2012年05月25日

明治末年北海道記1:北海道の春

明治45年の樺太の様子をずーっと見てきたのであるが、殖民地としては先輩の立場にあった北海道はどのような状況で明治の末を迎えていたのか。

今回からは樺太と北海道をクロスさせながら、残り三ヶ月ほどとなった「明治」の様子を掘り起こしていきたい。

ということで明治末の北海道として扱うのは今回としては初めてとなる。
明治45年4月、樺太同様北海道は遅き春を迎えていた。

1912年(明治45年)4月7日 北海タイムス


積雪融解期

道庁測候係・豊蔵技師の話に依れば、昨冬は余り降雪量多からざりしに
一月に入り積雪多量となり殊に二回の大吹雪のため各地とも融雪期を遅れしめ、札幌区の如きも今尚(いまなお)消雪を見るに至らざるが、今、各地方に於ける根雪の融解期の最遅と平年期日を示せば左の如し

札幌 最遅四月二十日 平年四月四日
(中略)

而して札幌区の最も遅きは(明治)二十五年の四月十六日、二十八年の四月二十日、三十一年の四月十五日等にして、本年の積雪量を計るに恰も(あたかも)三十一年に類似せるを以て、本年の融雪は十四、五日頃とみて大差なかろう。



この頃の「平年」の概念が今と同じかどうかは定かではないが、現在の札幌の根雪終日の平年は4月3日だから、100年前とほとんど変わらないことがわかる。
今年もそうだったが、何回かドカ雪があったり、寒い春は雪解けが遅い。この年の北海道もそうであったろう。

樺太ではギリヤーク族の生活の様子が記事にとりあげられていたが、北海道に関しても先住民アイヌの暮らしが記事になっている。

雪解けの季節に動き出す生き物をアイヌは追っていた。

1912年(明治45年)4月7日 北海タイムス


髭武者の遠征隊

小半年に亘る酷烈の寒気と降り積む大雪とに、草家住居を封じ込められありしに

旭川町は近文のアイヌ部落旧土人等、昨今の東風日和に山々の雪とけかけ、奥山の冬籠熊(ふゆごもりグマ)が漸く穴の口に子連れて出る頃なりとて、此程来(このほどらい)毎日の様に同部落の髭武者アイヌ等五人、十人と子供などを連れて鉄砲を肩に旭川駅から乗車し、猟犬二、三頭ずつ小手荷物として悠々遠征して行くを見受けたり。

狩場は狩人にても確実に知るを得ざれど、下車駅は切符に徴し、愛別、蘭留、比布等なれば、そこへらの奥地が狩場なるべし



100年前も熊の生態は全く同様である。
冬眠から目覚めた熊を狩猟する、というのがアイヌ人の春の動きだったことが記事からは端的だがはっきりと見える。アイヌ民族にとって熊は神であり、生活に密接かつ欠かせない生き物である。
子供を連れて行くというところに、文字を持たぬアイヌ人が実体験を通して習わしを伝えていく文化も垣間見える。

春になると、浮かれ気分の人も出てくるが、彼の場合はどうだったか。

1912年(明治45年)4月8日 北海タイムス


女学生を狙った青色魔ついに捕わる

(札幌)区内南七条西七丁目五番地・石黒経(一九)は当時同上電気株式会社の見習生なるが、性来の放蕩者にて学校時代とて其の成績甚だ宜しからず。

現に電気株式会社の見習生となりても、区立女子商業学校生徒なる竹内お何といふに左の如き艶書を送りて跳ねつけられたり。


江畔の細柳縁に咽び、晴樹遥かに青障に浮んで日長く、風暖かき鳥鳴き人を娯ます時節とはなりぬ。
突然手紙差上、御驚きの事とお察し致します。
お身も私を二、三年以前よりご承知の事ならん。
何卒何卒今後お手紙を下さいね。
私は只々、お身の心ある返事を待っております。
お返事は明日此の新川端で下さい。
時間は今朝頃、委細はお返事下され次第申し上げます。

石黒より


尚、石黒は是と類似の艶書を百本も二百本も書き、女学生と見れば必ずそれを狙い、各劇場は勿論、寄席見世物小屋ないし勧工場へ出入りして、女学生の袂へ艶書を投ずるを例とせしが、次に投げ込みたるは


昨日は失敗致しました。
実はね、今度私が上京するに就いて、是非お願い致したい事がございますから
明晩八時頃私は、お身の家の前を口笛吹いて通りますから五分か十分程経ってからお出でください

もし都合悪しければ角の丸亀湯屋の前に八時頃立って居て下さい。
何卒何卒お願い致します

石黒
親愛なる萩原嬢


斯くの如くにて盛んに風俗を乱したる中、金が尽き、愈々(いよいよ)窮して去月五、六日頃、区内西創成学校生なる南三条西三丁目五番地・佐藤東洋太郎が当時四年生より五年生に進級するを機とし、石黒は巧みに東洋太郎を貶し、今期の試験には君は落第なるも僕が河東田教授に話し、及第するよう運動してやるとて、同人が兼ねて水力会社へ五円六十銭ある貯金通帳を巻き上げ、去月二十八日、南二条西三丁目札幌商館より佐藤と彫刻したる木印一個を金十銭で購入し、直ちに改印届をなし、本月二日右貯金より同会社会計係・林力蔵の手を経て金五円を騙取したること本署の熊本刑事が探知し、六日取り押さえの上、検事送り。



結局、前段のラブレターを配って回った話と、子供の貯金を騙し取ったという話はまったく別なのであるが、こういう載せ方をしてしまう当時の新聞である。

今は、最初に悪いことをして捕まったという記事が出て、後追いで捕まった人の素性が暴かれていく記事が出る・・・という過程をとるが、当時は一気に報道してしまう。さすがプライバシー未発達の時代である。


最後は当時の教育の状況がよくわかる習字を見ていただこう。


児童の書方

19120408kakikata.JPG

是は女学生の書き方です。
去年の今頃初めて学校へ上がった児は此のくらい書けます。
是は札幌女子尋常小学校尋常一学年の高橋ハルさんが書きました。

夫れから二年経つと次の位に書けるやうになります。
是は同校尋常二学年の小林チイさんが書きました。

夫れから三年目には此のくらい書けます。
是は同校尋常三年生・斉藤昭子さんの書方です。

四年目には次の位書けるやうになります。
是は同校四年生関場包子(かねこ)さんの書き方です。


尋常一年〜四年は、そのまま今の小学校1年生から4年生。
クラスで一番の子の習字と思うが、本当に上手ですねぇ。
先生もビシビシ教えていたのだろうな
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2012年05月30日

明治末年北海道記2:1912年4月10日手宮の崖崩れ

今年の北海道は積雪が記録的に多かった上に春先が低温だったため、大型連休前の暖気で一気に大量の雪が融け出し、主に空知地方で土砂災害を引き起こした。

春の堅雪は非常にしまった雪なので、密度が大きい。10センチの雪が解けると50mm程度の雨量に匹敵するくらいの雪解け水が流れ出すので、土壌はたぷたぷとなり、ちょっとした刺激で崩落する。
夕張では列車が通過した振動で、線路の路盤が崩れるという珍しいタイプの土砂災害もあった。

防災対策の進んでいる現代であっても融雪期の洪水、土砂災害は危険な存在であるが、100年前の明治末はもちろん治山・治水・防災システムすべてが未発達。危険度ははるかに上であった。

明治45年の春は遅かったが、それでもやはり春はやってきた。怖い融雪期の始まりは川の変化によって現れる。

1912年(明治45年)4月11日 北海タイムス


漸と(やっと)融雪したに 川面が膨れて増水

両三日来の暖気にて山中融雪のため、美唄川を始め沼貝村を横断せる緒川及び小溝共俄かに増水

氾濫して人家の浸水せる箇所多ほく、或いは流木来たりて危険なれば避難するものあり非常の混雑を極め居れり
(峰延電話)


「川面が膨れる」という表現が面白いところである。
札幌の最高気温は4月1日〜5日までは5度に届かず、6日の朝は氷点下9.6度を記録するほどの冷え込みであった。

これが7日〜9日には8度くらいまで上昇、10日は10.9度と初めて10度台に乗せた。
このため、急に融雪が進んだのであろう。川も急に増水を始めたのである。

1912年(明治45年)4月13日 北海タイムス


北見方面の出水

本年は未曾有の積雪なりしを以て、出水あらんかを憂慮しつつありしに果たせるかな未だ十分の融雪に至らざるに

野付牛村鵡川氾濫し、アイノナイ附近仮定県道に氾濫し交通途絶、人家にも多数浸水しつつありと只今(午後一時二十分)同村長よりも土木派出所に吏員派遣方を請求し来りたり

常呂川も増水しつつあり
(十二日網走電報)


ここの中にある野付牛村というのは今の北見市のこと。鵡川は胆振を流れる川ではなく、「無加川」のことである。またアイノナイはその後「相内」という名がついた。今の北見市中心部と留辺蘂市街の中間あたりに位置する地域である。

網走の根雪終日はほぼ札幌と同じ4月初めだから、この年のオホーツクも雪解けが遅れていたのだろう。

川があふれるような融雪期のピークは、地面も雪解け水で不安定になる。
ついに崖が崩れだした。

1912年(明治45年)4月11日 北海タイムス


凄絶惨絶土崩大椿事
小樽手宮長屋二棟十三戸全壊半壊四戸
轟然漠然一声惨死者十名宛然阿鼻地獄

昨十日払暁二時半頃、小樽手宮町畑二十六番地寿都(中田善八所有地)は山崩れのため同所長屋三棟十三戸は丸潰れ、半潰れ四戸、其の他死傷者十数名を出せる空前大椿事あり。

同長屋は六戸建て一棟(所有者繁野猪之吉)は山麓約三十間離れあり。

昨年大火後に建てたる労働者向きの長屋なるが、四、五日以来の暖気にて地の緩みを覚えある折とて、朝まだ暗き夜の間に、俄然異様の音響を発して土塊一度にドッと崩れ来たり

何れも附近の者は夢うつつより覚めて、地震か雷と周章狼狽の折柄、地響きと共にグワラグワラと何か怪しき物音の刹那、諸所に聞こゆる悲鳴凄惨を極め、真に阿鼻叫喚の思いあらしむるばかりにて

「ソラ山が崩れた」
と、誰言うとなしに大騒ぎとなり、交番所へ急訴するや直に消防夫六十名、本署より急派し救助に務めしが其の際はすでに遅く、瞬間の出来事とて救助の効もなく十名の死者と五、六名の負傷者を出せり


小樽は坂の多い街ではあるが、手宮も山が海に迫っているような所である。
最初に異音がしたあとに、地響きとともに大きく崩れたということだが、現在でもこの「崖から異音」というのは土砂災害が切迫している前兆として、逃げ出すサインとして気象情報でもアナウンスされているものである。

この後につづく記事によると、長屋から約30メートルほど離れた裏手の崖が高さ約20メートル、幅50メートルに渡って崩れたというなかなかの規模の崖崩れであった。このため、長屋二棟が埋まり、多数の圧死者を出したわけである。

翌日の紙面には、現場を見た記者によるレポートも記述されている。

1912年(明治45年)4月12日 北海タイムス

大惨事余聞

春まだ寒き北都の小樽 手宮石山麓に春夢を破り凄絶惨絶を極めたる一大椿事は前号掲載の如く死者十名負傷者数名を出せる、先には港内に於ける増毛丸の大惨事あり、今この無惨なる生き埋めを出せしは真に小樽十万区民の心胆を寒からしめる空前の大椿事といふべし。

一昨日記者は現場について実見せるに、其の惨憺たる光景は言語に絶する有様なり

前号と重複の点あるも左に詳記せんに

全壊三棟十五戸の内、最も麓に近き七戸長屋は僅かに屋根を剥ぎ飛ばされしのみにて全部埋没して影をだに残さず
同棟に住む七戸は如何に酸鼻を極めしが想像に余りあり。

順を追って記せば、田井中国三郎方は隣棟の山崎平蔵に救出され、夫婦と子供三人は辛くも命拾いせしも、嬰児武夫(一つ)を失いたり。
其の隣菅原留三郎(三五)、妻シマ(二九)、養女ハル(五〇)の三名は逃げ所なく無惨の窒息。
次に佐藤太平方は太平(四二)は七、八日前手宮組・丸ト印に雇われ仕事中、百貫匁あまりの大荷物の下となり両足に負傷し入院治療中、家族は此の難に遭い、長男太一郎(一三)は頭部を強く打ち、次男芳夫(六つ)は右眼を負傷し、到底治癒の見込みなき不具者となり、長女キク(八つ)は頭部に裂傷を負い、妻フサ(三八)は哀れや四、五尺の土塊に埋没されたり。

次に丸瀬継蔵は妻と共に身を以て逃れしも一人娘のミネヲ(一五)は倒壊の木片を冠り斃れたるうぃ知らぬ母は悲鳴を上げて「ミネヲ々々」と連呼する様、狂気の如く。
後に其の死を聞き気抜けせる憐れさ何ともいへず。

次に沢留次郎(二八)は滋賀県神崎郡生まれ、妻キン(二一)は七日前に岩内鰊場へ出稼ぎし老母キヨと二人部屋を離れて寝に就き居り、老母は蒲団の中に横臥のまま窒息し二尺余り土を冠り最後を遂げ、留次郎は倒れ来る大柱が斜めに倒れ、其の上に壁板積み重なりため三尺位空所出来、其処へ潜り、声も枯れんばかり助けを叫ぶこと約三、四十分なりしが、第四部の消防夫三人が掘り出し呉れ、左大腿部に顔面部に打撲傷を負ひたるも幸に急死に一生を得たり。

次に南條儀助方は、妻荒木ハル、長男一郎(六つ)次男由松(四つ)を失い、先月生まれし赤ん坊を抱ひて辛くも逃げ出たるも、今は哀れにも精神に少しく異状を起こし、稲穂学校附近にあり。

次の西松徳次郎夫婦は無難に飛び出し、この罹災を免れたり。

其の他、隣棟の神戸床・黒田長三郎所有六戸建ては何れも軽症だに負はず大難を免れたり。


多くの家庭の営みを押しつぶした土砂災害。
100年たったが、手宮ではいまも崖崩れの危険性の高い場所は残る。

災害にあった人のだいたいが、「ここに●年住んでいるが、こんな災害は初めてだ」という。
こうした歴史の事実とともにハザードマップを組み合わせ、地元の人に防災意識を持ってもらわないとなりませぬ。

小樽市はハザードマップをしっかり作成している。
http://www.city.otaru.lg.jp/simin/anzen/bosai/dosyasaigai_hazard_map.html

小樽のひとは是非活用してもらいたいし、そのほかの土地でも自分の居場所は大丈夫か一回でいいから町のホームページで確認しておくのがよいと思う。(一回みればわかるから、一度でいいのだ)

posted by 0engosaku0 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月02日

明治末年北海道記3:1912年4月6日札幌・けなげな乙女逝く

今の世の中、生活保護受給問題が賑やかである。

今ターゲットとなっているのは芸人であるが、昔からよく結婚やら離婚やら事件やらで芸人が大きく取り上げられ、メディアの中心にいるような場合は、ウラで国民の目をそらしたいような事象が進んでいることが多いと言われる。

現に、今、政治の世界では消費税率引き上げの法案が正念場だし、大飯原発もいつのまにか再稼動する方向に動き出している。時に、新聞は一面より二面のほうに注意しなければならないというが、この6月はまさにそういう時であろう。

さて100年前、生活保護法ほどのしっかりとした困窮者扶助制度はなかったものの、「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」という公的救済制度は既に存在していた。

明治の世でも、既に税金を使用した困窮者救済システムがあったことにはやや驚いたが、この規則の成立は1874年(明治7年)というから歴史は古い。身寄りがなく、高齢、幼少、疾病、障害により生産活動に従事できない極貧の者に米を給与するという内容であった。

この規則が大正も続き、昭和に入ってより高度化した「救護法」という法規が成立、戦後にその他の救済法と合体することとなり生活保護法となって、いくたびかの改正を加えながら今に至っている。

現在の生活保護を受けている人達は、明治の世の人にはどのように映るだろうか。
100年前、明治最後の春を迎えた北海道では、紙面に貧しい人たちの様子が時折登場してくる。

1912年(明治45年)4月13日 北海タイムスより


我が児を遺棄し 自首せる青年

去る十日午前、小樽奥沢村育成院の前にむつき(?)に包める嬰児を遺棄せる者あり。
折柄通行人が発見し、小樽署へ届出、該嬰児は育成院にて引取りたるが、昨日午前十時頃、該嬰児遺棄の犯人なりとて同署へ自首し出たる男あり。

此の者は札幌市南四条東一丁目、渡辺太郎左衛門次男・政吉(二〇)と呼ぶ青年にて、当時南一条西二丁目、薬種問屋斉藤弘輔方の雇人なるが、昨年二月頃、共に同家に雇われ居たる女中・中川モン(三二)といふ年上の女と私通し、モンは間もなく妊娠せしより九月中暇を貰ひ、南四条西一丁目十番地・館林ヨキ方に同居し、十二月に至り女児を分娩せしかは

爾来、政吉は僅少の給料を割きてモンに贈り、母子を養い居たるも、此のことが主人の耳に入りては面目なきのみならず、嬰児がありてはモンの足手まといとなるより、一層孤児院へなりとも嘆願し、自己が独立の身となるまで預けんものと考ひ、モンに対しても小樽に居る親類に預けると欺きて、前日正午頃、我が児を抱きて小樽に来たり

停車場よりインパネスの袖に包みて人目を避けつつ小樽育成院の門前に至りしも、気遅れて門内に入り兼ね、空しく十数回門前を往復せしが、其のうち日暮れ、九時頃となりしより、心を鬼にして我が子を門外に棄てて帰札せしが。

その後良心の呵責に堪え難く、昨日自首し出たる次第なりと



棄て子の記事である。
棄てたくはないが、置いてこないと今は暮らしていけない。
育成院の門前を悩みながら子を抱いて往復する姿が目に浮かぶ記事である。

なお、この子は政吉の叔父がしばらく引き取り、養育することになったようである。

十勝にも貧しさに喘ぐ家族がいた。
同日の北海タイムス


貧のドン底に四苦八苦 一家六人

十勝国は帯広町西三条四丁目七番地・大野清松(四二)といふは十四年前、郷里岐阜県揖斐郡黒野村から渡道して帯広に落ち着き、晩成社農村の小作人となって一生懸命稼いだが、兎角貧乏神が取り付いて離れず

其中(そのうち)女房ナミ(三三)との間に長男磨男(十五)長女マツエ(十二)次女ハルエ(一〇)次男三雄(八つ)三男策(六つ)四男実(四つ)といふ六人の子まで出来て、活計(くらし)が益々苦しくなり、詮方なきに長男・磨男は町内大通十丁目・車大工某方へ年期奉公にやり、三男策は他に呉れて一家の口を減らした上、農夫をやめて帯広郵便局の逓送夫となり、女房のナミには出面稼ぎをさせて二人共稼ぎでセッセと働いて見たが矢張り活計向き(くらしむき)は面白からず

是ではならぬと今度は馬車追が儲かるだろうと早速馬車追になって一昨年の冬から昨年の春にかけて、北見の山の中へ角材搬出に出稼いだが、これもなかなかうまく儲けにならず懐中寒げにしほしほ帰って来た所に、悪いときには悪いもので、あの寒い寒い北見の山の中に無理な身体の使い様をしたのが基で、冷えを込み、帰る早々持病の淋疾が酷く起こってドッと寝たまま身動きさへもならぬという始末。


貧の上塗り、泣くにも泣かれず、家道具を売り出しつつ手療治の我慢を重ねて一二ヶ月も過ごす中、とうとう患部が腐乱して、日に日に肉がトロトロ流れ失せるといふ生命の瀬戸際に足を踏み入れ、加之(おまけに)貧のどん底に落ちた一家、二日も三日も食を断つ事、往々あり。

病に呻く(うめく)清松、それやこれやで悩みに悩んだ果ては、いっそ死んだがましならんと、幾度か縊死を企てたが、いつも女房に遮られて果たさず、昨今ぼろの中にくるまってウンウンうなりながら徒に(いたずらに)拱手して死を待つ痩せぼうけたる、憐れの姿見るも涙の種である。

それにこの病みつかれたる父を囲んで飢えに泣く無心の幼児、看護と飢えとに窶れ(やつれ)果てたる色青ざめた女房の影薄げな姿。あわせて真に目前なる餓鬼道は恰幅を見る心地がする

されば流石に此の状を見るに忍びず、町内大通五丁目・小片医師は昨今施療をなしつつあり。
又、同大通七丁目安井商店では一日白米一椀ずつ一、二ヶ月間恵與(けいよ)し、外に同県人なる清水泰治・高橋吉次郎等も何やかやと世話を焼いては居るが、なかなか思うように手も届かず、安井の施米も今は絶えてしまったので、一家は此の頃干乾(ひぼし)同然、目も当てられぬ惨憺(さんたん)たる有様で、親子六人相おうして飢餓に泣いている様は無惨といはうか憐れといはふか、寧ろ(むしろ)言語の外である。 



樺太でも、稼ぐ為に一家の大黒柱である父親が冬の間に伐採作業などで無理をして脚気を患い、一気に家族全体が貧にあえぐという姿が紙面にみえていたが、北海道でも似たような状況であったようだ。

農家でも郵便局でも一家を食わせて行くには足りない給料
儲かる仕事と思って厳しい冬の作業で無理をして病を患うとたちまち生命の危機を覚えるほどの困窮へ転落する。この時代の父親の存在というのは非常に大きいものがあったといえる。


両親が病に倒れて動けない場合はどうなるか。
その場合は子供が身を粉にして働くしかなかった。

1912年(明治45年)4月14日 北海タイムスより


斯くの如く哀れな健気な娘は逝けり
兄は入営し老夫婦の飢餓

(札幌)区内南七条西一丁目十四番地といふと遊園地物産陳列場の裏手になるが、其処には三戸建ての羽目さへ落ちて物置同様の長屋がある。

其の一戸を借家して住む野口秀時(二二)と呼ぶは一昨年、歩兵第二十五連隊第五中隊に入営し、今尚、隊にありて、家には実母・野口ヒワ(五八)と養父鈴木某(六〇)、秀時の妹・おトヨ(一八)の三人あるが

養父鈴木は今より七年前、悪性のレウマチス(リューマチ)に罹り、それが慢性となりて身体の自由を失いたるに、あまつさえ其のレウマチスが眼に及びて昨今は盲目同様の境遇になり

又実母ヒワは元来身体のかよわなる上に、先年来眼病に罹りたれば、夫婦坐食の始末に秀時入営前は妹を相手に種々稼業に従事して老夫婦を養ふて来たが

愈々(いよいよ)入営といふ段になると入営後の家事向きが案じられてならず、然るに妹おトヨは健気にも秀時を慰め「兄さんが入営しても私は何とかして両親を養ふて居ますから、心配せず御国のために勤めて来て下さい」とて入営したのが、明治四十三年の十二月であった。


爾来、おトヨは雨の日も雪の日も厭わず、市中を煎餅売るか、鰌(どじょう)を売るかして半日も休まず商売に勉強して一日に二十銭に足りない利益を得、是にてどうやらこうやら一家三人糊口して来た

その激しい稼ぎから身体が冷え通した結果、病気を起こしたれど、医薬にかかる資力なく、唯だ神仏を祈願するのみなれば病は日一日と募り、遂に本月六日に至り、哀れにも死亡したれば、夫婦の悲嘆は勿論、兄秀時はさながら片手を奪われた思いに悲しみ、一日の賜暇(しか)を得て実家に帰ったも、前記の如き境遇だから葬式も出せず、近所の人の世話で僅かに桶を貰い、之におトヨの死体を容れて荷車に積み、秀時が其の車を牽いて漸く野辺の送りを済まし、帰隊したが

さて、秀時帰隊後の老夫婦は如何にしてよきか
喰ふことも呑むこともならずに昨日今日飢餓に迫りて死を待つ有様に、夫婦の昔を知る人は其の悲境を深く気の毒に思ひ、第二十五連隊につきて長男秀時の除隊を出願したが果たして許可になるかどうか。

もし除隊が叶わぬとせば、老夫婦は到底餓死を免がるまじと界隈の取り沙汰なり

さりとはびん然な話


生きていく為には無理をしなければならない、それがたとえ寿命を縮めることになっても、弱い存在のためには命を削って働かねばならない。

この時代の公的援助は暮らしに必要な費用というよりは最低限の「米代」の補助。
わずかに日銭を稼いで一日一日を生きねばならない市民に薬代を捻出することは相当の困難であった。


一家を支える存在が病に倒れるということは、そのまま一家全体の暮らしが成り立たなくなることを意味する。それが明治末の北の暮らしの姿であったのか。

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2012年07月04日

明治末年北海道記5:1912年4月12日春は●●の始まり

7月になった。
夏オヤジも一休みで、先週のような暑さは消えうせ、過ごしやすさが戻ってきた。
とはいっても、先週の暑さが建物には蓄熱されているのか?夜は寝苦しく感じることもあり、夜にも窓を開ける。やはり夜に窓を開けて寝るというのも、夏になったということを実感する。

窓を開けると、外の喧騒が聞こえる。札幌の夜は静かな夜ばかりではない。前の週末は暴走行為をなさる車たちの音が聞こえた。
北海道では冬は集団で暴走行為はなさらない。やはりスリップして危ないからだろう。だから暴走行為をなさる車たちの音が聞こえるというのも、ある意味「季節が変わったことを告げる音」のひとつでもあるのだ。

といってみたところで・・・風情もなにもないのであるが(苦笑)

さて、100年前もあるいやなものが季節が進んだことを人々に実感させていたらしい。

そのきっかけとなる記事がこちら。

1912年(明治45年)4月14日 北海タイムスより


林檎園一軒家へ黒覆面の強盗

十二日午後十時三十分頃、豊平町八十番地、北海中学へ行く道路の大きな林檎園の中にある一ツ家、山崎正一郎方へ外套の様な黒い被布を以て覆面をした丈の高い一人の強盗が、表玄関側八畳間の硝子窓を押し開けて入ったが、山崎方では丁度賊の入った五分余り前に次の八畳間へ家族一所に就寝した時だったのでまた眠らなかった。

初めは風の吹く音と思って居ると、賊は草鞋履きのままヅケヅケ仕切りの襖を開け、家族の就寝して居る座敷へ身を出し、九寸許り(ばかり)の白鞘の短刀を突きつけながら「金を出せ」と銅鑼声(ドラごえ)にいふ時

家族の者が強盗だ強盗だと叫びたてたので、賊は泥棒が戯れに刃物を持ったか又は全くの素人であったか度胸を抜かして何物も獲らず元入った窓から逃走してしまったが、人の寝ないうちから時間を間違えて戸惑いする小胆者で、或いは近頃区内の官舎等へ忍び入って家捜ししながら、一物も取らないで出て行く気味の悪い泥棒と同じでないか其筋では厳重に賊の行方捜索中



この記事が新聞に載るや、札幌の人は「強盗の季節が来た」と感じたらしい。
昔の家なら、冬は窓なぞ凍って開かないし、雪の上なら足跡も残るし、などいろいろ理由はあるだろうが、強盗が季節ものと感じていることが興味深い。

しかし、この記事も「強盗なら騒がれても一つぐらい物を取っていくもの」みたいな意味にも取れてなかなか面白い。

1912年(明治45年)4月18日 北海タイムス


はだかで白羽の前 強盗を走らす

既記の如く、去る十二日の夜、区内豊平町八十八番地・林檎園一軒家山崎正一郎方へ一人の強盗押入り、短刀を閃めかせて家人を脅迫せしも、却って家人のため強盗と叫ばれ、一物も獲ずして逃走したること既報の如し。

右に就き、区内の人々は「今年もまた強盗の時季が来た」と其処此処に噂するに至りしが、昨年の人騒がせは三上殺しの境吉蔵と留置場破りの駒澤忠三郎に札が落ち、両人とも取り押さえられて目下獄裡にあれば大した心配はないにしても、南一条東四丁目・荒物商今泉堤蔵方へ忍び込んだ賊が今猶ほ逮捕に至らず、その筋は爾来(じらい)該犯人に就き捜査中

雪解けを待ってましたといふ格で前記豊平町にて強盗直ちに引っつかみ呉れんと某々方面に手配せしが、其の実情を聞いて見ると、
右強盗は泥草鞋のまま六畳敷を通り、次の六畳には正一郎夫妻と子供の寝てる其の襖(ふすま)を開けるや、長さ九寸ばかりの短刀を突きつけ「騒ぐな騒ぐな、騒がずと金を出せ」といひ別段手出するでなければ、
正一郎、裸のままに寝床を這い出し、「金はない、俺は月給取りだから月半ばに金のある道理がない、若しあるなら此の家なんかも半普請(はんふしん)で投げとくやうなことはせぬ」と答えるに

正一郎の妻女は夫がはだか姿で賊の刃物の前に居るのを危険に思ひ
「貴方、はだかじゃ不可ません。着物をお召しなさいナ」と注意し、且つ賊に向かって
「今云う通り、宅には金は何にもありませんから衣服でもお持ちなさいませ」と勧める中にも、強盗が万一短刀を振り回したら何うせうとの心配なれど、正一郎少しも頓着せず、悠々衣服を着し、帯を締めながら妻女を顧みて
「宅へ賊が入ったと隣家へ知らせて来い」といふに強盗は其の行手を遮り
「表外へ出てはならぬ」と肩怒らせて短刀をまわす。

かくて正一郎は賊を連れて次の間に至り、押入れを指さし、此の中に箪笥があってそれに衣服をいれてあるといひ、賊が押入の襖へ手をかけんとする時、正一郎は最前賊の入りたる硝子窓に首を出し
「強盗強盗」
と大声を連呼せしかば、此の声に驚きたる強盗先生、大いに泡を食い、正一郎の体と擦れ擦れにて周章狼狽、其の窓から外へ飛び出し、右か左か逃走して遂に姿を闇に消せり。

其の服装は語ることを暫く遠慮すべきが、此の動作を以て強盗の何者たるを推測するに難からざるべし。

想うにこの強盗は、強窃盗を以て常習とするものにあらずして、唯一時の気まぐれかそれとも此の界隈を往来する馬車追の類ならんかといふ



話を聞いた市民も「強盗の季節がきたか」と話せば、捕まえるほうも雪が消えて「待ってました」とは、春は泥棒と警察の対決のゴングが鳴るようなものなのか?
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2012年07月06日

明治末年北海道記6:1912年4月15日雷電滝の惨事

大気の状態が不安定である。
昨5日はニュースになるくらいのゲリラ豪雨っぷりで、道東方面には竜巻注意情報は出るわ、札幌にも大雨警報は出るわ、北見では一時間に36.5ミリとバケツをひっくり返したような雨が降って浸水被害も出た。
北見はもともと雨の少ない所で、たった?70ミリちょっとの日降水量だったのだが、立派に7月の日降水量記録を樹立である。

もちろん雷雲が原因だから、激しい落雷もあった。札幌も昨日は午前10時51分に雷鳴と電光(たしかこういった名のポルカがあったが・・・)を観測。5月26日以来、今年2回目の雷の観測であった。

さて、雷電といえば、北海道ではらいでんスイカという美味しいスイカのブランドがある。7月だから、もうそろそろ店頭でも少しずつ出てくるころであろう。らいでんスイカは共和町で生産され、その名は「雷電海岸」という岩内周辺の奇岩・断崖の景勝地からきている。

今から100年前の春。この断崖絶壁の雷電海岸は悲しみの地であった。

1912年(明治45年)4月18日 北海タイムス


岩内 大地すべりの詳報

去る十五日午前二時二十分、岩内郡島野村字雷電滝の下にある武井辰太郎出張漁舎が俄然崩落し来たれる土砂混じりの石塊大地すべりの為めに住宅一棟、倉庫一棟、納屋一棟全部を埋没し、即死九名、重症者八名を出したる大椿事発生したることをとりあえず報道し置きたるが、今其の模様を左に詳記せんに

▼凄惨たる現場
今回の惨事の現場は、岩内町を距る(さる)二里、雷電・中の滝の下にて、背面は恰も(あたかも)屏風を立て廻したるが如き断崖絶壁の五十丈もある中腹の脆弱(きじゃく)なる地層なるが、内部に水気が浸透し居る所へ同夜来の降雨が動機となり地盤が緩みて数百坪一時に崩落し、殊に勾配甚だ急なる為め凄まじく地すべりするに至りしものの如し。

しかして住民は見取り図に示したる如く現場の西方にあり、二、三間隔たりたる少しく山麓の方に倉庫あり、夫れより住宅とやや並びたる東方に納屋ありたるも何れも十尺乃至二十尺の地下に影を没し、其の上二間立方体の大石塊を混へ、恰も大震災後の惨状を見るが如く、其の光景惨憺たり

雷電岬崩落現場.JPG

<雷電の崩落現場見取り図:紙面より>

▼警官と消防組
岩内署にては此の急報に接し、橋本警部補数名の巡査を引率し、向山消防組頭は消防手六、七十名外に島野村消防組全部と現場に駆けつけ大活動を開始し、生存及び負傷者の外は悉く圧死したるものと見做し(みなし)、死体発掘に従事したり。

然るに当日午前十一時頃に至り、土塊の地下に微かに(かすかに)苦悶の声を発するを聞き、一同全力を傾注して掘り出したるに、小松まさ(三八)重傷ながらも命ありしは九死に一生を得たりとも謂ふべし。

▼生存者桜井の談
万死に一生を得たる漁場監督・桜井栄太郎の語る所によれば「十四日の夜十時頃、此の滝の方より大きな音響がして石塊らしきものが落下したるため、私と船頭吉田長治郎、外二、三の者と外に出て見たが、暗夜で能く判らぬが石塊か氷塊か落下して電話線を切断したを見たまま、他に何等異状なき為め一同、寝に就いたが

午前一時頃降雨がありし、故船頭が矢張り三、四人の漁夫を網に雨覆いを施し、又々一同寝床に入りm船頭のみ私の傍らの炉辺に足を伸ばし、私は長男孝三(十六)と共に寝ね居りますと、轟然一大音響と共に家屋倒潰。

私は石塊に埋まれたるもウンと踏ん張り這い出て孝三も引っ張り出し、生存者を指揮して岩内其の他に急報したる次第です云々。



犠牲者の名前も住所入りで示されているが、新潟県が2人、富山県が1人、函館の戸井村が1人、森町から5人の計9人である。

当時はニシンの漁の絶頂期。
ニシンのためなら危険なところにも番屋を立て、寝泊りしながら沖合の金の成る魚を来る日も来る日も追い続けた。
春先に北海道に出稼ぎにきて、まとまった金を得て内地に帰って行く者もいれば、板一枚下は地獄。春の荒波を受けた船もろとも海の藻屑と消えた者もいた。

さて、今、この雷電・中の滝で検索しても全然ひっかからない。

北海道の滝を集めたブログの中に、それらしき滝を見つけたが、この写真をみるかぎり断崖絶壁で猫の額ほどの海岸。こんな所でも、ニシン漁にとっては都合がよかったのだろうか。

雷電岬は弁慶が刀を掛けたという奇岩のある風情のある場所。
今やこの話はまったく忘れられていると思うが、こんな悲しい明治の思い出も、ちゃんと拾っていくべきであろう。

さて、雷電では岩を崩した雨。おそらく低気圧が通過したものであろう。
翌日、旭川では四月の半ばをすぎての雪となっていた。

1912年(明治45年)4月18日 北海タイムス


旭川の降雪

十六日夜来降雪あり。積雪三寸余に達し一時旭川附近一面の銀世界と化し、冬の光景を呈したるも、正午頃迄には融雪したり。
(旭川電話)

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2012年07月20日

明治末年北海道記7:1912年4月23日厚別でチャリティーコンサート

いよいよ札幌も夏まつりが明日から始まる。
まあ「夏まつり」というよりは「大通公園のビアガーデン」といったほうが一番しっくりくるか。
昼間は暑くても、夜は涼しいこの土地だから、ビールを飲むなら真昼間のほうがいいのかもしれないが、昼に酩酊すると、何か「冬のスイカ」のようにあずましくないもののように感じるのは何故だろう。

さて、前回予告した夕張炭山の爆発事故は相当ボリュームがあるので、これは改めて書く。
この大事件について記す前に、1912年4月の北海道で起こったミニニュースをいくつか拾い上げて置きたい。

まずは網走から熊の話

1912年(明治45年)4月22日 北海タイムス


銃猟の名手 巨熊を海上に討ち止む

網走町薬店・十文堂主人田中千松氏は全道銃猟家中屈指の名人にて、殆んど百発百中ならざるなきが、

去十二日網走郡藻琴村濤沸湖(とうふつこ)に白鳥の来遊せるを聞き、午後網走を発し其の夜は付近に一泊し、翌朝早々日本燐寸(マッチ)製軸工場の島田・橋本両氏が所要を帯びて湖上を通過するを聞き、便乗して橇(そり)中から発射せんと同工場に至り支度中、一匹の巨熊、工場前を驀進(ばくしん)して人影を認むれば狂い猛るより、ソレ手負い熊ぢゃ避難せよとて民家は戸締りをする騒ぎに

件の熊は益々猛り狂ふにぞ、豪胆なる田中氏は一発の下に打ち留め人害を救はんと単身小銃を手にして巨熊を追跡せしに、熊は小丘を越えて海岸に至り、折りしも斜里行きの漁夫二名が此の巨熊に出合ひたるを以って一生懸命帰らんとするにぞ、二名を引き連れ尚も追跡したるに

熊は一里ぐらい沖合の海中に入りて八畳敷程の流氷に寄りかかり、負傷したる左足の爪を塩水に浸し治療し居るものの如くなるより、鈴木漁舎に至り、漁船を借受け、件の漁夫二名を乗り込ましめ、海上はるかに漕ぎ出たるに、

熊は人影を認めて巨声を揚げ、猛りに猛り、今にも舟を覆さんとする勢いなるより一発空砲を放ちたるに驚きて右往左往に泳ぎ回り、僅かに五間近くになりたるを以って、一発実弾を放ちたるに鼻上に命中したるも尚一発眉間を打ち抜き、すぐさま兵児帯(へこおび)を首にくくり陸地に引き上げたるは六歳の雄熊にて、長さ五尺四寸(=1.63m)後足九寸四分の巨熊なるより、十三日網走校の請により生徒に実見せしめ、尚捕獲の説明を為したるが、旧土人の談によるも眉間及び鼻上などは普通の者にては的中するものにもあらずといふ。



網走の郊外、藻琴に出現した大きな熊を流氷の海まで追いかけ、撃つという、壮絶な狩猟を行っている。
あまりの大きさに、学校で見世物にして、いかに撃ったかという話までしたわけだが、「ヒグマが海を泳ぐ」という事実、行動範囲の広さにもなかなか目を見張るものがある。
沖合を漂う春先の残氷にシカの姿をみかけることはあったが、山ではなく、流氷に乗ってヒグマが海からやってくる、そんなこともあったのだろうか。


さて、同日の北海タイムスから


記念琵琶大会

川中島大合戦三百五十年記念、薩摩琵琶大会は十九日午後六時より(札幌)区内北一条西六丁目基督教青年会ローリ館楼上に於て開催。

最も喝采を博せしは安西氏の那須の与一、川中島の二席にて。

来集男女二百名盛会なりしと



川中島の合戦●周年・・・というので大会が開かれている所が、今の世と全然違うところであろう。
しかも琵琶大会・・・。昔はこのような芸能も身近だったのだろうか?

これから100年。今年の札幌には「川中島」にかこつけたイベントなぞ皆無である。


さて、続いてはまた熊の話。

1912年(明治45年)4月24日 北海タイムス


熊を噛殺した猛犬

(札幌)区内山鼻町・鎌田十郎左衛門の飼犬イチ(ニつ)といふは、本月十三日主人十郎左衛門に伴われ、札幌郡平岸村字定山渓を距る二里奥の字白井川といふに至りし時、白凱々たる積雪の上に一頭の熊を認めたれば十郎左衛門は直ちに飼犬イチの鎖を解き、イチに声援して熊と格闘をしめたるに

最初は双方とも負けず劣らず噛合ひしが、十郎左衛門の叱声怒号して声援し効、空しからず、イチは逃げる熊を乗り越え追いかけ、遂に熊を其の場に噛み斃し、凱歌を挙げて引き取りたる。


網走は猟師が鉄砲で撃ち、そして定山渓の山奥では犬が噛殺すと、春の熊も受難続きである。
この時代の熊は生活上の脅威という認識だから、撃ち殺すが当然である。

網走の熊は今は浜辺に降り立つことなぞすっかりなくなったが、札幌は未だに熊が出てくる。
でも今の熊に対する認識の変化については、今年の記事で垣間見ることができる

2012年(平成24年)4月23日 J-CASTニュースより


★ヒグマ射殺の様子をテレビが放映 「なぜ殺す」と札幌市に苦情100件

・札幌市の民家近くに2、3歳と思われるオスのヒグマが一頭出現し、北海道猟友会のハンターが猟銃で駆除した。この様子がテレビのニュースで流れたことがきっかけで、札幌市役所には100件を超える電話が入り、その大半は「なぜ殺した!」という苦情だった。

札幌市役所では、本州に生息するツキノワグマに比べてヒグマは比較にならないほど巨大で凶暴なため駆除してきたが、これからは山に追い返すなど別の対策を検討しなくてはいけない、と頭を抱えている。

駆除されたヒグマは体長が135センチ、体重が120キロほどだった。2012年4月19日、里に降りてきたことが確認され、翌20日の午前6時ごろには民家から約20メートル離れた林の中にいた。
人を怖がる様子はなく、このままでは住宅街に進入する心配があると判断し射殺した。この日、近隣の小学校では子供に親が付き添って登校させる姿が目立った。

ヒグマが射殺される様子を20日に複数のニュース番組が放送したところ、直後から札幌市役所の電話が鳴り続けた。環境局みどりの推進課だけでこの日60件近くあり、これまでに100件を超えているという。メディアからの問い合わせを除くと全てが苦情で、「なんで殺したんだ!」「山に返せばいいだけなのに」といったものに加え、「何も悪いことをしていない若いクマなのに・・・」と電話口で泣く女性もいたという。全ての内容を細かく調べてはいないが、苦情は札幌市内からのものではなかったようだ、とみどりの推進課では話している。

みどりの推進課によれば、ヒグマは大きいものになると体長が3メートル、500キロもあり非常に凶暴だ。小熊であったとしても人を恐れない場合はやがて大きな被害をもたらす可能性があるため射殺してきた、という。しかし、今回のニュース映像がショッキングに受け止められ、苦情が多数寄せられた。これからはすぐに殺したりはせず、山に追い返すにはどうしたらいいのかなどの検討を始めているという。(抜粋)


動物愛護という精神が広くいきわたった現代の世では、凶暴なクマとて「駆除」することは容易ではなくなりつつあるようである。


熊が出てきたらびっくりするのは今も昔も同じだが、小樽ではあわてん坊のこんなニュースが・・・

1912年(明治45年)4月24日 北海タイムス


船から海中に飛び込む

小樽港停泊中の大三印所有・樺太丸乗組コック・徳島県生まれ小倉龍蔵(三四)は元大礼丸水夫たりし縁により、二十二日大礼丸に乗り込み、ご馳走酒に酩酊し管巻き居る折しも、大礼丸は正午の出帆時刻
となり黒煙を残し港外に前進し始めたれば

小倉は狼狽一方ならず、甲板に立ち、酔いに乗じて前後の思慮もなく陸上へ泳ぎ行かんともんどり打って海中に飛び入り泳がんと焦るも、着衣のままとて身体自由ならず、あわや土佐衛門と改名するの危うきに陥り、浮きつ沈みつあるを折よく出帆の帆船・勢至丸(百七十八石積)が通りかかり、船頭渡辺幸太郎外三名は伝馬船を卸し、小倉は近寄り救助し、斯く水上署に届出でたれば、同署は保護の上、稲穂町伊藤寄宿所・山本鶴作(四一)に引渡したり。



船乗りが旧友と再会し、ついつい深酒・・というのはあるだろうが、それを相手の船でやってしまったためにあわてて小樽の港へダイビング。そのまま乗っていたら樺太まで運ばれてしまう。相当焦っていたのであろう。
このような「笑い話」がニュースになるというのもいい時代である。今はテレビはケガしたとか死なないとニュースにしないし、新聞も結局無事というニュースを収容するスペースが今やないものである。


さて、本日最後は後日談エピソード

1912年(明治45年)4月26日 北海タイムス


奇特な床屋の主人
本紙の記事を浪花節にし哀れの一家の義捐を集む

札幌郡厚別村厚別停車場前・理髪業大阪床主人・大阪作太郎といふ人は常に浪花節を好み、南部坂でも高田の馬場でも頗る器用に唸り出す所から村内の評判となり、当人まだ自ら"桃中軒作丸"と号して、美しい咽喉を村人に聞かせ、我れ人互いに楽しみ居りしが、

去る四日本紙に掲載したる「斯の如く哀れな健気な娘は逝けり」と題せし記事を読みて、作太郎氏は甚く(いたく)野口ヒワ一家の窮状に同情を寄せ、爾来該記事を再読尽くして暗誦し、それより更に其の暗礁したるものに対して節を附け、之を当人の麗はしい咽喉にかけて見ると立派なる所の長歌一席に留まりしかば、作太郎氏は大いに喜び、世の中は持ちつ持たれつにて、お互いの愛別離苦は明日をも計られぬとて、このことを村人に吹聴し、去二十三日「哀れなる野口ヒワへ義捐のためなりと」て浜旅館主に交渉して同館を一晩無代にて借受け、桃中軒作丸事、大阪作太郎氏が素人浪花節を開催したるに

何がさて、日頃作丸先生の美音を歓迎したる人々ドヤドヤ参集し、作丸先生の哀れなる語りにもらい泣きしたるは勿論、其の場にて我も我もと寄贈の申し出あり。

合計八円九十五銭に上りたれば、大阪氏は右の全員を本社経由にて野口ヒワへ贈呈し呉るやう依頼ありたれば、本社は直ちに野口ヒワへ届けたる。



この話の元となる野口ヒワ一家の記事は、この明治末年記の3回目に紹介した。

今でいう「チャリティーコンサート」のさきがけである。
ただし、歌が「浪花節」というところはさすが明治である。


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2012年07月21日

明治末年北海道記8:1912年4月28日札幌のサクラ予想

昨日までのスッキリとした青空ではなく、少し白っぽい空。
それでも日差しは強く、南北海道の高校野球も今日が準決勝。決勝に勝ち上がった札幌日大と札幌第一が明日甲子園をかけて戦う。

今春の全道一だった北海も今日敗退、選抜に出た北照も姿を消すなど、なかなか一発勝負のトーナメントの勝ち上がりを予想していくのは難しいものである。北北海道などは、選抜出場の女満別が地区予選の初戦敗退という有様である。

日々の天気予報も同様に、今の技術をもってしても完全に当てるのは至難の業である。
しかしそれ以上に難しいのが「サクラの開花予想」である。
本州方面はまだしも、北海道は開花前後にあたる4月下旬から5月半ばにかけては気温変動の大きい時期にあたるため、大きく外れやすい。去年も今年も、気象協会は胸を張れる結果ではなかった。

さて、100年前。明治の末にサクラ開花予想など、それは無茶な話だったと思うのであるが、測候所の技官が予想している記事をみつけたので見てみよう。

1912年(明治45年)4月28日 北海タイムス


春寒み円山の桜花は何時咲くか

過去十年間の統計によれば四月に入って平均温度摂氏零下に降る事はなかったそうだ。

今年は(四月)一日から五日までの平均が零下一度。此(この)寒さは本道固有の気候ではなく、大陸方面に頻々と低気圧の起るのに因るので、此の低気圧が北陸から日本海沿岸を襲うて何時も寒い風が吹きつける。

東京では早い桜が三月二十六日、遅くても四月六日には咲く。
今はモウ躑躅(つつじ)に藤に牡丹に、紅紫爛爛(こうしらんらん)の最中。

当地ではヤット庭の隅にクロウカス(クロッカス)が咲いて居る時節。而も(しかも)今年は四月の末に雪さへ降って、尚今後如何に変わるかは知らんが、大抵今日迄の平均温度を見ると、当地の桜開花期を預言する事が出来やう。

学者の言ふ所は、摂氏五度の温度で咲き、一度に付いて四日の遅速があるさうだが、寒い土地ではもっと低温度でも咲くやうだ。

尤も(もっとも)一つ土地でも風当たりや日の受けやうで一週間も十日も違うが、例の円山の桜に就いて、測候所米田技手の調査に由れば、今年は五月十七日を以て満開とし、昨年より五日ほど遅れるさうだ。

観桜会や遠足会も其の頃を目当てとして間違いが無いといふ事だ。



どうやら当時は「予想」ではなく「預言」とされていたようだが、何らかのデータを根拠に予想していることは「調査」という文字が見えるように明らかと思う。

その予想であるが今と違って満開予想である。「5月17日」と現代同様日付指定というところが、当時の技術としてはなかなか思い切っているのではないだろうか。

新聞に掲載されたこの桜満開予想を元に観桜会の予定を決めた読者も当然いただろう。このあたりは今と同じであるようだ。

もちろん、この「調査」による「預言」が当たっていたのか。「検証」はもちろん必要である。
ただ、札幌管区気象台には1952年以前の生物観測データは既に散逸しているらしく、保存されていない。其の上、今と違って標準木などもないから、正確な当たり外れの検証は無理である。

ということで、何時頃が円山の桜の見ごろだったのか、5月の記事をあたってみると・・・

1912年(明治45年)5月4日 北海タイムス


円山の花便り

糠賀宮司(ぬかが・札幌神社宮司)往訪の記者に語って曰はく、今年は気候甚だしく遅れたが為めに一般の人方は桜も余程遅かろうと懸念されて居る様だが、昨今の好日和で境内百余本の桜はいずれも蕾が俄かにふくらんで、梢は皆紅(くれない)を吹出して居ります。

私が神社に赴任して以来、五ヵ年の日記から拾い出した花の咲きかけと其の見頃を申しますと左記の表が出来ます。

年次        咲かけ      観頃(みごろ)
(明治)四十年  (五月)三日ごろ (五月)九日十日頃
四十一年     五日頃      十一日十二日頃
四十二年     二日頃      七日八日頃
四十三年     四日頃      八日九日十日頃
四十四年     二日頃      七日八日頃

以上の如くで、今年は気候が遅れた為めにやや遅い様でありますが、五日はたしかに十数本は咲きかけて、九日十日十一日十二日の日曜日頃は最も観頃と思ふと

斯くて宮司と共に連れ立って境内を廻って見ると、大鳥居の並木の老木は将に蕾を破らんとして居る

花見茶屋も八銭屋、叶や(かなや)金枡国一、三島屋、竹の屋などは今日から開店して居た
(三日朝記)


いきなり、大はずれの予感・・・

そして続報はわずかに3日後。

1912年(明治45年)5月7日 北海タイムス


お花は見頃

▼見頃は何時?

例年より遅からうと噂された円山の桜は、一雨毎に色づいて早や一株二株は蕾を破って気早い連中の遊び心をそそって居るしたが、見頃と云えば十日を過ぎての一週間、先ず十二日の日曜を懸けての二、三日が咲きも揃わず散りも失せず、ここ千金の花の山と謂ふ所。

▼鉄道の大奮発

然ればにや鉄道管理局では十日から十二日迄を限って、中央小樽、軽川より白石、岩見沢より札幌迄二、三等客車の割引をして遊覧者の利便を計るとか何がさてお商売柄抜け目のないこと定めし、押すな突くなの盛況でがな御座ろう。

▼花見車の新設

花見る人の長閑でさえ無風流なるに、まして花見る人に懐具合の悪かろう筈もなし
去りとは入らざるご配慮、十銭二十銭のはした銭なら、それ持てとの御じょうが出ればいざしらず、先ず何よりの安直主義均一、花見車の新設こそ最も時期に適したと感ずってか、札幌停車場組合の人力車は開花期間中、停車場円山間往復五十銭の花見車を挽き出すとか、御用の方は桜花の旗の目印にご遠慮なく召しましやう。

▼由仁団体の桜狩

花見の魁け、これ見ヤシャんせ、揃いの手拭いサットばかりに由仁団体五十余名は十二日の日曜かけて円山に乗り込み、ビール(サッポロビール)に製麻(帝国製麻)を見物する手筈だとか。

何れは咲いた桜にササヤートコセの賑わいを呈すであらう。
先ずは一筆花便りハイサヨナラ
(春公)



5月に入って一週間、境内の桜の木は徐々に咲き出してきた。
この時点で円山の桜は5月12日頃が見頃!という流れにすっかり変わってしまっている。

1912年(明治45年)5月10日 北海タイムス


咲た咲た 社頭の花はもう散るのもある

今年はしばしば日本海側より低気圧の襲来に遇ひて、測候所の観測には十七日頃が花の盛りなるべしとありたれど、何がさて世の中は三日見ぬ間も油断はならず、円山社頭も花の梢はハヤ一本、昨日今日散り初めたるがあり

鳥居側の老樹も芝生の若木も今満開か十数本。此の十二日の日曜まで一週間が花も人も盛りの山なるべく、花下の売店も悉皆立ち揃ひ、三島屋、国一、金枡、福井、桜ずし、八せんやなど暖簾続きに赤前垂の姉さんが白粉(おしろい)コテコテ塗ったくって、頓狂な声出して客を呼び、御膳御肴何でも仕度は整ひたり

花見の酒に野暮いふ向きもあるまじけど、売店取締の協定相場は左の通り

▼麦酒一本三十五銭、▼大坂酒一本十八銭、▼サイダ一本十五銭 ▼肴一人前二十銭 ▼鮨一人前十五銭 ▼茶十銭



ついに測候所の予想は見放された形に。。。

5月10日は札幌麦酒会社の観桜会が開かれ、12日は先の記事にもなっている由仁の団体も来札するなど花見はこの頃をピークに盛り上がる。これはこれで面白いので別に取り上げようと思うが、さて測候所が予想した17日頃はいったいどうなったのか、先を急ごう。

1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス


名残の花所々

今年の花の盛りは十七日と観測されて、まだ日もあらうと思う間に早くも円山社内の梢がほころび初め、十五日の真っ盛りは丁度雨に降り込められて、心あわただしく過ぎ、昨日、今日の空はハヤみずみずしき新緑の色をはなりぬ

▼円山社頭
一樹も残らず散り果てて忌垣のあたりは踏まなく憎き落花の雪白し
昨日も五、六の団体花見客あり、散り行く花も奥深く本日の日曜が好晴ならば人でも亦多からん

▼御料局の桜
北一条西十一丁目の一般御料局支庁の後庭は小山の上の山桜が散り終りて竹垣に沿てたる芳野桜の一列、今が真っ盛り。明日はハラハラと散り方をるべく
椴赤松(とどあかまつ)などの背景、殊に美し

▼芳野桜の真盛
中島公園は西の宮入り口より職業学校裏にかけてる一区画、既記の如く濃き薄き満だの雲に包まれて、春は今ここにや酣(たけなわ)ならむ。

岡田花園はおんこ(?)の刈り込み美しき生垣の上に芳野桜の今真っ盛り
彼岸桜も咲き垂れ、小山の後ろは小梅林。是も今咲き匂ふ春の名残なり



どうやら17日の時点では円山の桜はすっかり散ってしまっていたようだ。

15日は花盛りだったということだから、大目に見て2日のずれ。でもやはり4〜5日は予想よりも桜の見頃が早かったというのが当時の世間の目であろう。

あれから100年、今年4月25日に気象協会が発表した札幌のサクラ「満開」予想は5月7日。
そして実際に満開となったのは5月2日。予想よりも5日も早かった。

100年経って進歩していないわけではないが・・・結果が伴わない。
予測に対する結果を見るとき、胃の痛さ、心の痛みは、100年前と共通・・・というより今のほうが、はるかに上であろう。と申し上げておく。


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2012年08月30日

明治末年記北海道記9:1912年4月29日夕張炭鉱爆発事故その1

8月も残すところあと2日となったが、ウルトラ残暑ここに極まれりというか、台風が持ち込んだ暖気がフェーン現象を引き起こして予想通りの猛暑。札幌32.9度に常呂34.6度。函館もまた31度を越え、室蘭も真夏日。

お盆前の暑さは「どうせ北海道の夏は短いから」「お盆過ぎれば」などと言って楽しむところもあるが、この終わりなき?残暑は精神的にかなり堪えるものがある。

さて、今回から数回にわたって書き連ねるのは、衝撃的な大事故の話。
一瞬で二百人以上の命が奪われた夕張炭鉱爆発事故である。

第一報は以前書いたように、4月30日付けの北海タイムスに掲載されている。
今回はその記事から書き起こしていく。

1912年(明治45)年4月30日付け 北海タイムス


稀有の大爆発大惨事
坑内二百余名の坑夫は悶絶か酸鼻の極

▽爆発の状況
昨日午前十一時頃 夕張第二斜坑内に坑夫二百六十三名 係員九名入坑して従業中 突然天地も崩るるばかりの音して瓦斯(ガス)の大爆発あり

其の勢 猛烈を極め 主要各坑道は一時に落盤し 余勢坑口に吹き出して其の附近に在りし事務室 安全燈室 扇風機場等を半ば破壊し 坑口附近にありし運搬夫六名は即死せり

内外の通路全く閉塞したるため坑内の状況を詳らか(つまびらか)にする能はず 取り急ぎ坑口の開掘に努めつつあり

(二十九日午後二時二十五分鉱山監督署発電)

▽爆発の原因
鉱山監督署の稲村鉱業課長は語って曰く 未だ詳報に接せざるを以て爆発の原因を知る能はざれども
去る三十八年爆発当時の如く安全燈より発火したるものにあらざることは之を断言することを得

当節は既に坑内外の気温殆ど平均し 殊に同坑は絶えず通風器を以て坑内の気温を緩和し居るを以て 之がために安全燈に異状を来す様な事は万々なかるべく 其上現時使用する所のウルフ式安全燈は極めて堅牢かつ安全の構造なれば 其の熱度昂上して瓦斯を発火せしむる様な事は到底想像するを得ず

察するに坑道の掘進に従ひ 或る断層に衝き当り(つきあたり) 工夫が爆発薬を以て作業中 断層下に潜在したる濃密なる瓦斯が勢いよく噴出し来りて 遂にかかる大惨状を現出したるものならむ

而して坑中の状況は内外の通路全く閉塞したるを以て 坑口を掘り開けざるうちは之を知に由なきも 幸ひに落盤のため圧死を免れたる者も 瓦斯の毒気に打たれて呼吸逼迫し悶絶して遂に斃るるの外なからむ

同坑は本道の炭鉱の中 もっとも重要かつ有望のものなるに 今や此の稀有の大爆発のために滅茶々々に破壊され 了り(おわり)たるは憎みても余りある事なり云々



1912年4月29日午前11時。北炭夕張炭鉱・第二斜坑で大きなガス爆発事故があり、内部は大規模に落盤した。坑口も崩れて埋没するということだから、相当な大きな爆発であったことだろう。

早くも即死者六人の情報が出ているが、坑口がふさがっているため内部の状況はわからない。
最初の見解では爆発薬(ダイナマイトか)が原因と推定されていることがわかる。

続いて爆発の模様をありありと描いた第三報が飛び込んできた。


▽第三報

本日午前十一時 夕張第一鉱第二斜坑方面に当たり 轟然たる大音響を発すると同時に黒煙濛々(もうもう)として天に沖す

スワ瓦斯だ

すぐさま現場に駆付くればここに入坑する家族等は坑口に群集し坑内の安否を気遣いつつ悲鳴を上る様 阿鼻叫喚を眼前に見る心地して専た凄惨の情に絶えず

岩瀬鉱長は既に鉱務所にあり 諸般の指揮をなし 入坑坑夫の救護方法につき他の役員と共に凝議中なり

登川分署よりは後藤警部部下を引率して現場に臨み 各部署を定め坑口の警戒 其の他の取り締まりに従事せしめつつあり

坑口に於いて就業中なるピン切 其の他雑夫中の即死二名重傷四名を出せしが 是等は出張医員に於いて応急手当をなし 夫々(それぞれ)処置をなし 漸く正午 阪口主任技手は小頭四名を引率し坑内の実況調査のため入坑せしも 坑内何れも爆発崩壊して進行する能はず 目下坑夫を入坑せしめ是等坑道の掘割に従事しつつあり

坑内に於けるピン切 其の他運搬夫の屍体を搬出せるもの午後四時までに川西外十一名にして 此等何れも屍体は黒焦(くろこげ)となりて 皮膚糜爛(びらん)し酸鼻の様 筆紙に尽し難く

入坑坑夫は、二百六十三名 其の他雇員・木村亀太郎外小頭九名にして 坑道閉塞の結果坑内内部の消息をば知る能はざるも 全部死亡せるならんと察せらる

爆発の原因及び個所判明せず 扇風機の破損せるものは直ちに応急修理をなし通電を開始し 坑内通風に便せんと各係員必死となりて尽力し居れり

今回の瓦斯爆発は 其の勢頗る(すこぶる)猛烈にして 坑口より連続せる輸送車十五間余は微塵に粉砕せられ 各風井、及び風道は何れも破壊せられざる所なく 坑道に入坑坑夫の多数なる炭鉱に於ける未曾有の大惨事にして 少なくとも死体全部の収容迄には数日を要するならんと

瓦斯爆発の急報を聞き 第二斜坑方面に群集せる人夫実に数千人の多きに達し 其の雑踏 鼎の湧くが如く市街地より同坑に通ずる道路は絡駅として絶えず

(二十九日午後五時夕張電話)


大音響とともに黒煙がもうもうと上がる。
坑口より15間=30メートルくらいの距離にあった輸送車も木っ端微塵という爆発力である。
入り口付近は爆発現場と比べれば相当な距離だったはずだが、それでもものすごい勢いで爆風が襲ったことが紙面からみてとれる。

263の命の灯火を、一瞬のうちに吹き消した。そんな大爆発だったのか。

さて、この爆発事故を起こした北炭夕張炭鉱・第二斜坑とはどのような構造だったのか。

翌5月1日の紙面に続報が出ている。なぜか第二報である。

1912年(明治45年)5月1日 北海タイムス


▽第二報
大嶋特派員報

今回爆発せる夕張第一鉱の第二斜坑といふは 市街地の下に当たる小山続きにあり、札幌にて言わば円山程の大きさの山が斜面を削れる灰色の岩石を露出し 正面には薄き土壌を被りて 其の上に熊笹繁り 楢樹(ナラの木)もあり

斜面左風道には煉瓦を以て築きし高さ三間弱のアーチ形坑口ありて 軌道を通じトロッコ出入りす

其の右に並びて今一つ小さき坑口あり 之を人道となす 電話を通ぜり

外観何れも鉄道の随道(トンネル)に異ならず 小山の麓には豊平川よりやや小なる急流流れ 坑口の前を右折して市街に至り 此の急流には橋を架して両穴口に出入せり

▼斜道とレベール
橋を渡りてアーチ形の坑口を入れば北東に向かい斜めに廻行して一種の坑道あり
其の坑道を下ると少許にて左に平坦の軌道あり 之を北一番坑とす

其レベールを辿りて奥へ奥へと開穿せる前の坑道を進むこと三百尺ばかりにて左手に北二番坑あり
次に二百尺ばかりにして三番坑あり北四番あり

此の坑道の内部は三尺位の木柱ありて支え 坑内の切端 即ち採炭場には白粘土を張りて 空気の流通を按配し 又特に六尺四方の風道を作りたる第二斜坑には前方四個所の扇風機ありて、内部の空気を排出する装置なり

夕張炭鉱第一図(19120503).JPG

▼爆発後救急工事
今回の爆発は前記レベルの奥より起りしものの如く、レベルの崩壊 最も大なり

北二番の二坑道の如き 爆破後石炭に移りて火災を起こしたるものの如く 之を密閉して防火せり

其の他各坑道は落盤のみに止まり 殊に扇風機の無事なりしは幸福にして そがため救急工事の坑夫らも坑内に侵入するを得る次第なり

同日坑内に就業せし者は北一番に五人 北二番に九十四人 北三番に八十八人 北四番に九十名なるが レベルに入るより先ず坑道にも崩壊あり

坑夫らは僅かに匍匐(ほふく)して前進する有様なれば第一坑道の落盤取り除けを了し それより漸くレベルに入り得る手順にて 中々容易なる作業にはあらず

岩瀬鉱長部下を督励し昼夜兼行にて死体発掘に全力を注ぎ 岩見沢より西炭鉱部長の来援あり
坑口隣りの鉱務所には数百の坑夫等群集し金属製の長さ一尺五寸ばかりなる円筒安全燈(オルラ式)をとりて右往左往 傍へも寄れぬ雑踏なり

(三十日午後三時夕張電話)


坑内では火災も発生し、鎮火のためには坑内の一部を閉塞し酸素を断つのがセオリーである。
しかしそのことは同時に、もし生存者がいたとしても窒息死させることも意味した。

全員絶望視されるなか、坑夫の家族はいちるの望みをもって炭鉱につめかけている。
その姿は、まさに悲惨の極みであった。

この5月1日の紙面では早くも義捐金募集の広告を北海タイムスは掲示している。


●夕張炭山爆発惨事 義捐金募集

此次夕張炭山爆発の大惨事は確かに未曾有に属するや言ふを要せず
其の実状に至っては我社特置通信員により取りあえず報道せられたるが
更に我社特派員の出張現場を視察せる忠実なる報道に依りて 読者の明悉(めいしつ)せらるる所ならん

憶ふに暗黒の地下に労役して日夕黒卵の危うき運命に弄ばれつつある彼等坑夫ほど世に薄倖なるなけん
偶ま爆発と共に二百有余の生命を絶つ鬼哭愁々名状すべくもあらざるなり

況んや其の遺族ら坑口に参集して熱狂するの光景真個哀絶悲絶苑としてうる如し

されば我社はこれに率先、大方の義心に訴へて夕張炭山罹災者同情義捐金募集の挙をなす

其の規定は左の如し
切に全道我読者諸氏の満腔の賛助義捐あらんことをこい願う

▼義捐募集規定
一、義捐金額は一口五十銭以上とす
一、募集締切期日は来る五月十日とす
一、義捐者は其の住所姓名を明記すること
一、義捐金募集総額の分配方法は炭鉱汽船会社に一任す
一、義捐金の取り扱いは本社及び本社支局とす

明治四十五年五月一日
北海タイムス合資会社


つづく
posted by 0engosaku0 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月31日

明治末年記北海道記10:1912年4月29日夕張炭鉱爆発事故その2

厳しい残暑が続く中で今年の8月は過ぎた。
当初「2010年のようなことはない」とのことだったが、結局残暑のレベルだけをみれば2010年に匹敵、もしくは超えるようなレベルであった。

原発の止まる中、電力需要がもったのも節電の努力の効果のたまものか。
9月もまだまだ太平洋高気圧の縁で、暖湿気の流入する日は続く。蒸し暑い日が続くのだろうか。

さて、100年前の話についても続き物で、今回は夕張炭鉱の爆発事故についての第二話。

前回は初期報道の内容が中心であった。今回は、事故の発生時そしてその後に何を見て、どのような光景が広がっていたのか。その内容について書き起こして行くことにする。

5月も3日ほどたつとぽろぽろと体験談や見聞記が紙面に出てくる。

まず、事故から一週間後の記事から。

1912年(明治45年)5月6日 北海タイムス


▼悲愁の涙 乾かざる坑夫長屋

▲阿修羅の衝
怪しい地響きを聞いて駆け出した者は留守居のおかみさん計りではない
男も女も又町の者も皆 北の方へ走る

川上の坑口が見るとモウ解った 第二斜坑の橋が飛んで了った

大分怪我人があった風で 鉱務所の中は煮え返っている

人の言葉だか獣の言葉だか分らない 怒る声 罵る(ののしる)声 泣く声 叫ぶ声
色々な者が合わさって 阿鼻叫喚阿修羅のちまたさながらだ

(第)二斜坑へ行った家の者はモウ目付が変わっている

髪振り乱して跣足(はだし)のもある

洗いかけたオムツ片手に狂い廻るのもある

色々な噂を聞けば聞くだけ益々望みがなくなった。


これはある夕張住民が語った事故直後の鉱務所の様子であろう。

続いて炭鉱のそばの登川第二小学校の様子も記されている。


▼第二小学校

さういう内に学校の方も騒ぎ出した
坂の上の第二小学校では子供等が外へ駆け出して見ている

「瓦斯だ々」
「第二斜坑だとヨ」
「辰ちゃんの家は二斜坑でないか」
「さうだべ俺方の藤本もヨ」

教師が入り口から手招きをして
「コラコラさう勝手に出ては可かん(いかん) 皆此方(こちら)へ入りなさい」

其所(そこ)へ渡辺校長が来て
「君どうだ今朝入坑した家の子は帰さうぢゃないか」
「そうです そういうのが大分沢山あります」
「一旦家へ帰って見て 変わりがなかったら又学校へ来るやうに言い付けて呉れ給へ」



学校にいた子供たちにとって、この不吉な出来事を目にしては勉強どころではなかった。
この第二小学校に通っていた、ある児童についての記事がある。


▼夫婦共稼ぎ

阿部円蔵(三三)は岩手県の者で二番坑に坑夫をしている
妻トメ(二八)も同じ坑の運搬夫をして二人の子供を育て、長男・辰治は今年九つになるが第二小学校の尋常二年生だ。

円顔の頑丈な体格で 随分腕白(わんぱく)だが
「家へ帰って見て来い」と言われて三番坑上の長屋へ急いで帰って行った

家には誰も居ない
隣の小父さんも何処か行った

辰治の弟で秀三郎という七つに成るのが一人ポツネンとして何処からか帰ってきた。

「高橋の小父さん二番坑さ行ったゾ」
と、短い木片を持ったまま家の中へ入って来た。

「父ちゃんドウした」
「ウン父ちゃんも母ちゃんもまだ来ねえ」

「秀 お前 家に居れナ 俺二番坑へ行って見て来るから」
「いやだ俺も行く」

「お前なんか歩けるもんか チャット行って来るから待ってれ」
「インヤ俺も行く」

とうとう二人で出て行くと長屋の角で高橋の小父さんに会った

「ヤ、辰に秀か 可哀相だがモウ諦めれ・・・・・・
 今朝チャンは何か云って行ったか?」
「いや何も言わねぇ」

「おっかァも一緒に行ったか」
「うん 俺に弁当を拵えて(こしらえて)呉て 秀もおとなしくせえョって言って行った」

「うん」
高橋の小父さんは涙が出てきた。

すると辰治も鼻声になる
「チャンもおっかも帰らねぇのか」

「マア待て家へ入れ」

三人は暗い長屋の中へ入った


このような光景はひとつやふたつではなかったはずだ。
約270の命の数だけ、この光景があり、涙の量は何倍にわたっただろうか。

この辰・秀兄弟の両親は帰らぬ人となった。

1912年5月5日北海タイムスより

▲兄弟孤児となる

岩手県生まれ坑夫・阿部円蔵(三三)一家も亦た(また)悲惨の極みなり
二十九日には円蔵および運搬夫なる妻トメ(二八)と共に北三番坑に入り、夫婦共惨死を遂げたり

同夫婦は一昨年当山に来たり、両名共稼ぎをなせしが夫婦の間には長男辰治(九つ)とて登川第二尋常小学校二年生と次男秀三郎(七つ)の兄弟あるが両親とも弊死せるより一朝にして二人は孤児となれるが

頑是なき子供の事とて両親の死を格別 意にも止めず 平然と遊戯をなし居るには付近の人々 貰い涙に暮れ居れりと


北炭夕張第二斜坑(19120503).JPG

1912年4月29日。夕張の空は晴れていたようだ。

同年5月5日の北海タイムスより


▼二十九日の朝

朝七時前に飯を済まして働き人が誘い合わせて出て行くと 一しきり(ひとしきり)長屋中がヒッソリする

夫から子供やお上さんが思い思いの事を始めるが 四月二十九日の朝はカラッと晴れた春日和であって 上(かみ)さん連は昼ごろ迄 井戸端で洗濯してるのが多かった

「安さん所のお上さん 未(まだ)治らなかったべか」
「未 寝てるさ 俺ハァ何より病気怖ねてば」
「真だ真だ 安さんも気の毒だハイ」

その時 底強い地響きがして ボーンという音がした

上さん達は弾き飛ばされた様に起き上がった
お互いに黙会した様に動悸が撃った

「何処だろ」

一人が真っ先に崖の鼻へ駆けて行った

内に居た者は一斉に外へ駆け出した

其の内に北の方で白い煙が立ち上る

「一番鉱だ」
「二斜坑だぞ」という声が聞こえる

「俺とこも二斜坑だ」
「安さんのお上さん寝て居なさい 俺行ってきてやるから」

モウ女たちは泣き声であった。

この安さんというのは大隈安五郎の事で、病める妻と子供とを置いて到底帰らぬ人となったのだ


青い空にごう音とともに立ちのぼる黒味がかった灰色の煙。

さて、この大惨事に駆けつけた官吏による談話もあるが、これは事件直後のヤマの様子を見た者の一人としての貴重な証言である。紹介しておく。

1912年(明治45年)5月2日 北海タイムス


夕張爆発現場を視察したる財部警務長の談

夕張炭山瓦斯爆発 実地調査の為め 二十九日道庁保安係勝田警部急行したるも事件は意外の大惨事なる為め財部警察部長は随員一名と共に三十日現場に急行、昨日(一日)午後四時半の列車にて帰札せられたるが来訪の記者に語る所大要左の如し

▼登川停車場
に到着したるは午後六時過ぎにして 現場は停車場まで約十八丁あり第二斜坑に着きたる頃は既に夕刻の七時頃なり

先ず炭山事務所に至り 岩見沢本社の西村採炭部長及び夕張炭山・岩瀬工長の二氏に就き各種の事実を聴取したるが
登川分署長の語る所に依れば同日午前十一時 突然地震の如き大音響を聞きたるは今回の大惨事を惹き起こしたるなり

▼第二斜坑は
夕張炭山の最も有望なる炭鉱口にして同山の三分の一は第二斜坑より採掘 今回の事は実に同山の致命傷とも云うべく
従来同坑は平素多少の瓦斯を発したるも 近来別に瓦斯の増加したるを認めざりしが 先々月頃坑内の或る一部に自然火気を発したることあるより推察するも 近来多少瓦斯の出で居ったことは明らかなるものの如し

第二斜坑の坑道は掘削三千二百余尺(約1km)にして之に第一坑より第五坑なり
発火の局部は未だ不明なるも第一坑第二坑の中間に火気あるを発見し、本官の到着したる頃はようやく四分板を以て仮密閉を為し終はりたる所なりしが 更にその危険を防ぐために角材と粘土を以て本密閉を決行して第一坑第二坑は密閉して暫く其の自然に任すより方法なく



次いで、夕張・登川分署長の後藤さんの話。

1912年(明治45年)5月4日北海タイムス


夕張炭鉱爆発大惨事

▼後藤登川分署長談
登川分署長・後藤雄之助氏は元札幌警察署詰時代より知己であった。

二日同氏を登川分署に訪問したるが氏の談に「珍事出来の当時自分は署の室にありて執務中、大きいというほどで妙に堪えるドンといふ音響に接し ハテ瓦斯の爆発ではないかと思ふでる所へ間もなく隣の炭鉱事務所へ第二斜坑の椿事が電話で報知があったので 本職は直ちに現場へ駆けたが

同坑は他坑より常に多くの坑夫が入坑し居る場所とて容易ならざるを感じ 一面分署員全部を召集し 諸般の救護任務にあたらしめるに

正午に至り坑口及び臨時救護所前まで死傷者を収容すべき病院付近まで頗る雑踏を極め 死体発見されたる被害者の遺族なる老幼男女泣き叫びて惨状を極め 見るも気の毒の有様であった

本職は事 容易ならざるとし道庁へも報告し、岩見沢本署へも応援を求め坑口前にある三十間余の建小屋を利用し ここに医師二名、分署より渡辺警部補、摂待巡査部長を配置し 収容したる死体を臨検して夫々(それぞれ)炭鉱病院に送り 高野院長医師二名、看護婦三名を配し死体の洗浄 包帯等に従事せしめ、尚ほ真谷地、万字、若鍋、新夕張、大夕張各地より医師・看護婦方応援に出張し、昨日夕刻までに死体四十四名を収容し悉く遺族に引渡したるが、いずれも四日三夜不眠不休の体に従事し居る次第で 兎に角今回の椿事は本道空前にして二百六十余名の坑夫や事務員に対しては何とも気の毒な次第である云々




一瞬で多くの命を奪ったガス爆発事故。
第一坑、第二坑では火災が発生したため、鎮火のための密閉作業が行われた。二番坑では94人が取り残された。
また、第三坑、第四坑は鎮火作業の間、死体の搬出作業が行われた。

記事をみるかぎり、まともにガス爆発を食らい、奇跡の生還をはたしたものはいない。

完全に爆発=即死となった模様で、この事故の爆発のすさまじさは想像を超えるものだったことをうかがわせる。

初期は事故の模様や惨事の状況を伝える記事が多かったが、このあと日がたつにつれて残された家族、葬儀のようす、遺体との対面と、悲しい記事が多くを占めるようになる。

これについてはまた次回。

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2012年09月01日

明治末年北海道記11:1912年4月29日夕張炭鉱爆発事故その3

9月1日となったが、実質的には8月32日のようなものか。
札幌は29.9度とあと一息だったが、今日も北海道は30度以上の真夏日続出。倶知安や江差は9月の記録を26年ぶりに更新し、涼しい浦河も29.9度。もうちょっとで真夏日の最晩記録を69年ぶりに塗り替える所であった。

一昨年に匹敵する記録的残暑はもう少し続きそうだが、今回も明治45年4月末に起きた夕張炭鉱の話を続けよう。

一回目に事故の概要、二回目は目撃談を中心にまとめてきたが、今回は被災者を扱った記事について取り上げる。

1912年(明治45年)5月3日 北海タイムス


▼遭難者と遺族

今日迄登川分署の調査によれば 今回遭難者二百六十六名の内 係員を差し引き坑夫二百五十六名中 二戸は家族皆死に絶え 八十八名は独身者にて遺族なく 百六十八戸の遺族は合計五百四十七名にて

是等は皆カツカツに其日を送る者多く 柱と便りし(頼りし)稼ぎ人に逝かれては取り付く島も無き者どもなり

死体の発見せられし者には葬送料十円 香典三円 其他重役より若干の弔慰金ある例なれど 未だ発見せざる者に対しては左様の取り扱いもあらず 困窮者に対し毎戸米二斗 味噌一貫目ずつを下げ渡し居れり


相当危険な労働だった炭坑夫だが、明治時代は賃金は安めで、それこそ「カツカツ」な暮らしだったようだ。
この時代、他の紙面でも見てきたが一家の大黒柱を失うということは、即、暮らしの困窮を意味していた。脚気のような病気でもなく、突然柱を失った家族の心中は察するにあまりある。

翌日の紙面に続く

1912年5月4日 北海タイムスより


▼棺の山

去二日は晴天とて 被害者の小頭 鈴木吉次郎の弟なる雑夫 鈴木金蔵の葬儀を始め。都合六個の葬送あり

いずれも遺族の兄弟妻子は涙ながらに哀れ気なる会葬に 村民いずれも同情せざるは無かりし。



遺体搬出は増えると同時に葬儀の数も増えていく。
そんな中、悲しみを少しでも癒そうとする人々の記事もみえる


▼奇特なる人

追分駅機関庫勤務 機関手・太田久治は二日炭鉱病院に出張中なる鈴木巡査に面会し 私は子供一人あるも斯かる椿事の場合困難する孤児あらば 二人位は引き取ってもよければよろしく頼む云々と申し出たりと

又登川市街地雑穀業・山田伝助は同日炭鉱病院に行き 遺族其の他の人々に林檎を分配せりと


孤児を引き取るとの申し出、少しでも心を和ませたいと林檎の差し入れ。
北海タイムス本社に寄せられる義捐金も増加し、この五月四日掲載ぶんでは総額は百円を超えた。

この日は、坑夫たちの置かれている状況がもう少しくわしくわかる記事も掲載されている。


▼悲愁の涙乾かざる坑夫長屋

▼夕張市街地
熊笹の繁った小山続きが両側から迫ってきて その間が細い谷となり 一条の急流が北から走る谷には鉄道が敷かれ 両方の山腹には一幅ずつ平らに削られて家が並び 店屋床屋飲食店銭湯旅籠屋 さういう者が大部分を占めて戸数は今七百六十もあらう

此の山の坑夫や炭鉱の社員を相手に建てる町だから探鉱の景気に連れて町の人が増えたり減ったりする

此両側の小山の中腹は家も無くなって痩せた柏樹がポツポツ立っている
そして北の方へ行くとあっちに一村、こっちに一村 坑夫長屋が黒く汚れて群がっている

▼炭山の坑夫
第一鉱は一年四十八万トン 第二鉱は十四万七千トンからの炭を出す

炭を掘る所は町から十四、五町も北の方に在り 軽便鉄道のやうな輸車路がゴトゴト入り組んでトロッコが坑口から始終ガタガタ響いて出たり入ったりする

輸車路の両側はまるで石炭だらけ
さういふ所で石炭を運ぶ箱車(トロッコ)を押したり 真暗な坑の中へ入って安全燈たよりに石炭掘り出したりするのが坑夫の仕事で 坑内の労働は八時間を限りとする

採炭はトロッコ一台十三銭位だから 馴れた者は一日に一円三十銭は掘る
未だ馴れない者や家族の多いものは暮らしに追はれる方で殊に病気が怖い

病気で働けない者には米噌を貸してやるが それが所謂サガリになるのだ

それで会社の方ではしきりに貯金を奨励し贅沢を戒め 又共済会といふ者があって困窮の場合を扶け合ふ様にもなっている

殊に此頃は坑夫の淘汰を厳しくするので昔のやうな無頼漢や乱暴者は跡を断って警察の厄介になる者が少なくなって居る。

飯場や坑夫長屋へ行って見ると小さい箱に土を盛って葱菊(ねぎぎく)や石竹やモットハイカラなのはカーネーションなんか植えているのがある。

▼飯場と長屋
飯場といふのは独身者の坑夫の寄宿舎で 松尾とか小林とか高橋とか皆其の主人の名が附いている

三間に十七、八間もあるやうな長い建物の戸口に入ると一しきりの土間があって炊事を遣って居り 左の一室は取り締まり室で右はぶっ通しに十間もある細長い畳敷きで 枕元には窓があり足元に夜具を畳んである

独身者はここで飯を食べ 夜はズット一列に並んで寝るのだらう

飯場は小奇麗に整頓した建物だが、其の周囲の坑夫長屋になると随分奇麗でない

是は三間に二十間もある長い汚れた建物で 小山の中腹を上へ上へと二十棟も三十棟も列で建っている。



明治末の夕張の風景、そこに暮らす炭鉱にかかわる人たちの模様が端的にまとめられ、風景が頭にありありと描かれるような記事である。

さて、翌五月五日になると、紙面には遺族の様子を取材した悲しい記事が満載となっていく。

1912年(明治45年)5月5日 北海タイムス


▼遺族の現状

生地獄に等しき大椿事に遭遇し 二百有余の生命を絶ち其の遺族等は 坑内より搬出する屍体の我が子か我が父かと坑口又は病院前にい集して 狂せん計り泣き叫ぶ悲惨の光景には同情の涙に暮れぬものなきが、尚ほ其の現状に至りては 父に離れ夫に別れ、我が子に先立たれ其の日の糊口に窮するものあり、孤児となりて茫然彷徨するあり、真個悲劇の是より大なるはなかるべし、

記者は現場または病院警察と奔走に忙殺さるる閑を偸みて(ぬすみて)香山特派員と是等遺族の現状を調査したるものを左に掲ぐ

▼木村雇の遺族
炭鉱汽船会社の雇・木村亀太郎氏(四六)は炭山丁社宅 即ち第二斜坑左横手に居住し 今回の罹災者中の頭梁株なり

家族七人あり同氏は日露戦役に出征し戦功ありて勲八等を有し 常に会社に於いて温厚と職務熱心とにて信用あり

罹災当日も二百六十余名の雇員坑夫等を督し 率先して坑内に就業に入りしが終に職に殉じたる人なり

同家を訪問せる際 未だ死体発見されず 令息等が弔う題目の声 憐れに聞こゆ

▼夫の死に異状
同会社松尾勝氏(二七)は大分県の人

去(明治)四十年工手学校採鉱冶金科を卒業後 福島磐城(いわき)炭鉱より昨年二月当山に転せし計りの人にて
氏は常に炭鉱の竪坑(たてこう)掘進術の研究に熱心にて 当山にても忠実に就職し 今回も坑道掘進監督として入坑中不幸にも災厄に罹りしにて

遺族として郷里には父寿七郎(六一)母フチ子(五七)と実兄二人あり

当山には目下 登川第二小学校の女教員たる令閨(れいけい)キン子(二一)あり
キン子は始め学校にありて第二斜坑爆発の椿事を聞き、夫の身の上 若しもの事なきやと心痛し居たるを人ありて松尾氏は無事なりと報じたるより大いに安心せるが、午後に入り夫は全く変死せる旨再び耳にしたるため 女の狭き心より大いに驚愕して卒倒し 人々の介抱に蘇生なせしものの 遭難当時は一時逆上して精神に異状を呈せし如くなりしも 松尾氏の友人数名に慰められキン子は昨今に入り 只管(ひたすら)夫の死体発見を待侘び(まちわび)仏事に余念なしと

▲遺族は十人
今回の惨死者中 遺族の最も多きは小頭・本田喜久治(四六)一家にて

喜久治は宮城県仙台市の生まれ 目下炭山丁来社宅に居住し 小頭にては幅利きの男なりしが 終に罹災の一人となりたり

然るに同家には妻テウ(四五)長男親光(二五)次男仁吉(二一)長女イナヨ(十八)三男三男(十六)四男茂(十三)二女セツ(十一)三女キクエ(八つ)五男五男(五つ)テウの母(六一)の十人あり

尤も(もっとも)長男親光は目下追分停車場に 次男仁吉は当炭山一番坑に従事し居れど 兎に角十人といふ多数の家族にて親光仁吉両名は本田家の今後に対し、仏前に額を集めて苦心し居る旨 往訪の記者に話し居れり

▲鈴木兄弟の死
今回の悲惨を極めし丁末社宅に住む小頭・鈴木吉次郎(四一)の一家にて 爆発の際は吉次郎及び弟金蔵(二四)の兄弟共に悲惨の死を遂げしにて 金蔵の死体は去る三十日発見したるも兄・吉次郎の死体は今に発見されず

家族は四名あり、長兄・鈴木岩太郎氏は空知郡歌志内村にて請負師を業とし今回の椿事にそうそう駆けつけしが季弟金蔵の死体だけ発見せしゆえ、去二日漸く葬儀を済まし、今は只だ吉次郎の死体発見を待つのみ、奥座敷には燈明の煙り絶え間なし



270名ほどの犠牲者がいるのだから、このような話は、ほんの氷山の一角、かけらにすぎない。

家族が炭山にいるものについてはこのような話が語られて出てくるが、独身者については故郷が遠いこともあり、全く記事にはなっていない。

遠く郷里で、出稼ぎの愛息の死を突然知らされる様は、戦時中の戦死の電報を受けるよりも、ある意味衝撃の大きいものだったかもしれない。

残暑が終わる前に?もう一回続く予定・・・

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2012年09月06日

明治末年北海道記12:1912年4月29日夕張炭鉱爆発事故その4

季節の分かれ目の前線が北海道を通過・・・したのか

今日の北海道は北見市常呂の29.9度が最高。北海道の9月の真夏日は昨日まで5日連続と史上最長に並んでいたが、1999年を越えて6日連続には至らなかった。

果たして明日の青空。そしてカラッとした空気。
秋っぽくなったと感じるのか、それとも夏の続きと感じるのか。
どう感じるのか、どのような声が聞かれるのか楽しみである。

本日の道新夕刊の天気情報の解説文は拙著作であるが「からりと晴れて洗濯日和。夏日の所が多いが、日陰は涼しい。」としてみた。果たしてどうなるだろうか。

さて、こちらの話は続き物。今から100年前の明治45年4月に起こった夕張炭鉱爆発事故である。

今回は最終回のつもりである。悲しみの現場の記事をいろんな角度から見た目を追いかけてゆく。

1912年(明治45年)5月4日 北海タイムスより。


悲惨なる病院前

昨一日は被害者・百合専三郎唯だ一人より死体発見せざりしため 現場及び病院付近は寂寥なりしが 今二日午前十一時三十分より午後三時に亘り 八人の死体発見せるより 現場なる坑口前及び炭鉱病院前は非常の雑踏を極め 死体が一人ひとり病院に運び入れらるるや遺族の老幼男女付随し来たり ドカドカ診察室前まで侵入し 羅漢の如く黒焦げになりし死体を取り囲み 父よ倅(せがれ)よと泣き叫ぶ

悲惨の光景はさながら修羅地獄にて 其の親子の境遇に立ち至らばさもあるべしと 記者もそぞろ同情に堪えざりし


絶望とはわかっていても、黒こげでもなんでも、とにかく姿を確認したい。

探すほうも大変な作業である。同日の記事


不眠不休の主事

岩瀬鉱長始め第一鉱務所・斉藤主任技師 其の他四日三夜に亘り 身体綿の如く疲れながら坑口密閉 死体発見に奔走中なるが 鈴木主事も同断炊き出し其の他一切の業務に従事し不眠不休の状態なり



24時間テレビどころの話ではない。
四日三夜不眠不休。しかも記事の時点では、それはさらに進行中のことであろう。


1912年(明治45年)5月6日 北海タイムス


▲遺族の現状

▲憐れな孤児
貧民窟と称せられる市街地第四区炭山長屋居住の罹災者・森谷與四朗の倅・為次郎(一〇)は目下尋常四年生なるがまだ十歳の幼児とて父の死も気に止めぬ風にて 隣家渡辺平次郎方の厄介になりながら 平気にて記者の訪れし時は道路に付近の子供等とパッチの遊戯に余念なかりし

又た同じ長屋に住む罹災者・山本福一郎の倅・勇(一二)は尋常五年生にて隣家・和泉寛之丞に家に預けられ 記者の訪問に接しさすがは年かまだけ父の死を悼むものの如く、稚な顔(おさながお)に憂愁の色を湛えしは記者を始め付近の人を泣かしめたり

▲飽迄(あくまで)勉強する
遭難せし一番坑のピン切・森本勇蔵(三八)は鳥取市生まれにて去二十年当山に移住せるが、妻ナツとの間に長男忠平(一五)、三男源治(四つ)、長女ヨシエ、次女スミ、二男勇の五人ありしが、妻ナツ、子供ヨシエ、スミ、勇三名は共に病死せしより男の手にて忠平・源治を育て居りしが今回の災厄に罹れり

忠平(一四)は目下登川第二尋常五年生なるが、十四歳にもなりし少年とて父の死に発奮し 是から飽くまで勉強して弟源治を養はんと健気な言を吐き居れり

▲罹災者多き飯場
罹災十一名に達する坑夫を出せる第一鉱の松尾飯場を訪ふ

同所は五十余名の坑夫を抱え居るうち今回災厄に罹りしは須藤菊之助、成田末作、須田辰吉、管野高之助、堀内譚、土屋助治、土門文太、永井善松、丸山五郎、杉村喜平次、川戸繁の十一名なるが、三日までに死体の発見せるは須藤・成田・須田の三名のみにて、坑夫部屋には香華燈明の煙絶えねど 地下層底に残れる八つのむくろは其のまま宇宙に迷い居るならん

▲異臭鼻を衝く
坑内より発見せる遺体は日一日と腐乱し来たり
昨二日の夕刻よりソロソロ臭気を発せしが 今朝より午後に至るまでに十三個の死体は追々異臭紛々として鼻を衝き 臨検の際も医員等 非常に困難の模様なり



5月も10日近くになってくると札幌ではサクラが見ごろを迎えつつあり、花見客も続々と現れるようになっていた。
おそらく夕張でもエゾヤマザクラのピンク色の花が開き出していたであろうが、上や周りを見る余裕は坑夫たち・家族たちにはなかったであろう。

1912年(明治45年)5月9日


涙乾かぬ坑夫長屋

北はずれの丁未長屋でも駆け出した上さん連中が日暮れになって帰ってきた
モウ死骸の出たのもあった風だ
「ヤアヤあんたの所で今朝入ったかネ」
「俺とこは昼から入るのであったんだハイ」
「何て仕合(しあわせ)したモノ」

「鈴木さんで二人とも入ったね」
「アイアイ庄蔵さんもおフデさんも今朝早く行ったハイ」
「末(まだ)戸が締まってら」
「夫婦とも助からねべか」
「気の毒だね子供も何もねんだハイ」

「俺どうも死ぬんだは二人で死んだ方がよい」
「真さんのお上さんなんて先刻はだしでバカみたいに走って来たハイ」
「真さんとは此の間来たばっかりだもんな尚と気の毒ださね」
「真さんて誰だ」
「ホラ此の間秋田から来たべ、子供が三人あって」
「うん泉真助さんか」

其の晩坑夫長屋の方々に燈明がともり 線香が立て 泣き崩れる遺族の周囲に近所の男や上さんが集って来て 伽(とぎ)をした石田義松の所でも五、六人集っていた

「此家の義さんなんざ此の間二番坑をかはりてえといっていたのヨ
それとかはってれァ何の事アなかったのにナ」
「死骸だって何時出るか分からねってんだから箆棒(べらぼう)ぢゃねえか」
「お上さん泣きなさんな 何とか法の立つやうになるからよ 吉公どうだ モ一度事務所へ行ってみやうか」

其処へソラリ戸を明けて入ってきた腹掛け法被の石田義松 泥まみれの顔を撫でながら「すまねえ 心配させた」
一同は「ヒャア」と驚いた

確かに足があるから本物に違いない
それでも女や子供はまだ気味悪そうに後ろのほうにモツ込である。

皆に急立てられて義松の語る所に依れば、彼は此の日、度々トロッコを運び出したが十一時頃 丁度押し出して一服やっている所へズドーンといふ響きだ。

それからアノ大騒ぎの中に巻き込まれて居たが 自分も死人の中に数えられていると聞いて吃驚(びっくり)して小頭の所へ顔を出し 過去帳から名を消して貰った

斯ふいふ連中が十五、六人もあるといふ
人間万事塞翁が馬
「此の弔い酒で祝杯を飲もう」と一座 夜を撤してさんざめいた。

丁未の小林飯場では広い一間の中に山本栄松の寝ていた枕上と水野喬の寝ていた枕上とに線香が上がって 現場の飯場の若い者が仕事を了って来て伽をしている

山本は石川県 水野は新潟県の者だ

生前の記憶などいろいろ語り合っている

「伊達は未だ帰らねえのか」と誰かが言い出した
「いや俺より一時間も先に上がって来たぞ」
「おかしいナ何処へ行ったらう」
「大将大分くたびれたから一盃やっているかも知れねえ 煙臭い坑(あな)で随分働いたからナ」

併し(しかし)その晩 伊達は帰らなかった

そして翌朝 鉱務所の方から知らせて来たときはモウ死体となって収容所の中に寝ていた。

彼は当日救護隊に加はって五、六箇の死体を掘り出し一旦鉱を出たが、二坑道の三号あたりに外套を遺れて来た事に気が付いて それを取りに入った其の時 跡瓦斯(あとガス)が出てきて到頭窒息して了った。

彼は友のために身を殺したのだ

「何て情けねえ事してくれたナ 死ぬ筈(はず)の人間ぢゃなかったに」と
飯場の若い者は泣いた




梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」という有名な文言を吐き記した。

今後、春に夕張で咲き出すサクラをみるとき、サクラの咲き出す時期に爆発に倒れた坑夫の姿を、うすくれないの花びらに重ねてしてしまいそう。そんな気がした。


さて、夕張に同情の目が向いていた春浅き5月。
北海道・樺太は時ならぬ大嵐に襲われる。

再びたくさんの命を奪ったメイストーム。
その話はまた次回に・・・

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2012年09月12日

明治末年北海道記13:1912年5月4日メイストーム北海道を襲う

岩見沢水没!という感じのニュースが今日の全国ニュースになっていた。
豪雪に残暑、そして豪雨と、今年の岩見沢はこれでもか!と痛めつけられている感じがする。

しかしもともとモデルの予想ではあの集中豪雨が降るのは「札幌」のはずであった。たかだか20〜30kmほど東へずれたからあのようになったのであるが、札幌で同じ雨が降ったならば、被害も報道の扱いも、こんなものではすまなかったであろう。

2012年の気象災害は岩見沢が一手に引き受けているようなものであるが、一方、1912年は今のゴールデンウィークの期間中に大災害である。そのひとつが前に紹介した「夕張炭鉱爆発事故」であった。そしてもうひとつが、北海道と樺太を巻き込んで電信電話をズタズタに引き裂いた「メイストーム」である。

樺太の状況は前回にまとめたが、今回は北海道の状況について北海タイムスの記事から書き起こしていく。

まだ夕張の事故が紙面の多くを占めていた1912年5月5日の紙面。
この記事がメイストームについて伝える最初の記事である。


昨朝来の暴風雨

昨朝来の暴風雨に就き 札幌測候所の観測に由れば 同日午前六時 740ミリ(987hPa)の低気圧日本海北部に在り 別に能登半島付近に744ミリ(992hPa)の低気圧ありていずれも東北東に動き 高気圧は太平洋上に762ミリ(1017hPa)、清地方(中国大陸)にも同度の者ありて其の中心漸く近づくに従い 北海道は南東方の具風となり 昨日午後は風速平均一秒時に約十二間(21.8m)にして此の圧力一坪(3.3平方メートル)に60貫900匁(約230kg) 又降雨の量は一坪に約七石弱(1.26㎥)なりき

尚 高低両気圧の接近するに連れ風勢一層猛烈となるべく一寸●るべき模様も見えざりき

●=判読できず・・


そこそこ発達した二つ玉低気圧の接近が南東の暴風を吹かせ、北海道も荒れた天気となった。
こういう気圧配置は札幌や倶知安、寿都、深川、留萌など日本海側では地形の影響で局地的にかなり風の強まることがよくある。

5月4日の風速を中央気象台月報から拾うと函館19.9m/s(15時) 札幌26.0m/s(16時)、根室27.3m/s(5日1時)、寿都31.8m/s(18時)、旭川17.3m/s(14時)、釧路25.1m/s(18時、22時)、網走26.1m/s(22時)、紗那23.2m/s(5日2時)となる。

樺太も大泊で20.3(14時)、真岡27.4m/s(22時)、落合19.9(m/s)、敷香23.1m/sという具合。

風向きはどこも東〜南東でそろっている。低気圧接近時の暴風が特徴的だったこととなる。
おそらく低気圧の後ろ側は気圧の傾きがゆるかったのであろう。優勢な高気圧に発達した低気圧が進路を阻まれているような場合にこのような風が吹きやすい。

札幌はどうなったのか。


▼区内の暴風被害

▽道庁長官邸の黒塀二個所 約五間 兼事務所板塀破壊
▽札幌支庁の木柵一箇所約三間倒壊
▽裁判所正面左側の板塀約十間 道路に向かって倒壊
▽北八条東二丁目十二番地 金屋雑貨商側遊園地 真弓所有の土蔵屋根吹き飛ばさる
▽豊平橋派出所奥の小屋破壊す
▽裁判所庭内の松二本 道路に向かって倒る
▽区内各所の看板の破損され 又は吹き飛ばされたるもの多数あり
▽南六西三 星野病院前電線切断
▽薄野富貴楼前 桜樹三本 地に寝る
▽西創成小学校竹垣三間倒る
其の他板塀垣根の倒壊多



札幌は軽微な?風害で済んだようだ。

このほか融雪増水期を迎えていた石狩川や豊平川はやはり増水、幌向では浸水被害があったり、斜里の猿間川では木材貯留場から材木が大量に流出するという被害もあったりした。

しかし、大惨事に展開していた町があった。
その名は「岩内」である。


●岩内沖大椿事

爾来の暴風雨にて岩内港外稲穂崎より磯島内方面にかけ 鰊(ニシン)漁の為め建刺網に従事せる漁船約三十艘は行方不明となり 陸上との連絡附かず 確かむる能はざるも 多くは怒涛の為め沈没せしものならん

右漁船には何れも五、六人乃至(ないし)七、八人乗込み居れり
市街は屋根或いは看板吹飛さるるあり 危険甚だしく人馬の通行も能はざる程なり

(四日午後五時岩内電話)


先のデータで見るように、各地とも南東風で一番強いのは寿都である。倶知安から岩内にかけても寿都ほどではないが、地峡となっているので同じように南東からの風は強まりやすい地形だから、30メートル前後の風が吹いていたであろう。

陸から海へ向かって吹く風=出し風。船を出す風である。
沖合で異変に気づいた船が戻ろうにも、風に押されなかなか前に進まない。しかもどんどん激浪へ変わる中である。
樺太の西海岸、そして北海道の西海岸。ニシン漁最盛期で船がたくさん出る季節。
メイストームは全くの招かざる危険な客であった。

翌、5月6日の記事には各地の暴風雨による出来事と共に、岩内の惨事が大きく取り上げられている。


▲上川暴風雨
上川地方は五月四日朝九時頃より強風起こり・・・中略・・・午後三時より四時にはますます風力加わり 旭川町市街は看板飛び 屋根柾(まさ)吹き剥ぐなど物凄く 行人目口も開かず 加ふるに気温甚だしく下りたり・・・後略

▲留萌の大被害
留萌町は昨夜より西南の暴風雨吹き起こり 今朝来より益々凶暴を極め 砂塵を飛ばして天地瞑もうたる中を屋根柾其の他を吹き飛ばし 被害頗る多く

町役場及び区けい?院建物は全部倒壊したる外 屋根を剥がれたるもの数百戸の多きに及び

尚 鰊漁場の被害も亦た甚だしく昨日来より鰊は大漁にて約七千石を収穫せるも 俄かの風雨に遭ひ 悉く投棄せる外 出漁中の漁夫は網を揚ぐるの暇なく空しく沖合に漂流せるものもあり

然るに此の天候にて救助船を出すを得ず 明日迄も継続せんか海陸共に意外の損害となるべし

(四日午後八時留萌発)

●岩内沖の大惨事 溺死者約一百名

既報の如く 四日朝来の暴風は同日午前十時頃 俄然東南の烈風と変じ 怒涛益々高く 岩内港外に於て建刺網漁業に従事中の漁船約三十艘は忽まち(たちまち)沈没し

乗り込み漁夫約三百名の内 百五十余名は辛うじて上陸するを得たるも 其の多くは行方不明となり 或いは古宇郡方面に漂着し九死に一生を得たるものもあれど 本社支局員の調査せし所に依れば 溺死せるもの六十余名に達すべく

内 死体発見せる者三十四名にして今尚行方不明者八十余名あり

今に漂着せざれば皆溺死せしならん
死体の漂着せし人命左の如く(=ただし記事に名前なし)

岩内水難救助所は昨日来 必死となりて救助に従事しつつありて 岩内港は一大修羅場と化し阿鼻叫喚の聞こえやまず

死体運搬の惨状目も当られざるの惨状を呈せり

(五日午後五時岩内電話)


ヤマでも海でも・・・大惨事。
まだ途中だが、話の続きは後日。習近平の消息とどちらが早いか・・・
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2012年09月20日

明治末年北海道記14:1912年5月9日義捐大演芸会の開催決まる

やっと涼しい季節に変わってきた。
夏オヤジこと、夏の太平洋高気圧は急速にその勢いを弱めている。風船がしゅーっとしぼむように。

前線帯は南へ下がり、北海道には大陸からの秋の空気が入ってきた。
北海道の異例な9月連続真夏日も8日でストップ。いよいよ待ちに待った秋!だ。

毎日種々の天気図を眺めているからこそ、季節が動くのをはっきりと捉えることができるものである。

さて、季節が動き、習近平さんも出てきたから、明治末のメイストームの話も先へと進めることにする。

時は1912年。5月の岩内である。

1912年(明治45年)5月7日 北海タイムスより


稀有の大暴風雨
▲岩内惨状

岩内海上の大惨事に就き 其の後の模様を報せんに
椿事以来 岩内水難救済所 及 岩内警察所は全員必死となり徹宵にて救助及屍体引揚げに従事しつつありて屍体発見 及 死亡せりと確認せらる者左の如し

岩内町漁業 坂本六兵衛(五九) 坂本倉政(三八) 森喜代太郎(三三) 森清治(二一)・・・・・

(中略)

右のうち岩内町坂本六兵衛氏は漁業家にして町会議員なるが 惜しむべく又た遭難後 三昼夜の久しきに亘るも生死判明せざるもの尚八十余名あり

是等は何れも溺死せしなるべく古宇郡沿岸に漂着し居るならんと
岩内署よりは橋本警部補 同方面へ出張取調べ中なり

亦た行方不明となりし漁夫中 古宇郡方面に漂着 九死に一生を得たる者もあり

然れども行方不明者の遺族は三日間を経過せしも上陸せざるより 多くは溺死せるものと認め 夫々葬儀の準備に取り掛かり居れるが 本日浜中水産組合より岩内水産組合へ宛て 御舞内町・田川弥一外二名船と共に当地沿岸に漂着したれば旅費送れとの電報到着せり

之を聞きし家族等は葬儀道具も投げ棄て 夢かと許りに打ち喜び 一場の喜劇を演ずるものあり

また椿事の急報に接するや後志支庁より第二係首席属 来岩 親しく遭難者遺族に就き慰問しつつあり

今回の大惨事に就いては岩内町水難救済所器具費として当町漁業家・畑澤要吉氏は百五十円を寄付せり

又た午後四時四十分小樽入港の帆船・快栄丸にて岩内沖の遭難者三名を救助したるが 幸ひ生命に別状なきも何分言語通ぜず手当て中と小樽警察より打電あり

又た午後三時半頃 天塩国苫前郡力昼村漁業組合より岩内水産組合に下の打電あり
「皆川と記したる漁船只今漂着 乗組者は皆川與四郎 新井田新七の二名にて 皆川は既に絶息し居れり」



80人ほどが救助されたものの、およそ100人の死者・行方不明者を出した岩内沖の漁船大量遭難。
死んだと思っていたら漂着して助かったという話もあるが、遠くは岩内から苫前まで流されたというから暴風の力おそるべしである。

早速この大惨事に対しても、義捐の動きが始まった。


▼基督教徒活動

岩内町における日本メソテスト協会及び基督教青年会並びに基督教婦人会の三団体は 今回の大惨事に対し 遭難者遺族救済のため全国教会信者へ悲惨の実況を記載せる書状を発し 普く(あまねく)義捐を募集せんと既に着手せり



最初に動いたのは地元の水産組合、そしてキリスト教徒であった。

次に大きなうねりを起こしたのは「芸妓(げいぎ)」だった


●岩内惨事 義捐大演芸会

去四日 岩内町・島野村両所に於て漁夫百三十三名乗り込みの漁船遭難事件は 夕張炭山の瓦斯爆発事件後の一大椿事にして現に死体を発見せるもの僅かに三十四名、行方不明の者 今尚七十九名の多きに達し、遺族は何れも親に離れ子を失ひて糊口に窮迫するの参況に頻し居るより 三見番芸妓連は大いに同情に堪えんとて大黒座主・若狭ヨシ子に図り 来る十五・十六の両日 同座に於いて同惨事に対する義捐大演芸会を開催せんとの計画にて 広く大方慈善家の同情を求め義捐金を募集選との事に 本社も大いに此の挙に賛し 十分の声援を与ふるべく快諾したる

三見番芸妓連取締役 札見の松寿、元見のはつ、町見の可吉等 寄々に番組の取極め中なるが主なるものは東京庵手踊、幾代踊、東寿司連の喜劇、東家連手踊、札見静子、吉次、都、鹿の子、花子、長松、栄太郎、君、お富、のんき、竹松、小雪、愛子、伝平、三太郎等の踊、長唄、議太夫、元見八千代に義太夫の芝居、福助の踊、快栄の長唄、君子、小梅の踊、町見照子、花子の手踊にて十五、十六両日間は盛大に挙行する事になりたれば、慈善家は開場当日は多大の同情寄せられたしとのこと

ちなみに大黒座主・若狭ヨシ子は小屋賃を寄付し無料となす旨 同演芸会に取り込みたりと



札幌の大黒座で15日午後1時より、この岩内義損大演芸会は開催されることとなる。

夕張と岩内。人災と天災。いろいろと立ち位置は違うが、義捐の輪が重なる明治45年春の北海道であった。
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2012年10月10日

明治末年北海道記15:1912年5月2日赤鬼現る

気温が10度を切るようになり、やっと空気が秋らしくなってきた。

札幌市内を見ていると、紅葉しないまま落ちている木の葉がけっこう多い。異常な残暑の産物か。

知床峠では、ダケカンバが紅葉しないまま全部葉が落ち、既に落葉状態だという。紅葉は気温だけではなく、日の短さとか、いろいろなものが作用して起こっているのか、それとも残暑に北海道の樹木も音をあげてさっさと眠りに入ってしまったのか。

樺太には冬将軍が来ているらしい。日曜日の夜から月曜日の朝にかけて、敷香より北では雪が降った。
樺太も残暑は同様に厳しかったはずだから、急な冬将軍の襲来に、今樺太に住んでいるロシア人もびっくりしているだろう・・・いや、そういうのには鈍感かも!?

さて、明治の末の北海道。春の話の続き。
冬将軍が去った北海道に、なにやら奇怪な生き物が?

それは「赤鬼」の出現である。

1912年(明治45年)5月2日 北海タイムスより


●赤鬼現はる

雨竜郡雨竜村第十二区居住 輸送人夫 帰来伝七長男松太郎(二七)は窃盗罪にて去月二十一日滝川分署の手に逮捕され 同分署に二日間留置取調べの結果 同月二十九日午後四時旭川着にて押送 当地区裁判所に送致され 警察署留置場に拘留し所 同夜十時頃発病せしより種々医療手当を施したるが

翌三十日午後三時頃に至り赤痢病と決定し今朝(一日朝)二時旭川町立隔離病舎へ収容せるが 刑事被告人との事とて巡査一名病室に見張りしつつあり

又警察署にては大騒ぎにて留置場を直ちに消毒し今朝更に第二回の消毒を為し、他の留置人並びに警察署員一般の健康診断並びに消毒をなし 尚庁舎の内外をも消毒したるが 本年に入り当町に於ける発患者なり
(旭川電話)



よくよく読んでみると、オカルトでもなんでもない。
赤鬼=赤痢患者のことであった。

赤痢は基本的には赤痢菌による感染症で、大腸をやられて腹痛を起こし、血便が症状として現れるのでこの名があるという。
だから、赤痢になったからといって顔が赤くなったりするわけではないので「赤鬼」と呼ぶのはまたどうかと思うが。まだ原因となる赤痢菌が発見されて10年余り、有効な治療薬も少ない中で、「鬼」のように怖い存在だったのは間違いない。

したがって、警察署はまるごと消毒!である。赤痢菌の正体もよくわからず、刑事被告人ということで病室に監視役でつく巡査も大変だったろう・・・と普通ならここで終わる話である。

しかし、この赤鬼の話はまだ続く。
赤鬼はなんと病院を「脱走」したのである

1912年(明治45年)5月4日 北海タイムス

●赤鬼留置所を逃走

窃盗罪にて旭川警察署に押送され 其の後赤痢病に罹り 旭川隔離病舎に五月一日収容されし窃盗被告人 帰来松太郎(二二)は今暁付添巡査の隙を窺い 病室排泄物収集窓より逃走 行方不明となり 旭川署に於いては一日午前二時より非常招集を行い 白石署長外殆ど全部にて各方面を捜査しつつあれど 未だ何等の情報に接せずに

或る噂に依れば一日午前十一時より十二時頃迄の間に於いて神楽村附近に於いて病人体の怪しき男 薬瓶を携え立ち止まりて呑みつつ行ける者を見たりといふ人あり



赤痢など恐ろしい伝染病の病人のそばには近寄りたくない・・・そんな巡査の恐怖心を利用したか、「赤鬼」窃盗犯はまんまと逃走を遂げた。

攻める赤鬼は自由だが、伝染病患者でしかも犯罪人に逃げられた警察署としてはマチを守るのが非常に大変な状態である。署員総出で行方を捜しに出る事態となったのも、その危機感のあらわれであろう。

さて、逃げた赤鬼。どこへ行ったのか。

1912年(明治45年)5月6日 北海タイムス

●赤鬼捕まる

旭川隔離病舎より逃走 行方を晦ました(くらました)窃盗被告人たる赤痢病者・帰来松太郎(二三)は旭川署の高橋・飯田二刑事の追跡を巧みに免れ居る内 去る三日夜捜索応援中の人民の為に雨龍村にて押へられ 雨竜駐在所に一時収容の由四日朝九時十分深川分署より旭川警察署に電報ありたり

一説に依れば被告は盗んだ馬に乗って行く所を捕はれしなりとは何処までも馬泥棒なり



自分の町に戻り、そしてまた捕まったのであった。
めでたしめでたしという結末である。

それにしても記事では松太郎の年齢が全て違う。本当は何歳だったのだろう。
そこだけが、少しオカルトである。


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2012年10月11日

明治末年北海道記16:1912年5月6日札幌で農大遊戯会・小樽で仮装運動会開催

今日の北海道は竜巻で大騒ぎである。

記録的残暑の影響で、海水温が異常に高いまま10月に突入した。上旬は台風が太平洋沿岸に続けて近づいたことで、海が荒れた太平洋側では海水温はだんだんと平年の値に近づきつつあるが、台風から離れて荒れていない日本海は、まだ平年より3度前後は高いままである。

既に大陸では寒気が蓄積され始め、時々北海道の上にもやってくる。日本海の海水温と上空の温度差が対流を生み出し「秋時雨」という天気をもたらすのだが、今年は海水温が高いぶん、上空に入る寒気がそれほど強くなくても大気の状態が非常に不安定になりやすい=竜巻登場!というわけだ。

この予告はすでにさりげない形でしてあったのだが、昨日の留萌に今日の奥尻・江差と竜巻の度重なる出現。やはりこうなったかと。

この状況についてはまだまだ油断できない。海水温の低下を待たずに、これからは大陸よりさらに強い寒気がどんどん入る。本当に気をつけなければならないと思う。

さて、同じ大騒ぎでも、楽しく騒ぐのがよい。

明治末の北海道。話はまだ5月初頭である。
雪が融けて、春が来た北海道。駆け出したくなる気持ちそのままに、5月は運動会の季節である。

なぜ5月に運動会を行うのか?というのには諸説あるが、ルーツとなる札幌農学校の遊戯会の開催が毎年5月だったから、運動会のシーズンも自然と5月が中心になったというのが有力な説である。

1912年。この時代には既に5月の運動会はすっかり北海道の文化になっていたようだ。
では源流となる北大の運動会の様子から。

1912年(明治45年)5月7日 北海タイムスより


農大遊戯会

北海の花 否 日本陸上大運動会の魁(さきがけ)と呼ばれる農大遊戯大会は 一昨日稀有の大暴風雨の為め二日を延ばし 昨六日を以て開催したり

朝の七時と九時に打ち揚げたる各三発の号砲は青天に轟きて 八万(札幌)区民の春眠を覚破したるの観ありき

△骨鳴り肉踊り 血湧き魂飛ぶ 青年学生の気意 将に天に沖し 雌雄を争ひ勝敗を決し 或いは勇敢敵陣を磨して斃ほるるもの 間髪を容れざるの間に寄行を奏するもの 或いは虚々実々 或いは正々堂々一勝一敗一優一劣 壮観を極め 精錬を尽くす数万の観客 四辺を囲み狂するが如く魅するが如く 弥次(ヤジ)隊の声 又天地に轟きて 風なきにエルム樹の枝梢 慄然たる声を聞く 実に近来の快事なりし

特に△源平野仕合を加へて 日本特有尚武の気象を発揮せしめたるは吾人の最も悦所にして 将来共大いに此種の番組を奨励したきものなり

近年各学校の運動会を観に 徒(いたずら)に技巧に流れ 戦略に失憂も勇壮活発の風なく又一般に基本的体育に重きを為さす

果ては舞踏式演技に陥り 徒に父老をして文弱の嘆を発しむるに至る

宜しく各学校共 建武国々民の精神を発揚せしむべきなり
且つ技を争い 術を闘はずに当たり 正々堂々古武士の如く 聊か(いささか)其の間未練を残さず 勝つも負けるも自己が修練の如何を感得せしめ 旭桜の散り際を潔ふせしむる覚悟を要せしめよ

△氷雪漸く融けて 春風北海の原野に満つ 起て奮へ 北海の青年学生諸君よ 是は正に当日運動会弥次隊の心からなる叫びなり

▼午前中の競技
第一回:走り幅跳び
第二回:二人三脚
第三回:二百メートル競争
第四回:ザック競争
第五回:走り高飛び
第六回:四百メートル競走
第七回:突競争
第八回:棒高飛び
・・・・以下略



前段は記者の願望満載のコメントとなっているが、ともかく見るほうもオリンピック並みの真剣勝負を期待しているということで、当時の「農大遊戯会」はただの運動会でないことがわかる。

札幌一中の「雪戦会」もそうだが、いざ勝負!となるとイベントの少ないこの時代、市民が大勢詰め掛けて応援するというのが一般的風景だったようだ。

なお略としたのは、元の資料の文字が薄くて見づらいというのもあるが、この部分がけっこう楽しかったようで、第九回に行われた何かの競争のあとに、番外として軍人の800m競争があったほか、第十一回の八百メートル競走が終わった後は、いよいよ源平野仕合となった。

最初に二人の学生が法螺貝をもち、太鼓を鳴らしながら現れるところから始まる


・・・先ず戦場に現はれて戦いを告げ渡る

戦士は源平各十五名づつにて両小手そうを固め 南北両側に対陣するや 平家の御大将真っ先に進み出て「近き者は寄って見よ 遠き者は音にも聞けよ 我こそは平家の〜〜」と名乗り上げ突進むのを見て 何の平家の若武者小癪(こしゃく)なと源氏の荒武者 剣を振るって之に向ひ 両軍暫時入り乱れて奮戦あり

面の真上に頂いた小板を打ち破られたるは敗戦の士として 小板の満足なりし者は両軍共に上より商品を与えられ ここに午前の競技を終わりたるが是が午前第一の観物なりし



明治の末。祖父が戊辰戦争などを経験しいる学生がいるはずだし、やはり刀を振り回していた時代が近いこともあってか、やはりこのような「戦闘モノ」というのはなかなか目玉である。

今はたたく、なぐるなどはもってのほかの時代であるから、こんなことやったらいろいろうるさいだろうな・・・

さて、この年の農大遊戯会。応援席では各学科に因んだ装飾で、こういったところも面白かったようだ。水産科は二本マストの帆船の形をした応援席を作って陣取ったということだし、鐘を鳴らすは鉄板を叩くは、相当賑やかな声援があったようである。

午後はまた一風変わった催しがあったようだ。
1912年(明治45年)5月8日 北海タイムス


午後一時半余興として予科生二十有余名の南洋土人の行列を遣った

何れも裸体に色彩し筵旗を真っ先に何れも刀槍を持ち 頭部に鳥羽を立て 腰に木の葉を纏い 中央に宝冠を頂ける酋長白馬に跨り(またがり)一行を指揮し怪しげなる喇叭(ラッパ)を吹き立て 異様異装 真に人をして唖然たらしめた

而して一行徐々に場外一周後 場中に円陣を張り賛歌を唱ひつつ舞踏一番せしは数千の観客をして一同に顎(あご)を解かしめた

実に奇想天外より落ちたるものと謂ふべしだ


春の北海道に「南洋土人の仮装」をやって、場内数千人のあごを落としたという。
どんなものをやったのか興味があるが、函館市中央図書館のデジタルライブラリにそれらしき写真を見つけた
 ↓
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/postcards/4f5141dcea8e8a0b700020a4


函館市中央図書館所蔵:6枚ものの絵葉書の一枚「水産科余興南洋土人踊」

19120506第34回農大遊戯会・土人余興.JPG



農大遊戯会は明治11年開始だから、34回目は普通に数えると明治44年なのだが、記事を見る限り「南洋土人踊り」は明治45年が初出のようだから、このライブラリの絵葉書になっている写真が、当日の模様を伝えるものなのかもしれない。

何しろ6枚モノの絵葉書セットのうち、この写真を含む2枚が「南洋土人踊り」である。よっぽど印象に残ったのであろう。

まあ当然のように、同じ事を今の世で行ったら、いわゆる人権保護団体に狙われて袋叩きである。。。
ただこういうのも世相を映していてなかなか面白い。

さて、札幌は伝統ある農大遊戯会で盛り上がっていたこの日、隣町小樽ではまた少し違った運動会が開かれていた。こちらも賑やかだったようだ。

1912年(明治45年)5月7日 北海タイムス


●手宮職工仮装運動会

鉄道員小樽手宮工場役員職工の仮装運動会は昨日(六日)午前九時より手宮公園に於て開催せり。

総員二百五十名は思ひ思ひの仮装なるが 仲に人眼を惹きたるは忠臣蔵四十七名の段多羅(だんだら)衣装 二十四孝白浪五人男 西南戦争の白鉢巻の勇士 堂々楽隊戦闘に手宮町を練廻り やがて定刻になるや煙火を合図に公園に集まり運動二十数回の競技あり

折り柄らの好日和とて見物人頗る多く 非常の盛会にて午後四時過ぎ閉会せり



仮装行列をした上で、公園でそのままの衣装で運動会である。
これは参加するほうも見るほうも、さぞ楽しかったろうと思う。


伝統ある「農大遊戯会」のほうはこの記事から10年後の1922年(大正11年)の開催を最後に廃止された。小樽の仮装運動会も今に至るまで一世紀、続くことはできなかった。この後の時代背景がそれをさせなかったのかもしれない。

ただ、5月の運動会自体は「札幌市内の小学校の運動会」という形で今にも受け継がれている。

ちなみにこの明治45年の小学校運動会の日程は5月8日の記事に書いてある。


区内小学運動会

(札幌)区内各小学校の春季運動会の日割 及場所予定せるもの左の如し

中央創成 (中島)遊園地 五月十日
西創成  大通り 五月十五日
豊水   遊園地 五月二十二日
女子   同   五月二十四日
白石   校地  五月二十五日



ただ、中身はずいぶんと普通になってしまった。明治末の小学校の運動会には「種蒔き」とか「提灯渡し」など摩訶不思議な種目もあったのである。

教育現場としても明治の頃のように、いろいろと趣向を凝らし、「札幌名物」「北海道名物」の春の運動会となってほしいと思うものである。。。


てなことを秋に言ってもダメか???

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2012年10月13日

明治末年北海道記17:1912年5月12日ドクゼリで駒を斃す

竜巻の次は大雨。

12日夕方から強まった東部の雨は、白糠周辺に「秋の集中豪雨」をもたらした。たった7時間で96ミリである。さすがにここまで降るとは・・・。今年の秋はこういう予想外のことが多い。

北海道の山林ではちょうど落葉キノコがにょきにょきと生えていて、この週末にはキノコ狩りというむきも多かったと思うが、この雨ではキノコもダメになってしまったか。毒キノコばかり残してほしくはないのだが・・・。

山の恵みの恩恵に預かるのは秋はキノコや「やまぶどう」、栗とかの木の実などになるのだが、春であればギョウジャニンニク(アイヌネギ)に代表される山菜たち。

もちろん秋のキノコに毒キノコがあるように、春の山菜にも毒がある。
明治の末も、この毒は恐怖の存在であった。

1912年(明治45年)5月12日付け 北海タイムスより


●毒芹(ドクセリ)駒を斃す
春の野遊 毒草に心すべし

札幌郡篠路村字カマヤス 宮西頼一は数日前一頭の飼馬を牽き 野に出て偶々(たまたま)隣家の者に行き遭い一言二言雑談する内 馬は水辺に下りて怪しき草根を噛みたるに気付き 頼一は急ぎ手綱を取て走り帰りたれどすでに遅し

彼の馬は四肢を激しく震わせ 玉の様なる汗 全身に滴り 力の限りに前足をかき後脚を蹴り 咽喉をからして悶え苦しむ様 目も当てられず 物の十分も経たぬ間にパタリと斃れ死にたり

同人は此の草のためすでに三頭の馬を喪い 村内にて是迄八 九頭の馬斃れたる次第なれば一般の畜産家にも注意せられたしとて 同人より本社に右の草根を送り届けたるが 之は俗にドクセリと称し 地方に依りてはオオゼリ及びオニゼリなど呼り 多く湿地に生じ 外見甚だ芹(セリ)に似て 茎葉とも大きく夏の頃三、四尺に成長し 根は西洋山葵(わさび)の如く大きく膨れたり

此の草はシキウタという有機分を含み 欧州にてはヘンロックといひて 昔 大哲ソクラテスが仰ぎしは此の毒なりと伝えたり

普通の芹は根 塊なき細い糸のやうな根なれば容易に見分けらるべし

今が丁度芽ざす時節なれば青草に飢えたる家畜の用心のため 牧場内の湿地を見回りてこの種の毒草を抜き取り焼き棄るか 左もなくば湿地に家畜を入れぬようにする外なかるべし

春の野に萌ゆる毒草は是にも限らず ノウルシ、タカトウダイ、タカブシ、狐の牡丹、馬の足型、ブシなど数多あるべければ長閑なる日に浮かれて摘草遠足などに出る人々も 滅多な草は舐めたりせぬが宜し。



ドクゼリは初夏に白い花が咲き、これはこれできれいなのだが、きれいな花には毒があるの名言どおりというべきか、馬も倒すような猛毒がある。
セリと同じようなところに生えるので、人間様もよく間違える。馬も当時で七、八頭もやられているというのはまたちょっと驚きである。今でもニュースにならないだけで、放牧地では牛や馬がドクセリにやられて命を落としているという話もあるのかもしれない。

19120512セリ見分け方.JPG
▲記事にあるセリとドクセリの根の違いを示した絵(1912年5月12日北海タイムス)

記事にある「摘草遠足」という言葉。のどかな春の山菜取りの様子を言い表していて、素敵な表現だと思う。来年の春には是非、今の世に復活とばかりに使ってみたいものである。

さて、春の野には危険がいっぱいというわけであるが、馬が倒れる一方で人は逃げていた。

同日の北海タイムスより


●百姓の食い逃げ

留萌市大字三泊村字オビラシベ原野十五線・林平次(三十)は去月十日より留萌町に来り 南大通・安藤旅店に病気療養と称して泊り込み 宿料牛乳代など十三円余の払い滞り 晦日の午前 中野嶽病院へ行くといひ外出せる儘(まま)逃亡せしかば 詐欺取財として留萌署へ告訴せらる



旅館の人に言わせれば、それこそ、ドクセリを食べさせたい心中だったであろう。

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2012年10月18日

明治末年北海道記18:1912年5月15日衆議院選挙の投票日

初雪前線はいよいよ宗谷海峡へ到達。

本日18日の午後6時観測のロシア実況データをみると、海馬島(モネロン島)でみぞれとのこと。
敷香で足踏みしていた初雪前線は、南樺太のマチを飛び越して海馬島まで南下してきた。豊原(ユジノサハリンスク)も午後9時の天気は雨、気温は2.9度ということだから、午前0時の観測ではみぞれや雪になっているかもしれない。

だいたい豊原や大泊と稚内、旭川の町は同じタイミングで初雪になってきた。だから宗谷海峡を初雪前線が渡るのも、早ければ今の夜が明ける前、ということになろう。

初雪予想とか真夏日初日の予想とか。天気にもいろいろ節目があって、それが前々から言っていたものがピタリと当たると、とても嬉しいものであるし、間違いないとなっても、本当に雪が降るとか、30度まで上がるとか、その瞬間がおとずれるのを待つのはまるで合格発表や当選発表を待つような心境である。

今から100年前の春。1912年(明治45年)の5月。
北海道ではちょうど札幌のサクラが満開となっていたころ、「サクラサク」を待っていた人たちがいた。

第11回衆議院選挙の投開票が行われたのである。

今回は投票の模様の記事について紹介する。

1912年(明治45年)5月15日 北海タイムスより


●当選と公表期
衆議院総選挙はいよいよ本日執行されるが、開票は各地とも十六、七両日に行はれ 選挙会は長野県の十七日を始め 対馬の二十三日を以て終了すべきが 各府県の当選者を知得べきは二十五日なるべしと当局者は語れり

●各派当選予想
政友会は公認候補二百三十余名 自立五十七名の内 三割落つるとしても二百二人の当選なるが 確実なる当選は公認自立を通じて二百十名なりと見は可ならんと

国民党は百名位を得るべく中央は三十名以下ならんと観測さる


明治の末ではあるが、すでに新聞は「予想議席数」を書くようになっているのがわかる。
当時は1900年に伊藤博文が作った政権与党である立憲政友会が第一党で、続くのが大隈重信の作った立憲改進党を祖とする立憲国民党であり、こちらは反政友会の筆頭となる野党である。

中央というのは中央倶楽部のことで、明治の終わりから大正の初めにだけ短い期間存在した政党。桂太郎の側近が中心となった反政友会の勢力で、こちらも野党である。

実は獲得議席数は政友会が209議席、国民党95議席、中央倶楽部31議席ということなので、かなりこの事前予測は正確であったことがわかる。
今も選挙のときの獲得議席予想はけっこう当たっているが、昔からの新聞の伝統ということがいえよう。

では、各地の投票日の様子。まずは札幌から。


▽札幌区
▲投票所の光景

札幌区衆議院議員選挙投票は予定の如く昨十五日午前七時より区役所楼上に執行せられたり

是れより先 阿部宇之八氏が区の平和上立候補を辞するや 形成は著しく浅羽請氏に傾き 何人も同氏の独り舞台を予想し居たるが 十四日来 突如として理想選挙を旗に阿部宇之八氏を推薦する有志現はれ 大勢の殆ど決したる重囲の裡(うち)に 駒を乗り入れ目覚しき活動を開始したるより 流石の浅羽派も相当に警戒を払うに至り

当日の投票所は予想外に活気を呈したり

見渡せば郵便局前及び正木菓子店 上野筆耕所の都合三ヶ所に休憩所を設け「候補者阿部宇之八君推薦義軍」と白地に墨痕鮮やく染めたる旗二旒(りゅう) 並びに 阿部宇之八氏選挙事務所と記たる大旗三旒を翻し 尚ほ各所に「阿部宇之八君に同情を願います」の貼り紙物々敷く(ものものしく)

亦(また)一方浅羽氏の事務所は投票所正面より左右入り口に懸け 紅白段ダラの幔幕を張り廻し「衆議院議員候補者浅羽靖選挙事務所」と筆太に記したる看板を立て 正々堂々参謀長指揮の下に陣笠連が出て入る人を物色する様物凄く 実に白兵混闘の壮観も斯くやと計り見受けらる

▲場内の雑踏
斯くて予定の午前七時に投票を開始するや 先ず投票所入り口に白頭肥大のシルクハット姿の浅羽氏現はれ 次いで高桑市蔵 笠原文平 榎本・・・他幹部数人頭顧を並べ出入る小僧に迄も警戒の眼を放ちつつあり

翻って理想団の旗織如何を見るに 之れ又数名の参謀手に手に阿部氏の推薦状と名刺を握り殆ど血眼になりて注意を怠らず 就中一種の選挙狂とも目す可き

上野某の如き有権者に混して警戒する角袖を捕えて哀訴の情を凝らすなど 心情又憐れむべし

斯くする程に有権者は暫時投票所に集まり来たりて午前八時十分田中清輔氏の先頭第一を始め続々として入り来たり

階上の受付は見る間に人垣を作るの盛況を呈し 二名の書記が必死の奮闘も物かは忽ちにしては潮の引く如く忽ちにしては又押し寄する 其の混雑名状すべくもあらず

斯くて雑踏せる受付も十一時四十分前後より忽然人波は去りて 一、二の有権者を見るのみ

正午の投票人員五百四十六人と注せらる


札幌の立候補者は二人。
浅羽靖は北海学園の創始者で、札幌区長も務めている当時現職の政治家。
一方の阿部宇之八は明治・大正期の北海道では高名なジャーナリスト。今の道新の源流ともいえる「北海新聞」を創設、この北海タイムスを発行している会社の理事でもある。

新聞としては阿部を応援したいところか・・・そうみえなくもない。

形成としては現職有利で無風と思いきや、選挙直前にやっぱり出る!という作戦。今なら絶対に通用しない作戦であったがどうだったろう。

札幌の投票所、午後の様子もみてみる。


▲午後の叩き頭戦

零時三十分頃に至れば流石に寄せては返す人波もなく 受付口は平穏に帰し 警戒の査公と書記の私語を耳にするのみ
階下の有様如何を見れば之れ 又留守を預かる浅羽派の阿由葉氏と理想団の参謀二、三人が人待ち顔に椅子にかかり白頭翁の影もなし

午後一時前後に至るや今迄の平穏は忽ちにして人波荒き巷と化し シルクハット厳めしき白頭翁は再び姿を現す午前中の投票者多く実業家なりしが午後は折々官吏姿をみとめらる

有島大学教授其の他教師連 金釦(きんボタン)光らせし鉄道官吏さては病院の医師 諸侯何れも興へられたる権利を尊重する愛国忠君の士ならざるはなし

翻って投票所の模様を望見するに 第二入り口の貼り紙 徒(いたずら)に固く形勢を窺知するに由もなし
踵(きびす)を転じて階下に至れば 今や両派の叩頭戦はたけざになるものの如く引きも切らぬ有権者を包囲して名刺を握らせ 口を尖らせ あらゆる術数を尽くす

参謀雑兵の奮闘突撃 真に一大喜劇を見るに如し

▲危機は既に去れり
上野選狂子は彼等戦士の中にも一頭地を抜いて其の奮戦振りを現しけるが突如大勢叱呼して曰く

諸君は同郷の士を愛せざるか
諸君は札幌区の将来を考慮せざるか知らず
諸君の心事は大改党たる筈 政友会を無視するか

と意気 将に天を衝んとして 握れる推薦状を一振すれば翻々(ほんほん)として飛ぶ事 落花の如し

一拾して注視すれば劈頭(へきとう)に大書して曰く「危機一髪再趣意書」

かつんぞ知らん 危機は既に過ぎ 今や間一髪を入れざるものの如きしも 猛烈を極めたる戦闘も〆切時間の切迫するに連れ自然其の威を収め 四時前後よりは役所帰りの官公吏 会社員 理想団より駆り出したる有権者が三々五々出入を継続するのみにて 午前中及び一、二時前後の活気は三度平坦に帰り 明十六日の開票を待つものの如し

午後六時予定の如く〆切り 投票人員千九十八人を算せり
(十五日午後六時記)



今は投票所にはポスターあるのみだが、昔は投票所に各陣営の人が張り付き、こっちに入れてくれ!と声を張り上げて「投票の呼び込み」を行っていた様子がよくわかる。

当時は制限選挙で、誰でも投票できるわけではなく、投票所の数も少ないからこういうことができたのかもしれない。

郡部では投票前に、「我々の町は全員だれそれに投票する」と決議をして、投票を行うということもあったようだ。


▲岩内投票模様

本日岩内町は全町一致 東代議士再選の決議迄も為せし事とて 一の棄権者もなく本日の投票は午後一時までに投票総数百七十二票の多きに上りたり

因みに有権者総数二百三十名なれば午後の分に於いても棄権者等なかるべし

▲鬼鹿の得票
鬼鹿村有権者二十七名の内 二十票 東代議士へ投票せり
其の他は不在者にして棄権者なし

▲増毛町の投票
増毛町は有権者九十名の内 失格不在者等の他七十票は全部東代議士に投票せりと



投票率は高く、旅行等で不在だったり、死んでしまった場合をのぞくとほとんど投票してきている。
もちろん期日前投票の無い時代。一票の重みというのがとてもわかっていた時代なのだなあと思う。

なお、北海道では選挙があり、投票もできたが、樺太のほうは選挙区がなく、選挙については北海道の状況を伝えるのみで、投票したというような記事は見あたらなかった。人口も少ないし、仕方ない話であるのかも。

さて、開票結果はどうなったのか、それはまた次回以降に・・・
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2012年10月20日

明治末年北海道記19:1912年5月16日衆議院選挙開票!

19日午前9時10分。稚内で初雪。
平年より3日早く、初雪前線は宗谷海峡を渡った。
豊原(ユジノサハリンスク)でも19日の10時にみぞれを観測しており、実況で確認できる今季最初の雪となった。

手稲山も頂上付近が白くなり、いよいよ来るものが来たか!という感覚である。週明けはまたさらに強い寒気が入るから、雪線がまたふもとに向かって下がるだろう。

今年の初雪一番乗りは稚内という結果となったが、このブログ的には100年前の総選挙の結果がどうなったかを記す番である。

1912年(明治45年)5月17日 北海タイムスより注目の札幌区の開票速報を


▽札幌区の開票

▲所謂理想団の奮闘
最後の一日に於いて予想外の戦闘を為したる札幌区は 大勢に於いて既に決し居るとは云いながら何となく不安の色を湛へつつ開票の結果を待てり

予定の如く 十六日午前八時開票を始むるや両派の幹部何れも血走る眼を見張りつつ 伝令が齎す(もたらす)票数により一喜一憂を為す様 誠に奇観なり

百 二百と採点の進むにつれ 両者の得点は殆ど並行し 少しの差を認めず

流石の浅羽派も敵の奮闘の如何に猛烈なりしか一驚を喫したるものの如く見受けらる

採点は暫次進行して三百三十七点阿部宇之八と採点せらるや形勢は実に混沌として殆ど補足するに苦しむ有様となれり

然れども同歩調を以て進みたる阿部氏の得点は之れを限度として俄然停止したるに反し 浅羽氏の得点は四百 五百と其数を増すのみ

此の悲報を受けたる理想団の心事や如何に

切歯扼腕(せっしやくわん)するも時機は既に去り 形勢は遂に挽回する可くもあらず

憐れ理想選挙を旗しょくに孤軍奮闘したる理想団も三百三十七票を最後に敵の為に屠られ了んぬ時に十時なりき

斯くて理想団を一蹴し去たる浅羽氏は得点遂に七百四十点を収め 最後の桂冠をかち待たり

午前十時四十分開票を了する結果 左の如し

(当選)七百四十票 浅羽 靖
(次点)三百三十七票 阿部 宇之八

四票 古川豊雄
三票 中西六三郎
一票 高桑市蔵
一票 高岡熊雄
一票 一柳仲次郎
一票 浅羽晴

即ち有権者千四百六十八人中 棄権者三百七十名 無効投票十名なりき



さすがに一日の選挙戦では無理があったか。札幌では現職・中央倶楽部の浅羽氏が当選ということになった。

当日の記事には当選者の横顔についても載っているが、浅羽 靖氏についてのプロフィールをざっくりとまとめると・・・

・安政元年・大阪生まれ
・明治8年(1875年)に大蔵省租税寮十五等出仕と官僚での社会人スタートを切る。順調に昇進
・明治17年(1884年)5月に根室県二等属、7月に収税長心得ということで、税金を取り立てるような仕事をしていたらしい
・明治19年(1886年)根室県廃県により北海道庁理事官となって根室支部・次長となる。そして12月に札幌区長兼札幌郡と他八郡の長となる。このころ、札幌市長にあたる札幌区長は官選で任命制。札幌には区長に任命されて、初めて住むということになったようだ。
・明治20年(1887年)6月、私立北海英語学校の校長に就任。
・明治22年(1889年)5月、内国博覧会の委員長に就任
・明治23年(1890年)1月には財務部取調委員となり、3月に北海道庁第二部長となる
・明治24年(1891年)の4月に退官。実業家に転進
・明治37年(1904年)4月の衆議院議員選挙に札幌区から立候補。初当選を果たす
・明治40年(1907年)に戦役の功により勲四等を受勲。ただ何の戦役かよくわからない?
・明治41年(1908年)の衆議院選挙では札幌区から立候補し再選。
・明治42年(1909年)6月には札幌商工会議所の特別議員となる

という歴史である。

経歴を見るところ、財政に詳しそうだが、記事によれば中央倶楽部の代議士での活動としては「教育家」、つまり北海英語学校(現・北海学園)の創立・経営の経験からの学問育英に議員として取り組んでいたらしい。


では、当日のコラムを読んでみよう。


●閑是非

待ちに待った総選挙もアラ方終了したが 余り平穏無事とも云へぬ
小樽函館根室辺には選挙法違反とか何とか穏やかならぬ風聞がある

△根室選挙区は植別附近出水から交通途絶で全村投票の出来なかった所がある

△夫れが為めに選挙会が二十九日に延びたから 本日中に道選出議員の当選を確定することの出来ぬは遺憾だ

△札幌区の独舞台もチョット横槍がはいったので意外に投票所が賑わった

△がチョットが三百数十票の横槍とはひどくドン腹をねぐったものだ

△開票すると得票には鉄道の役員もあれば大学の教授もある
無効が十票とは驚くでは無いか

△無効投票中には白票三、記名投票や捺印投票や全く字体不明のものさへある

△或は青山将軍浅羽大仏とか阿部宇八とか浅羽君とか 甚だしいのは乞食弥一郎といふのが二票もあった

△随分悪戯をやったものだが 札幌区民中にも貴重な権利行使を斯くの如く玩弄するものありと思へば情けなくなる

△血眼で騒いだは小樽だ
山田派の熱狂に釣り込まれ 高橋派もトチ面棒を振った所は流石に小樽だ

△トウトウ高橋が多数で当選すると 落選の山田派は楽隊附きで練り回る所は面黒いが 亦大いに同情すべき点もある

△函館区は平出対宮島では 元より相撲にならぬ
平出の得票は約三倍とはさもありさうなことだ

△未だ海とも山とも附かぬは函館郡であるが大勢は内山のものらしい
是れも今日あたりは分かる

△根室郡部は敵も見方も共に百余の多数で当選を誇って居るが 夫れでこそ戦争も出来る訳サ

△来る二十日に最終の投票があるから之が天下分け目の関ヶ原戦だといふことだが、其の有権者があまり寡い(すくない)テ

△ドウしても大選挙区を一手に掌握した牧堂の得票驚く勿れ 約四千とは偉い
愈々今日開票だから其の得意や想うべしだ



無効票の中身について書いてある。
明治末にはかなり少なかった無効票であるが、乞食の名前を記すとか・・・

当時、選挙権を持つのは限られた人々。投票できない人間からすれば、せっかくの権利を持っていながら、何ともったい無いこと!と映ったのであろう。

さて、20歳以上なら誰でも選挙権のある今の世。
先人がうらやんだ投票権を行使せず、それでいて時の政府を批判したり。
その身勝手さには、おそらく先人の目にも「権利の玩弄」と映り、「情けなく」思われるであろうなあ。

その衆議院選挙。今年の夏の終わりに言ってた「近いうち」って・・・北海道の冬が始まるのは「近いうち」だけど、ひょっとすると春が先に来るなんてことないよね・・・?


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2012年10月31日

明治末年北海道記20:1912年5月17日サクラ満開の軽川温泉にいらっしゃい

熱い!

といっても気温ではなく、今の札幌はファイターズで熱い。
日本シリーズの真っ最中である。開幕二連敗したファイターズとあって、なんとか北海道としては沈滞ムードを吹き飛ばすいいネタはないものか?と「ジンクス探し」に躍起になっている。

「日本シリーズの期間中に、札幌で初雪が降るとファイターズは日本一になれない」
これがひとつみつけたジンクスだ。そして日本一になった過去2回は、どちらも11月12日が札幌の初雪だ。(1962年、2006年)

今の所、札幌の初雪の可能性は来週にかけて薄い。850hPaで−3℃まで下がらない。来週は異常天候早期警戒情報まで出ている。
日本シリーズ中に札幌の初雪は無いとなると、ファイターズ逆転日本一のジンクスがはまるかもしれない。

このジンクスを発信して以来、ファイターズは2連勝を飾った。五分に戻すとは!いやーすごいすごい。

ということで、今年だけ?はこのジンクス成就を願って、ファイターズを熱烈に応援することにしてみた。

さて、熱い戦いの続く札幌ではあるが落ち葉がふきだまっている。観楓会というには寒くなってきたが、春の花見も震えながらジンギスカンが常だし、同じようなものか?

さて、明治の末の春の話題。今回はそんな花見の広告から見てもらいたい。

1912年(明治45年)5月17日 北海タイムスより

軽川温泉.JPG

サクラが満開なので「花見風呂」で癒されては?という広告。
しかし、札幌・軽川に温泉?ということで、そんなものあっただろうか。と思って調べていると、まず、広告にある光風館を撮影した写真をみつけた。

http://gazo.library.city.sapporo.jp/shiryouDetail/shiryouDetail.php?listId=475&recId=103546&pageId=1&thumPageNo=1

また、北海道立地質研究所報告の81号に「札幌の市街地西部山麓にあった温泉」(藤本和徳氏)というかなり詳しい文献もあって紹介されているのもみつけた。

手稲から円山にかけての札幌西部の山麓にはあちこちに温泉施設があり、今の手稲区富丘6条3丁目に「軽川温泉」はあったとのこと。明治26年(1893年)開業ということだから、この記事ではちょうど20年ほど経ったところである。昭和15年(1940年)まで営業し、その後昭和30年くらいから「手稲温泉」として再出発、20年くらい営業していたとのこと。

今は札樽道のまわりで、緑に埋もれているようだ。

大きな地図で見る

さて。札幌は花見に温泉に・・とレジャー満喫な感じであるが、同じ北海道でもこちらは厳しい自然のキバが剥いていた

同日の北海タイムスより


●常呂の雪責水責

一昨日より暴風なりしが 昨午前より寒気頓(とみ)に加はり十時より雪と変じ小止みなきため又々五、六寸の降雪を見るに至り 一面銀世界と変ず

降雪尚止まざれば 或いは七、八寸の積雪を見るならんといひ居れるが 昨日橇(そり)を使用するを見受たり

湧別・常呂・猿間川 股出水のため交通杜絶 原野に氾濫し浸水家屋多数避難のものあり

今 盛んに増水しつつあれば又々大出水に至らん(十五日常呂電報)



この年、オホーツク海側は5月のはじめにも融雪出水による大洪水が各地を襲い、避難騒ぎとなっていた。5月9日付けの北海タイムスにも空恐ろしい記事が載っている。


▲筏の儘(いかだのまま)海中に流さる

三日常呂村十九号線より佐藤庄之助外三名水害のため交通杜絶せるより 筏にて常呂市街地に到らんとし 別に便乗者二名都合六名にて乗り出したるに 水勢 矢の如く 対岸に寄り附くを得ず はや海中に押し流されんとするより

内二名は死を決して渦巻く河中に飛び込み 漸く常呂橋下にて救助されしが残る四名は遂に海中に流され 激浪のために危く溺死を遂げんとしたるが 救助船のために引揚げられ 二名は生命危篤なりと

(四日午後四時五十分網走発電)


常呂は度重なる雪融け水による災害に加え、厳しい寒の戻りもあり、辛い5月となっていたようだ。

再び札幌に目を戻す。当時、春の札幌は勝負の季節。小学校の運動会が開催されていた。


西創成運動会

西創成小学校の運動会は予報の如く 昨日午前八時から大通の草原に開催
運動会は周囲に縄を張り 来賓席には幕を回し 小旗が高く風邪に動き 元気に充ちた一千の児童は三発の煙花を合図に一同校長のお話を聞きし後 唱歌を合唱し 直ぐに遊戯を始め 男生は皆着物を脱ぎ白シャツとなり徒競争、友さがし、騎馬競争 障害物競走 隋道(トンネル)と峠 二人三脚 札拾いと遊戯は順次に進行し リボンと白い前垂の女生も活発に走り廻り 北の方の隅には紙旗を打振る無邪気な野次あり

各級各組の声援 四方から盛んに起こり 嬉々とする声賑やかにして 運動場の周囲は人山を築き 遊戯は午前と午後八十五回

尋常科の児童が男女合併で大きい輪を作り 小さい掌を打ちながら 旭にヒバリや浦島太郎の遊戯は殊に嬉かりし



トンネルと峠というのは、馬飛び&馬くぐりみたいなものであろうか??

春の運動会、秋の日本シリーズ。
今も昔も、熱い勝負で札幌は湧いていたというわけであった。

posted by 0engosaku0 at 23:20 | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月21日

明治末北海道記21:1912年5月19日東武氏当選

世間は衆議院選挙の話題がもちきりで、今日は鳩山元首相の政界引退という話も北海道で大きな話題であった。

明治最後の年1912年も衆議院選挙であり、北海道は札幌や函館、小樽の三都市と、北海道を大きく3つに分けた郡部での合計6の選挙区で議席を争った。

先に北海道記18そして19で札幌区の投開票の模様を掘り起こしたのだが、6つの選挙区の中で記録的な地すべり的圧勝となった選挙区がある。

それは札幌郡部選挙区。道央〜道北のエリアにあたる選挙区である。

1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス


▽札幌郡部開票

▲増毛支庁管内
開票は本日午前八時より行わる
総投票数三百十五票にて 其中無効四票あり
其の他は悉く東氏の得票にて 其数三百十一票なり
(十八日増毛発)

▲最大多数当選
札幌郡部の逐鹿界は終始一貫 東(あずま)代議士の独占する所となり 各地有権者も亦(また) 熱烈なる同情を以て歓迎し 且つ棄権を戒め 互いに申し合わせを為し 或いは他村迄も連絡を採り 一致の歩調にて同氏を推薦するに至りし

結果は各投票区とも極めて少数の棄権にて 其投票は殆んど氏の独占する所となりて次点者を見るに至らず

愈々(いよいよ)昨日を以て各開票所とも開票終了の結果は実に左の如き最大多数にて当選の栄を得るに至れり

当選
三千七百九十六票
東 武



東武と書いて「とーぶ」ではなく、「あずま・たけし」と読む。

増毛は投票者のうち無効票以外は全部が氏に投票しているが、札幌支庁管内の6投票所合計も、有効投票数427票のうち412票を獲得するなど、各地区の有効投票を総取りするような圧勝である。

これも、村の有権者が会議を開いて「東氏にみんなで投票しよう!」とわざわざ決議しているくらいで、かえって棄権したり他の候補者に投票したら村八分になるのではないかというような全地域一致の支持ぶりであった。


東武とは何者なのか・・・
いまは「東武」と書いてgoogleにかけても東武(とーぶ)グループの検索結果がひっかかるだけで、これだけではなかなか情報はつかめない

「東武 議員」と入れるとウィキペディアの記事などがヒットする。

北海タイムス社の社長であり、初当選は1908年ということがウィキペディアに載っているが、さすがに北海タイムス。自身の社長のことだから、出自も詳しく出ている。

そのままではかなり読みにくいので抜粋すると
・明治2年(1968年)大和国十津川の生まれ
・最初は大阪の大学予備校に学び、それから東京法学院(今の中央大学法学部)に入り卒業
・故郷十津川の豪雨災害を受け、村人に北海道移住を説き、郷民3000人を現在の空知・新十津川町入植させる
・自分も東京法学院卒業の翌年、明治24年(1891年)に北海道へ移住する。その後も明治25年10月に100戸、明治26年4月にも100戸の移住を斡旋
・明治26年(1893年)に雨竜の農場の経営を任される
・明治31年(1898年)に仲間と一緒に「同志倶楽部」という政治団体を結成
・明治31年(1898年)11月、北海時事社という新聞社を設立。社長になる。このころ石狩川治水問題や拓銀の創設、北大設立などの陳情のため度々上京している
・明治34年(1901年)は政友会の札幌支部創立委員となる。さらに政会令発布に際し、空知三郡農事副長などに当選している
・明治34年8月10日、北門新聞と北海道毎日新聞、北海時事の三社が合併して「北海タイムス」が設立されると、その理事となる。明治45年当時はまだ社長ではなく理事のまま
・明治41年(1908年)の衆議院議員選挙で札幌郡部より選出、初当選。

というような感じである。
ともかく、この時代では政治家としてかなり地元民には慕われていたようで、いろんな祝賀行事にも東武氏が姿をみせては歓迎を受けている様子が記事として掲載されている。


北海道でも時代によっては絶対的な当選力を持った政治家は現れてきたが、風になびく有権者が多くなった今は、このように地域と結びついて圧勝するような政治家はなかなか出ないかもしれない。


posted by 0engosaku0 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする