2012年01月06日

樺太日記その1 1912年(明治45年)正月 真岡

明治から大正へと移り変わった1912年から今年でちょうど100年となる。
維新から45年続き、日本が近代国家へと急激に突き進んだ明治の終焉、そして大正の始まりを北海道、そして新植民地:南樺太の日本人はどのように見たのか。

今年は1912年の新聞記事から、当時の北海道、樺太の様子を書き起こしていこうと思う。
なるべく休みをしっかりとって、記述の時間を設けること。これが自分に課す今年の目標である。(自身なし!)

今回は「樺太日記」と題して、樺太日日新聞の明治45年(1912年)1月5日付紙面から、明治最後の新年の様子を、真岡の記事に焦点を当てて拾っていく。

真岡町の概要はこちら
→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E7%94%BA


正月の真岡

▼元旦
元日は西風にて時に降雪を見たれど、概して好天気にて、官民名詞交換会は真岡小学校運動場にて開催。三百四十名の出席あり盛会なりしが。
市中はさしたる事無けれど、旗亭「曙(あけぼの)」の芸妓連、全部盛装を凝らして市内各華筋を年賀の為め廻礼したるは目立ちたり、花柳界は総じて寂寥(せきりょう)の観あり。

▼二日
朝来、西北風の大風雪にて寒威また酷烈。氷点下20.4℃まで降下したれども、初売市況は案外の盛況を呈し、夜は初売済み商店連の花柳界に入り浸るもの多く、為に箱切れならぬ枕切れの大繁盛を極め。

▼三日
は、大風雪のため、廻礼も少なく正月らしからぬ静けさなりき。

▼四日
は西南風に変じ、非常の暖気にて加えて天気すこぶるよし。
真岡消防組の盛んなる出初式あり。同夜、九萬楼にて八十名の大宴会あるべく、五日にもまた同楼に於いて、官民八、九十名の新年祝賀会催されるべし。

●警察事故
この四日間の警察事故を聞くに、元来真岡は大晦日にはほとんど必ず火事騒ぎあるを以って例とし来たりたるに。本年は警務係において極力警戒したるためか火事騒ぎ無きのみか、火の粉さえも飛ばざりしは何よりもめでたきこと。
なるべく窃盗二件と賭博二件と行政検束二件ありしのみ。

初売りは例年に比し売上高に於いて不足なるに拘わらず、現金売りはかえって高く、しかも花柳界は例年より寂しく、街頭一人の泥酔者も見ざりし等より推し、現下の真岡の景気は必ずしも不況にあらずといえども、住民等、逐年真面目になる結果ならんか。



1912年1月はじめの北海道・樺太方面はかなりメリハリの利いた天気変化だったようで、元日は北海道各地では「ここ二十年で初めて」というほどの穏やかな空だったらしい。樺太西海岸の真岡も好天気ということであったが、二日から三日にかけては猛吹雪。どうも北海道付近を低気圧が急発達しながら通過していったらしい。札幌でも市内各所で家の軒に達するような大きなふきだまりが生じて、正月飾りも風にもぎ取られて雪中に埋没・・・ということになっていたようだ。

四日になってやっと天気は落ち着くが、風向きが変わって暖気が入っている通り、これは後日の大嵐の前触れでもあった。

さて「初売」は昨今は元日から営業している店も多くなっているが、明治のこの時代では一月二日。店にはじめての売り場の荷物が届けられる「初荷」。馬橇の鈴の音が町中に響き渡り、これも正月のひとつの風景であった。


真岡初売景気

二日は前夜来の暴風雪にて、平日ならば戸の口一寸の外出も不可能なるべきほどなりしにかかわらず、各商店は初売りのため、いずれも午前二時頃より開店し、馬車数十台の風雪を犯して練り回る光景、凄まじきほどの盛況なりし。

景品はいずれも抽選をもってせしか、僅少の買物にて沢山の景品を得たる。

初売早々の福徳者多く、四菱酒造店にて酒一斗を買ひて白米一俵を、三井金物店にては釘四銭償にて、対価二円のスコップ一丁を、藤森呉服店にては十三銭の下帯にて八円の糸織り一反を引き当てたるものあり。

概して本年の初売りは去年に比し金額において三割方の不足なり。白米の売れ行き不足は大シケのため、漁村の買い出し無かりしためなるべしと



福引は真岡では店ごとのようであるが、豊原は商店連合でくじを作ったようで中身は豪華であった。
同じ紙面によれば、豊原での一等の商品は・・・

「桐のタンス、醤油1樽、糸八縞一反、富久娘半紙ひとまとめ、メリヤスシャツ1箱、米磨大1個、麻の床置1個」

という内容である。どうも、豊原市街にあった大吉武蔵商店の娘がひきあてたようで、1円ちょっとの買物で、30円以上の景品。なかなか豪華であった。

こういった楽しみもあるから、けっこうな吹雪でも初売りに出かける。賑わいは必然かもしれない。


最後に、真岡のオモシロ記事を一つ紹介しておく。


晴雨計の梟(ふくろう)

真岡の海産商・中谷商店は一羽の梟を飼っている。
もとより昼間は日光の反射と眼光は利かず、夜はまたランプの明かりで薄ボンヤリより見えぬかして、別に飛ぼうともしないから、いつも店棚の上に放し飼いである。

餌料は無論、牛の切り出しだ。

ソコでまん丸な南部煎餅そのままの顔見えもせぬ目をキョロつかせ居る様、人をチャームしたようで何ともいへぬ珍妙だが、この梟先生、時に寄ると、夜間クルックルッと不器用な声で鳴き騒ぐことある。

最初は何故鳴くのか、また何故鳴かぬかという事に、常に気にも留めなんだが、あるとき大吹雪の夜激しく鳴くと、その翌日はガラリ変わった好天となったので、さては晴天の予報に鳴くのだなと注意すると、爾来、何十辺かつて間違ったことがない。

今は晴雨計より天気予報より確かなものと評判され、梟先生が夜間鳴けば、そのたび同店より近隣知己へ只今ふくろうが鳴きましたからと知らせる。

スルといかなる大シケの夜でも明日は天気としてその準備をするが例になっているが、それがまた一度も外れたことがないから面白い。



当時は「測候所」と三回唱えれば、何を食べても「当たらない」といわれていた時代ではあるが。

ふくろうに気圧の変化を嗅ぎ取る能力なぞあるのであろうか。百発百中とは気になる存在。
是非、若輩予報士であるワタクシなぞは、梟先生にその野生のカンをご教授賜りたいものである。


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2012年01月13日

樺太日記その2 明治45年1月7日豊原 町の真ん中で遭難

明治45年(1912年)は北海道、樺太とも穏やかに明けたのであったが、寒の入りと共に猛烈な猛吹雪が襲う。

6日に能登半島沖にあった低気圧が7日夜から8日朝にかけて根室の南東海上に急発達しながら進んできたことによる冬の大嵐であった。根室沖での中心気圧が約970hPaということだから、まあ今の世であってもそこそこの強度の低気圧である。

北海タイムス、樺太日日新聞両紙とも、この低気圧による大荒れの天気、そして被害の様子を伝えている。
特に、網走では8日の日降水量が56.1mmで今に至っても1月の観測史上3位である。網走の様子を1月9日付けの北海タイムスから拾ってみる。


網走大吹雪

七日朝来、降雪続粉北西の風吹き荒みて近年になき大吹雪となり、網走支庁管下ほとんど交通途絶の有様となり、吹き溜まり場所は八〜九尺(約2.5〜3m)の積雪ありて少しも小やみなく、午後益々激しく交通全く途絶。

網走より発する野付牛(現北見)、斜里、常呂方面の郵便逓送非常の苦心をなし、送達せんとしたるも吹雪猛烈にて筆紙につくしがたき状況となり。

なお、この暴風雪のため損害ある見込みなるも、今なお盛んに吹き荒さみおれば、未だ何等の報告に接せず。


当時の新聞は「暴風雪」とも書いているが、それよりも大きな活字で「大吹雪(おおふぶき)」と書いている。今は「猛吹雪」を解説で使うが、100年もあると吹雪の表現も違うものである。

″筆紙につくしがたき″大吹雪ということで、交通も途絶しているのだから、除雪技術の発達していない当時においてふぶいている間はじっと家の中で嵐が過ぎるのを待つのみ。当然何の報告も入らないのは当然である。

札幌に関してみても、日最大風速の1月の記録にこのときの吹雪のデータが残っている。1月8日の日最大風速が20.7m/sで1月の観測史上5位の記録である。風速計の高さがうんと高くなった近代でも、札幌の1月では半世紀以上、日最大風速が20m/sを超えた記録はなく、すさまじい強風であったことがわかる。


吹雪の市中

吹雪吹雪大吹雪。
札幌の街は殆ど雪で埋まってしまった。

看板も屋号も硝子窓も、皆一面に粉雪を吹き付けて何を売る店か何といふ家かも解らなくなってしまった。暖簾が真っ白になって蕎麦屋であるのか湯屋であるのか解らない。

外套を引き被った一人の女がその湯屋か料理屋か解らない家の入り口をドンドン叩いていた。

中から誰も返事をしないのを見ると湯屋だったかもしれない。

返事が無いので女は終いに下駄で戸板を蹴っていた。

所々の家では店の存在を失うまいとしてか、箒(ほうき)を持って吹雪の中へ出て、店の硝子窓一面に吹き付けた雪をガラガラ掻き落していた。

ある家では中からがしがし戸を叩き動かしているのも見えた。

家の軒下へ飾りつけた正月の松飾りやしめ縄は松の内が終へたためか無慈悲に吹雪にもぎ取られて、道路の雪の中に凍死していた。


この札幌市内の情景描写はなかなか文学的な記事である。「松飾り凍死」である。

吹雪により函館〜青森間の連絡線は休航となり、函館線は黒松内付近で巨大な吹き溜まりができ、鉄道はストップ。そして電信も故障した。


電信線故障

吹雪のため電信線の不通となれるは、樺太、稚内羽幌沓形船泊にして。
なお根室室蘭線も故障あれど通信には支障なし。
不幸中の幸なるは、東京青森函館間の重要回線に支障なく通信し得るなりと。



北海道と通信網を絶たれた樺太の様子。
こちらは気温が低いぶん、吹き溜まりがものすごいことになっていたようだ。

北海タイムスには樺太の様子を短く、10日付の紙面で以下のように紹介している。


樺太の大風雪

絶北氷裡の同胞、その凍苦や如何

一昨夜来、樺太全土に亘り大吹雪あり。
気温また降下して零下三十一度をなし、吹き溜まり二十尺(約6.7m)に達したる個所ありて、各市中は全く交通途絶、汽車も不通となり、ここ二、三日、開通の見込みなく、樺太にしても近年まれにみる大吹雪なり。

その光景ただただ大具嵐(おおぐらん)の白雪砂漠中にある如し。

(九日午前十一時五十五分樺太大泊通信員発電)


猛吹雪にあった北海道民さえ心配するほどの「大吹雪」に「凍苦」。現地はどうだったのであろうか。
10日付けの樺太日日新聞から拾ってみる。


第二回の大風雪

去月十一日、第一回の大風雪ありし後、しばらく平穏無事なりしに、昨七日夜よりまたまた稀有の大風雪となり、ほとんど全島を強風と大雪に埋めたり。

●豊原市の状況

去る七日夜より吹きすさみ豊原市街は至る所五尺以上の積雪なれども、吹き溜まりの個所は一丈余に及びたる所、少なからず。

中にも旧市街および大通北三丁目の北方は一面一丈(約3メートル)の積雪にして、大通、西一条、東一条の街路はあたかも山脈の通じたるが如き、高きは一丈、低きは五尺くらいに積みかさあり。

一般南北線より東西線に吹き溜まり多く、官舎方面に於いては家屋の南方ほど吹き溜まり甚しかりしを以って、南に面したる官舎は玄関口を閉塞され、何れも除雪に困難したる模様なり。

交通は七日夜より八日にかけほとんど途絶の有様にて、九日午前中にようやく人影を見に至れり。



南北の通りより、東西の通りに吹きだまる・・・というのは北風が強かったことを意味している。
雪は建物の風下側にふきだまるのが常だから、家の南側に玄関のある官舎が除雪に困るのも同じ理由である。

それにしても樺太の中心・豊原の中央、大通が雪の山脈になるとは物凄いふきだまりである。
旭川の買物公園が全部ふきだまりで山になっているようなものである。

この豊原の中心部、町の真ん中で遭難し、死にかけた人まで存在した。

その人は、当時の樺太演芸協会会長の白土北民さん、そして幹事長の山本露滴さんである。

10日付け紙面に「遭難記」が掲載しているが、抜粋すると・・・

二人は七日に官民合同の新年会に出席、夜遅くまで飲んだ。
その後、一台の馬橇に乗って帰ろうとした。(当時の冬のタクシーみたいなものか?)

ところが西一条まで来たところで、積雪が馬の脚の関節が埋まるくらいになっていた。
それに加えて猛吹雪。御者は「これより先は無理だ」と二人を向陽軒の前で下ろして去っていった。

このため困った二人は向陽軒のなじみのビリヤード場に行き、夜明けまで眠った。
しかし吹雪は全くおさまらない。

非常食に餅を持っていたが、八日朝に食べてしまい、薪もなければ水もない。
「ノアの大洪水」を連想するほどの樺太特有の猛吹雪。風の音は屋根をうなり、一歩も外に出れない。

正午を過ぎ、午後三時を過ぎ、寒気が部屋に入ってくる。
同じ部屋にいたボーイの矢崎さんと三人空腹と寒さに耐えかね、意を決して脱出し、二町と離れぬ角万楼に救いを求めに行くことと決めた。

ところが防寒着がない。特に山本さんはいつもの素股に素足で手袋も足袋もないという。

でもここは樺太の首府・豊原の真ん中である。と勇気を持って表玄関から出てみると・・・
軒まで達するふきだまり。三人は雪に埋まった。

ボーイは雪かき道具を巧みに使って雪原に現れ、北民さんはヤモリが鏡餅を這うように四つんばいになって雪を泳ぐ。

しかし山本さんは全身、雪山に埋まりにっちもさっちもいかなくなった。

このままでは雪にうずもれて死んでしまう・・・ということで
ボーイが助けに出たところを一部始終をみていた「戸松屋」の人たちが一緒になって助けたとのこと。


樺太とはいえ、暴風雪とはいえ、市街の中央において微薫をも帯びざる身の僅かに凍死を免れたるが如き。
誠に地人をして之を聞かしむる、虚構とより外はうけとられざるべしと、一同その夜は語り明かしたりと


・・つまり遭難者、救助者ともにこんな街中で凍死しかけるなんて他人に話しても信じてもらえないだろうね〜なんていいながらまた飲んだらしい。いい時代だ。(いいのか?)


さて、この吹雪をもたらした強い強風により西海岸の真岡の浜には流氷が襲来した。また東海岸の栄浜も交通が途絶、西海岸の名好、泊居、野田寒などの町村も郵送不能や交通途絶となった。

除雪器具の発達していないこの時代であるが、大泊には除雪用のソリがあったようだ。


大泊方面状況

市街道路は八日午前七時頃、例の桑野熊次氏が特殊の橇にて除雪せしも再び途絶し、十時頃までは全く行人なく馬橇は運転せず。

九日は午前七時より支庁にて除雪し、その方法は桑野氏の例にならい、騎馬巡査の後より二頭の馬にて桑野式の橇にて除雪せしが、その成績佳良にして人馬を通じ得るに至り。



この橇がどんな構造かは、さらにさかのぼって記事を読み込んでいかないとならないのであるが、知恵とものづくりで発展してきた日本人らしく、新植民地にあっても自然を克服しようと市井の人が知恵を出し、役に立っている様子をみるのはいつの時代であってもうれしいことである。


おしまいに・・・


▼謹 告▼

一昨八日の大風雪の為め、社員工場員等に欠勤者少なからず、其の為同日は止む無く臨時休刊の事と致し読者諸君へ孤負せる所少なからず。右謹謝仕り候。

樺太日日新聞社


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2012年01月19日

樺太日記その3 明治45年1月17日 ボロは着てても

原発が爆発し放射能で汚染され、ユーロ危機の行方によっては世界的に経済も破綻するかもしれない。人間の産みだしたものであるから、最終的に利も害も人間がかぶることになるわけではあるが、まあ明治の新聞を読んでいると、たかだか100年で人間の世もこんなに変わり、行きつくのかと思うものである。

さて、今回は明治45年(1912年)1月17日付けの樺太日日新聞に載っていた不思議な人物についてのお話を掘り起こしてみる。


百円紙幣 釣りがなければ十円札で

▼最初に百円札
今年の初売りの日、真岡北浜町醸造業・板谷商店に勢いよく飛び込んできたは、裸身を露出せんずばかりの襤褸(らんる)を纏ふた青年。一見乞食と見粉ふばかりの男であった。

早々から縁起でも無いと思いきや、新酒一斗の買物に百円紙幣を懐中より取り出し『これで取ってくれよ』との挨拶に、吃驚(びっくり)した店員一同は顔と身装を等分に見比べつつ、眼ばかりパチつかせていた。

▼泥棒か知ら
この酒店の主人・板谷菊太郎はさすが村治にくちばしを入れるは小理屈の一つもこねるだけあり、
さては去る(明治)四十一年中、百足屋に止宿中なりし昆布買出しのため来島した支那人某が百円紙幣一千八百円を何者かに窃取され、今に犯人の就縛を見ぬ事件があったが、大晦日の挙句、今日この頃、こやつ百円札を所持するからには、てっきりそれに相違なし。
下手に酒売って後日の係留を醸さんよりは、体よく謝絶するにしかずと、咄嗟の間よくこの思慮を費やしてつり銭無きを理由としてそれとなく断った。

▼十円札はどうだ
件の男はそうかとのみ、他店に入ったが、ここではしかも百円紙幣二枚を見せたうえ、釣りがなくば小さいので払ってあげようと取り出したは何とはからん、いずれも十円紙幣で約二、三十枚。

その中から一枚を取り出し、支払いをすまして悠々と立ち去ったからさあ大変。

噂が噂を産んでの大評定、結局あの乞食の行く先をつけて見ろと丁稚を走らせて見ると、北浜町二丁目の浜側にある、きたならしい一軒の屋台店に入ったとの報告があった。

▼飲まず食わず
さて此の屋台店の主人の名は山口助九郎。本年三十四歳だが無妻で、独身の実母お何(六十歳)たった二人暮らし。

産まれは乞食の本場なる伊勢者で、助九郎は五十集(いさばや=魚商のこと)を稼業に、お何は一文小店の盛っ切りを売っている。

母子共に五十三次よろしくの乞食姿。

酒は好きとあって少々口にするが、食い物は目も当てられぬ劣等品、向こう三軒向かい隣に死人のあらうが、何があろうとかつて、ただの一度も顔を出したことがなく、その上薪炭とてはここ二、三年買ったのを見た人が無い。

海浜に打ち寄せる桶の破片や小板を拾って焚くのらしい。


▼現金で小千円
界隈の人の話を聞くと、此の親子が真岡へ来てから三、四年、その間全く食わずに貯めたのも同様で、現今では少なくとも八、九百円、かれこれ小千円の現金を持っているはず。

現に某所へ三百円固めて貸している。そのほかは貸しもせねば銀行へ預けるでもなく、四六時中母子の腹部につけて、時々取り出しては勘定するを今世無情の楽しみとして居る。

▼奇にしてますます怪
されば前記の百円紙幣も決して盗品ではなく、全く腹巻にしまっておく。
便利上どこかで取り替えてもらったものらしく、その他悉くが十円紙幣なりしも同様な理由である。

今でこそ五十集商もすれば小店を出しているが、なんでも以前は本当のお菰(おこも=乞食)もしたことがあるとの評判のみならず。

真偽のほどは知らぬが、助九郎が今日に至るなお妻帯せずにいるは、世間ありがちの食わせる着せるが惜しいからではなく、飛んだ破倫なためだとの事であった。

とにかく樺太に珍しき事実として概略を報じて置くに止めよう。



銀行が信用できない人がやる「タンス預金」とはまた少し違うが、興味深い記事。

本人が直接聞くのではなく、噂や又聞きからの推測なので、実際のところは結構ちがうかもしれないが、働いて稼いだお金を使わない。というのだから、この時代を何を楽しみにして樺太の冬を過ごしていたのであろうか。

この時代、そばが3銭、アンパンが1銭。まあ1銭=今の100円くらいだから、当時の1円は1万円。それが100円札なら、今ならお酒を買うのに100万円出されたようなものか?しかも身なりが乞食同然というのだから、驚かれるのも当然かも。


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2012年01月20日

樺太日記その4 アイヌ人・橋村弥八

今朝は旭川市江丹別で氷点下30.3度。メチャメチャなしばれようである。

先日、占冠村に行って-23度を経験したが、鼻毛は凍るし、ジュースは数分でカチカチに凍結してしまうし、息を吸ったらのどの奥までひやーっとするし。それはそれは何でも凍らせる魔法がかかっているかのような凍り具合であった。
−30度はバナナで釘が打てるわけだが、世界記録・南極ボストーク基地で観測された氷点下89.2度とは一体どのような世界であるのだろうか。

その南極は今から100年前、各国の探検隊が入り、特に1月17日は英国のスコット隊が2番目に南極点に到達した日であった。その探検隊の中には日本から向かった白瀬のぶを隊長とする探検隊もいて、探検隊の行動にソリを牽いて大きく貢献したのは、樺太から派遣されたアイヌ犬である。

白瀬探検隊にはるかオーストラリアまでアイヌ犬を連れて行き、引き渡したのは樺太在住のアイヌ人・橋村弥八であった。
その橋村は1912年の1月、長旅を終えて酷寒の樺太に戻ってきている。今回はそのインタビュー記事を掘り起こす。


樺太日日新聞 1912年(明治45年)1月19日付


橋村弥八の帰島

本社が白瀬中尉の南極探検隊に送った樺太産アイヌ犬三十頭に付き添ふて、熊野丸にてシドニーに至り、犬の引渡しを了してメルボルンへ回り、病気のため帰朝せる明南丸運転士丹野善作、同水夫佐藤善作、同火夫高取市松ら三氏と共に、去月二十八日横浜着。直ちに東京に出で、十日東京出発、十二日小樽、一昨日大泊入港の馬山丸にて帰島せし東海岸ロレーの愛奴(アイヌ)、橋村弥八(四五)は一昨日二番列車にて来豊。
昨朝一番にて栄浜へ向かひしが、探検隊より給与されたる金モール入り帽子に意気揚得として語れり。

弥八は昨年十一月十五日熊野丸のシドニーに到着するやアイヌ犬引渡しのため開南丸に行きしが、今シドニーは盛夏の候にして外国人は皆夏服なりき。

何分にも探検隊は貧乏にして、食物の如き俺の連れゆけるアイヌの方かえってすぐれり。

今もし俺に金のあらんか、ことごとく寄付してやらんと思へり。

開南丸は俺が出発の翌日、解らん(=出港)したれば、本月四、五日頃には南極に到達したるはずなり。

東京活動写真技師の同行しめれば、追って成功の上は面白き写真の見られる事なるべし云々。



白瀬探検隊には当初約三十頭のアイヌ犬が積み込まれていたが、寄生虫などによる病が蔓延し、ほとんどが死に絶えた。このため、代わりとなる犬を派遣する役を担ったのが橋村である。
また、探検隊には山辺安之助などのアイヌ人が隊員として加わっていた。

樺太日日新聞 明治45年1月23日付


開南丸より帰来 樺太愛奴
橋村弥八の直話


南極探検隊第二回の社挙にあたり、本社より探検用愛奴犬送付につき、付添い人として昨年九月二十日出発し、シドニーに着してその任務を果たし、無事十八日帰村せる露礼の旧土人・橋村弥八の旅行談、左の如し

▼白瀬隊長と会見
弥八は昨年九月十四日、京浜の紳士学生軍隊等の多数の人士に見送られ、札幌の農学士某、南極探検隊書記長多田恵一及び活動写真技師某等と一行四名は熊野丸にて横浜解らん(=出港)後、神戸、長崎を経て香港に至り、それよりマニラを経て木曜島に至り、ブルスヒンを経て十一月十五日無事シドニーに着し、南極探検隊長・白瀬中尉外二十六名に会し、樺太犬二十九頭を引き渡し、同十八日メルボルンにまわり、十一月二十六日再びシドニーに寄航、二十八日同地出発、十二月二十八日横浜に帰朝したり。

▼愛奴犬皆健在
横浜出帆に際して弥八の思へらく一昨年輸送せし第一回の愛奴犬三十五頭は、マニラ、木曜島間の赤道直下通過の際、今日一頭、明日二頭と斃(たお)れて、遂にシドニーに着する頃は僅かに二頭の生存犬あるのみにて、赤道直下通過当時の如き、船に塗末してあるペンキも熱のため溶解したとの事なれば、今次また同一の羽目に陥らずやと少なからず苦慮した。

しかも十一月五日頃マニラを通過するに際しては天佑とも云わんか、降雪一昼夜におよび、赤道直下も九十度余の気候にて木曜島を通過し全部二十九頭の犬、いずれも健全にシドニーに到着したり。

元来犬は、船に於いて非常に弱きように考え居たるに、栄浜を出帆後、ノトロ岬を通過するまでは何れも船ぐて(=船酔い?)の甚だしきあり、此の分にてはと思いきや、横浜出帆後は更にその模様なかりしは案外なりき。

▼富の程度高し
往路は何分二十九頭の愛奴犬に対する重大な責任あるを以って横浜出帆以来シドニー着まで何れの港にも上陸するの余裕無かりしが、メルボルンよるの帰路はシドニー・香港等に上陸、一両日間滞在せり。

シドニー・メルボルンは建築家屋の宏壮なるは勿論、市街の清掃せられたる。誠に富の程度の高を思はしめ、弥八、生来始めて此の天地を見、一驚を喫したり。

又、一般人の規則正しきと公徳を重んずるがため、何れも静粛にして群集の場所に於いて絶えて喧嘩口論するを見聞せず。一般に飲酒せざるわけもあらざるべきに、街頭一の泥酔微薫者をも発見せざりしにはほとほと感服したり。

これによると我々は勤勉と修養を怠るべからずなり


文字を持たぬ民・アイヌ人であったが、明治の開国によりはるか南氷洋へ繰り出し、南極まで渡った者もいた。その目に映る異国の地の模様は驚きの連続であったに違いない。

山辺安之助がアイヌのための学校を富内に建設したのが1909年。おそらく橋村の異国見聞も授業に活用されたであろうし、勤勉と修養の大事さも子弟に教えられたであろうと思う。

なお、探検隊に渡されたアイヌ犬=樺太犬のほうは南極大陸で探検隊のソリをひき活躍したが、南極からの帰路の天候悪化により、そのほとんどが南極に置き去りにされた。この樺太犬置き去りの悲劇は、さらに時代が下って昭和の南極観測隊で再び繰り返されることとなる。

これから100年が立ち、ソ連軍の樺太占領を境に樺太アイヌたちは北海道へわたり、離散を余儀なくされた。
そして、南極探検に非常に力を発揮した樺太犬も、いまや純血な血統のものはほとんど残っておらず、絶滅の危機に瀕しているのであった。
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2012年01月28日

樺太日記その5 ヒゲ自慢

極寒の続く今年の北海道。今朝も道内は氷点下30度を下回るところが続出した。
風上の大陸も相当ひどいことになっていると思い、ロシアの実況を見てみたが、ハバロフスクは「最高」気温が−21.9度!寒いにもほどがある。

−21.4度。これは100年前の今日、樺太・大泊の最低気温。
厳しい冷え込みの続いていた明治末の樺太の真冬の話題をいくつか。

1912年(明治45年)1月23日 樺太日日新聞


大泊の新研究 ひげ

▼池上安正君
雪を欺く鼻ひげが太い八の字を描いて、齢ようやく長けたけれど、尚お童顔艶やかなる顔に照り栄えている。
押しも押されぬ高官の髭である。
去ればこそ大礼服を着けたる時、あとに似合うの感がある。

▼千田貞治君
延ばせては剃り、延ばせては剃り、到底その本色を発揮するに至らない。
要するに鼠尾たるを免れない。
延ばしては剃る所以でもあろう。
しかし、このごろは奇麗に剃られている。

▼中川寅次郎君
美髭とは曰く言い難い。
その長さに於いて成績の敢えて悪いのではないが、堂々たる風彩に乏しいマンバラに口をたふあたり、漫ろに支那人物を思はしむ。しかも支那人の如く薄からず、或いは日本仕立ての支那髭か。

▼中村四吉君
君は若くして前頭すでに艶やかである。
従って、その鼻髭と印象殊に薄い記者は、この稿を草するにあたって、さて君の髭はとなって遂によく思い出し得なかった。
そのくせ毎日必ず一度は君の温客に接している。
之に徴しても、髭はあれども印象の浅い、所謂鼠尾か苔たるをのがれまい。
判らぬは判らぬなり。殊更に取り調べぬ所を面白味があろうとかくは曖昧な事を記しつ。



今見ると、なんとも失礼な記事である。
池上さんはまあよいとしても、千田さんは剃っているわけだし、中川さんは「日本仕立ての支那髭」とは怒るだろう。
あげくのはてに、中村さんは髭があるのを「思い出せなかった」という始末。それよりも「若くして前頭が艶やか」とは、今なら訴訟モノではないだろうか・・・。
さすが明治である。


翌二十四日の記事。


市中のくさぐさ

▼道路に放尿
当町西一条南一丁目十三番地、魚商荒井義郎(三十)は、二十一日午後四時頃、西一条南三丁目道路に放尿中を現認され、科料五十銭

▼馬を放した罰
並川村九十五、農松田仁助(二六)は十九日午後二時頃、西一条南一丁目に於いて不注意より馬を放逸せしめ、交通の妨害をなし、是も五十銭

▼馬橇に無点灯
西一条北一丁目五番地、樋口藤七(二一)は大通南二丁目道路を夜等、無点燈にて馬橇を疾走せしめ、同じく五十銭

▼料理店のお灸
柏浜村二十二、料理店田辺禎蔵(四九)は十二月下旬、石川県志沼郡八崎村字細谷五十三、畠田嘉七を雇い入れたにも拘わらず、その届けを為さざる事発覚。是も科料五十銭に処せらるる。



樺太の軽犯罪いろいろである。

明治の世は、馬橇もちゃんとライトつけなければ、走っちゃダメだったんですね。
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2012年02月04日

樺太日記その6 樺太の毛皮

「寒いことこの上なし。」

明治の世、釧路に住んだ石川啄木が日記に記したこの言葉。
今年は北海道の冬にも当てはまるような気がする。本当に寒い。
「暖冬傾向」と出した気象庁、春は順調ということだが本当だろうな!

札幌は都市化の影響もあるから、今年の寒さのレベルを計るには寿都などの田舎(失礼!)のデータを紐解くほうがよいのだが、1月の平均最高気温は今年は−2.1度。平成に入ってからは2001年(−2.0度)や1998年(-2.4度)と同レベルの厳しい寒さといってよい。

ただ、これは「平成」というくくりであって、昭和なら1985年(-2.8度)や1977年(-3.2度)などのつわものも見られるし、さらにさかのぼると1944年(-2.5℃)や1945年(-3.9℃)は2年連続で今年の1月より低い。さらに1929年〜31年は3年連続で今年よりも寒い1月など、古くなるほど厳しい寒さのデータが続々と現れてくる。1922年は-5.1度(!)。とんでもなく寒い1月だったであろう。

1912年1月は-0.5度。今年よりは昼間は寒さをしのぎやすい冬だったはず。
・・寿都のデータに見る北海道はそうだったかもしれないが、樺太のデータに残る「1月の平均最高気温」の数字はやはり寒々としている。

大泊-5.6度、真岡−5.8度、落合-6.4度、敷香-11.2度。

寒いことこの上なし・・・である。敷香など、平均で最高気温が氷点下10度以下なぞ、想像を絶する。

寒い冬を乗り切るには毛皮だ。100年前、樺太で獲れる小動物の毛皮は、遠くは欧州で高い値段で取引されていた。

明治45年1月25日 樺太日日新聞


●毛皮界の大勢

▼本年樺太のテン猟
樺太の本年の獣皮の概況を調査するに、先ず其の主なる「テン皮」を見るに。

猟獲数にては昨年に比して約七割の収穫なり。すなわち昨年は東海岸にて千三百枚、西海岸全体を通すと千七百枚なりしが、本年は千七、八百枚となる事確実なるが如し。

本年は不成績にて、十一月までの成績にては昨年の三分の一猟にも当たらざるべしと思われたるに、その後非常の暖気にて河川の結氷遅かりしため、珍しくも十二月に至るも狩猟し得られたる故、案外の成績を収め、昨年の六割というも最初の情景にくらぶれば意外の好結果といふべし。

猟獲高を地方別に細分すれば
・名好国境間 300枚
・エストル、ライチシカ間 200
・久春内管内 200
・泊居管内  80
・野田寒唐沸方面 50
・真岡管内  170
・本斗管内  80
・敷香管内  478
・散江方面  151
・内路新間方面 164
・元泊畔群澤方面 110
計 1985枚

昨年に比し、不猟と云うも之れ、一般的の現象にあらずして、主要産地たる名好、ライチシ間が昨年の三分一猟なりしため、大体に影響せるものにして、場所によりてはむしろ本年の方、良成績なるものあり。

名好、ライチシ間方面の不猟の原因を見るべきは
一、食料たるフレップの茂生少なかりし事
二、晩秋天気続きにて川水不足にて、罠をかくる丸太橋をテンが往来せざりし事
三、山があれざりし事

この第三の原因は樺太テン猟界において初めて発見せられたる事実にて、斯界における珍事実なり。

従来、名好地方の状態として山の頂上には山蜂非常に多く、山蜂の子はテンの最大好物にして、山あれの場合にはこれらが風の間に飛散する故、テンも勢いけいかんに下り、之を漁るも本年はこの事なかりし。

故、テンはほとんど一定の場所にありて、往来繁からざりしが不猟の原因なり。



「テン」とは高級毛皮の取れるイタチっぽい生き物です↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E5%B1%9E

この当時、北海道でもテンの狩猟は行われていたが、既に取りすぎていたのか捕獲数は減少して、テンの皮は約1500枚、狐と狸がそれぞれ500枚ということで、テンにおいては樺太のほうが上になっていた。また、カムチャツカもテンはほとんど取れず、オットセイや白狐などを取っていたとのこと。樺太は極東の毛皮の一大産地だったわけである。

ということで、横浜の小林平助や神戸のウインケル商会などの毛皮商が樺太にも入り込み、各方面で毛皮を買っては欧州などへ運んで売り出していた。

同日の記事によれば、樺太で獲れた毛皮は五月ころに英国へ出荷してなめす。そして一年に2回英国で開かれる毛皮の大市でさばかれるということであった。

樺太の中では、名好方面では猟に規約を設けて乱獲しないようにしているため、売値も一枚23〜24円程度と安定していたようだが、敷香は自由に狩猟するため品質の差が激しく、売値は一枚5円から35〜36円と大きな差があったとのことである。

ちなみに名好(なよし)はこんな町↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%A5%BD%E7%94%BA
昔は1万人以上いたのに、ロシアが占拠している今はたった200人余りしかいない。

さて、主に秋から冬にかけて盛んだったテン猟であるが、こんな記事も掲載されている。

同日の三面記事。


山猫を退治す

西海岸名好のテン猟者某は、旧冬、名好川上流三里の箇所において三匹の大山猫に出会い、猛烈な襲撃を受けしも、猟銃無きため腰に帯たる鉈を取りて身構ふるや中一匹頭部めがけて宙を飛び来たれるより、腹部をグサと刺し通すや、キャッと叫びて地上に落ちたるを見し、他の二匹はいずこともなく失せしが、該山猫の皮は長さ三尺五寸あり、本当稀有の大山猫にて、恰も同地に入り込み居たる横浜の皮商石崎某、之を買い取りがたし。



皮にして1メートルをこえるような大きなヤマネコまでいたらしい・・・
そんなヤマネコだが、叫び声は「キャッ」!

可愛いやつめ

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2012年02月18日

樺太日記その7 幻燈の夜

2月も半ばだが相変わらず寒い。2ヵ月後には雪も全て消えて、草がのび始めているのだが・・・

2月の今の時期は一年で一番雪が積もっている頃なので、毎年、たっぷりの積雪を目にしながら、本当にこれが全部解けるのかな?と思うものである。実際に解けてしまうのだから、太陽の力というのは偉大だ。

北海道と比べ物にならない寒さの樺太の冬。
100年前の2月、落合のデータを見ると真冬日を抜け出したのは2月26日が最初。その日も最低気温は氷点下23度である。流氷期は特に朝晩の冷え込みが激烈であったが、そんな中、樺太の中心:豊原では「幻燈」つまり映画の鑑賞会が開かれていた。

娯楽の少ないこの時代の幻燈。さぞかし賑やかであっただろう。

1912年(明治45年)2月14日付 樺太日日新聞


教育幻燈会大盛況
△入場者無量千五百人

一昨日午後五時より西一条樺太座において開かれたる、樺太教育会主催に係る樺太教育幻燈会は空前の大盛況を呈して入場者実に千五百人と駐せられたり。

今左に其の概況を報ぜんに、先ず入り口には数十の紅燈を吊るして火光白雪と相映じ、場内には紅白の幕を隙間無く廻らして満場の装飾は遺憾なく行き届いたり。

定刻に達するや、原彦太郎氏は簡単に平易なる開会の辞を述べ、直ちに映写に取り掛かりたるが、映画は何れも教育に関するものと粋を集めたるものなれば鮮麗極まりなく、殊に説明は豊原小学校の各教員及び金子、尾張の両校長等、各分担して之をなしたれば、映画の意味は遺憾なく一般会衆に解し得られ、大いに感動を与えたり。

映写休憩中には豊原小学校職員ならびに講習生等の活人画、剣舞等ありて何れも勇壮活発にて忠君愛国の好材料より仕組まれたれば、満場拍手喝采にて迎えるとともに、又大いに好感化をあたえたり。

尚ほ休憩時間を利用して前野氏の孝行の話等もあり、樺太庁庶務課長初め同課員一同は応接その他会場整理の事に努め、万一非常の時には何れに非常口ありて、何れの街路に出ずるを得べしなど会衆一同に注意をあたえしなど、万事行き届けるものあり。

立錐の余地も無き場合もいささかの混雑もなく無事に閉会せるは午後九時四十分頃なりき。


白黒の無声映画だから、今のデジタルハイビジョンの画を見せたらひっくり返ってしまうかもしれない。
「幻燈」という言い方はいつの間にか姿を消してしまった。素敵な響きだと思う。
この幻燈会の模様を見ると、休憩時間には余興もあるし、とても楽しい催しだったのだろう。
それにしても1500人に説明するとは、マイクのないこの時代、大変だっただろうな〜

そして100年前ではあるが、ちゃんと安全策を考えている(リスクマネジメントができている)のは感心してしまうのだった。


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2012年02月24日

樺太日記その8 「レルヒ少佐以前」樺太でスキー競技会!?

2月も終盤。
ほぼ全道各地の冬のイベントは終幕を迎え、気圧配置も冬型が続かなくなってきた。
厳しかった冬も終わりが見えてきたなあと感じるところ。

それでも今日は網走に流氷が再び接岸したし、まだまだ冬の観光は終わったわけではない。
今年は太平洋側に近い札幌の天気。ひさびさにしっかり積もって、2月も末に来てこの冬一番の積雪を記録した。この週末はまた増えそう。

100年前、明治の冬はただ耐えるだけ・・・と思いきや、札幌は旧札幌中学校(現札幌南高)の雪戦会で盛り上がっていたし、まだ生まれたての植民地・樺太でも冬の大きなイベントが産声をあげていた。

1912年(明治45年)2月3日 樺太日日新聞


特別広告

来る二月十一日 官幣入社樺太神社競馬場に於いて、第二回樺太島技運動会を開催す。
但し、吹雪の場合は順延。

協議加入希望の方は左の条項了知の上、氏名年齢を記し、二月三日までに樺太庁内樺太島技運動会事務所へ申込相成度候。

一、競技は午前十時開始午後四時終了の事
一、競技者は午前九時三十分に競技場に参集の事
一、競技用カンジキは運動会に備え付けのものを使用する事
一、競技者は当日、各自弁当持参のこと

樺太島技運動会長 平岡定太郎



真冬に運動会!という試みである。このときで第二回だから、前の年に始まったものであろう。
樺太庁の中に事務所があるということだから、これは紛れも無く公式行事である。
なお平岡定太郎は時の樺太庁長官。三島由紀夫の祖父として、知る人ぞ知る存在でもある。

この島技会のため、樺太庁の鉄道は二月十一日、十二日の運賃を全線で半額にし、さらに大泊から豊原の間には臨時列車も走らせるほどの力の入れよう。
樺太守備隊の兵士たちも豊原の樺太庁前広場で大規模な競技練習を行うなど、大会の盛り上げに一役買っていたようだ。

2月11日付紙面より


島民の元気

本島冬季の一大壮観として目され来れる第二回島技大会、いよいよ本日を以って樺太神社下の競馬場に於いて挙行さるべし。
此の日はあたかも紀元の佳節なれば各官街の休暇なると共に、一般島民も業を休みて此の日を祝する事なれば参観者も非常におおかるべく。

殊に当日および明日の二日間は、南北両線とも鉄道賃金を半減、殊に大泊豊原間は臨時列車を発する事なれば遠方よりの来観者も非常の多数に登ることならん。

今や数過日来、練習を積みて、脚を鍛え腕を練りたる数百の健児が技を競るべき時期となれり。
其の飛ぶが如き快速力を以って技を競う様は観者をして肉踊り骨鳴るの感あらしめん。

いやすくも寒国人を以って誇る人は寒気をものともせず、雪を蹴って参観に赴く事、なるべく其の壮絶快絶の光景、歓呼喝采の状況は本島人の元気を島外各地に伝ふる最も適当の機会なるべし。

▼競技の会場
会場は左の図面の如くにて。
尚昨年までは採暖の方法として薪を用いしが、今年は前年来の経験により薪を用いる事は一切禁止し、数十箇所に木炭を盛んに燃やして暖を取らしむる筈なり。

▼競技の種類
競技の種類選択については、委員等が少なからずや苦心を費やせる所なるが、従来の競技は単に普通の競争のみなりしが、今回は右の外、更に障害物、その他各種の競技法を加えたれば前回に信する奇観壮観あるべし。

第一回:兵士競争(午前十時)
第二回:普通競争(午前十時十五分)
第三回:通信工夫競争(午前十時三十分)
第四回:消防夫(午前十時四十五分)
第五回:警察官(午前十一時)
第六回:普通(午前十一時十五分)
第七回:兵士(同三十分)
第八回:児童旗取(同四十五分)
第九回:長距離(零時三十分)
第十回:普通(零時四十分)



この記事に続いては、臨時列車の時間、臨時電話の設置などの紹介が為されている。
ここには十回分の競技しか記されていないが、欄外には続きの競技と時間が書いてあり、
例えば第十二回各課、とか第十五回二人乗り、第十七回仮装、第二十回選手などと書かれている。

とにかく何らかの競争を行っていたらしい。

一体、これらはどんな競技を行うのか?ということであるが、一応記事に説明がある。


(イ)普通競争 一哩(1マイル) 五回
此の競技は物の方にては障害物、提灯、仮装以外、人の方にては消防夫、警察官、通信夫、以外一般の者の競技とす。一回は二十人を標準とす。


とある。。。やはりわからない。

いろいろ記事を見て行くと、この「競争」というのは「かんじき」をはいて「滑走」する競技で、短距離は「つえ」の利用を認めないが長距離は一本使ってよいということのようだ。

このかんじきというのは?という問いについて、樺太の寒敷沿革という記事が答えを出してくれている。


本島寒敷沿革

▼樺太のスキー
樺太のスキーは長い歴史を持っている。
本島の露人、アイヌは邦領前、既に此の具を実用に供して、野に山に雪上の行動を敏活にしておった。

思うに此の具が本島に渡ったのはロシア本国から入ったもので、形は話に聞くスウェーデンあたりのものとほぼ同形である。

そして従来、此の具を用いたものは、アイヌの如きも犬ぞりに乗ったる時、その他の時にも用いはしたが、丸寒敷と兼ねたのみならず、露人が先ず之を伝えたるがために領島後邦人は丸寒敷に対して、之を露助寒敷と称してきた。

▼露助寒敷の研究
邦領後、此の露助寒敷は一般に興味を以って見られたが、しかし之を実用に供するものは甚だ多くなかった。

しかる所、現任中川第一部長は去る(明治)四十二年の冬、所要を以って並川村(なりしと覚ゆる)方面へ出張せられた時、同村の原野において露人が此の具を用ふるを見て、早くもその適実の具なるを悟り、一具を求め帰られた。

之がそもそも樺太島技としてスキーの盛んに研究せらるるに至ったらんちょうとも見得るであらう。

何を見ても研究的態度に出らるる一部長は、携え帰った件の露助寒敷を諸種の方面より研究した。
第一使用法、第二身長と長さの関係、第三樹質という風に


▼雪中の非常招集
かかる折から翌四十三年の一月中であったか、地軸も砕くるばかりの大吹雪があって、記者の如きも「ノアの洪水もかくなん」などと歌ったものである。

此の日樺太庁の役人達も半ば引きこもり、半ば種々の新案を凝らせて雪上行通具を案出し、会計の村中君の如きはホウキを足にはいたという奇談さえある。

所が第一部長は此の日、多実の練磨になる例の露助寒敷をはいて得々として定時に出勤し、衆人の目を見張らせた。

それよりまもなく大吹雪の夜巡査の非常招集も行われ、其の度毎に、露助寒敷の効用は顕著となってきた。

▼第一回の島技
かくの如くにして露助寒敷は追々邦人、しかも重立者の間に研究せらるる様になった、其れから間もなく其の二月第一回の寒敷競技会(後に之を島技と称し、永年大会を開くことになった)をルゴエ(今の小原)原野に催された。

その時の委員長、やはり中川一部長で柳●司令官が審査委員長だった。

此の時の競技は第一回なりしため、なお今日の如く諸種の競技は行われず、ただ出発点から約半哩のところを往復したに止まるが、しかし相当の人気であった。

▼第二回の島技
第二回の島技は四十四年の紀元節に陸軍練兵場で行われた。
平岡長官を会長に頂き、その他委員もそれぞれ嘱託された。此の二回の島技はすこぶる盛んなものであった。
当日は折からの寒天・吹雪をもたらせて、北風、骨を徹すにかかわらず、見物は堵を築く有様。

▼優勝旗と金牌
第二回島技の盛んなりし事は前項の如し。
先ず会場入り口には入場券と番組の引換所を置いて、場内観覧席には天幕を張り、炭火を起こし、熱茶を備えて客の欲するに任せた。

此のときも売店には多数の補助を給し、当日店を出したのは十一軒に及んだ。
先ずそばや、おでんや、しるこや、など。

此の日、一部長が先導してそばやを回ったなどは話の種になっている。

朝九時一分の花火が天に沖して、爆々の声をたつると共に外は往復の馬車が櫛の歯を引くが如く会場内には第一回の競技が開かれた。

号砲に始まり、号砲に終わる。競技は幾回か繰り返されて、此の日優勝旗、金牌を受けたものは意気揚々として引き上げ、敗れたるものは明年第三回競技に会稽(かいけい)の恥を雪がんと益々威りつ別れた。

しかして同会金牌は、昨年第二回の時設けられたもので、雪の輪郭の中にスキーを交又し、裏には会名と回次とを記入したものである。

以上は本島スキー研究の沿革の大略である。



ということで、かんじきは「スキー」であるようだ。
和製のかんじきに対して、スキーは「露助寒敷」と呼ばれていたとのことである。
ということで「露助寒敷」=「歩くスキー」=「クロスカントリースキー」が樺太で明治の終わりに「島技」として発展しつつあったということになろう。

ところで日本ではスキーの祖はレルヒ少佐(→1911年)ということになっているが、これは滑るスキー=ゲレンデスキーの祖である。クロスカントリースキーはレルヒ以前に樺太で研究が進んでいたことになる。

しかも、レルヒが教える一年前の1910年に、既に樺太では「寒敷競技会」というのが開かれていたのである。「スキー」という名前ではなく「(露助)寒敷」と呼んできたため、樺太のスキーの歴史が今の世で光を浴びないのはある意味仕方のないことであろうが、この事実はもっと日本のスキー史において評価されてもよいのではないだろうか?


ちなみに「二人乗り」は二人三脚で、そのために特製のかんじき(=スキー?)が作られていたようだ。
「仮装」はコースの途中に道具や印はんてん、お面、帽子が置いてあり、これを次々に着ながらゴールを目指すという競争とのこと。


既に樺太の島技となっていた寒敷(=スキー)。
その熱戦の模様は次回!
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2012年02月25日

樺太日記その9 1912年2月11日 樺太島技運動会

さて1912年(明治45年)2月11日。紀元節となった。
いよいよ樺太の冬、一大イベントである「島技運動会」開催である。

前の年は物凄く寒かったということで、この年もどうなることかというところだったが、「朝来の好晴」というほどの晴天に恵まれた。
中央気象台月表で当時の樺太の天気を調べてみると、午前6時の観測では真岡や敷香など雲量10で曇りの所が多かったようなので、実際の所は薄曇で日が差すような感じだったのかもしれない。最高気温は氷点下5度くらい。この時期としては寒さも緩いほうだろう。

穏やかな冬の休日、豊原の樺太神社下の競馬場で、熱戦は行われた。

明治45年2月13日付け 樺太日日新聞より


▼スキー日和
樺太島技第二回大運動会は予報の通り、一昨十一日の紀元佳節日、官幣大社樺太神社下昨年開設されたる競馬場に於いて開催せられたり。

前年第一回当日の朔風凛烈樺太大寒の如何にも猛烈なるものありしより類想して、此の日の天候を気遣う向きの少なからざりしに、何ぞ図らん、此の日朝来の好晴。

旭ヶ丘千古の密林先ず曙光に華やぎてより、満目白がいがいたる本島中央地帯の大雪原、陽炎こそもやされ苑として春霞のこむるかに太陽の直射を受けて匂へり。

誠に是れ好個一日のスキー日和。数週日来練習を積み、鍛錬鍛脚ひそかに当日の優勝を期したる勇将猛卒の先ず会場差して駆け付くるや、副会長たる中川第一部長、審判長たる生田目司令官、委員長たる尾崎第二部長以下の役員全部既にあり。

満潮の如くに押し寄せる群衆引きも切らず、内外柵ために堵を為し忽ちにして一千数百を数ふるに至れり。


▼競技の開始
定時を遅るる約一時間、午前十一時五分、先ず第一回兵士競争は開始されたり。

固より練磨の樺太守備隊兵士、一般に比して優駿驚くべきものこそはあれ、参加の勇士二十名、何れ優劣の定め難たきが、轟副官の指揮にて号砲一発、我勝にと駆出可。

出発間もなく第一中隊中の随一を以って称され居る酒田三郎氏のスキーに故障を生じて転倒、落伍するに至れる最も遺憾とすべし。

其の出発や猛猪の暴風雪を衝いて突進するが如く、光景真に壮絶快絶なるを早くも、かねて準備しいたる国府写真館主は瞬間巧みにこれを撮影したり。

かくて第一着は佐々木又一氏、一周一哩を八分十七秒といふ新記録を以って占め、第二着は安澤定信氏三十三秒を送れて八分五十秒にて、第三着はさらに十秒遅れて九分にて決勝線に入り、四着木村子之、五着柿崎喜一郎両氏相前後して到着。

折から飛揚されたる煙花の爆声と和して、観覧席より起れる拍手喝采天地を動かすの概あり。



1.6`を8分余りというのは、今のスキーにしたら大変遅いのだろうが、「杖無し」=「ストックなし」で走っているのだから、なかなか大変なスキー競争だったのではないだろうか。


▼普通競争の勝者

数発の煙火は益々盛んを添え、やがて臨時列車にて到着したる中里、大泊方面の来賓及び中川第一部長夫人以下官舎方面よりの夫人連、付近各部落の来賓、一般観覧者等にて場内外の群集雑踏をきたし、その数約二千四、五百名を数ふるに至れり。

物のほうにては障害物、提灯、仮装以外、人の方にては消防夫、警察官、通信夫、以下一般の者の競技をこうする所謂普通競争は、何れも一哩一周にて前後を通じ五回催されしが、その勝者左の如し。

第二回 伊藤英吉
第六回 綱左太郎
第十回 高橋
第十一回 明石嘉聞
第十四回 工藤利助

右の中、第二回は雇人競争にて、中に乾りゅう工場の傭人あり。

同場員は何れも手に手に特性の応援旗を携え、塚越場長指揮の下に、中川傭員音頭をとり、応援旗を高唱し短旗を打ち振るの様、壮快痛烈を極め参観者中樺太にては始めての事にもあり、此の思い切りたるヤジぶりに驚愕して眼を奪わるるもの多し。



応援合戦・・・まではいかないが、統率された企業応援団の姿に樺太の人はみなびっくりしたらしいというのが面白い。

そして優勝旗争奪の各村選抜選手による競争で場内は大いに盛り上がる。


各部落各村より各二名ずつ選出したる選手の大競技たる第十三回の部落競争は、各所属村民の応援さかんにして一段の盛観を呈したるが、結局富岡村の高田正氏十分二十秒を費やして真っ先に決勝線を踏み、価格八円五十銭の白米一俵のほか、名誉の優勝旗を掌握したり。

豊原の氏家政治氏は三十八秒遅れて二着と、同大沢政吉氏は三着と、追分の作山金治氏は四着となりし。

氏家氏の消防夫競争に加わらず、静かに精気を養いて此の競争にのみ出場せば、けだし其の優勝は必ずべかりしにとの噂もっぱらなりし。

かくて昨年の優勝部落たる豊原より返納されたる優勝旗を、富岡村に授与すに当たり、同村総代の出席無きため、高田氏自ら之を受けて場内を一巡したるはいささか物足りぬ感なきあらずとはいえ、それだけに英雄颯爽たるものあり。

来賓席一般観覧席より起こる拍手の声、やかましきまでなりき。



豊原のエース・氏家選手は前年の一位であったが、今年は第四回の「消防夫競争」にも出場して、見事一着(十分五秒)となっていた。二レース目ということもあり、疲れもあってか一回目のレースのタイムを下回ったことで二位に甘んじてしまい、優勝旗は富岡村の手に渡ったということが、記者にはなんとも悔しかったのかもしれない。


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2012年03月22日

樺太日記10:1912年2月9日 久春内の冬

3月も下旬に入った。
サクラ前線もやっと高知をスタートした所だが、北海道はまだ雪の下。
一ヶ月予報も春の早い到来には悲観的な材料でしかなく、天気予報でも「寒さ」とか「まとまった雪」とか。マイナスな材料に事欠かない今日この頃である。

もし樺太が今も日本領なら、阿鼻叫喚の寒さのニュースや吹雪のニュースが届いて、「北海道も寒いけど、樺太よりはマシ」という神経にもなったのだろうか。

明治末年の樺太の冬の様子。真岡や豊原を中心に拾ってきたが、久春内の記事を見つけた。

明治45年(1912年)2月13日 樺太日日新聞


久春内より
9日付通信員

▼漁業本位の土地ながら、冬季は何等漁業の営むべきものなき当地は、各戸材木の伐採にのみ従事し居れり。今その大要を記せんに。

樺太興業会社と久春内部落民との間に契約されたる丸太材1万6000尺〆は目下その半数は既に伐採し、残額は月末までに伐了する見込み。
また小樽木材会社と別府広治・三浦東平との間に請負契約せる内路山林の3万尺〆は専門二十五名と部落民四十名にて従事し居れるが、此は極めて上成績なり。
又、同山林に於いては渡辺某なる者、別に部落民を使役し伐採中なるも、此は資本点よりはかばかしからず。

しかして当地に於いては小樽木材はこの度整理の為め、内路の伐採権を秋田木材会社に売り渡せりとの噂有之候。

▼当地及び内路・泊居は何れも金融大逼迫にて、市内各商店ほとんど一文の現金売買を見ざるの有様なり。
此れは何故というに、本年は例年の如く冬期精米欠乏の惨に遭遇せざん為、各地競ふて準備したると、冬期の小使銭と見込みたるテン猟が大不猟に帰したるより、ここに金銭の注入途絶せるがためなり。

されば之と反対にて精米準備は過剰に失たれば、真岡が目下一俵八円九十銭の高価なるに係わらず、一円高き運賃を払いたる当地が一俵八円内外にてなお買人なきは、実に奇観に候。

▼一切の雑魚が鰊と来たり、鰊と共に去る妖しき海底を有する当地は、十月以来一切魚類を口にする能はず、常副食としてはアイヌ山子等が捕獲するトナカイのみなれば之れとて前足一本一円二十銭、後足一本一円七十銭の高価なり。

しかして時に東海岸より犬橇便(いぬぞりびん)にてコマイの凍凝するもの移入さるれとも、一尾五銭の高価にても即日売れ行くが例なり。

されば夏季、犬も喰わぬこのコマイが各料理店にては極めて珍味の如く賞味され、漂客もまた之を口にすれば冷やつこくして直ぐ溶ける、凍凝コマイの刺身の味は内地にて冷蔵庫に蓄えたる魚類を口にせし以外の人には風味も出来ませじと、痩せ我慢を言い居るなぞは滑稽に候。

▼農牧目的を以って創設されたる久春内興業会社は目下洋種牛五頭を飼育し居るのみにて兎角ふるわず。
此れは今日に至り株主が牧場利の永久的なるに愛想をつかせしためにあらず、その目的地として出願せし五十万坪の牧場か再三調査せられし結果、わずか十万坪に減ぜられ、十万坪の牧場またと他に例なき少地積なるに極めて見込み立たざると。

其の十万坪がいささかにても立ち木あれば之をよけて排置されたる為め、紆余曲折苑然菊花型の牧場となりたれば、其の牧場経営最重要の要件たる木柵は十万坪に廻らすに、他の百万坪の牧場よりなお多額を要する結果となりたるより、かかる牧場を経営するも到底利益の見込み無しと云うが、此の不振を招きたる結果にて、重役連は折角の計画をこのまま頓挫せしむるも他町村に対し不面目なり。

さればとても此の有様にては第一回の払い込みも不可能なるべしと目下焦心し居り候。



コマイがごちそうとなるくらい、、、、。
町の名前につく「春」が来るのを、密林の木を倒しながらひたすら待つ。

久春内の人には、春の到来はひときわ輝いたものとして映ったに違いない。
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2012年04月05日

樺太日記11:1912年1月26日 散江での越冬

4月3日から4日にかけての「台風並み低気圧」騒ぎにはほとほと参った。
気象庁の予報用語では、低気圧の解説に「台風並み」を使ってはならないと記述してある。

どこの記者に誰が言ったのか・・と思ってニュースを検索してみると、2日の夕方に気象庁が「台風並みの暴風や高波に警戒」としたコメントが出所のようだ。

これは解説としては正しく、2日夜の時点ではほとんどの報道各社が「台風並みの強い風に警戒」という形で第一報を伝えている。ここまではよい。
これを「台風並みの低気圧」と間違って伝えた最初の報道機関はどうやらテレビ朝日のようである。

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220403000.html

結局「台風並みの低気圧」という解釈が優勢となり、当方にも相当質問が来た。困った。

さらに、続いて使用が禁じられている用語が復活した。
「爆弾低気圧」である。使用したのは北海道新聞

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/362174.html

こちらの出所は、低気圧に爆弾という言葉を使うのはふさわしくないと話した気象庁所管・札幌管区気象台である。

ルールを作って、自らルールを破るのは、本当に迷惑である。プンプン!


さて、爆弾とも台風並みとも称される低気圧が去ったオホーツク海は5日も大荒れ。
日本国内では既に嵐のニュースは過去のものだが、樺太は5日の夜も荒れている。日本時間18時の実況はほとんどのところで雪。風も10メートルオーバーの所がごろごろある。

テルペニア岬の観測所も北西の風13m/sで雪。視界は2kmとふぶいている。

樺太の島からオホーツク海へ長く突き出した砂嘴をテルペニア半島といい、その先端はテルペニア岬。
日本名はともに「北知床半島」、「北知床岬」である。このあたりは散江(ちりえ)村という村であった。

春でも猛吹雪が襲うこの地で、今から100年前、冬を越すのは相当大変だっただろうか。

樺太日日新聞 明治45年(1912年)2月16日付


散江より
一月二十六日発

▼東海岸の極北なる当地、本年の越年者は計百十人にて、昨年に比すれば二十五人の減少なるが、然しこの減少はその他漁業利の盛衰には何の関係なきものに候。

▼豊泊その他南樺の居住者は此の地の寒気能(よ)く、越年に適するや否やを懸念さるるならんが、海上こそ十二月に入ると同時に白がうがうの大氷原を現出こそすれ、遠く海上に突出せる(北)知床半島を以って凛冽なる東北風を遮断し、背後は又た屏風の如き山稜起伏し、おまけに寒気を誘う唯一の媒介者たる大河のあるなければ、互寒の度は更に敷香より異なる所

無之否な敷香が防寒設備、既に完全に此の地の多くが隙間漏る「ろう屋」なる点より見れば、天然の寒気は或いは敷香より暖かきものあらんかと思居り候

▼尋常見渡す限りの沿岸氷張り詰め、何れか海か果た陸化さへ分界できぬ。
満目の白玉世界、是さへ既に壮快の極なるに。

極北の地にも春は来たりて、一月元旦旭日を拝せばやと一畝の沖積地を以てオコツク海(オホーツク海)の内外を画されたる半島頸部の岩頭に立てば、畳々たる大氷塊は自然に氷山・氷谷・氷殿を形造り、之に際涯なき極東の氷海より瞳々たる旭光を放ちつつ上る太陽の放射を受けて、光彩陸離、真に白瑠璃の世界を現出する光景。

到底一、二尺の断片的薄氷に流氷来を叫ぶ湾内(=亜庭湾)や西海岸の居住者等が想像にも及ばぬ大奇観にて、又これ以上に一人の越年者なければ吾こそ樺太東海岸最極北の越年者なりと自負心出て、同時に極北の越年したればこそ此の天地の大自然美にも接触し得たれと思ひし時は豪爽の気、満身に溢れ申し候。

従って健康も平生よりは一層に候。

▼とはいえ敷香よりは三十里、その間無人の郷なれば事実に於いて、氷海中の一孤島とて郵便物は月に三度より到着せぬには閉口なるも、外に何等の仕事無く、只だ閉居して自然とのみ戦いつつある吾等にはそのじゅういし来る新聞を発行日を調べて積み上げ置き、一日一枚一面より三面まで遺漏なき読み上げ、知らず知らずに世界の大勢を幻印し行くの愉快にまた格別に候。



電話も電信もないから、おそらく「月に三度もない」郵便でこのレポートを送ったのであろう。
1月26日発であるが、掲載は2月16日ということで、20日程も時間がかかっている。

今もgoogle-earthでこの地域を見ても、道もほとんどないように見える非常に寂しい地、まさに僻地といえる場所である。

ただ、記事にもみえるように水平線まで分厚い流氷が折り重なる海の向こうから、朝日が昇る光景は今見ても感動ものであろう。

新聞を読むくらいしかすることのない散江の冬。勉強とか研究とか、都会や日々の喧騒を離れて打ち込むなら、一番の環境のような気もする。

白瑠璃の世界かぁ〜。どんな景色なのだろうか
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2012年04月06日

樺太日記12:1912年2月17日 交通の主役は「犬ぞり」

新年度になり、やっと時間に余裕が生まれてきた。
まだ記事は2月が中心だが、周りの季節同様、急ピッチに4月へとあわせていきたい。

今の交通の主役は完全に「車」であり、速度でいえば鉄道や飛行機も便利な存在である。
100年前の明治末年では飛行機や車はまだ一般的な乗り物ではなく、船に変わって鉄道が長距離移動の主役になろうとしていた頃である。

当時の樺太はまだ鉄道網はほんの少し。海が氷に閉ざされ船舶の航行できない冬。交通の主役は何と犬橇であった。

1912年(明治45年)2月17日 樺太日日新聞


汽車より早い犬橇の交通

東海岸今日の交通は、一つに犬橇に依る事は云う迄もないが、沿岸には堅氷固着し陸上は積雪凝固せる今日に在りては、其の早き事、真に飛ぜん(=竹冠に前という文字)の如しである。

されば今日、敷香栄浜間六十六里(=約260km)の交通は、初日敷香より知取迄二十里、翌日知取より近幌内迄二十一里、第三日目は近幌内より栄浜迄十九里三十丁と同一の御者、同一の犬にて実に三日間に到達している。

それでも豪も夜道を急がせず、日の出後出発し、日没前投宿してさへ此如(そのごと)であるから、若し急行を要する場合は、敷香を午前五時に出発して知取に着し、翌日はいささか無理なから白浦迄通れば、第三日目の午前十時迄には栄浜に着することができるので、即時十一時発の汽車に投すると、午後の二時には豊原へ着するから、実際極度に利用すれば敷香豊原間七十八里(=約305km)の行程を二日と三分の二で到着することができるという。

たいした交通機関の犬橇を以って、文明の機関に連続しての計算、如何な交通学者も思いつかぬ所であらう。

因みにこの交通を掌(と)れる犬橇は栄浜管内に二十四台、犬二百九十七匹、敷香に十八台、百六十五匹居るとの事である。



南樺太が日本領有となった翌年、1906年が樺太の鉄道の始まりの年。豊原から大泊までの約40kmにひかれた軍用鉄道であった。

これが明治末年のこの頃には豊原よりさらに北へ伸び、栄浜の南、約15kmほどの所にある小谷まで線路がのびていた。しかしここが当時の「文明の機関」の限界点。それより北は最も便利な交通機関は「犬橇」だったのである。

敷香まで鉄道がのびたのは1936年(昭和11年)のこと。それまでは敷香周辺の冬の交通は犬橇が主役の時代がまだまだ続いたであろう。

北海道では「犬橇」の歴史をほとんど聞かない。船の使える季節が長いこととか、鉄道が割りと早い時期から発達したこと、雪の量が樺太よりは比較的多いことなどが理由としてあるかもしれない。
だから交通に「犬橇」が主役となりえたのは寒冷で風が強く、積雪が多くなりにくい樺太だからこそ!といえそう。


さて、寒いと歯がガタガタ鳴るわけだが、樺太の冬も歯を鳴らしながら寒さに耐えることも多かっただろう。
同じ日の紙面には歯を大切にしようという記事が載っている。



歯の衛生

昨今、酷寒のため種々なる病を惹き起すを以て、一般に注意を要すべきは勿論なるが今世人が等閑に附する傾きあるは歯なり。

▼鼻で息せよ
外気の冷たい空気が歯に当たり、一定の温度を有する歯は激烈なる変化を起こして歯髄炎を惹き起すべし。
もっとも水を呑み、熱い湯を飲むも同一にして、また喉頭カタル、気管支炎カタル等も起こすものなれば、なるべく鼻で息をなすべし。

▼おもむろに暖を取れ
なお酷(きび)しき冷寒が歯に激烈に当たると、歯にひびが入る。
それのみならず歯に扶植せる黴菌(ばいきん)が其のひびより侵入して外気に触れ、また冷えたる体を急にストーブ或いは火鉢等に近づくときは必ず上気し、従って熱を発し歯痛を起こすものなれば、寒気に触れし場合は徐々に暖を執るべし。

▼牛肉鍋に酒
寒い時には何人も暖を執らんがために好んで熱きものを食するは一般の行う所なるが、尤も歯の害を成すものは牛肉鍋にて酒を呑む事なり。

是は特に注意を要すべし

牛肉鍋で酒を飲むときは、如何なる平素丈夫なる歯を有する人にても歯が浮く症に罹るものなれば、其の場合には、鶏卵にてやや冷まし後、食するを可とす。



歯にヒビが入るほどの酷寒・・・ということで、鼻で息しろとか、寒いところから急に暖かいところへ行くなとか。ただこれが、歯科医が言っているのか、記者の単なる想像なのかよくわからないところが明治の新聞の真骨頂である。

すき焼き+酒には注意!とは。
対処法も、卵で冷ませばいいって、それはどうなの?


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2012年04月07日

樺太日記13:1912年4月1日豊原小学校入学式

遅筆な吾にあっては久々?の三日連続での記事紹介。
今回は時計の針を今頃にあわせて、樺太と北海道、それぞれの首府の入学式の記事について書き起こすことにする。

まずは樺太から。

1912年(明治45年)4月3日付け 樺太日日新聞


豊原小学校入学式

予報したる如く、豊原小学校に於いては一昨日午前九時より入学式を挙行したるが、当日入学を為したる児童は七十七名にして、保護者と共に式場に参列し、原校長は先ず学校と家庭との連絡に付きて児童及び保護者の心得となるべき事項に関し細大注意する所あり。

次に受け持ち教員を紹介し、受け持ち教員は児童を率い校内の各所を案内してより再び一同に会して校長より訓諭あり式を終わりたる

豊原出張所にて最初取調べを為せる児童は百二十名内外なりしも、其の後他地方へ移住したるものもあり減少して百六名を存したるが、前記の如く一日午前九時迄に入学の手続きを為したるものは七十七名にして他はその其の後日々数名ずつの入学者あり、近く全部の入学を見るべきなれど、学校にては日々少数の入学者あるが為に時間の不経済少なからず、単に学校の手数なるのみならず入学児童の不便不利も亦た(また)少なからざるにつき、未入学児童の保護者はこの際至急に入学の手続きを了する事肝要すべし。



淡々と事実のみを述べている記事である。
100年前は樺太も、北海道も入学式は四月一日であった。今は春休みの中で、入学式は6日前後のところが多いだろうか。

入学式といっても何か都合がつかなかったのか、いろいろあっただろうか4分の1が欠席という所に記事の焦点があたっている。単に当時の樺太住民がノンキだったというわけではあるまい。

それでは同日の北海道・札幌の入学式の様子も見てみよう。

1912年(明治45年)4月3日付 北海タイムス


嬉しい嬉しい 新しい袴や前掛 坊様嬢様学校始め

四月一日から初めて学校に入った坊ちゃん嬢ちゃんが沢山あります。

此の日は昼からボタ雪が降って路が悪いのに、お母さんや兄さんの跡について泥道を漕ぎ漕ぎ学校へ行きました。

中央小学校(創成)に行った坊ちゃんは玄関で校長先生や受け持ち先生に迎えられて、広い運動場に入るともうジャンケンで鬼ごっこを始めます。
絣の羽織や小倉袴が嬉しくって皆なニコニコ顔です。

未馴れない子供衆は前の方の椅子に付き添いの人と一緒にチット腰掛けていました。

やがて二時ころ皆先生が列んで(ならんで)君が代の唱歌があり、(教育)勅語拝読があり、荘司校長から今度の児童百五十名を三教室に分けて稽古することなどお話があって、三島の小父さんの説で各級に保護者会を設けやうといふ事に極つて式を閉じ、子供達は受持先生に連れられて教場へ入り色々注意を伺って、付添い人と一緒に帰りました。

又、嬢ちゃん方は女子小学校の方へ行きましたが大きなリボンや白い前掛けが嬉しいので是もニコニコしていました。
運動場で受け持ちの先生に背の順を揃えてもらふと真っすぐに手を下げ足先を揃えて丁度お人形の行列のやうに奇麗でした。

二人ずつ手を引いて銘々の教室に入って机を極めて頂いて、眼の近い子、耳の遠い子、お便所へ一人で行けない子などを一々尋ねて先生が気をつけて下さるのです。

毎日使う道具を調べ、自分の道具は自分でお始末なさいと何度もいはれます。

それから一々名を呼んで見ますと「伊藤ミヨさん」「ハイ」はっきりお返事が出来ましたと褒められ、「矢野ミチさん」「アイ」と可愛い声を出すのもあります。

分った方は手を挙げて御覧といはれ、左手を上で済ましているのや、両手を上げたり下げたりモヂモヂしているのもあります。

それから上り口を間違えないようにと教えて頂いて、お母さんやお姉さんとご一緒に三時頃帰りました。

他の学校でも皆こんな風に児童の入学を歓迎して次の日からお稽古から始まりました。

それで今年から学校に上がる児は区内に一千七百五十人程あるそうで、各学校に入学の手続きをしたのは次の通りです。

▽西小学校(創成) 二百三十五人
▽女子小学校 百七十人
▽中央小学校(創成) 百五十二人
▽豊水小学校 二百七十四人
▽北小学校(九条) 二百五十五人
▽東小学校 二百二十六人
▽東北小学校 二百三十四人
▽豊平小学校 百人
▽山鼻小学校 六十二人



うーん。風景が見えるような記事。

札幌では豊原の17倍の新一年生である。
明治44年末の札幌の人口が9万3218人なので、結構な数の新一年生に思う。

昼からボタ雪とあるが、当時の札幌の記録を見ると未明から朝8時前にかけて雪が降ったり止んだりで、午前10時37分から再び雪で正午ころは少し強く降っていたようだ。

最高気温は1.8度。湿った雪が降っては解けて、舗装のない札幌の道路を歩くのはぬかるんで大変だったであろう。ちなみに明治45年の4月の札幌は、最初の5日間は5度以上が1日もなく、連日雪。6日の朝には氷点下9.4度まで下がった。

豊原のほうは記録がないが、大泊や真岡のデータから、樺太では午前中は曇りで午後は晴れ間のある天気。最高気温は氷点下2度前後。

今も昔も、冬の残り香を感じつつ入学式を迎えるのは、北の世界では変わらない。

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2012年04月13日

樺太日記14:1912年2月6日真縫の火災

啄木死して今日で100年。

明治45年4月13日。啄木が暮らし、愛した函館の街は一人の歌人の死に立ち止まる余裕はなかったかもしれない。
なぜなら前日、函館は火に包まれていたからである。

1912年(明治45年)4月13日付 北海タイムス


又函館大火 延焼尚やまず
十二日午後三時半発函館電報

午後二時音羽町二十五番地より出火し、折から西風烈しく見る見る延焼し、消防の努力も其の効少なく、既に三、四百戸を焼き払い、今尚(午後三時三十分)延焼中。火勢猛、凄惨を極む。



十二日午後二時函館区音羽町六十六番地、綿打業河村織右衛門方、綿打ち工場石油発動機より出火。
消失戸数七百余戸に及び、午後四時辛うじて鎮火するという大火事である。

当日は朝から西風が強かった。火事と同時に、蒸気ポンプと水道、掘り抜き井戸を利用して水を火元の河村宅に浴びせたが、風にあおれらた火の勢いのほうが勝った。

道路の幅も狭く、火の粉が飛ぶ南東側へと路を越えて徐々に延焼していくこととなる。

黒煙・火焔は高砂町を覆い、松風町へと移り、大森町の遊郭付近まで達した。

消防では手に負えず、千代ヶ岱の重砲兵が出動、建物を取り壊して防火線を作り、やっとのことで火を食い止めたのであった。

思えば、函館は明治40年(1907年)にも大火に見舞われた。この時、函館で焼け出された石川啄木は小樽へ行き、釧路へ赴き、北海道を流転、そして上京する。
この函館の大火がなければ、もう少し彼の人生も変わっていたかもしれないし、結果として、もっと多くの作品を歌を、我々は眼にしていたのかもしれない。そう、想像する。


地震・雷・火事・親爺というが、この時代、やはり火事は非常に恐ろしいもの。

それは樺太でも同様であった。

1912年(明治45年)2月16日 樺太日日新聞


橇犬七頭の焼死

去る六日午後四時半頃、東海岸真縫部落、渡船業土人クイユー方より発火。
露式丸太造り家屋一棟を焼失し、同六時半頃全く鎮火せり。

原因は数日来晴天続きにて家屋の周囲乾燥し居ると屋根は草葺きなりしに、ストーブの煙筒は掃除不完全なりし為、同日午後一時頃より盛んに薪を投じて暖を取りたれば、火の粉は煙筒の破れ目より天井裏に燃え移りたるに気づかず、遂に大事に至りたるものらしく、何分露式家屋の事とて全部丸太構造なれば、煙の屋根噴出する頃は、火は一面に廻り居て、村民十数名駆けつけて消防に尽力をして、其の効なく六坪二合の一棟を焼き払いて鎮火せり。

人には死傷なきも、主人クイコーが吾が子の様にして飼養し置きたる純然たる愛奴(アイヌ)種橇犬七頭は無惨なる焼死を遂げたれば、クイユーは悲嘆言わん方なく大声を張り上げて鳴き悲しみ居れり。

如何にアイヌが橇犬を愛しつつあるかを想像するに足るものあり。

兎に角、近年土人の火元は珍しき事なりと



寒い冬、遅い春。明治の北の暮らしに暖をもたらす火。
しかし一歩間違えると近隣含めてみな灰になる。
生きる道が変わり、命が終わることもある。

火を起こすのは人で、火を使うのも人。

時代は違えど、原子の火をつけるか消したままにしておくか、
今の世も便利と危険は絶えず隣人のままである。

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2012年04月14日

樺太日記15:1912年4月17日本斗の亡者船

昨日は啄木逝去100年であったが、明日1912年4月15日はタイタニック沈没からちょうど100年となる。
CSでは今月はタイタニック特集の番組が数多く放送予定となっている。

100年前の新聞にも当然、この「事件」は記事となっている。
地球の裏側の新開拓地、樺太の新聞での記載をみてみよう。

1912年(明治45年)4月19日付け 樺太日日新聞


世界一の巨船沈没す
大氷山と衝突し

英国スターライン会社所有オリンピックの姉妹船にして四万五千トンの巨船タイタニック号は、其の初航海の最中去る十五日、ニューファウンドランド島付近にて漂流し来たれる未曾有の大流氷と衝突し為に流石の巨船も沈没したる模様あり。

同船には当時二千余名の乗客ありしが其の生死は未だ確報無きも該会社は一等船客三百二十名は全員無事、其の他合計六百七十名は漸く救助し得たるも、一千六百八十三名は遂に海底の藻屑と化し去れる旨報告したりと。

(十七日東京発電)



樺太の読者にタイタニックの沈没話が届いたのは発生から四日後ということになる。
東京発電とあるとおり、まさに100年前のニュースは「打電」されて世界へ届けられていた。
電信がニュース速報の要であったわけだが、それでも四日。
以前紹介した、同じ樺太の散江からの記事は徒歩&犬橇&汽車で掲載に半月ほどかかっているから、当時の事情から考えれば、発生後2日〜3日で届くニュースは超速報!であっただろう。

タイタニックは「未曾有の氷山」と衝突して沈没したわけだが、樺太も流氷で周囲を閉ざされる冬は、常に氷との危険性があったから、他人事ではなかった。

流氷は風任せで漂うので、天気予報の未発達な当時はしばしば遭難騒ぎに発展していた。

こちらは同じ100年前の北海道の記事。

1912年(明治45年)4月6日 北海タイムス


氷塊に乗られ三十里を漂流

宮城県牡鹿郡石巻町字旭町、当時国後郡米戸賀(こめとが)村字古丹消(こたんけし)、漁夫高橋熊助(三七)は去月十八日、朝来東南の暴風雪なるに拘わらず、居村の海岸面は厚さ六尺沖出し七十間(約130m)位にて全部結氷しをれば、其の結氷上にて予て(かねて)結氷下に装置しある建網の雑漁に従事中

午前十時頃に至り、如何なる加減にてか右結氷の一部が波打ち際より分離し、前記熊助を乗せたまま沖合に向け流出せるゆえ斯くと見たる附近のもの、其の事を大声にて熊助に告げ、熊助はまた頻りに(しきりに)救助を求めしかど、折からしせきを弁ぜざる暴風雪にて双方に何ほど焦慮(しょうりょ)しても救助し得ず、熊助は救いを叫びながら遂に姿は波間に没したれば

陸岸の人々は最早死亡せるならんと思ひ居たるに熊助は氷上に乗りたるまま約四里を流され、根室国標津近海に現れる。

今度風向の変化にて東方に約二十里を漂流し、国後島イカバノツ岬附近に来ると、又々風向の変化にて東北方に二里ばかり流され、翌十九日午後三時頃、秩刈別(ちっかりべつ)村字ニキショロ附近に漂着せしが、此の間海上二十八里余、最初流されたる時の結氷は大き四間(約7.3メートル)四方位なりしが、次第に減少して漂着の際は二間四方位になり、其の周囲は他の氷片一里四方位に囲まれ居たりといふ



流氷が風に流されて離岸、その上に乗ったまま根室海峡を28里(約110km)も漂ったが運よく助かったという話である。

高橋熊助の住んでいた「古丹消」であるが、北方領土の国後のことだから、北海道に住んでいても全然土地感がない。

調べてみると、国後島の西部を占める泊村の北岸にあたることがわかった。
以下のページに詳しいが、日本最初の冬季五輪メダリスト・猪谷千春の生まれた地らしい。
http://homepage3.nifty.com/kitanotakarajima/knsr.ktks.htm

ニキショロはさらに東、ニキショロ湖という小さい湖がある場所なので、一回標津沖まで西へ行ってから、さらにはるか東まで流されて漂着したということになる。
なかなかの大冒険である。

沖合から流れてくる流氷に人間が乗っていたらさぞかしびっくりするだろうが、樺太では流氷に違うものが乗っていた。

1912年(明治45年)4月17日 樺太日日新聞


海豹(あざらし)流氷に乗りて漂ふ

先月中、東海岸栄浜附近の雑漁業者がコマイ他の氷下漁労を営まんと、沖合はるかの氷上に出でて従事し居る折から、其の又はるか沖合を流るる氷塊の上に多数の海豹が乗りてたわむれ居るを見受けられしが、偶々(たまたま)漁労作業の個所より程遠からぬ所まで漂着することあれば、出漁者等は鉄砲を以て射撃し、又は撲殺などして今日までに獲たるもの約十頭に及びたるよし



現在はアザラシといえば多摩川の「たまちゃん」を筆頭に、かわいい海獣の代表格である。
今、アザラシを撲殺なんてしようものなら「可愛いアザラシに何をする!!!」と大問題になろうが、50年くらい前までは北海道でもアザラシは貴重な冬の蛋白源・油源であった。トッカリの油で揚げたカリントウは子供にとっては絶好のおやつだったという話をよく聞く。

だから、当時の漁民にとっては近づいてくる流氷にアザラシが乗っかっているなんて光景は「カモネギ」であったわけである。


さて流氷が去る時期、毎年のように樺太ではオカルトな現象が現れていたようだ?

1912年(明治45年)4月17日 樺太日日新聞


本斗の亡者船
殆ど晴雨計の如し

あながち文明の今日、ソンナ馬鹿な事があるものかと黄色い口調でハイカラがらなくとも、チャンの聖人孔子様とやらは二千年の昔、怪力乱神を語らずとのたまい玉へど、さりとて語りにや済まぬ本当の不思議談。

所は西海岸の本斗にて、三、四年前から伝わる亡者船物語。
毎年五、六、七の三ヶ月内を限り、時々一隻の汽船が南より進航し来たり

暫時碇繋して又た徐々北進するように見ゆる事がある。

其の現るる時は何時も如法暗夜とて船体の模様も判らねば、汽笛の音もさせぬが船首の青燈と赤燈は分明に見ゆる。

最初はソラ汽船が入ったか、何丸か知らねど漕ぎ出せと同地の艀どもは出船すれば、其の又スーッと北進するので妙な船もあったものと愚痴たらたら漕ぎ返り居りしが、三度が四度と度重なるに従いよくよく注視すれば、正面に碇繋し居てこそ赤燈青燈が同時に見ゆれ、海岸に沿ふて進行する汽船にして一時に見ゆる筈なきに、この船に限り何時も両燈分明に見ゆる不思議さ。

てっきり亡者船に違いなしと後には又た御座ったナーと笑ひながらに眺むる様になったが、それでも新米の船夫等、それ船が入港した準備せぬかと大騒ぎする事があるのみか此の船の現われたる翌日は殆ど判で押したように大々東風となるので、同地の鱈業者等は一種の晴雨計視し、翌日は相戒めて(あいいさめて)出船せぬ由である。

艀船夫らは多分露領時代に東北の大時化に此の沖合で遭難せし汽船があって、其の亡者が現はるるのであらうなど、牽強附会(けいきょうふかい)な説を唱えて居るが、瀬戸内海でよく云ふ「船幽霊」か筑紫の「不知火」の如く海虫の燐光かそれとも寒暖両潮の交互作用より起こる一種の蜃気楼か

其の現出したる翌日は必ず東北大強風というより見れば、気温潮流の作用としか思われぬが、ことには只だ噂の儘(ただうわさのまま)。



すわ沈没したタイタニックが間宮海峡に!!

と思いきや、三〜四年前からの現象とのこと。

この本斗の沖合に船が見え、艀を出したが消えてしまうというオカルト現象であるが・・・
流氷が去った後の春、三ヶ月間しか見えない季節限定の現象であり、大荒れの前日に出現ということだから、まず蜃気楼とみて間違いないであろう。

冷たい海の上に、低気圧前面の暖かい空気が、ちょうど陸から海に向かって流れ込む。
冷えた空気の上に暖かい空気が乗る形となるので、光がまがって遠く沖合の船が海岸からも見えるようになるというわけである。

北海道のオホーツク海側では流氷の去る春は幻氷はしばしば見られるし、それこそ網走では二つ岩のあたりなど、しょっちゅう蜃気楼の見られるスポットもある。

樺太返還・・・ということはあるのかどうか判らぬが、
春に本斗の丘に寝転んで、蜃気楼で見えかくれする間宮海峡の「亡者船」を見ながら、ぼーっと一日過ごしてみたいものである。

大荒れになる前に起きねばならぬが・・・
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2012年04月18日

樺太日記16:樺太の冬の色

札幌の積雪が無くなってから一週間が経過。
根雪終日が記録的に遅くなっている旭川も21時で7センチ。明日にはなくなるだろう。
でも朱鞠内はまだ177cm。5月半ば、札幌でサクラが散る頃まで雪が残っていそうだ。

冬が去って春が来て、モノトーンの世界からカラフルな世界へ移り変わるのが、また北の春の鮮やかが際立つ理由の一つなのであるが、樺太はさてどうだろうか。

春はともかく、冬を描くなら何色が必要か。100年前の新聞に答えがみえる。

1912年(明治45年)2月18日樺太日日新聞一面より

寒国の趣味
青海生

○若し日本の風景を絵画に因りて区分せんとするときは、大概之を三大別する事を得べし。
帝都以南は極彩色の錦絵なり、東北は薄墨の一筆画なり、而して(しかして)北海道以北更に本島に至りては薄墨の刷毛絵なり

○樺太の冬の景色を画にせんと欲する時は、敢えて多くの彩色を要せず。只青色と白色と薄墨有れば足る。

○青色は以て晴れたる北方の天を描くべく、白色は以て満地の雪を示すに足るべく、而して此の間に点接せる針葉樹と其の他総ては只一種の薄墨を以て形容さるべし。

○風景美は細を以て勝るあり、疎を以て優るあり、一はえん麗にして、一は雄大なり。
墨絵の単なる者、必ずしも極彩色の細なるに劣れりとすべからず。

○樺太の趣味は冬に在り
寒さと雪と風は本嶋に於ける一種の趣味ならずんばあらず。
平凡は常より吾人にしてあかした、彼のアルコールの乏しき水臭き酒を常用する人は偶々(たまたま)強烈なるウイスキーを飲むに因りて多日の溜飲を下ぐるの感あり。

○樺太生活に於いて、強烈の二字は最も意義深し
彼のひたひたと襲い来る寒さと対抗し、颯々(さっさっ)として又、飄々(ひょうひょう)として来る風雪に相対して、数尺の雪路を漕ぎ渡り、帰ってアイスクリムの如き酒を煮、氷の如き魚と肉とを噛むに至りては其の間、自ずから強烈の気を養わんずんばあらず。

○数十頭の犬が曳き行く橇に乗じて、氷原数十里を横断し、更に駅逓に入りてトナカイとジャコウジカのアバラを屠りて喰ふ。
是れ又一種の強烈を示すものにして、毛衣厚く髭凍り、眼光爛々(らんらん)たる此の時の旅行者の相貌(そうぼう)堂々たるは正に鴻門の会に於ける樊カイの概あるなり。

○北守南進の声、今や経済界の口に喧びし、謂ふ所は日本の膨張政策に於いて北方は即ち樺太及び朝鮮を意味す。
樺太は此の意味において、正に北門の金讃なり、是に住する人の強烈に非らずんば、何を以って其の守成を全うし得んや

○自然は今、我々に年々強烈なるい血液を注入しつつあり。
吾等は飽くなき此の血を充填して、以て子孫に伝えざるべからず。
寒さを恐れ、雪に怖ぢ、氷を厭うが如きに至っては、到底樺太の人たるべき資格なき者なり。

○此の如き覚悟を以って、樺太に居住する我々には天地をおうの吹雪も壮快に見られ、心身を凍らす程の寒気も痛快に感ぜらる。
然りこれ、真に他国人の想像すら為し能はざる一個の趣味たるなり。
而して亦(また)、大文学を生ずるの種子たるなり



「鴻門の会」というのは、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事。
樊カイ(はんかい)は、この会見で暗殺されそうになった劉邦の危機を知り、ものすごい剣幕で会見に乱入、項羽が与えた大杯の酒と生の豚の肩肉を全て平らげた。そして項羽による劉邦への誤解を釈明、劉邦を会見場から脱出させたヒーローである。

その樊カイの顔に匹敵するほど、強烈な人間でなければ樺太人は務まらぬという。


さて、樺太の冬は「青と白と薄墨」が有れば足る、という。
でもおそらく春は、樺太も「錦絵」であったと思う。

今年の樺太の春は遅かろう。まだ「青と白と薄墨」で足る景色が広がっているだろうか。

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2012年04月19日

樺太日記17:1912年2月20日亜庭湾氷上大運動会

札幌では今朝、非常に珍しく直下型の地震があった。

下から突き上げるような揺れがズドンと一瞬だけ。トラックが建物に衝突したのでは?と一瞬みんなで疑ったくらいであったが、こういう揺れは直下型の規模の小さい地震である特徴。

果たして、M2.7という規模であったが、藻岩山の下10kmほどが震源。
当然、こんなところを震源とする地震の想定などしていない。あたりまえだが活断層は地表に現れている断層の一部で、地下深くの断層は見えない。

こんなことは日本じゅうどこでもある。既知の断層のみを相手にしているから、何かあったら、すぐに想定外となるのだ。

ちなみに札幌で将来想定している直下型地震は月寒断層が動いた場合のM7.3、野幌丘陵断層帯もM7.5ということだから、今日の地震のエネルギーと比べれば800万倍〜1600万倍(!)はでかいということになる。

そう考えると、想定内であっても、札幌の直下型地震というのはなかなか怖い。


地震が起きるのも地球がいくつものフロート状のプレートに覆われ、日本はちょうどプレートがぶつかり合う部分にあるためである。

冬のオホーツク海にうかぶ流氷も同じように衝突・結合を繰り返し、形を変えながらぷかぷか浮いているのであるが、真冬にガッチリ凍結して定着したものの上では、飛んだり跳ねたりしてもへっちゃらである。

樺太の形はモンキースパナとよく似ているが、樺太の最も南、モンキースパナでいえばネジをしめる部分は亜庭湾(あにわわん)と呼ばれる。真冬の亜庭湾を舞台に今から100年前、氷の上の大運動会が開催された。その模様をみてみよう。

1912年(明治45年)2月21日 樺太日日新聞

氷上大運動会

▽運動会日和
大泊氷上大運動会は予定の如く昨日午前十時より栄町海岸の氷上に於いて開催されたり。
当日は朝来の晴天にて日は暖かく、加ふるに微風だも無くして誠に誂向き(あつらえむき)の運動会日和なりき。

競技参観者は予定の時刻以前より続々として押しかけ、先ず入り口の白光閃々たる氷門に壮快を感じ、招待を受けたる人々は門を入りて後、西谷桟橋の右側にある受付にて案内を乞い、其の他は何れも思ひ思ひの所に陣取りて、開会今や遅しと待ち居たり。

▽会場の光景
会場には来賓の為め、海岸に並行して艀船三十五艘を並列し、其の中には盛んに火鉢に火を燃やして暖を取る事とせり。

氷門を入れば右側に受付ありて、左には警官の席、及び競技者の仕度場ありて、競技者はここにて思ひ思ひの準備を為し、出発点に出ず。

会場は周囲三百間の楕円形にして、出発点及び決勝点は船入間の中央に在り、此処に審判係り席を設け、場の中央より万国旗を交差し、其のはんはんとして氷上を閃く様は美しとも美し。

▽各方面の観客
当日は豊原一番列車にて乗車せるは三百名以上にして、団体の入場者は千人以上あり、午後一時頃までに受付口を通過せる参観者は概数三千四百五十名在りたれば、其の他随意に入場せるも、亦た多数なるべく。総数殆ど五千人以上に達し、本島稀有の盛会となりき。

来賓の重なるは尾崎第二部長他、講演会出席の為め過般船来出席せる諸氏、並びに大泊の紳士淑女らにして特別招待席は為めより立錐の余地なき程なりき。

▽売店其の他雑事
売店は特別観覧席の後に造られ、しるこ、おこわ、おでん、サツマ汁、うどん、蕎麦等を出せしが、午後二時まで会券引き換えに渡したるは、そば、うどん七百、おでん五百、しるこ四百二十、サツマ汁五百二十、おこわ千二百なりしと。


2月も半ば過ぎ、光の春のおとずれも流氷としては最盛期。氷上で催しをするにはいい時期であったかもしれない。

五千人という群集だが、当時の大泊に人口は1万人もいたのだろうか。
ほとんどの人が集まってきたようなものかもしれない。

さて、この行事だが、最初は紀元節2月11日に行われる予定だった。
ところが先にも書いた樺太島技運動会(スキー競技会:豊原)の日と重なってしまったため、変更を余儀なくされ、さらに悪天もあって再延期と、ようやく開かれた催しであった。

どのような競技があったか、翌日の紙面から拾ってみる

1912年(明治45年)2月22日 樺太日日新聞二面

盛大なる氷上運動会(余禄)

延期に延期を重ねたるため、或いは多少気勢の挫けたるの憂ひ無きやを疑われたる亜庭湾氷上大運動会は愈々(いよいよ)去る二十日、天一碧、地一白の壮絶極まりなき栄町沖に催され、実に予想外の観を以て無事終了せり。

当日の概況は前号所載の如くなるが、更に其の余禄を一括報道せんに。

▼競技の数々

▽競技に先づ
午前十時半頃開始せられたが、第一番に尋常五年以上男子百四十四人の体操があって、常田訓導から例の熟練した号令で一挙一動指揮の間に全員を配列して運動を開始する頃は、既に競技場にはひしひしと観衆が詰めかけ初め、煙火は益々盛んに放揚され、爆々の響、碧天に振ひ、氷原に応え、風船を追う児童が影は遠く沖に走るを見る。

▽此の日天気は
晴朗限りなく、去る十八日吼えたる吹雪の影は又さりげなく晴れ渡り、湾頭辺り春光輝く白雲の折々に行き交いするばかりであった。
風は唯、旗の印を見するに止まれり

然る、午後の一時頃なりしと覚ゆ、東北の微風、粉の如き雪をもたらせ、天地に灰色に化せんとして観客席いたるところに呟きの声を聞いた。

然るに間もなく再び一天澄み渡って、暖、更に加わる。
けだし此の運動会大成功の一は此の好天気に基づくもの多かるべし。

▽学童の綱引
は、二百四名の児童が源平に分かれ、数丈の綱に鈴なりとなり委員観衆が応援の声に揺られ揺られて互いに其の力を争った。

第一回は数分回は静つとして又動かず、寸引き寸引かれ何れ優り劣りも見えなかったが、一度屈しては又盛り返さんの術もなく、赤はチクチクと引きつけられて、遂に白の勝ちとなり、次は赤、強力奮闘の会、稽の点を雪ぎ得て沖天の勢いあり。

▽氷滑競技
当日最もよく氷上運動会の特色を発揮し、且つ、会場の整理といい、見るものの興味といい、比較的に簡単にしうて且つ成功したるは此のスケット(スケート)競技なりしが如し。

この競技にて最も早かりしは第一回有志競争の南文太郎の一周三百間(約550m)一分二十二秒である。

五町(約550m)を一分二十二秒とすれば、一里は僅かに九分足らずで着し得る筈である。
最も長距離となれば、此の順では推し得ないまでも、兎に角その速き事目に止まらずましてや同技の特徴たる軽快なる有様はそぞろ観衆の胸をそそった。

折々突き当たっては算朴し、転ぶ様も亦た一興であった。
此の技は単純なる競技と他に鞠拾い夫婦競技等があって、鞠拾いは左程でもなかったが、夫婦競技はたしかに成功であった。

組み合わせた手を払う者もなく、且つ二人一組となり居るため、一人転べば二人転ぶ様なども面白し。
しかも此の技が一分四十秒に着し得たのは驚かざるを得ない。
明年からの氷上運動会には主としてこの技に力を注ぐ筈である。

▽犬橇各種競技
犬橇乗競争は犬がまだ充分に会場に慣れざるため止むを得ず沖のほうより三百間、審判席のほうに向かって競争し来る事とした。

橇は十八台。先ず犬の頭を出発点に整頓し始むると観覧者はいつか外周競技場の柵としてあった縄を切って場内に雪崩れ入り、更に沖合から決勝点まで堵の如く其の両側を囲んだ。

護岸工事の杭のそばにあった記者は、しばしば氷の杭の離るる音を聞いて汗を流した。

煙火が轟く、五千に上る人の席には声もない。
皆、手に汗握っていると、何ぞや本尊の犬公は競技の途中で両々噛みあふて立ちかかって相争って居る。

一犬、虚を吼ゆる格で一組喧嘩が出来ると、此処にも彼所にも噛み合う声が澄み渡った空に響く。

此の間に先を争う橇が四台と、惜しいかな一着の某は反則ありとて入賞し得なかった。

▽長距離競争
栄町橋、記念橋、楠渓町停車場等の局所を経て、海岸を廻って来ればその距離は一里十九町三十六間。

揃って氷門を出たのが正に零時三十五分で、同勢実に六十一名、中には測候所技手の大村君などもみえた。

大戸商店の店員職工など数名、之れはまた揃えの運動服(黒襦子の上下に紅のリボン)に武者振り、中々に勇ましい。

足固めは草鞋、足袋など色々なり。

号砲響きぬ。観覧席はどよめきぬ、而して忽ち姿は見えずなり。

かくて次の競技は開始されぬ。犬橇重量競争なり。

準備に比較的時間を費やしたるものの、其の一回を終わりたる時、早くも観覧席に『来た来た』の声は繰り返されぬ。

五千の頭は帰りぬ。

競技委員はしきりと場内の整頓に声を張り上げぬ。
・・・・秒一秒、沈黙せる場内水を打ったるが如く。

此の時、煙火は高く高く響きぬ。

氷門を潜りて、西谷桟橋を折り来る遠距離第一着者
これぞ日ごろの練習の労を積める大泊郵便局通信夫・大谷武則

上額貧血して青く、頭には湯気をみなぎらせ、セイセイと息しつつ決場に入りて、旗取りの体によりかかる。
此の時、正に午後一時四分四十七秒なり。

二着の井上の如き、正に失神せん程度にて決勝点に倒れ入り、僅かに人々に支えられて事なきを得たる有様。一等賞の商品・米一俵は正に大谷の手に渡されたり。

▽足駄競争

参加者二十六名。
下駄は余り高かざる足駄で、丸歯である。

先導の一人転べば全体算を乱して重なる様、観衆の腹の皮をよらしめたり。
他が起きては転び、転びては起き居る間に、一着から三着までは普通の歩行を為すが如く軽快で、又其の後は転びもせずわずかに二分二十三秒にて着。

三着は歯と台の前とにて、即ち爪立てにて歩き来たりが如し。

▽竹馬競技
は大泊郵便局の競技で、紙の烏帽子に袴ばき、たすきがけの風彩ははなはだ振ったものであった。
竹馬は旗ざおを切って作り、足場は高さ一尺七、八寸、仲々に興味があった。

惜しいかな第一回は場を一周せず、横に一直線であったため、観衆は又中に雪崩れ入り、外に居る人に見えず、施行方法に欠点があった。

中で途中倒れたるも二、三あれど兎に角数日練習の効は明らかであった。

▽番外犬橇競争

大いに面白い筈の此の競技は、余りに沖を廻りすぎたのと、沖の氷が高低甚だしいため、犬が思ふ通りに駆け得なかったため興味をそぐもの少なくなかった。

然し一望際涯無き氷原、日光に照り栄えてキラキラとする彼方駆けゆく三台の犬橇はあたかも百足の滑るが如し観客を酔はしめた。

トットトットと云う犬追うアイヌの声はかすかに聞こえてくる。




今きづいたが、紅白歌合戦もそうだが、赤白に分かれて戦うのは「源平の合戦」の色からきているのですね。

氷の上を100間(=約180)ほど一直線に竹馬で走る競争というのは、なんとも危険。

犬橇競争は相手の犬と吼えあい、噛み合う・・・非常に壮絶である。
すぎちゃんに見せて、言ってほしい。

「ワイルドだぜ・・」と。
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2012年04月26日

樺太日記18:1912年2月20日大禮丸小樽出港

やっと雪が解けた。
岩見沢の積雪が昨日25日にようやくゼロとなった。
これを根雪終日として考えてみても、史上最も遅い記録を5日ほど更新するもので、岩見沢としてはやっと雪の季節に区切りがついたといえよう。

岩見沢にばかり気をとられていたら、豪雪地で名高い倶知安も本日26日に13センチの雪が一気に解けて積雪ゼロを達成。雪が消えるのは嬉しいことだが、今年は同時にあちこちで雪解け水が土砂災害を惹き起こしているので、浮かれてばかりもいられない。

さて、樺太であるが、春の足音は雪解けが先か、それとも流氷が去るのが先かといったところか。

海の氷が緩むと船が港にやってくる。そして漁が始まる。
それが来る春への第一歩だったのだろう。

1912年(明治45年)2月22日 樺太日日新聞二面


大禮丸の出港
小樽電報 二十日

大禮丸(だいれいまる)は本日(二十日)午後五時三十分出帆せるが海馬島へ寄航の上、大泊へ航進し、夫れ(それ)より真岡へ向かふべし。



明治40年に樺太庁が設置されると同庁は小樽を起点とし、大泊を経由する樺太東西海岸線の2線を命令航路として開設した。
その航路を当初運営したのが大阪商船という会社で、大禮丸(1335トン)は明治42年(1909年)5月より就航。当時、日本では数少ない砕氷船であった。

大禮丸DAIREIMARU.gif

この大禮丸は大正13年(1924年)濃霧の宗谷海峡で他船と衝突して沈没するという運命を辿ることとなるが、それはまた別の機会に。

砕氷船としても流氷の存在は気になるところ。
同日の記事には宗谷岬の対岸、能登呂岬の様子も載っている。


●能登呂岬の静穏

能登呂岬の模様については其の都度報じたる所なるが、昨日午前八時十五分同地よりの電報に依れば、南東の軟風にして海上平穏流氷は湾内より西海に流失しつつありとの事なりしか。

愈々(いよいよ)大禮(丸)の湾内航路は安全なるべし


軟風というのは気象庁が定めた風力階級の言葉にもある、れっきとした風の強さをさす用語。
だいたい風速3メートルから5メートルで、木の葉や細い枝がたえず動き、旗がはためく程度の風。
市内であれば、少し風を感じるといえど、海上の風としてはそよ風みたいなものであろう。


海の開いている西海岸では、真岡や本斗などの港町に春のタラ漁に従事する出稼ぎ漁師を乗せた汽船が続々と入港しつつあった。

しかし、真岡から樺太の首都・豊原に通じる山道は深い雪に埋もれており、流氷の覆う亜庭湾を進んで大泊へやってくる砕氷船の存在は、とても重要なものがあった。

この大禮丸にもタラ釣り漁師が乗っていたであろうが、樺太で新生活を始めようという集団も乗り込んでいた。この年最初の樺太への団体開拓移民である。

1912年(明治45年)2月24日 樺太日日新聞二面


第一着の団体移民

北海道上川郡剣淵村より今回入港の大禮丸にて団体移民の来着あり。
折から出泊(大泊)中なりし中川第一部長より金子寄贈の恩恵に浴し、栃内拓殖課長、加賀山技手其の他大泊支庁の吏員等の斡旋を受け、団体長は荷物の整理託送の為大泊に残り、他は全部豊原まで導かれたる事は昨紙に報道したる所なるが、豊原着後は旧市街なる移民休泊所に収容せられ、諸事周到なる其の筋の保護によりて便宜を与えられたる。

一行は団体長・佐藤唯吉氏外十一戸四十六名の他に、小沼村河野元吉氏の勧誘によりて移住せる空知郡幌向村の志賀只吉、田坂弥平の二戸六人、及び当地山上武十郎氏を頼寄れる山上、西岡の両戸にて

団体としての十二戸は予報の通り並川村植民地へ収容せらるべきが、同村には残留せる露式家屋は最早先住者へ付与せられ一戸の余れるものとてもなければ、新たに建築せざるべからずが故に、用材の伐採、其の他準備の期間を要すべきに付き、其の期間中は特に設けられたる清川村の仮収容所に入るべく

志賀・田坂の両戸は小沼村植民地へ移住するものにして本日目的地に出発すべく

山上・西岡の両戸は差し当たりて移住の目的を有せざれど、当局の指導によりて地を選定したる上、移住の考えにして、目下は慈恵院書記なる山上氏方に寄宿しつつあり。

該団体の携帯せる荷物の内、百十余個は大泊に於いて荷役不能なりしため積戻しとなりたるが、次航便にて送付あるべくはずにして、今回携えたるは二十余個の手荷物のみなれど、衣類其の他には之が為め不自由なく、多少の不自由あるも当局に於いてそれぞれ便宜を与え、器物の不足あれば出来得る限り貸附して費用を省かせつつ、斯く当局が周到なる注意と親切とを以て保護しあれば一行は其の厚遇を感謝しつつあり。

詳細は次細は詳報せん。


北海道からの移民・・・というからには屯田兵などで入植したもののうまくいかず、新天地をさらに北に求めたのであろうか。
まだ冬のうちの入植・引越しというのは、当時としてはなかなか大変なものであったろう。
荷物も半分以上が船に積まれて戻されるという困難に直面しているが、当時の樺太庁はかなり移民に優しい対応をしていると見える。

どのような決意で、樺太へ渡ってきたのか・・・
インタビュー記事が記載されていた。

1912年(明治45年)2月28日 樺太日日新聞 二面


唯だ一生懸命

本年の第一着移民として過般来着せる北海道上川郡剣淵村団体移民代表者・佐藤唯吉君は往訪の記者に対して左の如く語った

私等が樺太移住を思い立ったのは去年の事であります。
其の所で私が団体を代表して十二月の十五日大泊に着し、直ぐ様豊原へ出て移住地の選定を致しました。

支庁殖産課の方が厚い、懇な指導に依りまして、並川殖民地に移住することとなり、一同の準備もありますから其の月の二十八日弘前丸で一先ず剣淵に帰りました

当時、話に聞いたように寒気の厳しくなかったのには私の少なからず意外の感に打たれた所でありました。

▽一旦帰村して一同の者へ私の見た通り、聞いた通りの樺太談を試みましたが、一同の移住心もいよいよ掌固となり、速やかに準備を整えて渡航した次第でありますが、前回私が参った時よりも余程寒気が厳しくなっているであらうと一同は気のつくだけ防寒の用意を致し、股引などは毛布の裏をつけてはいてきたのでありますが、雪は前回よりは積もって居るけれども寒気はむしろ前住地などより凌ぎ(しのぎ)易い位なので、私は勿論一同の者が意外として喜び合ったのであります。

▽大泊へ着いた時には、私等一行の為に特に係の御役人が出張されて万事万端かゆいところへ手の届くやうな保護と便宜を与えられ、特に中川一部長閣下よりは金子を一同へ恵余相成り、ご苦労であると慰めに預かりましたのは私どもの感銘に耐えぬ所であります。

私どもは明治三十三年(1900年)北海道へ移住しましてからも随分地を換えて所々を廻りましたが、斯くも官庁の行き届いた取り扱いを受けたのは初めてでありまして、如何に私等の気を強く感じたところであるかは宜しくご推察を講うの外、言葉がないのです。

▽斯程手厚い取り扱いに報ゆるには其の業に一生懸命になって働くより外になかろうと思います。

私どもは北海道へ移住してから随分農業には苦労をしました。
現に前住地の如きは甚だしき泥炭地でありまして、十三尺も掘り起こさねば作付けのできる地を得られないような非常に地味の悪いところでやってきたのでありますから、先ず一通りの経験はもっているつもりであります。

然し何程経験があると云ふても、仕事に不忠実では何んにもならぬ事でありますれば、此の上は唯一生懸命出精する覚悟であります云々



この見出しをみると、既に明治の終わりには「一生懸命」になっていたのですね。
まあ樺太開拓、それこそ一生を賭けた懸命さがなければ、樺太の土地に住むことはできなかったに違いない。

それから100年後の総理大臣もなんだか似た様なことを言っているが。覚悟のほどは???
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2012年04月27日

樺太日記19:1912年2月29日ギリヤーク族の嫁探し

今日27日は夕張で積雪がゼロになった。
しかし、昨日の1時には28センチ積もっていたから、融雪の具合は非常に急激。
積雪の密度は春先には0.4〜0.5g/cm3程度にもなっているから、2日で30センチ雪が解けるということは、120〜150mmの大雨が降ったのと同じ状態に匹敵する。

しかもずっと雪解けが続いていて土壌は水分がたっぷりのたぷたぷ状態である。
土砂災害としては非常に大きな危険性があるといえよう。

今日は夕張で石勝線の路盤が崩れる被害があったが、通過する電車の振動で路盤が液状化→崩落である。これまであまり想定していなかったような被害で、大型連休期間中の空知は、かなりの注意が必要であろう。

さて今回の樺太日記はいよいよ1912年の2月から3月へと進んでいく。
融雪被害は天災の面が大きいが、こちらは人災?「停電」の記事から。

1912年(明治45年)3月1日 樺太日日新聞三面


豊原市内の暗黒

一昨夜(28日)午後六時五十分頃、突然市内の電燈の消えて、市内は暗黒の世界となりたるが、電燈会社斉藤技師長は部下と共に其の原因を取調べたるも夜中の事にあり、充分の取調べも漸くにして機関の一部に故障あるを発見せしかば、応急手当を加え、午前二時三十分頃漸くにして燈火すると得たり。

兎に角、電燈会社設立後、時経ての事なれば、中には洋燈(ランプ)の用意無き向きもあり、一時は中々の混雑を極めたり。


当時の発電所は蒸気機関なのであろうか?

昭和半ばでも北海道では停電なぞしょっちゅうだったと聞くから、この時代なら長期停電もあたりまえと思われるが、「ランプの用意もない」家もあるというから、樺太の電気事情は比較的安定していたのかもしれない。

豊原の電気は安定していたかもしれないが、樺太全土が豊かなわけはない。
同日の新聞には一人の勇者の姿が掲載されている。


奇特な巡査

(亜庭)湾内多蘭内(たらんない)部落民は一昨年六月中に同村に居住せしが、同年(1910年)は収穫極めて少なかりし為め、冬期に至り非常に困窮し、部落民四十戸は食を求むる道なくして既に退村のやむなき状態にありしが、当時大泊支庁より伊藤巡査派遣され、同人赴任早々この窮せる有様を見て気の毒に思ひ、時には私財を投じて家族の多数の者に夜食を与え、一方には前出張所長たる山元氏に交渉して三井の伐木事業を請け負はしむる事とし、其の他種々尽力して同年の冬は辛うじて冬期を過ごしたる

其の後も同巡査は些細の事まで注意し、学校の寄付、道路の開削等にも尽力したる結果、今年は何れも安心して越年するに至れり、何れも其の徳に感じ居れり云々との投書ありたり。


多蘭内とは大泊と能登呂岬の中間附近にある集落で、のちに三郷(さんごう)村の中心部となったところである。

「奇特」という言葉を見出しに使うのはちょっと違うのでは?と思うが、
私財をなげうって村民のために動く「巡査」というのは面白い。
村の「おまわりさん」に相談事したり、ぽろっと愚痴をこぼしたり、ということがきっかけだったと思うが、それにしても「いい人」だったのであろう。みんなの為に人肌脱ぐか!といった形で奔走したとみえる。

さて、樺太は日露戦争の戦勝により獲得した「新植民地」というのは日本人にとっての見方であり、前からこの樺太に住んでいる人たちにとっては国が変わったものの住む場所や生活の中心が大きく変わったわけではなかった。

先住民族のひとつギリヤーク族の暮らしぶりも紙面には時々登場してくる。

1912年(明治45年)3月6日 樺太日日新聞三面


配偶者を探すための旅行

西海岸柵丹部落在住の土人・ギリヤーク族バーリン外五名は、予(か)ねて敷香方面への旅行を企て、それぞれ準備中であったが、先発としてチエリカなる者が客月二十九日に柵丹を出発した。

先発の任務と云うのは一行が途中宿泊すべき個所の選定やら食料の配置やらであって、中々重大なものである。

続いて其の翌日はグシャエンとオツトカ両名が発足し、それに続いてバーリン、キツクライ、ホトボンの三名が出発した。

経路は毎年の旅行と同一の経路を辿るのであって、西柵丹川の上流をさかのぼり、渓流に沿ふて敷香に下るのであるが、旅行の目的というのは同種族を訪問して礼を交ゆ、同時に其の機を利して各好適の配偶者を詮索するのであるさうな。

そして何故一行一団として出発せずに一人二人と散々になるかと云えば、途中の宿泊所に充つるテン猟小屋が狭陰で一同を容れ難いからであって、若しこの小屋のない場所であれば雪を掘って穴を作り、其の中へ適当の防寒施設をして泊まるとの事だ。

食料は大抵は所持するけれども場合によっては途中欠乏することあれば、随所で野獣や鳥類を狩猟し、それを即座の糧に用ゆるとの事である。


柵丹というのは間宮海峡に面した日露国境に近い所。ここから山を越えて東海岸の敷香までという旅行であるが、目的が嫁探しというのが面白い。昔からずーっとそうしてきたのだろう。

なお、ギリヤーク族というのは昔の呼び方で、今は「ニヴフ」という名のほうが通りがよい。
オホーツク文化の担い手ともされ、千年以上も先に樺太で暮らしてきた民族である。

狩猟で生きるというのは当時の日本人の暮らしとは全く違う文化であり、開拓移民にとってはそれは珍しい姿として映ったであろう。

北海道ではアイヌと和人と二つの軸で語られることが多いが、樺太では日本人、アイヌだけではなくさらに北方の民族文化圏とも接しての暮らし。

互いに発見し、発見され、刺激的な日々だったのであろうなあ。

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2012年05月09日

樺太日記20:1912年3月10日陸軍記念日と樺太守備隊

大雨やら竜巻やらサクラやらで忙しい日々が続き、体調も崩して散々な今年の大型連休であったが、連休明けとともに体力も復調気味であるので、ここらで樺太日記の再開といきたい。

まず、明治末年の樺太における電話普及状況に関する記事をみつけたので、こちらから。

1912年(明治45年)3月12日 樺太日日新聞二面


三市街の電話

現在、三市街の電話数は豊原約百六十八、大泊百十、真岡八十にて。

豊原は今日の所、既に大体行き亘りあまり売買行われざるも、過般譲渡らせたる一個は五十円を以て取引せられたり。

大泊は非常なる不足を告げ居り、手離者無きため実際に於いては売買行はるる事少なきも百二十円より百六十円位の価格を有す。

樺太庁にては(明治)四十五年度予算中に三十増設の費用を計上しある由なればよし大泊埋立地市街成立するも充分に行きわたるべく。

又真岡は今日の所猶ほ十個内外増設の必要無きにあらざるも売買価格は矢張り五・六十円に止まるより推すも差程の不足には非ざるべきか。



まだ一家に一台という時代では全然なく、豊原の「大体行き亘り」というのも大きな会社とか官公庁など、あるべきところに行きわたっているという意味であろう。

次は同日の紙面より「電線」の話題。


電柱取替と新設

元泊、敷香間の電柱は、十八、九年前、露国政府にて建設したるものを其のまま襲用し来たるものにて、一昨年来取替えに着手し四十六里間のうち昨年までに三十一里の工事をとり、本年は全部完成のはずなり。

又敷香管内散江は雑漁業地として最も有望なる土地にして年々居住者激増しつつあるために、政庁にては敷香、散江間二十五里は電線を架設の見込みにて之亦(これまた)本年の予算に計上しあれば、多分実行せらるべく其の上は同地にも特定郵便局を設置する筈なり。



敷香周辺の電線は日露戦争後しばらくはロシアが敷設したものをそのまま使用していたということである。
第二次世界大戦後は、逆に日本の建物をソ連がそのまま使用していくのだが、あちらは相当長く使っているようですね。未だに樺太庁博物館など多数が現役だもの。

さて日露戦争絡みといえば、3月10日は奉天会戦での戦勝を記念した「陸軍記念日」である。
まだ戦勝の記憶が新しい明治末年の陸軍記念日には豊原で祝賀会が開催されている。


陸軍記念日の樺太守備隊

樺太守備隊に於ける陸軍記念日祝賀会は予報の通り一昨十日午後一時より其の営内において開かれたり。
左に概況を記するに先立ち、守備隊諸員の熱誠をこめたる諸般設備の模様を記さんに。

当日一般の出入り口と定めたる南門外には高さ十五尺程の雪門を築き、凱旋門と筆太に記せる額面を掲げたり、これを潜れば歩哨舎に隣りて受付所あり。
轟副官以下数名の将校ありて、来賓を招じ徽章その他の案内書を交付し、兵卒をして休憩所に導かしめるなど慰勤の程をつくせり。

余興の運動会場たる練兵場の南方には兵員三百人を要して作れる高さ四十尺余の大雪だるまは毅然として人目を驚かしたり

又北方には同じく高さ四十尺余の雪の記念碑あり。碑の台には段階を設け、其の所に椅子を置き、火鉢を置きて来賓の運動観覧所となせるは妙計と云ふべく、場の中央には高き柱をたてて四方に吊られたる万国旗は翻々として中空に流れ、十分ごとに放揚さるる煙花はいんいんまた轟々として天に響き、其の勇ましき光景は筆紙に尽くすべからず。

更に休憩所と余興場とに充てられたる雨蓋練兵場に至れば二ヵ所に緑門あり。

附剣せる歩哨の人形、プラスを以て緑となしケースを持って文字を書きたる二六門、二七門の扁額はことごとく之れ兵員の丹精に成るもの。
けだし二六門とは二十六連(隊)を意味し、二七門とは二十七連隊を意味するものなり。

其の所を潜りて休憩場内に入れば南方には舞台を設けられて余興場となし、北方には紅白の幕を張りまわして中には模擬店あり、しるこ、茶、菓子、煙草、酒、そば等を勧め、緑葉紅燈と相映して美麗極まりなく、来賓一同をして気も心も爽々となさしめたり

▽運動会開始

定刻と共に余興の運動会は開始せられたり
この時既に場の周囲には一般観覧者群がりて人の黒山を築き、其の数無慮千五百と算せられたり

もとより練磨の守備隊兵員によって行われる運動会なれば、競技は一として強壮活発ならざるなく、観者をして悉く歓声せしめ、情夫をしてなお立たしむるの感ありたりき

先ず第一回の競争としては旗取り競争にして、
第一第二両中隊の兵士二十名を紅白の二手に別ち、約三百間の距離へ紅白の旗六十を立て、号砲と共に
紅軍は紅旗、白軍は白旗と三回ずつ取り来たり、三回目の最も先着者を以て一等となせる極めて新しき趣向の旗取り競争なりしが、

其の結果は一等第一中隊・辻和三郎、二等第二中隊・宇佐美太郎、三等第二中隊・篠崎角太郎となれるが、各中隊の応援と見物の拍手喝采する有様は天地も為にいかんとする概ありたり。

▲障害物競走

観衆の拍手と喝采の間に第二回の武装競争、第三回の銃剣術野仕合、第四回の陣取競争、第五回の盲目競争等は滞りなく進みて、当日第一の呼び物として一般に期待せられたる第六回の障害物通過競争とはなれり。

競技員は第一・第二両中隊より各十名ずつの参加あり。

出発点に整列して用意の号令に続く号砲と共に一斉に駆け出し、第一高く張られたる縄を飛び越え進みて梯子を潜り、更に進んで空き俵を潜り、次に鉄条網を潜り抜け、遥かに雪上を駆けて梁木を越え、最後に塹壕に踊り越えて決勝点に入りたるなりしが、

この競技中、第一中隊の酒田三郎、第二中隊の田村寅吉他が雪煙を立てつつ飛走する様は恰(あたか)も奔馬の空を駆るが如く、猛猪の雪野を突進するが如く、梯子、俵、鉄条網を何の苦もなく潜り抜けて梁木の綱を手繰りて上るさまは猿が木に登るが如く壮絶また快絶を極めて、思わず観者をしてドッと歓呼せしめたりけり。


△仮装行列

両中隊の兵士によりて二組の仮装行列は運動の終わると同時に場内を練り廻れり。
其の趣向を凝らせる有様は言外の珍と妙とあり、思わず観者として抱腹絶倒せしめたり。

行列の指揮を存せるは第二中隊の将校一名、第一中隊の下士二名にして、総勢凡そ百数十名、四十七士を初めとして朝鮮人支那人露西亜人、桃太郎鬼が島退治、ホーカイ節、相撲取り六部僧侶、余市平定九郎灰の市など何れも上々出来にて各自苦心讃嘆の跡をしのばしめたり


明治の新聞の文書は、風景が見えるというか想像できるというか。
今の新聞のように事実を淡々と記載するのではなく、読み物として想像を膨らませられるところがよい。

今ならば
「陸軍記念日の十日、樺太守備隊の兵士たちが一般公開の運動会を開催、豊原市民の多くが駆けつけました」程度のフレーズのニュースであろう。

ものは書きよう。

同じことでも、どう表現するかで、全然違うのである。
勉強になるなあ
posted by 0engosaku0 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 樺太 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする