2012年11月22日

明治末年北海道記22:1912年5月17日同窓倶楽部で芋料理教室

本日は三ヶ月予報が出た。

北海道は「平年並み」という一見何の変哲もない予報だが、予報官にいろいろ聞いて見ると偏西風の蛇行の可能性が高く、ちょっと寒気や暖気の流れがずれると高温にも低温にも振れるということで、なかなか予想の難しい「平年並み」なのだそうだ。

それなら30:40:30とかではなく、40:20:40みたいな確率予報にできないものかとも思うのだが、そうもいかないらしい。一ヶ月予報で修正しながらの対応が続くのであろう。

さて明治最後の春を迎えた北海道の話を続ける。

こちらは予測がつかず、出くわす生き物との対決話。

1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス


●苫前村武右衛門 熊を太刀で梨割にす

苫前村サンケベツに於て 十二日午後三時頃 路傍の山に黒き物がガサつき居りしを 通行の郵便逓送人も小学校生徒も同様 山木仁作なるものの馬ならんと思いつつ余念なく通行せし後

近傍に畑稼ぎせる石谷広治(十八)は之を見たるも同じく馬ならんと思ひ居りし所 段々接近し来るを見れば あに計らんや熊なるに驚き 家に帰りて槍を携へ熊に向ひたるに

熊は汽笛の如き奇声を発しつつ猛然と突立ちたるを以て 広治は退却を始めたるを見たる細川武右衛門(二六)は二尺八寸の太刀を携え真向に振翳(ふりかざ)し熊に向ひたるに

熊は又々奇声を発しつつ猛然と飛びかかりたるを以て 細川は死を決し全力を注ぎ顔面望んで斬り付けたるに 其切先(きっさき)熊の右眼より顎迄斜めに美事(みごと)に斬りたるを以て 遂に一太刀にて熊は斃れたり

熊の月の輪は珍しき大なるものにて三歳の牡なりし

(苫前通信)


馬かと思ったら熊だったという事件。
細川武右衛門は大いに名を上げているが、北海道にはいないはずの「月の輪」のある熊ということを示唆する記述が大変気になるところ。

本当かどうかわからないもので名をあげるものがいれば、正真正銘の有名人?の話題も記事になっている。

1912年(明治45年)5月20日 北海タイムス


珍しい芋料理
七十余種を巧みに調理す

十七日から北一条西一丁目同窓倶楽部に於て 六十一になる老媼が芋料理を区内の有志家に教授しているが 此の老媼は林セイと言ひ 福島県会津の生まれで今から二十年前 芋の利用を考え 現今では七十余種の調理法を発見したといふ

実に驚く可きは芋から米や味噌迄も造り出す事で 秋田・宇都宮・宮城等各地に於て その講話又は実地の教授を為し 数年の間 下田歌子女史の実践女学校に教鞭を取った事もあり 畏くも皇后陛下が芋のお菓子を大層好まれて度々献上したそうである

最近は青森県下の数十ヶ所に於て芋の調理法を教授し 同県からの紹介で今後初めて本道へ来た訳で 只今道農会の方から一時同窓会の一部を借りて 農友会の方に教授して居るが 団子・飴・菓子・赤飯・蕎麦を芋で作って見せ是等の人を驚かし 記者が昨日訪ねた時には 白い頭髪を散切(ざんぎり)にし 白布の仕事服を着けた同女は大勢の人に囲まれ 倶楽部の勝手の縁側に敷布団もなしに座りながら味噌や宮の花 御代の花といふ菓子を造へて(こしらえて)いられた

料理に使う塩は普通の売塩の粗悪な為 ソーダ三匁と鶏卵一個を一升の塩に入れてアクを脱いていられた

明日は午前中札幌高等女学校に於て講話をするといふ話であるが 同女は芋が北海道の重要産物である所から献身的に此の料理法を全道へ復旧させいたと言う精神であれば 此の際(札幌)区内の菓子商等は一ツ連合して同女の講話を聴くなり実地の教授を受けるなりしては何うか(どうか)

尚ほ教授を受けたいと思う有志家は同窓倶楽部に道庁の山田技師出張し居れば 遠慮せず申し込むべし



林セイさん。芋料理研究家?だろうか。
芋で作る味噌など、今の世に全く残っていないのであるが、芋団子、いももち、あげいもなどはひょっとしたらこの林セイさん考案の料理なのかもしれないかも?と思うとちょっと面白くなってくる。


同じ頃、留萌では演劇一座が町にやってきていた

同日の北海タイムスより


浜千鳥劇開演

十九 二十 両日の午後五時より 留萌町劇場留萌座に於て 新派俳優常盤団・三好一行に依て 本紙連載小説・浜千鳥劇を花々しく上劇中なるは既報の如く

一行は町内を楽隊附馬車にて廻り 朝来より景気を添へ居り 又正五時開演の相間に三発の花火を打ち上げる筈にて

本社留萌支局に於ては愛読者に対し優待券一千五百枚を配布せり
本劇は各所に於て多大の喝采を得たることとて非常の人気なれば盛況を極むるは事ならん

(十九日留萌電話)



ニシンで沸き、景気のよい留萌の春に、劇団もやってきて賑やかさに花を添えるといったところか。
娯楽の少ない当時、このような劇団はそれこそ大勢の観客が駆けつけたことであろう。


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2012年11月23日

明治末年北海道記23:1912年5月15日選挙の裏で網走では格闘

勤労感謝の日の札幌市内。
湿った雪の降りしきる中、共産党の運動員?が拡声器ひとつで誰に向けてか一生懸命演説しているのがみかけたし、公明党の選挙カーも「ドライバーの皆様」と言いながら目の前を走り抜けていった。

テレビでもずらりとならぶ政党の名前。すっかり世の中は雪の華舞う総選挙モードとなっている。

100年前の明治も第11回衆議院選挙。今年とは違い、サクラの花舞う総選挙であったが、投開票の裏で、少し違った激しい闘いがオホーツクで起きていた。

1912年(明治45年)5月19日 北海タイムス


●人夫農民格闘続報

木材流送人夫と農民格闘に付 網走署よりは曽根警部補外巡査三名急行し鎮撫に至りたるが加害者七名は引致され被害者は網走にて治療中

目下の経過については生命に別状なかるべしとの事なるが負傷者は六名 詳細取調べの上報道すべし

(十八日網走発電)


政党の闘いではなく、人夫と農民の闘いである。

何がどうした?ということについてはこの記事だけではよくわからない。
詳細は24日の紙面に書いてあった。

1912年(明治45年)5月24日 北海タイムス


網走川の船合戦 木材留場の切断

既電の如く 去十六日網走郡女満別村字礼文尻なる網走川口に於て 同地の農民十余名と木材流送人夫十九名と木材留場切断問題のため端なく一大格闘をなし 多数の負傷者を生じたる椿事を左に詳報せん

▽第一回の切断
本年網走川に流送すべき重(主)なる木材業者は三井物産、北海林業転石各次郎、東京松恵等の木材業者にして 是が流送の請負は美幌村松本 網走町古田の両名にて先月より流送に着手したるが

本月四日に至り俄かに融雪の為め一時に出水したるを以て予定外の流木を見るに至り 右受領者なる古田・松本の両名狼狽して此の流木を喰込めんと殖民道路なる渡船場の上流に応急手当としてアバを張り 流木に対して相当の処置をなさんとしたる

折柄農民来りて 此(この)アバを取除(とりのけ)ん事と迫りたるも 下流に於て相当の設備をなす迄 猶予を求めたるに 農民は頻り(しきり)に損害を口実にするより 古田・松本等は若し是れが為に損害を来すに於ては造材者に相談の上 相当の弁償をなさんと答へたるも 即時ならでは延期する能はずとて五日の夜 流送者の不在に乗じ 何者かが鉞(まさかり)を以て無断切断したれば 是がため角材丸太取り交ぜて約二千五百石流失したり


ひとまずここで切るが、明治の末は山奥の木材を運ぶのに、道路も未発達な上にトラックもなく、川にまとめて流して下流で引き揚げるという「流送」方式がとられていた。
今から半世紀ほど前までは日高などでもまだ木材の流送が残っていたが、ダムやら何やらできた今は完全に消えている。

どうやら、融雪のために一気に木材が上流から流れてきたため、農民の使う水路にも木材を貯めていたところトラブルとなり、話し合いで木材の移動はちょっと待ってくれることになったはずが、何者かが網を切って貯めていた木材を全部網走湖へ流してしまったらしい。

続いての記事をみてみる


▽危険なる八戸

昨年常呂村に於て 出水の際木材留場につき農民と木材業者との間に議論を生じ 農民側は若し留を切断せざるに於ては人畜に危害を加ふと主張し 争論の結果警察力を以て遂に切断したるに

意外にもその効果なく 僅かに五寸の減水しか見せぬより出水と留問題に就ては 当局者も未だ断然たる解決を興ふる能はず

果して留が農民の唱ふる如く大なる水流に支障を来すや否やは 今尚(なお)疑問に存ずる由なりといふが 今回の水害地・礼文知りは最も凹地に属し 川床より低地の箇所多く 殊に部落農民中八戸は最も甚だしき低地なるを以て 毎年水害に見舞われ 而かも(しかも)巴状の一端にあるより袋地となり 何れにも避難の道なき位置にあれば 水害毎には危険なるが

今回の出水にも床上一尺に及び出水毎に危険に遭遇せざるなければ果たして木材留が水流を阻止し 是が為に人畜に危害を来さんとするかは最も低地にして毎次出水には原野一面に氾濫する礼文尻に於て 特に研究を要すべき問題たる也



なぜ、農民が木材を留め置くことに反対するか、その理由がわかる。
大量の木材が、まるでダムのように川をせきとめるようなはたらきをし、留場の上流側で川があふれるのを心配しているというのである。

騒ぎの舞台となった礼文尻という場所は、網走川が網走湖に注ぐ場所である。
グーグルマップで見てみるとこちら


大きな地図で見る

今は大空町女満別の住吉という地名となっている。

続きをみてみよう


▽流送人夫排斥

当部落にては何日誰々の集会に於て決定したるが不明なれども 松本・古田の流送人夫は渡船場なる阪本方に宿を借り 同所に宿泊し居たるに

六日農民五、六名来りて 阪本某に対し 当村の掟(おきて)として流送人夫を宿泊せしむる者は村民一同絶交する事に決したれば 若し宿泊なし居るに於ては片時も猶予ならず 直ちに退去せしむべしと迫りたれば

阪本方にては夕刻と云ひ 是より追出すに於ては美幌迄行かざるべからず 実に気の毒なりと思ひたれど 農民側は中々承知する気配なければ 止を得ず飯を焚(たか)んとして米を洗ひたるもの迄 其儘(そのまま)持参退去せしめたり

此事を美幌村に於て聞きたる礼文尻部落の職工某は 流送人夫と農夫との間に於て 感情の衝突より事ここに出たるならん 然るに於ては双方の不利益なりと信じ 松本受負人に対し 若し農民に於て損害あるに於ては相当の弁償を以てせん事を談じたるに

松本も大いに之を容れ 七日磯江と共に礼文尻に来り 学校に於て農民と流送人との交渉会議を開きたるも森某出席なきを以て 結局不得要領に終り 解散したり



「流送人を泊めるなら絶交だ」と同じ村民に言いつけるほど怒る農民に対し、万一の時は補償することを条件に作業を続けたいと下手に出る流送人。仲介者もあり、話し合いでの解決を模索していたが、それは決裂してしまった。

そしていよいよ「戦争」へと突入していく


▽棍棒を以て包囲

松本は六名の人夫を連れ 其夜 森方に至り当日の顛末を語れ居たる午後八時三十分頃 農民側の主領・中本留蔵が先頭に二十名位 各自棍棒を提げ 今後留を張るに於ては直ちに切断するを以て 其分に心得よと怒鳴るより

森始め来合せたる水戸・青木等は取り鎮めんものと 損害あれば相当弁償せしむるより穏和の解決を遂げざるやと申し込みたるに 損害を弁償するに於ては取り決めざるにあらざるも 其損害金に対しては只今即答せざるに於ては 肯容れ難しと 且悪辣雑言を重ぬるより 側に居たる人夫等も聞き兼て 此の時既に大活劇の幕は開かれんとしたるも 松本・森其の他の言に依りて漸く事なきを得たり



武器を持って脅す農民に対し、何とか言葉で収めようとする流送人。
流送人側の人夫には、話を聞き入れない農民に対して強い反感が醸成されていた。

24日の紙面にはここまでで、続きの話は4日後の紙面に掲載されている

1912年(明治45年)5月28日 北海タイムス


●網走川の船合戦 木材留場の切断

▽損害の要求談判
是より先 松田某及び中本留蔵は流木のため漁場に張りたるチカ網を破損したりとて 美幌村なる松本方に至り 損害金各五十円を要求したるも松本は之に応ぜざりしを以て 松田は角材及び丸太取交ぜ百五十本を押収し 中本は損害の訴訟を提起したりともいふ

▽農民側の主張
農民側は本年既に二回の水害に遭遇し 今又此水害に際し一日も早く減水の途を講せざるに於いては 蒔き付け時期を失し 本年の農作は殆ど皆無となるのみならず 木材留のために水勢を阻止し 水は刻一刻に増水して人畜の危険に瀕し 既に馬一頭斃死せしむるの状態に陥りたるを以て 留切断を要求するに聞き入れず 且何等の措置は出ざるのみか 第一回の留切るや更に下流に置いて違法の留を張り 農民の困苦はごうも顧みざるより 人命には替へられず最後の手段に出んとする際 端なくも暴力を振るって多数の負傷者を生せしめたるが 斯く如く暴力を敢てしても流材せんとするに於ては農民は一日も安堵して其職に従事する能はず今後出水に就ては農民にも相当の保護を興へられたしと主張し居れり



農民側はこの事件の前に、流木によってチカを獲るために仕掛けていた網を切られているという「怒りの伏線」となるような事件があったようだ。
この時の補償に応じなかった流送人の態度が、今回の事態での農民側の態度を硬化させたのだろう。

先の棍棒事件から一週間、問題は解決しなかったようだ。
このため、いよいよ戦争が起こるのである。

事件発生は衆議院選挙の投票日。5月15日であった。


▽愈々(いよいよ)合戦の序幕

十五日の午後七時頃 中本留蔵を始め十余人の農民は下流に架説したる留場に来り

番人なる流送人夫片桐、宍戸、佐々木、川口、小谷、加藤の六名に対し 水は刻一刻に増水して人畜危険に瀕したるを以て直ちに切断すればよし 左なくは吾々に於て切断すべしと鉞(まさかり)を持ち来りたるより

片桐等は 吾々は其日々々の出面取りなれば此留に責任なきも 番人たる役に於て雇主に一言も報告せず指揮を受けずして見すみす切断せしむるは情に於て忍びざるを以て 明十六日迄猶予し呉(く)れよと申し込みたるに

中々聞き入る様子なく押問答の末 十六日午前十時迄 見合す事となりたるに 誰が手を下したるか嫁綱をプツリと切って落し 鯨波を作って引き揚げたるにぞ 人夫等は大いに狼狽し 佐々木加藤の両名が夜中日幌村なる松本方に急報を告げ 一方残留の人夫は夜を徹して是が流失を防ぎたり


▽艀合戦の開始

此の急報に接したる流送請負人松本伝吉・三井物産請負人有坂克巳方の帳場井上久義の両名は 人夫を引き連れ現場に急行したり

是より先 農民側に於ては今に何等の音沙汰なき故 彼等は此儘(このまま)に打ち置かん考えなり イデヤ一泡喰しくれんと中本留蔵外十一名 四艘の丸木舟をきし 各々鉞(まさかり)鉈(ナタ)等を用意して下流より漕ぎ上り 留場の角に舟を縛り 中本留蔵・林金吾の両名舟より揚(あがり) 井上・松本及び仲裁人たる松岡と切断に就て交渉談判中

先日まで散々嘲笑されたる鬱憤(うっぷん)一時に勃発したる人夫の加藤菊松は聞くに聞き兼ねて 貴様はといひ様 留蔵の頬を平手に殴打し 尚続けて予ねて用意の出刃包丁を片手に振り回し 己れ憎き土百姓と刺んとするに留蔵を始め金吾も船に逃げ来るを 他の人夫十六名は手に手に流送用なる早助(はやすけ)を持ち 期せずしてドッと押しかけ 突く引く撲くの大合戦

農民等も鉞、鉈等にて格闘し居たるも丸木舟にて思ふ様の活動出来ず 農民の多くは川中に飛び込み彼岸に渡りて逃げ去りたるも 農民の内二名は水泳を知らざるため溺死せんとしたるを 人夫等目指すは留蔵一人なれば可哀相なりと救上げ介抱したるが

捕虜となりたる者の言によれば一、二の者は扇動され付随したる迄にて農民の多くは切断の意思なければ 命だけは助けくれよと哀願したりといふ

当日の農民及び人夫の姓名は左の如し

負傷者は乙吉(四十)背部深さ骨膜に達する裂創 一ヶ所打撲 傷数ヶ所 疾病休業十日間治療四週間
・・・・
留蔵(四十)頭部其の他数ヶ所打撲 休業三日間治療十五日
金吾(四十)左側臀部数ヶ所打撲 治療十日



戦闘自体は流送人夫の勝ちとなったようだ。さすがに農民も丸木船だから、丸太の扱いに慣れている流送人夫に対して自らハンデを課していたようなものであろう。

結局、加藤菊松(28)と佐々木竹治(19)の2名は傷害罪として検事局へ送検されることとなり、他は「説諭を加え」て放免という形となった。

けんか両成敗というわけでなく、先に手を出したほうが悪いとなったらしい。

今の世の戦争も、先手必勝ではなく、先手したほうが国際社会に徹底的に攻められるから、100年経っても争いのルールは似たようなものなのかもしれない。

さあ、総選挙のほうは先手を打った民主党。結果はどうなるだろうか??


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2012年11月24日

明治末年北海道記24:1912年5月19日小樽の実業団運動会開催

本日の札幌はファイターズの優勝パレードで沸いた。

といっても、まあ駅前からススキノまでの縦通りなので、札幌祭りのみこしよりもはるかに短い・・・。テレビでは各局とも生中継で扱っていたが、何かどこかテレビの中の出来事のようで、同じ札幌にいながら今回はあまり実感はわかなかった。

気温は2度。雪雲がずれたため晴れたが相当寒かったはず・・・と思いきや、実際に行った人の話を聞くと、人が密集していたためかえって温かかったらしい。

・・・なんだか皇帝ペンギンのコロニーとかを思い出してしまった。

今から100年前、明治の末もアスリートたちの行進があったようだ。
当時の記事でみてみよう。

1912年(明治45年)5月20日月曜日 北海タイムス


●小樽実業団 大運動会
昨日午前の景況

小樽区内の倉庫業 鉄工業 薬業 取引所 酒問屋 砂糖商 魚商 果実商 小間物商 酒造業 醤油業其の他の各実業団体連合運動会は 予定の如く昨日午前六時より花園公園グラウンドに於て挙行せり

前夜は猛烈なる驟雨ありし為め 組合員は勿論 一般区民をして少なからず失望せしめたるも 昨朝に至り雨止み曇天となりしより 午前四時 幹部にて公園山頂より五段階の煙火を打揚げて開会を報じたれば 参加者の多くは朝餐(ちょうさん)を認(したた)めす

前夜より準備せる思ひ思ひの各団体の特異の仮装にて 一先づ恒例により住吉神社境内に集合し 其処より隊伍を整ひ劉喨(りゅうおう)たる音楽隊の先導にて公園に繰り込みしが 沿道には多数の市民が待ち設けて仮装行列を囃し立つるを見受けたり



パレードとはちょっと違うが、小樽のありとあらゆる職業人が集まり「運動会」が催されたのだが、選手入場よろしく「仮装行列」を行ったというのである。

市民の多くが沿道で朝早くから見たようだが、これはこれで楽しかったであろう。


▲会場の模様

正面には審判席を置き 会長渡辺兵四郎氏を始め十数名の審判委員着席し 右方を婦人招待席 左方を男子正体席に充て 又会場入り口 大額面を掲げ 数名の委員来場者にプログラム・徽章等を交付せり

又入口より右方一帯にもバラックを設け招待席に充てたるが八時頃には既に各席とも満員の景況にて 特に婦人席には今日を晴れと着飾れる 所謂(いわゆる)小樽の貴婦人や令嬢達の紅紫様々の装いは 一層人目を惹くのもありし

▲場外の雑踏
更にグラウンドの外円を眺むれば 未明より好箇の場所を占領すべく詰掛けし群集がひひと重り 其の数無量三萬とおうせられ 正午より天候全く回復したれば尚ほ続々人出を増しつつあり

グラウンド入口道路及び山腹には各種の飲食店物売商人出張り居り 各自声を挙げて客を呼ぶ様 円山の花見の物かはと想はれたり

中にも於古発川岸に一昨日出来したる半永久的の休憩所は ハイカラ美人ありとかにてなかなかの繁昌なりし


天気の回復とともに小樽の市民が続々と運動会を見に集まってくる。
三万人とは誇大か?とも思われるが、同じ頃札幌で行われた「農大遊戯会」の写真を見ると(明治末年北海道記16も参照)、このくらい人が集まってもあながちウソではないかと思ってしまう。

そして、いよいよ競技は開始!


▲競技開始

グラウンドに入りし各団体は 円形の周囲に陣取り 何れも其の業名を現はせる大旗を押立てしは物凄き計りにて

殊に今年初めて加入せし団体に小樽浪好会あり
浪花節も亦実業なるべきかと同団体の大旗に微笑を禁じ得ざりし

米穀取引所・小間物商組合は例に依って団体専属の桟敷を設け 此処より奥さんお神さんの声援頻りなるを見る

七時 渡辺会長より一場の挨拶ありて 第一回二百ヤード競争あり 愈々(いよいよ)競技を開始す


このあとは競技名と一着〜三着になった選手の名前がどんどんと書かれている。
例えば、最初の二百ヤード走で一着となったのは小間物商の坂本勘五郎。次は提灯競争で、一着は浪好会の阿部兵吉・・という具合である。

10番目の400ヤード競争で勝ったのは薬屋グループの篠田作太郎。そのほか、抽選競争とか色合競争など、よく中身のわからない競争競技もある。

14番目のカンジキ競争は足が5つも入る巨大カンジキを「パクパクさせて走る」というもので、場内オオウケだったらしい。


どうもこのころは、小学校などの学校だけではなく、このような業界団体の運動会というのも盛んだったようで、この時期の紙面にはあちこちの「社会人運動会」というものが記事にのっている。

ちなみに同日、札幌でも社会人の運動会があったようだ。

同日の紙面より。

●銀行会社大運動会

札幌銀行会社第十回大運動会は 予報の如く昨日午前八時より(中島)遊園地に於て開催したるが 前夜の雨にて道路乾かず 其の上 風強く時々天候険悪になりて来会社を危きしめしも 午後になり風軟(やわ)らぎ 観客は潮の如く押寄せ 桟敷縄張りの周囲は動きも取れぬ人山なりし

会場東方には加入会社拓殖銀行 北海倉庫 札幌倉庫 札幌澱粉 共成株式 北海銀行 麦酒会社 通運各社 鉄道株式 水力電気瓦斯会社等の一団が各々行社の旗を押立てて競技選手を擁して控え居り 競技毎に各行社それぞれ意匠を凝らしたる運動着を着けし選手が 楽隊の盛んなる声援中の目覚しき働きぶりは殆ど学校運動会以上の成績なり

尚ほ会場北側に設けたるビアホール、ミルクホールには前垂(エプロン)をしたる芸妓数名の一群ありし



タイトルは「銀行会社」とあるが、要は「銀行&会社の運動会」ということの模様。
札幌も小樽と同様な運動会だったようだ。

ただし、参加している会社や団体に、小樽と札幌の街の生業の違いが見えていて面白いと思う。
ビール会社は、やはり札幌だものね。

なお、札幌の銀行会社運動会のほうはこれまで拓銀が2回優勝し、この年もし勝てば優勝旗を永久保持できるとあって話題となっていたらしいが、優勢だったのは帝国製麻で、結局総合優勝を飾った。

面白競技として紹介されているのは「重荷競技」
二人一組で十数貫というから約50キロもある俵を棒にさして、運動場を1周するというもの。
職業柄、札幌倉庫と北海倉庫の社員で1位、2位を取ったらしい。

また、木登り競争というのもあったらしく、水力会社の松田吉次が猿のようにスルスル登って大喝采を受けたとのことである。

小樽、札幌ときて、この町でも社会人運動会があった。新興都市旭川である。

1912年(明治45年)5月21日 北海タイムス


●旭川銀行会社運動会

一昨十九日の日曜日を朴し 旭川町上川中学校運動場に於て 旭川銀行会社組合第二回運動会挙行

朝より煙花数発打揚げられ 見物人は正午迄に三、四千名会場に

入口にはアーチを設け 銀行会社の名旗を押立て 来賓席には歩兵少佐松江・・旭川警察署長白石警視 旭川区裁判所野田判事 上川中学校校長鈴木伝臣氏以下同校教員数十同 及び上川尋常小学校濱田校長並びに各小学校教員各新聞記者等にて

賞品授与席には運動会会長久保●之氏他二三氏控えたり

運動競技開始は正午十二時にて第一回二百ヤードより第五十一回の競技迄行はれたり

審判長は歩兵第二十六連隊第二大隊長藤木少佐・・

<中略>

第五十一回優勝六百ヤード出場の選手六名
一着煙草会社・奥山亀次郎氏にて財嚢一個に優勝旗を得たり

此の優勝旗は前年旭川醸造会社の手にありしなり
午後六時三十分頃散会


元の資料が印刷が薄く、読み取れない部分も多々あって判読不明な部分は●を打った。

中略の部分は各競技の結果を細かく記述しているので割愛したが、第43回に「スキー」とあり、スキーを履いて歩いたりしたらしい。また、学生も参加しているようで、第47回は中学生の400ヤード競争であった。

競技結果でよく目につく企業は「拓銀」「道銀」といった銀行で、その他「電燈」とか「共成」とか「煙草」とかがある。

明治の末は盛んだった業界全体での大運動会。
今の世にはどの町にも、ひとつも残っていない。いつの間にか消えてしまったのか・・・。

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2012年12月11日

明治末年北海道記25:1912年5月15日衆議院選挙で2票を得た乞食(1)

札幌はまたしてもまとまった雪。
5時過ぎから降りだした雪は強弱を交えながら半日以上も続いている。
今日の降雪量は22時現在で15センチに達している。

1日に10センチ以上の雪が降るのは12月に入ってから4回目だが、低気圧の通過だけではなく、冬型の気圧配置によるものも目立つ。今日も850hPaの風向が330度くらいと北北西の風にのって、どんどん雪雲が流れ込んだ。

特に昼前は収束雲が流れ込んだので、一時的に激しい降り方となったが、今回びっくりしたのは、札幌に流れ込む雪雲がどこからきているかということについて。

レーダー画像では利尻沖からやってきたようにみえていたが、地球は丸いので、直線で進むレーダー波は遠くでは雲の上を通過してしまい、本当の「起源」はわからない。
衛星画像でみると、もっともっとはるか遠くから雪雲がきていることがわかった。

2012121110IR.JPG

上はきょう午前10時の衛星画像(赤外)を拡大したもの。
札幌に入り込んでいる雪雲の源を北へ北へとたどってゆくと、なんと間宮海峡の奥の奥まで行きついてしまった。(黄色の丸)

間宮海峡の一番狭い部分はネヴェリスコイ海峡と呼ぶらしいが、ここに向かって吹き込んだ北風が収束したのだろうか。ここでできた雪雲は北風に乗って、樺太南部を左手に見ながら南下。利尻を通って北海道の日本海側を左手に見ながらさらに南下、石狩湾に入り込み、最後に札幌まで届いていた。その距離、直線で約1000キロにもわたる。

今朝は樺太・安別でも、泊居でも、本斗でも、札幌へ向かって列をなして沖合を南下する雪雲の列を晴れた海岸から眺めることができたはずだ。

札幌の上にやってきた雪雲が、はるか樺太から流れてきたのかと思うと、なんだかスケールの大きさに感慨深くも感じた。(たぶん自分だけ)

100年前も今も北海道は衆議院選挙で熱い。投票までもう間もなくだが、これだけ候補が乱立すると選挙公報を読むだけでも大変である。

自分の選挙区に意中の候補がいない場合、適当な名前を投票用紙に書くのは今も昔も同じようで、明治45年の春の選挙では、乞食暮らしをする男が札幌選挙区で2票を得たことが大変話題となった。

選挙直前となる今週は、この話を掘り出していきたい。

1912年(明治45年)5月24日 北海タイムス


代議士候補に二票を獲た 弥一郎君(一)

われわれ人民が一生懸命になって自分の好きな代議士を選出しようといふのは 鉄道を敷いて貰ったり 橋を架けて貰ったり 堤防をきづいて貰ったり 築港をして貰ったり 良い法律を作って貰ったり

つまりは国に善い政治を行って善い生活を送りたいためであるといふ事だが

是は或いは人民の方の勝手な理屈で 代議士になるといふのは中原に鹿をたうやうな 極めて興味深い遊戯であって ただそれだけが面白いので 当選してしまへば 橋を架けるとか堤防を築くとか租税を軽くする工夫を考えるとか そんな事は何でもよいのかも知れぬという人もある

が 併し(しかし) そんな事は先ず何うでもよいとして 我国の選挙界に棄権者や無効投票の数の多いのは何うしたものだらう

亜米利加(アメリカ)あたりでは各々非常に選挙権を尊んで それ丈馬鹿に高くも売れるさうではないか

まだ日本では一円か二円位にしか売れないために 権利を売らずに投げるのだらうか

イヤ ナカナカ高くも内実売れるさうだが 何うせ投票しても自分の思ふ人が当選する見込みがないので 少しも人民の思ふ通りに行かない専制政治下のロシヤ人が惜しげもなく自殺をするやうに 焼糞(やけくそ)半分 権利を投げ棄てるのであらうか

矢張(やはり) 選挙といふ事が日本の人民にまだ善く解っていないためであらうが 何しても只権利を棄てるのは惜しいこった。


ここで一度切るが、投票しないもの、無効投票を行うものに対する嘆きは、明治の末も、平成の今も、100年立ってほとんどかわっていないような気がする。明治は票の買収もやってたのかな?

続ける。


此の間の札幌区の占拠に 乞食の弥一郎君に投票したものが二人か三人あったが 是は全くの悪戯か 又は何か意(こころ)あっての事か

自分の思ふ人を当選する事が出来ないからというやけくそからの面当にか 矢張選挙といふものを解しない者の面白半分か

又は代議士といふものを 要するに乞食の弥一郎位の者と頭からみくびっての事か

そんな事は又何(どう)でもよいとして 記者の観察した所では 札幌の区民は乞食の弥一郎君に投票した事をそれほど憤慨しても居ないらしい

又それほど注意もして居ないらしい

記者も乞食の弥一郎君に投票したものがあるために 札幌の選挙界が堕落しているとは思わない
却って(かえって)面白い現象だとそれを聞いた時に興味を沸かした次第である

乞食の弥一郎君を代議士候補者として投票したのは実に奇想天外の出来事だと非常に感心した次第である

兵隊の帽子や武力の洋剣を下げて 独りで悦に入る弥一郎君の事だから お前を代議士の候補者に投票したものがあるといって聞かせたら 何れ程嬉しがるだらう

山形県から此度当選した或る代議士の留守宅へ 主人が余り喜び過ぎて 気でも狂わない様にせいと言ってのぼせ下げの薬を三十服程送ってやった女があるそうだが 余り喜び過ぎて弥一郎君の馬鹿も 発狂して走り出すかも知れぬぞ

あの黒く汚れた穢い(きたない)顔を思い切り悦ばせた所と 兵隊のやうに厳しく(いかめしく)肩を張った所をレンズに入れたなら 天下一品のポンチ絵ができる事だらうと記者は先ず札幌の名物男を捜しに出かけた


当時の選挙は候補者以外の人の名を書いても、有効票になったのだろうか。

まったく記者個人の興味本位の記事はあるが、弥一郎がどういう人物なのか気になるところ。
続きはまた次回!
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2012年12月12日

明治末年北海道記26:1912年5月15日衆議院選挙で2票を得た乞食(2)

またも札幌はまとまった雪である。
昨日は結局17センチの降雪量だったが、今日も午前中に12センチ降り、午後も23時までに12センチ。あわせて24センチの降雪である。積雪はついに50センチを越え、23時には61センチまで達した。

札幌で12月前半に積雪が50センチ以上となるのは2001年以来11年ぶりで、平成以降ではこれまで3度しかない。これが60センチになると、平成では2001年に1度きりである。明日はやっと一段落しそうなので、今夜から明朝までで、どこまで積雪が増えるかが、記録的になるかどうかのひとつの勝負となろう。

それにしても、小樽も岩見沢も30センチ台半ばである。札幌の多さが突出しているが、今年は札幌で雪の降りやすい冬である。まだまだ冬は始まったばかり。覚悟せねばならない。

さて、ミサイルが空を飛び、世間を騒がした犯罪人は自殺するなどなかなか物騒な世の中であるが、そんな中、選挙まであと4日となった。今日も100年前の選挙の話を続けることとする。

1912年(明治45年)5月26日(日曜日) 北海タイムス


代議士候補に二票を得た ●弥一郎君(三)

代議士候補に投票されるだけあって 弥一郎君はなかなか威風の高い所がある

他の乞食と同様に襤褸(ぼろ)を着て毎日札幌の街の中を歩いているが 弥一郎君は彼らの様に 人の家に行って決して小穢く(こぎたなく)頭を下げない

犬も喰わない腐った物や残飯をちっと許(ば)かり貰ふに頭を下げる奴があるかい と言った気概がある

たとひ何(ど)の様なご馳走を貰ふにしても彼は決してみずぼらしげに頭を下げる事をしない

弥一郎君に取っては三界が 即ち我家で道路の上に紳士達の棄た(すてた)煙草の吸殻を拾って 小間物店でも薬種店でも何処でも構はない

ヅカヅカ入って行って主人に挨拶もせず黙って火鉢の火をつけて出てくる

或いは其煙草を吹かしながら 古着屋へ入って 客と店の者が負けろとか高くないとか言って 無駄に暇を潰している二人の顔を 馬鹿馬鹿しげに見ていることがある

或いは途中で拾った束髪のゴム櫛を出して女学生に敬意を表さうとする等は 三界を達観した弥一郎君でないと出来ない芸である

或は 犬と競争をして埃だらけの饅頭を鷲掴み(わしずかみ)に拾って食べる等も 弥一郎君独特の十八番である

酒も一升五合を呑むといふから 交際的必要から無理に呑んだら二升や三升は楽に行ける事で 三百頭の中へ出しても 此(この)点では確かにひけは取らぬであらう

然し(しかし)代議士候補になった以上は マサカ乞食の弥一郎君とも呼べまい

西園寺弥一郎君とか桂弥一郎君とか姓のある名でないとおかしい

尚(なお)来歴も幾分 吹聴して置く必要がある

茲(ここ)に驚くべき事は 弥一郎君には醜からなる妻君がある
七つ許りになる一人の子供と一緒に 南四条西六丁目角の肉店の裏あたりの貧民長屋に 出面取をして世を果斯(はか)なみながら生活している妻子を忘れ 家を忘れて乞食をして歩いている

弥一郎君の垢染みた薄着の哀れな姿を見て 何時ぞや妻君が着物を作らせて着せてやったが 弥一郎君は其を他の乞食に剥ぎ奪れてしまったといふ様な事を話す者があるから 記者は思いがけぬ掘出物に打当ったと早速肉屋の裏にある長屋へ行き 一軒一軒 大井といふ弥一郎君の妻君を尋ねて歩いた

或家では道端にいた口の悪い婆さんが「茲は乞食小屋ではないぞ」と大声を揚げて毒づかれたが 側にいた嫁らしい女は中々解っていて「お母さん 弥一郎だって元は何んな人だったか知れないよ」と言った

全く此の女の言ふ通りである

大井弥一郎君は元は立派な人間であったかも知れない
然し代議士の候補になった名誉ある今の乞食の弥一郎君を知らない此の婆さんは 実に哀れな人間であるが 大井といふ出面取をしている弥一郎君の妻君はとうとう居所は解さないでしまった。


それから弥一郎君が乞食になる前 遊園地前の丸竹醤油屋に使はれていた事があって 今でも飯を呉れたり呼込んで仕事をさせる事があるといふ話をする者があるので 今度は丸竹に行って聞いたら 或いは弥一郎君の身元が判然するかも知れないと思って行って見たが 茲でもそんな事実はないと否定されてしまった

只働いている若い者が 弥一郎君にからかうのを面白がって呼び寄せるので 越中の生まれとかで中々 美(い)い声で越中節を弥一郎君が彼らに唄って聞かせるそうだ



犬と競争して饅頭を食べるとか、気概のある乞食だとか、あげくは酒はいけるので国会に行っても交際は大丈夫だ、とか。。。。

やや馬鹿にした記事ではあるが、「乞食の弥一郎」がいったいどういう人物なのか、いろいろ聞き歩いている。

続きの記事ではさらなる女性関係を暴いている。

1912年(明治45年)5月29日 北海タイムス


代議士候補に二票を獲た ●弥一郎君(四)

弥一郎君はなかなかの艶福家で お神さんが八人もあったといふ者もある
それはまア 好い加減な話としても彼が女好きであることは事実だ

その位だから弥一郎君は女に対してはなかなか珍談を有ってる

一昨年の春である
まだ雪の解けない頃である

終日薄野辺をウロついていた弥一郎君は 十六許(ばか)りになる一人の女乞食と出会ったが まだ日の暮れ切れない時分に巡回の巡査を非常に困らせたといふは 今でも薄野に於ける有名な話となって居て 折々娼妓の口にのぼる

是はまだ二 三年前の話で 薄野の前の△△楼に 名も優しいミドリといふ娘があった

痛ましい事には此娘は生来の白痴であった

顔容(かおかたち)は醜くなかったけれども 此の病気のため年頃になって嫁に行く事も出来なかったが 如何に白痴の娘とて 男を思ってはならないと極(きま)っている訳ではないのだから ミドリも男恋しと思ひながら何日そっちこっちうろついて歩いたが 子供には後から石を投げられ 若い男までが「女郎屋の白痴娘 緑の馬鹿娘」とミドリに対して皆な薄情漢である

腹の中では女なら何でもよいと思っている癖にとミドリは 此等の腹と行の相違いする若い男達を悲しんだ事であったらう

斯くの如く愚かな薄情屋の中に 弥一郎君だけは正直に偽りなく 此哀れな白痴の娘に同情を寄せた

同情を寄せられたミドリは 此穢い乞食に心から感謝した

茲(ここ)に両人の間には世間にない美しい縁結が行はれ 白痴のミドリさんは乞食の弥一郎君の情婦になった訳だ

後で両人の間に赤ん坊が生まれたが ミドリは弥一郎君と契を結んでから何処かのお寺へ 善く遊びに行ったから 或いは其処の坊主の子かも知れないといふ人もある

此の頃は白痴のミドリは家の者から外出を許されず 監禁されているそうだ

赤ん坊は世を果敢(はか)なんで死んだといふ話である

弥一郎君は情婦のミドリがお寺の坊さんの所へ遊びに行っても嫉妬も何もしなかった
赤ん坊が坊主の子であらうと自分の子であらうと 更に意に介しなかった

尤もミドリに逢ふ事は知っていても赤ん坊の生れる事は知らなかったのだから 赤ん坊の生死等 意に介しそう事はないのだ

ミドリが家に監禁されて外出を許されず 楽しい逢ふ瀬を楽しむ事が出来なくなっても別に悲観もしなかった

中々悟ったものである

勿論世界を達観した弥一郎君の事であるから ミドリと言ひ 前の乞食娘と言ひ 出面取の細君と言ひ
そんな者に何時頃未練を残してクヨクヨ忘れずにいるような事のあらう訳がない

木の葉の落ちし如く 彼等は既に彼の心に足を止めない

それがといって彼は木石(ぼくせき)になってしまったのではない
女を愛する心は益々盛んである
毎日毎日別の女に恋をしている

弥一郎君は女であれば誰でも恋愛を感ずるのだ

雲の去来よりも果敢ない往来の女にまで情を起こして来るが 此の頃は社会の制裁と体面を尊敬し 多くの場合 涎(よだれ)を流す位で満足している

是は弥一郎君 自(みず)から告白する所で 彼も確かに色を好む英雄に漏れない次第であらう



通る女に片っ端に声をかけ、白痴の娘と関係し、今は女を見てはよだれをたらす。

・・・今の世なら立派な「変質者」である。
なんでこんな男が2票も取ったのだろうか?

逆にそれほど札幌の中では有名な「変質者」だったのだろうか。


1912年(明治45年)5月30日 北海タイムス


代議士候補に二票を獲た ●弥一郎君(五)

弥一郎君に就ては何かと世間で噂をするが それが皆 真か嘘か少しも解らない

或る人は馬鹿な振りをしているのだといふ それすら既に解っていない

神があるとか無いとか 悟ったとか迷ったとか 蚊の泣くようにガヤガヤしているこの宇宙のやうにや一郎君の本体は実に不可解である

弥一郎君が今のやうに風体のおかしげな人間になったのは 何でも昔 山で稼いでいた時 仲間に割薪(わりまき)で頭を殴られたためであるといふ者があるが 是も真か嘘か解らない

仮にそれを事実としても只それだけの事実で 弥一郎君が馬鹿であるとは何うしていへやう

凡てが復習好きな人間で充ちている社会の中に 「右の頬を打たば左の頬をも打たせよ」と教えた基督(キリスト)や「仇に報いるに恩を以てすべし」と教えた孔子のやうな人のある間は 弥一郎君が仲間から薪で殴られただけで馬鹿になったといふ事は 没分暁(ぼつぶんげつ)な医師の他は診定する事は出来まい

或いは仲間から薪で殴られた時に弥一郎君は基督や孔子の考えたやうに 其の一撃を有難く感謝して発心発起したかも知れない

即ち山の中で碌(ろく)な物も食はせずに 此の貴い身をヤーヤーこき使われて 煉瓦の家を建てたり 妾を置いて・・・・(一行判読不明)・・・・馬鹿者の骨になるより 乞食にでもなって呑気に暮らす方がよいと思って仲間の一撃を頂戴したかも知れないでないか

基督のお弟子の中には必ず斯ういう風に観察している方が多いに違いない

禅宗のお坊さん等も一棒や一喝に遭った場合 それを千部万部の黄巻赤軸よりも尊く 懸河の弁よりも有難く頂戴する週間であるらしい

弥一郎君も斯う考えてみると随分 大悟したものである

が弥一郎君の言ふ事だけは 出鱈目(でたらめ)が多くて信じられない

江戸に行って火事を見て来たとか 東京から花見に来てくれといって来たが 昨日から下腹が痛くって行かれないとか 其の言う事はもう殆んど全く出鱈目ばかりであるが

是も出鱈目といってしまへば出鱈目であるが 或いは弥一郎君の心意あっての術で 腹の中で一生懸命に此の出鱈目を製造し それを出放題に口から出して 世の中を風刺しているのかも解らない

実際社会には自分で能くも知っていない事を得々と出鱈目に饒舌って 我々でさへ顰蹙(ひんしゅく)する場合が少なくないのだから

況(ま)して弥一郎君の事だから鼻持がならなくて却(かえ)って彼らに其の不真実を悟らせるための有難い思し召しなのであらう

弥一郎君の出鱈目も斯う考えてみると禅宗のお坊さんの一棒や一喝よりも もっと味わいの深いものである
何だかアーメンといって弥一郎君を賛美してくなる

弥一郎君は到底一輩の乞食ではない
弥一郎君の顔を見て 怒ったり泣いたり落胆したりする者は 一人も無い

皆ニコニコする面白がる 泣いている子供まで弥一郎君の顔を見ると笑い出して来る習ひである
弥一郎君は実に人を喜ばせる術に長けている

此頃はまた新聞の記事が出てから 弥一郎君の周囲へは花見の様に人が集(たか)る
弥一郎君は此点に於いても確かに偉い所がある

弥一郎君自身に於ても其の辺の事を幾分自任している所が見える

二十世紀に稀な偉君子だ

北海道に弥一郎君あるは百の選良あるよりか光栄であろう



マキで頭を有難くぶんなぐられただの、出鱈目を言っているようで実はキリストのようにありがたい言葉を吐いているだの・・・

なんだか褒めているのかけなしているのか、褒め殺しているのかよくわからなくなってきた。

二票を獲得したこの男については選挙の日まで続く
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2012年12月13日

明治末年北海道記27:1912年5月15日衆議院選挙で2票を得た乞食(3)

札幌の雪は一段落。久々に青空が広がった。

とはいえ、最大で67センチまで増えた積雪。どっさり積もった雪が、あちこちに高く積み上げられている。既に雪祭りの前、排雪前の頃の景色が広がっている。

まだ12月も前半なのに・・・この調子で雪が降るとなかなか大変であるが、明日の一ヶ月予報に出てくる気圧配置パターンに注目したい。

さて、雪の季節はまだ序盤なのだが選挙のほうは終盤である。
熱い戦いのはずだが、この雪で選挙カーの動きも鈍いのか?今日見かけたのはみんなの党の選挙カー一台だけだった。まあタイミングもあるのだろう。

今回も弥一郎君の話だが、この話はいよいよ本日最終回である。

1912年(明治45年)6月1日 北海タイムス


代議士候補に二票を獲た ●弥一郎君(六)

昔し ギリシャのコリントス市の背面の丘上 木立ある岩石地に大きなたけが据えあり その中にヂオゲネス(ディオゲネス)という哲学者が住んでいた

彼は神様に祈祷する事もなく 湯に入って身を潔めた事もない

勿論洗礼など受けた事はない

毎日木の枝を仰ぎ 口笛を吹ては栗鼠(リス)を呼んで 木いちご等を興える

彼は朝から晩まで鳥や栗鼠や蜥蜴(トカゲ)なんぞを相手にしているが 市の人間が若し其処らへ来ていると是等の小動物は怖がってヂオゲネスの前へ出て来ない

自然界と其中に住む 可愛らしい是等の小動物をば我が子の如く愛するヂオゲネスは人間といふ奴を酷く嫌った

或る人が弥一郎君を此のヂオゲネスに似ているといっていたが 爪を伸し髪を生し 顔を洗わず 凡てを自然の儘に放任した点に於ては確かに此の両人は似よっているが 弥一郎君は、ヂオゲネス君に比して著しく現代的である

ヂオゲネス君は全く社会を避けて 栗鼠や蜥蜴の群に投じたのであるが 弥一郎君は前者と同じ自然の儘でありながら益々其の堂奥の人生を味わうとしている

同じ社会に在りながら一般の人間と弥一郎君と没交渉であるのは 甚だ慨歎(がいたん)の至りである

弥一郎君は自然に従って人生の真味を味うに反して 一般社会の人間は半可通に人間風を吹かしたり チョコ才を振り回すので 折角の愉快な人生も土塊に等しい物にしてしまう

チョコ才や半可な人間風ほど 世の中の生活に毒なものはない

栗鼠や蜥蜴は何よりもそれを怖がる

ヂオゲネス君は二千年の昔にチャンとそれを知っていた

若し世間がヂオゲネス君や弥一郎君の生活を嘲笑う者があるなら 両人は必ず彼等に向って次のように間札すであらう

一社会の人たちよ 君達は果たして人生を愉快に面白く生活しているのか 善良なる生活をしているのか

然らば何故に其の如く蒼白なる顔をしているのか 死を恐るるが為か年中不平と嘆息の絶えたる事がない君等の生活は実にぶゆの如く泡沫の如く哀れに果敢なきものである
其れでもまだ君等の生活に意義があると言ひ得るか と

誰かこの両人の一喝に接して 大根の葉のやうに青くならない者があり得ようか

地震が揺れ 雷が鳴り 暴風が吹く毎に世間の人は臆病神に取り憑かれたやうにビクビク者である

如何なる事を誇ろうと其の背後には死の魔が大口を開いて待っている
凡ては絶望と駄目である

其処へ行くと弥一郎君は実に偉いものである
彼は自然と宇宙と既に同化している

彼には世間の人のような惨目(みじめ)な馬鹿らしい恐怖や不平や溜息は毛程もないのだ

只春風に花の咲く 其の汚れた顔には笑がある許りである

ヂオゲネスは栗鼠や蜥蜴を相手に世界が何うして出来たとか 人間が何うして生まれたとか 其やうな事を考えたが 弥一郎君は決して其んな事は考えない

其代わりに芥箱(ごみばこ)を漁って 鰈(カレイ)の骨を噛る等は大いに現代的であるが 弥一郎君がそれにも増して現代的なのは社会と女性に対する恐ろしき執着である

彼は女の顔を見なくては一日も生きていられないといひ またアブラの多い若い女が一番好きだといづは誰の前でも憚らず告白する彼の言葉である

昔から我が日の本は女ならでは夜の明けぬ国といっているが 弥一郎君の女性に対する趣味は我々門外漢には容易に理解出来ぬ

若し徹底的に人生を味はんとするならば 宜しく弥一郎君の堂奥に参禅して始めて得べきである
(をはり)

※慨歎=憂い嘆くこと

以上で連載は終わりである。

「乞食の弥一郎」は最終的には明治の末を生きる現代のディオゲネスである!と断言するような勢いである。

ひとりの乞食をここまで分析し、そしてどこに魅力があって、実はこういう人物なのでは・・・と語るとは。

でもまあ結局、投票用紙に「乞食の弥一郎」と書いた人は、そこまで考えていないだろう。

この日の北海タイムスに「大井弥一郎氏」の写真が掲載されている。

大井弥一郎.JPG

うーんシルエット。。。
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2012年12月14日

明治末年北海道記28:1912年5月20日札幌高女・創立10年紀念式開催

明日12月15日はSTVラジオの開局50年ということで、開局記念日を挟んで今日から3日間、50時間56分の生放送を行っている。パーソナリティーは日高晤郎氏で、一人で全部やるらしい。

副題が「北海道のために命がけ」となっているが、50時間以上もしゃべり通すというのはとても大変だろう。寝ないでやるのだろうか?聞いてみたいけど、聞くほうも大変だ。

ところで節目というのは何年くらいから重みを増すのだろう。
まずは一周年というところだろうが、5年、10年、20年・・・50年・・・100年と。
四半世紀(25年)という区切りもある。

十年一昔というが、明治45年。ちょうど10年目の節目を迎えた学校があった。

1912年(明治45年)5月21日 北海タイムスより


華かな 十年記念式
札幌高等女学校

予報の如く昨二十日午前十時札幌高等女学校に於て 創立満十年記念式挙行
定刻石原道庁長官を始め 各官衛長 将校 学校長 区同会議員 区内紳士 紳商大凡四百名参列

式場は(戸内運動場)正面に大国旗を交差し 金屏風を建て左右には本居氏の筆になれる御製の大幅を懸け松梅の大鉢を備えたり

先づ 君が代の合唱 工藤校長の勅語奉読並びに式辞ありて 石原北海道庁長官の告示あり



札幌高等女学校の創立10年紀念式典である。
今は札幌北高校となっている。

これは事実を淡々と記した固めの記事だったが、記者の目で見た記念式典の様子は翌日の紙面にもう少し詳しく載っている。

1912年(明治45年)5月22日 北海タイムス


●耳の楽園 眼の楽園
札幌高女展覧会

庁立高女十年紀念会には種々の催しあり

音楽演奏は開会●頭に 記念日の歌四百に余る生徒の合唱ながら拍子も揃ひ 声音のきしみもなく 殊に結局の「嗚呼々々」が優に響きたり

二年生十名許(ばか)り"●まぬ心"の沈痛なる緩拍子に対し舞踏の浮き立ちたる急拍子は雲雀の歌よりも楽しく人を喜ばせ 四年生の"日出る国"は伴奏の面白さに耳を奪い

補習科松山まさ子 紺野しのぶ子の洋琴(ピアノ)連弾 中々力ある指にて細かく刻み 強弱も鮮やか ペダルも巧み 殆ど専門家の累を磨し 三年生の"楽しき御園"アルトが少し弱きやうなれど末節の「楽しき〃」が非常に美しかりき

補習科一年の独唱は悠揚迫らず 徐ろに上体を揺がせて 妙なる戦慄を送り出すとき 満堂唯魅せられたる如く夢見る如くなりき

但し歌の詞は邦語やら外国語やら一向分らず 多分此の練声法にて進まば満州語を歌うには適ふべけれど 純なる日本語は打ち壊されずに止まざるべし

四年生十余名の女傑 美しき回音を用い 終結をハイに流して余韻を残し 補習科生の"老松"三部合唱にてなだらかなる高音(ソプラノ)が「春は」と全音を引く時 中音(アルト) 次中音(テノール)の力ある和声が之を八分音に刻みて 又「春は」と繰り返しつつ全節を進行し 其面白と拍子 美しき諧調の波に聴者を漂わせて時と所を忘らせたり

やがて演奏終わりたるに心付き 起て階上に昇れば 是は又色彩美しき眼の楽園 一号館より十号館まで夫々(それぞれ)装飾を施し 壁にもテーブルにも生徒の図画 習字 裁縫 袋物 細工 菓子など所せき迄列びたり

二学年室関菊子、後藤さよ子の大字は見上げたる者、小倉慶子、紫銘仙単衣は袖の丸みも好く 若松ちよ子・鉄納戸お召し綿入れは 襟先袖口今少しと思はるけれど達者に相違なし

三学年室・水彩画 田代雪子の白木蓮 石井操子のゼラニウム写生も図案も出色 小西ちえこの書 本間ふさ子の英習字も好き手つき 阿部すま子の二枚重ね褄も袖口も申し分なし

四学年室には葡萄甕に紙をひねりたる藤の花を下げ 黒板図案の柔らかき線もめでたり

家事科の練習には廃物利用法として幾百本のペン先を集めて土瓶敷を造り リボンの古で下駄の緒を拵えたるあり

補修科室 毛筆の臨書にて大河原静子の松 小倉寛子の花鳥など伊藤初江 広瀬栄子の大字など人目を惹き 関あい子の小紋五つ紋の綿入れ褄も振も袖口も美事 島津節子の紋羽二重単衣重ねも立派

各府県室には全国三十余県の公私立高女より出品あり

中にも富山高女 香川高女及び東京府第三の習字は一際優れしそう 愛知高女及び浦和高女の毛筆画 鳥取高女の水彩画など目立ちたる成績なりき

参考室には英米蘭仏伊 五カ国中等学校の生徒作品を陳列し 其の豪放に書放して拘泥せぬ所目立ちて面白く

第十室には芳崖の大阪城の大幅を始め 諸家秘蔵の珍を集め 今回此校の為 石原長官揮毫の「恒其徳貞」と題せる大額もあり

十室の陳列総数 四千余点一瞥して出れば 心身凡て美なる者に満たされたく如く 殊に会場の際立って整頓せるが快かりき。



記念式典では、来賓の演説の後に在校生による合唱や楽器演奏などがあり、その模様が記されている。
ただし「何の言葉で歌っていたかわからない」というのは、単に記者が合唱を聞きなれていないせいであろう。

学内に陳列された生徒の作品についても、名前入りで紹介もしている。
やはり「子」のつく名前が多いようだ。

こうして10年記念式典は終わった。

その後は何年ごとに区切りを祝ってきたのだろうか。
札幌北高校では今年は創立110周年記念式典があったそうだ。


▼1912年(明治45年)5月20日庁立札幌高等女学校 10年記念式 
庁立札幌高等女学校10年記念式.JPG
(北2条西11丁目:いまの中央幼稚園・大通高校の所)

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2012年12月15日

明治末年北海道記29:1912年5月21日リラ冷えの札幌に三代目三遊亭円窓来る

今日は曇り空ではあったが雪はほとんど降らず、穏やかな土曜日。
週末ということもあり、わっと街に人が出てきたようだが、いつもと違うのは道路。

ここのところのまとまった雪で、中心部でも片側一車線が雪山でふさがっているというところも多く、幹線道路はだいたいが渋滞である。

しかも、気温がプラスとなったので、圧雪アイスバーンが若干解けて、ガッタガタのせんべい道路である。
人によっては「そろばん道路」ともいうが、今日はどちらかというと乳突起状の氷というか、健康サンダルのような感じで濡れた氷が道路一面に張り付いているという所が多いので、かなりソロバンな感じであった。

どこへ行くにも非常に時間がかかり、ノロノロ運転なのでストレスもたまる。排雪始まるまでまだ一月はあるので、この師走に何かと時間が食われることを今後も我慢しなければなるまい。

さて、明治45年の春もいよいよ終わりが近づいてきた。
5月下旬。今ならばライラックの紫や白の花が咲く頃であるが、明治の記事にはサクラの後に「ライラック」の文字を見つけることはできない。

5月17日。札幌の最高気温は19.2度。明け方は小雨だったが、昼前から青空が広がり、強い日差しが降り注いだ。

1912年(明治45年)5月21日 北海タイムス


●硝子盗みの賊

亀田郡七飯村番外地 鈴木仙太郎(五一)は 月寒街道 茨戸街道 琴似辺より区内各所の空家硝子窓を取り外して生活し居たるが

十七日午後九時頃 区内南二条西十丁目馬鉄会社小屋に忍び 夜を明し 小屋内にありし三十六枚の硝子を担ぎ行かんとする所を捕へられたり



夜の校舎のガラス窓を割って歩いた・・・というのは尾崎豊の歌だが、こちらは夜の空き家の窓ガラスを外して盗み歩いていたという男の話。

ガラスだけでは食えないだろうから、ガラス窓をどこか他所へ売ったのだろう。簡単に足がつきそうなものだが、盗んで逃げるところを御用というのだから、立派な現行犯逮捕である。

それにしてもいくらガラスでも36枚も集まると、これは相当重かったであろう。

さて、同日の広告にこんなものがある。


東京落語 音曲 手踊り
三代目 三遊亭円窓一行
当二十一日より開演 初日木戸二十銭均一
南 亭


三代目の三遊亭円窓は、後の五代目・三遊亭円生である。この都市に円窓を襲名して真打に昇進したばかり。まだ28歳の若手落語家であった。

円窓としては初の来札だっただろうか。この三年後には落語家として初めてアメリカへ渡り、大正の終わりに円生を襲名している。大柄な体格ということで「デブの円生」と言われていたそうだ。

この21日の札幌は最高気温が8.3度。今で言えば「リラ冷え」である。ほとんど日照もなく、朝晩は弱い雨も降った。外は寒いが、南亭は笑いでほっこり温かい空間だっただろうか。

さて、この時代札幌を離れると新興・発展の街がいくつもあった。オホーツクのこの街もそうだったようである。

1912年(明治45年)5月22日 北海タイムス


置戸 郵便局設置問題

常呂郡置戸村は両三年以前よりの開発に係る村落なれども 急速の発達を為し 現に千余戸の農家を包容し 百五十戸の市街を有す

然れども郵便局の設置なく 共に八里(約30キロ)を隔つる野付牛(今の北見市街)又は陸別迄 行かざれば用を便するを得ざる状態にあり

住民の不便 甚だしく 附近に有望なる山林もあり 将来の発達は著大なるべきも 斯くては渋滞を来たし 地方開拓上 由々しき問題なりとし 目下有志者は出札して設置方の運動中なりと



ざっと調べてみたが、置戸郵便局の設置年月はよくわからなかった。
となりの訓子府にこの明治45年に郵便局が出来ているので、置戸に郵便局がやってくるまではすこし時間がかかったかもしれない。
ただ、野付牛から分村したのは置戸が早く1915年(大正4年)。訓子府は置戸から分かれる形でさらに5年後の1920年に独立した。

将来有望とされた置戸だが、1970年には9000人ほどいた人口は2010年には3000人余りまで減り、高齢者の割合も高い。木工や農業の町だが、今は過疎化が問題になっていることだろう。


その北見地方だが、この年は5月も下旬にきて、雪が舞ったようだ。
札幌でリラ冷えの中、円窓が笑いを振りまいていたころ、北見は銀世界だった。

1912年(明治45年)5月22日 北海タイムス


●北見は又銀世界

本年は気候不順にして寒冷の候長く 又々六花頻粉として降しきり 一寸余の積雪を見たるを以って 一望銀世界と変ず

農家の蒔付(まきつけ) 其の他の損害少なからず
(二十一日網走電報)

●十勝も又銀世界

昨夜より寒気益々激烈となり 今朝に至りて尚且はげしく野も山も白雪がいがいとして時ならぬ銀世界を呈し 美観極まりなし 温度華氏九度など

(二十一日広尾電報)


この日の実況をみると、根室でも午前0時45分から1時20分にかけてと、午前4時35分から8時15分にかけて雪を観測している。十勝測候所(帯広)の最高気温は5.9度、網走は4.5度で、ともに未明は0度前後の気温。降水は雪である。釧路や旭川でも量は少ないが雪が舞ったようで、この5月21日は強烈なリラ冷え、というか寒の戻りであったようだ。

同日の樺太方面の実況では降水はなく、大泊や真岡では曇りのち晴れ。落合や敷香は朝から晴れということなので、「銀世界」は道東方面に限られた現象のもよう。北海道南岸を低気圧が通過したような形だったのだろう。


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2012年12月26日

明治末年北海道記30:1912年5月23日南四条の火事

昨日は旭川で−24.4度まで下がり、12月としては60年ぶりの冷え込みとなった。

札幌も−13.5度と42年ぶりだったが、今日も夜に入って−10.0度を下回り3日連続の-10.0度台である。明日も−10度以下は間違いないから4日連続。12月としては1985年以来27年ぶりとなる。

都市化で冷え込まなくなった札幌ではあるが、それでもここまで冷え込むというのは寒気が相当強いということもあるが、雪の多さも一因と思う。普段の年ならもう少しアスファルトが出ていると思うが、積雪が70〜80センチを行ったり来たりで街が全体的に白い。

太陽光を跳ね返す能力が高く、地面に蓄熱されないから、夜の放射もよく利くのだろう。

50年ほど前ならば、えんとつから出るストーブのばい煙(石炭起源)の影響で相当なスモッグになっただろうが、今は石油に電気の時代でそのようなことはない。

さて、明治の末の札幌。煙突から出るのは煙だけではなく・・・

1912年(明治45年)5月27日 北海タイムスより

●野幌の小火

二十四日午後七時半頃 江別村字野幌に至る 二番通り野村方藁葺小屋建坪八十七坪の納屋兼風呂場より出火

まだ時刻の遅からざりしため それ火事だと近隣のもの早速駆付け 将に母屋へ燃え移らんとするを漸く消し止めたり

原因は風呂の煙突からなりと
(二五日野幌電話)



風呂を焚く火も薪や石炭なので、火の粉が煙突から飛び出て、新たな火種となるということがあった。
とにかく火事の話題は多い。

5月23日は島牧村の水豊というところで全焼46戸とほとんど一部落が消える火事があったし、同じ23日の深夜には札幌の南四条西五丁目の菓子商玉川堂裏の民家から出火する火事があった。

後者の火事がなかなか描写が面白いので下に引用。

1912年(明治45年)5月25日 北海タイムス


●南四条の火事

去二三日午後十一時五十分 突然の警鐘に人々驚き戸外に駆出すと 火は区内南四条西五丁目の一角に方(あた)り 炎々燃上がりて空を焦す有様

消防は二部四部三部六部一部五部と順次駆付けたるが 場所は前記西五丁目三番地菓子商玉川堂裏 西村巳之助方にて

当夜は幸ひ微風だもなく 二、六、一部は六丁目北側の大下水に寄り 又四、三部は同南側の大下水を占め 先ず手ポンプにて送水中 七部の蒸気ポンプ来たりて二部と合し送水に努めしが

同所は長屋の建組みとて 遂に中尾周造、京坂政吉、石田敬吉外一戸と都合一棟五戸七十五坪を半鐘して十二時四十分鎮火したり

出火の原因はボイロの石火鉢を粗雑にせしにて 目下尚取調中にあり

何分場所が遊郭に近く 又附近には芸妓の居住するが多く 従って赤き裾を蹴散らして右往左往に逃げ迷ふもの少なからざりし

中にも伝呼姐さんの泣きながら駆け出したは唯同情の外なく 次は野次馬の集りたる事にて其の筋の非常線は頗る機敏に張られたるも 尚線を潜り小路を抜けて立入るがあり 野次馬中には警官に追はれ下水を浚いたる其泥の中に落るもあり なかなかの滑稽なりし



半鐘が鳴り、消防団がかけつけ、下水をポンプでくみ上げて火元にかける。
それを野次馬が見守り、もっと近くで見たいと思って踏み出せば、警察に追われて下水をくみ上げた泥に落ちる・・・

このような火事場を詳しく報じるニュースなんて今はないなあ。

これはやや大きな火事であったが、前の年1911年の5月に北海道を襲った大火に巻き込まれ市街地が丸焼けとなった稚内にもまた火が迫っていた

1912年(明治45年)5月27日 北海タイムス


●又山火稚内を焼んとす
実に是再度の大災厄 全町皆避難


昨年五月の山火にて稚内町は大災害を被り 爾来各官街 学校 銀行 会社及び商店等八分通り復旧され 約五百戸の市街となれるが 其の傷痍未だ全く癒えざる本年は 幸にも山火の時節となり 再び其災厄なきを何れも喜び居りし所 今朝八時頃 市街背後の官林に俄然山火起り 折柄西南風猛烈に吹き捲き 火焔渦をなして市街を襲はんとするより 消防組町民は二度の大災厄を見んかと総出にて必死となる消防に努めつつあるも火勢愈々猛烈にて 炎々天を焦し大紅蓮物凄く 到底人力の及ばざるより 市街人民はたのき立って皆避難の為 老若男女の泣喚と共に大混雑の光景名状すべくもあらず只今(午後二時四十五分)盛んに炎上中なり 各官街皆避難せり

(二六日稚内電報)


稚内を1911年(明治44年)に襲った大火についてはこちらの記事に詳しく記述している。

このような大災害から復旧して一年。やっと復興してきた稚内に、また裏山から火が上がったとなればそれはトラウマをよびさますには十分な事態であった。

26日夜に風が弱まったため、火も弱まったが、天気予報も防災網も発達していないので、また風が吹けば燃え広がるとして、安心して寝るようなことはできなかった稚内。

家具などの荷物は数十の漁船に積み込み沖合へ避難させ、前回燃えなかったノシャップ岬方面へと逃げる人が多かったようだ。

前回の山火を消し止めたのは「雨」だったが、今回も28日に降った雨により山火は完全に鎮まり事なきを得た。

おかげで?翌年祖父が稚内で誕生、そして母親が生まれ、現在、私は存在している。

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2012年12月28日

明治末年北海道記31:1912年5月29日地久節

今年、ブログが更新できるのも今日が最後となった。
年頭に「樺太日記」をスタートさせて、途中からは「明治末年北海道記」を交え、今からちょうど100年前の「1912年」に焦点を当てて樺太・北海道のニュースをひとつひとつ追って来た。

樺太日記は57本、明治末年北海道記は今回で31本。合計で88本ということになるが、一年かけてたどりついたのは5月末までであった。当初はなるべく同時期と思っていたが、夏を過ぎたころからは、じっくり立ち止まってゆっくりみていくというスタンスに変えた。面白い!と思ったものは全てとりあげていきたいものである。

おそらく掘り起こし損ねたネタもいくつかあろうが、ひとまず一年間続けられたことはよかったと思う。来年はいよいよ明治から大正へ移り変わる7月前後の樺太と北海道を詳しく追っていこうと思う。


今年最後にとりあげるのは「地久節(ちきゅうせつ)」の話題。
太平洋戦争の前後で日本は国の形が大きく違うので、「あたりまえ」なことが全然違うのであるが、この地久節というものについてもさっぱり知らなかった。たぶん今の日本人でこれを知っている人は100人に一人もいないであろう。

1912年(明治45年)5月29日 北海タイムス


●本日の地久節

本日の地久節は皇后陛下第六十三回御誕辰に当らせられ 千代田の宮の千代かけて御坤徳の畏こさを仰ぎ奉る例なれば 宮中の御祝言 文武高官の参内 豊明殿の御賜燃など申すもおふけなけれど 陛下には純白の御洋装にて白のボンネツトを戴かせ給ひ いとかうかうしき御物ごしにて 百官に御会釈を賜ひ 午後は御内儀人形の間に内親王女王殿下を召させて 御内宴あるべしと承る

又二重橋門外には陸海軍人の礼装して参賀するも盛観なるべく 東京市内の小学校生徒数万人が各馬場先門内に参集して「君が代」「地久節」を奉唱する声も賑やかなるべし

▼地久節と各学校

本日の地久節は 区内各学校にても夫々 祝賀の式を挙げ 学校長の誡告「地久節」の合唱等あり
各教室にて夫々担任教師の訓話などあるべく 又庁立高等女学校にては午前八時より厳かなる拝賀式を挙げ 区立職業学校は拝賀式を挙げたる後校庭にて数番の遊戯を催すべし



地久節というのは「皇后陛下の誕生日」のことである。
しかも当時は祝日だったようで、特に小学校で地久節や皇后陛下に関するお話があったり、それこそ「地久節」の歌を歌ったりしたようである。昭和になってからは一時期「母の日=地久節」であった。

明治天皇の皇后・昭憲皇太后の誕生日はウィキペディアでは5月9日となっているので、本当なら5月9日が地久節なのであるが、北海タイムスを見る限り「5月29日」を地久節として祝っているようである。

地久節は太平洋戦争の敗戦後は廃止となり、今は「皇后誕生日」となっているのだが、祝日でもないし、特に全国的な行事もない。

もちろん地久節の歌も、まったく歌われないまま今に至っている。

『晝(ひる)はかがやく 大空の
日に萬代(よろづよ)の 春長く
夜(よ)はすみわたる 山の端の
月に八千代の 秋久し』


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2013年01月09日

明治末年北海道記32:1912年5月24日利尻まで海を泳いだヒグマ

2013年となったが、年頭から厳しい寒さが続く。

札幌は元日から9日連続真冬日が続き、1985年以来28年ぶりの記録となっているが、どうもこのまま1月15日頃までは真冬日が続くらしい。
最低気温も−10度まで下がる日がザラで、近年では異常な寒さぶりだ。これこそ、まるで明治の末頃に戻ったかのようだ・・・。

今から100年前、1913年(大正2年)の1月は2日と29日、30日の3日だけがプラスの気温で、あとは全て氷点下。つまり、3日から28日まで26日連続の真冬日である。確かに100年前は札幌は寒かった。

寒さで北海道から逃げ出したくなる気分も無いわけではなく、実際そうしている輩もいるのかもしれないが、明治の終わり、北海道から利尻へ渡ったものがいた。

人ではない。ヒグマである。

1912年(明治45年)6月2日 北海タイムス


●孤島に熊群の侵入 利尻島の大熊狩

去年の本月は山火のため苦しめられ 今年の今月は熊のため苦しめられるとはさても儘ならぬ浮世かな

本島は鰊大漁なれば各種の行商者及び興行物等入込むならんと予期せるも 熊の入込をば予期せず

さて熊様ご入来の日は去る二十日頃とか 近年稀なる上凪にて海上恰も青畳を敷きたる如き事四五日 大雨の翌日 熊の足跡夥(おびただ)し

鬼脇村大字石崎なる角〆印赤坂漁場の海浜地より山中へかけて熊の足跡 夥しければ 村民不審を抱き居る折柄 二十三日午前11時頃 海上遥かの沖合より一頭の大熊 陸に向って泳ぎ来たしより村民は漁夫を督励し 挙(こぞ)って石を投げ付けしに

熊は沖に向って逃走するや此期 逸すべからずとし 保津船に大勢の人夫乗込み 追求の上 大鉞(まさかり)を以て頭部を乱打し 漸くして討ち止めたるに

さても大きな熊にて八尺有余 然るに山中に入込みたる熊の数知れざれば 鬼脇村にては毎日射手を募集し 五、七名ずつ入山捜索中なるが 捜索隊の言に依れば 山中至る所足跡点々たりと

斯報(このほう)伝わるや本島は周囲僅か十六里の一孤島なれば 本村の如きは時 恰も(あたかも)馬鈴薯及び豆類の播種中なるにも拘らず 危険を恐れ農作物に従事するものなく 各自警戒し居れり

遠からず全島一挙して熊狩を励行せんと目下協議中

(沓形通信)


北海道はヒグマがたくさんいるが、利尻島にはヒグマはいないというのは有名な話である。
だから、利尻の山登りにはナタとか鈴とか必要ないし、ゆっくり景色を眺めることもできる。昼寝もできる。札幌ではこうはいかない。クマがいないというのは非常に安心なことである。

ただ、利尻にヒグマはいません。という話のあとに「明治の頃、一頭だけ北海道から海を泳いで渡ってきたヒグマがいたそうです」という付けたしがある。えー?とそんなウソでしょ?みたいな話だし、ホラの言い伝えかなとか思っていたのだが、2013年、最初に読んだ北海タイムスの記事でしょっぱなから思わぬ裏付けを取ることとなった。こういうことがあるのが、昔の新聞を読む上で面白いところ。

当時の新聞にはマサカリで討ち取った巨熊を利尻島民が取り囲む写真が掲載されているのだが、スキャンすると真っ黒でよくみえない。しかし同じ写真が利尻島のホームページに掲載されているのをみつけた → 写真直リンク

国後島には白いヒグマはいるし、択捉島も川にのぼるサケにヒグマが群がると聞くから、千島の島々にはヒグマの生息する島は割とあるのだろう。
これらの島にヒグマはどう行ったのかとなれば、最初は流氷でも渡ったのかなと思ったが、流氷の来る時期はヒグマも冬眠してるから、やはり目の前のしょっぱい川=海を泳いで渡ったと考えるほかない。

国後まで泳げるなら、利尻にも泳ぐ熊もいて不思議ではない。でも稚内の西海岸から利尻までは直線で20キロ近くもある。人間でもこんな遠泳は大変である。毛の多いクマである。それは物凄い体力と、気力を持ったクマでなければ為しえないだろう。


大きな地図で見る
▲ヒグマの上陸したあたりの場所は石崎灯台の周辺であろう。利尻では一番北海道に近い場所である


さてヒグマのほうは一度は上陸を果たしたようだが、陸ならともかく、海を泳いでいる所を襲われたら、さすがのツワモノもひとたまりもなかったようだ。
記事には5月23日とあるが、利尻町のHPによれば24日のようだ。小樽新聞など他の新聞にも報道されていたようだ。

これから100年が過ぎたが、利尻に渡るクマはその後一頭も現れていない。

利尻に渡ったヒグマは何を考えていたのだろう。
よっぽどイヤなことでもあったのだろうか?
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2013年01月24日

明治末年北海道記33:1912年6月2日根室で四回生き返った婆さん

大寒の頃から寒さが緩んでいた北海道だが、今年一発目の大嵐となりそうである。

発達した低気圧が通過しやすくなるというのは、季節が春へ向って動き出している証拠でもあるのだが、今年はベースの気温が低いだけに、92センチまで増えた札幌の積雪も、2月の末に向って、一体どこまで増えるのやらといったところである。

アルジェリアのニュースなどを聞いていると、人の命もはかないものだと思わされるのだが、明治の末には死んだと思いきや生きかえるということを繰り返したおばあさんがいたらしい。

1912年(明治45年)6月2日 北海タイムス


●一日中に四たび 死んだり生きたり

根室町は大字梅ヶ枝町の片通りに 素晴らしい店構へをせる金物屋の婆さん お何 は長の病気にて殆ど医者にも匙を投げられ 一家親類も亦 見込みなしとて断念し 内々 白衣の新調迄もなし 往生の日を待ち居りたるとか

然るに客月中旬過より 模様愈々悪く 遂に瞑目して仕舞ひしより 郷里へ電報を発するやら 知己へ案内するなどせるに 御本人はパッチリ目を開いて アー危なかった お陰様で このご挨拶それのみならず 先ず蘇生のお祝にと 盛そばを二個 酒一椀をペロリ平らげて 今度はご飯に仕様かと御託宣

満座は二度も三度も吃驚して 此の場はそれで納まり 兎に角安心せる間もなく 又候同じ事を繰り返して 一日中に生死四度の不思議を演じたれば 先に発せる電報の取り消しや何かを済ませ 爾来 容子を見てあれば 平生と些かも変わりなきばかりか 食欲の如きは益々昂進して 健康体に変わらずといふ

聞けばこの婆さん なかなか気丈ものにて 其の半生をアイヌにて送り 能く現下の富を致したる経歴を有するものなりと巷の取沙汰 近頃珍しきことなり

(支局報)


おばあさんが何度も死んだり生き返ったりした、というよりは、周りが早合点していろいろやりすぎなのでは?とも取れる記事であった。

一方で、札幌では花いっぱいに棺に詰め込まれた娘の葬列が町を進んでいたが、この話はまた次回・・


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2013年01月31日

明治末年北海道記34:1912年5月25日札幌で花棺詰になった娘

1月最後の日を迎えた。
元日からずっと真冬日が続き、今日も氷点下なら「1月すべて真冬日」という記録になるはずだった稚内・旭川・紋別は午後になってから氷点下の世界を脱し、最後の最後にきて記録が途切れることとなった。

稚内は0.3℃、紋別は1.9℃、そして旭川は0.0℃。
旭川は一瞬「氷点」に達したことで記録に届かなかった。野球なら9回2アウトまでランナー無しできたところ、微妙な判定で四球を出したに等しい。惜しかった。

止まない雨はないし、氷点下の時間も止まる。生ある者、その先に必ず「死」が待つのと似たようなものか。

今回は明治末年、札幌で行われた「お葬式」の連載記事を掘り出す。

1912年(明治45年)6月4日 北海タイムス


●花棺詰に成た娘(一)

先月の二十五日午後の二時頃
塵風(ちりかぜ)が烈しい薄野の廓内から 大変哀れげな葬式が出た

花を多くし 棺の周囲にも数多(あまた)花を以て飾れる様子から推察すると 未だ少い(わかい)人の葬式であるらしい

また見送りの者が娼妓を始め婦人の多い所から見ると 未だ少い娘の葬式であるらしい

廓を出て豊平の墓地へ向ふ沿道は 棺の後から足付き怪しげに歩く十数人の娼妓の姿を見たいからか 人出が多かったが 是は噂に高い薄野稲花楼の娘ミドリの葬式であった

ミドリは二十四日の午後四時 日頃の病気が重って 遂に帰らぬ人となったのである

まだ十七になった許りの娘なので 平生親しんで居った同楼の娼妓十数名は 世間から白痴と噂さるる此の薄命な娘の死に 大相同情して警察署の許可を受けてミドリの葬式を豊平の墓地まで見送ったのである

ミドリの死んだ日 札幌区の代議士選挙に二票を獲った乞食の弥一郎君の噂が パッと廓の中にも高かったので 常には左程でもなかったミドリの母親は酷くそれをば気に病んだ

そうでなくとも口善悪ない世間の人は ミドリと弥一郎君との間に怪しげな関係でもあったやうに罵り合う事であるから 弥一郎君の代議士選挙とミドリの死が 何んなに世間の噂に上って弄られるか知れないと思ふ親の身に取れば気が気でない

ミドリは悪い時に死んで呉れた
悪い噂を世間に遺すやうに 悪い時期を選んで死んで呉れたと

親の心は茲にも世間の知らない悲嘆の苦労をするが 其の時分は葬式の準備や何かのためにとり紛れて さうした事を長く考える暇もなかったけれど ミドリの死骸が豊平の墓地に葬られてから四 五日の寂しい夜昼を明した彼女の母親は案じた如く ミドリと弥一郎君との事がワイワイ世間の噂に上っているのを耳にした

「弥一郎君だけは心から白痴のミドリさんに同情を寄せたとよ 二人の間には直ぐに不思議な縁結が出来たと ミドリさんは弥一郎の情婦になったのだと そして不思議な赤ん坊まで出来たと 其の赤ん坊はお寺の坊さんのだかも知れないと 何んな赤ん坊だか見たいものだと 所がミドリさんは世間の噂が烈しいので家に監禁されて 赤ん坊は世の中を果敢なんで死んでしまったさうだ」

などと世間では芝居を観て来たやうな賑やかな話である

それを聞くミドリの親は身を斬られるよりか つらかったとは無理もない話である

豊平の墓地へ 七日の墓参に行ったミドリの母親は 緑の木陰の娘の墓の前に佇みながら 復娘に対する世間の厭な噂を思出して 心地悪しく悲しみながら

「ミドリやお前はもう死んでしまって何も知らないのだからいいとしても 後に残って此様な厭な噂を聞かなければならない親の身をお前は哀れだと思はないのか
 そして是が若し東京にいる お前の兄ちんや姐さんの耳へでも入ったら お母さんは何うして申訳をしたらよいのか」

と 一緒に墓参に行った者にまで涙を流して悲歎する

世間からはまるで人間でない様に云れる女郎屋の主婦も 子を思う親の心に至っては変わりはない



この話の主人公となっている「ミドリ」は、当時、少し前に北海タイムスで連載されており、以前本欄でも紹介した「衆議院選挙で二票を得た乞食」に出てくる白痴の娼妓ミドリ、その人である。

親が苦しむ原因となったのは、ちょうどミドリの葬式が行われた翌日に、北海タイムスが本文にも書いているような「乞食の弥一郎」とミドリとの噂を詳しい記事にしたためではあるが、そんなことは忘れたかのような記者の目線・書き様である。

明治の末、新聞メディアの力は決して小さくなかったことが判るし、ちょっとした「報道被害」の一端を見るような気もしないでもない。

死したミドリのことを記事はふしっかりフォローしたのか。
四回にわたる連載の二回目では、ミドリの生い立ちについてが記されていた。


●花棺詰に成た娘(二)

ミドリは小さい時分に脳膜炎に罹って 方々の医者にかけた結果生命だけは助かったが 其の代り傷ましい不具者になった

白痴と人から馬鹿にされる可哀相な娘になったが ズンズン身体だけは大きく成長して同じ年頃の娘よりはズッと大きかった

殊に死ぬ前の年あたりからは全身に肉がタップリとついて来て 能く夜会等に花電燈の下で見る 御納戸色の御召を着た 肉の豊かな背のスラリとした美しい年頃のお嬢様を 人に思い出させる位 立派な身になって来た

頭がボンヤリで訳の解らない間違った事を饒舌る(しゃべる)だけ 大きく肥ったミドリの姿は無邪気に可愛いかった

髪の毛でも太い枝のあるのよりは細い方がよい
束髪にすると所々割れて 白い頭の地が見えるやうな硬ばった髪よりは 稚髪の軟かい髪の方がよい

指輪でも細い痩せた指に嵌めたのより ふっくらした指に嵌めてあったほうが可愛い

眼は黒目勝ちでなkれば問題にならない

顔も四角いのや頬のこけたのは厭になる 肩に肉のないのは無論 乳の上にも肉がないゆえ資格がない

下の方も痩せていては好ましくない 足等も硬い靴を穿いたのや鼻緒の硬い下駄を穿いたのでは裸にして置かれない

ミドリの体格は何処から何処まで全部揃って居なかったらうが 下脹れの頬で 手の指足の指の先まで豊かに肉があり非難の少ない立派な体格であった

そして大層人懐っこい其の大きな身で 母さん父さん姐さんお祖母さんと 子供子供しい甘えた声を長く引張って言ふのだから猶可愛い

或いは白痴で頭の働きが鈍かったので 身の肉の締まりもなく只ズブズブと肥っていただけで 却ってダラシがなかったらうとも思はれぬでもないが 無暗に眼の球をパチつかせてワザとらしい表情を使ったり利口さうに唇を緊めて見たり コソコソ笑いしか出来なかったり 声色を燻したやうな最も拙劣な声を出して唱歌をうたふ女よりは ミドリさんのほうがよい

狭細しい(せせこましい)捻くれた所がなくて 凡てが自然で鷹揚で伸び伸びしていた

頭がボンヤリで白痴であるだけ癖がなかった

半可通に本が読めたり 字が書けると男に手紙でも遣りたくなったり 女子大学へでも入らなければ話せないわネ なんてな事になって来る

ミドリが若し病気に罹らないで高等女学校でも卒業するやうな事であったら 妾の理想は大学卒業生よ等といふ お転婆娘になっていたかも知れない

知恵や学問も善し悪しで ナマナカあるよりは初めっから馬鹿であった方がよい
神経衰弱やヒステリーや煩悶等しないだけでも徳だ

ミドリの母親は体格の立派な娘にちゃんと御召を着せて髪を結わせた
時には我が子ながら人に見せたい位美しかった

是が病気でなかったら稲花楼の娘として 札幌一の女にもなれたらうにと大変悲しんだらしいが 大学生だ女子大学だ 女優だ 鉄道往生だモルヒネだと騒がれるよりは 馬鹿であった方が諦め安い

どうせ浮世の風は何処にも吹くものである


・・・全然フォローになってない。

いや、かえってミドリには酷い連載になってしまっているのかも。
確かに頭がよくて大学を出ても、道を間違えて早死にするような者もいるにはいるが、だからといって「かえって馬鹿のほうが、死んでもあきめやすい」という結論はまたあんまりだと思うがどうか・・・?

「体格がよい」とほめているが、一方で「締まりなくズブズブに肥っていただけ」という見方も紹介しており、ものは言いようの典型的なものである。

6月7日に三回目の連載がある。

ここでは「気の怪しいものは潔癖(けっぺき)になりやすい」とのことから、ミドリの行動の潔癖さについて詳しく記している。たとえば、一日に手を何十回と洗うとか、整理整頓されていないと気がすまないとか。
その性格がたたって、争いごとを好まなかったので親達は娼妓に過失があっても怒れなかったとか、乱暴な客を取り押さえるために刑事が来たときは震え上がって怖がったなどのエピソードも紹介されている。

その潔癖な性格が弥一郎との関係につながっていると記者はみた。


斯ういふ病的な潔癖であったから 人が穢い事をするのを黙って見ていられなかった

乞食の弥一郎君が毎日薄野の小路を徘徊して 芥箱の中へ首を突っ込んで鰈の骨を齧っている所等を見るとミドリは座敷から走って行って それを押止めた

又時には自分の食物を弥一郎に与えた事もあったから 世間で是等を見て二人を怪しげな関係でもある様にいったので ミドリには空しい冤罪であった



ということで、さりげなく「弥一郎とミドリの関係の訂正」を行っているのであった。
ミドリの名誉は回復された・・・というよりはそこまでに多くのものがまた失われているような気がする。。。。

最終回は6月9日。こちらは全文転載する。


●花棺詰に成た娘(四)

花棺詰になって薄野の小路から多くの娼妓共に送られた美しい夢の様な葬式の行列を想像すると ミドリの薄命な十七年間が白痴であったとは考えられない位だ

殊に潔癖症のミドリを思えば 清流を愛するヤマメや鮎の身が洗われて美しく輝くやうに 彼女の白痴の汚点や汚行は其の潔癖症の清流に清められて却って床しさを増した傾きがある

此ミドリの潔癖症は彼女の手足や髪を洗った許りではなく 白痴といふ病気の上にも其の清流は注がれた

ミドリさんは此の病気を癒すために毎日神仏の瞑加をお祈祷したといふ
白痴としては随分不思議な娘である

殊に或る人がお寺詣りを彼女に薦めてから 毎日のように家を出て 区内の寺院や神社に参詣をした

此時ミドリが何処のお寺の坊さんに馬鹿にされたとか馬鹿にされているとかいふ噂が世間に立った
そして丁度其頃ミドリの身が急に肥って大きくなったから 猶更妙な噂が出た

ミドリの病気は物を沢山食ると無暗に身が肥って来て悪いので 親達は一時は食物を隠して置いて食わせない様にしたが ミドリは病気の調子が狂ったためか それをヒガんで掴み食いをするから 腹までポンと大きくなった

それを見て 愈々巡礼娘は何処其処の坊さんの種を宿したといふ噂が自然と高まったが ミドリにはそんな事実は全く無かった

まだホンの初々しい娘に過ぎなかった

只 神や仏におすがり申して 厭な病気から救はれやうと信心する以外には何事をも考へなかった

幼少の時に出た美しい芽が 白痴といふ邪魔者に蔽(おお)われて 伸びる事が出来ない
それをば彼女の親達は大変悲しみ ミドリ自身も悲しんだ

白痴といふ邪魔物の病気さえ取り除けば ミドリの美しい芽は枝を伸ばして成長する事が出来たのだ

ミドリが若し禁欲家で食物を沢山食べなかったら病気は確かに治ったかも知れない
悪い病気のミドリが余り我儘をしたので 善い病気でないミドリが死んでしまった

実に嘆かわしい事をしたと ミドリが一番信仰した金光教の尼さんが 大層 此の薄命な娘の死を惜しんでいるさうだ

が ミドリさんの神仏への信心は無駄ではなかった

先月の三吉さんの祭礼に車に乗って参詣して帰ってから ミドリは出歩きを止めて床に就き 其の月の二十四日に死んだが 死ぬ少し前に身を洗い髪を結い 着物を着替え 枕辺へ集まった親兄弟に笑って此の世の別れを告げたといふが 此の瞬間のミドリは病気の下に埋もれていた善いミドリで 此の笑ひは人間の真の情を見た時の嬉しい笑ひではなかったらうか

(をはり)


妊娠の噂もウソであったという「種明かし」があり、最後に人間性を取り戻して世を去ったと締めている。

6月4日付けの紙面には、ミドリの葬列の写真が掲載されていた。
ミドリの花棺詰.JPG

このような昔ながらの葬列の風景は、いつごろ失われたものか。

さて、ミドリが葬られたのは「豊平墓地」と思われる。
1886年(明治19年)に設置されたが、1970年代に移転し、跡地には現在「きたえーる」が建っているとのこと。

豊平墓地にあったお墓は、ほとんどが里塚霊園に移されたとのことだから、ミドリも今は里塚に眠っているのだろうか。

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2013年02月01日

明治末年北海道記35:1912年6月1日旭川の初雷

今年二月のスタートは暖気。
雪がとけて水たまりもでき、春の半ばを過ぎた雪融けの季節を思わせるような景色となった。

札幌の最高気温は4.7℃まで上がり、夜も4℃くらいの気温で経過している。積雪も一日で6センチ減り85センチ。週の初め、まとまった雪が降る前に戻った。

明日は「雪か雨時々曇り」という予報だが、950hPaで+3度まで上がるし、風も強いので、地上まで雪片が雨に変わらず落下するのは難しい。午前中は雨であろう。

今年は寒い一月だったが、雨はすでに観測された。1月25日の午前7時20分から30分間、札幌では雨が観測されている。これが今年初めての雨。明日の雨は「雨二番」であるが、実質的には今年初めての雨らしい雨になるだろう。

さて、明治末年。初の雨ならぬ「初の雷」が新聞に掲載されている。
場所は旭川である。

1912年(明治45年)6月3日 北海タイムス


●上川地方の初雷

一昨一日午後三時三十六分 上川地方に初雷あり
方角は南西にてありき



短いが、初雷(はつかみなり)の記事である。
「上川地方」とはなっているが、雷を観測しているのは旭川しかないので、これは旭川での雷であろう。
手元にある「中央気象台月報:明治45年6月」の「上川」のページには天気現象の欄がないので、本当にそうだったか裏付けを取るには旭川地方気象台まで言って「観測原簿」を見る必要があるが、月報には午後2時〜6時の間に降水量0.3mmを観測とある。雷雲のサイズは小さく、音は聞こえたものの、旭川市街地で降った雨はぱらつく程度だったようだ。

この初雷の記事の載った新聞が配られた三日の朝、旭川の町は騒々しいことになっていた。

1912年(明治45年)6月4日 北海タイムス

●旭川遊郭貸座敷 払暁の放火騒ぎ

三日午前五時頃 旭川町 曙遊郭貸座敷 恵比寿楼の便所より出火し 火災予防組合員と消防手 並びに附近の人々駆けつけ揉み消したるが

場所といひ 時刻といひ 小女郎帰客たちに身震いさせたるのみならず 旭川町各部の警鐘鳴りて 物々しきかりも大事に至らず 事なきを得たり

原因は発火後数十分の後 放火と判明し 犯人は旭川署の岡本巡査のために同遊郭巡査派出所前にて逮捕されたり

其の自白に依れば 犯人は東京小石川区戸崎町九十六番地 石工職吉田粂次郎(二七)とて

数年前渡道 請所転々労働中 放火の前日は永山村石工場より逃出して旭川町に入り 懐中には五十六銭しかなかりしに 前記女郎屋に登楼して 敵娼(あいかた)渡辺フサ(二三)を揚げ 三円六十円ばかり遊興し

支払いの見込みなきよりフサを他の各部屋へ勧め送り 同楼便所に通じる廊下続きの洋燈置場に至り 石油こぼれて床板や石油箱に浸込みある箇所へ 燐寸(マッチ)にて擦り付け

程なくパチパチ燃え盛る音を敵娼スサが聞きつけ 大騒ぎになりし頃には 粂次郎は敵娼の丹前を盗みて着たる儘 混雑に紛れて逃れ出でしものにて 逮捕されたるものなりと

放火ならびに詐欺取財犯として旭川署に引致さる



朝日が昇りつつある旭川の静寂を破る半鐘の音。遊郭の放火による騒ぎであった。

そんな雷やら放火やら、賑やかな旭川であるが、6月初旬は北海道護国神社のお祭りで賑やかな時期である。

6月5日の紙面には「旭川招魂大祭」と大書きされ、5日〜6日の祭りの予定が記載されている。
これによると、旭川の宮下町一条通りから五条通りにかけては、揃いの花笠をかぶせた燈籠が立て飾られた。
また、五条通六丁目では見世物小屋がたち、活動写真を見せたり、剣舞や軽業、足芸、さらに大蛇に大猿、生人形(?)という芸目で、旭川町民をいらっしゃいいらっしゃいと呼び寄せた。

師団道路の丸井呉服店や青山呉服店、大印靴店などが屋号文字の入った「変化電燈」を点し、祭りにあわせた「大売出し」を構えていたそうだ。

師団道路四条には長屋式に露店が並んだが、例年と違って屋根があるので食べ物に埃がかからないと好評だったらしい。

現世ではまもなく「旭川冬まつり」が始まるが、明治末の新緑の季節の「旭川招魂大祭」の模様についてはまた次回に詳しく・・・
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2013年02月02日

明治末年北海道記36:1912年6月5日旭川招魂大祭の景況

けさの札幌は、北西の空に見事な虹がかかった。

雪では虹はかからない。雨だからかかる。
だからこそ、札幌で「真冬の虹」がかかるのはとっても珍しいことだ。

雨が降るほどの季節はずれの高温、晴れ間のある気まぐれな空、そして太陽高度の低い朝や夕方の時間の降水であること・・・

珍しい真冬の虹をみて、ちょっと得した気がした。

さて予告どおり、旭川のお祭りの話を掘り起こす。

北海道の6月初旬はリラ冷えの時期が過ぎて、空も安定してくる時期。
過ごしやすい気温で、梅雨もなく雨の少ない気候はイベントを行うにはもってこいである。
だからというわけではないだろうが、6月は札幌の北海道神宮もお祭りがあるし、旭川の護国神社もお祭りである。

明治末の旭川のお祭りはどんな様子だったのだろう。

1912年(明治45年)6月6日 北海タイムス


●招魂大祭景況

今五日の招魂祭は 昨年は新築の為め大々的の大祭なりしも 本年はそれほど多くの人出なく 昨年に対して少なき方なるも 好天気の為め予想外の人出にて 旭川近在東旭川 東川 神楽 神居 鷹栖各村より来集するもの頗る多く 非常の賑わいを極めたり

旭川各学校生徒は午前七時三十分頃より各々職員引率の下に参拝し 午前八時前には招魂社に至る師団道路の外側は長蛇の如く女学生徒思ひ々なる頭髪のリボンは風に翻へり 花よりは一層美しかりき

之に尚ほ 赤白紫青 其他各色の女持傘が打交り 其の美観筆紙に尽くされぬ位なり

それより招魂社に到れば第一に眼に映せしは 工兵隊の作りたるアーチ的大門にて境内には数流の吹流し 数本の旗幟 及び万国旗の装飾あり

尚ほ 煙火は絶えず打揚げ頗る 賑ひを添へたり



1902年(明治35年)に、旭川にあった第7師団の1911年(明治44年)に戊辰・西南の役および、日清戦争などで殉じた将兵の霊に慰霊顕彰を行うために設置された北海道護国神社であるが、10年の間に神殿が老朽化したため、1911年(明治44年)に新しい神殿を作り、6月5日〜6日に招魂祭を執り行った。

この年より毎年6月5日と6日が「招魂祭」となってお祭りとなる。だから1912年の招魂祭は、この日付に決まってから2回目のお祭りということになった。

午前8時から招魂社前で行われた祭式には、石原北海道庁長官や野村鉄道管理局長、浅羽衆議院議員などと共に当時旭川にスキーの指導に来ていたオーストリアのレルヒ少佐も列席した。
また、正午からは官民一同の宴会も開かれたことが紙面には掲載されている。

町も賑わっていたようだ。続きの記事には以下のように記されている。


五日は朝来より一天晴れ渡り 本年に入りての最好天気にして 塵埃上らず午前四時頃より旭川町附近村落より出てくる男女頗る多く 旭川停車場は前日より本日午前四時十五分の三列車迄に降車せる旅客三千余名あり

中略

七時頃より近文招魂社に向ひ行く者 往来に充満し 八時の儀式に次ぎ九時頃 軍隊又は各学校赤十字愛国婦人会其の他の団体参拝し 外側に堵列して見物する者数を知らず



戦没者慰霊の側面もある招魂祭なのだが、市井の民はそれはそれ、これはこれとして「お祭り」を存分に楽しんでいたようである。

さて、本日は十勝地方の地震の影響で中途半端になってしまった。。。後日書き足します。
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2013年03月12日

明治末年北海道記37:1912年6月9日農大入試要領発表

札幌の積雪は日曜日に131センチまで増え、3月としては67年ぶりの記録となった。
もう、4月3日までに雪が消えるのは絶望的で、いつまで残るのかが今後のテーマである。

過去の気温と融雪量のデータから関係式を作成し、季節予報の気温・降雪データを入れて計算すると、札幌の雪が消えるのは4月15日と出た。

現在、根雪終日に関しては「1961年以降」が正式な統計なので、これでひもとくと、最も遅い記録である1984年の4月16日、そして2位の2005年の4月15日に匹敵するような遅い記録である。

「参考記録」扱いだが、1895年には4月20日という記録もある。さあ、今年はどこの日付に落ち着くのだろうか。

多忙で停滞しているうちに、ブログで取り上げている出来事の日付にだんだん実際の日付がおいついてきた。今日は北海道の話。日付は、6月4日に起きた事件から掘り起こしていく。

1912年(明治45年)6月8日 北海タイムスより


●車窓から投出された幼児助かる

去四日 上り三百四列車が勇払郡苫小牧字錦多峰駅を出て疾走して 苫小牧駅に至らんとする途次 三等客車中に居たる室蘭郡三笠山村字幌内炭山市街地 桐木正次(六つ)が 其母と共に車窓を開きしも 半ばより開かぬまま其処より頸(くび)を出し 体を窓の上にもたせ 余念なく戸外を眺め居るうち 圧力の一時増加したる硝子窓 忽然として開下すると共に そのはづみにて正次は窓外に投出され アハヤといふ間に進行を続けたるが

取り残されし母は狂乱の如く騒ぎ出したれば 之を耳にせる車掌は俄かに機関車を引き戻し 漸く救ひ上げ 身体をよくよく検査したるに 幸にも面部に僅少なる擦過傷を負ひたる迄 別に異状とてなかりしより 一先其の列車にて苫小牧に下車し 顔面に多少手当を施し 上り三等にて母子ともに帰村したる次第なるが それがため一時車中は大混乱を極めたりと



まだ苫小牧は王子製紙が誘致できたばかりの小さな町だったころの話である。
錦多峰(にしたっぷ)駅は今の錦岡駅で、錦岡から苫小牧まで駅がないというのも今からは想像つかない話。

おそらく樽前山が邪魔なものなく、きれいに見られたであろう。

今はこの区間は苫小牧の市街地が細長く形成されていて、糸井駅と青葉駅の2つが存在する。


大きな地図で見る

事件の様子から察するに、当時の客車の窓は上から下に下げて開ける形だったのだろうか。
もたれていたらガラス窓が外れて、一緒に外へ転落・・・とは、なんだかマンガみたいな本当の話であった。

さて、本日は国公立大学の後期日程の入試ということであったが、明治末の大学入試のスケジュールが掲載されていた

1912年(明治45年)6月9日 北海タイムス


●農大入試心得

既報の如く 東北帝国大学農科大学入学者選抜試験時日は 東京 札幌共に同時に執行する筈にて

六月二十一日(金)は自午前八時至午後四時 体格検査
同二十二日(土)も同様 自午前八時至午後四時 体格検査

二十四日(月) 自午前八時至午前十一時 数学(代数幾何)
二十五日(火) 自午前八時至午前十一時 英語
二十六日(水) 自午前八時至午前十一時 国語
二十七日(木) 自午前八時至午前十一時 物理及び数学(三角)にて

試験当日は始終は鐘を以て報すべく 遅刻するときは何等の事情あるも入場を許さぬ由
又 着服は洋服又は袴を着用すべく 試験室内に於ては受験者互いに言語を交ふること又一切の質問を許さぬ事
試験係員の指揮に従ひし違ふものは退場を命ぜらるべく
答案には姓名を記載せずあらず 受験票番号を所定の欄に記入し コンパス 定木 鉛筆 小刀 消ゴム 外一切の品を携帯せぬ事にて

試験場は札幌にては農科大学 東京は第一高等学校内の由



札幌農学校はこの時代、東北大学の農科大学となっていた。この後に北海道帝国大となり、今の北大に至る。

今や入学試験は1日や2日で全部やってしまうのであるが、明治の末にあっては日曜日をはさんで一週間である。一日に三時間だけとはもったいないかもしれないが、それにしても英語・国語・数学二科目に物理ということで、「生物」の試験はないようだ。

そして、何ともルールが厳格。「遅刻」はどんな理由があっても許されないというのは、一日ではなく一週間続く試験の中では、なかなかのプレッシャーだったであろう。
着る服も決められ、試験場に入るとおしゃべりは一切禁止である。

梅雨のない北海道の6月。高い青空が広がり、景色に緑がいっぱいひろがる季節。しかも暑すぎず、寒すぎず。

そんな時期の入試は、体調も整えやすく、実力を発揮するにはちょうどよかったかもしれない。

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2013年03月13日

明治末年北海道記38:1912年6月9日札幌の人力車事情

近頃、朝鮮半島の従軍慰安婦問題や創氏改名の強制などの話で、中山成彬氏の国会質問が話題となっている。

当時の新聞記事を引用しながら、現在韓国が主張しているようなことは事実ではなく、朝日新聞が捏造したものだということが主張の核であるが、私としては氏が提示した昭和初期の新聞記事のほうに非常に興味があった。

現在このブログで紹介しているような記事は、漢字にはほぼすべてルビがふってあるのだが、昭和10年代にも入るとルビがふってあるのが一部で、読者の知識レベルというのが上がっていることがよくわかる。

しかし、記事の内容はまた見事であった。このような日本人の名誉を守るような過去記事はどんどん紹介してほしいものだ(誰かやってくれ)

こちらのテーマは昨年来「1912年」である。
中山議員に負けないように、こちらも精力的に行こう。

まだ札幌をまともに走る自動車など無かった時代。
交通機関は汽車に馬鉄、そして人力車が主流であった。

1912年(明治45年)6月9日 北海タイムスより


●護謨(ゴム)輪車が多い

今回 札幌警察署管内人力車乗合馬車に対し 春期検査実施の結果
人力車に於ては現在 護謨輪三三五台 普通四六台 二人乗六三台 計四四四台 曳き子数三三六人 営業者数二一八人にて

営業者車検未済者二十三名あるも 是は廃業手続不履行 目下所在不明者なり

其の他不合格者七台ありしも 護謨輪は昨年の九一台に比し 二二四台の増加にして二人乗は暫次減退の趨勢なり

乗合馬車は車両二一台 馭者二三人 馬丁十四 馬匹二六 営業者九人 車両は全部六人乗にして 中不合格二台あり 馭者馬丁の服装は一般不潔不体裁なるを以て 漸次改良の方針なりと



明治45年に札幌にある人力車は444台。これを曳く者が336人であった。
現代、2011年の札幌のタクシーの台数が約5000台。だいたい400人に1台の計算だから、当時9万都市だった札幌では人力車は約300人に1台程度。競争としては今以上にシビアだったのかもしれない。

護謨輪(ゴム輪)というからには、車輪がゴムということであろうが、木枠の車輪より衝撃が小さかったはずだから、乗り心地もよく人気になったのであろう。明治の末に、ゴム車輪の人力車が急速に主流になっていった様子がわかる。

それにしても「車検」である。
この時代、すでに車検が、しかも人力車に対してあったというのがまた面白い。
乗り心地とかテストしたのだろうか??

一方で、今のバスの役割を果たしたのが「乗合馬車」である。
六人乗りということであったから、一家族で貸切になってしまうこともあったろう。

しかし、服装が「不潔」というのは・・・。


現代は人力車は観光用で多少あるくらいか。
今年も夏になれば、今風の人力車?である「ベロタクシー」が札幌中心部をゆったり走るようになるだろう。
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2013年03月14日

明治末年北海道記39:1912年6月7日札幌中の修学旅行

大学受験が終わり、これから来週にかけては卒業シーズンである。

すでに高校の卒業式は1日に終了しているが、札幌では15日(金)に中学校の卒業式、18日(月)に小学校、19日(火)に幼稚園と、続々と卒業式である。大学はバラバラだろうが、概ね三月下旬といったところか。

高校生や大学生の場合は気のあう仲間と「卒業旅行」ということもあるかもしれない。

ただ、学生生活での旅行といえば「修学旅行」である。
自分も修学旅行で初めて飛行機に乗ったし、津軽海峡も越えた。

今から100年以上も前の明治の末にも、すでに修学旅行はあった。

当時の新聞紙面にスケジュールが掲載されている。

1912年(明治45年)6月10日 北海タイムス


△札中修学旅行

札幌中学校三年生は 職員に引率せられ 修学旅行として七日旭川に来り

宮越屋 山形屋の両旅宿に分宿し 八日朝師団司令部に至り 副官大内中尉の案内にて歩兵第二十八連隊 野砲第七連隊を視察し 引続き上川中学校の視察を遂げ 午後四時十分旭川発列車にて帰札せり



一泊二日で旭川、というのが明治末の中学生の修学旅行であった。
当時の中学は五年制であるが、修学旅行は三年次ということで現在と同様である。

自分は昭和61年に小学校の修学旅行で同様に旭川一泊二日だったが、旭山動物園や買物公園、当麻鍾乳洞、層雲峡などが見学のポイントだった。やはり「軍隊司令部」というのは時代である。別の中学をわざわざ見学している点がまた面白いと思う。

一方、札幌には各地からの「視察団」なるものが続々と訪れていたようだ。

1912年(明治45年)6月13日 北海タイムス


●栃木視察団来札期

栃木県上都賀郡鹿沼町及び宇都宮市商工業者の本道視察団は明十三日午後一時来札 物産陳列場其他を視察すと云ふ

●仙台実業団来道

仙台実業団三十余名は十一日 十二日に渉り青森より函館に着し 同日午後四時五十六分小樽着 十四日午後三時五十分札幌着 一泊十五日札幌より岩見沢に出て 十六日岩見沢より室蘭を視察し 十七日十八日の両日室蘭より登別に出 帰仙の予定なり



この時期は梅雨のない北海道へ見学に行くというのは、ちょっぴり梅雨の物憂げな気候を脱出する意味合いもあったのだろうか?続々と視察団が札幌へ入っているようだ。

ちょうど6月半ばは札幌祭りの時期。
祭りの準備とか、お祭り自体の賑わいも一緒に見て戻っていったことであろう。

さて、そんな札幌市内のある料理店の広告の中で、少し気になるメニューをみつけた

1912年(明治45年)6月12日 北海タイムスより
19120613ハイカラ丼.JPG

ハイカラ丼!!!

どんな食べ物だったのだろうか。
これだけでいいからタイムマシンで視察に、いや試食に行きたいものだ。

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2013年03月28日

明治末年北海道記40:1912年6月9日樺戸監獄破獄事件(1)

関東から西日本にかけては花盛りという。

記録的な早咲きらしいが、北海道はまだ風が冷たい。札幌の雪は今日一日で7センチ減ったが、残り80cmである。この調子では、すっかり解けるまであと半月近くかかるだろうか。

さっさと逃げ出したいような雪の季節であるが、明治の末も末、北海道では大脱獄事件が発生していた。

1912年6月半ばの新聞は、この記事に紙面の大半を割くこととなる。
北海タイムスを中心にみていくが、この事件は樺太日日新聞のほうでもかなりのボリュームで報道されている。

ここでは北海道の紙面で、事件を追っていくこととする。


1912年(明治45年)6月11日 北海タイムスより


●囚徒破獄詳報
七名の兇漢(きょうかん)連袂(れんべい)猛虎の如く飛躍し脱走せる 樺戸監獄近来の大々椿事


樺戸郡月形村樺戸監獄にて 一昨九日は日曜日の事とて 囚徒の外役を休ませ 何れも監房に収容されしを 重罪囚徒七名 隊をなして破獄逃走を企てし 近来の大椿事あり 其の詳報は左の如し

<一部略>

▽破獄囚の姓名
七名の破獄囚は
謀殺七犯無期徒刑囚 渡辺千代松(三十)
故殺十一犯無期囚 太田外喜(三六)
強盗七犯有期徒刑十二年 御代澤金治郎(三六)
強盗三犯有期十三年 中野甚之助(三四)
窃盗五犯有期十二年 横田米吉(三四)
窃盗二犯有期十五年 三田角之助(四十)
強盗傷人二犯有期十五年囚 岩田得太郎(四二)にて

脱獄の主魁者ともいふべき無期囚渡辺千代松は(明治)三十四年に同監獄に収容され かつて破獄を企て目的を達せざりし 破獄の千代松といはるる名人とて 重罪囚として独房に押込め置きしが 同日見張看守・佐藤健三の隙を窺い 突然同看守の帯剣を奪い 脱獄せんとしが

佐藤看守は組付き格闘せしが 千代松は終に膝下に組み伏せたる上 制服ズボンの嚢(かくし)より捕縄を取り出して佐藤看守を高手小手に縛り上げたる上 予て機密を通じ居たりと見え 他の六名の重罪囚が収容さるる監房の錠を破壊して一々房外に出せしより

房内にありし他の六名は何れも布団の上布を剥ぎ取り 之を被り 有り合う食塩及び縫針糸 新しき雑巾等を携へ 丈余の高塀(正門より向って右方)を乗り越え 破獄して丸山々中さして逃走したるが

囚徒等が是等の物品を携帯せしは山中に逃れ入りし後 布団上布或は 新雑巾などにて上衣又は脚絆(きゃはん)等を造るの考えなるべしと

▽看守非常召集
此椿事を発見せる監獄にては大に驚き 黒澤典獄は各課長を督し 即刻非常看守全部を召集して要所要所に非常線を配置し 更に山中第二課長は看守長七名 非番看守長七名 看守百余名を召集 各々装弾せる短銃を携帯せしめ 捜索に従事し 又月形分署にては分署長高橋警部が巡査全部と月形村消防組の非常召集をなし 高橋分署長指揮の下に直ちに応援として 日中は山中捜索に努め 夜間は市街および部落の巡邏警戒に従事し居れり



樺戸監獄はいまの月形にかつてあった刑務所である。大正8年に廃止となり、今の月形刑務所(昭和58年:1983年開設)とは直接のつながりはない。
昔の北海道の監獄は重罪人が収容されることが多く、囚人を使って道路や鉄道などの建設も頻繁に行われていた。札幌〜旭川の国道12号や、網走〜北見間の道路など「囚人道路」と呼ばれる道も多くある。

この樺戸監獄、1909年(明治42年)にも2名の囚人が看守を殺害して破獄し、月形村の外れで銃殺されたという事件もあった。

当然、逃げ出したこの7人の囚人は「銃殺覚悟」の逃走を決めたわけであるが、囚人の写真もない明治の末のこと、当時の紙面には人相や背格好など、特徴も記述されている。
例えば、太田外喜は「額に一寸くらいの斬傷」、岩田得太郎は「四寸九尺の小男」、横田米吉は「右に桜花の美しき文身(ほりもの)」といった具合。

三田角之助は「前頭髪禿げ 斑毛生え」・・・・悲しい

さて、御代澤金治郎は「破獄の名人」とされており、明治45年元日、函館監獄で三寸釘八本で監房の板塀を破壊し、亜鉛板を切って合鍵を作って鎖を解いて逃走したという過去を持つと記されている。

この結果、樺戸監獄へ入れられたが、また脱走・・・懲りない男である。


さて、この七名の破獄囚の運命であるが、6月10日、まず一人の運命が定まる。


▽岩田斬殺さる

樺戸監獄にては山中第二課長、看守長十余名 看守百余名にて 先づ監獄裏手なる丸山山中を包囲し捜索を始めしに 昨日午後四時頃 岩田得太郎他一名は看守数名に追い詰められしより

今は是までと落散る雑木枝を棍棒に代へ 看守等に抵抗し来りたるが 此の時 同監獄にて剣道の達人と呼ばるる看守 日下宗朝氏直ちに抜剣の上 亘り合ひ 大格闘をなせし末 岩田は終(つい)に敵(かな)ひ兼(かね)しと見え 怯(ひる)む所を日下看守に斬込れ 三十二歳の兇漢 終に斃れたり



明治の世では、脱獄囚に容赦なし。である。

まだ維新から45年。刀の扱いに長けた猛者はごろごろおり、日下看守による江戸の「切り捨て御免」さながらの悪者成敗であった。

もう一人はこれを見て一目散に山中奥深くへ逃げ込んで見えなくなった。

6人に減った破獄囚。追撃はさらに続く、彼らの運命はどうなるのか、続きは次回!




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2013年03月29日

明治末年北海道記41:1912年6月11日樺戸監獄破獄事件(2)

昨日は一日で7センチの雪が減った札幌だったが、今日は日中はわずかに1センチ雪が減っただけに過ぎず、夜は再び雪。一瞬79センチまで減った積雪は23時には82センチと、また増えた。

もうすぐ4月。週間予報を見るに、また1メートルに戻るのはまず無理だが、いきなり4月5位までの記録に入りそうである。

さて、明治末年。樺戸監獄を脱走した7人の囚人達の運命。
一人は看守に斬り殺され、残りは6人。

非常線が張られる中、彼等の運命はどうなったか。

脱走から2日目を迎えた6月10日の夜、彼等は姿をあらわす。

1912年(明治45年)6月12日 北海タイムス


六囚 非常線にもん入し 知来乙を襲ふ

却説逃走たる六名の囚徒を追跡すべく 山中第二課長を先頭に 看守長 看守等 百余出動せるも昨夕六時頃までに 更に何の消息なく 逃走の形跡よりすれば 先に四人組にて丸山々中深く逃込み跡あり 二人組にて同山中へ潜みたるものの如く

樺戸監獄にては尚ほ 未だ五里夢中の模様なり 然るに二組に別れしと思はれし囚徒六名は一隊となり 丸山(監獄右方の裏山)を迂回して 監獄左方約半里を隔てたる 月形村字知来乙に出て 五、六町先の非常線を巧みに切り抜け 知来乙常世農場内 安田万三、庄司市四郎両家へ押入り 携帯する帯剣を閃めかし脅迫して 二軒の家族数名を縛し 種々なる物品を背負はせしめて 菅原安吉方へ連来り

三軒の家族八、九名を叱咤して したたか 飯を炊かせ満腹になる程 馬食し 其の残米と白米四斗を取り纏め 他に味噌 鍋三枚 衣類数点強奪し 三時間余費やし 午後十二時頃悠々として再び丸山山中方面へ逃込みたり



腹が減っては戦はできぬか。
一般家屋に押入り、ご飯を作らせて「馬食」である。相当な勢いでガツガツ食べたのであろう。

ちなみにこの時、菅原家の赤ちゃんが大泣きした。当然である。
このため、発見を恐れた囚人のひとりが、赤ん坊を背負い、子守をしたらしい。

囚人が押入った常世農場だが、このあたりは従来の経験から破獄囚が出没するとにらんだ樺戸監獄側は非常線を張っていた。しかし深夜のためか、看守にはみつからなかった。

11日午前3時、危険は去ったとみた菅原安吉氏は月形分署へ被害を届け出て、この報は樺戸監獄側にも伝えられた。

11日午後2時頃、看守側の決死隊が、常世農場から南西の山中で、六人が火を焚いて飯を炊いている所を発見する。看守側は囚人は見つけ次第、銃殺するという方針であった。

七名の看守が切り込んだが、囚人は脱兎の如く逃げた。
このため看守側は拳銃を発砲するも、明治の末ということで森林は巨木が支配しており、弾をさえぎった。

囚人は再び逃げることに成功したかにみえた。

しかし、6人の囚人のうち、一人の運命がすぐ後に動き出す

1912年(明治45年)6月13日 北海タイムス


●破獄囚 横田米吉 無名山中斬殺さる

樺戸監獄看守等が苦心捜索の結果 十一日午後二時 破獄囚の一人なる横田米吉を逮捕せり
其の詳報をなさんに

十一日午後 斉藤看守部長以下六名決死隊が丸山山中にて六名の破獄囚を発見 携帯の短銃にて射撃せんとなせしも 其の距離僅かに三間(約5.4メートル)に近接せしも 山中鬱蒼(うっそう)たる雑木に妨げられ 短銃を発射するを得ず、空しく逃走せしめたりとの急報あるや 各課長以下幹部は一同乗馬にて現場に急行し 知来乙なる金渓橋側に臨時幹部の控所を設置し 尚も捜索の歩を進めたりしが

同日午後二時 石狩郡当別村字青山一番川附近(月形を約一里余)の月形に面せる無名山中に於て 破獄囚の一人 横田米吉(三四)を追跡 発見せしより

「横田 待てッ」と大喝せしに

モウ是迄と振返つつ 大熊の如き身体を揺るがしたる米吉は 手に兇器様のものを携へ 抵抗し来りしより 多数の看守は「それ逃がすなッ」といふより早く米吉を包囲し 二、三 合 闘ひしが

米吉は敵わずち思ひけん「尋常にお縄を頂戴しやう」とて神妙に縛に就きたるよし

看守等は高手小手に捕縛し 数名の看守にて護送し 月形村に通ずる道路に出でて 樺戸監獄に向ひ 押送の途中 時は午後九時頃なりしが

兇漢横田は身長五尺六寸(約170cm)の大男にて 往年青森 秋田二県下を荒し廻りたる程の不敵の徒とて 再び護送看守の隙に乗じ 逃走を企て 看守等の制止に従わず抵抗せんとなせしより 止むを得ず監獄則第二十条により 米吉を右路上に於て斬殺するに至りたり



この時代は170cmもあれば大男だったのか、、、

横田米吉は三笠の市来知出身。窃盗の罪で4回にわたり刑を受けるなど、刑務所から出所しては悪さをしてまた刑務所に戻るという人生である。
1909年7月に出獄後、8月に青森に渡り、弘前で呉服を万引、さらに秋田でも盗みを働き、横手区裁判所で懲役12年の刑に処せられ、樺戸監獄で服役中であった。

横田は一回逮捕されたが、また逃げようとしたため、「止むを得ず」斬り殺されたという結末を迎えたのである。

監獄則第二十条については調べたが、簡単には探し出せなかったものの、当時は明治41年に発布された監獄法が適用されており、この法律には逃げた囚人を殺害してもよいという取り決めはないので、ひょっとするとこの「成敗」は法律違反だったのかもしれない。

かくして、逃走2日目にして囚人は2人が斬殺され、残りは5人である。

彼等は12日早朝、今度は月形村字スミカマ沢の農家を襲い、飯を奪って逃げた。

捕まることは死を意味する。
生きるためには、逃げて、襲い、食べなければならなかった。

5人の運命は揺れる。続きはまた次回!

posted by 0engosaku0 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 1912年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする