2008年07月26日

#50年前# 1958年7月29日 石森延男さんのお話

北海道新聞 昭和33年7月29日付朝刊 「火曜会見」より


−生まれ故郷の札幌へは?
″ええ、お墓がありますからちょいちょい。でもこんどはゆっくりした気持ちでやってきました。道内のあちこちを歩きましたが、いけませんねぇ"

−どんなところが、
"エリモ岬、網走の原生花園なんかねぇ、本当におどろくほど立派なんです。もうあんなところ本州にはありません。自然のもつすばらしさを、十分すぎるほどもっていて…。ところが、ずいぶんよごされたり、荒らされたりしているんです"

−観光客でしょう
"北海道の人じゃないと思うんです。本州からやってくる人でしょうけどね、ああいう調子じゃ、あと数年で北海道の自然はダメですね"

<中略>

−このごろの札幌、どう思います?
"むかしはね、新しい感覚がみちみちていたんですよ。それがいまは…"

−いけませんか、いまは
"まず停車場ですね。よくもあんなもの建てたものですね。駅というのは人を迎える玄関なんですよ。むかしはよかった。屋根がとんがって、なんというか…"

−味のある建物ということですか?
"そう、そうでした。市民会館だって、外側のまずいことね。中がいいとかいってましたが、普通のホールですわ。音響効果がどうのこうのといったって、そんなこと考えるのはあたりまえですよ、ね。それに街は、いかにもせせこましくなって"

−残念でしょうね
"ええ、もう東京は、いけませんからね。都市美ということでは期待しているんですよ。札幌に"

−北海道の子供たちに何か
"だんだん都会化されていくことに甘えないでね、たくましく素朴に伸びてほしいな。祖先は開拓者だったんですから。寒さ、空腹、粗食に耐えて、しかも力強いのが道産子の特徴なんだ。"

"みずみずしさがみちていて、紳士の住む街だったんです"


石森延男さんは児童文学者で、最後の国定教科書の編纂に携わった方。1897年(明治30年)生まれなので、札幌の創成期を見ながら育った世代である。

このインタビューがちょうど50年前。さていまの札幌はどうか…。50年前に建った市民会館はちょうど取り壊しているところである。

跡地に何ができるとしても、今の大通周辺の光景にしろ、石森さんが見ると一言だけではすまないだろうな〜と思う。

「みずみずしさが満ちていて…」

こんな札幌に住んでみたかった。(あきらめるには早いか?)
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2008年08月14日

#50年前 本郷新の随想「花壇ととうきび」

北海道新聞 昭和33年8月12日付け朝刊 随想より


 札幌も夏になって、とうきび売りがならびはじめると、そのなつかしい香りと共に秋が静かにしのびよる。
 去年10何年ぶりかで札幌の夏を楽しんだが、大通公園沿いにとうきび売りがならんでいたのには驚いた。
 むかしは、薄野や狸小路の街角のほか、人通りの少ない街角にも、ぽつっと一つ行灯をたてて売っていて、夜道を一人で歩いていたりすると、ふとその香りにさそわれたものだった。
 静まりかえった夜の街で、とうきびを食べながら歩くのは、夏を送り、秋を迎える札幌でしか感じられない何かがあったのだが、このごろのように軒並みになってくると、むかしのような情緒はなくなった。
 その代わり、このゆでたての熱いのを東京までもちかえって、その暖かいので家人を驚かしてやろうかといういたずらもできるようになった。

 とうきびばかりではなく、二十年近くも故郷をごぶさたしていると、すべての移り変わりがよく判って、どこを歩いても感慨が湧く。
 新しい建物で札幌の今日を印象するのは旅人の目だが、私のようにここに生れ、ここに育った者の目には、むかしあったところに同じ樹が立ち、同じ草がのびていたりすると、ああこれが札幌だという思いが深くささってくる。
 だから円山公園や中島公園では、どんな新しい施設や建物が出来ても、到るところに札幌があってなつかしい。

 そういう中で、なんといっても楽しいのは大通公園だ。芝生の手いれもよく、花壇の造り方もうまくなって、いまでは、ここが札幌の歴史を明日につなぐ、もっとも代表的なところとなった。
 テレビ塔が出来てから、東の風景は一変したが、古い郵便局が引込んでくれると見通しが美しくなる。
 六丁目あたりから新しい造園をはじめているようだが、これが一つ一つ計画的に造園されて、西十何丁目までつづき、南側と北側が東西に真直ぐに舗装されたら、この公園の特長が一層生きてくる。

 先日七、八丁目のあたりの、むかし緑の森といったところを歩いてみた。
 ここに立つ樹木をうまく生かしながら造園できたら、大通を最初に計画した尊敬すべき芸術家の知られざる魂がよみがえってくるだろう。そんなところがいくつかなければ都市というものは貧しくなるものだ。

 この大通の東から西へ、一つ一つつつましげな個性を生かしながら造園計画をたてたなら、この大通は世界でもめずらしく美しいところとなるに違いない。
 花園を噴水でしめる一町角、美しい彫像を置く一町角、池を持つ一町角といったように変化をつけ、パリのルクセンブルグ公園のように折りたたみ式の鉄のきれいなイスを一時間単位で貸し、人々がぼんやりできる休み場所を考えてくれたら、すばらしい公園が出来るだろう。
 早く世界に誇る大通にしたいものである。



わたしは稚内の出身だが、稚内市街をみおろす稚内公園に「氷雪の門」という、非常に目に訴える碑がある。これは樺太で無くなった全ての日本人を慰霊する碑であるが、これを作ったのが本郷新という札幌出身の彫刻家だったというのは最近知った。


明治の初めはゴミ捨て場や雪捨て場となっていた大通も、花壇などが徐々に整備され、今や四季を通じていろいろな催しが開催される、札幌市民の憩いの場である。

とうきびワゴンは春から現れるようになったため、石川啄木のころから本郷新が上記随想を書いた頃の季節感というものは、現在すっかり失われた。

でも、とうきびワゴンで売るとうきびが、冷凍モノから生コーンに変わるのはやはり7月末以降だから、旬の味という意味の季節感は今もなお受け継がれていると思う。


ルクセンブルグ公園について(ウィキペディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jardin_du_Luxembourg


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2008年08月17日

#50年前# 坂東英二・甲子園で激闘

昭和33年8月17日付 北海道新聞朝刊


 大詰めが近づいた全国高校野球大会は16日第八日を迎え、甲子園球場で勝ち残った八校によって準々決勝四試合を行った。

徳島商(徳島)
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魚津(富山)

 坂東、村椿は力投3時間39分、延長18回を投げあったが、ついに勝負がつかず大会規定により初の引き分け再試合となった。
 徳島の坂東は低めの球にこそ伸びがなかったが、直球のスピードにさえ、三振25を奪う快投をみせた。
 一方、魚津村椿も坂東に劣らぬ直球とカーブで投げあった。
 徳島が一回四球の富田二盗のあと、坂東の左前打で一挙ホームをうかがい左−投−捕のうまい中継で刺され、七回広野の安打と二つの四球で迎えた二死満塁のチャンスも、大坂が村椿のコーナーを攻める速球に三振、九回の一死二塁も併殺で先取点の芽をつみとられた。
 魚津も二回坂東の低めの球をうまく運び、敵失も手伝って二死満塁としたが下位打者が打てず先行を逸した。
 延長に入り、引き分け寸前の18回になって徳島は一死後内野安打の大野が暴投で二進、大宮四球のときに三盗に成功したが、大坂のバント失敗、さらに大野、大宮の重盗不成功で無為に終わった。
 魚津も一死後河田が中越えに長打しながら三塁を欲張り、中−遊−三の好リレーに刺されて、さしもの熱闘も勝負がつかなかった。



 坂東英二は今や「世界ふしぎ発見」をはじめとしたバラエティー番組に出てくるタレントとして知られているが、50年前は松坂クラスのものすごい豪腕投手であった。
 かの「延長18回引き分け再試合」制度も彼によってできたと伝えられるほどである。

 この激闘については、小さい頃に近くの児童図書館にあった甲子園物語みたいな本で読んだことがあるが、非常に壮絶な投げ合いだったらしく、しばらく本にあるアスリートの坂東とタレントの坂東が同一人物だとはとても信じられなかったものだ。

 あれから50年が過ぎ、90回目を迎えた甲子園では今日、準決勝。今年は派手に打つチームが多いようだがどうなるか?
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2008年08月28日

#50年前# 浦河・井寒台小学校の「玉ちゃん」

1958(昭和33)年8月27日付 北海道新聞より


25日は"玉ちゃん"の入学式−といってもこれは学校に贈られた"首振りコケシ"の仲間入り披露

修学旅行で訪れた札幌の親切な時計屋さんから"いつもみんなニコニコでいるように"と漁村の一辺地校、浦河町の井寒台(いかんたい)小学校に贈られたものである。

井寒台小学校は浦河町の市街地はずれにある在籍児童約二百人の小さな学校。学徒貯金では昨年大蔵大臣表彰をうけたほどの優秀校だが、漁村だけに児童たちの言葉や気性が荒く、校長はなんとかこの荒っぽさをやわらげる方法はないものかと考えていた。

たまたまこの六日から、二泊三日の日程で四年生以上の児童五十四人を連れ、博覧会見学もかねて札幌方面に修学旅行したときのことだった。

市内を歩いて、北一条西三駅前通の時計貴金属店"玉屋"の店頭にある大きなニコニコ顔の首振りコケシが目についた。

売ってもらえるならと、店員に値段をたずねると"二万円で売ります"との返事。事情を話してそれではとても手が出ないと帰りかけたところ『主人が留守だから、なんとかできれば…』とのことで、名前を告げて帰ってきた。

その後手紙で"二割引でおゆずりしてもよい"との知らせが同校にきた。しかしそれでも手が出ない。気持ちだけお受けすると断り状を出した。

ところが十八日になってこんどは店主から"留守をしていたので知りませんでした。先生の気持ちはよくわかります。お役に立つのならぜひ寄贈させてください"と手紙があり、続いて二十三日夕方、胸に書いてあった宣伝文を消し、取り扱い注意の札をつけてていねいに贈り届けられてきた。

届いた首振りコケシは台からの高さが八六センチ、全部木製で首にバネが入っており、たたくとヒョコヒョコ首を振る愛嬌もの。

校長もこの贈り物にすっかり感激、名前も屋号から取って"玉ちゃん"とつけ、二十五日朝、児童たちを校庭に並ばせて玉ちゃんたちを迎え、仲間入りの入学式となったわけ。

式後、児童玄関前の廊下に置かれたが、愛敬のある玉
ちゃんは全児童の人気者となり、先生方も児童たちの情操教育に大いに役立つでしょうと目を細めている。

▼校長の話
 かねがねほしいと思っていたものだけに本当にうれしい。子供たちも大喜びです。すれ違いながらちょっと頭をたたいては、玉ちゃんのようにニコニコ顔になる。玉ちゃんがきてから学校が一度に明るくなったような感じです。



この日は台風が紀伊半島に接近し、北海道も雨のところが多かった。浦河も日雨量51.3ミリのまとまった雨。1958年の8月雨量は344.4ミリと現在も観測史上4番目に雨の多い8月だった。新聞に掲載されている写真では傘はさしていないので、この入学式は雨の合間を縫って行われたのだろう。

さて、この「玉ちゃん」その後はどうなったのかネットでさがして見たが、井寒台小学校自体が1990年(平成2年)に閉校しており、現在は更地になっていることがわかった。

このため、玉ちゃんが閉校まで健在だったとしても、今は誰の手に渡ったのか不明である。統合先の堺町小学校の倉庫に眠っているのかもしれない…?
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2008年08月30日

#50年前#「ON」のはじまり

1958年(昭和33年)9月1日北海道新聞より


プロ入りか進学かでその去就を注目されていた早実の王貞仁投手(一八)は三十一日午後九時、東京都江東区業平橋の自宅でセ・リーグ巨人軍入りの意思を正式に表明した。

同日午後三時横浜市の某所で、同投手の父親仕福氏、実兄鉄城氏らが出席して親族会議を開いた結果、これまで交渉のあった阪神、大毎、阪急、大洋などとの交渉を打ち切り、王投手の希望する巨人入りに全員賛成したもの。

正式契約は十一月上旬の予定。なお、契約金額は高校生の最高額で長島選手と匹敵するといわれている。

▼王投手の話
子供のときから巨人軍のファンであったし、同じ野球をやるなら伝統もあり人気もあり、競争も激しいチームでプレーしたほうが自分のためでもあると思って決心をした。

▼巨人:水原監督の話
投手としては春いらい不調らしいが、それもなにかのきっかけでもとに戻すことはできると思う。したがって投手に使いたい。もし投手がダメでも打撃は大丈夫と思うからその点でもすぐに使える選手として期待している。


結局投手としてではなく、打撃の面で才能を発揮した王は、この入団意思発表からちょうど19年後、1977年(昭和52年)8月31日に755号の本塁打を放ち、ハンク・アーロンの持つ世界記録に並んだ。そして9月3日には756号本塁打を打ち「世界の王」となり、日本初の国民栄誉賞を受賞することになるのだ。

また、当日の巨人−国鉄戦は開幕戦以来の巨人:藤田と国鉄:金田というエース同士の投手戦。開幕戦では金田に四連続三振した長島が、この日はヒットエンドランを成功させた。これがきっかけて先取点をもぎ取った巨人が2−0で勝利している。

ちょうど50年前、プロ野球史に燦然と輝く王・長島の「ON時代」が夜明けを迎えていたのである。
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2008年09月05日

#50年前# 今も昔も結局格差社会

わたしは「一億総中流」とよばれた時代に育った団塊ジュニア世代である。
終身雇用に年功序列賃金、職につけば60歳までにはなんとかなるという時代であった。

しかし就職期はバブル崩壊による超氷河期による就職難、そこをなんとか乗り越え正職員になっても、失われた10年下の不況で賃金の上昇はほとんどなく、合理化という掛け声の元に肩をたたかれていく50代のリストラ社員の姿を見せられてきた。

そして今、完全に正職員、契約・派遣職員との色分けがなされた社会の中をわずかな明かりを目指して泳いでいるのである。

他人の芝は青いというが、我々にかぎらず、上の世代の人間も「昔はよかった」という。昭和30年代に戻りたいとか行きたいとか、そういう声もよく聞く。

しかし50年前の日本もそんなに甘っちょろい時代ではなかった。

私は外地から引き揚げて、まず何よりも食べることが第一と夫とともになれないクワを握ってこの道(農村の主婦)の道に入ったのですが、現実は晴耕雨読どころか"晴耕雨耕"、苦闘の連続です。

<中略>

夕べのひととき、夫とともにゆかたがけで散歩したり、たまには町へ出て映画を見、ラーメンの一杯でも食べてみたら、どんなにか明日の生活にはりをもつことができるでしょう。
そんなことさえ因習につちかわれた農村の中では実行に移すのは容易ではないのです…

【昭和33年9月5日 北海道新聞「いずみ」】



作文:女中になって

わたしはいま女中部屋にいる。

<中略>

早いもので中学校を出てからもう四ヶ月。女中であるわたしには食事や掃除、せんたくといった決まりきった仕事しかない。ただ一つの楽しみは、仕事を終わってテレビを見ることだ。

<中略>

わたしのいる家の小学校五年生の男の子が、テレビのまねをして、客が来ると必ず「女中、おい女中!」とどなる。こう呼ばれると、なんともいえないイヤな気持になってしまう。それでも「はぁい」とニッコリ笑ってとんでゆく。

<中略>

さっそうと歩いてくる女学生に会うと、思わず目を伏せる。そして通り過ぎてからそっとふり返り、逃げるようにその場を去る。

夜、床についてからわたしが「ああ学校にいきたいなぁ」というと(相棒の)トシちゃんが「わたしたちだって何かの役に立っているわよ。この家だって、あたしたちがいなけりゃ困るもの」という。
役に立っているということで、二人とも安心して眠れるのだ。
【昭和33年9月5日 北海道新聞朝刊より】


都会と農村、富めるものとそうでないもの。その格差は今よりもはるかに大きかったというのが50年前の現実であって、皆生きるために必死だったように見える。やはり格差社会はいつの時代も存在するのであろう。

ただ、物質的には豊かでも先に展望を持ちづらい今と異なり決定的に違うのは、50年前はそもそもが太平洋戦争の敗戦による何もない裸一貫から立ち上がっているところか。底を知っている分、前を向けるのかもしれない。
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2009年01月12日

#50年前# 知床半島の冬のくらし

2009年が始まった
札幌の元日の最低気温は−0.6℃と、元日としてはここ100年間では一番高い最低気温だったらしい。

今年も一筋縄ではいかない、激動の年となりそうだ。

さて50年前の新聞には壮絶な?サバイバルじみた暮らしが正月の紙面を飾っている。

昭和34年1月1日北海道新聞朝刊より


"地の果て"ともいえる知床半島の冬に、ただ一家族だけが六年間も生活していた。目梨郡羅臼村字相泊、北海道行政区画にキチンと示された土地ではあるが、ここの冬に住んでいるのは尾白ワシとヒグマだけという自然の荒荒しさ。海岸に迫る岩山のわずかな平坦地をみつけて、六十六平方bの漁舎を建て住み着いたのが高月権造さん(36)一家四人だ。ソ連のジェット戦闘機がすぐ向かいの国後島に着陸し、夜は監視船が青白い探照灯をあばら屋に照射して通る。"国境"という緊張感がハダにヒシヒシと迫ってくる。人が住んでいる知円別部落までは十二`。道らしい道もない。しかし新年を迎える高月さん夫婦は赤ちゃんに晴れ着を着せ、軒先にかかげた日の丸がさわやかにはためいていた。これは"秘境"知床の無人境に住む一家の訪問記−

 羅臼からは船で向かう。陸路はすでに歩行できない。岩をかむ根室海峡の白波と、そそりたつ奇岩が続く海岸線に沿って二十五`ほど北東に進む。
 筏の北側から知床の背後山脈がせまるけわしい岩場の十bもない狭い土地に、屋根に石を乗せた粗末な漁
舎がしがみつくように立っている。
 丸太の突っ張り棒を四方からあてているのは風の激しさ、荒さを物語っている。事実、知床半島は根室支庁管内で最も風が強いところという定評。

 われわれの乗った船が近づくと高月さんは三つのイソ子ちゃんの手をひき、妻のミサヲさん(29)が十ヶ月の博信ちゃんを抱いて一家総出で迎えてくれた。
 そのトタン、高月さんの足元からネコのような顔のアザラシ(この辺ではトッカリと呼んでいる)がムクムクと動き出した。たちまち手づかみにして石にタタキつけた。
 一bほどの大きさ。自然と闘う男のたくましさをまず感じる。

"油をとるんですよ。灯火に使えますから"

 赤ん坊を抱いたミサヲさんはそばで明るく笑う。荒々しい自然を超越した"夫の側にいる安心感、信頼感"がそこに漂っている。

 高月さんの故郷は富山県黒部市生地。日本海沿いの小漁村で、年々漁が減り、ついに小漁師の口には魚が入らないようになった昭和二十一年にミサヲさんと結婚した。
 長女杉子、長男孝雄、二女フミ子と子供はつぎつぎと生れるのに生活は苦しくなる一方。
 高月さんは二十六年村を離れて出稼ぎに出た。
 函館に渡り、魚を追って釧路から羅臼、知床へ。そして餓死を逃れる道として知床に生きる決心をした。
 二十七年にミサヲさんは祖母をおいて子供三人を連れ知床に来た。

 高月さんはその間に越冬準備にかかった。知床の冬は十分間と同じ天候が続かず、きれいな陽ざしがさし込んでいたと思う間にもう吹雪がやってくる。青黒い海はたちまち白いキバをむいてシケ出す。

"この小屋もね、何度か風に吹き飛ばされたんですよ"と高月さん。

 海を渡って真っ正面に刺さる突風の中に家を破られた親子五人が、フトンを頭からひっかぶってガタガタ震えながら恐怖の夜を明かしたことが何度もあったという。
 山の雪が崩れ落ちて家におおいかぶさり自然の重石になるまで、この恐怖は毎年消えないのだという・
「クマが家の前に大きな足跡を残していくこともあるんですよ」と語るミサヲさんは「トッカリの親子連れがきて昼寝していることもありますよ・・・・。あと私たちのほかに生きているものはカラス、それから大きな二bもあるワシが飛んでいるだけ。タヌキもキツネも見たことありません」と言葉を続ける。
「寂しくありませんか?」と聞くことが罪悪のように感じられるほど"孤独の国"なのである。
 それでもなおここに止まっているのは、一夜のうちに流氷が海峡を埋め、それが風向きですぐに流れ去ったり何日も滞留したりを繰返す二月の酷寒が過ぎ、山の雪が消える三月を過ぎると海がイキイキとよみがえってくるからだという。

「わたしのいる国は冬が長いだけなんだ・・・と思って暮らしています。」「ここへくる人はみんな正直でウソをいう人がいません」
 こんな言葉で知床に生きる理由のすべてを語る高月さんである。食うために隣人同士がだまし合い、なぐり合いまでする本州の海の暗さに比べ、たとえ吹雪の中に抱き合う日があってもここが常春の国だ、と高月さんは言いたいのである。
「夫といるんでちっとも寂しいなんて思いません」とミサヲさん。

 二十九年夏、ミサヲさんが盲腸をわずらったときだけはさすがの高月さんもあわてた。運よく沖を通った漁船をみつけて羅臼の病院に運んでもらったという。
「そのときでも私は別に大変なところに住みついたともなんとも感じませんでした」とミサヲさんは言葉をつぐ。
 とにかく、この夫婦の知床に生き抜くという気迫には圧倒される感じがする。しかし自然の暴威は自然の富が十分償ってくれる。
 昨年中にとったコンブだけで十四石、組合に出荷したら六十五万円にもなった。ことしの越冬用に買い込んだ米五表、麦粉、みそ、しょうゆに子供用の菓子類は十二万円。

 時折、ソ連の監視船がこの漁舎を探照灯で照射することがある。
「こういうときは国境だなあと気味が悪くなりますわ・・・。だがそのことより子供の教育が一番心配で・・・。国で生れた三人の子はいまばあさんのところへ帰しています。」

 夫婦はそんなことをいいながら知床開拓のパイロットといった表情で、明るくこの地の将来に期待している。


昭和33年の平均寿命は男64.9歳、女69.4歳。
いまよりずっと短い人生だが、住めば都。たくましく生きる人達がたくさんいた。

今は都市集中だが、この時代は不便なはずの町村にずっと多くの人が住んでいたわけである。その最も輝かしい人達が彼らであろう。記事の中からは将来に対する不安なぞほとんど感じられない。(教育くらいか・・・)

2009年。激動の一年になるだろう。自分も含めて、我々現代人は、たった50年前のこの人達のようにたくましく生きぬくことが出来るのであろうか。その生命力、生きる気迫が問われる一年になるような気がしてならない。
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2009年01月17日

#50年前# 生きていた樺太犬!

一月も半ばを過ぎたのに、札幌では降る雪は湿った重い雪。しかも最高気温がプラスという日がザラで、三月のような気候が続いている。THE暖冬である。

さて、そんな中寒さが恋しいわけではないが、南極の話である。

いま、テレビ等で堂々と「カラフト」と言っていいのは、この樺太犬だけではないだろうか。(ちなみにNHKでカラフトと叫んだ?某先輩は干されかけたらしい)

この樺太犬といえば、この2頭をおいてほかにない。タロとジロである。彼らも50年前という遠い前の出来事になってしまった。

北海道新聞 昭和34年1月16日付け夕刊(発行は15日)


【"宗谷"で永田隊長十五日発】
14日午後2時45分、シコルスキー二機編隊の第一、第二便は無事昭和基地に到着した。
パネル建物三棟、発電一棟および便所、その他付属設備も全部健在である。通路も破壊されてなく、保全がよく、修理は予定より簡単と思われる。アンテナ柱はステーの緩みもなく完全に大丈夫。燃料、ソリなど屋外に置いたものもそのまま保たれている。自記気象観測計は三、四ヶ月自記しその後とまっている。犬はタロおよびジロらしい二頭が健全で大きくなっている。ほかの犬は目下行方不明。シコルスキー両機は午後四時四十七分帰船。第三、第四便は引き続き昭和基地へ向かう。

第一便、第二便の報告によると、昭和基地の状況はつぎの通りである。

カラフト犬二頭はまるまると太って生存しており、飯島首席飛行士がヘリコプターから降りると喜んで飛びついてきた。そのほかの犬についてはいまのところ行方不明である。


茅:南極特別委員長の話

犬が2頭もまるまると生きていたことは科学者の私でもちょっと想像つかないが、なんにしても心あたたまるニュースだ。


北海道新聞 昭和34年1月16日朝刊より

【昭和基地で山本隊員15日午後1時(日本時間)発】
第一便で先発した村山副隊長ら六人を追って、永田隊長、吉田(長)、高室隊員、山田機関士と私は十四日午後五時過ぎ船から飛び立った。
"宗谷"が苦しんだ密氷群をひと飛びすると巨大なハス池を思わせる疎水域があり、開水面が照り、銀紙を敷き詰めたような定着氷があり、一時間十分で昭和基地に着いた。

村山副隊長、清野隊員らが迎えにきて、『オイ、犬が生きていたぞ』『時計が動いているワ」と叫ぶようにいった。
建物に向かって歩き出した途端、ヘリコプターの爆音に響いたか、氷上に避難していた犬が二頭、ほんとに駆け寄ってきた。『タロー』に『ジロー』だ。ふさふさした黒い毛並みがよごれているが元気だ。

無心に尾をふる。『お手』というと大きな足を突き出す。さしだした手をなめる。『よく生きてきた』とみんなすこししんみりした。

予想をこえた悪い氷状に越冬を断念、第二次観測隊は心ならずも十五頭の犬たちを残して帰国した。それから一年、クサリにつながれたままだった犬たちが、二頭にしても生き残っていようとはほとんどだれも思わなかったに違いない。

つながれた鉄の鎖をちぎり、冬には数少なくなるアザラシやペンギンをあさって生き抜いたのであろうが、だれもが神秘めいた生命力の強さに感動しないわけにはいかなかった。

残りの犬たちのことはまだわからない。


同じ16日の道新には、北大付属博物館:芳賀良一氏の話として「越冬隊のデータによれば昭和基地の最低気温は氷点下36度。これは樺太の厳冬期ではザラにある気温です。だから寒さの点では問題がない」とある。

以下のURLで南極:昭和基地の毎年の最低気温を参照することができるが、氷点下36度はまあ平均的な値である。
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/annually_s.php?prec_no=99&prec_ch=%93%EC%8B%C9&block_no=89532&block_ch=%8F%BA%98a%8A%EE%92n&year=&month=&day=&elm=annually&view=

ということは、逆説でいくと冬の樺太に住むということは南極:昭和基地に住むのと似たようなものであるのか?これでは流氷も流れてくるわけである。

ちなみに南極で一番寒い8月の平均気温は氷点下19.6度。ぱっと中央気象台月表を参照してみたところ、大正二年の敷香では、1月平均気温が氷点下19.5度であった。いやはや全く同レベルである。

ちなみに北海道で探してみたが、陸別の1月の月最低気温平均値が昭和基地と全く同じであったが、さすがに月平均で肩を並べるところは無かった。

というわけで、樺太(サハリン)ならまだしも北海道の平地では南極昭和基地並みの寒さを体験できる所はなかなかないが、陸別あたりは、かなり極地に近い厳しい気象条件といえそうだ。
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2009年01月18日

#50年前# イノシシかブタか?

冬型が続かない年は荒れる。
これは寒気場の中に覆われた状態が続かないため、大陸の東岸で暖気と寒気が衝突しやすい状況が続くからだ。
寒暖気の混合は温帯低気圧を発達させる。通常3月頃に起きる状況が1月の真冬に起こっている。2月、3月と北極の寒気が南下しやすくなるとさらに低気圧を発達させる方向に向かいそうで怖い。

さて、タロとジロの話に続いて動物シリーズというわけではないが、面白い話なので転載してみる。

北海道新聞 昭和34年1月1日朝刊より


本道にイノシシはいないとの定説だが、明治のはじめ大沼の駒ケ岳山ろくで射止められたイノシシのような獣の剥製がいまなお函館博物館に保存されている。

ブタが野生化したものだとか、奇形種ではなかろうかなと当時からこの正体をめぐってさまざまな議論がくり返されてきたものだが、エトにちなんでこの"道産イノシシ"の話題を取り上げてみた。

博物館の記録ではこの一見イノシシ風の獣は明治十四年駒ケ岳のふもとでしとめた猟師から同館の前身である函館博物場に贈られたもの。当時駒ケ岳の山ろくにイノシシが出没、田畑を荒らし回って農民の恐怖のまととなっていたことが新聞にも掲載されている。

明治十二年十一月十日付の函館新聞には『先年駒ケ岳でイノシシを見たという人があり七飯の種畜場を逃げたブタであろうといわれてきたが、先ごろ大野村の鳶川某が熊狩りのため付近を歩いていたところ四頭の野猪をみつけた。撃とうと思ったが距離が遠かったのですぐ野猪の逃げたあとへ行ってみると五葉松がキバで散々はがされており、そのあとには沢山のヒゲが落ちていた。これは二十aもあり、根元は一本なのに先は八、九本に分かれていたのでいよいよイノシシに違いないと判った』という意味の記事がある。

翌十四年二月の同新聞には
『茅部郡森町尾白内四一の西川勘五郎という猟師が苦心の末ついに一頭の大イノシシを射止め、血だらけの獲物をひきずって村に帰り大いに名を挙げた。このことを聞いた函館支庁から皮、四本の足、頭を差出すよう命令があった』と書いており、このはく製が道産イノシシであるということの裏付けとなっているようだ。

ところで問題のこのハク製は体長一b半、肩までの高さ八十aという大きなもので茶色の粗いふさふさとした長い毛で覆われ、生後少なくとも八、九年は経たろうというみごとなものだ。
犬歯が発達して鋭いキバとなっていること、頭から背中に黒茶、怒毛(オコリゲ、馬のタテガミに相当)があり、ヒヅメが山野をかけめぐるにふさわしい頑丈なものであること、こんな点がこの獣をイノシシだとする人々のいい分で『ブタとは似ても似つかぬ精かんな体つきをみてくれ』と後にひかない。

一方ブタ派はイノシシのように頭が細長くない、その上ブラキストン・ラインというれっきとした学説が北海道にイノシシはいないとしているではないか、ともっぱら生物学的論拠に立って応戦、いまだに黒白がついていない。

ところでブラキストン・ラインというのは函館にゆかりの深い英人科学者ブラキストンが『日本の動物分布は津軽海峡を境にしてはっきり大きな相違が認められる』と唱えた学説。

哺乳類に例をとれば本州、四国、九州にはサル、イノシシ、モグラ、ヤマイヌなどがいるのにその以北ではこれらの動物は全くおらず、ヒグマ、エゾイタチ、エゾテンなど独特の動物がいるとするもので、この説からゆけば本道にイノシシがいたということは頭から否定されてしまう。

つまりイノシシに似ていてもブタの野生化したものか、あるいは奇形ブタの一種であろうと断定されてもやむをえないことになる。

学者の間では『キバのあるブタは珍しくないからおそらく野生ブタだろう』とする向きが多いが、イノシシ派にはこれが大いに不満。『ブラキストン学説だって近年になっていろいろな例外や矛盾が発見されているではないか。北海道にイノシシがいなかったと言い切れる根拠がどこにある』とあくまで強腰。

この論争は亥年のことしはとくににぎやかに続けられるに違いない


結局この論争はどうなったのかは不明だが、現在の市立函館博物館の「収蔵情報」の中にはイノシシ、ブタどちらの剥製についてもみることができない。
http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/

ただ、函館にある日の浜遺跡からはイノシシをかたどった土偶がみつかっているそうで、イノシシはいたのかもしれない。

函館博物館にまだこの剥製があるのなら、実際にみて想像してみたいものである。
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2009年01月25日

#50年前# 木材の流送

ついていないことにほとんど書き上げてから不注意により消えてしまった。もう腹が立ったのでもう一度かく。

今年の1月は高温傾向。今日の札幌の最高気温は氷点下1.2度とやっと今月4回目の真冬日である。平年は1月に19日ほどだから、本当に少ない。気象庁の季節予報の資料を見る限り、2月も高温傾向が続く可能性がかなり高く、このまま春になってしまいそうだ。

一方で50年前、1959年のデータをみてみると、1月の真冬日は実に28日。プラスになったのがたった3日しかなかった。最低気温も氷点下10度を下回ったのが実に12日である。寒かったのだ。

今も50年前も不況だったが、暖冬でも寒冬でも春を待ち望む心は変わらない。ただし春は別れの季節でもある。50年前も伝統の灯がひとつ時代の中に消えようとしていた。木材の流送である。

昭和34年1月8日北海道新聞


【浦河発】開発道路や林道網が奥地にのびてきて、冬山造材の長い伝統となっていた"木材の流送"も時代とともに姿を消してゆく。

道内では日高管内が昔から流送のもっとも盛んなところで、現在も唯一の流送場所で知られるが、その日高も浦河町幌別川上流の"広葉材の鉄砲流し"が昨年で廃止。
ことしは日勝産業道路があと二、三キロのびれば日高村奥地の沙流川上流で王子製紙パルプ用材を出している丸竹坂本組の"一本流し"もこの春だけで終止符を打つことになっており、本道の流送も完全に姿を消すわけ。

なお同組ではことし十勝に近い日高村の奥地から平取町の岩知志発電所ダム近くまでの間をパルプ用材20,000立方b前後(七、八万石)を流送する計画という。


雪に道が閉ざされる冬。山の奥深くの原始林で切り出した木材は、春の雪解けとともに増水する川に流すことで長距離を運搬してきた。これが木材の流送である。自然の力ほぼ100%だからエコこの上ない運送方法だったが、現在では全く姿をみることができないばかりか、どうやら道内河川では木材流送自体、禁止されているようである。

当然、伝統芸能としての流送も見る機会はほとんどない。まあ、当時やっていた人はもうほぼ亡くなってしまっているだろうし、若手バリバリだったとしても今はお年を召しているから・・・

というわけで今や写真くらいしか残っていない流送の風景だが、同じように流送の盛んだった鵡川では、穂別地区で人間を流送する「穂別流送まつり」を7月末に開いているらしい。何をするのだろう?今年は見に行ってみようかな・・・?

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2009年01月27日

#50年前# 横綱千代の山が引退

札幌は今日の最高気温が氷点下2.3度、4日連続の真冬日となった。これで1月の真冬日は合計6日まで増えた。明日は0度を少し上回りそうで、その後も週末まで真冬日の可能性は低い。

このまま終われば1月は1949年の真冬日5日以来、実に60年ぶりの真冬日少ない記録となる。一方で明日も真冬日になれば、7日になるので1991年以来18年ぶりの記録ということになる。明日の最高気温がプラスかマイナスかで、記録の持つ重みがかなり変わることになるのだ。

さて、今日は朝青龍の酔い明け優勝会見のニュースで朝はもちきりだったが、今から50年前の1月も朝青龍と同じように初場所に進退をかけた横綱がいた。その横綱は場所の終わりをまたず、土俵を去っていた。

昭和34年1月17日 北海道新聞夕刊(16日発行)


横綱千代の山は十六日午前十時、引退届を協会に提出した。協会はただちに取締役会、理事会を開いて受理、十七年間、五十四場所の長い土俵生活にピリオドをうった。これから千代は"年寄千代の山"として生きるが、張りのある彼の相撲は初場所六日目の十六日からファンは見ることができない。吉葉山につぐ"道産子横綱"のさびしい引退である。

千代の山=本名杉村昌治(三二)松前郡福島町出身=は昨年七月、十一月の二つの場所を全休した。九月場所も途中で休んだ。だが『ワシはまだとれる』と信じていた。それだけに今場所にすべてをカケた。場所前のけいこも意気込みはすさまじかった。

初日は若秩父に、五日目は房錦に敗れた。
若秩父に一気に寄り切られたとき『ワシが相撲取りになったころ生れた力士と相撲をとっているんだからナ−』と感慨をもらした。
力の限界をはんぜんと悟ったのだ。引退はそのとき胸をおおったのか

十五日夜出羽海親方を訪ね、じっくり話合った。
『これ以上土俵をつとめては横綱の名をけがすだけだ』
そのいさぎよさに親方も同意した。

千代の表情は土俵を去るさびしさを除けば、その心情に曇りはなかった。その夜は心なしか、ぐっすり眠ったと、光恵夫人はいう。

十六日朝、両国河畔の出羽海部屋で羽織、ハカマの千代の山は床の間を背にどっかと腰をおろし報道陣と会った。
『きょう限りで土俵を去り、こんごは後進の養成に努めたい』
昨年初場所に土俵を去った吉葉山の引きぎわのように悲壮感はなく、淡々としてなにか肩の荷をおろしたという安心感さえあった。二十八年横綱返上問題をおこしたあのときの『借』を、さっぱりと返した思いかも知れぬ。

『長い土俵でしたよ。苦しいこともずいぶんありましたが、楽しいこともあった。やめると決めたときホッとして、いっぺんに四十`も目方が減ったようなスーっとした気持ちです』

最近引越した東京都千代田区六番町の新居に帰った千代の山はまったくホッとした顔。

思えば昭和十七年一月初土俵を踏み、太刀山ばりの突っ張りで九場所目には入幕というスピード出世、入幕三場所目で関脇、二十四年夏場所には大関、大関六場所で二度優勝、二十六年夏場所の優勝で四十一代目の横綱に推薦された。本道出身の横綱第一号だ。

横綱になって三十年初、春に連続優勝、三十二年の初場所を全勝、六度目の優勝、きのうまで三十二場所。年齢こそまだ青年横綱だが、力の限界が引退に踏み切らせたのだろう。昨年名古屋場所前におきたヒザの神経痛がやはり痛むのだ。

『ご恩返しに後輩をつくりますよ。北海道出身の強い力士をつくること、これが私のユメです』

いまはさっぱりとした千代関、いや年寄千代の山は心なしか晴れ晴れとしていった。


千代の山引退のニュースで、北海道の相撲ファンはたいそうがっかりしたそうだが、千代の山はその後九重部屋を興し、このとき語った夢を「横綱:北の富士」という形で実現している。

そして北の富士が引退後、九重部屋を継いで育てたのが千代の山と同郷の福島町出身の力士・千代の富士である。

わたしのリアルタイム記憶は千代の富士からであるが、小さいながらも隆々とした筋肉美で、「つり出し」や首を押さえながらの豪快な投げなど、非常に気持ちよい勝ちっぷりが印象に残っている。

その千代の富士が九重部屋の師匠となって今に至るわけだが、現在は北海道出身力士自体が珍しい存在になってしまった。次に道産子横綱が出るのは何年後になるであろうか…?19年後か、60年後か・・・
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2009年01月30日

#50年前# 反対側にまわす

1月も残すところ1日となった。1月の月平均気温は昨日現在で氷点下1.3度。1991年の氷点下1.1度にはギリギリ及ばないものの、1877年以降の133年間で2番目の高温ということで決着しそうである。

昨年の一月は7年ぶりの寒い一月だったから、なおさら今年は極端な暖冬に感じる。この時期で札幌の積雪は30センチを下回り、岩見沢まで30センチ未満とは・・・。

さて、気温傾向が昨年と今年で正反対だから、というのはこじつけだが、昔TVのチャンネルを変えてほしい時によく「反対側にまわして」という言葉を使った。

これはNHK以外の民放2局の間でチャンネルを変えるときに使う言葉で、「もういっぽうの民放局の番組を見せて」という意味である。

当然ながら、今の北海道は民放5局体制だからこの言葉は完全な死後である。だが、わたしの記憶では稚内でも民放が4局見られるようになった昭和50年代の半ばくらいまでは普通に使っていたと思う。

昭和34年1月27日 北海道新聞より


本道で二つめの民放テレビ"札幌テレビ(STV)"が四月一日から本放送を開始する。一昨年十月予備免許が下りてから一年半、やっと陽の目をみるわけだが、本道の空も二つの民放テレビの実現で激しい電波合戦がくりひろげられる。以下はHBCに挑む新進STV―といった話題のあれこれ。

ネットワークの問題

民放テレビにとって、とくに中央から距離的に遠い本道では、ネットワークの獲得が真っ先にひっかかってくる。
相撲や野球の中継放送でよくやる『この放送は…局をキーステーションとして北は北海道、南は九州まで…局をネットして―』という、そのキー局を選ぶことだ。
東京、大阪などでは有名芸能人などタレントに不自由せず、スタジオが完備しているので自社で番組が製作できるが、中央から遠く離れた本道では、ニュースにしろ、娯楽番組にしろ、どうしても中央の局からフィルムの提供をうけなければやっていけないわけ。
いまHBCはニュースはKRTV(ラジオ東京テレビ)、娯楽番組はほぼKRTV三、NTV(日本テレビ)一の割合でうけている。人気絶頂の『月光仮面』『日真名氏飛び出す』はKRTVから、『丹下左膳』『ゴールデン劇場』はNTVからといったぐあい。

手の内は秘中の秘

ところがSTVも当然これらの局から番組をうけることになるわけで、現在わが国の代表的キー局であるKRTVとNTVのどっちを選ぶかはちょっとした面白い話題だ。
いまのところニュースはHBCがKRTV、STVはNTVとネットを結ぶことに決まっているが、ほかの娯楽番組もこれと同じ色合いに別れるだろうという見方が強い。
もちろん両社とも一局だけをキー局にするわけでなく、二月に開局する富士テレビ、日本教育テレビともネットを結ぼうとそれぞれ交渉しているし、KRTVと結んだからといってNTVからは番組をとらないわけではない。

HBC編成局では「KR中心になるだろうが、NTVからもスポンサーと話し合いがつけばドンドンもらう』といい、STVでも『ニュースはNTVと決まったが、その他の番組はNTVに限らずKRからも富士テレビからももらいたい』といっているが、手の内は秘中の秘。

華やかに記念合戦

三月十日前後に試験電波を出し、四月一日には本放送を―というSTVは創立記念日の四月十日前後に記念番組を送りたいという。
札幌市民会館でパーティーを開き、地元の芸能団体をくりだしてフタあけする。

一方HBCはそれを迎えうつかのように四月一日を中心に前後一週間、ラジオ開局七周年、テレビ開局三周年の記念番組をいっせいにブツし、すでに札幌の会場を借り切ったといっている。またSTV対抗策とでもいうのか、地元のタレント、邦楽団体、演劇団体とは着々と専属契約を結ぶ?など、HBC対STVの火花は空中の電波ならぬ地上ですでに火花を散らしている。

(一部中略)


この後しばらくは先行するHBCをSTVが追いかけるという展開が続いたが、昭和50年代にSTVがHBCを逆転、一時後発のUHB(北海道文化放送:フジ系)に抜かれるも、近年はSTVが平均視聴率トップの座に座る機会が多くなっている。

今はHDDで裏録もできるし、チャンネル争いということ自体がなくなりつつあるような時代である。リアルタイムで見る必要のない"娯楽番組"が増えているが、未だに製作現場を支配するのは『視聴率』。

やはり、リアルタイムに番組を見てくれる人を放送局は一番大事にしている。そういう意味では、ちゃんと放送時間に番組をみることが、その番組、コンテンツを支持しているということになるのだろう。
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2009年01月31日

#50年前# 美幌で劇場火災

今日の札幌は曇り空だったが、雲を通して太陽の輪郭がはっきりわかる薄曇。天気のわりに湿度は低く、日中は40%くらいで推移した。この湿度は屋外での観測値だから、当然この空気を中に取り入れて暖房で暖めると20%は切るカラカラ空気だ。インフルエンザに静電気、火の取り扱い…冬のカラカラ屋内は危険が一杯である。

さて50年前には道東の美幌で大きな火災があった。当時は弱い冬型の気圧配置、網走は雲の多い天気ではあったが日差しはあり、最小湿度は62%。外は乾燥していないが気温は低く、やはり屋内はカラカラ空気であったことだろう。

昭和34年1月28日 北海道新聞


【美幌発】網走郡美幌町で超満員の劇場が全焼し、逃げおくれた観客十一人が焼死、一人がショック死、十二人が重軽傷を負った。

二十七日午後五時四十分ごろ美幌町仲町『美幌銀映座』=定員四百二十人、経営者(省略)=ボイラー室付近から出火、モルタル二階建同劇場六百七平方bを全焼して同七時ごろ鎮火した。

この日は歌謡浪曲の実演で六百人(警察調べ)が入り、特に年寄りが多かったことから出火と同時に大混乱となり、救出も困難をきわめ十一人が焼死、十三人が重軽傷を負い、同町国保病院で手当を受けているが、うち一人は同夜、火災によるショックで死亡した。

原因は美幌署で調べているがボイラーの過熱らしい。
ボイラー室から十余メートルも離れた観客席の真上の天井に突然穴が開いて火の粉が一面に落ちたというから意外に火の回りは早かったわけだ。

階下の観客は二ヵ所の非常口と木戸口に殺到したため二階の客は出口を失い、窓から道路に飛び降りて足を折ったり、胸を打ったりした客も数人あったが悲惨をきわめたのは二階正面映写室の前で、六人が折り重なって死んでいた。

また逃げようとして足を踏み滑らせ転んで人の下敷きになって焼死したものもいた。

年寄りが多かったのと定員をオーバーしていたことなどで被害は大きくなったようだ。

この日は無風状態に近く、地元消防団のほか自衛隊美幌駐屯部隊などから消防車七台が駆けつけたが水利の便が悪く消化に手間取った。

一方、焼死者には遺族たちが取りすがって変わり果てた姿に声をあげて泣いていたが、午後九時ごろそれぞれ白木の棺におさめられ馬ソリのさびしい鈴の音をひびかせながら自宅に引き取られた。

一方重傷者を収容した国保病院には、真っ白に包帯を巻かれた大やけどの被害者たちが苦しいうめき声を発していた。


この火災は道内の戦後の火災としては最大級のものである。昭和18年(1943年)3月6日に倶知安町『布袋座』であった劇場火災では死者二百八人という大惨事があるが、それに次ぐ規模。

こういった火災が多かったのは過去昔の出来事…今は防火基準なども細かく定められているしこんなことは起こらないのでは…と思ってきたわけではあるが、昨年の大阪だったかで起こったビデオ屋の火災など、近年また放火や火事によって一度に十人単位で死者が出るような出来事も多く、なんとも歴史は繰り返されるというか、いろんなところで手を抜いているので油断は禁物である。

昔、オホーツク海側の消防署にある火災データを数年分調べたことがあるが、別に気象条件とは関係なく火事はいつでもどこでも起きていることがわかった。火事の多くは人災である。「乾燥注意報」は防災のきっかけにすぎないわけで、普段から油断なく過ごすことが大切である。
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2009年02月06日

#50年前# 地震に弟子屈おびえる

今日5日は久しぶりに日本海小低の直撃を受けた札幌でドカ雪となった。午後9時現在、24時間降雪量のランキングでも肘折(山形)や酸ヶ湯(青森)などの豪雪地帯を下に見る、華々しい全国TOPの26センチをわが札幌が表示している。

流氷が来ると日本海小低は現れやすい。これは普段北風系冬型のときに現れる北海道内陸の高気圧が、オホーツク方面が流氷によって半ば陸地化することによって勢力を広げ、強まるためとされている。
このため道北方面では東寄りのだし風が強くなり、日本海西海上に収束線をつくる。上空の風が強い場合は帯状雲の形状で後志・石狩に雪雲が流れ込むし、風がよどんでいる場合はしばしば低気圧のような渦を作って留萌や札幌、岩内などに突っ込んでくる。
今日ははじめ帯状雲であったが、のちに低気圧性の循環を作って札幌に突っ込んできた。完璧な札幌ドカ雪パターンである。

あとは、これを何故当てられないかである。今朝の解説を聞く限り、札幌ではせいぜい5センチから10センチという所の予想だった。資料では西海上の低気圧循環は予想していたそうだから、収束線の位置表現が上手く実況と合致していなかったのだろう。いやはや、このタイプは本当に予想が難しい。

ところで予想が難しいというより、近年「予知は無理では?」といわれるのが『地震』である。予知は無理派の学者によれば、緊急地震速報がいわゆる地震予知の限界である。50年前は道東:弟子屈町が地震の恐怖のどん底にいた。

昭和34年2月9日 北海道新聞


地震におびえる温泉郷弟子屈
【釧路発】先月三十一日、かなり大きな地震に見舞われた釧路の内陸地帯ではまだ揺れ続いている。震源地は川上郡弟子屈町の南西十キロの山地。調査に当った釧路地方気象台は"日とともに余震の回数も落ちつくだろう"といっているが、毎日不気味にゆさぶられる付近の住民はまったく地震ノイローゼだ。山がいまにも爆発しそうなデマが飛んだり、避難仕度をととのえたり、いらだたしい日々を過ごしている。以下、地震におびえる温泉郷、弟子屈の表情。

○…三十一日の地震は震度六・五度。『弟子屈町付近の強震』と名づけられた。釧路地方気象台の地震計ではこの日は人感三回、二月に入ってから五回となっているが、震源地の近くの住民は"三十一日は終日揺れ通しに揺れていて、回数を数えようとしても区切りがつかなかった"と調査に当った気象台員に語っており、弟子屈市街地でも三日までに百七十回の揺れを数えた住民の報告が町役場に伝えられている。間断なく続く余震の状態が、これからも判断つくようだ。
 しかし日とともに回数が減り、六日七回、七日三回、八日二回になったが、全く止んだとはいえない。
 この地方では昭和十二年にも屈斜路湖の水位が下がるほどの地震が観測されているが、今回の地震はそのときよりも強い。

○…三十一日から二日までは騒ぎはそれほど大きくなかったが、三日に交通途絶の奥春別地帯から役場に被害を訴えてきた。家屋倒壊一戸、サイロ倒壊一戸、そして地鳴りがしており、雪原の表面に亀裂が入っているという。
 そしてベケレ山が爆発するという物騒なうわさが流れ出した。
 六日午後四時二十分釧路市にも感じる余震があり、ニュースをラジオで聞いた弟子屈町の自動車運転手が、うわさのようにベケレ山が爆発したと勘違い、同山ろくに住む親もとに"すぐ避難しろ"と町の有線放送で呼びかけた。
 そこで全町は大混乱。町長は役場にかけつけるし、消防団は警戒態勢に入り、警察の電話は問い合わせで鳴りずめというさわぎ。事の真相がわかって胸をなでおろしたものの住民たちはこれほど地震におびえている。

○…その後もベケレ、ビラオの二つの山かげから煙が立つのをみたという話があって町では八日調査をしたが、地鳴りもなければ煙も立っていなかったという。
 とにかく町民たちは仕事も手につかず、ペケレ山ろく奥春別部落では文字通り帯を解かずに寝る夜がまだ続いており、市街地の温泉旅館の泊り客は毎晩にぎり飯をマクラもとに用意しているという。



どうも弟子屈から清里にかけてのエリアは火山がたくさんあってガサガサした地形となっているのか?群発地震の多い土地である。
近年は2004年に斜里岳山ろくを震源とする群発地震があった。この1959年の弟子屈の地震もマグニチュード6クラスのけっこうエネルギーの大きい地震で、1960年にかけてさらに数回大きい地震が発生している。

地震の始まり自体予測が難しいのだが、この群発地震の活動がいつ終わるのかというのは、それこそ雲をつかむような話である。現在はGPSによるリアルタイムな地殻変動が観測できるので、近くの変動量からある程度の想像がつくようだが、50年前は気象台職員の収まるという言葉に半信半疑な住民もたくさんいたにちがいない。

こういうときに怖いのがデマであり、やはりこの記事でもデマが弟子屈を大混乱に陥れた様子が現れている。地震が長期化すればするほど、正確な情報を随時伝えることがいかに心の安心にとっても重要かというのがよく見える記事だと思う。
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2009年02月14日

#50年前# 高校丸焼け相次ぐ

北海道を通過した低気圧に向かって、南から暖かい空気が吹き込んだため、札幌の14日の最高気温は8.1度、大記録ではないが大通公園の雪像を壊しておいてよかったというような暖気であった。

積雪も昨夜20時に57センチあったが24時間で15センチ減って42センチまで減った。雪祭り中に2回あったドカ雪の半分ほどは解けて流れ去った感じである。幹線道路は春のような様相で走りやすいこの上ないが裏道はグサグサのシャーベットで車ホイホイとなっている。

風も低気圧通過後の吹き返しで14メートルを観測した。こんな時に火が出たらどうなるのか、50年前の遠軽では、14メートルの風で高校が丸焼けになってしまった。

昭和34年2月13日 北海道新聞

【遠軽発】十二日午後十一時三十五分ごろ、紋別郡遠軽町字向遠軽 道立遠軽高等学校=校長田中小一郎氏=東側校舎職員室付近から出火、東南十四bの強風にあおわれて本校舎木造総二階建延べ四千四百平方bを全焼して十三日午前零時四十分ごろ消え、体育館約六百六十平方bだけ残った。

道立遠軽高校は昭和十五年旧制遠軽中学校として建築、六・三制によって二十三年高校になった。普通課程十五学級(生徒約八百二十人)定時制課程四学級(同百八十一人)が在学している。

出火と同時に生田原、上湧別、湧別の三ヶ所と遠軽自衛隊から消防車が駆けつけ消火に努めたが強風と水利の便が悪かったため手の施しようがなかった。原因は遠軽署で調べているが、この日遅くまで定時制の生徒が職員室近くの教室で送別会を開いていたことから、このストーブの残り火の不始末ともみられている。



このときの新聞天気図(12日午後3時)には、「満州東部に低気圧があるが勢力が強まっている」という解説がある。関東付近には高気圧があって北海道付近は南高北低の気圧配置というわけだが、現在では「満州」ではなく「中国東北区」と解説しなければならない。同様に、この時代と解説用語が違うものとして「樺太」とか「不連続線」というものがある。

ところで、この年の2月に丸焼けとなったのは遠軽高校だけではない、このあと2月14日に岩見沢西高が焼け、20日には江別高校も焼け落ちた。

昭和34年2月21日 北海道新聞


【江別発】遠軽、岩見沢西と道立高校の火災が相次ぐ矢先、二十日深夜こんどは道立江別高校が焼けた。

二十日午後十時三十分ごろ江別市一番町南一丁目道立江別高校=校長横式信義氏、木造二階建て一部モルタル塗、総面積約五千三百平方b=の正面事務室階上にある定時制四年教室付近から出火、同校南側校舎から燃え出した。

発見が遅れたため、無風ながらたちまち北側に広がり、体育館、普通教室二、特別教室三(理科二、音楽一)を残し、普通教室十六、特別教室二、計十八教室をはじめ南側の職員室、校長室など約四千平方bを焼きつくし、二十一日午前一時ごろ消えた。損害約四千万円。

この夜は定時制の生徒が普通授業をしており、九時ごろには全員が下校、火の気がなかったものとみられるが、原因について江別署が調べている。

火災と同時に学籍簿や入学願書など重要書類は無事に搬出した。同校ではただちにグラウンドに対策本部を設けた。

○…真夜中の火事だったが、高校が燃えているとあって現場はたちまち黒山の人だかり。なかでも付近の同校生徒百人余りが"母校を守れ"と火煙をくぐって消火作業に協力したり、階下教室から机やイスを運び出すなど大活躍。おかげで教室は焼け落ちたが、机や実験器具などは大半が無事。それでもあまりの変わりように涙ぐむ女生徒もあった。

○…地元江別をはじめ当別、幌向からも消防車がかけつけ計八台が消火にあたっていたが、前後にあった排水溝や貯水池の水はたちまち使い尽くして水さがしに右往左往するありさまにたまりかねたヤジの一群が雪ツブテを投げ込んでいた。

何より発見がおそく、防火トビラも全く使用できなかったことが火のまわりをこれほど大きくした原因。



記事にはこのほかに道立高校の火災は昭和二十四年に富良野高など四校、昭和二十九年に釧路湖陵高と網走向陽高、昭和三十一年に小樽潮陵高といったぐあいに数年に一回は発生していることを伝えている。

しかしながら十日間に道立高校を三つも焼くという惨事は、ある意味、道教育委員会の"不祥事"として世間から糾弾されることになった。

このため遠軽高校などの改築には防火や避難に重点がずいぶんと置かれたようである。

しかし木造校舎の消失火災は昭和四十年代にかけてもたびたび起こり、新聞紙上をにぎわせたのであった。

これから北海道は風の季節。火事はこわいこわい
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2009年02月20日

#50年前# 江別の重兵衛渡し

20日の北海道は二つ玉低気圧の襲来で太平洋側を中心に雪が強まっている。
苫小牧の積雪も20センチに近づいてきたし、十勝南部の積雪もあちこちで1メートルを越えた。音威子府も2メートルを越えた。どうやら今日〜明日が今冬の積雪のピークというところが多くなりそうである。
明日は国後島付近で低気圧が猛烈に発達する見通しで、午前中を中心に猛烈な吹雪となりそうだ。

さて、50年前の2月20日も北海道南岸を低気圧が通過したが、多少雪を降らせた程度で大きな影響は無かった。まあそんな中江別高校は焼けたわけである。

その江別高校が猛火に包まれる記事の下にひっそりと冬の悲しい事故の小さな記事が載っている。

北海道新聞 昭和34年2月21日


【江別発】十九日午後三時十分ごろ石狩川重兵衛渡し付近の氷上で遊んでいて氷が割れ、水中に落ちた江別市字美原○○、市○○課長△△△△氏長男××ちゃん(六つ)は江別署、消防団、自衛隊恵庭駐とん部隊などの捜索で二十日午後三時三十七分ごろ、約百メートル下流で死体となって発見された。


石狩川は昔、あちらこちらで渡し船があったというのは今でも結構有名な話だが、個々の渡しとなると既に歴史上の話となっているものが多い。この「重兵衛渡し」もその一つであろう。

「重兵衛渡し」は、50年前はその名前だけで"あああそこか…"と気づくほど身近な呼び名であったことがこの記事ではよくわかるが今では地図上にその名前を見つけることができない。

調べて見ると、この重兵衛渡しは明治27年(1894年)に福井県出身の武田重兵衛が江別・大川通と対岸の一原(いちげん)地区を結ぶために北海道庁から渡船経営の許可を受けて渡し船を始めたことが由来だそう。昭和45年(1970年)ごろに廃止されるまでは江別と当別・新篠津方面への交通に利用されたとのことであります。

冬になるとこの重兵衛渡し付近は結氷し、それこそ「馬橇で渡れる」ほどの強度があったとのことだが、この冬は1月後半から暖冬傾向で経過したため氷も緩んでいたのであろう。暖冬異変が招いた悲劇であったともいえる。

なお「重兵衛渡し」で事故により亡くなった方々を慰霊するため建立された子安観世音が今でも渡船跡には立っているそうです。
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2009年02月27日

#50年前# 帯広で霧雪を観測

日本の中でも四季のはっきりしている北海道。猛暑日から真冬日まで経験できるし、雨も降れば雪も降り、台風がくれば暴風雪もある。様々な天気現象を経験しやすい土地というところであるが、それでもなかなか経験できない天気現象はいろいろある。

例えば砂塵嵐。国際天気記号では30〜35になるが、日本では乾燥した土が広範囲に巻き上げられて一面が暗くなるなんていうことはほとんどない。遭遇したくない気象現象のひとつである。

ただし、国際式天気記号では09で表す「じん旋風」は昨年だったか、帯広の公園で発生したらしい。

帯広といえば10年くらい前の春先、「凍雨」をみたことがある。透明な玉のような氷の雨がどんどん降ってくるのだ。積もっているのに下が透けて見えるという不思議さにびっくりした。この凍雨は国際式天気記号では「79」。やはりめったに見られないものだ。

そしてさらに珍しいのが国際式天気記号「77」。霧雪である。

今から50年前の2月、やはり観測地は帯広であった。

北海道新聞 昭和34年2月27日

南極、シベリアなど極寒地にしかみられなかった霧雪が十九日、帯広測候所で観測された。

この霧雪とは強く冷やされた水蒸気が地上付近で霧になるかわりに気体からいきなり雪の結晶になったもので直径0.1ミリ以下の小さいもの、普通の雪のように降らず、空気中をチリのように浮遊しているところからこの名がある。

極寒地で無風状態のときにまれに発生するが、日本では全く観測された例がなく、もちろん帯広でも初めての珍しいもの。

帯広で観測されたものは、直径〇.一ミリ前後の六花状の結晶で、十九日午前七時四十分ごろから同九時半頃までで、このときは霧が厚くたれこめた無風状態、報告を受けた札幌管区気象台では貴重な発見として近く学会に報告する。


1959年2月19日の帯広の最低気温は−15.8度。
それほど2月の帯広として厳しく冷え込んでいるわけではないのであるが、記事中にあるように霧が厚くたれこめ、無風という条件などたまたまが重なったためであろう。

帯広の真冬の霧は、氷結しない十勝川の川霧によるものが多いと思われるが、ダイヤモンドダストではなく霧雪と区別して観測できたところに当時の測候所観測員のプロ仕事をみることができる。(おそらく区別は顕微鏡レベルででしか判定できないであろうから・・・)

これから50年経ったが「霧雪」の観測事例は検索してもほかにみつからない。

あとは帯広で「砂塵嵐」が観測されれば完璧ですね・・・。

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2009年03月12日

#50年前# 春を告げる魚

北海道では春告魚といえばニシンを指す言葉である。

開拓時代より前から北海道の西海岸はニシンの漁場が開発されており、海岸には番屋が並び春になると回遊するニシンを獲るために本州方面から多数の出稼ぎ労働者がやってきた。そもそも松前藩は年貢米のかわりにニシンを納めていたといわれるほどである。

群来ともなれば、昼夜問わずに漁に出て、嵐にあえばたちまち遭難。板一枚下は地獄という命をさらしながらの漁が行われていたわけである。

そのニシンも昭和29年の大回遊を最後にぱったりと北海道西岸から姿を消した。今年は小樽で久々に群来がみられ話題となったが、ニシン漁の活気を知る人もだいぶ少なくなった。

今から50年前は、まだニシンが来るのをあきらめきれない漁師が多かった時代。ニシン漁でにぎわった留萌市の当時の経済課長が紙面に随想をよせている。

昭和34年3月2日 北海道新聞朝刊1面


春を告げる魚

今年は雪が少なかったせいか、例年より重苦しさの少ない暖冬であった。
わたくしたちのこの北国にももうすぐ春がめぐりくるかと思えば、心はたのしい。金魚うりの声を一度きいたが、春を告げる声としては早すぎた。

喜びの日よ、
はやくも来たか。
暖かい太陽はわがそぞろ歩きのために
丘と森を返してくれるか。

小川は雪解け水の水をうけて
いともゆたかに流れる。
これが去年の秋みた草原か、
これが去年の秋みた谷か。
(ゲーテ 『いち早く来た春』)

愛しょうの一節であるが、わたくしたち北海道の、しかも西海岸に住みついた者にとっては、浜から初ニシンによって春のおとずれを知りたいという、今もその郷愁が心の底に残っている。

春めくや津軽若衆のあめみやげ

そのあめは入っているであろう背中の荷物に目をこらした幼い頃を思い出す。やがて、

ここもまた焼いているなり初鰊

あみわたしに焼きつくその音とにおいが、今も鼻先に新鮮である。
いつかは幕になると思ってはいたが、あまりに早かった、となげいた増毛の某長老の哀愁に満ちた顔を思い浮かべてみる。
永遠の郷愁としてせめても菓子に造彩したいと苦心して銘菓『春告魚』を完成させた人が留萌にいる。

今年も何ヵ統かの建網は建つだろうし、刺網も待機の姿勢だけは整えるにちがいない。
しかしそれはもう浜一帯のはりにはならない。
何十年という長いあいだ、毎年春のおとずれを告げてくれたニシンは、岸に来てくれる魚から沖まで獲りにいく魚に変わってしまった。
北国の春の情緒をわたくしたちに長く味わわせてくれた接岸ニシンにお礼したい気持ちである。

日本海では近年対馬暖流がかなり強く北にはりだしてきた推断される根拠がある。このかぎりにおいてはこれから先は、接岸ニシンに春のおとずれを知る期待はもてないし、もつべきでもない。春ニシンは来たら獲る魚となった。

浅春はゲーテとともに草の萌えでる丘を歩こう。春はおくれてもいいから今年の海では、暖流系の水族が次から次へと豊富に姿をみせてくれてほしい。これが西海岸漁業者の祈念である。

詩人がニシンにささげた『春告魚』は永遠の郷愁としてわたくしたちの回顧趣味をみたしてくれるだろう。わたくしたちは産業の問題として新しい生産の場、日本海に目をこらすのである。

栄井直蔵(留萌市経済課長)


留萌ではすっかりあきらめの境地、ニシンが春を告げたのはもう過去のこと…と割り切ろうとする心と、やはりニシンが来ないと寂しいという心が交差する、そんな文章である。

稚内水産試験場のデータでは、北海道のニシンの漁獲は1955年ごろからゼロ線にはりつき、ほとんど取れていないことがわかる。

これと対照的なグラフを気象庁ホームページでみつけた。

日本の年平均気温のグラフをみるとちょうど1950年頃から10年ほどはそれ以前の時代とくらべてもかなり高温の状態が継続していることがわかる。特に5年移動平均では1960年前後の気温は1990年以前では突出して高い。

この高まった気温が水温や海流の流れに影響を与えたのだろうか。

この50年前、最後までニシンが取れていたところがある。道東太平洋側の厚岸である。

昭和34年3月14日 北海道新聞


『いまじゃニシンの本場所は厚岸さ』と地元の人たちはうそぶいている。とにかく、ちょっとしたブームだ。

今月の四日に十三トンほどの初水揚げがあって以来、隔日に群来て十三日までに三百二十d、十日間で三千五百万円ばかりころげ込んだ。昨年の水揚げはざっと五億円。このため日本海の親方たちが漁夫をひきつれ地元漁民との共同経営という形で割り込んできたし、それに道内外の出稼ぎ漁夫もどっと入り込んでいる。その数約三千人。湾内には二十隻余の積取船が一ヶ月も前から漁待ちしている。

陸も海もイモを洗うような雑踏ぶりで、祝酒に酔った漁師のダミ声がいっそう景気を呼ぶ。魚齢は八、九年生で完熟している。

値は高く、一尾で五、六十円。庶民には縁遠いがすでに数十万円かせいだ漁民もあって、浜には笑い声が絶えない。(厚岸)


厚岸のニシン群来は日本海沿岸よりも遅くまで続いたが、やはり1970年代にぱったりと姿を消し、年間水揚げわずかに10トン未満という時代がやってくることになる。

北海道に「春を告げる魚」という形で復活を遂げるのはこの先くるのかどうか?環境、自然両面から考えてなかなか難しい問題である。
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2009年03月20日

#50年前# 上川・住民の父、惜しまれながら東京へ

毎週のように週末天気が崩れる北海道。今週も例に漏れず、金曜日の札幌は冬に戻ったかのような断続的な吹雪。今夜はけっこう積もるのだろうか?

さて50年前の昭和34年も3月後半は時折荒れ模様の天気となってはいたが、基本的に気温は高めで季節は段階的にではあるがちゃんと進んでいたようである。

そして本格的な春を前に、一人の医師が約半世紀を暮らした上川町を去っていった。

昭和34年3月15日 北海道新聞より


上川の一老医師 開拓に捧げた半世紀
惜しまれながら東京へ

【旭川発】
『恵まれない人たちのために・・・』と東京から本道へ渡り、草深い開拓地に入って"仁術の灯"をともすこと半世紀"上川町の父"と慕われた医者が寄る年波に人々に惜しまれながら近く子供たちの待つ東京へ帰るという。これはまちの発展に一生をささげたある老医師の物語。

"わしの仕事はもうありませんよ"
白髪をきれいに刈り上げた植村外三郎さん(七四)は、深い顔のシワをのばして満足そうにほほえむ。

ここは観光地層雲峡で知られる上川郡上川町の北町。つい最近まで開業していた植村医院の居間で五男の順さん(三一)=東北大学黒川内科研究室=たちに引越しの準備を手伝わせながらこういう。

植村さんは愛知県春日井村(現在市)で生まれた。
家は漢方医で植村さんも医者を志し、名古屋の中学を出ると間もなく上京し日本医学校(日本医科大学の前身)に入った。卒業したのが明治四十一年で国家試験にパスして浅草の田中町で開業した。

ところがたまたま第七師団の軍医として旭川にいた長兄の隆秀さんから『医者の少ない北海道にこないか』という誘いを受け、『男として生きがいのある生活なら・・・』と翌年旭川にやってきた。すぐ隆秀さんと懇意にしていた竹村病院に迎えられ数年間患者の面倒をみた。

その後上川郡愛別村に愛知県団体をつれて入植した叔父の植村滝三郎さんから病気になってもみてももらえない気の毒な開拓者の話を聞かされて心をうたれ、大正三年一月村医として愛別村字ルベシベ三十六線(現上川町三六町内)に入った。

当時はまだ鉄道が開通する前で、各部落に開拓者が点在し、二百人ちょっとしかいなかった。
住宅がないため馬小屋を改造して住んだが、医療設備のなにもないところだけに部落の人たちは熱狂的に歓迎してくれた。

それから植村さんの苦しい開拓医の生活がはじまった。真夜中にたたき起こされ、雪の道を十`以上も馬で飛ばしたり、また大正七年のスペインかぜのときには植村さん自身もかかりながら責任感にもえて部落全部を往診して歩いた。『もしあのとき先生がきてくれなかったら・・・』と部落の人はいまでも感謝している。

またあるときはクマにおびえながらクマザサをかきわけ往診の途中、川を渡るのに馬もろとも流され、命からがら助かったこともあった。患者が貧しければ薬代ももらえなかった。こんなところから部落の人たちも植村さんの医院を建てるのを手助けしたり、旭川へ出るときはかならず『用事はないか』と立ち寄って植村さんのためにつくした。

昭和に入ってからは学校医や鉄道医の嘱託も引き受け、戦争中は医者がいないため、寝るひまもない忙しさで、植村さんの医院の門は夜中も開けっぱなしだった。

終戦後(昭和)二十一年に健康保険組合の直営診療所(現町立国保病院)ができてから植村さんの仕事もいくらか楽になったが、こんどはPTA連合会長や教育委員、選管委員など多くの公職について町の発展に尽くし、昭和三十年の開基六十周年に自治功労者として表彰された。

人口わずか二百人の開拓地から一万五千人の町になるまで植村さんは文字通り上川の歴史とともに生きてきた。そして『もう立派な病院もできたし、わしらの時代はすぎましたよ』と東京に帰ることに決めた。

東京には長男の肇さん(四七)=文部省勤務、医学博士=をはじめ六男の敏さん(二九)=自治省勤務=らがいる。そして『長い間苦労されたお父さんのために』と六人の子供たちがカネを出し合って家も建ててくれるという。

一方、町では功労者としてつくしてくれた植村さんを引き止めたが、家庭の事情でやむをえないため、みんなで心から送ろうと上川町、議会、教育委員会、国保運営委員会、学校、医師会など町内のほとんど全団体が発起人となって十九日公民館で盛大な送別会を開く。

植村さんは二十一日東京へ向かうが、いままで長い間世話になった人たちへ、丹念につづった"私の歩んだみち"と題する自叙伝三百部を贈っていくという、いつまでも残る記念として―。

野田 上川町長の話
植村さんは名誉町民ともいえる人で、長い歳月よく郷土を守り育ててくれました。先生のおかげでどのくらい人の命が助かったかわかりません。こんごは健康に留意され長生きしてほしい。



ちょうど北海道に開拓者として入ってきた世代が人生の終わりを迎えようとしていたのがこの1950〜60年代である。現在よりずっと寒冷であった北海道で、幾多の苦難を乗り越え、町や地域の発展を見届け、子や孫の暮らしが安定しつつあるのを眺めて一生を終えてゆく。この開拓第一世代の人たちは非常に人生が充実していたのではないかと、しばしば羨ましくさえ思うことがある。

この日の紙面には植村さんの晴れ晴れとした笑顔が掲載されていた。

現在は金融危機などで世界は混乱期の入り口にある。おそらく日本も北海道も、これから10年ほどは我々が経験だにしなかったような苦難のくらしが待ち受けていよう。しかし何も無かったこの時代をたくましく生き抜いてきた開拓者のDNAが我々にある、と考えると、しまいになんとかなるような・・・そんな希望や勇気さえ湧いてくるのであった。
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2009年03月21日

#50年前# 道立高校入試

今日は冬型が緩んで全道的にほぼ平年並みの気温だが、風が強く体感的には空気の冷たい一日となっている。岩見沢では20年ぶりに早い積雪ゼロを記録しているし、札幌の積雪も残り20センチ余り、あと10日ほどで無くなりそうだ。

さて、今は大学入試も高校入試もすっかり終わった感があり、卒業式もほとんど終わってしまった。センバツも始まったし、いよいよ本格的な春間近といった感覚であるが、今から50年前はセンバツは4月に入ってから開幕だし、道立高校入試も試験日が3月20日と遅かった。

高校入試に限ってみてみると、今年は裁量問題の導入による大きな変化があったが、基本的にはここ30年来続く国数理社英の5教科×60点の300点満点で争う。

しかし、50年前は国数理社の基礎4教科(30点満点)のほか、英語と職業・家庭はどちらか選択の科目であり、加えて音楽、図画工作、保健体育、職業・家庭(各20点満点)という9科目220点満点の制度であり、今と全く違っていた。

ではどんな問題が出ていたのか?
昭和34年3月21日の北海道新聞からみてみることにする。


図画工作

【問3】つぎの「」にあてはまるものを下から選びなさい。
 色彩の機能を活用し、色彩調節を考えると、私たちの勉強する部屋は「A」にするために、壁の色を「B」にするのがよいと思う。

A 1:あたたかくうきうきした感じ
  2:暗くやわらかな感じ
  3:冷たく澄んだ感じ
  4:おちついて静かな感じ
  5:明るくはずんだ感じ

B イ:しずんだ灰色
  ロ:活動的な強い色
  ハ:あざやかな美しい色
  ニ:刺激的な原色
  ホ:やわらかな中間色


いやあ分からない(笑)。正解はAが4、Bはホだそう。図画工作はこのほか、住宅平面図の建築記号が何を示すかを問う問題、実用的な引き出しの形を問う問題など、一見、今の学生が学校で勉強していないような問題が並ぶ。

次!


音楽

【問2】
つぎの旋律はアメリカ民謡「谷間の灯」の一部です。示されている拍子になるように破線で区切りなさい

楽譜(図略)


こんな曲知らない(笑)

問題には2分の2拍子で旋律だけが音符で示されている楽譜が記載されている。要はこれを区切るだけでいいので、曲を知らなくてもいいのだが。

このほか音楽の問題には、実際に楽譜に音符を記して「まとまりのある歌いやすい旋律を作る」というスゴイ問題、があった。

次!


保健体育

【問10】
つぎのうち、選手あるいは応援者の態度としてよいものには○、そうでないものには×をつけなさい。

1.相手が失敗したときは歓声をあげてよろこぶ
2.負けたときは、その原因を究明する
3.審判の判定に不服なときはすぐに試合をやめて引き上げる
4.相手の下手な選手をみんなではやしたてる
5.相手が味方の攻撃を上手に防いだときは、心から拍手をおくる。


当然ながら正解は×○××○の順番である。

これが隣国だったら○×○○×なのであろうか?

保健体育には身体結果の表から、めがねをかけたり結核の検査をうけたほうがよいかを問うという驚愕の問題もあった。

次!


職業家庭(必修問題)

【問8】
つぎの問いに当てはまるものを下から選びなさい
A 飼料を肉にかえる能率のもっとも高い家畜はどれですか?
B 投資は大きいが日収が確実で、寒冷地の農業経営に役立つ家畜はどれですか?

1 にわとり
2 乳牛
3 豚
4 うさぎ
5 めん羊


すごい、農業経営まで義務教育で教えている・・・。
この時代の教育はすごい分野が広いなあと思うしだい。わたしが受けた昭和50〜60年代の義務教育で家庭科といえばこんなことを教わった記憶は全くない。

ちなみに答えはAが5、Bが3。にわとりじゃないんだ〜

社会は15問、理科と数学は14問も問題があるが、30分程度で解かねばならない時間構成で、ともかくガンガン解かないと終わらなかったであろう。非常に疲れる出題構成である。

英語はgoodやseeの比較級を記す問題、Japaneseやdictionaryのアクセントを問う問題など全部で9問。しかし選択だからやらなくてもよいのである。
ちなみに代わりに選択できる職業家庭の問題ではジャムの色を美しく仕上げる方法の問題、コンクリート施工の問題など、NHKの趣味講座でやっているような実用的な問題が並んでいた。こちらを選択した学生も多かったであろう。

我々の子供達が高校受験になるころはどんな問題が出題されることやら・・・?
posted by 0engosaku0 at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 50年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする