2010年06月13日

100年前 札幌の名物男逝く

最近また明治時代の新聞に回帰しつつある。

やはり新聞記事は昔ほど記事に面白い表現があり、読み物として楽しめる。

今回は、歴史に残らない人物の話。札幌の名物男「赤帽子」についての記事を紹介する。

いきなりだが、逝去記事から。

明治43年(1910年)6月3日北海タイムス


名物男 赤帽逝く

札幌の名物男として広く名を知られたる赤帽子元祖北一条西三丁目の看板屋、原田文治郎氏は久しく病気中であったが、あの元気にも薬石の効しなく終に昨日逝去した。

氏は遠州西尾の生まれで散々東京で飛び回ったあげく、明治二十四年札幌へ渡り、看板店やら新聞売りさばき業やらはた興行師やら有りとあらゆることを始め、すこぶる非常の愛嬌ものと珍重がられていたのだが、測りがたきは娑婆の習い、赤帽転じて白帽の故人となるは痛ましいかな。享年五十一歳。




明治43年6月4日 北海タイムス


名物男 原田赤帽子

看板屋の鼻祖(びう)で原田新聞店の創立者、札幌音楽隊の組織、札幌孤児院の創立、興行物の改良等に功あり、奇人としての名物男、通称赤帽子こと原田文治郎氏は二日朝終に黒枠の人となった。

氏はつねに洒落を好み、滑稽に富み、あらゆる慈善会等には必ず出演して人を抱腹せしめ、今より七、八年前、三国大像の出語りで、千歳米はの阿古屋、北辰病院井上氏の重忠に、自分は岩本左衛門にふんし、肝心のセリフを忘れて愛嬌をふりまいたことがある。

札幌区内知名の人々が死去したるときは必ず赤帽子故人の山藤、阿由葉、大畑、黒柳、宝亭の主人らの顔を見ない時なく、自ら称して通夜会社の重役と力み、かつて前記名物連うちそろひ、通夜の真夜中、妓楼(きろう)北海楼(いまの長谷川楼)へ押しかけ、底抜けの騒ぎをした珍談がある。

赤帽子君死去の二、三日前、萬朝報の懸賞ごろあわせ出題「驚き桃の木山椒の木」とありしに「おそろし呑み助三升ペロリ」と読み、家人に腹をかかえせしめたようだ。

赤帽子君は奇人だけに死期を悟ったのか、死去の前一日の朝起き上がると同時、鶴岡床へ行き散髪をして帰途千代の湯へ寄り入浴して帰宅せるが、何時になく家族を集めて真面目になり、「実業の日本」の立志編を読み聞かせ、万一おれが死んだら、閻魔のところへ行き、大王に談判して駄洒落国へ行くつもりだなどと壮語していたのが、終に翌二日朝、脳溢血で倒れてしまい、名物男の面影がなくなった。



いつの時代も、周りから愛される人がいる。
明治末期、札幌を明るくしていたのは、この「赤帽子」さんなのだろう。

悼む記事からも、その人柄が伝わってくるものである。

posted by 0engosaku0 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

1911年1月の北海道の話題(1)

久々に記事を追加する。
夏から休む暇がほとんどないくらい忙しい日々を送っていた。まだ忙しいのだが、ほったらかしにもできないし、面白い新聞記事も多いのに埋もれさせるのもなあと思うので、できる範囲でちょこちょこ書いていこうと思う。

復活第一回目は100年前、明治44年1月の北海道の新聞記事からひとつだけ取り上げる。

100年前と今の新聞記事の質の違いがよくわかる記事。

1911年(明治44年)1月9日 北海タイムス


女房の交換から 酔漢抜刀で暴れる

松の内酒機嫌とはいえ、かかる痴漢の絶えざるは嘆かわし。

小樽堺町二十番地、小杉定吉方の家を借り同居しおる大塚●次(25)、七尾▲太郎(27)の揃いもそろった二人馬鹿は、三日午後九時頃一杯機嫌になった上、双方の女房を交換すべしと約束し、女房共に言い渡したるに、▲太郎の女房は「そんな馬鹿馬鹿しいことができるか」と小言を並べて外出したる後にて、▲太郎は●次を戸棚の中に押し込み、外より心棒をなし、●次の妻●チ(22)に巫山戯(ふざけ)かかりしが、●次も黙っておらず、一尺七、八寸の日本刀を振り回して暴れ出し、▲太郎もそれは約束は違うと動物らしき喧嘩をはじめたる所へ警官出張し、両人を小樽署へ引致、検束中。

此れが奴等がおるから、年々国費の膨張が絶えざるなり。


いやあ、本当に馬鹿馬鹿しい話なのであるが、「二人馬鹿」とか「動物らしき喧嘩」とか、事の顛末の書きっぷりとか、「プライバシー」や「人権」などの言葉がなかった時代を思わせる。

次回は、「そこまで書く?」と言ってしまいそうな小樽中央病院の事件を書く予定也。

posted by 0engosaku0 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月27日

1911年1月の北海道(2)

前回に引き続き、1911年1月の北海道の記事を書いていく。

2回目は小樽中央病院の看護婦変死事件についてとりあげてみる。

明治44年(1911年)1月8日 北海タイムス


看護婦の変死 小樽中央病院内椿事

昨八日午前一時小樽区稲穂町三五番地なる色魔の噂高き中央病院(院長牧野千代蔵方)看護婦柳沢ハナ(23)が同病院十号病室において、毒薬ストリキニーネを服して変死をとげいたるを発見したるより。

小樽署よりは狩野巡査部長警察医らと臨検したるが自殺か他殺か目下取調べ中なり。

本社支社員の探査したる結果を左に報道せんに

まず▲変死女の素性より記載すれば、ハナは去る明治三十六年中、札幌女子高等小学校を卒業し補習科へ入学修行の上、石狩小学校代用教員となり、再び札幌へ帰り、初めて正見病院の看護婦となりしにて、その後江別、岩見沢、夕張を経て一昨年七月、忍路郡塩谷村隔離病舎に雇われしも、職を退きし後小樽に赴き、同地看護婦会に入会し、個人にて看護婦を営みいるうち昨年七月頃、前記中央病院に雇われしにて、ハナは性淫婦にて素行修まらず、終に同病院長牧野千代蔵(42)と醜関係を結ぶに至りたり。

▲色魔院長の素性
同院長牧野千代蔵氏の素性について、昨年本紙が『病院長の悪病』と題し、同色病院長の反省を促したる事ありしは読者の記憶せらるる所ならんが、千代蔵(42)は十勝国中川郡凋寒(しぼさむ)村利別太(現池田町)西六番地に籍を置き、日露戦役には看護長として従軍し、陸軍三等軍医となり明治三十八年凱旋後、利別太に病院を開業し、正八位勲六等の位記を有しながら性放縦にしてすこぶる好色漢なり。

同地にても入院患者看護婦間に醜聞多く、愛児まである妻と離別し、従って負債を生じ、明治三十九年中、自ら火を失して病院を全焼せし事あり。

世上にてこの出火の原因を放火なりとの噂せるもの多かりし程にて千代蔵は同地にも居住できず、諸所を漂泊して札幌に来たり、中村屋旅館に宿泊中、女中テツ(24)と私通し、終に同女を妻として小樽区に赴き、折から前中央病院長死亡せし時なるをもってこれを譲り受けて開業するに至り。

かつて小樽在郷軍人団の副会長までなせし事ありしが、千代蔵は色魔の噂高く、常に雇い置く看護婦と醜関係をつけいるうち、前記ハナは昨年七月頃同病院に雇われしに、直ちに千代蔵と私通したるが、近来に至り、本妻テツを侮蔑してテツを虐待し、しばしば折檻することあるより、出入の商人車夫らはテツに同情し、ハナを「姐妃(だっき)のお花」とあだ名するに至りたる。

千代蔵はハナの甘言に惑わされ、二、三ヶ月前またも妻テツを離別してハナを正妻に直すに至りたり。

しかるに色魔院長千代蔵は、本年に入りまたもハナに嫌気を生じきたりしより、ハナは常に「この病院を出さるる時は、只はいでぬ」と言い張りいたるとの事なるが、他殺か自殺については目下小樽署によって取り調べ進行中なりと。




そして、翌日の新聞には続報が掲載されている。


自殺せる看護婦 紳士とはかの如き者かな

小樽稲穂町中央病院看護婦、柳沢ハナが毒薬ストリキネーの飲用により変死をとげたる顛末はとりあえず前号に報したるがごとし。

一看護婦の死はあえて事々しく記載するの必要なきがごとしも、その裏面に潜める一切の事情を暴露しきたらんか、現代社会堕落紳士の真相と、虚栄に憧れる軽薄少女の面目躍如たるものあり。

風教の資として以下記す所あらん。

▲警察官の断定

八日午前六時、お花の死体を検視したる小樽署の狩野巡査部長は、お花の死をもって全くの自殺なりと断定し、検視の際、枕頭に該毒薬の二、三滴残存する湯呑茶碗一個あり。

午前一時頃毒薬を飲用し、一時間ばかり苦悶して午前二時頃絶命したるならん。

しかして自殺の原因は昨年夏季院長牧野千代蔵と醜関係ありの噂を立てられ、続いて新聞紙に掲載せられしより極ヒステリーにかかり、結局精神錯乱の結果なるべしと言えり。
自殺については最早争うの必要なかるべきも記者はまず院長牧野を訪ねて聞く所ありたり。

▲院長牧野の告白

院長牧野は在郷軍人分会の発会式に臨むはずなりしが、お花変死のため、すぐに人目を恥じてか出席を見合わせ、元気なき顔色をして室に記者と会せり。

牧野いわく昨夜は十二時過ぎまで発会式の余興のことについて来客と話していた。
お花はお鉄(本妻)の部屋に来て、ともにコタツに入りて話をして暫くたってから自分の室(十号病室)に引き込んだが、別に怪しいそぶりはなかった。

お花は昨年の新聞以来ヒステリーがひどくなり、激しい痙攣を起して苦しむことも珍しくなかったから、昨夜部屋で苦しむ音を聞いた隣室の薬局員なども格別気に留めなかった。

一番先に死んだのを発見したが痙攣の極度に達して死んだものと思っていた。
しかし、自院内の出来事であるから毛利君、吉川君(ともに医師)を電話で呼んで診断を頼んだところ、両君は死体の状態を見て、ストリキネーの中毒であろうと鑑定された。

遺書もない、吐しゃ物もない。
真実、ストリキネーを飲んだかどうかは自分にはわからぬ。
しかし、お花はかつて妹背牛において教職を奉職した当時、やはり自殺騒ぎを演じた例があるそうだと

記者は『しからば貴下はお花の自殺せし直接の原因はいかに考えるか」と問い詰めたるに、
牧野は『勿論ヒステリーの結果なり。直接の動機は本院が東京より藤田医学士を昨年末三十一日に招聘せしも金銭上の事情により去る五日辞職せり。
しかるにお花に対しては七日の夜までこれを告げず、同夜初めてこれを知らしたるために、俄然ヒステリーの激烈なる発作をなしたるたらん』と。

記者は大笑いをして追求せり。『藤田医学士の招聘とお花は何等の関係なし、おそらく自殺の原因は貴下がお花に対する態度が従来より一変したるゆえならんか』

牧野曰く、『過去の不始末は今更弁解するようなきも、自分も男なり。お花のことについては入籍はせざるも父親の承諾を得たるほどなれば、今にして態度を変する、すなわち冷酷なる行動をとるが如きは断じてなさず。葬式のごときも本院で執行のはずなり」とてい彼はこの後にもお花との醜関係を自白したり。



どうやら自殺の大元は「新聞記事に載ったこと」がきっかけのようであるが、新聞記者についてはそんなことはどうでもよく「色魔院長」が原因と決め付けてずいぶん上から目線で攻撃しているあたりが面白い。

12日付けには、「純な看護婦を狂わせた色魔院長」との角度から、「色魔院長」の過去の悪行の数々を書きたてているが、時間がなくなったので抜粋ということにしたい。

・利別太の病院時代、患者の広瀬某が入院中に不思議に妊娠し、退院後夫が病院に怒鳴り込む
・患者の白木某も入院したその夜に牧野院長のはずかしむるところになった
・14歳の少女を雇い入れ、その夜に獣欲の犠牲になさんとし、少女は深夜に眼を泣き腫らしつつ実家に走り帰る

現在で言えば週刊誌のテリトリーを、新聞は担っていたのであるなあ。
posted by 0engosaku0 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月04日

1911年1月の北海道(3)

2月4日は立春。北海道はまだまだ冬なのだが、春らしい言葉を解説で使えるのは嬉しい。霞がかった青空とか、ニシン曇りとか。寒気がきても「寒の戻り」とか。札幌の積雪は68センチあるが、これからは0に向かってカウントダウンである。

さて、新聞記事のほうはまだ1月の記事をすくいあげていく。
今回はテーマは設けず、小さいネタをいろいろと。
記事はいずれも北海タイムス

1911年(明治44年)1月3日

岩見沢の初荷

概して昨年と大差なく、各商店共一日夜12時頃開店、二日午後二時頃閉店したり。
概して岩見沢町二日の売り出しの不況なりしは、一日以来稀有の大吹雪にて村落の交通途絶に至る所多かりしと、一つは村民各自が水田に獲り入れし自米の貯蔵多かりし為めなるがごとし



各地の初荷の状況が掲載されているが、岩見沢と倶知安は吹雪の中の初荷・初売りとなったようだ。

開店が元日深夜の12時というのが今と違って面白い。昔は元日から2日にかけて夜通しやっていたのだなあ。

次、
1911年1月10日付け


火燵(こたつ)の用心

昨八日歌棄郡美谷村(現寿都町)一三番地鈴木大八方より出火せしが、折から昨来の風も凪たるため延焼なく鎮火したり。
家族二名焼死し、一名は重傷なり。
出火原因は火燵の火に掛けおきたる衣類の火に焼ばりたるなり。


道民の冬の生活は暖房とは縁が切っても切れないが、ストーブではなくコタツを使う家庭も多かったのだろうか。今はコタツも電気コタツが中心だから、火事の恐れも少なくなった。

次、同日の記事


旭川の縊死(いし)者

原籍兵庫県淡路国三原郡方田村、当時旭川常盤通古川橋詰左二号、荷車業、岡大治(43)は、上川郡神楽村西御料地四号東一番地、佐竹孫三郎の肥料小屋において、自身の兵見帯とフンドシを結び合わせて縊死しいたるを昨朝に至りて発見せり。

同人は夫婦二人暮らしにて格別生活難を告ぐほどにあらざりしが、生来小心なる上、いたって正直者にて、昨年十月頃所有馬を売却して他の馬匹を購入する見込みなりしも、いつか右、金子(きんす)を消費したるため、本月二日頃から精神に異常を呈し、ついに此れに至りたるならんといふ。



要するに、首吊り自殺なのだが、現在は自殺自体を記事にすることがほとんどないし、さらに名前が出て、死に方が出て、さらに何故自殺するに至ったのかまで細かく書いてあるのが全く違うところである。

次、明治らしい書き方の記事
1911年1月9日付け


室蘭の強姦未遂

室蘭町字母恋大町二丁目番外地居住、島根県生まれ製鋼所仕上工、藤島万市(29)という出歯男は、去る四日年始の為め、糸付方面へ赴きての帰途、同日午後六時頃、母恋御前末製鋼所高架桟橋付近へさしかかりに、同製鋼所社宅居住、神戸市生まれ伊藤定次郎妹キミ(18)に出会いしに。

一杯機嫌の万市はツイよからぬ心を起し、キミを街路に引き倒し、強姦なさんとしが、キミは必死になりて救いを求めおる折から、佐久間駐在所巡査が巡回先とて直ちに万市を逮捕して室蘭署へ引致したり。

ちなみに加害者には妻程瀬ノブ(24)というものあるにかかる暴行に出てたるなりと。



ここの記事にある「妻」は結婚しているわけではなさそうだから、大人で男女の仲であれば、もう「夫婦」とみなされるような時代だったのかもしれない?

同じ日にズバリそのまま書かれている記事もある。


万引せる助役の妻

小樽区内某停車場助役内縁の妻、新潟県中蒲原郡白根町生まれ草野ユキ(26)は五日午後三時頃、稲穂町十四番地川崎呉服店へ買物にゆき、店員の隙をねらい、縞の甲斐絹一反(価格十三円)を万引きし、股間に忍ばしたるを発見され、その筋へ突き出されたるが、七日小樽裁判所へ送られたり。



万引きが犯罪として堂々と記事になるのはもとより、「内縁の妻」が職業のように堂々と書かれているあたりがすごい記事である。
それにしても、股間に隠したか・・・。


さて、時間も遅くなったので、続きはまた明日ということに・・・。
posted by 0engosaku0 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月05日

1911年1月の北海道(4)

前回の続きで、小さい記事を中心に。

1911年(明治44年)1月18日付け 北海タイムスより


脳天を瓶(かめ)で破る

常呂郡常呂村浜市街地料理店北見亭、尾崎ツマ内縁の夫壮士俳優峰山鉄腸こと及川正雄(30)が同村運搬業大島武治(32)の脳天を打ち破り、一時は生命危篤に陥らしめたることは既電の如し。

今詳報を記さんに及川は峰山鉄腸と名乗り壮士俳優となって各地を巡業中前記のツマが札幌に奉公中関係を結び、内縁の夫婦となり居るうち、ツマの実兄尾崎百平が喜島楼と暖簾をかけて常呂村に料理店を開業の節、すなわち昨年の春、ツマ夫婦を連れ寄せ内所の手伝いを為さしむる。

ツマ夫婦はツマの実父方にて北見亭と称し料理店を開業することとなり、昨年夏より提灯を下げたるが、及川は喧嘩自慢にて時々腕をふるい、殊に抱え雇い人に対しては最も残酷の処置を為すという評判にて、過日も渡辺某と喧嘩を始めしという。

及川は殴打にて入獄せし事も再三ありと言えば以って彼のひととなりを知るにたらん。

しかし及川は業務上の件にて先月上旬野付牛(現北見市街)に武治の馬橇(そり)を雇い十四円の契約にて往復せしに。当時及川は八円五十銭を渡し、残額はそのうち支払うことにして当時は事は済みたるが、

その後武治は残金五円五十銭を催促するといえども要領を得ず、昨年三十一日大晦日の事なればとて、手詰めの談判を始めたるも折からツマの実兄百平が来合わせ、一月五日まで延期の仲裁をなし、武治も承諾の上引取った。

去る五日、武治は常呂村貯金組合の総会に出席し、三浦亭にて飲酒の上、午後九時喜島楼なる百平方茶の間に上がり、約束の金をもらうと座り込んだれども、百平は折から野付牛に出張中にて妻のおシンが不在なれば帰って話をつけると断りたる。

武治は飲酒し居たる事とて一向承知せず、折から及川の内縁の妻なるツマも来合わせ居たる事とてなおさら承知せず、果ては『わずかの目腐れ金が払えなければくれてやろう』と雑言を極めたるに。

及川は以前より茶の間の次間なる六畳の座敷にひとりこの顛末を聞きいたるに、余りの雑言にこらえかね、茶の間にありあわせたる酒瓶(かめ)を取るより早く「おのれ生意気な」と脳天めがけて打ち付けしに。

瓶は砕けて武治の頭部に深さ骨膜に達し、幅三寸二分の裂傷を負はしたれば、血管は切れて血は四方に花を咲かし、なおも及川は煮えたぎる鉄瓶を頭上より浴びせかけんとするを居合わせた人が引きとめ、その間に武治は佐川村医に至り治療を受けたるが出血多量なりしため一時は人事不省に陥りたるも、その後の経過よく生命には別状なからん



とにかく詳しい。
内縁の妻とか壮士俳優とか、本題には関係ない情報がたくさん。当時は、新聞に載ったら全部書かれることになるから、悪いことをするにも相当の覚悟がいただろうに。

それにしても、「血は四方に花を咲かし」などとちょっぴり文学的比喩があるあたりが明治の新聞はいいですね。

次、同日に載っている小さい記事を紹介。


上中生の悪風

上川中学校の上級生は近頃ともすれば下級生に暴威をふるって、之を苦しむる悪風起こり。

現に数日前、某五年生は二年生高橋雲郎に対し、制帽の黄線が細くしているは下級生のくせに生意気千万なりと称し、寄宿舎より誘い出し高橋の面部を殴打し、鼻より出血せしめたり。

かかることは今回のみならず、このほかにも沢山ありとのこと。



庁立上川中学校は現在の旭川東高である。
まあ、いじめで自殺するほどの今の世では記事にするほどのことではないかもしれない。

それにしても、加害者ではなく、被害者がズバリ名前が出ているのはかわいそう。

1911年1月21日付け


釧路局内の艶書取り扱い問題

釧路郵便局の艶書事件は意外の所に発展したり。

すなわち釧路郵便局通信課勤務・藤尾誠が同局女事務員・佐々木キヨに宛てたる一通の艶書は、本人たる佐々木キヨに配達せざる以前、早くも局内に於いて何者かがこれを取して開封し、藤尾の恋に妨害を興ふべくそのままなお拾得に借りて釧路新聞社に投書したるもので、その犯人がはたして何人なるかは未だ判明せざる。

其の郵便物が男女間の艶書なるにもせよ、いやしくも堂々たる帝国の通信機関、しかも二等郵便局内において人の最も尊重すべき信書の秘密を暴くのみか、これを抜き取るがごときは、帝国憲法の保障したる国民の権利を蹂躙するのみならず、帝国通信機関の威信に関わる重大問題を以って、釧路警察署においても捨ておくべからさる問題なりとし、目下捜査の先を進めつつあるが、一歩、釧路郵便局長よりは犯人不明、郵便法違反の告発を為すを至れり



同僚の恋文を配達前に新聞社に見せてしまったという事件。
最近は、有名人の年金未納が社会保険庁の人間を発信源に社会に広まるなんてこともあったし、今はツイッターもあって「つぶやく」こともある。
先の尖閣ビデオ流出のように、末端の職員が思った以上に「おおごと」になるというのは、昔も今も同じようだ。


1911年1月21日付け


飲まぬと殺すぞ

世には随分乱暴な男あるものかな。
虻田郡倶知安村基線西六十番地、料理店札幌屋こと吉田勝次(49)方へさる十七日午前零時二十分頃景気よく押しあがりし二人の客あり。

時節柄下へも置かず、二階へ通して丁寧に取り扱っているうち間もなく使いを頼んで近所に住する友人を一人招き寄せ、散々飲み倒したあげくが、はばかりながら懐中無一物と切り出したので札幌屋方も承知せず、押し問答の果てが、後に上がったものが勘定を済ませることとなし一先ず落着して、其の友達もとんだご馳走だったと愚痴をいいつつ金策に赴きし難なりが、

残った両人は二時が三時になっても帰らず果ては酒を持って来い、魚を持ってこいと怒鳴り出して、誰も相手にせぬをもどかしがり、一人の男は主人の居間へと押しかけ、ヤイおれたちを何と思うのだ、原籍は横浜市松影長二丁目百八番地で斉藤源之助(21)、今一人の連れは美国町船間の古川兼五郎(26)と云って札幌の一丁身内で音に響いた兄さんたる兼五郎はピストルも太刀も持って来ている。おれだって懐中には短刀をのんでいるのだ。貴様達見損なやがって酒を飲まさなけりゃ、片っ端から叩き殺してついにダイナマイトを仕掛けて、この家を木っ端微塵にしてしまうと、まるで強盗と社会主義をチャンポンにしたような具合に脅かした。

女どもはブルブルとしながらおそるおそる銚子を二本進めたところ、二人はまだ不満のごとき調子で、ちょっこればかり、蛇が蚊を飲むようだ。おいアニキ、遠寺の鐘が陰にこもってボーンときたぜ、荒療治の仕事にかかるにはいい刻限だと、暗に只者ではないという強盗の如き広告をするので、主人勝次も真っ青になり、この旨、分署に訴えたところ、詰め合いの二巡査は直ちに駆けつけ、有無を言わさず引致し来たり。

厳重取調べの末、とりあえず両人は住所不定の如き、脅迫罪にて三十五日拘置処せられたりとは、箸にも棒にも掛からぬ厄介者といふべし。



おいアニキ!(笑) 古いヤクザ映画みているみたいだ。
強盗と社会主義のチャンポンというくだり、社会主義がなんだかわからないが悪いものだという風潮の中で書かれた記事だということがわかるのであった。

なにはともあれ、「クレーム」を全く怖がらず、書きたい放題の時代。自由っていいなあ(笑)

posted by 0engosaku0 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月10日

1911年2月の北海道(1)彗星と流星

2月になって早くも10日。上旬はあっという間に過ぎようとしている。
1月の後半あたりから、冬型が緩んだときの小低気圧の出現する頻度が多くなってきた。
今日もこの低気圧の影響で、札幌は夕方から短い時間にもっさりと雪が降った。今よりもっと寒かった昔の北海道なら、こんなことしょっちゅうだったと思うし、そのぶん2月の天気予報はずいぶん外れたんじゃないかな〜と思う。

さて、100年前の新聞拾い読みシリーズは今回から2月の記事に入っていく。

まず、1911年(明治44年)2月2日北海タイムスより


根室で彗星をみた

一昨日、根室測候所より道庁への電報によれば、(一月)二十九日夜、同所の西方に当たり彗星を発見したり。その長さ約九十度云々。

右に対し道庁測候係より、何星座の付近にあたるやを電報にて照会せるが未だ返電道庁に達せずと。

なお、さる(一月)十五日午前一時より二時の間に於いて札幌測候所は円山札幌神社の上方四十五度の個所に彗星を見たりと云ふ。



1911年の1月頃に見えた彗星について軽く調べた限りでは、該当するものはない。
1910年はハレー彗星が見えたり、その前にも大きな彗星が見えたりと、尾の長い星=彗星という認識は一般でもけっこうあったと思うが、その日限りしかみえないのなら、流星かもしれない。いずれにしても、当時は夜が相当暗かったはずだから、天体観測にはもってこいだっただろうなと思う。

もうひとつ、天文的な記事をみつけた。

1911年2月11日付


奇なる流星の音響 果たして隕石か

一昨日九日午後九時三十分頃(札幌)区内(中島公園付近殊に甚だし)に於て、奇なる一大音響発せしより
、区民は付近に軍隊の演習にてもありしかと怪しみおりしが、是が隕石の音響なるとの事にて。

札幌測候所の猪狩技手も同夜九時過ぎ所用ありて南一条西五丁目付近通行の際、東北方より南西方に向かって弧状を描いてほとんど水平に流れ、急に下降して高度四十度くらいの所にて散光なし、同時に消滅したる大流星を認めたる。

今までに多く見し普通の流星より光輝すこぶる大なりしより、同技手は参考のため携帯の懐中時計を見たるに午後九時十八分なりしが、約三十秒を経て一大音響を聞きたるにて。

要するにこの音響は隕石が地面に打ち当たりしより発したるなるべく、隕石の落ちたるは札幌より南西方向約二里三丁といへば藻岩山付近へ降下したるならんか。

しかして当時地面に微震せるごとき感ありしより測候所にては直ちに機動計を検せしに、地面は何等振動したる跡なく、この微震は全く藻岩山付近へ隕石落ちたる響きならんと同測候所員は語りぬ。



今なら携帯で動画で撮ることもできるような出来事なのかもしれないし、絶対ニュースになるだろう。

状況から察すると、隕石が空中で爆発して分解するような過程を辿るときに、こういう軌跡になるだろう。

高度40度くらいで散光して消滅ということは、流星(火球)が地上に届く前に分解していることを示していると思うし、大きな隕石のまま落下していないから地震計に記録されていないのだと思う。

三十秒かかっているという感覚をそのままあてはめて計算すると、猪狩助手から隕石が爆発した地点までの距離は直線で約10キロもある。だいたい、札幌中心部から南西7〜8キロの地点の上空7〜8キロのところで爆発したのであろう。だいたい、北の沢あたりである。

このため、隕石は札幌上空を通って北の沢上空で爆発して、粉々になったと考えられる。
燃え残りが落ちているとしたら、定山渓から中山峠方面か。
いずれにしても、もう100年経ってるし、当時はともかく、今探すのはまず無理と思う。


posted by 0engosaku0 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月11日

1911年2月の北海道(2)本年の製氷状況

建国記念の日の夜も更けて、今日もこの日が「紀元節」だった時代の記事を乗っけていくことにする。

今回はちょっとした職場ルポを拾い読み。

1911年(明治44年)2月8日付け 北海タイムス


本年の製氷状況

南四条西二丁目に山下氷店を訪ふ。
本年の製氷状況、左の如し

▽札幌製氷場
札幌の製氷場は豊平川、白石水車場の中河原、遊園地裏の病院掘、都合三ヶ所ですが、第一回の切り出しは過日既に了しまして、目下第二回の製氷作業中です。

豊平川の第一回分は、一万二、三千本の切り出しで、一本は径一尺五寸(約50センチ)四方、長約三尺、それで目方は普通二十貫余になっています。

中河原は未だこまかしいことはわかりません。
これも第一回分、五、六千本は切ったはずです。

又、病院掘のは三、四千本出ましたが、ご承知の通り本年は気候が暖かいので、第二回分の成績をきづかっているという有様です。

▽第二回の製氷

本年の一回分と例年の一回分を比較してみるに、本年の出来は極めてよい。
例年だと第一回より二回目がよいのです。
すなわち本当の寒氷のできる時期であるからですが、本年のような暖気だと、二回以下十分に凍氷はどうかと思う。
のみならず従来は薄いながら三回も切り出すことがあるに、二回も面倒といい、こう雪が無くなってはソリが利きませんから、運搬にも一方ならぬ困難を感じます。

▽氷の供給地

本道製氷は函館と札幌が主で、奥へ行っては滝川、室蘭であるが、その販路は東京、名古屋なれど、年々幾許のものを輸送すると限っていません。

マー札幌の氷で一番捌(さば)けるのは小樽でせう。
小樽は製氷所が無い上に、魚類がたくさんとれる。
獲れた魚類、市中の需要外、ことごとく各地へ輸送する石油箱入りであろうが「かま入れ」であろうが、或いは籠入りであろうが、其の魚類は残らず氷詰めにする。

それが箱一個について少なくも一貫五百目の氷を使用するから小樽で用ゆるものばかりで一ヵ年、二十貫もの五千本は下るまいと思うです。

▽氷店五百軒

相場はその時によりますからあらかじめわかりませんが、当地の如き、今よりも運賃の関係があり、第二回の製品が薄いとすると、自然高値になる順序です。

需要の大部分は小樽及び内地であって、市中氷店で捌けるものは数が知れています。

夏から秋にかけ、氷店が出るのは五百軒ばかりありませう。それが僅か二ヶ月間です。

病院、或いは市中の魚屋でも幾許の需(いくばくのもとめ)があるものの、是も大したことではないのです。

▽製氷上の注意

新善光寺裏に貯蔵庫がありまして、それにいっぱい入れると五千本ですが、それで夏まで水になる分は、五千本に対する四分でしょう。

何分多くの人夫を間断なく使う仕事であり、又、飲料水のことですから警察署も時々立まわってきます。

こちらも十分注意して粗末のないように製造しています。
前申す通り、第一回の製氷は実に好成績でありました。唯今が案じられます。
(おわり)



1911年冬季(1910年12月〜1911年2月)の気候を調べてみると、12月の月平均気温が−6.5度と、今に至るまで観測史上最低であって、めちゃめちゃ寒い冬の入りであった。第一回の氷が良質というのもうなずけるわけだ。

そして、1月から2月についても記録的な寒さや暖かさではなく、平均気温は1910年冬季や1912年冬季よりも低い値で、そんなに極端に暖かい冬ではなかった。

ただ、1月はプラス5度を上回る日が2日あり、2月も1日の最高気温が7.1度ということで、時々極端に暖かくなる日があった模様で、このことが記事にあるような「暖かい」という感想を生んだのであろう。

山下氷店のあった南四条西二丁目は、今ではメルキュールホテルや第一興商札幌中央支店などがある一角。

氷は豊平川を中心に、自然にできる天然氷で、水質汚染のほとんどなかった時代ならではの製氷作業といえる。

白石の水車場も、中島公園裏の病院の堀の位置さえも、今ではよっぽど調べなければわからないのだが、100年前までは、天然氷を切り出して馬橇に乗せて運び出すという製氷作業が、冬の札幌の日常のひとつの風景として存在していたのであろう。

posted by 0engosaku0 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

1911年2月の北海道(3)昆布巻屋物語

ひどい風邪をひいて寝込んでいる日々が続いていたら、あっという間に3月を迎えてしまった。

今日は3月3日ひなまつり。札幌でひな祭りの雪はあたりまえの部類に入るのであるが、それにしても今日は降りすぎ。小低気圧が石狩湾に突っ込み、その後も帯状雲がずっと残って積雪は90センチ。一冬の最深積雪を3月に観測するというのは・・・調べてみないとわからないが、珍しいのではないかと思う。


さて、前回は氷屋の話を書いたが、今回は100年前の札幌にあって今の世にはない「昆布巻屋」へのインタビュー記事。珍しいので書き残しておく。

1911年(明治44年)2月19日 北海タイムス


昆布巻屋物語

南一条東一丁目に高橋昆布巻屋を訪ふ。
主人の語るところ左の如し。

●景気と昆布巻
札幌でニシンの昆布巻商売は大変儲かると云う話で、私も去年の暮に或る人の株を買い受けてやり始めましたが、どうも面白くない。

というのは、其の株を買い受けた時機が悪いので、私も札幌に来て五年になりますが、札幌は人口の増加した割合に市中の景気が賑わいません。
しかも年一年と振るわぬ気配あるに昨年の如きは殊に甚だしいように感じました。

ニシン昆布巻の同業者は三名いますが、余人はとにかく、私などはほとんど商売になりません。
自分の店を標準にするでないが、昆布巻屋で居て、塩鮭を担いで歩くようでは、その売れ行きも大概わかります。

●一日二百四十〜五十本

こういうわけですから売り子などは置けません。
家族のものに売らせていますが、一日の売り高は平均二百四十〜五十本。一本一銭として、二円五十銭になる勘定なれど、そのうち原料のニシンと昆布代を引き、又二十本、三十本とまとめて買ってもらう時は本数を負けますし、それに手間を引く時は最初の噂ほど儲かる商売ぢゃありません。

その結果昆布巻のほかに塩鮭でも担ぐということになります。

●北より南

売れる場所も何処と決まったことはありません。
北の方が売れる日もあり、南の方が売れる日もありますが、概して北の方より南の方が売れ行きがよいです。
また、昆布巻を食べる客もはや決まっていて、酒の肴が比較的多いように思われます。
魚類の高い日は昆布巻が売れるかというとそうでもない。
魚の高い日はどういうものか、昆布巻の売れ行きも悪い。
狸小路あるいは場末の飲食店なども時々買ってくれますが、蕎麦屋などもチョイチョイある。

●昆布巻と屋台

創成川端の屋台も私達同様、近来の不景気にはやりきれないと見て随分閉店するものが多い。
昆布巻の如き、彼いう屋台などに買いそうなものだが、さっぱり売れないです。
むしろ飲食店の沢山ある狸小路とか遊郭付近の方が売れ行きがあります。

マー四月頃になって雪でも消えたら少しは景気も出て昆布巻も売れましょうか。目下のところでは商売になりません。

最も夜分も売りに出たら売れぬことはないでしょうが、夜分は商売を休んでいます。



ニシンの昆布巻屋である。
ウチの実家は昆布巻はサケで作ることが多いが、やはりニシンの入った昆布巻は北海道ならではで美味いもんだ。

こんな記事をみると100年前は札幌の人は年中昆布巻を食べていたんだな〜と風俗がわかって面白いなと思う。
売れ行き悪いとはいえども、昆布巻だけで商売が成り立つんだから、明治の札幌の人には人気のオカズだったのだろう。
ちょっとしたファストフードだったりして・・・
学校帰りに昆布巻をかじりながらゲタを鳴らして帰る北大生とか。
小樽に行く汽車に、おにぎりと昆布巻を弁当にして乗り込む会社員とかいたのかも。

今でいうポッキーの代わりのように、昆布巻きを両側から食べるカップルとか。

・・・さすがにそれはいねぇか。

posted by 0engosaku0 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月05日

●100年前●倶知安で猫騒動

今の世の中は「勘違いでした」とか「間違いでした」で済まされないことが多い。
「説明責任」という名のもとに徹底的に攻撃され、相手に納得されない限りは謝罪し続けたり・・・

天気予報の世界はさいたるもので、予報は絶対当たると思っている人たちがいるから困る。技術の限界をしらないのだ。かといってそういうようなクレーマーに「当たらないのが当たり前ですから」なんてことを言ったら。それはもうしつこくてかなわんです。

そんな今の世にあって、なんとも微笑ましい昔の話。

1911年(明治44年)3月5日 北海タイムス


倶知安で猫騒動

猫騒動というのも大層過ぎるが、是(これ)は去る一日午前二時頃というから草木も眠る丑三つ時、停車場通り南側の某商店廊下をスーッとゆきかえりする足音あり。
是と同時にサラサラと障子に触る物音聞きたれば、同家の妻君はふるえあがって主人に知らせる。

主人公も不審の眉を寄する途端、店先に寝ねたる雇い人がウーンと一声、苦しげな声を発したので早速飛び起きて雇い人を揺り起こすと、誰か今、私の夜具を押さえつけたものがあると云う。

ソコデ話はいよいよ大げさとなり、正に判然幽的出現と相場が定まり、同夜は臨時に大男を雇い入れるやら、護身刀を枕元に置くやら、大騒動をやらかしたので支局員も近所の手前捨て置けず、探偵すると・・・

全く某家の飼い猫が悪戯と知れ、一同ホッと胸をなでおろしたという。笑止千万。



ほのぼのとした話である。
こういった笑い話が新聞に載るというのも、いい時代でありますね。

さて、次回は100年前の北海道に突如現れて講演会を開きまくったナゾのオランダ人についてガリっと書く予定。
posted by 0engosaku0 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月19日

1911年3月の北海道(2)アーノルド・サイズ

東北地方太平洋沖地震。
すっかり日本が変わってしまったかのようだが、季節はちゃんと進んでいる。

19日の札幌は空気が違うような暖かさがあった。午後11時でもまだプラス5度もある。日差しに暖かさに、彼岸に入って、いよいよ春が近づいてきた感じがするが、まだ積雪は64センチもあって、景色が春になるのは半月以上はかかりそうである。

今日は前回予告どおり、ナゾのオランダ人の話を書こう。ちょっと長いが、日本人にとっては鎖国が解けて半世紀余り。まだまだ世界は未開の地だらけである。興味深い話だったに違いない。

1911年(明治44年)3月4日 北海タイムス


世界徒歩旅行 蘭人・アーノルド・サイズ氏

世界徒歩旅行者、和蘭(オランダ)人アーノルド・サイズ氏は二日午後二時より小樽稲穂女子小学校において旅行談を試み一同、四時半散会したるが、氏は英語を用い小樽中学校の竹内正義氏通訳の労を執れり。

当日の来聴者は龍岡小樽区長、牧野判事、石部検事、一色水上警察署長、村林、篠田、和田各区会議員、本多商業会議所書記長を始め、区内紳士学校教員小中学生徒ら約八百名に達し、すこぶる盛会にて、龍岡区長はこの遠来の珍客を一同に紹介せり。

氏の講演の概要、左の如し。

▽西部欧羅巴
私は1907年故国オランダの首府アムステルダムを出発し、仏国の巴里(パリ)、リヨン各市を訪ひ、マルセイユから西班牙(イスパニア=スペイン)のバルセロナに渡航し、首府マドリッドより葡萄牙(ポルトガル)の首府リスボンに出た。

西部欧羅巴は私にとって安全な旅行であった。仏国民より大いに歓迎されたが、それでも西班牙では二度も強盗の襲撃を受けた。

▽北米合衆国
リスボンから北米合衆国の紐育(ニューヨーク)に渡り、セントローレンス河に沿う所の英領カナダの都市ケベック、モントリオールを訪問した。

セントローレンス河は其の源をオンタリオ、エリー、ミシガン、スペリオル、ヒューロンの五大湖より発し、世界の淡水の半ば以上を所有している。
河の長さは実に二百マイルに余るのである。

それから合衆国の内部に足を入れて世界第一の大瀑布、ナイアガラの雄大なる風景を飽看して、シカゴその他の諸市を経て、グレートソルトレークを見、シエラネバダ山脈を横断して桑港(サンフランシスコ)に着した。
米国の旅行は実に安全にかつ愉快であった。

▽奇異なる土人の名

サンフランシスコよりメキシコ国に入った。
同国はなお未開不毛の土地多く、数日間さらに行人にあわぬ寂寞の荒原を旅行して、すこぶる困難を感じた。
メキシコにはアメリカインディアンが住んでいる。
私がこの土人の小部落を訪ねたが、土人は赤や青の自製のジャケットを着て、水牛の角やワンパンという貝殻を売っていた。
言語は英語で意を通ずることができる。

私の実に不思議に感じたのは、土人の名前の奇妙なことで、是を英語にすれば、大なる小児、小なる牝牛、多くの子馬、犬の皮、鷲のあばら骨、沢山の沼、水の中を歩く、ウネウネした坂道などという意味にあたるので、私は実に驚いた。

▽アマゾン河

メキシコから船でコロンビアに渡り、ベネズエラを経てブラジルに入り、アマゾン河のそばに来た。

この国も未開の草原地がおびただしい。
私は河から五十マイルもさる、ある湖の付近を数日徘徊していたが、ある日前方の地平線を望むと雲の如き者が群がって段々濃厚になってくる。
何事かと注意していると、付近の動物は疾風の如く森の中に駆け込む。鳥類は異様な声をして泣き騒ぐ。
私は実に不安に耐えられなかった。
しかるにその雲の如くはこの方面における有名な原火事であった。
猛烈な野火は私の身辺に迫ってきたから、私は湖水に飛び込んで、ようやく焼死を免れた。

また、アマゾン河をいかだで右岸から左岸に越え、海岸に向かった。

昨年日本の生駒艦が訪問されたアルゼンチン国のブエノスアイレスに出で、船路、仏国のマルセイユに帰着した。

▽土耳古(トルコ)帝に拝謁
それからイタリアに向かったが、伊仏の中間に世界最小のモナコ国がある。
同国は博打の税金を以って、国を維持している。

イタリアのローマ府を訪ひ、ネーブルスにおいてあるホテルに泊まった。
一日ホテルの五階(高いほど宿料が安い)から附近を見下ろすと、戸外で一婦人が毛布の上に黄色のものを干していた。
其の夜、食事にマカロニー(日本のうどんの如きもの)が出た。
私はボーイに向かい、何処から是を求めたかをたずねた。
ボーイは昼、私の見かけた夫人の店から買ったと答えた。
それで私はイタリア人の意外に不潔なるを驚き、以後マカロニーは一切食べぬことにした。

ボスニアセルビアを経て、土耳古に入ったのは今から三年半ばかり前のこと。
あたかも憲法発布のときで、私は幸いに国王サルタンに拝謁した。

首府コンスタンチノープルに入る前、私は二人の兵士に怪しまれ捕虜になったが監獄を破って逃れた。
首府はすこぶる不潔な市街で、住民より犬の数が多いという犬が六百万もいるという話を聞いた。

然し景気はいいところでセブンヒルズなどに登ると得もいはれぬ眺めがある。

▽獣王に遭遇
小亜細亜からエジプトに渡った。
ナイル河を越えて、セーフスに入った。この地はその昔帝都のありし地で国王の墓、または立派な宮殿が建っている。
五世紀も六世紀も経て宮殿が今日なお腐敗せずにあるは、当時建築術等の工芸が進んでいたことが想像される。
南へ南へ進んでハルツームで五匹のロバを雇い、皮袋に水を蓄えて砂漠旅行を始めた。

アフリカ旅行は昼は寝ね、夜の涼しさに乗じて進行するも、暑熱のために五、六分毎に水を呑まねばやり切れぬ。
しかし王から二人の兵士を遣わしてくださったから大いに力を得た。
ある日、兵士を露営地に止め置き、私一人水を汲みに行った帰途、突然獅子に遭遇した。

私は水袋以外何物も持たぬから、いかにしてこの危機を脱せようかと苦心した。
獣王はズンズン私に接近してくる。
私はそばの高い樹に登った。

獅子は既に樹の根元に来て私を見上げつつグルグル樹を廻っていた。
私は声を限りに兵士を呼んだ。
しかし二マイルも離れているからもちろん何等の功も奏しなかった。

しかるにわたしは実に名案を考え浮かべた。
私はカーキ色の外套を脱ぎ、之に携帯のウイスキーを注ぎ、火をつけて獅子の身体へ巧みに落下した。
さすがの獅子もこれには驚いて、どこかへ逃げ去った。

また、あるところでアラビアの強盗に殺された死体を見たが、その方法は極めて残忍なもので、熱砂を旅人の眼、鼻、口に注ぎ込んで窒息しておった。

それから独領アフリカを通過し、ついに本州の最南部に至り、ケープタウンに着した。

エジプトのアレクサンドリアよりケープタウンにわたり踏破したものは世界に私が最初であることを誇りとする。

喜望峰から印度のボンベイに渡航した。

▽海峡植民地
ボンベイよりカルカッタに出で、ヒマラヤ山系のエベレスト直峰まで進み、ビルマを巡遊してラングーンからシンガポールに来た。

海峡植民地には毒蛇・猛獣の棲息するものはなはだ多い。
わたしは樹の根元に野宿した。
しかるに真夜中はなにやら顔に触るものがあって目を覚ませば、樹枝からコブラ(毒蛇)が下がっている。
私は実に驚いたが、騒いでは不可ないと思い、静かにしているとコブラは腹の上を這って私の股の中へ入り眠ってしまった。

股は温かいからであろう。

私はこの凶敵を避けるために、千思万考してついに一計を案じた。
私は腰につけてあった牛乳の徳利を取って、静かにもっと静かに股のほうにやった。
するとコブラは其の香をかいで這い出したのを私は手早く短銃で射殺し、一命を助かったのである。

シンガポールよりスマトラ、安南、香港を経て仙頭に着し、初めて亜細亜の老帝国に足を入れた。

上海より揚子江に沿って漢口に出で、北京、天津を経て、日本の長崎に着し、内地を巡遊して北海道に来たのである。

私は今度敦賀よりウラジオにわたり、ロシア、ドイツを経て故国に帰る見込みである。

▽親切なる日本人
帰国の上は、一書を公にして世界各国の人情風俗を紹介するつもりであるが、私は日本においては至る所で親切なる取り扱いを受けて実に感謝している。
世界のある方面の国民は、いまなお日本内地の旅行には色々なる危険の伴う如く想見を抱いている者もあるが、私は自分の経験上から剣もピストルも全く不要にして、最も愉快に安全に旅行を為しえたること、大いに世界に紹介せねばならぬ。

終わりに諸君の健康を祈る。



アーノルド・サイズ

ぐぐってみても全くはしにも棒にもひっかからない人物である。ひょっとしたら、ロシアでアムールトラに引っかかれて死んでしまったのかもしれない?

小樽のあと、札幌にも来て山形屋旅館に宿泊し、講演会を開いているのが記事になっている。札幌では小樽よりもう少し詳しい話をしたらしく、メキシコ人の強盗を殺した話とか、アマゾン川を渡る途中にイカダが壊れて漂流したとか、小亜細亜では断崖絶壁でロープにぶらさがって強盗の襲撃をかわしたとか・・。

どこまでホントか!という話をしている。

まあ、我々の世代も「川口浩探検隊」はワクワクしてテレビを見たわけだし、当然、100年前の小樽市民も子どもから大人まで、サイズ氏の話を驚きと興味を持って聞いたであろうことは想像に難くない。

夢とかロマンとか好奇心とか・・・
こんな時代にこそ、欲しいものですね。
posted by 0engosaku0 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月25日

1911年3月の北海道(3)札幌区の風呂屋事情

暑さも寒さも彼岸までとは言ったものだが、昨日彼岸が明けたにもかかわらず、まだまだ雪の降る日が続き、降れば寒い。
雪自体は大粒のボタン雪で、積もらずに解ける勢いのほうが強いのであるが、今年の雪解けが遅くなるのは確実である。

寒い日には温かいお風呂でぬくぬくといきたいものではあるが、今日は100年前の札幌の風呂事情について。

1911年(明治44年)3月8日 北海タイムスより


札幌区の湯屋

南一条西四丁目に湯屋組合事務所を訪ふ。組長丸仙主人談、左の如し。

▼留湯(とめゆ)と競争
札幌の現在の湯屋は六十一軒あって、それが組合を設けている趣旨は同業互いに親睦を守り、福利を増進するというにあるが、兎角同業競争の気味が多く、仮令は留湯の如きもこれを全廃するというので、今春の総会にも提案せられたけど成立せず、その成立せぬのは致し方がないとして、せめて留湯の料金でも一定させたいと思うけれど、それさえ守らぬもの勝ちで、甲が五十銭にすると乙が四十銭、丙が三十五銭という如く段々競争して値段を下げるには頓と閉口します。

留湯は湯屋に取りて非常に損であるから、既に小樽の如きも之を廃している。札幌もゆくゆくは廃されると思います。


▼水道と湯屋

燃料は石炭で薪を用ゆるものはほとんどありますまい。一ヶ月通常六、七トン、その上になると十二、三トンは焚きましょう。

井戸は各々が持ち、小樽は水不足の土地なれば、札幌は水は沢山ありますから如何なる極寒というまた如何なる酷暑の頃といえども水に不足を告ぐるようなことはありません。

一年を通じて最も余計に水を使うのは夏でせう。
夏季はどうしても水の使いようが荒い。

札幌も四、五年この方湯屋の数が増えます。
是は人口増加の結果でせうが、其の割合に景気がよいところというでもない。
先ごろは水道問題で大分、八ヶましく騒いだようだ。

水道は決して悪いものではありません。
水道が出来れば自然水も使いませうが、小樽とは違い水の沢山ある所ですから、使用量がよほど安くなくちゃ湯屋などはどうかと思う。

▼二石の水と女客

浴客は十人十色であるから、中には恐ろしく湯水を使う人がある。
其の一番多いと思うのは二石は使いましょう。
そう思うと一斗か五升で済ます客もあります。

まー一人の客に二石も使われてはたまりませんが、一方に五升か一斗で足る客もあり、これが平均されてようやく保っていくというぐあいです。

それから長湯をするのは女客で、身体ひとつ洗うのに二時間余も暇をつぶしておるのがある女客で、髪を洗う人は別に料金を頂戴することに致しております。



一石=180リットルだから、二石といえば360リットルか?
一般的な風呂桶の大きさは180リットルくらいだから、だいたい一石程度。今の風呂桶二杯分も水を使うなら、これは今の時代でも結構大変な量である。

八ヶましく・・・これは「やかましく」という書き方。今はこんな書き方は全くしないし、語源とも関係ないから、ひとつの言葉遊びなのかも。

留湯は江戸時代の銭湯の風習のことと思われるが、月ぎめで入浴代を払い、いつでも入浴していいというお得な制度。一ヶ月料金みたいなもん。
これを廃止しようと、いろいろやっていたようだ。

ここまでの話は(上の巻)であり、3月9日付けには続きが掲載されている。



札幌区の湯屋 (下)

▼収入月二百円

浴客あるのはこれからでしょう。
夏になると行水の関係もありますが、それは多く場末でしてこの辺にはあまりありません。
従って浴客の数には増減の影響がないということになります。

客は平均して一日三百人、その収入を六円ないし七円と見ると、一ヶ月二百円ですね。少し流行場所で三百円でしょう。

四百円までは届きませんが、今後留湯を廃したら或いはこの上の収入もありましょうが、まず現在のところで二百円と見て十分です。

月末にかけ集めする必要もなく、チョイと良い商売のようですが何分にも入る金が細いですから目につきません。

▼湯屋の三助

三助は大概雇ふて置きます。
自分の家族のみでやっている所はないでせう。

別に三助といって三助の生国、あるいは友人ということはなく、思い思いですが給料は口を養ふて六円、それで衣類を着たり小遣い銭にしたりします。

又、三助は多く独身もので、家族のあるやうなものはいません。

水揚げと煙突掃除が本職で、組合の中には動力を以って水揚げをしてるのも七、八軒あります。

煙突掃除は警察のほうから月三回としてありますが、私などは毎日やらせています。
何かというと、火の焚き具合がよい。ひいては釜を損じませんからそうしています。

▼湯屋泥棒

この商売で最も気の張るのは煙突の始末。次が泥棒でして、煙突は今申し上げる如く間断なく掃除していますが、泥棒には中々困ります。
衣類や懐中物、ほか外履物までやられる。

しかし札幌ばかりでなく、湯屋泥棒は至るところにあるが、それでも番台にいるものは十分気をつけているのです。

それがチョイチョイやられるので、お客様に対しては何ともお気の毒でなりません。

▼組合の救済

組合は規約に基づき、少額ながら月々積立金を為し、また同業者中、不幸にかかるものあれば組合は相当弔慰金を送ることにしています。

ただ組合員中意思の薄弱な人がいるため、せっかくまとまった話も中途でおかしくなるので、それのみ心配しています。

豊平も区内ですが、是は組合に加入せず、別に豊平だけで組合を設けているが、近頃同所も学校附近で又一軒増えたようです。

何しろ一本通りの町ですから容易でありますまい。

(をはり)


昔、「時間ですよ」というドラマがあったが、銭湯が身近だったのは昭和40年代半ばくらいまでで、今は風呂のない家が珍しいくらいだから、当然銭湯も廃れゆく一方である。

当然、南一条西4丁目に、いまや銭湯は存在しない。

今は「北海道公衆浴場業生活衛生同業組合」という全道組織があるようだ。
http://www.kita-no-sento.com/toppage.html

これでみると、札幌市では中央区にある銭湯は13軒。西区に10軒など。ただ、番号も飛び飛びになっているなど、廃業が相次いでいることが一目瞭然である。


そして「三助」なんて、今や存在しないんだろうな。
posted by 0engosaku0 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

1911年3月の北海道(4)陸軍記念日

忙しさにかまけて半月以上ほったらかしにしていたら、フォーマットが変わっていてちょっぴり浦島太郎な気分である。

既に4月に入ってどんどん春めいているのだが、3月の記事が手元にいっぱいあるのでいくつか書き残しておきたいというのがあって、時期にはずれているが今回も3月の話。

3月10日は終戦の年まで「陸軍記念日」だったが、100年前の北海道民がこの日をどう過ごしていたかを少し書いておく。

明治44年3月11日 北海タイムスより


奉天戦勝記念日と札中

昨十日は奉天戦勝記念日なるを札幌中学に於いては午前九時より生徒全に集め、歩兵第二十五連隊付き男爵永山氏の講演を請いたるが、同少佐は二〇三高地の激戦に於いて負傷せるため内地環送し、奉天会戦の当時は東京衛戍病院に療養中なりしを以って、奉天実戦の状況を講演する能はざれば、二〇三高地などの実戦談を為すと冒頭を置き、第三軍司令官乃木将軍閣下より受けたる命令に第七師団各部隊の活躍苦心の実況をして、将卒奮闘惨死の状態を説き及びれば、講堂の生徒は静粛に謹聴せり。

また、少佐は白タスキ隊の行動を述べるに当たりては回顧感無量の念に打たれしか、言葉途切れたり。その熱心に思わず聴者をして粛然たらしめり。
しかして二〇三高地のいかにして苦戦なりやその理由、および第七師団各部隊の戦死負傷者行方不明者等の数を挙げ、部隊の動より死傷者の多寡を説かれたり。

中学生にとっては精神修養上、まことに有益な講和いふべし。



札幌中学校では軍人の講演。多数の犠牲の上に、今の日本があるのは当時も今も同じなのだが、戦争に勝つと負けるとでは、全然違うような気がする。

このような講演は札幌中学校だけではなく、北九条小学校、中央創成小学校など、市内のあちこちの小学校でも開催されていたようだ。

豊平館では帝国軍人会の記念祝典もあり、奉天会戦の詳細な話を聞いたのちに浪花節、薩摩琵琶、活動写真などをみたと掲載されている。

そして、当の軍人さんは何をしていたか?


月寒連隊兎狩

月寒歩兵第五連隊にては、昨日の陸軍記念日を利用して、同日午前四時、勤務者患者等を除き、連隊総員兎狩のため屯営を出発したり。

情報によれば三個大隊とも狩猟方法を別にし、第一大隊は大谷地より広島街道に通じる俗称立花村の山谷に、第二大隊は月寒種畜牧場上手の山谷、第三大隊は厚別小学校附近高地なる陸軍用地を狩猟しあるが、第一大隊の獲物は同日午前十時までの情報にては兎四頭、第二大隊は午後二時半までの情報にては兎九頭、月寒方面の第三大隊は正午までの情報によるに兎八頭を得たり。

同日は午後四時頃まで狩り暮らす筈なりという。



札幌でユキウサギを今みられるのであろうか?
軍隊総出でうさぎ狩りである。戦果が多いのか少ないのかはさておき、当時の札幌はうさぎが郊外を跳ねていたのだなあと思うと感慨深い。

獲ったうさぎは、料理して食べたのだろうが、どんな料理になったのだろうか。


posted by 0engosaku0 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

1911年3月の北海道(5)100年前の時計台

5月も半ばだが、「平年並み」がどのくらいだったのかわからないくらい、気温は低い日が続いている。暖候期予報のころからずっと5月の気温は高め予想だったのだが・・・。
本日、新しい一ヶ月予報が出たが、来週も再来週も気温は低い確率の方が大きく出てきた。
普通なら、もうリラ冷えの季節である。
5月は期待はずれのまま終わってしまいそうである。

5月なのに3月の話を書いているからだ!と怒られそうではあるが、今回は時計台の話。

明治44年(1911年)3月15日 北海タイムス


大時計の物狂い

札幌の大時計といえば誰も知らぬものはない。
かの区役所の向かい側の、旧札幌農学校の祈念の深い二層楼の上にあるのがそれだ。

焼けた郵便局の仮局となってついこの間まで郵便局の雑居となったが、どうしてかの大時計の建物は縁の薄いことだろうか。

切っても切れぬ農学校から振り捨てられ、区役所に保管されたようなものの継子扱いといえばそんなもの、たまたま郵便局の仮局となって連れ添ったのがやっと一年余り、仮局の新築が出来たとともに見捨てられたのが、人間ならば涙のこぼれるはず。

しかしそれがあらぬか大時計の鳴る音が近頃陰にこもって恨めしく悲しく物狂はしくなったとも噂される。

大時計の鐘は由緒のあるものである。
米国から贈られ、ワシントンの有名な自由の破鐘の兄弟か従兄弟だとのこと。

それからかの大時計の仕組みは、ビーボデーという米国技師の工夫を凝らしてできたもので、二つの大きな重量の分銅が鉄の鎖で以って巻き上げられるに二人力を要する日本で一つといって差し支えない珍しい堅牢無比正確な大時計だ。

外面にガラスがはめこまれることであったが、札幌までそのガラスが郵送されるときに破れたのであったので、そのガラスがはめられずに雨や風や嵐や雪霙にまともにさらす幾春秋、長い歳月の間骨身を砕いてすり減らしながらこの都の標準時計の鐘をあやまたず区民に伝えるのみか、本道一帯の標準時計となったのだ。

どれほど長官が代わっても、この標準時計の時間ばかりは変わらなかった。
幸いにして火事にも危ない折があったけれど、この大時計ばかりは襲われずに、今日までそのままな面影を見せているのが兎に角札幌名物である。

鉄道管理局ではこの大時計の末路をひどく惜しんで、停車場の上へ貰って乗せようともしたが、建築が許さなかったそうだ。

今後は教育会堂となることに相談がまとまっている様子だが、かの建物はかの大時計の標準時計として遺憾なく責務を区民につくしてくれる所に大価値があるのだ。

建物だけは教育会堂になっても、郵便局の仮局の時分は心配もなかったが、その標準時計が狂うような恐れがないでもなかろう。
何分、かの大時計を巻くには二人力を要するから、二人の小使がなくてはならぬ。

区役所が新築のとき気をきかして何故アレを自分の頭に頂かなかったろうかとも思われる。

教育会堂の上に大時計があるのも悪くはない。
しかし時間という概念がどうあろうかともいうべし区役所にしても、時間という概念は無論怪しいものだ。

区の標準時計として由緒と功勲の大なる大時計を保存すべく、区民が大時計塔を築くのもよい。

ガラスがはまっていないため大時計のなかには針が動かなくなってたまには狂うこともあるそうだが、今日このごろは十二、三分ほど狂っているとのことだ。

これは多分大時計の精がさすがに昔恋しい涙にやるせない思いが凍って鐘の音がボーンと物狂はしくなったのであるまいか。

南無阿弥陀仏



日本三大がっかりのひとつとされる札幌時計台。
自身は変わらないのに、周りの景色がどんどん変わり、あげくのはてに訪れた人にがっかりだとは・・・。
今の時計台もさぞかし鐘の音がやるせなく物狂おしいように聞こえるのかもしれない。

時計台の利用方法はこの100年前の明治末期はいろいろと変わっていたようだが、この後は基本的に教育や文化のために一貫して使用されてきた。

札幌の市民憲章は「わたしたちは時計台の鐘が鳴る札幌の市民です」という言葉からはじまる。
テレビ塔でもなく、札幌ドームでもない。札幌の主役はこれからも時計台だと思う。

昔は札幌じゅうで聞こえたという時計台の鐘のノスタルジックな響き。
今は札幌駅の前でも聞こえないことの方が多いのだが、時計台の存在は札幌にとって欠かせない。

住んでる町に、こういうものがあるってとても素敵だなって思う。

posted by 0engosaku0 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月14日

1911年3月の北海道(6)上川中学校の腐敗

5月も半ばであるが稚内では雪が降った。本当に寒い5月になった。
雪の降るような寒さの中、今月も折り返しであるが、今回は現在の旭川東高校の前身にあたる「上川中学校」についての記事を紹介する。

1911年(明治44年)3月16日 北海タイムス


上川中学校の紛憂

明治四十二年度において同校内に上川支庁管内小学校教員の夏期講習ありしが、小林校長は出席せし、小学校教員全部に対し、博物学上の標本にすると称し、諸種の器物を各教員に送らしめ、集まれる多数の中よりわずかのものを自己の名義を以って同校に寄付し、その残器はひそかに自宅に運び、横領せり。

なお四十三年度においては年末賞与支払いに際し、同校小使頭木村某に対し賞与金十三円を支払うべきものなるに十円を与え、十三円の領収書に捺印せしめ三円を校長着服し、同加賀美小使より十円の領収証を徴し、現金八円を与え、昨年十月雇い入れたる小使の雇入れ報告は直ちに道庁へ提出すべきを本年一月にいたるまで怠りいたるが、右は報告すべきを忘却せしにはあらず、十月辞せし遠藤小使の名義を以って年末賞与を具申せば、最近雇い入れたる者に対するより金額多きものから故意に報告を為さず。

なお遠藤小使日給三十五銭の止めたる代わりに小平某を雇い入れ、日給三十銭を支給し、前小使の名義にて領収証を作成する等あらゆる奸手段を持って公金を横領しいたること発覚せり。

進んでその筋において調査するに、小野平給仕には毎月七円五十銭を支給するはずなるに、前同様の手段にて六円を給し、七円五十銭の領収書を徴するなど、続々文書偽造公金費消の証現出なる状態なれば、目下大紛憂をかもし、校長登校し居るも職員らには一切言葉を交えず、無言の業をなしいるというが、教育家たるの価値、那辺に存するや言語道断というべし



校長が事務職員の給料をピンハネしているという記事である。
当然逮捕モノだと思うが、記事内には捕まった話題はないので、噂話を拾って書き出しているのであろう。このあたり当時の新聞の立ち位置が今の週刊誌にけっこう近いものもあり、興味深い。

さて、校長がこんなありさまだからか、生徒のほうもだらしなかったようだ。
同日の北海タイムスより。


腐敗せる上川中学

上川中学校職員間に一大紛憂を引き起こしたるとは取りあえず報じたるが、同校は職員並びに生徒とも堕落の極に達し居り。

生徒は何れも各所の飲食店に出入し、学資を消費して酩酊を買い、婦女子を見れば言語道断の振る舞いを演じ、その堕落や筆紙につくすべからず。

殊に本年卒業の五年生の如きは、同校に学籍を存しながら同校制帽たる黄線をほしいままむしりとり、「こんな学校の帽子などどうでもよい」と放言し、その横暴乱行至らざる所無きも小林校長以下の職員はこの事実を目撃しつつ、あえて一辺の訓示も為さず。

監督者は放任主義をなるを以って生徒はますます職員を侮蔑し、教場の黒板前に数本の蝋燭を立ててこれに火を点じ、あたかも仏前の如き装置をなし、黒板面には墓を描き、之に何々先生の墓と大書するものもあり、或いは某先生は丸サ見番の小春に熱くなり居れり」など運動場に掲示するやら校中の腐敗いうに忍びざるものありという。



先生がだらしなければ、生徒もだらしないということで、上川中学はどうしようもない。
という感じになっている。

同時期、札幌の中学校は大変なことになっていた。

明治44年3月18日付 北海タイムス


札中の新入生

庁立札幌中学校の新入学生試験は本月十四日、十五日、十六日の三日間施行された。
門内はさながらニシンの群来のように父兄が百人、二百人と詰め掛けている。

それも道理。今年は約百名の入学定員の所へ志望者が六百七十二人もあるといふのだから。
仮令試験成績が優等でも、上の方百名ばかり採用するほか、六百名余りは不合格とならねばならぬのだから、父兄が心配してこのようにつきまとい、結果如何を待ち構えているのである。

中には遠く樺太、千島、北見根室辺から親に連れられてきているものもある。

聞く昨年の入学志望者数は五百何十名であったそうだが、今年はざっと百名の増加である。

年々中等教育志望者の増加するにかかわらず、入れ物の公立中学校がしかも北海の首都たる札幌でただ一つ外無いとは、本道中等教育の前途の為心細い次第ではあるまいか。



上川中学がこのようなありさまだからか?札幌中学校のほうには受験生が殺到している状況である。

当時、北海道内の中学校は札幌中(現札幌南)、上川中(現旭川東)のほかに函館中(現函館中部)と小樽中(現小樽潮陵)、根室実業学校(現根室)と合計5つしかなかった。

札幌中の受験戦争は第二札幌中(現札幌西)が開校する1913年(大正2年)まで続くこととなる。

posted by 0engosaku0 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月21日

1911年3月の北海道(7)小沢駅で機関車転覆事故

5月も下旬に入り、さすがの北海道でも「ちょっと暑いな〜」と感じる日が増えてきた。
まあ、北海道の人は基本的には5月の高温はどんなレベルであっても「あったかい」といい、「暑い」という言葉はもう少し先にならないと使わない。このあたりは、気温としては全然寒くないはずの東京でも12月になると札幌の人と同じ服装で街を歩いているように、服装を変えるのが基本的には季節というのと同じだと思う。言葉の衣替えはもう少し先かな。

さて、今回は100年の3月をたどるシリーズの最終回。
1日に鉄道関連の記事が3つも載っている日があった。

1911年(明治44年)3月21日 北海タイムス


小沢駅の大惨事

昨日午後四時四十四分。倶知安駅発のロ号臨時貨物列車が五時七分小沢駅構内に近づくや猛烈なる速度となり、制動手は必死に歯止めをなせしも及ばず、疾風の如く同駅内一ポイントを過ぎ、給水場附近に至るや、機関車たちまち脱線転覆したれば

前部車掌はとっさの中に飛び降り、制動手は数間の線路外に跳ね飛ばされ幸いに無事なりしも、中央小樽駅(現小樽駅)在勤の田中喜久雄(四二)、日給九十九銭の機関手は転覆とともに強く頭部を打ち、なお露出せし蒸気のため面部その他焼けただれ、皮膚はあたかもおしろいを塗抹(とまつ)せし如くに蒸されて無惨の即死を遂げた。

日給五十三銭の火夫遠藤市之条は振り落とされてタンデラの下にうつぶせとなり、面部を地に埋め、腰部以下を煎餅の如く押しつぶされ、この二名の惨死のその状、見るに忍びず。


しかして機関車に付属せしタンデラは曲がりて、機関車と丁字形を示し、殊に驚くべきは枕木が線路とともに二尺ほど跳ね上がり、その下に機関車を地中深く横さまに突き込みあり。

またこの事故を生ぜし下り線路は五チェーンほどは弓形になりて上り本線と接触し、或いは寸断となり、かつ連結せし貨車十七両のうちウ号5820は微塵に粉砕し、他の十一両は四方に散乱大破され、はなはだしきは後部より逆さまになりて前部の貨車に乗り上げたるものあり、又、二枚折屏風のごとく二つに折れるものあり。

別状無きは後方五両のみにて、これすら全部脱線傾斜せるをみても、如何に惨害の激甚なるかを推するに足る。

之がため、午後六時三十分同駅発下り客車は打ち消しとなり、七時三十三分着列車は銀山駅より引き返しとなれり。

此の急報により同駅機関庫員全部、その他人夫数十名と目名駅より以北然別までの線路工夫と小樽、札幌より鉄道吏員多数出張、徹夜応急工事を為せしため小沢駅は戦場の如く大混雑を来せり。

しかして一部の修理をなし、零時四十分より開通せしめ、今朝も吹雪中を屈せず熱心修理中なり。

原因は余りに速度過度のため、機関車に取り付けある第一遊動車がその用を成さずして飛び上がり、之に機関車のりかけたるものの如し。

現に之に乗り込みのある駅員の語るところによれば、当初小沢駅近く進みたる時の速力猛烈なると非常にして、時計のセコンドの音よりも、列車がレールの継ぎ目を過ぎる響きのほうがはるかに早かりしとは、この戦慄すべき事故の原因を知るに足るなり。

この急報に接し、管理局運転課よりは即時森安、岡の両技師、高道、小泉両書記を従え現場へ出張したり。

二十日倶知安特報


小沢駅は函館本線の駅で共和町にある。稲穂峠の倶知安側にあたり、雪の多いところ。

この事故の翌年にこの駅から岩内までのちの「国鉄岩内線」がつながることとなるが、昭和60年のローカル赤字線廃止により岩内線がなくなり、現在は静かな無人駅である。
そんなところで貨物列車が四方に散らばるような大惨事ということで、かなりセンセーショナルな記事となっている。

いわゆるスピードの出しすぎによる事故なのだが、亡くなった機関士、火夫の日給などというどうでもいい情報が載っているところが時代なのだろうか。


この日は小沢駅のほかにもふきだまりにより岩見沢と幌内太の間が不通になるなど鉄道ダイヤは混乱したことが当新聞では報じられている。さらに、鉄道院の職員が備品を売って料理屋遊び・女郎遊びをしでかした事件の裁判の模様も掲載されるなど、鉄道ネタの多い一日であった。


posted by 0engosaku0 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

1911年4月 福士成豊

福士成豊という名前は気象業務に携わる人ならば知っていなければならない存在である。

この人は日本の気象観測の祖である。
すなわち、今に至るまで脈々と続く日本の気象観測の歴史を作った人、明治5年8月26日に函館に「函館気候測量所」を作り日本人の手による気象観測を始めた人である。

彼の観測所は現在は「函館海洋気象台」となっている。

福士成豊がどういう人物だったかは他のブログや読み物に譲るとして、ここでは100年前の4月、73歳になった福士が新聞に札幌の名翁として紹介されている記事を書き起こすことにする。生前の彼に直接接した当時の人によって残された記述は、今となっては福士を知る貴重な文献に違いない。

1911年(明治44年)4月7日付け 北海タイムスより


古希の名物翁

当区(札幌)は鉄道管理局の裏手の角の白ペンキの小さい洋風平屋を表面にして、低い生垣をめぐらせた一構えに幾久しく住んでいる老紳士がある。

それは福士成豊といって本年七十三歳かくしゃくとしたもの。
この老紳士のは少なくとも当区の珍として誇るに足る経歴がついている。

その経歴は何かといえば、福士翁は函館の船大工としていちはやく洋船を作ったので名を残っている綴木(つづき)氏の子であって、幼少より西洋人に英語を学んだ。

有名なブラキストン氏がアキンド、オシリ、クワンカイの三汽船を持って函館に乗り込んだのがその十七、八の身分。

ブ氏(ブラキストン氏:以下同じ)のことは先日本紙に書いたが、このブ氏は英国の陸軍大尉で清国に派遣されて揚子江測量の大事業を成し遂げたひとである。

揚子江の大河の流域は英国の清国における外交上重要なところであって、その流域の測量を精細にした報告を著書にしたのもブ氏である。

ブ氏がシベリア・樺太に志があって函館に来たらしかったけれど、本道をみて遂に函館に半生を送ることになったのに福士翁は親近して測量術を教わった。

それからブ氏と福士翁とは長月日親密な間柄往復した。
そこでブ氏の事を今日知悉(ちしつ)しているのはまず福士翁を随一といってよい。

かのブラキストン線の偉功については福士翁の内助の功も少なくない。

ブ氏は生来鳥類に嗜好があった。
決して動物学者という学者ではなかったけれども、鳥類に関する趣味からその研究の知識は本国の米人が感服するくらい非凡であったが、福士翁も生来こうした方面の趣味が深いので、自然同気あい求めてブラキストン線の偉功を樹つるに尽力したわけであろう。

豊平川の崖を切って群飛する砂もぐりの燕、五、六十羽を捕ってブラキストン氏に贈ったともある。

ブ氏はなかなか魚釣にも上達しておった。
この釣り道具は無論西洋流の太い長い三、四間もある竿であって鱒釣りが一番爽快なものなそうでブ氏と福士翁は豊平川をたびたび漁った。

福士翁は去る明治二十四年に官をやめた。

その前から七十三歳の当節になるまでその唯一の楽しみは鱒釣であって廃したことはない。
銃猟もまた好きで人一倍巧者でもある。
その銃猟で捕った鳥類は、皆、手づからリッパに剥製にして標本を積んでいる。

ケプロンやアンチセルが開拓使に雇用されて本道開拓に貢献した事績にやはり関係浅からぬは福士翁で、アンチセルに従ってを測量した。

ア氏(アンチセル氏:以下同じ)はかつてブ氏を見て、ブ氏の人格に同国人ながら非常に敬服して「どこか尋常な人ではない」と言ったとは福士翁の記憶である。

ア氏は当区の地質調査のため、当区の土を四尺を掘り切りにしてそのまま東京へ持っていった。

当区の地質は四尺下が砂(ばらす)で、もっとも人間が住んでよい健康地であるから自分も当区に永住したのだと福士翁の述懐を聞かば、当区民は今更ながら確かに喜んで、当区に安住して可なりだ。

もっとも珍な日本人に滅多にないのは福士翁の何十年一日の如く規則正しく起臥して、一切洋式にしているその生活だ。
それに福士翁は一度も洋行したことはない。
あえて贅沢に洋式を用いているのではなく、もっとも質素な節倹な洋服一点張りで、妻女の手製の洋食を食って生きているのだ。

豊平川の上流、ナポレオン帽のカーキ色な痩せてスラリとした洋人顔な福士翁の形影は七、八月には必ずみたるのだ。

そして其の魚釣りには奥さんも一緒で、老夫婦が三里も四里も朝未明に歩いて夕方に帰るのを一生の楽しみとしているのだ。

其の家庭の平和な清浄な有様は、けだし本道永住者の理想とすべき模範といってもよい。

福士翁は今日忘れ去られて世間に遠ざかっているけれど、横浜や上海の外人は福士翁の生存する限り決して忘れない。
外人の本道を見舞うのは、福士翁を見舞って鱒釣りの友となって其の清遊を一日千金とするためである。
要するに福士翁は当区に住む以上、当区の名物翁として尊敬してよい。



こういうように思いがけない出会いがあるから古新聞はやめられない・・・(笑)

明治二十四年に退職して以来、悠々自適な生活を送る福士成豊の姿。

ただのマスつり好きのじいさんではない。外人に尊敬されるような立派な人物だということを紹介しているのであった。

過去の栄光を飾らず、威張らず、静かに余生を暮らす。こういうのっていいですね
posted by 0engosaku0 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月27日

1911年5月の北海道(1) はじまりは枝幸

今年の5月は雨の日が多い。
札幌は27日までに日降水量1ミリ以上の日が13日もあり、現時点で2007年以来4年ぶりの記録だが、あと1日増えると1945年以来66年ぶりに多い記録となる。

明日は雨だから、この記録も延びることとなるだろう。

100年前の1911年はというと、札幌ではたった5日のみである。
5月の月間降水量もわずか11.3ミリで、今に至るまで観測史上1位の少ない記録。
この記録的に雨の少ない5月が、北海道に未曾有の災害をもたらすこととなった。

その災害が、まさに火ぶたを落としたのは、道北・枝幸町であった。

1911年(明治44年)5月7日付の北海タイムスの記事。
四面は札幌高等女学校や札幌鉄道工業部、北海道師範学校同窓会などによる円山公園での観桜記事がトップであるが、二段目に枝幸の記事が記載されている。


枝幸村大火

今六日午前零時、枝幸郡枝幸村(現枝幸町)市街地字幸町、旅人宿丸八(商人宿)より出火

折から強風のため消防も効を奏せず、たちまち幸町大通りに延焼し、小宮山支店を中心とし、家屋百五戸土蔵八棟漁船二十隻全焼、同二時鎮火せるが、村役場、警察署、学校等無事、人畜等には死傷なかりし。

原因は目下取調べ中なるが、兎に角市街枢要の個所、全部烏有に帰したるとて、損害約三十万円に近く、罹災民は学校・寺院に収容救護中なり。


この大火については枝幸村長がたまたま札幌に来ていたことから、記者がインタビューしている。



瀬川村長の談 枝幸大火について

枝幸郡枝幸村に大火災ありしは別項電報欄の如くなるが、折から地方改良講習会に出札中なりし同村村長・瀬川勇記氏を丸惣旅館に訪ひたるに、氏は同村大火の報に接し、帰村の準備中とて繁忙の中に左の如く語れり


元来ワタシは先月宗谷の方から同役場へ就職したばかりで詳しい地理は未だ承知しませぬ。
そのうち今回の大火に遭遇した次第です。

さて当時中●要の町名は幸町と梅ヶ枝町で、今回の火元は幸町の丸八旅人宿です。

私の手元の着電には、やはり火元から幸町大通へ延焼、百五戸焼失し、役場は無事とありました。
この分で村役場も警察も学校・寺院等も無事なことが判明しました。

貴社の電報を拝見すると、焼失建物のうち土蔵八棟とありますが、真逆梅ヶ枝町へは延焼しますまい。

殊に漁船の焼失しているところを見れば、幸町から海岸のほうへ延焼したもので、たぶん焼失しただろうと思う主なる建物は、営林区分署、小林荒物商店、藤の湯等で、元道会議員であった広谷季太郎氏の家屋も焼失したかもと思います。

その他焼失したと思うは枝幸水産組合、遠藤回漕店等で、藤野旅館は多分無事だろうと思います。

人畜に死傷の無かったのは何よりでした。それに学校・寺院の大建物が焼失しなかったので、罹災民の収容には苦痛を感ずることはないと思います。

兎に角、就職早々といい不幸にも出札中のこととて気ばかり焦っても仕方ありません。云々



春は風の強いシーズンだけに火事はもともと多く、木造家屋の多い時代だから、大火へと発展する場合は多かった。

枝幸の場合も、火元は旅館ということで、人災である。

しかし、このあと大火は「天災」として道内各所を襲うこととなる。


5月11日の北海タイムス


円山・藻岩 盛んに燃ゆ

一昨九日正午ころ、札幌郡円山村官林附近より発火し、強風のため延焼区域拡大し、同夜十時に至り火勢漸次藻岩山に向かって延焼し来たり。

昨十日午前二時半、遂に藻岩山中腹に飛び火し、みるみる頂上へ燃え上がり火勢益々猛烈となり盛んに延焼しつつあり。

今後風向の如何によりては庁立感化院建物に飛び火あらんも計り難く、小池感化院主事は職員と札幌営林区署長協力し人夫を召集し必死尽力するも、何分延焼区域すこぶる広大なるに人夫の少数とによりとうてい防御の見込み立たず、札幌警察署まで巡査十名出張し、又感化院よりは主事・教師のほか年長なる院生七名を率い、午前五時より登山して極力防火に努めつつあるも、なお鎮火するに至らず。



藻岩山が頂上まで真っ赤に焼けている姿。
100年前はこんなありえない光景が、札幌の夜に現れていたのである・・・


つづきはまた今度♪


posted by 0engosaku0 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月29日

1911年5月の北海道(2)山火全道を覆う

異常天候早期警戒情報は出ていないものの、確率資料をみると5月28日からの一週間は、平年より気温がかなり低くなる確率が50%近くある。
週間予報を見ている限りはあんまりそんなに感じないのであるが、6月なのに氷点下5度くらいまで下がるなんてこともあるのだろうか。

さて、今回は短くだが前回の続き。
1911年5月の北海道は異常な干天であったことは先に述べたが、枝幸大火の後は人の手ではない火事、山林火災が北海道民を次々と襲うことになる。

1911年(明治44年)5月11日 北海タイムスより


山火頻々 人家を焼く

地上乾燥時期となりし、昨今全道各地に山火頻々
強風のため防火の術なく延焼区域ますます広大して数里にわたるものあり。

その災害は独り樹林の被害に止まらずにして村落に及ぼし、人家を焼き払うの惨害を演出するに至り、その飛報飛電頻々たるが左に一括して掲載する事となしぬ。

▼島牧原歌村全滅▼渚滑の大火岩田道会議員宅全焼▼余市山林大火▼野塚の山火▼小樽の山火▼札幌円山の山火



日本海側が中心だが、広尾や紋別も含め、5月10日の時点で道内は多数の地点で山火が発生していることがわかる。

今回はこのうち二つの山火の様子を挙げておく


野塚原野山火

昨九日夜、広尾郡野塚原野より山火事起こり、強風のために相の子建ての農家五、六戸を焼き払い、風ますます猛烈となり、三号水源地を焼き払い、茂寄市街を目がけて突進し、危険につき消防その他官民協力消防に尽力するも未だ鎮火せず。



広尾は日高山脈を越えて吹き降ろす西風がフェーン現象を起こし、乾燥と高温をもたらす場所。
当時もおそらく西寄りの風が強く吹き降ろしていたものと思われる。
広尾町の水源は西広尾川なので、おそらくこの上流方向から西風に乗り、風下の広尾町市街へ向けて野火が移動していったのだろう。

同様にフェーン現象で空気が乾燥し、強い風も吹くといえば日向(ひかた)風で有名な雄武町を含む紋別地方である。


渚滑の大火

紋別郡渚滑村(現紋別市)山火の為め昨九日夜より盛んに炎焼し、十日午前二時人家を焼き払い、勢い猛烈にして既に四十戸焼失、郵便局も焼き払われ電信機、郵便物は無事なるも、村民消防に尽くすも火勢盛んにて同村一面の火となり、消防いかんともするあたわず、今なお盛んに焼けつつありとの公報ありたり

▼同後報

渚滑村火災は益々猛烈に延焼し、学校も多分焼失したるならむとのことなり。
岩田道会議員宅も全部焼失したり。損害多大なるべし。



紋別の北玄関である渚滑町。ここも滝上から流れてくる渚滑川の河口へむけて南西の風が強く吹く場所である。
紋別はフェーン現象で2009年5月には最小湿度7%という記録まで作っている。
この日もおそらく、カラカラな南西風が勢いよく吹き込んで樹木を揺らし、野火を起こしていったのだろう。

渚滑のように集落全体が火の海となったところは少なくなかった。
その魔の炎は、乾燥天気とともにさらに拡大し、町を飲み込む勢いで広がっていった。

続きは・・・6月になるかな?

posted by 0engosaku0 at 02:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月17日

1911年5月の北海道(3)稚内大火

ずいぶんと日が空いてしまった。
猛烈に忙しい日々が続いている。
今週も休みがほとんどなく、早朝勤務も多いのでなかなか長文があげられないが、追記、追記で本章については記事にしていきたい。

宗谷丘陵が笹だらけで樹木らしいものがほとんどないのは、明治の大火が一因だと聞いたことがある。
今回は、おそらくそれを指すであろう歴史的大火の記事である。

明治44年(1911年)5月20日 北海タイムス


稚内大火

▼全焼七百余戸
昨誌電報欄にて報道せる如く小樽区の大火が鎮火したる十七日午後一時三十分より宗谷郡稚内町山火のため又も火を失し、約三時間内に同町全市街地を烏有に帰したるが、其の詳報左の如し。

▼道庁公電
去る十五日より山火の延焼は一旦消し止めたるも十七日朝十一時再び発火。
折からの西南風強烈にて猛火人家を襲い、午後一時三十分より約三時間に亘り稚内市街地全焼。
宗谷支庁、宗谷警察署、その他官公署皆な焼失せり。
山上支庁長は目下徴兵検査のため枝幸村へ出張不在なるも、同支庁の重要書類大半、諸書類大半いずれも無事。
焼失戸数は約六百戸、死傷一名ある見込み。電話不通にてさしあたり飯米に欠乏困難を極め、米五十俵急送を乞う。

▼同第二報
十七日は混雑のため十八日ようやく罹災者救助を始む。
又官公署は焼け残りたる箇所へそれぞれ仮事務所を設け、宗谷警察署は常盤通り番外地へ仮官舎を設け、旅人宿皆焼失、困難を極め居れり。

▼警察部着電
十七日午後一時三十分、山火人家へ移り市街全焼焼失したり。
主な建物は
宗谷支庁、宗谷警察署、稚内小学校、稚内区裁判所、稚内郵便局、稚内税関監視署、稚内税務署、稚内病院、稚内町役場、宗谷水産組合、北海道銀行支店等約七百余戸を焼失し、同四時鎮火せり。
警察署はすこぶる消防に尽力せしも猛火のため書類器具全部焼失、官公署避難の個所なく困難を極め、損害多大なるも取調べ中なり。

▼山火続報
既電の如く連日来の山火稚内市街裏手官林に延焼、折から南風猛烈、遂に十七日午後一時人家に延焼して官公庁全部の外、宗谷新報社、神社寺院等も全焼し、その他各商店を焼き払い、全焼七百余戸にて午後五時鎮火し、損害約三百万円。

山口支庁長は枝幸村へ出張中にて不在。成田警察署長は署員消防全部を特励して消防にじんすいせしが、強風のため各官街は焼き払われたるも、猛火を冒して防火に努めたり。

火災中焼死者一命、行方不明の小児算無く、各官街寺院等焼失のため、避難者収容所無く、困難を極め炊き出し等混雑名状すべからず。

山火は今なお止まず猛烈をきわめ、各原野も大火にて凄惨を極め居れり。
(稚内町発電)

▼札逓局着電
十八日大山稚内郵便局長より札幌逓信管理局長宛発電によれば、十七日午前十一時山火市街へ延焼し、折から強風に午後一時三十分に至り局舎全焼せるより。
局長は部下を特励して郵便物電報原書その他の式紙類、電信機械類、はがき類と共にはしけ船に積み込み、沖合に避難せしため無事なるを得たるも電池材料欠乏、また事業所及び事務用紙類も数日支ふるに過ぎず、購買不能なり。

金庫は無事。
局長始め、局員雇い人家族とも僅かに身をもって免れたり。
仮局は南浜通り四丁目塩山ツジ方に設け、十八日朝事務を開始せり。
この火災に北浜局も焼失せしが、郵便局は無事なり。

▼稚内附近原野大火
稚内附近尻臼村山火のため全滅の姿。
森林看守駐在所、巡査部長派出所、巡査部長派出所、灯台、郵便局、病院、寺院その他全焼五、六十戸焼失。
増幌原野も全焼、サラキトマナイ原野も過半焼失し、宗谷警察署にては応急防火中。

▼救護隊派遣・道庁本部
稚内町大火災救護とし、道庁より橋本勧業部長は地方係宇和野・萱場の二属、教育係大場、視学兵事係永田属、会計係岩上属及び保安係山田警部補及び教習所特別勤務巡査約十五名を引率し、本日午後六時利尻丸を臨時出帆せしめ稚内へ急行することとなり、昨日午後五時より救護部員を集め各種打ち合わせをなしたるが救護用として携帯すべきものは宗谷支庁へ電報照会中にて本紙締切りまでには確定せざりしも、米、味噌、寝具、衣服、及び官街に使用すべき筆墨紙等を用意携帯すべし。

▼高松丸船員談
十九日午前五時小樽に入港したる高松丸は稚内大火の際同地に碇泊しいたる由なるを以って、同船を訪い、船員の語るを聞くに。
火災は十七日午前九時、山火が遊郭に延焼したるに始まり、貸座敷六戸のうち山本、丸大の二軒を残してこの地を全焼せしめ、それより七町をさる市街地に燃え移り、市街の枢要部を全滅せしめ、北端広谷漁場に至って鎮火したるは午後三時半頃なりし。

火災当時は西南風強烈に吹き、高松丸船員も上陸するに能はず、翌十八日午前四時、炊き出しを用意してようやく上陸したり。

電信不通のため翌日太陽丸が枝幸へ寄航するに依頼して支庁より出張中の支庁長に状況を通知したり云々。

▼電信暫く通ず
昨日小樽郵便局につき照合するに、十八日午後五時、稚内、利矢古丹(りやこたん:現稚内市)、尻臼、猿払、目梨泊(現枝幸町)、枝幸、幌内(現雄武町)、雄武、および樺太へ電信不通なりが十九日午前十一時稚内方面開通の公報ありたるも火災の消息は一切不明なりし



とりあえず第一報分まで書き起こしたところで、続きはまた今度。

posted by 0engosaku0 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月23日

1911年5月の北海道(4)北海道丸焼け

前回は明治44年5月に北海道を襲った大規模な野火が原因となった「稚内大火」当日の模様を挙げた。今回は続編となる。

1911年(明治44年)5月19日 北海タイムス


猛火!猛火!

祝融氏本道を狂い回り、先には枝幸村を全滅、続いて小樽手宮裏町を襲い、一方山火全道を荒れまわり、人家を焼き尽くし、果ては死傷者数十名を出すに至り。
その勢い益々猛烈を極め居るが、其の飛報電を一括左に収録せん。

▼新十津川 高台全滅
樺戸郡新十津川村大字中徳富、山火猛烈のため、字高台(日進村のこと)部落は高台尋常小学校を残して百戸焼失。殆ど全滅の姿なり。
同校長高石氏は自己住宅の焼失を顧みず必死消防に尽力するも感ずべく、吉深農場も十二戸、荻原谷も六戸、その他焼失家屋はなはだしく、全焼二百二十戸の被害。
字盤の澤方面約五十戸焼失、下徳富村は二十八戸、四フン澤は六戸全焼。延焼七里にわたり、同村部落におけるかかる大火災は前代未聞なりと。

▼歌志内山火
同炭山の山火猛烈のため、貯炭場七棟焼失し、二十棟の損害を受け、又社宅十戸、雇夫長屋十戸、工夫長屋四十二戸、人家六戸、及び下赤平の農家十六戸、計八十四戸全焼。
ますます猛烈を極め、市街地危急に頻しをり、村民坑夫等必死消防のため、火薬庫は幸いに無事なるを得たりと。

▼神崎山火
十八日礼文郡泊村字神崎村山火、巡査駐在所外六十戸全焼、焼死一名、同駐在所は船泊駐在所へ合併執務し居れり。

▼夕張方面山火
十七日夜空知支庁到着の電報によれば夕張鹿の谷の山火甚だしく、中山坑社宅工夫長屋全焼し、なお市街の周囲四十戸消失。まさに市街をなめつくさんとしつつあり。
なお若鍋炭鉱は二十一戸全焼せり。

▼余市方面山火
余市郡赤井村の山火は民家に及び、二十八戸焼失、なお鎮火せず。

▼浦臼山火
山火猛烈、人家を焼き二十四戸焼失。風力益々強く、鎮火の見込み無し。

▼石狩町山火
十七日夜、石狩町字八幡町高丘五の沢より滝の沢に至るまで山火甚だしく、五の沢なる日本石油株式会社(インタナショナル石油会社所有)石油採掘機械場及び雇員住宅並びに民家数戸全焼。

村民防火せしも厚田村字望来、桑田農場造林地に延焼し、落葉松十万余本焼失。
火勢益々猛烈なり。

▼十日連続の山火
豊平町字滝ノ沢、盤之沢、一の沢、定山渓より簾舞、西御料、焼山、野の沢、丸十五下砥山、白井川方面の御料林農学林民有地等より出火、去る八日午後五時より十七日に至るまで十日間昼夜連続延焼し、目下なお盛んなれば、各部落民総出にて消防に努めつつあり。

殊に民家の危険なるは滝ノ沢部落にて同地学校の如き既に三回までも火焔をかむり、危胎に瀕するものから授業を中止せられ、青年はもちろん老幼とも家事を打ち棄て、昼夜総出に消防に従事し居る有様なる。

十七日午後五時、盤の沢の揚岩勘太郎、山谷浅之丈の二戸は遂に全焼の難にあい、学校向かいの滝ノ沢神社も火中に包まれたるを一同駆けつけ消し止めたるが、今なお危険の中にあり。



稚内だけではなく、道内各地で山火発生。開拓が一段落して生活が軌道に乗りつつある集落を次々と焼いていった。

明治44年5月21日 北海タイムス


山火情報

▼初山別
苫前郡初山別村は二十日午前六時五十分野火延焼して市街に及び、戸数六十八戸を焼き、損害多大なり。

▼岩見沢方面
二十日午前十時半、岩見沢町空知農業学校は野火のため約二百間の間隔まで襲われ危険の状態にあれば、石井署長は消防夫を率い、直ちに現場へ向かいたり。

▼簾舞方面
十六日より野火猛烈を極め、ために片桐巡査、簾舞定山渓方面に人夫六十名をつのり消防につとめしが、十九日まで三日間延焼し、家屋三戸を焼き払い、積雪ある附近にてついに消し止めたれば、一行は二十日午後引き揚げたり。

▼砂川村
本村山火は南三号より五号まで一帯火となり、人家十五戸、南空知太にて人家五戸、計二十戸全焼せり。

▼留寿都
貫別官林より山火起こり、ソレオイ山まで延焼。人家八戸焼失せり。

▼磯谷
磯谷郡島古丹村山火のため長尾良作粕蔵一棟、目名村にては辻農場四戸、石淵四戸、目国丹一戸、計十戸焼失せり。

▼雨竜村
新十津川盤の沢より延焼したる山火は対岸なる雨竜郡雨竜村に飛び火し、第二区農長谷川伝蔵孫定治(二つ)は馬一頭と共に惨死し、附近民家とも三戸を焼きて十七日鎮火せるが、十八日は面白内胃の津方面に発火、北竜村になお延焼しつつあり。

▼瀬棚方面
瀬棚郡利別村字オチヤラベツ村は十七日夜野火に襲われ、小学校及び人家二戸を焼失したれば目下取調べ中。

▼浜益方面
十八日より山火起こり延焼甚だしく、官林五町歩を焼き目下消防中。

▼利尻方面
利尻郡鴛泊村大字鴛泊村、山火のため最も危険。焼失家屋六戸。
又沓形村は未だ鎮火せず人家に襲来せんとし極力警戒中なり。

▼黒松内
朱太川官林附近林野の山火焼失区域は1千町歩を超ゆべし。

▼美唄
同村山火にて一の沢より盤の沢へ延焼し、人家十一戸焼失したる。



北部南西部と山火事頻発である。
火のないところに煙は立たぬというけれど、この時期の北海道はいたるところから煙があがり、夜は炎が空を染めていたのであろう。

稚内では救護への動きがみえる。

1911年(明治44年)5月21日 北海タイムス


稚内市街惨状

稚内町の目抜きの場はことごとく焼尽せしこととて大火後の焼け跡はすこぶる凄惨たるが、殊に火災の原因は市街後方の高丘より西風のため盛んに火煙を吹き付けたることとて、器具器械及び家具等を持ち出すのいとまなく、或いはその持ち出したる物品も多くは延焼して全然丸焼けとなり、日常の被服さえなきもの少なからず。

よって宗谷支庁長はとりあえず罹災者の救助用として白米百俵、味噌三十樽、塩十樽、漬物十樽、及び支庁用となすべき椅子、テーブル、書箱等各四十組、支庁の印章一個、国費地方費の支払い命令書用紙等をも至急送付方を道庁へ請求し来たり。

又、寝具は小樽区役所に依頼し、尚支庁員の被服として木綿綿入れ三十名分の輸送方を依頼し来たるが、さらに一昨夜に至り、仮支庁として事務を取り扱う場所なければさしあたり天幕を以って仮事務所となす見込みなれば天幕数張、及び応急救護のためむしろ一千束、板五千坪、木綿二百俵を要す至急送付あれ。

火は未だ消えず、風なお強し。残りの民家危険につき警戒中との電報あり



今の世でも東日本大震災の東北沿岸のように、救護の手が直ぐに入らなかったりするのであるから、百年前の世の災害救護の困難さは想像に難くない。

同日の記事では、宗谷岬の灯台まで焼失したことが記載されている。


宗谷灯台の焼失

逓信省は宗谷岬灯台、霧笛とも十七日焼失の旨、告示せり。

大山火と推問

本道連日の大山火は、南は渡島北は宗谷枝幸の北端に亘り数日の延焼にて被害惨状を極めつつあれば、内務省は道庁に対し、火災状況の推問をなすに至れりと。


推問とは取り調べること。内務省から火災の規模について調査をしろという指示が出た。

防火施設の整っていないこの時代、一番効果的な消火策は「雨」。
もう天に助けを請うしかなかった。

1911年(明治44年)5月21日付け


未だ雨降らぬ 明治二十九年以来の乾燥

全道各方面に起こりたる山火は猛威を逞しくして、いつ止むかもしれない。
消防は到底人力の及ぶ所ではないから、だまって大雨を待つより外に仕様がない。

道庁豊蔵測候技師について聞くに、今回は去る(明治)二十九年以来の大乾燥で、四月二十七日以来地上を湿すほどの雨は絶てなく、本月に入り四日に1.7ミリ、七日に0.5ミリ、八日に1.1ミリ、十三日に0.1ミリの降雨があったばかり。

して今後何日頃降雨をみるかを観測するに、高圧部は本州東海岸(宮城茨城の沖合)に在り北上して、一昨日根室の東方へ来り七百六十八を示し、低気圧は満州東部に七百五十六、朝鮮南部に七百五十八を示し、満州東部のものは沿海州の内陸を通過して樺太中部に達すべく、また朝鮮のものは関東地方を通過し太平洋へ出るらしいとのことで、根室の高圧部にして消失しない限り雨を見る能はざるをもって、多分二十五日以後だろうと。


新聞には既に「天気予報」と載っているのだが、記事の中では予測の意味で「観測」という言葉を使っているのが面白い。

また、高気圧・低気圧ではなく、高圧部・低圧部という言い方をしているし、気圧は水銀柱のミリメートルを使っているのが時代である。760ミリで1013hPaだから、根室附近の高気圧はけっこう優勢なものである。ちなみにロシアは今も気圧は水銀値で表示されている。


さて、前に稚内大火に遭遇した「高松丸」の話を挙げたが、同日付にも詳しい目撃談が載っている。


北見沿岸の猛火

去る十七日汽船高松丸にて稚内に寄航し、同日稚内市街が猛火のため僅か二時間にして全滅する惨事を目撃せる枝幸林務派出所長矢島儀八氏が本社員に語る所を聞くに

高松丸の稚内に入港せるは午後一時頃にて。
当日は俗に言う「ヒカタ」といふ西南の烈風が吹き、船が入港しても波高くハシケが立たず、乗客中稚内の人は自分の家がドンドン焼け居るのを眼前にひかえながら上陸することで傷という状態になり、されば高松丸の船長は早速船員に命じボートを下ろさせ、自ら舵を操縦して二回上陸せしめたるが其の動作はすこぶる敏捷なりし。

火の猛烈なりしことは殆ど形容するに能はず。僅々二時間にて千戸近くの家屋を焼き払い、灯台下に寺一軒とほかに民家を五六戸残したるのみ。

官街商店全部焼失せるをもって第一糧食なく高松丸からも米を若干と板などを贈れるが、その惨害は言語に絶す。

稚内全滅の日は山上支庁長が徴兵検査官とともに枝幸へ出張して不在なりしかは混雑一層なりと思う。

官街中、殊に郵便局が焼けたれば通信が利かず、それに市街は殆ど全滅して避難する場所なし。

今度の火災に最も打撃というはこのごろ獲れたニシンの製造物を悉く焼失して仕舞いしとにて、これは多大の損害ならんと思う。

枝幸の火災は十六日で、丸八といへる旅館より出火せり、或いは放火とも噂す。
戸数三百四、五十の市街地が百数十戸焼けて、其の残れる分は今度さらに野火のために襲われつつあり


村民は何れも夜分帯を解かず、何時にても飛び出すによきよう草履の用意までして寝につくという有様なり。

マー一口に言ってみると北見沿岸一帯は猛火にて、従来火の這い入れることなき山林が容赦なくドンドン焼け、何の位焼け行くものか実はすさまじきものなり。

枝幸と頓別の間に目梨泊という所あり。戸数四十数戸の漁村なるが、郵便局などありしに。それがやはり野火のために全滅して仕舞へり。

稚内の火事は無論原因は野火にて、常に火も何もなき番屋が一番先に焼け、それから延焼せるなり。
十数日雨なく乾ききった所へヒカタ風ならば、たまらず見る見るうち焼き払って仕舞いたるなり、云々



そして北海道についに待望の雨が降る。

1911年(明治44年)5月22日の日雨量
札幌3.4ミリ、旭川15.3ミリ、網走9.3ミリ、函館3.0ミリ、寿都6.5ミリ、帯広6.5ミリ。

量はたいしたことはない。しかし乾ききった大地に満遍なく、土が湿るほどの雨が降ったことは大きな意味があった。

稚内に最も近い観測所、樺太・大泊の記録でも、21日午前10時〜午後2時の間に雨が降り出し、21日だけで6.3ミリ、22日は12.8ミリの雨が降った。
改めてみると5月1日から21日10時までの降水量はたった0.1ミリだから、宗谷地方も相当乾燥していただろうと思われる。

待ちに待った雨ではあったが、被災地ではどうであったか。

1911年(明治44年)5月23日 北海タイムス


災後の稚内 同情すべき惨況 災民露宿の悲劇

▼第一報 安田特派員

搭乗したる高松丸は今朝入港す。

山火より起こりて大火全滅の姿なる稚内町。災後の光景実に凄惨を極め、南は野寒布岬灯台より北は声問に至る約四里沿岸一帯水源涵養林全て焼山と化し、眼界に青葉一も無く満目荒野を見るが如く。

山上支庁長は成田警察署長、河野町長等と協力して善後策を講ずるに苦心しつつあるも今後同町飲料水欠乏を気遣い居れり。

稚内町にて焼け残れるは僅かに南浜町六丁目の民家十五戸、土蔵九棟、税務署官舎三棟、区裁判所書記官舎三棟と禅徳寺、大林寺、大慶寺のみにて、尤も繁盛の市街全部烏有に帰し、余焔、なお立ちのぼりおれり。

罹災者は山火止まざるため人心喧々たりしも、昨日(二十一日)午後五時より、天、大雨を降らし、山火終息するに至りしも、罹災者の小屋掛の材料無く、降雨中に居所なくして彷徨し居るは同情すべく光景、悲惨を極む。



雨をしのぐ家も小屋も何も無い。

着のまま焼け出された稚内町民には傷にしみいるような、辛い雨であった。


posted by 0engosaku0 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 100年前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする