前回は明治44年5月に北海道を襲った大規模な野火が原因となった「稚内大火」当日の模様を挙げた。今回は続編となる。
1911年(明治44年)5月19日 北海タイムス
猛火!猛火!
祝融氏本道を狂い回り、先には枝幸村を全滅、続いて小樽手宮裏町を襲い、一方山火全道を荒れまわり、人家を焼き尽くし、果ては死傷者数十名を出すに至り。
その勢い益々猛烈を極め居るが、其の飛報電を一括左に収録せん。
▼新十津川 高台全滅
樺戸郡新十津川村大字中徳富、山火猛烈のため、字高台(日進村のこと)部落は高台尋常小学校を残して百戸焼失。殆ど全滅の姿なり。
同校長高石氏は自己住宅の焼失を顧みず必死消防に尽力するも感ずべく、吉深農場も十二戸、荻原谷も六戸、その他焼失家屋はなはだしく、全焼二百二十戸の被害。
字盤の澤方面約五十戸焼失、下徳富村は二十八戸、四フン澤は六戸全焼。延焼七里にわたり、同村部落におけるかかる大火災は前代未聞なりと。
▼歌志内山火
同炭山の山火猛烈のため、貯炭場七棟焼失し、二十棟の損害を受け、又社宅十戸、雇夫長屋十戸、工夫長屋四十二戸、人家六戸、及び下赤平の農家十六戸、計八十四戸全焼。
ますます猛烈を極め、市街地危急に頻しをり、村民坑夫等必死消防のため、火薬庫は幸いに無事なるを得たりと。
▼神崎山火
十八日礼文郡泊村字神崎村山火、巡査駐在所外六十戸全焼、焼死一名、同駐在所は船泊駐在所へ合併執務し居れり。
▼夕張方面山火
十七日夜空知支庁到着の電報によれば夕張鹿の谷の山火甚だしく、中山坑社宅工夫長屋全焼し、なお市街の周囲四十戸消失。まさに市街をなめつくさんとしつつあり。
なお若鍋炭鉱は二十一戸全焼せり。
▼余市方面山火
余市郡赤井村の山火は民家に及び、二十八戸焼失、なお鎮火せず。
▼浦臼山火
山火猛烈、人家を焼き二十四戸焼失。風力益々強く、鎮火の見込み無し。
▼石狩町山火
十七日夜、石狩町字八幡町高丘五の沢より滝の沢に至るまで山火甚だしく、五の沢なる日本石油株式会社(インタナショナル石油会社所有)石油採掘機械場及び雇員住宅並びに民家数戸全焼。
村民防火せしも厚田村字望来、桑田農場造林地に延焼し、落葉松十万余本焼失。
火勢益々猛烈なり。
▼十日連続の山火
豊平町字滝ノ沢、盤之沢、一の沢、定山渓より簾舞、西御料、焼山、野の沢、丸十五下砥山、白井川方面の御料林農学林民有地等より出火、去る八日午後五時より十七日に至るまで十日間昼夜連続延焼し、目下なお盛んなれば、各部落民総出にて消防に努めつつあり。
殊に民家の危険なるは滝ノ沢部落にて同地学校の如き既に三回までも火焔をかむり、危胎に瀕するものから授業を中止せられ、青年はもちろん老幼とも家事を打ち棄て、昼夜総出に消防に従事し居る有様なる。
十七日午後五時、盤の沢の揚岩勘太郎、山谷浅之丈の二戸は遂に全焼の難にあい、学校向かいの滝ノ沢神社も火中に包まれたるを一同駆けつけ消し止めたるが、今なお危険の中にあり。
稚内だけではなく、道内各地で山火発生。開拓が一段落して生活が軌道に乗りつつある集落を次々と焼いていった。
明治44年5月21日 北海タイムス
山火情報
▼初山別
苫前郡初山別村は二十日午前六時五十分野火延焼して市街に及び、戸数六十八戸を焼き、損害多大なり。
▼岩見沢方面
二十日午前十時半、岩見沢町空知農業学校は野火のため約二百間の間隔まで襲われ危険の状態にあれば、石井署長は消防夫を率い、直ちに現場へ向かいたり。
▼簾舞方面
十六日より野火猛烈を極め、ために片桐巡査、簾舞定山渓方面に人夫六十名をつのり消防につとめしが、十九日まで三日間延焼し、家屋三戸を焼き払い、積雪ある附近にてついに消し止めたれば、一行は二十日午後引き揚げたり。
▼砂川村
本村山火は南三号より五号まで一帯火となり、人家十五戸、南空知太にて人家五戸、計二十戸全焼せり。
▼留寿都
貫別官林より山火起こり、ソレオイ山まで延焼。人家八戸焼失せり。
▼磯谷
磯谷郡島古丹村山火のため長尾良作粕蔵一棟、目名村にては辻農場四戸、石淵四戸、目国丹一戸、計十戸焼失せり。
▼雨竜村
新十津川盤の沢より延焼したる山火は対岸なる雨竜郡雨竜村に飛び火し、第二区農長谷川伝蔵孫定治(二つ)は馬一頭と共に惨死し、附近民家とも三戸を焼きて十七日鎮火せるが、十八日は面白内胃の津方面に発火、北竜村になお延焼しつつあり。
▼瀬棚方面
瀬棚郡利別村字オチヤラベツ村は十七日夜野火に襲われ、小学校及び人家二戸を焼失したれば目下取調べ中。
▼浜益方面
十八日より山火起こり延焼甚だしく、官林五町歩を焼き目下消防中。
▼利尻方面
利尻郡鴛泊村大字鴛泊村、山火のため最も危険。焼失家屋六戸。
又沓形村は未だ鎮火せず人家に襲来せんとし極力警戒中なり。
▼黒松内
朱太川官林附近林野の山火焼失区域は1千町歩を超ゆべし。
▼美唄
同村山火にて一の沢より盤の沢へ延焼し、人家十一戸焼失したる。
北部南西部と山火事頻発である。
火のないところに煙は立たぬというけれど、この時期の北海道はいたるところから煙があがり、夜は炎が空を染めていたのであろう。
稚内では救護への動きがみえる。
1911年(明治44年)5月21日 北海タイムス
稚内市街惨状
稚内町の目抜きの場はことごとく焼尽せしこととて大火後の焼け跡はすこぶる凄惨たるが、殊に火災の原因は市街後方の高丘より西風のため盛んに火煙を吹き付けたることとて、器具器械及び家具等を持ち出すのいとまなく、或いはその持ち出したる物品も多くは延焼して全然丸焼けとなり、日常の被服さえなきもの少なからず。
よって宗谷支庁長はとりあえず罹災者の救助用として白米百俵、味噌三十樽、塩十樽、漬物十樽、及び支庁用となすべき椅子、テーブル、書箱等各四十組、支庁の印章一個、国費地方費の支払い命令書用紙等をも至急送付方を道庁へ請求し来たり。
又、寝具は小樽区役所に依頼し、尚支庁員の被服として木綿綿入れ三十名分の輸送方を依頼し来たるが、さらに一昨夜に至り、仮支庁として事務を取り扱う場所なければさしあたり天幕を以って仮事務所となす見込みなれば天幕数張、及び応急救護のためむしろ一千束、板五千坪、木綿二百俵を要す至急送付あれ。
火は未だ消えず、風なお強し。残りの民家危険につき警戒中との電報あり
今の世でも東日本大震災の東北沿岸のように、救護の手が直ぐに入らなかったりするのであるから、百年前の世の災害救護の困難さは想像に難くない。
同日の記事では、宗谷岬の灯台まで焼失したことが記載されている。
宗谷灯台の焼失
逓信省は宗谷岬灯台、霧笛とも十七日焼失の旨、告示せり。
大山火と推問
本道連日の大山火は、南は渡島北は宗谷枝幸の北端に亘り数日の延焼にて被害惨状を極めつつあれば、内務省は道庁に対し、火災状況の推問をなすに至れりと。
推問とは取り調べること。内務省から火災の規模について調査をしろという指示が出た。
防火施設の整っていないこの時代、一番効果的な消火策は「雨」。
もう天に助けを請うしかなかった。
1911年(明治44年)5月21日付け
未だ雨降らぬ 明治二十九年以来の乾燥
全道各方面に起こりたる山火は猛威を逞しくして、いつ止むかもしれない。
消防は到底人力の及ぶ所ではないから、だまって大雨を待つより外に仕様がない。
道庁豊蔵測候技師について聞くに、今回は去る(明治)二十九年以来の大乾燥で、四月二十七日以来地上を湿すほどの雨は絶てなく、本月に入り四日に1.7ミリ、七日に0.5ミリ、八日に1.1ミリ、十三日に0.1ミリの降雨があったばかり。
して今後何日頃降雨をみるかを観測するに、高圧部は本州東海岸(宮城茨城の沖合)に在り北上して、一昨日根室の東方へ来り七百六十八を示し、低気圧は満州東部に七百五十六、朝鮮南部に七百五十八を示し、満州東部のものは沿海州の内陸を通過して樺太中部に達すべく、また朝鮮のものは関東地方を通過し太平洋へ出るらしいとのことで、根室の高圧部にして消失しない限り雨を見る能はざるをもって、多分二十五日以後だろうと。
新聞には既に「天気予報」と載っているのだが、記事の中では予測の意味で「観測」という言葉を使っているのが面白い。
また、高気圧・低気圧ではなく、高圧部・低圧部という言い方をしているし、気圧は水銀柱のミリメートルを使っているのが時代である。760ミリで1013hPaだから、根室附近の高気圧はけっこう優勢なものである。ちなみにロシアは今も気圧は水銀値で表示されている。
さて、前に稚内大火に遭遇した「高松丸」の話を挙げたが、同日付にも詳しい目撃談が載っている。
北見沿岸の猛火
去る十七日汽船高松丸にて稚内に寄航し、同日稚内市街が猛火のため僅か二時間にして全滅する惨事を目撃せる枝幸林務派出所長矢島儀八氏が本社員に語る所を聞くに
高松丸の稚内に入港せるは午後一時頃にて。
当日は俗に言う「ヒカタ」といふ西南の烈風が吹き、船が入港しても波高くハシケが立たず、乗客中稚内の人は自分の家がドンドン焼け居るのを眼前にひかえながら上陸することで傷という状態になり、されば高松丸の船長は早速船員に命じボートを下ろさせ、自ら舵を操縦して二回上陸せしめたるが其の動作はすこぶる敏捷なりし。
火の猛烈なりしことは殆ど形容するに能はず。僅々二時間にて千戸近くの家屋を焼き払い、灯台下に寺一軒とほかに民家を五六戸残したるのみ。
官街商店全部焼失せるをもって第一糧食なく高松丸からも米を若干と板などを贈れるが、その惨害は言語に絶す。
稚内全滅の日は山上支庁長が徴兵検査官とともに枝幸へ出張して不在なりしかは混雑一層なりと思う。
官街中、殊に郵便局が焼けたれば通信が利かず、それに市街は殆ど全滅して避難する場所なし。
今度の火災に最も打撃というはこのごろ獲れたニシンの製造物を悉く焼失して仕舞いしとにて、これは多大の損害ならんと思う。
枝幸の火災は十六日で、丸八といへる旅館より出火せり、或いは放火とも噂す。
戸数三百四、五十の市街地が百数十戸焼けて、其の残れる分は今度さらに野火のために襲われつつあり
。
村民は何れも夜分帯を解かず、何時にても飛び出すによきよう草履の用意までして寝につくという有様なり。
マー一口に言ってみると北見沿岸一帯は猛火にて、従来火の這い入れることなき山林が容赦なくドンドン焼け、何の位焼け行くものか実はすさまじきものなり。
枝幸と頓別の間に目梨泊という所あり。戸数四十数戸の漁村なるが、郵便局などありしに。それがやはり野火のために全滅して仕舞へり。
稚内の火事は無論原因は野火にて、常に火も何もなき番屋が一番先に焼け、それから延焼せるなり。
十数日雨なく乾ききった所へヒカタ風ならば、たまらず見る見るうち焼き払って仕舞いたるなり、云々
そして北海道についに待望の雨が降る。
1911年(明治44年)5月22日の日雨量
札幌3.4ミリ、旭川15.3ミリ、網走9.3ミリ、函館3.0ミリ、寿都6.5ミリ、帯広6.5ミリ。
量はたいしたことはない。しかし乾ききった大地に満遍なく、土が湿るほどの雨が降ったことは大きな意味があった。
稚内に最も近い観測所、樺太・大泊の記録でも、21日午前10時〜午後2時の間に雨が降り出し、21日だけで6.3ミリ、22日は12.8ミリの雨が降った。
改めてみると5月1日から21日10時までの降水量はたった0.1ミリだから、宗谷地方も相当乾燥していただろうと思われる。
待ちに待った雨ではあったが、被災地ではどうであったか。
1911年(明治44年)5月23日 北海タイムス
災後の稚内 同情すべき惨況 災民露宿の悲劇
▼第一報 安田特派員
搭乗したる高松丸は今朝入港す。
山火より起こりて大火全滅の姿なる稚内町。災後の光景実に凄惨を極め、南は野寒布岬灯台より北は声問に至る約四里沿岸一帯水源涵養林全て焼山と化し、眼界に青葉一も無く満目荒野を見るが如く。
山上支庁長は成田警察署長、河野町長等と協力して善後策を講ずるに苦心しつつあるも今後同町飲料水欠乏を気遣い居れり。
稚内町にて焼け残れるは僅かに南浜町六丁目の民家十五戸、土蔵九棟、税務署官舎三棟、区裁判所書記官舎三棟と禅徳寺、大林寺、大慶寺のみにて、尤も繁盛の市街全部烏有に帰し、余焔、なお立ちのぼりおれり。
罹災者は山火止まざるため人心喧々たりしも、昨日(二十一日)午後五時より、天、大雨を降らし、山火終息するに至りしも、罹災者の小屋掛の材料無く、降雨中に居所なくして彷徨し居るは同情すべく光景、悲惨を極む。
雨をしのぐ家も小屋も何も無い。
着のまま焼け出された稚内町民には傷にしみいるような、辛い雨であった。
posted by 0engosaku0 at 22:03|
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