した瞬間は精魂つきて決勝線に卒倒した。その時に吾忠平君は我を忘れて飛んで行き、人見嬢を抱起した。

異国でしみじみ感じた同胞選手の親切に絹枝嬢は感涙を止める事が出来なかった。そして両選手の胸に何物か相触れたものがあったろう。それは恋の華でなくてなんだ。

兎に角四年あとにはにはオリンピック大会が来る。そして又、人見嬢と忠平君は世界の人気者と成って万丈の気を吐くことであろう。


週刊誌が書くような記事である。兎に角、南部忠平と人見絹枝両選手にロマンスの噂があったとは初めて眼にした。まあ記者がたぶん大げさに書いたのであろうが、満鉄行きへの決断など人生を左右するような大事なことを相談しているくらいだから、南部忠平にとっては頼れる存在だったには違いない。

記事中にある4年後の五輪、1932年のロサンゼルス五輪であるが、この五輪を前に人見絹枝はこの世を去る。一方、南部忠平はこのオリンピックの三段跳び競技で15m72を跳び道民初の五輪金メダリストとなった。

次は昭和4年4月12日付けの記事


鮭の稚魚の初旅を虐めるな

札幌附近の河水が温まってきた昨今、前年秋から冬にかけて産卵・孵化した鮭稚魚が河岸を伝って海への旅路を辿っているが児童らは早くも之を見つけ寄ってたかって掬い漁ってゐる。

之を獲られては鮭繁殖保護上支障あるのみではなく児童等に対する稚魚愛護観念の破壊となり、牽いては風致上にも面白くないというので道庁水産課にては今回札幌市長、石狩支庁長を通じて各小学校へ通牒を発し、児童へ厳重訓諭して貰ふ事となったが、尚この際各家庭に於いても此の趣旨の徹底に注意して欲しいと


これが自然産卵した稚魚なのか、それとも孵化事業によるものかは定かではないが、当時の小学生は学校帰りに川岸でサケの稚魚をすくって遊んでいるという風景が眼に浮かぶ。金魚鉢に入れてしばらく飼ったという話もあったのだろうか?

次は後藤新平氏の亡くなった四月十四日の夕刊から


春は何日来る 札幌は霙(みぞれ)

東都は花に春の便りがあるが北国の春は鰊の声も寒そうに連日の雪である。十三日朝、札幌はまた雪で行人の肌を刺す寒気―それからみぞれ―雨となった。春はいつ訪れる?

北大西南隅の札幌測候所に南接している養鯉場で去る九日の夕ぐれ「ケロケロ」懐かしい蛙の鳴き声。これが今年の蛙の初鳴きであった。雪におそれたかそれっきり声はない。去年は四月二日に「ケロケロ」この道化師が春の序曲の第一声をあげたのだ。蛙の演奏遅れること七日。

春の天使―雲雀(ひばり)が青空に朗らかな歓びをあげたのは四月二十二日(これも去年の話)野に畑に広がるこの雪では此の天使もまだまだ眠っているだらう


測候所内の山桜は二十三日に一輪二輪咲き始めたという記録がある。―これも昨年のこと。円山の花便りは何時のことやら。昨年は五月五日に開花して、十日が満開。寒かった大正十五年が山桜十二日、神宮吉野桜十七日満開。今年も遅いだらう。

今年は四月に入ってから三日と六日の両日を除いて十三日迄毎日の雪である。昨年は四日に雪を見ただけ―其の後気まぐれに二十日から廿四日まで雪はあったが今年とは比べにならない。


札幌の生物気象観測は、植物はけっこう豊富な種目があるものの、動物に関しては非常に少ない。道外では今もニホンアマガエルの初鳴きが観測されているし、道内でも他の官署ではヒバリの初鳴きの観測は続いているが、この記事は札幌でも蛙や雲雀の観測が普通に行われていたことを知る貴重なものである。

なお当時は各地の気象台・測候所が独自の基準で生物季節を観測していた。全国統一の基準で観測が始まったのが1953年でこのとき、種目の廃止や整理が行われている。このため、生物関連で記録を扱うとき、統計開始が1953年になる。実際のところはもっと古くから観測はある。(データが残っているかどうかは定かではないが…)

四月前半最後も雪の話題


札幌新記録 きのふの雪

十四日札幌はまた雪となった。未明からの降雨が街の気分をすっかり腐らせてゐたら意地悪く十一時頃からチラチラと弱い雪―やがて北風に誘われたやうに猛烈に降りだして午後一時までに一寸三分。

これで此の四月は十四日までに十一日間降雪という札幌には珍しい記録を作ってしまった。

此の日の正午の気温は三十四度五分で昨年の今日よりは十一度九分低く、『四月化して二月となる』の気狂い振りである。

折角の日曜日もこれで台無しとなり、春の一日を鰊場見物と郊外ゆきに待っていた勤め人の鼻ッ柱は無残にへし折られ、春の買物に人出を夢見ていたデパートその他もガランとしてしまった。


この日の寒気は相当強かったようで、「青森も銀世界」、「松本地方も雪」、「金沢地方もお花見の最中にみぞれ」と北陸以北の日本海側では軒並み雪になったようである。

この年四月後半の札幌は、降雪を記録したのが1日だけなので、月間雪日数は12日と飛びぬけて多いわけではない。近年では2006年がやはり12日で、四月上旬すべての日に雪を記録するというとんでもない記録が出ている。

今年は桜も早かったが、黒点が少なくなって地球が寒冷化なんてことになるとこんな春ばかりになるのだろうか!?


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2009年06月26日

駒ケ岳大噴火から80年

新型インフルエンザではなくても、悪い風邪というものはあるもので、罹患してから三週間経過してやっと調子が上向きになってきた。やっと書き物もできるというものである。

さて、この6月で北海道駒ケ岳が大噴火してからちょうど80年になる。「昭和の大噴火」と呼ばれる壮絶な噴火の模様を当時の新聞記者は臨場感ある書きっぷりで紙面に残している。今のブン屋ではこうは書けまい。

それでは噴火第一報となる1929年(昭和4年)6月18日の北海タイムスから。タイトルから揮っているw


噴煙は天に沖し 巨岩砲丸の如く飛ぶ 月明の空に火炎物凄く 戦々恐々たる避難者の群

【大沼特派員発】鳴動が数日前まで山麓の村に住む人々ににわかに聞こえ出し、大正八年の噴火があったので又やるのではないかと噂されていたそうだが、十七日午後十一時頃に至るや突如上空にあたって数台の飛行機が飛びかった様な爆音が聞こえ出し戦々恐々として住民は寝もやらざる中に、十七日午前二時半頃突然の大音響とともに爆発を開始し月明の空ににわかに見えるスカイラインを天に沖する火炎が益々それを明瞭にしそれ以来鳴動が続き、煙は鹿部方面に砂礫を混へて吐き出したので付近山麓は早くも避難の準備をしていると午前八時鳴動はピタリと止み噴煙も少なくなった

が、安心する間もなく午前十時大音響と共に再び盛んなる活動を開始し降灰は一層激しく大沼から鹿部方面まで殊にホンベツから鹿部付近は直径二、三寸位の石が雨と降ったので住民は全部下海岸の常路、磯谷方面まで頭に馬穴(バケツ)や其たらひ等をかぶり避難し学校郵便局村役場等もいずれも重要書類等を持って避難した。

函館水電第一発電所も全く危険に瀕したので避難したが、大沼公園は風のため降灰少ないが、ただし風が変わればこれも又焼石に見舞われなければならぬので避難の準備をなしつつある。

大沼から鹿部までの電鉄はこの為に不通となった。

一方ホンベツの火事は焼石で大成漁業事務所は避難騒ぎの中に全焼したがかくの如きは安政五年の噴火以来見ざる大活動で田畑の作物は甚大なる被害を受けた。

噴煙は上空数マイルまでもくもくと綿羊の毛を積み上げた如く盛り上がって少しも動かず、濃い夏の碧空にけぢめを見せ、その下を白雲が直線に水刷毛で刷いた如く流れ、その下にあな雲が横津の連山を覆ふている。まさにベスビオスをしのばせる凄観(せいかん)である。

大沼公園広場からはこれ等巨石を砲丸の如く飛ばす光景が目の当たりに見えるが、大沼附近の人々は早くも決死的な登山を試みた。八合目まで行って焼石の為に起こった山火にあってほうほうの態で逃げ帰った。

山火は八合目から国有林を総なめにして目下延焼中である。


函館市民は大音響にびっくりしたとの記事


【函館電話】大沼千歳間の電車は軌道を埋められ運転不能となっている。最初の爆発は午前十時頃で、二十マイル隔てた函館市民は轟然たる大音響にすわ椿事と戸外に飛び出した。噴火の状態は函館からも望まれ、黒煙天に沖し、もの凄い光景を呈している。


鹿部郵便局からの情報


鹿部郵便局長より札幌逓信局監督課へ十七日午後十二時半の情報によれば午前十一時四十分頃より駒ケ岳の鳴動さらに猛烈となり、馬鈴薯大の石盛んに落下し、火災を起こしたるものもあり、村民の全員は村より約一里離れたるウスリ方面に避難し、電信は不通となり、電話の通話は明瞭を欠き、目下村に残留している者は郵便局員と学校職員のみである。

降灰は三寸で、丁度午後六時頃の暗さでろうそくを点じて事務を執っている。


同じ日、函館の記者からの報告


溶岩落下して一面の山火事 大沼消防組は総出動

【函館電話】駒ケ岳の噴火はますます猛烈を極め、溶岩は流れ出し大沼、砂原、鹿部方面の危険は刻一刻と迫り、白煙・に沖してもの凄く、本社特派員の一行は駒ヶ岳に危険を冒して登山せんとしたが溶岩落下して森林は一面火災と化し、到底その目的を達し得なかった。

また風向は次第に大沼を襲い、その危険言わん方なく大沼消防組は総出にて警戒にあたっている。鹿部方面の罹災者を救護すべく決死隊を組織して馬車二台を運転して進行したが、途中の故障と危険の為中止の余儀なしに至った。これがため鹿部方面からの避難民は徒歩で続々大沼へ下っている。

鹿部小学校は一時危険に陥ったが校長の処置よろしきを得、御真影を奉安するとともに生徒を素早く避難せしめ事なきを得た。

火を噴いている山に登るという、無茶な取材を敢行している。今であれば大問題となっているであろう。

今ほどの電化時代ではないが、電力インフラへの影響も一報に出ている。
昭和4年6月18日の北海タイムスより

発電所危険となり函館の工場大恐慌 電車も停車騒ぎ

【函館電話】駒ケ岳爆発のため、鹿部・にある函館水電第一第二発電所は溶岩流出のため危険に頻し、従業員は作業を中止したため送電不能に陥った。

之がため函館損内の電車運転上に一大支障をきたし、三十分間停電のやむなきに陥ったので、水電会社では磯谷川及び火力電力の補給を受け辛うじて運転を続けているが、動力の供給は全然不可能で函館損内の工場は作業できず恐慌をきたしている


砂原村長からの報告についての記事も紹介。


危険刻々に迫る ただし目下被害なし

【函館電話】佐々木砂原村長より本社函館支局への報告によれば同地方は未だ何ら被害無きも鳴動激しく危険は目の前に迫っているので村民の殆ど全部は陸路または汽車汽船によって森村に避難し、残るは血気盛んな若者のみになった。村役場吏員一同は責任上死を決して居残ることになった。


それにしても、状況が凄かったからであろうが昭和のはじめの災害にもかかわらず、迅速な避難活動が行われているのには感心する。また、死を決して居残り職務という覚悟もまた凄いものである。

さて、噴煙は東南東方向へ流れ、様似村を直撃している。同日の北海タイムスより。


様似方面降灰

十七日午前十一時頃、様似村の西に向って真っ黒な雲が現れ、次第に近づき西の突風も加わり物凄き様に人心恐々としていたところ、午後零時三十二分頃から突然降灰しきりとなり、通行人の目に口に入るほどで約十五分間にしてようやくはれた。之がため道路民家は白くなった。


駒ケ岳の噴煙は青森県下からも見えたようだ。
昭和4年6月18日北海タイムスの夕刊


青森県からも噴煙が見えた

【青森電話】駒ケ岳爆発につき、本州の最北端なる青森県下大間村からも津軽海峡を隔てて噴煙が望遠され、太平洋上の上空は赤多の煙に覆われ物凄い光景を呈している。


こちらは6月19日付

青森市からも噴煙を望見

【青森発電】駒ケ岳の噴煙は七十マイルを隔てた青森損からも肉眼で望見されるほどで、その惨状を思はしめるものがある。殊に夜間は電光の如くが眺められ、十七日夜は之を見るため多数の損民が海岸に集まりにぎわった。


室蘭市民もこの様子を勿論見物している。6月18日付の北海タイムス。


室蘭上空に入道雲広がる

【室蘭電話】対岸駒ケ岳の噴火に伴い、室蘭方面の上空には入道雲の如き異様なる雲がムクムクと広がり、電信浜附近には人の黒山を築いている。


太平洋を航行中の特務艦も噴火に遭遇していた。

その夜の海上は電光雷鳴と降灰

【十七日大湊発電】厚岸に向う途中、同夜午後八時駒ケ岳東方百四十マイル襟裳岬沖海上通行せし早鞆特務艦艦長発十八日午後二時海軍省入電によれば

 十七日午後八時頃同岬航行中、火山灰降下盛んにして雷光雷鳴を伴い視界百メートルを越えず。今朝(十八日)午前四時岬を全く通過するまで霧中航行の方法を続行し、大湊要港部よりの通知により駒ケ岳の活動に原因するを知れり。本艦にも落雷を見しも、何ら異常なし。ただし空電激烈なりしため無電受信不可能なりしのみ今朝甲板上から積灰を排除するに及び、斃死せる無数の小鳥、艦上に損乱し奇観を呈す。なお本艦は二十五日厚岸到着の予定




翌日、6月19日付けの北海タイムスは続報。
この時代の通信の王者、逓信局が一番状況を把握していたようである。


札幌逓信局監督課電務係に達したる情報は左の如くである。

砂原局
(十八日)午後七時四十分情報。溶岩は沢伝いに四つの流れとなりて押し寄せ、砂原を去る二百間のところで止まっているが約十五尺に及んでいる。沢よりあふれたる溶岩は森林に流れて山火を起している。鳴動は止みたるも雷鳴が轟き、小雨が降って居る。

森局
午後八時情報。溶岩はオロシナイ部落(百二十戸)より千メートルの所まで押し寄せ、オシダの沢の如き溶岩を以って満たされ、附近の陸軍射撃場もほとんど溶岩で覆われているが、今後降雨があれば溶岩は泥流と化し、部落を襲うおそれがある。

オロシナイ部落民は穴を掘り、家財道具を埋蔵して非難しているが、森村では時々低き鳴動を聞くのみで降灰もなく、森役場では八雲に避難したる住民に対し帰村を促している。


同じく逓信局から派遣された調査隊の報告


鹿部市街は殆ど溶岩に埋まる

札幌逓信局監督課より派遣された調査隊の中(十八日)午前八時大沼より急行したる一行は午前十時留の沢に到着したるも危険を感じ一時大沼に引き返したが更に午後二時決死隊を組織し、鹿部に急行した。

午後七時半鹿部に到着し直に携帯用電話器を以って大沼局と連絡を取るに至った。

第一報(午後八時四十分)沿道は積灰ではなく切石に埋まり四〜五寸に及び歩行困難を極め、進むにつれて溶岩は次第に大きくなりこぶし大、かぼちゃ大、最も大きなものは径一尺八寸のものもあり、鹿部損街は殆ど溶岩と降灰の中に埋没し約六尺に達し、警察署学校温泉宿等は溶岩のために破壊されて歩行していると屋根の上を歩いているような状態である。


いずれも凄い記事であったが、今回は駒ケ岳強行登山記!を紹介して終わりとしたい。

昭和4年6月19日 北海タイムス朝刊


溶岩の危険を冒して駒ケ岳に強行登山を試む

駒ケ岳の活動は、やや静止の状態を続けている。十八日午前十時。我らは再び前日落雷と火の雨に脅かされた駒ケ岳登山口から強行軍の登山を試みたが、前日噴出した泥流岩石は海抜三百五十メートルの所まで薄きは三尺厚きは一丈の層をなしていた。

各所に火焔を吹きつつあり、最下端の二百四五十メートルの所から誤って足を踏み入れれば底熱高くして火傷を負う有様で、危険を冒して五百メートルのところまで進んだが、之以上は進むを許さなかった。

最下端の表面より一寸の個所の熱・は摂氏百六十度、一寸五分百七十四度の高熱を持ち、そのうえ空気は午前十一時二十分二十四度八を示し、足下の熱はこの山麓にさえ留まることの出来ぬ有様で、泥流の為に押し流された植林地帯は何れも全滅している。

同所に至って調査した根本函館測候所長も其の危険の為、遂に調査を中止して下山した。
同氏の語るところによれば、頂上は絶対に足入れが出来ず、一回雨でも降って冷却するのを待つのみであると。なお山形が変化したか否か煙のため山麓より展望するを得ず、これまた時期を見て頂上を征服しなければ判明しない。ラバーの流出した形跡はない。

この点は何れも根本氏一行により専門的な研究を為されることになっているが、この山は常に他の活火山に見る噴火の前兆の地震を感ぜず常に何等前兆無しに噴火するため全く予測することができず、之が前兆のある山ならば山麓の住民に警告を発し得るものをと函館測候所ではこの惨状を見、いまさらながら残念がっている。


しかし、500メートル上がるとは無茶な登山であった。

この記事でもわかるが、気象・地震・火山など、防災関係者は昔も今も危険の予知、予告をいかにして正確に伝えうるか、事が起こってから苦しむことが多いのであった。この点は予報士という職業柄、非常に測候所長に共感できるのであった。
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2009年07月03日

札幌まつり今昔ばなし

北海道は7月に入ったとたん、またしてもエゾツユにもどってしまったかのような曇天続き。なかなか体調も上向かないものである。

そして風邪をひいているまに札幌祭りはとうにすぎてしまったが、50年前の道新に関係者一同が集って札幌祭りについて思い出話など座談会をしている。七夕を前に、今回はこれを掘り起こしておきたい。

昭和34年(1959年)6月12日付 北海道新聞より


札幌神社のお祭も、あさってに迫りました。"札幌祭"は札幌の市民にはもとより、道民にもなにかと親しまれておりますので、きょうは皆さんからこのお祭についての移り変わりや思い出など、うちくだけた"今昔ばなし"といったものをうかがいたいと思います。(司会あいさつより)

出席者
橘 文七(道史料編集長)
武田忠幸(札幌神社敬神講講長)
丸井秀麿(札幌神社禰宜)
水野維佐夫(キグレサーカス社長)
司会:栗原道新本社社会部長

司会
まず札幌神社のそもそもの成り立ちについて。


明治二年九月、本道に開拓使が置かれた直後"北海道開拓の守護神を"ということで、札幌に神社をつくることになったのです。
それで二代目長官東久世通禧(みちとみ)が島判官とともに三柱の御神体を奉持して来道、いったん軽川の仮事務所に祭った。これを明治四年に札幌の開拓使庁舎そばの仮宮殿に移し、さらに明治五年九月十五日、円山の現在のところに出来上がった宮殿に移したわけです。

司会
三柱の御神体というのは?

丸井
大国魂命、大名牟知命、少彦名命の三柱で、"出雲系統"の神さま、つまり国を守る国土神なんです。


明治四年、仮宮殿に祭られたときは国幣小社、翌五年正月には官幣小社になった。そして明治三十二年、官幣大社に昇格した。

司会
円山に神社を置くことになったのは、どんな理由なんです?

丸井
島判官が京都の円山にならって、札幌の円山を理想の地としたわけです。だから最初は円山神社という呼び名だった。しかし当時の円山はクマやシカなどがいて全くひらけていなかったので、住民がおまいりするのはひと苦労だった。そこで中心部の創成川近くに頓宮を設けて、ここから神社をよう拝することにしたのです。これが、のちにおミコシのお泊り所となった。


札幌神社の祭典が本当にお祭らしくなったのは明治十年ごろからではないですか。明治十三年の札幌新聞では街に山車が出て芸者の手踊りなどがあったことを伝えている。

丸井
神社の記録では明治十二年におミコシを買入れている。明治四十四年には皇大神宮のお古をもらって、これで宮殿をご造営、大正二年に落成しました。

武田
神社ができた明治のはじめは円山に移住してきた山形県庄内の人たち三十人ばかりが、いろいろと神社の世話をしていたんですよ。

司会
札幌神社を北海道神宮に昇格してもらおうという動きがあったそうですが…。

武田
戦時中、昭和十五、十六年ごろ、ときの樋口北部軍司令官がえらく信心家で、この人なんかが中心になって内務省に陳情した。しかし親神様が天照大神でなければ神宮にはできないという。そのほか、いろんな理由があってダメになりました。
戦後の(昭和)二十六年にも、いまの町村知事にも協力してもらい神社庁に働きかけましたが"明治神宮の御分神を祭らねければ神宮にできない"という。それには"陛下のお許しをえなければ"とか、なんとかで、結局見込みがなくなってしまいました。


長くなったので一旦切ると同時に補足を入れるが、50年前の札幌神社とは現在の北海道神宮のこと。この話からも、札幌神社が北海道神宮になるまでに、戦中〜戦後にかけてかなりの苦労があったことがうかがえる。

続いて座談会は祭りの小屋の今昔ばなしに展開する

司会
ところでお祭特有のジンタのひびきというのは幼いころから印象に残っていますが、いわゆる祭りのみせ物小屋というのはいつごろからがはじまりですか。

水野
なんでも木暮サーカスの初代、木暮留治が明治二十五年トラをもってきて見せたのがことはじめと聞いていますが、いまのように大ジガケに、何軒もがテントをはったのは明治末ごろからのようです。


その当時は大通一丁目から五丁目までみせ物小屋がならんでいた。いまのように創成川べり並ぶようになったのは、大正二年からのはず。たしか公園で仮設建物を建ててはイカンというわけですね。

司会
昔はどんな興行が多かったんですか。

水野
グロものが目立っていたようですな。女相撲に女剣舞、女のお腹にウスをあげてのモチつきなど。またロクロ首というのもありました。お化けものというのも流行しましたね。

司会
警察の取り締まりなどはどうでした。

水野
いや、結構ありましたね。ただ当時は女のハダを見せるのにも制限があったりして、ワイセツ事犯でとがめられることはまれでしたが、お化け屋敷などで"だまし方がひどすぎる"とおしかりをうけたものです(笑)。

司会
サーカスはいつごろから

水野
サーカスと呼ぶようになったのは昭和五年ごろから。それまでは曲馬団といいまして、曲芸馬術にレビューなんかが呼び物だった。曲馬団というのは明治四十年代に西洋曲馬が輸入されてからつけられたもので、それまでは日本流の馬芝居というのがハバをきかしていた。


そういえば、曲馬団というのはわれわれ子供のころは人気がありましてね、大通五丁目に仮設して入場料が五十銭。大金でしたがね、押すな、押すなの盛況。夜十一時過ぎまで興行していましたよ。

水野
そのころは、現在の入場料に比較して少し高かったが、木戸止めも珍しくなかったようです。

司会
いまのサーカスはいかがですか。収入とか、客の好みという点で。

水野
収入は悪くないですナ。北海道では同業者が共通して成績をあげています。

司会
北海道はドル箱といったところですか(笑)

水野
正直に申しましてまあそうですね。理由をあげますと、半年雪に埋もれているせいか、時期的にいまごろが楽しみの季節、レクリエーション・シーズンになることも手伝って、勢いみんながいこいを求めるんですね。ちょうどこの波にわれわれの興行がマッチするわけです。


今は中島公園に移っている露店が創成川に並んでいた時代の話である。曲馬団なぞ、この記事で初めて目にしたが、これを子供の目で楽しんだ人は明治生まれだから、今はこの様子を聞くことは難しい。貴重なお話である。

続いてはサーカスの内容から、神輿渡御についての話題に移っていく

司会
サーカスの内容で戦前と違ってきたということはないですか。

水野
大いにあります。児童福祉法というんですか、法律で小さい子を使えなくなったこと。自然大人を使いますから、芸を仕込むという点で難しくなっている。
しかし客からみれば"子供を使ってかわいそうに・・・"という暗い声が消えて、ほがらかにサーカスを見れるようになったと考えています。


私が学生で札幌師範の寄宿舎にいたころ、大正のはじめですが、創成川畔はものすごい人出。"きっとおカネを落とす人もかなり多いだろう"ッていうんで、お祭りの翌朝早く友達といっしょに川畔へいってみた。案の定五銭入りの財布を拾って大喜びしたことがあるんです。当時の五銭は大金でしたからね。

水野
創成川の人出はこの三十年間少しも変わっていません。小屋掛けの数も靖国神社の大祭と匹敵するほどで全国一ですよ。

丸井
平安神宮の"時代行列"、賀茂神社の"葵まつり"など、日本五大祭のなかに札幌神社も入っているのです。

武田
戦前は長官の通達で"十五日は諸官庁一日休養候のこと"となっていた。全道民の休日になっていたんですね。

司会
しかし"北海道祭"といわず"札幌祭"といっていましたね。

丸井
正式には札幌神社例大祭というんですが、慣習としてそういっている。戦前は道民とつながっていたが、戦後はそのカゲがうすれてきました。

司会
おみこしも、むかしとはかなり趣きが変わってきましたね。

丸井
以前はおミコシ三基を七十五人でかついでいた。四年前からこれを御所車にしています。むかしは人力車がずらりとつづいて、行列の長さは五百メートルもあったのですが。

武田
現在はその人力車で悩んでいるんですよ。なにしろ人力車なんていうものは、だんだん影をひそめている。このお祭りのために、札幌ではどうにもならず小樽、室蘭、岩見沢、苫小牧あたりから借りてきて、やっと間に合わせている。

司会
山車も近年はだんだんりっぱになってきましたね。

丸井
"札幌祭"のが全国でも豪華なほうに入るでしょう。

水野
鼓笛隊は全国一といってもよい。平安神宮にも残っているが、りっぱな点ではなんといっても札幌です。

丸井
戦前、鼓笛隊は本物の刀を持って練り歩いた。終戦でこれが禁止されて、オモチャの刀に替えられてしまったときは悲しかったですよ。来年あたりはもっとりっぱな刀をそろえたい。

武田
むかしは鼓笛隊のもっていた鉄砲も本物の火縄銃だった。あのころの錦のハカマも立派なものだったが・・・。


時代にあわせて祭りの形もかわっていく。この座談会から50年が過ぎ、さらに祭りのかたち、市民の受け止め方なども大きく変わっていることであろう。そしてこれからも・・・。
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2010年01月30日

明治初期の札幌

1月も早いものでもうおしまいである。2月は最初の一週間が猛烈寒波の影響で厳寒&繰り返し大雪となることが避けられない情勢で、気象関係者としては非常に憂鬱な月の変わり目を迎えている。

それにしても本日11時の週間予想。札幌の2月4日の予想最高気温が氷点下9度!これには騒然となった。誰もが「絶対に6と9を押し間違えたに違いない」と囁きあっていたが、果たして17時には何事もなかったように氷点下6度に置き換わっていた。今度予報の人をつかまえてこっそり裏話聞いてこよう♪

さて、2月の最高気温が氷点下5度を下回ることなぞ当たり前だった明治時代の新聞に開拓初期の札幌を知る翁の思い出話が載っていたので書き起こして見ることとした。

明治43年(1910年)1月3日北海タイムス


四十年前の札幌 上田萬平翁の談

翁は当年七十歳、明治四年春、郷里岩手県より実弟善七氏と共に渡道以来、居を円山村に定め、極力開墾作業に従事し同村にして今日あるを到せしは翁及び善七氏の力に候つこと多しという。左は翁が来訪の記者に語れる四十年前の札幌談なり

▲遊園地付近はしばしば洪水
私は明治四年の春、国から六戸の団体で渡道したのであります。札幌へ落ち着いたときは中島遊園地付近の薄野辺に土地をもらいましてここで仕事に取り掛かろうとしましたが、唯今と違いまして今の遊園地付近は老樹密植して、昼なお暗くしかり、樹の根から七〜八尺位の幹に洪水のために押し流された塵芥がたくさん掛かっているから、この辺は必ず洪水が多いに違いない考えた。

折角開墾した土地も家も水のために押し流されてはドウにもならぬと云うので役所へ願い出て仕事に取り掛からぬうちに今の円山村(その当時の庚午一ノ村)へ移住したのであります。

唯今では樹木も刈り払えば下水も掘って排水の法もできたので滅多に洪水もないが、四、五年当時の遊園地付近は少し大雨でもあれば必ず洪水となったものです。

▲札幌じゅうの人家四軒
私どもの札幌へ来た当時は人家が四軒しかなかった。
それは今の(□に女という屋号)のところに一軒、創成橋の向こう側に一軒(○に吉という屋号)という土方の家と、それに豊平橋のところに一軒猟師の家と豊平館の所に徳川時代の役所に使用した二十坪くらいの家があった限りであるが、○吉という土方の家は慶応二年幕吏大友亀太郎という人が農民を元村辺に移したとき掘った、今の創成川開墾に従事した時の土方が残っていたのだろうと思われます。

▲一条通から開けた
(明治)四年の夏ごろ、今の南一条通りの西一丁目kら九丁目までの町割りができて、それから追々南北に拡張したのであるが、翌五年には約二百戸ばかりの家が出来た。

その当時できた家が今の南一条西二丁目角の米穀荒物商店である。いつか行ってごらんなさい、ずいぶん古いものであります。

▲銭函道路
四年の春、私どもの来たときは小樽へ船で上陸して、それから銭函まで海岸を来て、銭函から札幌へ来るにはアイヌが銭函海岸へ漁へ出るために通った道を辿ってきた。

道幅はわずかに一尺、二尺くらいでそれも今の道のように真っすぐではなくあちらこちらグルグルまわった道であったが、四年銭函から札幌まで新道路開削の設計ができて同年十一月頃工事に着手したが、年内に銭函まで三里くらいできて五年末には全部開通した。

翌六年には移住民がドシドシ入ってきたから之に要する味噌や農具機械類の運搬で銭函から札幌まで荷馬が続いたくらいである。この当時は馬車が無くて皆馬の背に荷物を負わしたものである。

▲鹿と狐の行列
今ではどこへ行ったか影もなくなったが、私どもの来た当時は熊や狼はたくさんごろついておりまして、殊に鹿と狐はいつも二〜三百位の大行列で歩いたものであります。

今の札幌区の隔離病舎のある所が狐の巣窟であったが、土地が乾燥して彼らのために穴をうがつには便利であったからである。

今なら鹿や狐を捕りますれば随分金儲けにもなりますが、その当時は皮は採っても売り場が無いために鹿も狐も捕獲するものがない。最も千歳付近へは内地から皮商人が入り込んでおったといいます。

まだお話することもたくさんありますが何れまた他日に譲ることとしませう。


今の札幌を鹿が200メートルも行列して歩いたら、それはそれは大変なことだ。わずか150年足らず、札幌は190万人ほどの人間を抱える大都市となり、都市化の影響で中心部の最低気温は真冬でも氷点下10度に届くことはほとんどなくなった。

今世紀はどのような姿に変貌していくのだろう・・・
まもなく雪祭りがはじまる。
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2010年02月12日

1940年:札内岳雪崩遭難事故

ワシントンは111年ぶりに記録する大雪となっているそうだし、フランスも大雪で交通網がマヒするなど大変な自体となっているようだ。一方で冬季五輪のバンクーバーではサクラが咲きだし雨続きとこちらはすっかり暖冬と、各地から異常気象のニュースが飛び込んでくる。

北海道も2月はじめは相当寒かった。札幌で最高気温が氷点下9.5度(3日)なぞ、もう今世紀は出ないのではと思うくらいの寒さ。この週末も実はかなり気温としては低いのだが、先週の酷寒ぶりが印象に強すぎて、あまり印象に残らない。

さて、2月も半ばにさしかかってきたが、これからの北海道は雪崩の季節。今回は今から70年前、昭和15年(1940年)新春の北海道を震撼させた北大山岳部・札内岳遭難事故の記事を書き起こしていくことにする。

まず、遭難発覚の記事から。
昭和15年1月10日 北海タイムス


日高山脈札内嶽で北大生九名遭難

若きアルピニストの課題として今なお前人未到の峻剣ペテガリ嶽(1763b)の冬山に北大山岳部では数年来冬季踏破を企て、未だ成功を見ず。

今冬も有馬洋君をリーダーとする一行十名が十二月三十日午前八時中札内を出発、意義ある新春を期して踏破すべく難コースを突破して新春五日午後四時頃、トムラウシ川合流点からヤオロマップ嶽をへてコイボク札内岳頂上付近に達した際、大雪崩に遭遇し、遂に九名(外一名はキャンプに残留)は埋没したが、そのうち内田武彦君だけは奇跡的に助かり、負傷したまま風邪のため前進キャンプに居た橋本誠二君と共に四日間を費やしてやうやく九日午後三時五十分頃列車で帯広に下車、この悲報をもたらして北海館に落ち着いた。

遭難した残り八名の生命は絶望と見られているが急報により北大山岳部では直に救援隊を編成し捜査に向かった。

▽生還者 農学部二年目橋本誠二君・札幌市北三西一三
理学部一年目内田武彦君・札幌市南九西十六
▽遭難者(生命絶望者)
農学部三年目有馬洋君・札幌市南四西十六
農学部三年目葛西晴雄君・札幌市北八西六岩蔦寮
工学部二年目戸倉順次郎君・札幌市南六西十一
農学部一年目清水誠吉君・札幌市南一〇西十四
農学部一年目片山純吉君・札幌市北七西二
農学部一年目近藤達君・札幌市北五西二〇
農学部一年目羽田喜久雄君・札幌市北五西二〇
工学部一年目渡部盛達君・札幌市北一西一五

【帯広発】遭難した北大山岳部の一行は十二月三十日中札内を出発、同夜は南札内小学校に一泊、三十一日はトムラウシ川合流点に第一旦はコイボク天幕を張って一泊、元札内川付近に泊まり、二日はその上流を踏査したが三日は猛吹雪のため嶽に登れず一部のものは荷物をとるため一旦同所を降り、四日は尾根に前進キャンプをつくるべく努力したが遂にこの日も発せられず、いよいよ五日キャンプを出発、めざすペテガリ嶽へ向かったが、橋本君だけは風邪気味のために一行に加わらずキャンプで休養することになった。

その日は朝から粉雪が降り、一行九名がコイボク札内岳頂上付近に達したとき、軽い表層雪崩があってスキー及びストックその他リュックサックなどを流され見失ったが間もなく雪崩は止みスキーなども発見されたので、ひとまずキャンプに引き返そうとしたとき頂上付近から物凄い雪崩が起こり九名全部が埋没してしまった。

その際内田君は一番下に居たので幸いに前方へ押し出され奇跡的に助かったので、同僚の所在を尋ね求めたが、狭い谷をほとんど埋め尽くし程の物凄い雪崩なので同僚八名の姿は全く見えず、そのうち夕闇も迫ったのでキャンプに引き返して橋本君にその旨を報告。内田君は前額部その他に傷を負ったので休養し、翌六日橋本君一人で現場へ行ったが全く手の付けようもなく、両君は七日コイボクサツナイ川とサツナイ川の合流点に降り、八日南札内の小学校にたどり着き、九日中札内を経て帯広についたものであるが既に時間も相当経過しており、一行の生命は全く絶望視されている。

内田君談:五日の午後四時少し前に小さな雪崩れがありましたがこれは大したことはなく、見失ったスキーなども発見されたのでキャンプへ引き返そうとした途端に、頂上の方から猛烈な雪崩が起こったのでした。あっと思う間もなく全員の姿が雪の中に没し、私も物凄い煽りを食って雪の中へ埋められましたが夢中になって雪を掘り下げはい出しました。幸い僕は一番下に居たので横のほうへ押し出され深間へ入らなかった訳です。

橋本君談:昨年十勝岳ホロカメトックで遭難したときの雪崩に比較すると、性質は違いますが規模は比較にならない程大きなもので、狭い谷ですがその時は全く雪崩のため埋まってしまったようなものです。
雪崩の原因は雪の自然の重みからだと思います。縦十丈とも知れぬ雪の中に埋まっている仲間のことを思うと全く気が気でありません。もう時間も過ぎていますから全く気づかわれていますが三日間雪の中に埋まっていて助かった礼もありますから・・・
万一を祈りつつ語った


一月十一日付けでは、片山さんの津山市の実家、近藤さんの愛知県大高町の実家、葛西さんの東京の実家からのそれぞれの両親の談話が掲載されている。

北大山岳部・教授陣による捜索隊は1月12日から現地で捜索を行い、結果、遭難者全員が遺体で発見された。

昭和15年1月14日北海タイムス


【コイボクサツナイベースキャンプにて原田特派員発】冬の日高山脈唯一の処女峰ペテガリ岳登頂計画空しくコイボクサツナイ岳の東北方の雪崩に埋まる八つの身柄を救援するべく北大山岳部はコイボクサツナイ川最後の分岐点をベースキャンプとして坂本直行、中野征記、野崎信之助氏等の先輩が指揮の許に探査を開始したが、十二日正午に至り石橋正夫君が、まず渡部盛雄君の死体を発見した。

一同はその変わり果てた体をみて今更ながら男泣きに泣いた。そしてさらに探査を続けたところ、有馬、近藤両君のリュックサックや戸倉君の眼鏡、スキーの半折、内田、高橋両君のスキー帽及びストック一本等を発見、探査班は悲壮な凱歌をあげ、これに気を得、死体は一箇所に折り重なっていると観測して発見につとめている。

坂本直行氏に探索の模様につき、次のごとく語る。

今年のこの沢の雪が尾根に比べて非常に深いのは雪崩が多かったことを物語っています。
遭難した雪崩の状況は頂上直下百メートルが発生地点で、デブリの末端までが約一千メートルあります。直角に近いカーブが三つもあり、パーテーが八百メートルも押し流されたのに内田君が生還したのは不思議です。

渡辺君の死体は発見されましたが、最後から二番目の沢から上には全然遺品がありませんから、死体はだいたい一箇所にかたまっているものとおもわれます。天気が崩れないうちに全力をつくして捜索を続ける決心です。


昭和15年1月の紙面には22日付けの合同葬まで北大生遭難事故の悲しい記事が続く。それと並行するように、紙面の片隅には日中戦争での戦死者の記事が毎日のように掲載されている。

同じ一月十四日の紙面ではこうである。


早川中尉散華

雨竜郡秩父別村出身大井川部隊歩兵中尉早川正男氏は去る十二月二十五日河北省湯陰付近の共産八路軍との激戦に頭部に敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げた旨、秩父別村役場に入電があった。
同中尉は昨年七月の討伐戦においても名誉の負傷を受け、傷癒えて再度戦線に活躍、北支の華と散ったもので遺族父・由太郎さんは語る
 御国に捧げた体ですから死はもとより覚悟の上です。ただ二度も戦線へ出ておりながら立派な手柄を立てず死んだことが残念です。



形は違うものの、若い命の華が日々散っていく日常。それが70年前の1月なのであった。
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2010年02月26日

1940年2月の北海道

異常な暖気に覆われた昨日・今日の北海道。昨日は道内83地点で2月史上最高気温を記録したが、今日も20地点で最高記録を更新した。

原因は沿海州から南下する前線に向かって上空に記録的な暖気が流れ込んできたためであるが、25日9時の札幌850hPaでプラス4度というのは、2月としては100年に1度レベルであろう。2月の北海道で15度の声を聞くとは、全く想像しなかった。

さて、今回は前の札内雪崩の続きなようなものであるが、今から70年前、1940年2月の記事から戦中の北海道の様子をいくつかメモ書き程度ではあるが上げておきたい。

1940年(昭和15年)2月2日 北海タイムスより


入営に勇む興亜奉公日

紀元二千六百年如月の興亜奉公日の一日は、久しぶりで前夜降り積んだ真新しい雪に清められて明けた。
零下十五度八分、近頃にないきびしい寒さも試練の朝明けだ。

街々に響く晴れの入営の装丁を見送る壮行の歌とともに護国神社境内からは労働報告団の奉仕や警官隊の興亜行進等たのもしき興亜絵巻が繰り広げられた。


興亜奉公日とは全く歴史でも習わないので知らなかったが、昭和14年に制定された国民運動で、戦場の労苦を偲びつつ強力な日本を建設する為の啓発を行う日だったそう。

これが毎月一日にあり、国旗掲揚や神社の参拝などをするほか、食事は一菜一汁、弁当は「日の丸弁当」にすることまで定められていたという・・・日の丸弁当って国策昼食だったのか。たった70年だけど知らんことはたくさんあるなとまた悟る。

1940年(昭和15年)2月3日 北海タイムス


昆布また全滅か 稚内地方に流氷襲う

【稚内発】二月の酷寒期に入り、オホツク海に臨む北見沿岸一帯は続々氷結をみるに至ったが、一日以来稚内港にも海の白魔流氷が襲来、港内水面を所狭しと埋めている。

目下のところ風力の作用によって港内を出たり入ったりしているが、かつて一面の堅氷をみるべく漁船の運航は危険となった昨年は、この流氷が容易に流れ出さず滞留一月余りにおよび、おまけに流れ去る時稚内沿岸一帯に群生の昆布を根こそぎ持って行き、十数万円の害を与えたので沿岸漁民は流氷襲来に早くも恐怖を呈している。


記事に添えられている写真には氷の海原を黒煙を吐いて進む稚泊連絡船の姿が添えられている。今となっては貴重な資料だ。

ところで稚内の流氷初日は今の平年値で2月10日、接岸は2月14日だから、節分前に流氷が稚内に着くのはかなり早い記録だ。
稚内の流氷は昭和63年まではほぼ毎年観測されているが、平成に入ると2〜3年に1回観測される程度とペースダウン。今年もまだ流氷初日は観測されていない。

1940年(昭和15年)2月4日 北海タイムス


学生よ自粛せよ 不良狩りの前に一釘

最近札幌市内の男女中等学生が時局をわきまえずして学校を休んで映画見物、パチンコ遊び、甚だしいのは飲食店、喫茶店に入ってご法度の煙草を嗜んだり、下宿で風紀を乱すなど、中等学生にあるまじき百為をあえて犯し、札幌署員に検挙となるものが相当多数ある。

札幌署は伝家の宝刀を抜いて不良学生狩りを行なうことは容易であるが、学生の将来を考慮して理解ある態度の下、学校当局や学生等の自粛によって矯正をほどこすこととなり、三日午後一時から二階会議室に札幌師範、一中、二中、工業、北中、札商、光星、昭和中学校(中略)の市内男女中等学校生徒監督、教務主任を集め、根本署長、山浦次席、辻保安主任以下関係主任が出席し、根本署長より打合せ会開催の趣旨と、今後もし自粛なければ断固不良学生狩りを行う意味の自粛を要望する挨拶をのべて

▽映画館入場生徒取締▽飲食店、喫茶店出入取締▽遊技場出入取締▽中等学校生徒下宿先における風紀取締▽喫煙取締▽風俗壊乱のため春歌取締▽防諜意識の昂揚▽結核予防協力

等の自粛事項を指示、これを中心に懇談を重ね、学校側でも今後自粛することを申し合わせて午後四時散会した。



当時の中学は五年あったので、いまの中高生とほぼ同じ年代であるが、まあ今の世であったら相当てこずるであろう通達である。いわゆる「最近の学生は」モノであるが、さすが戦中で、映画をみるのさえ不良扱いというのがなかなか凄い。当時の大人はほとんどが明治生まれ。指導も相当怖かったであろう・・・


1940年(昭和15年)2月5日 北海タイムス


焼酎飲まないこと

【旭川発】滅び行くアイヌ民族達が皇国未曾有の時局に直面して、晴れのお召しにより大陸戦野に銃取る幾多の荒熊勇士を送ったが、これを機会に伝統を誇る精悍な血潮を燃やして銃後コタンを護るべく燦然立ち上がり、『部落更正』の大旗を押し立てて超非常時に即応した戦時体制を布陣。近文アイヌ部落では過日総会を開き、佐のごとく実践要綱を決定。

一、紀元二千六百年の意義を一層深く認識して諸種の記念行事を実施する
一、我々は氏族恒久的な生活改善を行うため国策も順応して自力、しかも自営を実施すること
一、節米をはじめ物量計画に率先協力し前線将兵の労苦を偲んで代用品を創案すること
一、我々の部落から出征せる名誉の軍人家族に対しては全部落民が援護すること。
一、悪習を極力排除して精動昂揚に努めること、酒、焼酎はなるべく廃止のこと
一、昔からの遺風を保存し、我が文化的施設と保健衛生に特段の向上を図ること
一、我々の行事である熊祭は、本年は一層盛大に実施すること
一、観光客のため、古来からのアイヌ民族の特徴を全面的に発揚すること



アイヌ民族の戦中の暮らしの一端が見える、珍しい記事であると思う。民族の誇りを持ちつつ、日本人として果たすべきことを率先して・・という意思表示である。
それなのに記事の見出しが「焼酎飲まないこと」というのはどうかと思うが・・・。

長くなったので最後
1940年2月6日 北海タイムスより


月に五十通も出す軍事郵便お爺さん

戦地の兵隊さんへ便りを送りましょうと声をからして宣伝しても、最近は三対二で断然兵隊さんにリードされている形、これぢゃ滅私奉公を覚悟で戦う兵隊さんに申し訳ないと、一月三十から五十通の便りを送り、戦地から受取る感謝の通信が私の財産と感激している銃後の奇特な老人がある。

支那事変が始まって以来、集めた兵隊さんの戦地便りだけでざっと一万二千通、まだまだ集まりますよと悦に入っている老人は札幌市南十四条西五丁目柳谷初太郎さん(六一)で礼文に持っている漁場を他人に貸与し、自ら安閑と暮らしていたが遊んでいてはもったいないと率先、銃後奉公会に加わり、暇さえあれば町内の遺家族慰問をする傍ら、勇士への便りを書くのが一日の日課だという。

毎日どんと運び込まれる軍事郵便に集配員さえも驚いている始末。

軍事郵便を集め出したのは明治三十七、八年の日露戦役のころからでした

と語る老人は昭和の聖代には貴重な部類に属するような珍奇な当時の軍事郵便の束をひざの上に置いて

当時の便りは何れも『これもどれが私の最後の便りになるかも知れない』とか『これから夜襲に出発する』とか悲壮な便りばかりだったので若し戦死したときは仏前に供えて英霊を慰めようと思ったことがだんだん私に手紙の収集癖をつけたようです。

日露戦争は勿論、シベリア出征から満州事変と手紙も大した集まりました。今はそれを繰り返し繰り返し読むのが楽しみになりました。全部を読破するには十日間以上もかかりましょう。

とぐっと一息ついた老人は

今日も三十通ばかり出しましたが感心にどなたもお返事をくださいます。長期戦になればなるほど私の財産がふえてゆくのですからね。

とはるか厳寒と戦いつつ労苦を重ねる戦線の兵隊さんに思いをはせるのであった。一月に八十銭の切手帖二冊ずつ消費する老人の戦地便りの費用だけでも莫大で、それに便箋封筒あるいは絵葉書などの費用を足したら相当の額になるわけだ。

これで兵隊さんが喜んでくださるなら安いものですよ。私も戦争が続く間、便りは欠かさずに出します。

と銃後にたのもしい気炎をあげる柳谷老はその日その日の新聞に掲載されている兵隊さんには必ず一通の便りを送り、それが数重なり財産?となったというわけだ。


もし今の世にこんな軍事郵便のはがきの束が残っていたら、それこそ貴重な研究対象になろうものだが、未だにそういう話を一切聞いたことがないところをみると、老人の死後に棺といっしょに燃やされてしまったのかもしれない?

当時北支戦線にいた祖父によれば、中国の前線までも日本の新聞などが何日か遅れてやってきていて国内の状況はよく知っていたということだから、かの老人のことも戦線ではまた話題になったかもしれない。(というかわが祖父もはがきをもらっているかもしれないのだが・・・もう鬼籍に入ってしまったのが誠に残念)


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2010年03月04日

静内町高見

昭和35年元日
北海道新聞で「辺地通信」という特集がスタートした。辺地に住む人たちの住まいや願いを記事にするという目的である。

その第一回目に選ばれたのは静内町(現・新ひだか町静内)高見小中学校である。

静内町市街から四十キロ余り、日高山脈の主峰ペテガリ岳のふもとの集落にある学校である。

昭和22年、北海道や樺太から満州に入ったものの終戦により命からがら帰国した八紘開拓団が集団で入植した。1団地25戸で当時は道も無く河原に沿って歩いて入地したという。

 高見に辿り着いた団員は、早速笹を屋根に葺いた掘建て小屋を建てた。
 十分な農具も無い人達はノコギリやまさかりの背で畝を切り、足で土をほじってトウキビを撒き、常識では考えられないような食物を食べ、ぼろをまといながら開墾を続けていた。

昭和35年(1960年)1月1日 北海道新聞


高見というところ

中学三年 名児那恵美子
私たちの父母たちは、私たちが三−四歳のときこの高見に入ったのです。そしてろくにご飯を食べずあせをぐちゃぐちゃにかきながら、きょうまで死にものぐるいで私たちを育ててくれました。
そんなことが七年ぐらい続いてやっと高見に資材車が二、三台通るようになりました。母たちは手を叩いて喜びました。私たちもいままで見たことがなかったものがきたのでふしぎでふしぎでたまらなく、ただけろんとしてたっていました。

小学六年 大野礼子
高見はとても不便です。なにか用があってもすぐには町へ行かれません。トラックは山の仕事があるときにしか走りません。それも主に冬です。夏に買物に行っても、帰りは四十キロも歩いてやっと高見の自分の家につきます。

一番楽しい冬
小学五年 山岡令子
私の家から見えるペテガリは、朝おきて見るととてもよい気持ちがする。高見から見るペテガリは一番よいかっこうをしている。一度でいいからペテガリに登ってみたい。そしたら悲しみも苦しみも忘れてしまうだろう。

教諭 名児那養吉
子供たちの顔が一番明るくなるのは冬です。第一に畑仕事から開放される。お正月もある。冬休み帳と宿題以外の仕事は馬や鶏の世話ぐらいものです。あとは遊んでおればよいわけ。実は私たちにとっても一番楽しいときといえましょう。スキー、雪合戦、タコあげ、カルタ取り・・・その時は私たちも全く子供に帰っています。

私たちの願い

小学三年 林幸子
いまは学校の『すいどう』がこおってはれつしています。だからとうばんが毎朝、校長先生の家から水をくんでくるのです。
でも校長先生のすいどうもきのうこおったので、みつかよねこ先生の家からくんできました。すいどうがこおってもすぐなおしてくれるひとがいればべんりだとおもいます。

小学六年 林秀男
第一に、はやく電気がつけばよい。
第二に、テレビがつけばよい。
第三、たいいくかんができればいいな。
この三つののぞみは五年後、いや十年後、あとなんねんたったらかなえられるでしょう。

教諭 三塚米子
この寒さの中、毎朝オーバーなしに大人でさえずりおちそうになるつり橋を、私の半分ぐらいの一年生が渡ってくる。片足をふみはずした子もいた。物を落とし、授業に泣き顔をしていた子もいた。
ワイヤと針金でつくった一枚板の橋、みんなのために永久橋にかけかえられたら・・・といのらずにいられない。

校長 浅野久三
辺地教師の訴えは毎年繰返されていて、何と何が不足かはいうに要しません。一つだけいえば電気がほしい。ランプの時代ではないからです。私のつづった短歌を笑覧ください。

永遠につながるものありや山奥の
 六名の生徒に文法を説く

冬籠る開拓部落の児らさびし
 放課後おそくかえりたがらぬ


日高の山奥での厳しい気象条件の中での開拓。子どもたちも小さな労働力として作業に加わり、買物も往復八十キロを徒歩で行くという不便さ極まりない土地。まさに日本の中の辺地といわれる北海道のなかでも、当時一番の僻地であったであろう集落に違いない。

1960年代のはじまりとともに、この地域の暮らしぶりもよくなれば・・・と元日の特集に見入った道民も多かったと思われる。

しかし、次に記事に登場した静内町高見の姿は、困難に一丸となって取り組む開拓団の姿をなしてはいなかった

昭和35年(1960年)3月7日 北海道新聞


開拓地に創価学会旋風 部落が真っ二つに

【静内発】創価学会−全国各地で問題の多い新興宗教が、こんどは山深い開拓地に入り込んで部落の空気を二分し、この信仰をめぐって親子、兄弟、夫婦までが対立するという悲劇が起きている。

とりわけ深刻なのはこの争いが辺地の無心な子どもたちに暗いカゲを及ぼしていることで、その悩みを問題の開拓地、静内町高見小・中学校校長浅野久三氏(五三)が二月末、札幌で開かれた道単複教育研究大会で切々と訴え波紋を呼んだ。以下はその現地報告である。

問題の辺地、静内町高見は静内市街地からペテガリ岳の方向に、途中人家もなく林道沿いに四十キロ、ちょうど日高山脈の山峡にある。

この開拓部落民は昭和二十二年から二十三年にかけ満州から引き揚げてきて入植、台地を切り開いたもので戸数はわずか二十五戸。そこには電気も病院も警察もない。

夕方ともされるランプが象徴するとおり文化とはおよそ縁遠い奥地。地元の人がいうように"奥高見"という地名がぴったりするところだ。

この部落に創価学会が入ってきたのは昨年二月で、町議選挙がはじまる二ヶ月前。あっという間に開拓農家二十五戸のうち十戸が入会した。
人口百五十人のこの部落はこの信仰をめぐって信者とそうでないものとがまったく二つに割れてしまった。

各地に例のあるとおり創価学会の入会勧誘は厳しく激しかった。
『祈れば病気がなおる』『一週間以内に入会しないとバチがあたる』『身心のおかげで高校の試験もパスした』とおどしたり、すかしたりの勧誘が昼夜を問わず横行。
また妻が入会し、夫が入会しないAさん宅では、妻が『神ダナがあるとバチがあたる』といっては神ダナを焼き捨てる、夫がまた買ってくると、こんどは留守中に会員が四、五人やってきて再び焼き捨てるといういさかいまであった。

世間から隔絶されたような山奥の部落だけに、いきおい信者と、信者でないものの間に大きなミゾができた。

そして昨年九月の秋祭りにはハッキリ二つに分裂した。入植いらい十数年の間、部落民総出で秋祭りを楽しんでいたのに、このときは信者は進んで別行動をとり、信者だけのレクレーションを楽しむありさま。

やがていっそうミゾが深くなってくると子供たちまで二つに割れ、学校から帰宅後は、信者と非信者のグループに分かれて遊ぶという暗い時期がつづいた。それだけに子供の教育を思う教師の悩みは深刻だ。

このことについて浅野校長は『一番子供の教育に恐ろしいのは迷信だと思った。子供でも祈ればすべてが解決すると信じている。子供の頭が論理的でなくなり、前途が思いやられます。』と嘆いている。

また、同校長は『親が信者となったため親と子が対立したり、迷信を否定する教師に対して信者の父兄は教師不信の声をあげている始末。このために子供まで教師のことばに疑いをもつようになりはしないか』と心配している。

担任の若い先生の一人が
『たとえば社会科で宗教の話をする。そんなときにいちばん気を使う。インドの場合、宗教の違いのために、インドとパキスタンが完全に分裂、国を分けていると教えてからハッとしたことがある』
また、ある先生は
『祈れば試験をパスする、試験の点数も上がると信者がいう。こんなことが本当に子供たちに信じられては大変だ』と胸中を語っている。

そしてなにぶんにも小部落で半数に近い親たちが狂信的になれば影響も大きい。親の語る迷信を子供が信じ成長してゆくことが恐ろしい、どこにもはけ口のない辺地だけに一体、どこに解決を求めたらよいのか−など先生たちの悩みはつきない。

『こういう問題に教師は教壇から批判できないものだろうか』と疑問を投げては、辺地をアラシのように"洗脳"しつつある創価学会にどう対決すべきか思いあぐんでいる。

創価学会静内太陽班山岡、若林組長の話
信仰は自由だ。われわれは強制しない。
神ダナを焼くのもその家族の了承を得ている。
創価学会の教えが迷信だと他宗の人がいっても、それは見解の違いだ。
第一われわれは祈るだけで病気をなおすといっていない。信仰の強さで遅くなおるものが早くなおるのだ。
統計上もそうなっている。また部落の行事は村祭り以外は協力する。氏神さまへの寄付は、われわれの宗教の建前からいってできるはずがない。


この年から高見地区からは離農者がちらほら現れはじめる。

そして4年後の昭和39年(1964年)12月、ついに全戸が離農するという決断を下すに至った。

その後、開拓団が切り開いた台地は静内川に設置された高見ダムによって永遠に水没することとなったのであった。 
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2010年03月18日

金鵄勲章物語

昭和15年の北海タイムスでは金鵄(きんし)勲章物語という読みきり連載があった。この金鵄勲章というのは、神武天皇の東征の際に弓の弭にとまった黄金色のトビ(鵄)からきているもので、日本軍の軍人に授与された勲章である。

当時は日露戦争を戦った人がちょうど60前後の年齢となり、これらの人々に広く金鵄勲章を贈呈したらしい。連載は受章者ひとりひとりに戦争の話を聞くというものだ。

今も昔も戦争の話は悲惨なのだが、勝った側と負けた側の違いなのか時代の違いか、とらえかたがまあ全然違う。連載当時は戦中であり、どちらかといえば戦争昂揚のほうが連載意義としては大きかったのだろう。

日中戦争による戦死者の記事が日々の紙面の隅を埋めるなか、日露戦役で道産子兵はいかに戦ったかを彼らは語っている。それをいくつか挙げていこうと思う。

昭和15年2月11日 根室町本町・回漕店主 坂本末吉氏(六ニ)

悲壮 征露丸で訣別

日露国交断絶、宣戦布告。号外が平和な根室町を震撼してから間もなく明治37年(1904年)8月4日午後3時25分、当時雑貨商を営んでいた私(当時26歳)に待望の召集令状が来たのだ。

歩兵上等兵として二十七連隊(奥田連隊長)へ入隊と決定。
直ちに翌5日午後二時、当時汽車がなかったので根室港より尾張丸に便乗、ひとまず函館に行き、さらに室蘭に回航、ここから汽車で札幌を経由して旭川へ着。十三日に元気で入隊。

猛訓練を受けいよいよ10月26日午後輸送開始の命令あり原隊を出発、室蘭から青森を経て大阪へむかい、11月15日午後二時御用船渡左丸にて故国におさらばを告げ、11月20日午前11時ころダルニー(大連)に上陸。

翌21日約五里の強行軍をなし、25日に第一回の戦闘たる二龍山の総攻撃に参加、頑敵を一掃したがこのとき味方の二個中隊が地雷にかかりほとんど全滅したのを後方にいた我々は敵の部隊と誤認し思わず万歳を絶叫したが、後でこのことがわかり男泣きに泣いた。

かくて30日敵が難攻不落を誇る二○三高地の総攻撃に移った。
敵は天嶮により我が皇軍をさんざん苦しめた。この戦闘に連絡兵として私ほか七名の兵隊が選抜され、水盃で征露丸を呑み、渥見中隊長、高坂小隊長に別れを告げ、一番わんぱく者であった私が指揮して出発。

塹壕や鉄条網を越え、直線に進出、十二月一日午後二時さらに命令を受けて敵状を偵察、引き返そうとしたとたん敵に逆襲を受け、戦友久保上等兵をはじめ五、六名の戦友はたちまちバタバタと倒れた。

この戦闘で二百十七名のうち生き残ったのはわずか十三名で、私は右足を爆裂弾でやられ、同じく右足右手を撃たれた渡辺上等兵とともに鉄条網を潜り、塹壕の中を伝わって約半里を後退、吉田一等兵(根室出身)に背負われて九師団の野戦病院に入ったが、この後退のとき息も絶え絶えの負傷兵に『連れて行ってくれ』とよがられ、心を鬼にし『俺も重傷だ、しかも重き使命をもつ身なれば』と別れを告げなければならなかったのは激戦地ならでは見られぬ悲壮な場面で、今では思い出の種である。

かくて白衣の勇士となり、12月16日宇品に送還されさらに戸山分院に移され翌4月2日まで加療。6月1日ようやく根室へ凱旋した


北海道の兵隊は当時召集となるとまず旭川へと集められた。交通の未発達の時代、根室から旭川へ行くのも一苦労であることもよくわかる。


昭和15年2月13日 札幌市会議員・猪狩孫三郎氏


撃ちまくる砲兵冥利

明治三十七年六月、第一軍独立野戦砲兵隊武器係を命ぜられ、編成当初の苦難を克服して馬匹の調教、武器弾薬の整備を容易にし高麗惣村、沙河の会戦には隊の携行弾薬欠乏の際、危険を冒して敵地深く侵入して敵の遺棄弾薬を探査発見してこれを供給し、隊の攻撃を優勢ならしめた。

―当時の悪路は相当なもので砲兵隊の行軍は想像以上の困難だった。今の様にトラックなど無いときで、どんな重いものも兵馬の力を借りるのみだけにその苦難は筆舌にし難い。

独立野戦砲兵隊というのはほとんど敵から奪った武器と弾薬で戦争をした、当時の日本の野砲は七千メートルの弾着で、敵の一万二千メートル野砲に比べ五千メートルの差があり、まず鴨緑江で六門を分捕り、これで早速隊を編成したが日本の馬ではとても牽けないので向こうのを使い、弾ももちろん敵の弾を使ったんだから愉快だった。

戦闘のたびごとに戦利品が増えて攻撃力が倍化されるのだから実に面白かった。

弾がなくなると弾探しには相当苦労したものだ。沙河の付近でこちらの騎兵斥候により敵が多量の弾薬を遺棄したことを知り、探しに出かけたがなかなか見つからず断念しようとした折、自分の乗馬がポコリと大地にはまりこんだので不思議に思い、そのへんを掘ってみると十間四方深さ八尺の穴の中に約13万発ほど隠してあったのを発見した。
その時はみな、躍り上がって喜んだ。

奉天大会戦では大連保子付近峡谷に退却する敵の約二個師団に対し、近々三、四百メートルの接近戦で、上から逆落としに砲撃したときは実に痛快だった。

このときは遂にゼロメートル砲撃までやったが、敵がバタバタと将棋倒しに死んでいくのを見つつ撃つ時の気持ちは、文字通り砲兵冥利がつきる喜びだった。


昭和15年2月16日 岩見沢町四条五丁目第八区長・近江一太郎氏(七二)


頑敵蹴散らす奮迅"血の伝令"

明治三十七年戦争勃発と同時に第七師団歩兵二十五連隊乗馬歩兵隊の一員として伝騎を命ぜられ戦線をちくしていた。

元来乗馬歩兵隊というものは伝令を任務とするもので、当時騎兵の編成が今日のように重要視されていなかったため一個連隊に二十三名ずつの乗馬隊を配置し、騎兵の任務に乗馬伝令を行わせていた。

田村旅団に属したこともあったが主として二十五連隊の伝騎で終始した。

忘れもしない明治三十八年(1905年)7月1日、獅子俗付近の戦闘で真っ先に進んでいた第一中隊は敵の包囲下に悪戦苦闘の最中、伝騎として飛び込み、下馬してこれに応戦開始したが、この闘いで右腕を敵弾に貫通された。

更に立たんとした刹那、またも飛び来た一弾に剣を折られたので、傍らにあった銃を携えようとして側面をみると、小松中隊長が壮絶な戦死を遂げていることに気付き、はるか後方にあって指揮を執っていた副官江花少尉にこれを報告、再び弾丸雨飛下を引き返して応戦を続け、どうやら撃退したが、敵の銃座に面したために一中隊はほとんど全滅し、自分ひとりが生き残ったことがわかった。

とにかくいざ戦闘となったら『あわてず、あせらず、肝っ玉をすえて敵陣をにらみつけるのだね』

それには常日頃より武道精神の鍛錬を積むことに精進しなければならぬと思う。
今日でも手ごろの棒切れを持てば、ひと突いてみたくなりますよ。

老いたりといえども、軍人ですからね。


昭和15年2月17日 士幌村・小椋国蔵氏


夢か・初日に敵白旗

第七師団砲兵第七連隊の山砲一ヶ中隊が陣地を構える旅順ナマコ山の頂上は、露軍が難攻不落を誇る二〇三高地の頂まで直線にして四百メートルあるかなしの距離であった。

ナマコ山は二〇三高地の総攻撃を援護する我が砲兵陣地としてまさに地の利を占めていたが、一方敵の松樹山、老てつ山各砲台からは丸見えという悪い位置だった。

日本軍の山砲隊がナマコ山にあることを知って敵の砲隊は砲火をことごとくナマコ山に集中した。

三十三インチという石臼のような砲弾がドカンと近くに落下して炸裂すると、味方の兵も大砲も空高く吹き飛ばされてしまう。中隊の半分以上はやられてしまった。歩兵をいわず、砲兵といわず味方は激しい苦戦であったが、どんなことがあっても旅順を落とさなくてはと歯をくいしばって闘いを続けた。

かくて旅順は皇軍五万の血と骨を代償にして我が手に帰したのである。

『忘れもしない明治三十八年の元旦。夜が明けても敵味方の陣地からさっぱり銃砲声が起こらないので不思議に思って頂上からあたりを見回すと、あれほど我々を悩ました老鉄山や松樹山の敵砲台に全部白旗が掲げられているではありませんか。

旅順が落ちたのだぞと戦友が手を取り合って、思わず万歳を叫びました。その時のうれしさは今も忘れることができません。』



最後に浦河町浜町のペンキ屋さん。須崎米吉さん


十三名の生存者

明治三十六年十二月一日に入営しました。その当時、日露戦争のうわさがあって気が立っていたので覚悟して入営したが案の定、現役中に開戦をみることとなり、わしらは現役ながら補充大隊に編入され、明治三十七年九月三十日宇品を出帆したのです。

三十八年の一月二十八日に北?子攻撃に参加し、翌二十九日は黒溝台付近の戦闘でしたが、わしの思い出深い戦闘は三十七年十月六日からの沙河の戦いと、この三十八年一月二十八日から二十九日までの黒溝台付近の戦闘のほか、同年三月四日からはじまった奉天大会戦へと連なる大激戦でした。

その中でもひどかったのは奉天大会戦の一コマで、三月六日に二道勾北方高地を奪取すべく前日来の悪戦苦闘を続けた体で決死隊に加わった。

決死隊は一個小隊七十二名で駒形特務曹長が小隊長でした。

わしらのいるところは敵の陣地より低い山で、敵からは丸見え。いよいよ出発というころにはことに激しい敵弾が注がれたので、駒形小隊長は間もなく戦死を遂げる始末でした。

でやっと二道勾北方高地へ取り付いたころには大方戦死したり負傷したりして、最後に敵陣に入ったものはたった十三名よりありませんでした。

わしらはその十三名のうちの一人なんですが、どうしたものか傷一つ受けず無事でした。

そのころの露兵は日本兵の突撃を恐れて日本兵が到達するころまでには殆ど一人残らず退却していた。

しかしまもなく猛烈に弾をよこすようになり、非常に危険になったので丁度後続した本体の佐久間中隊長が皆を窪地に集め『無事なものは幾人おるか』と数えられてはじめて一三名だとわかり『よくやった、よかった!』と持ってこられた酒を十三名に水筒から僅か椀のませてくださった時には全く涙といっしょでした。

その後小戦闘や敵状偵察も加わり、九月十六日休職となり、十月十六日平和回復を見、十二月十六日大連を出帆し、その二十日に宇品港に帰還したのですが、思えばまるで夢のようです。



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2010年05月08日

幻の日本一

予想より早く北海道のサクラは咲きだした。
本当は、今日8日が函館で、明日9日に札幌と江差という予定だったが、もう函館や札幌はもちろん帯広までで開花した。もう少し寒気が落ち込むタイミングが早ければ〜と気象屋的には思うが、先の予想で今週末に早々とまつりやイベントを設定したようなところとしては、予想より早く咲き出したのはよかったのであろう。

さて、前回から長い時間が空いたのだが、今回は幻の日本一を主に樺太方面からみていこうと思う。

昭和15年(1940年)4月6日 北海タイムス


豊原が日本一

面積から見た日本一の大都市はどこか?さらに近年全国の各都市が何れも都市計画その他の関係上附近町村を合併する傾向にあるが、過般高島町を合併した小樽市をはじめ函館、室蘭、釧路等の本道各都市が附近町村を合併した場合、一体その広さに於いて日本で何番目くらいの都市ができあがるか?

道庁統計課長、内館泰三氏が興味ある「膨れる都市」について面積比べを発表した。

まず面積から見て日本一の大都市はどこかといえば誰しも大東京と想像するところだが、外地を含めてみた場合大東京の550.85平方`に対して本邦最北端の新興都市は豊原市は674.07平方`とあり、意外にも日本一があまりにも間近にあることに驚く。

現在の所、各都市の広さを比較すれば

1位 674.07km2 豊原
2位 550.85  東京
3位 288.65  京都
4位 226.01  函館
の順で、五番大阪、六番名古屋、七番静岡、八番横浜、九番豊橋、十番福岡となっている。

しかし四月一日から高島町を併せ、さらに引き続き朝里村合併の機運を作っている小樽がこの大小樽市を実践した場合にはその総面積180.88km2となって五番に食い込むわけだが、もし室蘭が幌別全村を合併すれば289.59km2となって京都市を蹴飛ばし一躍三位に、また函館市が進んで隣接亀田、銭亀沢両村と併合すれば344.59km2となってさらに室蘭の上位を占め、釧路が鳥取・釧路両村と合併すれば362.36km2となってその上位に食い込むこととなる。

このほか面白いのは本道の首都札幌市の隣接町村合併問題で、札幌、藻岩、豊平、白石、琴似の五個町村を全部合併することとなれば実に1016.97km2という大都市を実現、一躍本邦第一の都市が出来上がるわけである。



取らぬ狸の皮算用みたいな話が繰り広げられているが、戦中日本のこの時代、日本一広い都市は樺太にあったわけである。

当然、終戦によって樺太での施政権は消滅したカタチとなり、豊原の日本一は今や幻である。

同様に樺太が持つ幻の日本一は気象界にも存在する。
日本の最低気温記録である。

これは島崎昭典編「樺太気象台沿革史」に収められている「樺太庁観測所落合支所時代の思い出」に記載されている。書いたのは元観測所職員の岩崎三夫さんである。その部分を引用すると・・・



敗戦になって樺太がソ連に帰属するまでは、日本の最低気温は落合で観測された−45.5度であったと覚えている。

当番の閑にこれがどんなふうに記録されているかを調べるため観測室の二階にある倉庫の中で当時の観測野帳を探し出した。

確かに最低気温の欄に54.5の数字があった。その前後の数字も同じように低かったので間違いないと思った。今でもそうかもしれないが、気温がマイナスの場合は100の余数で表すことになっていた。例えば−2.3度の場合は97.7ということである。



幻の日本最低気温記録−45.6度。落合(南樺太)で1908年(明治41年)1月19日に観測されたものである。

氏の記録している観測野帳の数字は、当日午前6時の気温である。中央気象台月報には、最低気温−45.6度と記載されている。天気は快晴、湿度計測できず、風向なしで風速0.1メートルとほぼ静穏の状態であった。
ちなみに翌日の最低気温も−42.3度、翌々日も−43度と3日連続−40度を下回る激寒ぶりであった。

旭川も朱鞠内もこの数字には敵わない。つまり、日本最低気温記録保持者としての旭川は戦後の繰上げによるものなのである。

あの大戦が避けられいたなら・・・

今の時代、日本はどのような姿だったのだろうか。

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2012年05月23日

日食を新聞はどう伝えたか・・・今昔

樺太シリーズを一回お休みして今回記述しようというのは「日食」について。

ずっと前に(2009年7月)にこのブログでも1963年7月21日に道東方面で観測された「日の出直後の皆既日食」の記事について紹介した。
http://blogs.dion.ne.jp/0engosaku0/archives/8575504.html
皆既日食という稀な日食ではあったが、読むだけでまるで風景が、状況がありありと想像させられるような「読み物」となっている。

いろいろな時代の新聞を読んできたが、この時代までは新聞記事は「読者に想像させる」読み物という要素があったと思う。またそれも記者の国語力とか文字を使った表現力が非常に豊かだったからであろう。

先日の金環日食における新聞報道の中でみる日食の記事たるや、まあ淡々としていて、事実を紹介するのみ。

2012年(平成24年)5月21日 北海道新聞夕刊


道民も太陽ショーに歓声 8割欠ける部分日食 道東は悪天候

「太陽が欠けた」「三日月みたい」―。太陽の最大8割以上が欠ける部分日食となった道内では21日朝、各地で通学・通勤前の親子連れらが専用の観測グラスを手に、壮大な天体ショーを楽しんだ。
同規模の部分日食が道内で観測されたのは、1981年7月以来31年ぶり。一方、道東や胆振・日高地方などは雲や霧に覆われ、観測できず残念がる声が広がった。

札幌市内は朝から青空が広がる観測日和で、市天文台(中央区)の前庭で開かれた観望会には約600人が参加した。午前6時半ごろから太陽が欠け始め、最も欠ける同7時49分48秒を前に職員がカウントダウン。参加者は一斉に観測グラスを太陽に向け「おおー」などと感嘆の声を上げた。

 一方、道東地方などはあいにくの悪天候。釧路市は濃い霧が立ちこめ、市こども遊学館での観測会は前庭から館内に会場を変更。大型テレビでインターネット中継の日食の映像を見た。


どうですか?この記事は。

正直、新聞というメディアはこれでいいのかなあ?と思ってしまった。
「見やすさ」を理由に文字をどんどん大きくしているが、結局紙面に収容できる文字数が減り、記事の中に「あそび」がない。

太陽が「どこから」かけ始め、「最も欠けた」太陽はどのように見えたのか・・・

写真はもちろん掲載されているが、それは1963年だって、これから紹介する1943年だって同じである。
百聞は一見にしかずとはいうが、一見に近い「百聞」の能力を発揮できなければ、新聞というメディアの存在意義はあるのだろうかと思ってしまう。


戦時下、検閲のある時代でもこれだけ記者は書ける。

1943年(昭和18年)2月5日 北海道新聞 弟97号


見ん事射たり"世紀の日食"

決戦下・凱歌高し科学陣
観測戦でも米・英圧倒 燦然と輝く"勝利のコロナ"

日食観測の決戦は理想的条件に恵まれ、感激の凱歌を奏した。
五日朝南北百八十キロにわたる暗黒の帯が本道中部を西東に走り、戦雲の北太平洋を越えて敵領アラスカに上陸する"黒い太陽"は遂に出現したのである。

南に北に敵米英との死闘が連日相つづく決戦下、勝たねばならぬこの、日米日食科学戦に必勝を期す現地十一班のわが観測陣は眠られぬ夜を明かし、天文協賛の街の観測隊も夜明けとともに配置についた。

根室、女満別の悪条件を除き、釧路、厚岸、帯広、雄別の中心地帯は勿論、南限線通過の札幌も絶好の条件に恵まれ天佑を神に謝した。

この凍る二月の朝、酷しい寒波の中に、全道民あげて待つ約二分の黒い太陽。

北洋に戦うわが勇士も仰ぎ見るであらう世紀の太陽は午前六時四十分ころから大輪の花が僅かにむしばまれつつ凛々たる輝きを地上に放った。

十度余の高度から刻々日はかげり、日の出三十分後の下界は黄昏こめ、みるみる地上は暗く覆われた。

その瞬間出た、出た、神秘のコロナは真珠色の光を左右に放ち、大東亜戦の勝利を約束する如く白銀の線は照り映える。

この一刻を待ちに待った各観測陣営の望遠鏡は歓声とともにシャッターを切り、街の観測者は肉眼ですら紅焔やダイヤモンドリングの神秘を見たのだ。

大成功だ、かくして月余にわたる苦心の観測隊は科学戦にも米英を圧倒、喜びの凱歌を雪原にあげ、神秘の謎を解く貴重な資料を得て大成功を祝し合ったのである。



この日の紙面はトップ一面がまるまる「皆既日食」報道で、上に掲げた文書は、トップの見出しとそれに続く概要の一文である。
戦時下であるため勇ましい調子の文書だが、それにしても比喩表現はあるし装飾語句もふんだんにあり、70年近く経った現代にその時の模様を想像させるに十分な読み物である。

今年の道新の記事からは、そうはいくまい。
おそらく18年後、いやそれまでに数回ある部分日食の時に、今回の日食はどう北海道でみられたか?ということを後年の人が調べようと思っても、追体験はまあ不可能といったところである。

ちなみに、前述の昭和18年の記事では、このあとに釧路、網走、雄別(炭鉱)、帯広、厚岸、根室、そして旭川と各都市での日食観察の様子が詳細に記述されている。二面は札幌の観測状況が詳しく乗っている。

部分日食と皆既日食はまた違うという向きもあろうが、前回同様の規模の日食が観測された1981年(昭和56年)でももう少しマシである。

1981年(昭和56年)7月31日 北海道新聞夕刊


日食ショー 道内沸く

ぎらぎら輝く真昼の太陽が三日月のように細り"真夏の宇宙ショー"部分日食が三十一日昼前から約三時間にわたって、本道はじめ全国各地で観測された。

国内では最も大きく欠ける稚内地方だけ曇りで薄雲を通してのつかの間の観測となったが、他の道内各地は快晴が多く、絶好の日食日和となった。

本道での部分日食は三年ぶり、道南を除き八十%以上も欠ける規模では今世紀最後で、夏休み中の子供たちはじめ、天文ファンは三〇度を越す暑さの中で、望遠鏡やススガラス、黒フィルムで空を見上げて「欠けた、欠けた」と歓声を上げ、"黒い太陽"を満喫した。

猛暑も一服のロマン

日食は地球と太陽の間に月が入って太陽を隠す現象で、今回はカスピ海−シベリア−サハリン北部−北太平洋を走る地帯で皆既日食となった。このため、日本列島では北になるほど欠け方が大きくなり、本道はうってつけの観測地。

午前十一時四十三分、小樽地方から太陽の右側がゆっくり欠け始めた。

しだいにやせ細った太陽は欠け始めから一時間二十四分前後経った午後一時八分過ぎには、札幌付近で八〇・七%、旭川で八三・五%、網走が八五・八%も黒くなる"最大食"となり、太陽は三日月ほどに細まり空もちょっぴりほの暗くなった。

各地の天文台や、小、中、高校などではアマチュア観測家たちが望遠鏡を据えたり、すすガラスや感光ネガなどを使って日食ショーに見入った。

この日の道内各地のほとんどが快晴または晴れで、気温も前日に続き三〇度を超す真夏日となった地域も多く、観測には申し分ない日和となった。
最大食前後には気温が二、三度下がった感じでちょっぴり涼しさが味わえ、昼食時のサラリーマン、観光客も黒白フィルムなどを使って、空をあおいで「欠けてる!」

全国で最も大きく欠ける稚内は朝から曇り時折雨がぱらつくあいにくの天気になったが、午後零時五十分ごろ、薄曇の間から白っぽい三日月形の太陽がポッカリ姿を現した。

最北端の宗谷岬には道内や全国各地から、百人以上の天文ファンが集まり、望遠鏡をつらねていらいらしながら晴れ間を待ったが「見えた」と大騒ぎし、一斉にシャッターを切っていた。

部分日食は約三時間後の午後二時半前に終わり、太陽は再びギラつきを取り戻した。
本道で次に部分日食が見られるのは(昭和)六十年五月になる。



現代においても、このくらいのレポートは紙面の中に欲しいところ。
事実中心だが、比喩もあり、使う言葉も巧みで、やはり景色の見える記事である。
しかもちゃんと次回の日食のことも書いてある。見逃した人には次はいつか気になるに違いない。
欲しい情報はちゃんと新聞の中に書いてある。ニーズもちゃんと捉えてる。

やはり新聞記者は紙媒体のメディアという特徴をよく理解して記事を作成すべき。
今回の金環日食の報道では、そう思ったのでありました。

ざざっと今年の金環日食のニュースを眺めてみたが・・・

タイトルでいうと今回の記事で面白かったのは以下のようなものです。
・金環日食各地で観測 雲間にのぞいた天空のリング(産経)
・金のリング、キラリ 県内で173年ぶり金環日食(信濃毎日)
・リングに思い出いっぱい 県内でも金環日食ショー 横浜の中学「感動した」と歓声(東京新聞神奈川版)
・欠ける太陽 満ちる感動(読売新聞島根版)
・欠ける太陽 駆ける歓声(読売新聞広島版)
・見えた黄金の輪/県内でも282年ぶり金環日食(四国新聞香川版)
・カチューシャくっきり 福知山でも観測(両丹日日新聞)


「カチューシャ日食」というのが非常に面白く印象に残った。
頑張れ新聞!
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2012年06月15日

明治末年北海道記4:1912年4月17日北海道に「春来たる」実感

予報どおりすがすがしい青空。梅雨の無い北海道らしい、からりと晴れた今日の札幌。

札幌ではあちらこちらに北海道神宮のお祭りのノボリが風に揺れ、時折町内を回る山車の太鼓の音や笛の音も風に乗って聞こえてくる。今日は札幌まつりの真ん中であるが、先週のYOSAKOIソーラン祭りが大通公園という狭い一角だけの現象なのに対し、札幌まつりは平面的に広がりがある。街のあちらこちらに祭りの色が見えるのがいい。

札幌はすっかりいい季節になったが、初夏のさわやかさの心地よさは、のどかな春の到来の嬉しさと比べるとどちらが上だろう。
春の暖気も心地よいは心地よいが、寒さに震えなくて済むという安心のウラに融雪による洪水や土砂崩れなどの危険性もはらみ、心の底から油断できないきらいがある。

安心感でいえば、今のさわやかな気候が一番かもしれない。

1912年(明治45年)4月17日 北海タイムス


長い冬が去って長閑(のどか)な春が来た

ロシアの冬は百八十日、北海道も丁度そうだ。

今年は春の来ようか少し遅いが、夫れ(それ)でもモウ市中には積雪が無くなった。
新しい生命が復って来たやうに今迄固まっていた溝や小川が一時的に流れ出す。
そして冬から春に移る境の泥海も大方干上がった。

例年一番早く道路の乾くのが北の方の西五丁目で、夫れから十日も経って町外れの雪が消える。

先達の強い西風で吹き溜まりが出来て、大通の北陰には未だ雪が沢山残っている。
併し(しかし)百八十日の蟄居(ちつきょ)が解かれて、去年の懐かしい土を看ると、年寄も子供も浮かれ出してポコポコ外へ出たくなる。

丁度此の間の日曜が今年の春の第一日とでもいはうか。
空も晴れて南風も暖かいのでオープン、エイア(オープンエリア?)には人出が多かった。

博物館の枯芝生には深藍(ふかあい)の蝙蝠傘(こうもりがさ)や金ボタンの学生服が大勢腰をおろしている。
館に入ると、古馴染みの羆(ヒグマ)がオイデオイデで歓迎する。
温室のほうの池には蛙が穴を出て、春の歌を稽古しているが汀の芦は角ぐみそうにもない

室では大きなアマリリスや白百合が咲き、金蓮花が延々壁に纏ふて正に満開、虞美人草も咲けばカーネーションも匂ふ別天地だ

大通へ出るとここの広場はすっかり皆、学生生徒に占領されて居る鳩のやうに芝生の上を歩む袴の子もあれば、木の根にしがみついて陣取りに熱中する頑太郎もある。

市中を往来の人も自然生々している。

南外れの中島公園の方は未だ雪があって池の氷も半分は解けない。
岸のハンノキの枝がくすんだ色の穂を垂れて先ず雪国の信を告げているが、藻岩の方から来る風が中々冷たい。

それでも気早な連中は木陰のベンチに寄って背を伸ばしたり、又、厚い北国の装束をして消え残った雪の間に重い歩を運んで居る。

斯ういふ風にして雪国の人は長い憂鬱な冬から醒め出すのだ。



明治最後の春を迎えた札幌の様子が、頭の中に景色として広がってくるような記事である。

明治の北海道の冬は今とは比べ物にならないような厳冬続き。ロシア人の感覚に共感できるというのも普通であったろう。
当時は植物園の温室が一歩早い春をみせていたが、今は百合が原とか、温室を備えた施設も増えてきて、あちらこちらで春を先取りしてみることができるようになった。

そんな「長閑な春」は「危険な春」でもある。同日の紙面には危険な春の見出しが躍る


各川出水

▼石狩川増水氾濫
十五日来石狩川融雪氾濫し、樺戸郡月形村の浸水家屋二百戸に及ぶ。損害不明。なお増水せんとす。

▼刻々浸水の危険に瀕む北見方面
美幌川は昨日より増水甚だしく、昨夜野付牛市街六十戸に浸水し、今尚ほ益々増水しつつありて危険の家屋もありとの電報あり。

警察署は伊藤部長を急行せしめたるが、更に某所に達したる電報に依れば、八十余戸の浸水に及び、今一尺余も増水を見るに於ては避難せざるべからずとのことなり。

又、常呂村常呂川も増水甚だしく渡船不通となり浸水家屋もあり、今なお盛んに増水しつつありとの電報あり。

▼富良野川出水堤防決壊線路浸水
十五日正午、旭川駅発貨物列車が中富良野と下富良野との間に差し掛かるや、融雪のため富良野川出水、堤防決壊し同日午後二時十八分下富良野駅着の列車より不通となり、線路約四哩(マイル)半は深さ平均七寸くらい浸水し、脱線のおそれありとて復旧工事に着手中なるが、旭川運輸事務局より岩淵技師出張して工事監督中なり、しかして富良野川減水を見るまでは開通おぼつかなし。


土崩坑口を塞ぎ僅かに遁出五十名

新夕張炭山鉱区番外鉱は昨十五日融雪のため土砂崩落して坑口を閉塞したれば
坑中に従事中なる鉱夫五十余名は出る能はず、漸くにして風井を廻りて遁れ(のがれ)出しが、幸ひに負傷等なきを得たり。
昨日より引き続き土砂排除に従事し居るも未だ坑口復旧せず。




川があふれ、土砂が崩れる・・・。

夕張の炭鉱ではこのときは間一髪で人的被害を免れたが、これは思えば、悲劇の序章だったのかもしれない。この話についてはまた改めて・・・

posted by 0engosaku0 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする