北海道は「平年並み」という一見何の変哲もない予報だが、予報官にいろいろ聞いて見ると偏西風の蛇行の可能性が高く、ちょっと寒気や暖気の流れがずれると高温にも低温にも振れるということで、なかなか予想の難しい「平年並み」なのだそうだ。
それなら30:40:30とかではなく、40:20:40みたいな確率予報にできないものかとも思うのだが、そうもいかないらしい。一ヶ月予報で修正しながらの対応が続くのであろう。
さて明治最後の春を迎えた北海道の話を続ける。
こちらは予測がつかず、出くわす生き物との対決話。
1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス
●苫前村武右衛門 熊を太刀で梨割にす
苫前村サンケベツに於て 十二日午後三時頃 路傍の山に黒き物がガサつき居りしを 通行の郵便逓送人も小学校生徒も同様 山木仁作なるものの馬ならんと思いつつ余念なく通行せし後
近傍に畑稼ぎせる石谷広治(十八)は之を見たるも同じく馬ならんと思ひ居りし所 段々接近し来るを見れば あに計らんや熊なるに驚き 家に帰りて槍を携へ熊に向ひたるに
熊は汽笛の如き奇声を発しつつ猛然と突立ちたるを以て 広治は退却を始めたるを見たる細川武右衛門(二六)は二尺八寸の太刀を携え真向に振翳(ふりかざ)し熊に向ひたるに
熊は又々奇声を発しつつ猛然と飛びかかりたるを以て 細川は死を決し全力を注ぎ顔面望んで斬り付けたるに 其切先(きっさき)熊の右眼より顎迄斜めに美事(みごと)に斬りたるを以て 遂に一太刀にて熊は斃れたり
熊の月の輪は珍しき大なるものにて三歳の牡なりし
(苫前通信)
馬かと思ったら熊だったという事件。
細川武右衛門は大いに名を上げているが、北海道にはいないはずの「月の輪」のある熊ということを示唆する記述が大変気になるところ。
本当かどうかわからないもので名をあげるものがいれば、正真正銘の有名人?の話題も記事になっている。
1912年(明治45年)5月20日 北海タイムス
珍しい芋料理
七十余種を巧みに調理す
十七日から北一条西一丁目同窓倶楽部に於て 六十一になる老媼が芋料理を区内の有志家に教授しているが 此の老媼は林セイと言ひ 福島県会津の生まれで今から二十年前 芋の利用を考え 現今では七十余種の調理法を発見したといふ
実に驚く可きは芋から米や味噌迄も造り出す事で 秋田・宇都宮・宮城等各地に於て その講話又は実地の教授を為し 数年の間 下田歌子女史の実践女学校に教鞭を取った事もあり 畏くも皇后陛下が芋のお菓子を大層好まれて度々献上したそうである
最近は青森県下の数十ヶ所に於て芋の調理法を教授し 同県からの紹介で今後初めて本道へ来た訳で 只今道農会の方から一時同窓会の一部を借りて 農友会の方に教授して居るが 団子・飴・菓子・赤飯・蕎麦を芋で作って見せ是等の人を驚かし 記者が昨日訪ねた時には 白い頭髪を散切(ざんぎり)にし 白布の仕事服を着けた同女は大勢の人に囲まれ 倶楽部の勝手の縁側に敷布団もなしに座りながら味噌や宮の花 御代の花といふ菓子を造へて(こしらえて)いられた
料理に使う塩は普通の売塩の粗悪な為 ソーダ三匁と鶏卵一個を一升の塩に入れてアクを脱いていられた
明日は午前中札幌高等女学校に於て講話をするといふ話であるが 同女は芋が北海道の重要産物である所から献身的に此の料理法を全道へ復旧させいたと言う精神であれば 此の際(札幌)区内の菓子商等は一ツ連合して同女の講話を聴くなり実地の教授を受けるなりしては何うか(どうか)
尚ほ教授を受けたいと思う有志家は同窓倶楽部に道庁の山田技師出張し居れば 遠慮せず申し込むべし
林セイさん。芋料理研究家?だろうか。
芋で作る味噌など、今の世に全く残っていないのであるが、芋団子、いももち、あげいもなどはひょっとしたらこの林セイさん考案の料理なのかもしれないかも?と思うとちょっと面白くなってくる。
同じ頃、留萌では演劇一座が町にやってきていた
同日の北海タイムスより
浜千鳥劇開演
十九 二十 両日の午後五時より 留萌町劇場留萌座に於て 新派俳優常盤団・三好一行に依て 本紙連載小説・浜千鳥劇を花々しく上劇中なるは既報の如く
一行は町内を楽隊附馬車にて廻り 朝来より景気を添へ居り 又正五時開演の相間に三発の花火を打ち上げる筈にて
本社留萌支局に於ては愛読者に対し優待券一千五百枚を配布せり
本劇は各所に於て多大の喝采を得たることとて非常の人気なれば盛況を極むるは事ならん
(十九日留萌電話)
ニシンで沸き、景気のよい留萌の春に、劇団もやってきて賑やかさに花を添えるといったところか。
娯楽の少ない当時、このような劇団はそれこそ大勢の観客が駆けつけたことであろう。